京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『プロハルチン氏』(『ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々』P283―P311、1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

プロハルチン氏
フョードル・ドストエーフスキイ
米川正夫

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《》:ルビ
(例)朔日《ついたち》

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(例)毎月|朔日《ついたち》

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 ウスチニヤ・フョードロヴナの下宿の中でも、いちばん粗末な薄暗い小部屋に、セミョーン・イヴァノヴィチ・プロハルチンという、もう中年の男が住んでいた。分別ざかりで、酒は一滴も口にしない。官等の低いプロハルチン氏は、自分の力相応の月給を貰っていたので、ウスチニヤ・フョードロヴナは、どうしてもこの男から、月五ルーブリ以上の下宿代を取ることができなかった。中には、これには何か特別な思惑があるのだ、などというものもあった。いずれにしても、プロハルチン氏は、まるでこうした口の悪い連中にはあてつけと思われるほど、かみさんのお気に入りとでもいうべき位置をしめていた。もっとも、この言葉は公明正大な意味に解さなければならぬのだ。断わっておくが、ウスチニヤ・フョードロヴナは、なかなか品のいい、堂々たる体格の女で、特別なまぐさものやコーヒーが好きなので、精進となるとひと苦労であった。ここには似たり寄ったりの下宿人が幾たりかいたが、金はプロハルチン氏の二倍から払ってはいたものの、けっしておとなしいとはいえぬどころか、かえって一人のこさず「毒舌家」ばかりで、彼女の女らしい身すぎのわざや、天涯に身よりのない境遇を笑いぐさにしていたので、いたく彼女の目から信用をおとしていた。といったわけで、もしこの連中が下宿料を払わないのだったら、彼女は自分の家に住わせるどころか、閾もまたがせなかったに相違ない。プロハルチン氏が彼女のお気に入りになったのは、ずっと以前、強い酒が好きでそのために身をもち崩した退職官吏、というよりは役所をくびになった男が、ヴォルコーヴォの墓地へ運んでいかれたとき以来である。この酒に身をもち崩してくびになった男は、ご当人の言葉によると、何かの武勇伝のために片方の目を半分つぶされて、これも同じく何かの武勇伝のために片足びっこだったが、それにもかかわらず、ウスチニヤ・フョードロヴナの機嫌をとって、その好感をことごとくわがものとするだけの腕があったのである。また彼女も情にもろい女だったので。こうして、彼女の忠実無比な助手として、またその家の居候として、おそらくまだまだ長い年月を過ごしたはずだったのに、悲しいかな、とつぜん深酒でしくじったのである。それはまだペスキーにいた時分のことで、その頃ウスチニヤ・フョードロヴナは、たった三人しか下宿人を置いていなかったのである。ところで、今度の家へ引っ越して、商売も大がかりになり、新しい下宿人を十人から入れられるようになったが、もとの顔触れのうち、いっしょに越して来たのはプロハルチン氏一人きりであった。
 プロハルチン氏自身がどうにもならぬ欠点を持っていたのか、それとも同宿の連中が一人一人そういったような欠陥の持主だったのか、いずれにしても、プロハルチン氏と彼らの間の関係は、そもそものはじめからどうもうまくいかなかった。ここでちょっと断わっておくが、ウスチニヤ・フョードロヴナの新しい下宿人は、みんなおたがい同士、親身の兄弟のようにつき合っていた。中には勤め先がいっしょなのもあった。大てい、毎月|朔日《ついたち》には、銀行とか、プレフェランスとか、ビクスとかの小っちゃな勝負をやって、みんなが代わり番こに月給を取ったり取られたりし合っていた。興にじょうじると、みんなが大勢いっしょになって、彼らのいいぐさを借りると、シャンパンのごとく泡立つ生の瞬間を享楽することを好んだ。また時には高遠なテーマについて論ずることをも好んだ。こういう場合には、めったに争論なしにはすまなかったが、彼らの間では偏見というものが駆除されていたので、争論しても相互間の協和はいささかも破られなかった。下宿人たちの中でとくに注目すべき連中は、聡明で博識のマルク・イヴァーノヴィチ、それからオプレヴァーニエフという人物、つづいてプレポロヴェンコという、同じくつつましい善良な男、それから、是が非でも上流社会の仲間入りをしようと志を立てているジノーヴィイ・プロコーフィチ、最後に書記のオケアーノフ、これはかつてプロハルチン氏から、あやうく下宿人筆頭とお気に入りの栄冠を奪おうとした男である。それから、もう一人の書記スジビン、雑階級出のカンタリョフ。なおそのほか二、三の人がいた。こうした連中にとって、プロハルチン氏はまるで仲間ではないかのようであった。もちろん、だれも彼のため悪しかれと望むものはなかった。まして一同はまだほんの初めの頃から、プロハルチン氏の美点を認めて、こういうように定義した(もっとも、それはマルク・イヴァーノヴィチが代表的に発言したのである)、――彼プロハルチン氏は社交的な型ではないが、善良なおとなしい人間で、裏切ったり、お世辞をいったりするようなことはないが、もちろん、彼なりの欠点はある。が、もし彼が時として苦しむことがあるとすれば、ほかでもない、自分自身の想像力の不足のためである、と。のみならず、そうして自分自身の想像力に欠けているプロハルチン氏は、風采や態度でも、人を感心さすことができなかったにもかかわらず(口の悪い連中は好んでそういうことに絡むものである)、風采もプロハルチン氏にとっては、何の苦労の種にもならず、当人はけろりとしてすましているのであった。しかも、マルク・イヴァーノヴィチは賢い男だったので、かなり上手に、しかも華々しい立派な表現を用いて、プロハルチン氏は年輩も年輩だから相当の貫目があって、とくの昔に青春の歌をうたってもらう時期を通り越してしまったのだ、とこんなことをいったものである。右の次第で、もしプロハルチン氏が、他人と共同生活をしていくことができなかったとすれば、それはただただ当人がわるいのである。
 疑いもなく、人々がまず第一に注意を向けたのは、プロハルチン氏の世帯持ちのよさとけちぶりであった。これはだれでもすぐ気がついて、頭にたたんだ。というのは、プロハルチン氏は、たとえどんなことがあろうと、けっしてだれにも急須《きゅうす》を貸そうとしなかったからである。よしんば、ほんのちょっとの間であっても、いっかな承知しない。しかも、当人はほとんどお茶を飲まないのだから、なおけしからんわけである。彼は必要があれば、何か野草の花や薬になる草を煎じたかなり気持ちのいい飲料を用いていた。これらの草や花はいつも大量に貯えているのであった。もっとも、彼は食事のほうもほかの下宿人とは違ったやり方をしていた。たとえば、ウスチニヤ・フョードロヴナがほかの仲間に出す食事を、全部とるような真似は断じてしない。食事は一回五十コペイカであったが、プロハルチン氏は銅貨で二十五コペイカ分しか食べないようにして、けっしてそれを越すようなことはなかった。そのために、彼は一品ずつ取って、肉饅頭《ピローグ》つきの|きゃべつ汁《シチー》だけとか、牛肉だけとか食べるのであった。しかし、大ていは|きゃべつ汁《シチー》も牛肉も食べないで、パンにねぎや、凝乳や、塩漬の胡瓜や、その他の品をつけて食う場合が一ばん多かった。そうすれば、比較にならぬほど安あがりだったので。ただ、いろいろたまらないようになった時だけ、再び例の半分値の食事を請求するのであった……
 ここでこの伝記作者は自白しておくが、自分はこういうつまらない、下品な、むしろ尻くすぐったい、いな、一歩すすんで高尚な表現を愛する人にとっていまいましくさえあるデテールには、断じて言及する勇気がなかったのだが、じつはこのデテールの中に、この物語の主人公を性格づける一つの重要な特質が存するのである。なぜなら、プロハルチン氏はいつも決まって、腹に溜るような食物をとることもできないなどと、それほど自分のいってるような貧乏人ではなかったからである。にもかかわらず、他人の取沙汰や恥も恐れず、自分の奇妙な気紛れを満足さすために、世帯持ちがよく、過度に慎重な性質から、反対のことをしたのであるが、それは後になって万事明瞭になるだろう。しかし、われわれはプロハルチン氏の気まぐれを一々述べ立てて、読者をわずらわすことは遠慮するとしよう。それで、たとえば、読者にとって興味のある滑稽な彼の服装の描写といったようなものを割愛するばかりでなく、主婦のウスチニヤがいったことでなかったら、おそらく次の事実をも持ち出しはしなかったろうと思う。ほかでもない、プロハルチン氏は一生涯、自分の下着を洗濯に出す決心がどうしてもつかないのであった。よしんばついたにしてもごくたまで、その間にプロハルチン氏が下着をきていることを、すっかり忘れてしまいそうなくらいである。かみさんの話にはこんなこともあった。 
セミョーン・イヴァーノヴィチは、まるで鳩みたいな人で、――神さま、どうぞあの人の魂を暖めてくださいまし、――二十年間もわたしの家の片隅に、お尻の下が腐るほど居すわって、それを恥ずかしいとも思わなかったんですよ。なにしろ、この世にながらえている間じゅう、いつも強情なほど靴下とか、ハンカチとか、そういったようなものを使わないように、使わないようにしていたばかりじゃありません、現にわたしがこの目で見たんですけれど、――というのは、衝立が古ぼけて穴だらけだったもんですから、――どうかすると、肌を隠すものがないような始末でしたものね」
 こういう話は、もうプロハルチン氏が死んでから持ち出されたのであるが、生きている間にも(つまり、ここに不和のもっとも重要な原因が含まれていたのである)、彼はどんなに気持ちよく友達つきあいをしている人でも、だれか他人が挨拶なしに、自分の小部屋をもの好きらしくのぞいたりするのが、我慢のできないほど嫌いだった。たとえそれが古ぼけた衝立の穴ごしであっても、同じことなのである。彼は徹頭徹尾、他人と話合いのつけにくい黙り屋で、無駄話をしかけられてもそれに乗ろうとしなかった。忠告がましいことがいっさいきらいで、出しゃばり者には容赦がなかった。いつでもすぐにその場で口の悪い手合いを叱りつけ、出しゃばって忠告などする連中をとっちめる、それで事はおしまいなのであった。
「お前なんか小僧っ子のおっちょこちょいで、人に忠告なんぞする柄じゃない、そうとも。自分の身のほどというものを知るもんだよ。そしてな、お前みたいな若造は、自分の脚絆にどれだけ糸がいったか、それでも勘定したほうがいいよ、そうとも!」
 プロハルチン氏はいっこうぶらない人間で、だれに向かっても無差別に「お前、お前」といった。それからまた、彼のいつもの癖を知っているものがほんの悪戯半分に、あの長持ちの中には何が入ってるの……などとうるさくきき出すと、これまた我慢がならないのであった。プロハルチン氏は本当に一つの長持ちをもっていた。それは寝台の下にあって、わが眼《まなこ》のように大切にされていた。その中には、古いぼろ着物と、くたくたにはき潰された二、三足の靴と、そのほか概して、偶然もち合わせているさまざまながらくたのほかには、てんで何も入っていないのは、みんなに知れ渡っていたけれども、プロハルチン氏はこの動産をとほうもなく尊重していた。一度なんかは、古いけれどまだかなり丈夫な鍵では満足できなくて、もっとほかの、いろいろと工夫を凝らした、秘密のばねのついている、ドイツ製の錠前を買わなければならぬというのを、傍で聞いたものがあったほどである。ある時、ジノーヴィイ・プロコーフィチが、ついうっかり若気の無分別で、セミョーン・イヴァーノヴィチはおそらく後世に残すつもりで、あの長持ちの中にいろんなものをしまって、隠しておくのだろうと、はなはだ無作法ぶしつけなことを口走ったとき、その場に居合わせた一同は、このジノーヴィイ・プロコーフィチの冗談が、思いがけない結果を引き起こしたのを見て、開いた口がふさがらぬ始末であった。第一、プロハルチン氏はこういうむき出しの無作法なあてこすりに対して、即座になんと答えたらいいか、適当な言葉を発見することさえできないほどであった。長いこと彼の口からは、まるでなんの意味もない言葉が吐き散らされたが、とどのつまり、第一には、プロハルチン氏がジノーヴィイ・プロコーフィチをつかまえて、お前だってけちくさい真似をしたじゃないかと、ずいぶん古いことをもち出して攻撃しているらしい、それだけのことがやっとわかった。やがてしばらくして、お前は上流社会になんか金輪際はいれっこない、それどころか、お前は服の仕立代を借りっぱなしにしているが、今にその仕立屋にぶん殴られるだろう、この若造め、いつまでたっても払いやがらない、といって必ずぶん殴られるに相違ない、と予言しているのを聞き分けた。
「それからな、この若造」とプロハルチン氏はつけ加えた。「お前は軽騎兵の見習士官になりたがってるが、へん、見ていろ、なれるもんか、馬鹿を見るにきまってらあ、この若造め。今にお上が、お前のことを何もかもお聞きになったら、引っつかまえて書記にしておしまいになるわい、そうとも、よく聞いとけ、この若造め!」
 そのうちにプロハルチン氏は落ちついたが、五時間ばかり横になっていたと思うと、また考え直したとみえて、とつぜん姿をあらわして一同をびっくり仰天させた。はじめはひとりごとであったが、やがてジノーヴィイ・プロコーフィチに向いて、また責め立てたり恥じしめたりし始めた。しかし、それでもまだけりにならず、その夕方、マルク・イヴァーノヴィチとプレポロヴェンコが、書記のオケアーノフを呼んで、お茶の集まりをはじめた時、プロハルチン氏は自分の寝台から這いおりて、わざと三人の傍に腰を下ろし、二十コペイカか十五コペイカか渡して、急に茶が飲みたくなったというようなふりをしながら、綿々としてつくることなき長談議を始めた。いわく、貧乏人はただ貧乏人というだけで、そのほかのなんでもありはしない、貧乏人は金を貯めようとしても貯める代《しろ》がない、と。その時プロハルチン氏は一つの告白すら試みたが、それはただ自分は貧乏人だといった今の言葉が、つながりになったばかりである。つい一昨日、自分はあの生意気な男に一ルーブリ借金しようと思ったが、もうこうなったら借りることではない、さもないと、この若造が威張るだろうからな、そうとも。ところで、自分の棒給は情けないもので、食料を買うこともできないくらいである、などといったあげくのはて、自分はごらんのとおりの貧乏人であるのに、毎月トヴェーリにいる義理の姉に五ルーブリずつ送ってやらなければならぬ、もしトヴェーリヘ月々五ルーブリずつ送らなかったら、義理の姉は死んでしまったに相違ない、もし居候をしている義理の姉が死んでしまったら、自分セミョーン・イヴァーノヴィチは、とっくの昔に新しい服をこしらえていたはずなのである……
 こうして長いあいだ微に入り細をうがって、プロハルチン氏は金のことや、義理の姉のことを説きつづけ、聴き手がとっくり納得するようにと、同じことばかり繰り返したので、しまいにはすっかりまごついて、口をつぐんでしまった。それから、ようやく三日たって後、もうだれひとり彼をからかおうなどと考えるものもなく、みんな彼のことを忘れてしまった時分に、結論といったような形で、何かしら次のようなつけたしをした。ジノーヴィイ・プロコーフィチが軽騎兵に入ったら、あの生意気野郎、戦争で片足ちょん斬られるに相違ない、そしたら、足の代わりに木でこしらえたやつを取りつけられて、自分のところへやって来るだろう。その時ジノーヴィイ・プロコーフィチは、「セミョーン・イヴァーノヴィチ、お情けにパンを少々恵んでやってください!」というだろうが、自分プロハルチン氏はパンなどやらないばかりか、暴れ者のジノーヴィイ・プロコーフィチなど振り向いても見はしない、勝手にどこへなと行くがいい、といったわけである。
 こういうことはみんな、当然な話だが、なかなかに興味のある、どころか、とてつもなく愉快なことに思われた。下宿人一同は、長いこと考えもせず、さらにより以上の研究をするために、一致団結した。そして、本当のところをいうと、ただ好奇心のためばかりに、いよいよ本がかりにプロハルチン氏を一斉攻撃することに決めた。ところで、プロハルチン氏も最近、というのは皆といっしょに暮らすようになってから、ご同様になんでもかんでも知りたがるようになり、もの好きにいろいろ根掘り葉掘りするようになったので、――もっとも、それはおそらく何か秘密の原因があったのだろうが、相敵対せる二つの陣営の接触は、なんの予備工作も無駄な骨折りもなしに、何かの偶然といったような具合に、自然とはじまったのである。接触開始のためには、プロハルチン氏はいつも特別な戦法を持っていた。それはすでに読者もその一端をご承知のかなり狡い、しごく手のこんだ代物であった。そろそろ茶を飲む時刻になって来ると、まず自分の寝台から這いおりて、ほかの連中がどこかへひと塊りに集まって、飲みものの用意を始めているのを見ると、さもつつましやかで愛想のいい利口な人間らしく、みんなの傍へ寄って行って、きまりになっている二十コペイカを出しながら、仲間に入れてほしいと申し出る。すると、若い連中は目くばせをして、プロハルチン氏に対する態度を密かに申し合わせたうえ、はじめのうちは作法にかなったお上品な話をし出すのである。そのうちに、だれか要領のいい男が、何くわぬ顔をしていろいろなニュースをしゃべり出す。それは大ていうそっぱちか、本当らしくない話なのである。例えば、きょうだれかが聞いたところによると、閣下が課長のデミード・ヴァシーリチに向かって、こんなことをおっしゃったそうだ――細君のある官吏は独身者より貫禄があって、昇進させるにも都合がいい、というのは、家庭生活でもおとなしい連中はずっと早く手腕ができるからだ、とのことである。だから、自分も(つまり当の話し手のことなのである)、早く手腕をつくって抜擢されるために、なるべく急いでフェヴロニヤ・プロコーフィエヴナかだれかと、婚姻の絆でつながれようと思う。こんな話が出るかと思えば、また、――官吏仲間のあるものは社交性というものがてんでなく、気持ちのいい上品なものごしに欠けている、したがって、社交界へ出て婦人たちの気に入られるはずがない、それはしばしばみとめられるところであるから、そこでこの弊を除くために、即刻役人連中の俸給を天引きして、積立金をこしらえ、それでホールを創立して、ダンスとか、上品に見える秘訣とか、立派な態度とか、慇懃な作法とか、目上の者への尊敬の気持ちとか、強い性格とか、感謝を知る心とか、その他すべて気持ちのいいものごしを教えてくれるそうだ。そして、とどのつまり、こんなことをいい出すのであった、――大ていの官吏は一ばん年を取った連中を始めとして、手っ取り早く教養を身につけるために、ありとあらゆる課目について試験を受けなければならない、そういって、話し手はつけ加えていわく、こういうわけだから、かなり大勢のものが鍍金《めっき》を剥がされて、中には辞職しなければならないものもできるだろう。――要するに、こういったふうな馬鹿げきった噂話が飛び出すのであった。みんなはさっそく、それを本当にしたように見せかけて、急に真剣になり、いろいろとききほじり、わが身の上に及ぶのではないかと心配しはじめるのであった。中には沈んだ顔つきをして、小首をひねりながら、もし自分がそういう不運にあったらどうしよう、とでもいうように、一人一人に意見を求めるものもあった。プロハルチン氏ほどのおとなしいお人好しでなくっても、こうみんなが口を揃えて騒ぎ立てたら、あわててまごつかずにいられないのはもちろんである。のみならず、あらゆる点から推して、間違いなく結論することができるのは、プロハルチン氏という人は、自分の分別に及ばないような新しいしらせに対しては、常に並々ならず鈍感でいこじなことである。いつも何か新しい報知に接すると、初めよく咀嚼し消化して、その意味を求め、まごついたり混乱したりしたあげく、やっとの思いで納得するのだが、それもまったく特別な、彼独自のやり方なのである……こういった次第で、プロハルチン氏は今まで思いもそめなかったような、世にも珍しい性質を暴露した……さまざまな噂や取沙汰が行なわれるようになり、ついにはそれがすっかりありのままに、というより、むしろ尾ひれをつけて役所にまで拡がってしまった。なおそのうえに、いつの頃とも覚えぬ昔から、年中ほとんど同じ顔つきをしていたプロハルチン氏が、とつぜん変わった人相になったことも、事件の効果を増したのである。顔つきが不安そうになり、目はきょときょとと臆病そうになり、幾らか疑ぐり深そうなところができた。歩きぶりも用心ぶかくなり、始終びくついたり、聞き耳を立てるようになった。そういったいろいろの新しい性質にかてて加えて、彼は恐ろしく真実を求めるのが好きになった。真実に対する彼の愛はしだいに嵩じて、ついには毎日何十といって入って来るニュースの真否を、課長のデミード・ヴァシーリチにただすほど冒険をあえてするようになった。プロハルチン氏のこうしたとっぴな所行の結果について、われわれが沈黙を守ることにしたのは、ほかならぬ彼の世評に対する同情の念によるものである。こうして、彼は人間嫌いで、社会の作法を無視する男だと決められてしまった。その後、彼という人間には幻想的なところがたくさんあると気がついたが、これまたもうとうまちがいではないのである。なぜなら、プロハルチン氏が時とすると、すっかり忘我の境におちいって、口をぽかんと開け、ペンを空中に持ったまま、化石のように剛直してしまうということも、一度ならず人々の認めたところだからである。そういう時の彼は、理性を有する存在物というよりも、その理性を有する存在物の影に似ているのであった。こんなこともよくあった、――だれかぼんやりした罪のない先生が思いがけなく、プロハルチン氏の何かさがし求めているような、どんより濁った、きょときょと落ちつかぬ目つきに出会うと、思わず身内に慄えが起こっておじけづき、たちまち大事な書類に「ユダヤ人」とかなんとか、まるで用もない言葉を書いてしまう。プロハルチン氏のたしなみのない所行は、真に潔白な人々を当惑させ、侮辱するのであった……とうとう、プロハルチン氏の頭の現実ばなれがしているということは、もはやだれひとり疑うものがなくなった。と、あるときふいに、プロハルチン氏が課長のデミード・ヴァシーリチさえ驚かしたという噂が、役所じゅうに拡まったのである。ほかでもない、ちょいと廊下で出会った時、その様子があまり奇妙で変てこりんに思われたので、課長もたじたじと後じさりしたという……プロハルチン氏の不思議な様子は、とどのつまり局長の耳にまで入ってしまった。局長という言葉を聞くと、彼はいきなり席を立って、机やいすの間をそろっと通り抜け、玄関の控室までたどりつき、自分で外套をはずし、それを着るなり表へ出て、――いずこともなく姿をくらました。おじけづいたのか、ほかの何かにひかれたのか知らないけれども、一とき彼の姿は下宿にも役所にも見られなかった。
 われわれはプロハルチン氏の運命を、いきなり現実ばなれのした傾向ということで説明しようとは思わない。が、次の点は読者に注意せずにはいられない。わが主人公は非社交的ないたっておとなしい男で、今度の下宿の仲間に入るまで、他人のうかがい知るを許さない完全な孤独の中に暮らして、珍しく静かな、というより、何か神秘的なところさえあった。なにぶん、前のペスキー時代には、いつも衝立の陰の寝台に横になって、無言の行を守り、いっさい他人との交渉というものがなかったのである。古い二人の同居人も、全然かれとおなじ生活をしていた。二人ともやはり何となく神秘的なところがあって、やはり十五年間、衝立の陰にねて暮らしたものである。こういう族長的静寂の中に、幸福な混沌たる日が一こまずつ過ぎていき、周囲のいっさいのものも同様にちゃんときまった順序を守りながら進行したので、プロハルチン氏も主婦のウスチニヤ・フョードロヴナも、いつ運命が二人を引き合わせたものやら、はっきりしたことはもう覚えていないほどであった。
「あの人がうちに根を下ろしてから」と彼女は時々新しい下宿人たちにいうのであった。「十年もたちましたかねえ、それとも十五年、いや二十五年もたったかしら、どうか神様、あの人の魂を暖めてあげてくださいまし」
 といったわけであるから、つつましやかでしかも貫禄のある、大勢の人に不慣れなこの物語の主人公が、ちょうど一年まえに、新しい同宿人である若い人達、おまけに十人からの騒々しい、落ちつきのない仲間に、突如として入りこんだ時、不快な驚きをいだかされたのは、大きに無理からぬ次第である。
 プロハルチン氏の失踪は、下宿じゅうに少なからぬ騒ぎを引き起こした。第一には、彼が主婦のお気に入りだったということだが、第二としては、主婦の預かっていた彼の旅券が、偶然そのとき紛失したことである。ウスチニヤ・フョードロヴナはおいおい泣き出した。これはなにか危機に遭遇すると、いつも彼女のつかう手なのである。まる二日間、彼女は下宿人たちを責めたりこき下ろしたりした。まるで雛っ子みたいにおとなしいあの下宿人を、みんながかりでいじめた、「腹の黒い口わる連中」があの人を殺したのだ、と綿々と口説き立てていたが、三日目にみんなを追い出してさがしにやり、生きているにしろ死んでいるにしろ、ぜひとも逃亡人をつれて来いと申し渡した。夕方書記のスジビンが帰って来て、足跡はつきとめたと報告した。古物市場《トルクーチイ》やなおその他二、三の場所で彼を見つけて、その跡をつけ、当人からほど近いところに立ちもしたが、話しかける勇気がなかった。クリヴォイ横町で一軒の家が焼けた時などは、その火事場でごく傍にいたとのことである。三十分ほどして、オケアーノフとカンタリョフが帰って来、スジビンのいったことを一句たがわず裏書きした。この二人もやはり彼の傍近く立っていたし、ほんの十歩しか離れていないとこを歩きまわりもしたが、これまた話しかける勇気がなかった。ただ二人とも、プロハルチン氏が飲み助の乞食男といっしょに歩いているところを見たという。そのうちにとうとう、ほかの下宿人もぜんぶ顔がそろった。そして、注意ぶかくこれらの報告を聞いた後、プロハルチン氏はいま遠くないところにいて、もうさっそく帰って来るに相違ない、と衆議一決した。しかし、彼が飲み助といっしょに歩いていることは、みんな前から知っていたのである。この飲み助の乞食男は暴れ者のおべっか使いで、実もって怪しがらん人物なのであるから、あらゆる点から想像したところ、こいつがうまくプロハルチン氏をそそのかしたに相違ない。この男はジモヴェイキンといって、プロハルチン氏が失踪するちょうど一週間前に、レムニョフという仲間とつれ立って姿を現わし、しばらくの間この下宿で暮らしていた。彼のいうところによると、自分は正義のために苦しんでいるのだ、もとさる郡役所で勤めていたところ、とつぜん検察官がやって来た時、何か正義をとおそうとして、自分と仲間のものはおとし穴を掘られた。それからペテルブルグへ出て、ポルフィーリイ・グリゴーリチの足もとに身を投じて、歎願したところ、運動の結果ある役所へ入れてもらえたが、運命の情け容赦もない迫害によって、彼はここでもくびになってしまった、というのは、役所そのものが変革にあって、廃止されたからである。新しく組織替えされた官吏の顔ぶれの中へは、採用してもらえなかった。それは、直接勤務関係のほうで働きがなかったためでもあるが、またそれにはぜんぜん関係のないことに働きがあり過ぎたからでもあった。そのうえにかてて加えて、正義に対する愛と、最後に敵の策謀も原因になったのである。この物語の間に、ジモヴェイキン氏は一度ならず、怖い顔をした不精ひげの仲間レムニョフを接吻したが、語り終わってから、部屋にい合わした一同の足もとに順々にひざまずいて(その際、下女のアヴドーチヤも忘れはしなかった)、みんなのことを恩人と呼び、自分はやくざな卑劣漢で、しつこい、暴れんぼの、馬鹿な人間だから、皆さんも自分の不運なまわり合わせや馬鹿正直なところを、深くとがめないでほしいと説明した。こうして、一同の保護を受けることになって見ると、ジモヴェイキン氏はなかなかの陽気ものだということがわかった。当人、大よろこびで、ウスチニヤ・フョードロヴナが、わたしの手は下品なもので、貴婦人の手とは違いますと、へり下って再三辞退したにもかかわらず、その手に接吻さえもした。その晩、彼は一同にむかって、これからひとつ素晴らしい風変わりな踊りの腕前をお目にかけます、と披露した。しかし、その翌日、彼に関するいっさいは悲しむべき大団円を告げてしまった。それは、風変わりな踊りがあまり風変わりすぎたためか、それとも、ウスチニヤ・フョードロヴナの言葉をかりると、彼がどうかした拍子に、彼女の「顔に泥を塗って、下司女あつかいにした」ためか、どちらかわからないけれども、ジモヴェイキン氏はもと来たところへ引き上げなければならなかった。
「わたしはヤロスラフ・イリッチ([#割り注]土地の警察の署長もしくはその警部[#割り注終わり])さえも知っているんですからね、わたしはもし自分がその気になれば、とっくに佐官の奥さんにだってなっていたんですよ」と彼はその時の主婦のいいぐさであった。
 ジモヴェイキンはいったんひきあげた後、またぞろ帰って来たが、とどのつまり、見苦しくも追い出されてしまった。その後プロハルチン氏にうまくとりいって、ちょろりと新しいズボンをせしめたものである。こうして、今度いよいよ最後に、プロハルチン氏の誘惑者として登場した次第である。
 主婦はプロハルチン氏が無事でいて、もう旅券もさがす必要がないと知るやいなや、さっそくくよくよするのをやめて、安心してしまった。とかくするうちに、下宿人のだれ彼は、逃亡人の帰還を迎えるために盛大な準備をすることにした。金具を少々ばかり毀して、プロハルチン氏の寝台から衝立を離し、寝具をいささかもみくたにして、例の長持ちを引っぱり出し、それを寝台の足のほうへ置き、それに義理の姉をもたせかけた。それは主婦の古い着物や、帽子や、女外套で作った代物だが、義理の姉にそっくりそのままで、確かに一杯くわされること間違いなしであった。これだけの仕事を終えると、彼らはプロハルチン氏の帰還を待った。郡部から義理の姉が上京して、彼の部屋の衝立の陰に陣取った、とこう披露するつもりであった。さんざん待ちに待って……待つ間のすさびにカルタをはじめ、マルク・イヴァーノヴィチなどは、プレポロヴェンコとカンタリョフに負かされて、一月分の俸給をふいにしてしまうし、オケアーノフは「鼻叩き」の勝負運が悪くて、鼻を真っ赤に膨らした始末である。下女のアヴドーチヤは飽きるほど寝が足りて、二度も起き出して、薪を運び煖炉を焚こうとしたくらいだし、ジノーヴィイ・プロコーフィチは、プロハルチン氏が帰ったかどうかを見るために、のべつ外へ駆け出してばかりいたので、骨の髄までずぶ濡れになってしまった。が、いつまで経っても、当のプロハルチン氏も、飲み助の乞食男も、だれひとり姿を現わさなかった。
 とうとう、一同は万一の場合のために、義理の姉だけ衝立の陰にかくして、寝についた。ようやく朝の四時頃になって、門を叩く音がした。しかも、はげしい叩き方で、待ちくたびれた連中にとっては、数々の骨折りの報いがあったわけである。それはまさに、プロハルチン氏、セミョーン・イヴァーノヴィチに相違なかったが、その体たらくといったら、みんなあっと叫んだばかりで、義理の姉のことなど頭に浮かばなかったほどである。逃亡人は正気を失って帰って来たのである。全身ずぶ濡れになって、がたがた慄えているぼろ服を着た辻待ち馭者に連れられて来た、というよりかつぎこまれたのである。主婦が、まあ、かわいそうに、どこでこんなに酔い食らったんだろうというと、馭者はそれに答えて、
「いや、酔っぱらったんじゃねえでがす、酒の気なんかこれっから先もありゃしやせん、そりゃわしがうけ合ってもええでがすよ。きっと急に頭がくらくらとなったか何かで、体がこわばっちまったか、それともひょっとしたら、卒中にでもやられたかもしれねえな」といった。
 手勝手のいいように、この不始末ものを煖炉によりかからせて、みんなで検査を始めたが、見ると、なるほど、酒の気は少しもないし、卒中にやられた様子もない。これは何かほかに変事があったに相違ない。というのは、プロハルチン氏は体をひくひく痙攣させて、舌も動かないふうであったけれども、目だけはぱちぱち瞬きさせて、寝衣姿の下宿人仲間をかわり番こに、じっと見据えていたからである。やがて、人人は辻待ち馭者をつかまえて、どこから乗せて来たのかとたずねた。
「コロムナで」と彼は答えた。「だれだか知らねえが、二、三人の人に頼まれたでがすよ。だんな衆というふうでもねえが、どこかで遊んで来たらしい、陽気な連中でがしたよ。こんな有様になってるところを押っつけられたんで、喧嘩でもしたのか、それとも急に引きつけでも来たのか、何が何やらわかりゃしねえ。しかし、みんないい人達で、面白え連中でがしたよ!」
 プロハルチン氏は二、三人のものに抱き起こされ、逞しい肩にかつがれて、寝台まで運んで行かれた。プロハルチン氏は寝床に身を横たえながら、ふと義理の姉に体が触れ、足が大事な長持ちにつかえた時、けたたましい叫びを上げて、ほとんど床の上に起き直り、全身をがたがたわなわな慄わせながら、力の及ぶ限り両手と体を働かして、やたらにその辺を引っ掻きまわし、自分の寝台の上に場所を確保しようとあせるのであった。しかも、それと同時に、奇妙な断固たる目つきで、その場に居合わす一同をながめまわしている様は、おれのしがない持ち物を毛筋ほどでも人に譲るくらいなら、いっそ死んでしまったほうがましだ……とでもいっているかのようであった。
 プロハルチン氏は衝立をぴったり寝台にくっつけて、二、三日ねどおした。そういう次第で、いっさい世間というものから隔離され、そのごたごたや心配事から守護されていたわけである。当然のことながら、あくる日になると、みんな彼のことなど忘れてしまった。その間に、時はいつもと変わりなく過ぎていって、昼は夜となり、今日は明日と代わった。半睡半醒の状態が、病人のどんよりした熱っぽい頭を占めていたが、当人はおとなしくねたまま、唸りもしなければ訴えもしなかった。それどころか、ちょうど猟人の気配を感じた兎が、恐怖のあまり地べたへ腹をつけるのと同様に、寝床の中に平べったくなって、息をひそめ、黙って歯を食いしばっていた。時おり家じゅうが、長いあいだ悩ましい静寂に閉ざされることがあった。――それは下宿人一同が勤めに出かけたしるしである。ふと目をさましてプロハルチン氏は、主婦が台所でごそごそやっている物音や、下女のアヴドーチヤがはきへらした靴を規則ただしくばたつかせている足音に耳をすまして、幾らでも欝をやることができた。アヴドーチヤはいつも溜息をついたり、唸ったりしながら、お体裁だけに部屋部屋を片づけて、隅々を拭いたり、こすったりするのであった。台所で流し台からたらいへ落ち。る水が、規則ただしく冴えた音を立てている、ちょうどそれと同じように混沌とした、ものうい、夢見ごこちの、退屈な時が、こうして幾時間も幾時間も過ぎていった。そのうちに、やっとのことで下宿人が一人ずつか、さもなければ二、三人ひと塊りになって帰って来る。するとプロハルチン氏は、彼らが天道様に悪態をついたり、腹を空らしてがっかりしたり、どたばた騒いだり、煙草をすったり、口論したり、仲直りしたり、カルタを闘わしたり、茶に集まって器をがちゃがちゃいわせたりするのを、なんの苦労もなく聞くことができた。プロハルチン氏は機械的に起きあがって、きまっただけのものを出して、お茶の仲間入りしようと努力して見るが、すぐさま気が遠くなって、幻の境に入って行く。彼はもうとうからお茶のテーブルに向かっていて、みんなの仲間に加わり、世間話をしている。ジノーヴィイ・プロコーフィチは早くも機会を利用して、義理の姉に関する計画や、それに対する善良な人達の道徳的な関係といったようなものを、うまく話の間へはさみこんでいる。その時プロハルチン氏は弁明と抗議を提出しようとするが、一同の口からいっせいに飛び出した力強い、「すでにしばしば認められている所である」という形式的な一句が、彼のいっさいの抗弁を完全にもみつぶしてしまう。で、プロハルチン氏はまだ夢幻境に遊ぶよりほか、何ひとつうまい考えが出て来ないのであった。今日は朔日だから、役所できまりの何ルーブリかをもらった。階段の上で紙包みを拡げて、素早くあたりを見まわし、いま受け取ったばかりの正当な報酬を大急ぎで二つに分け、半分を長靴の中に隠した。そして、自分が寝台の上で寝ながらしていることにはいっさいおかまいなく、さっそくその階段の上でこう決心した。うちへ帰ったら、きまった食費と部屋代を主婦に渡し、それからなくてかなわぬ何かの品を買って、その後で二、三の人にちょいと何げなしといったふうで、今月は俸給を天引きされてしまったから、自分の手には何一つ残りはしないと報告して、すぐそこで義理の姉のことで少しばかり泣き言をいって聞かせる。それから、明日も明後日もその話を蒸し返し、なおそのうえ仲間の連中が忘れないように、十日も経った時分に、何かのついでみたいに、彼女の貧に迫った身の上を吹聴してやろう。
 こう決心してから、ふと気がついて見ると、プロハルチン氏とは三部屋も離れたところにいる同僚で、二十年間まだ一度も口をきき合ったことのない、アンドレイ・エフィームイチといって、年中だまりこくっている禿げ頭の小男も、やはりすぐそこの階段に立って、自分の月給を勘定しながら、頭を一つ振って、
「ああ、金、金!」と彼に話しかけた。「こんなものなんかたちまちなくなってしまって、粥も食べられやしないんですよ」と彼は階段を下りながらつけ加えたが、もう出口のところまで来て、「なにしろ、わたしのとこにはこんなやつが七人からいるんですからなあ」といって言葉を結んだ。
 そのとき禿げ頭の小男は、自分がうつつでなく幻の中で動いているのに、とんと気がつかない様子で、床から丁度三尺ばかりの高さに手をやって見せたが、すぐにその手を下へ向けてひと振りし、いちばん上は中学へかよっていますとつぶやいた。それから、まるで自分に七人からの子供があるのは、プロハルチン氏のせいでもあるかのように、憤慨にたえぬといった目つきで彼をひと睨みすると、貧弱な帽子を目深にかぶり、外套の前をぐいと引っぱって、左のほうへ曲ったと思うと、姿を隠してしまった。
 プロハルチン氏はすっかりふるえあがった。一つ屋根の下に七人からの人間がいっしょにいるという不快な事実に関して、自分にはなんにも悪いことなどはないと確信してはいたものの、実際のところ、悪いのはほかでもないプロハルチン氏だ、ということになってしまいそうなのである。彼はぎょっとして駆け出した。というのは、禿げ頭の小男が引っ返して彼を追いかけ、体じゅう探りまわして、俸給を巻き上げてしまおうとしている、そんな気がしたからである。小男は七という否応のない数字を根拠として、義理の姉とプロハルチン氏との関係を頭から否定してかかるのであった。プロハルチン氏は走って、走り抜いた、息ぎれがする……彼と並んでむやみやたらに大勢の人間が走っている、そしてだれも彼もが、ちんちくりんの燕尾服のうしろポケットの中で、月給をちゃりんちゃりん鳴らしている、とうとう町じゅうのものがみんな駆け出して、消防ポンプまでががらがら曳き出された。怒濤のごとき群集は、彼をほとんど肩にのせないばかりにして、火事場へつれて行った。それは、最近飲み助の乞食男といっしょに行き合わせた、あの火事場なのである。飲み助、別の言葉をもってすればジモヴェイキン氏は、えらく気ぜわしげに、彼の手を取り、一ばん混雑のひどい群集のただ中へ引っぱって行った。あのうつつの時と同じように、彼の周囲には目もとどかぬほどの大群集が、轟々とどよめきを立てて、二つの橋の間にあるフォンタンカの河岸通りや、それに接した通りという通り、横町という横町を埋めつくしていた。あの時と同じように、プロハルチン氏は飲み助といっしょに、何か塀のようなものの向こうへ押し出され、大きな薪の置き場で搾め木にかけたように身動きもできなくされてしまった。そこは方々の街や、古物市場《トルクーチイ》や、近所の家々や、小料理屋や、居酒屋などから集まった弥次馬連で、いっぱいになっていた。プロハルチン氏は何もかも、ちょうどあの時と同じように見、感じたのである。熱に浮かされてつむじ風に巻かれたような気持ちの中で、いろいろと妙な顔が彼の目前にあらわれた。彼はその中の幾つかを覚えている。一人は身のたけ七尺あまり、とほうもなく大きな口ひげを生やした人物で、一同に畏敬の念をいだかしていた。これは火事の間プロハルチン氏のうしろに立って、何かと彼を激励したものである。わが主人公もご同様に、一種の感激とでもいうべきものにおそわれ、消防隊の勇ましい活躍に喝采を送ろうとするかのように、ばたばたと足踏みをした(彼はちょっとした高みにいたので、消防隊の働き振りがよく見えたのである)。もう一人は逞しい体格をした若い衆で、これは、わが主人公がおそらくだれかを助けようというつもりらしく、第二の塀を乗り越そうと身がまえに及んだところ、それに手を貸すようなふりをして、小っぴどい突きをくれたりした男である。それから、彼の目の前をもう一人の姿がちらりとかすめて過ぎた。それは、古い綿入の部屋着の上から何か帯みたいなものを締めた、いかにも痔病もちらしい老人であった。まだ火事が始まらぬ前に、自分の下宿人に頼まれて、近所の小店へ乾パンと煙草を買いにちょっと家をあけたところ、今では牛乳入れと四分の一斤袋を手に持って、群集を押し分けなければならぬ羽目になった。わが家では女房と娘、それに片隅の羽蒲団の下に入れた三十ルーブリと五十コペイカという金が焼けているのだ。
 しかし、だれよりも一番はっきりと目に映ったのは、彼が病気の間にもう何度も幻に見た、あの罪の深いかわいそうな女である。今もあの時とそっくりそのままの姿で、――ぼろぼろの着物をきて、木の皮靴をはき、松葉杖をついて、肩には柳の枝で編んだ籠を背負っている。彼女は杖と両手を振りまわしながら、消防夫や群集を負かすほどの大きな声で、自分は現在生みの子供達のためにどこそこから追い出され、おまけにその時五コペイカ玉を二つ失くした、とわめいているのであった。子供と五コペイカ玉、五コペイカ玉と子供、これが不思議な深みのある無意味さで、のべつ彼女の口から吐き出される。人々は理解しようと空しい努力をした後で、その無意味さに思わずたじたじとなるのだ。しかし、女はいっかな静まろうとせず、両手を振り立ててはわめいたり泣いたりして、火事にも(彼女は群集に押されて往来からここへ来たのである)、周囲にどよめいている人の波にも、他人の不幸にも、近くに立っている人々の上に降りかかり始めた火の粉や灰にも、まるで注意を払おうとしないらしかった。
 ついにプロハルチン氏は、だんだん恐怖におそわれてくるのを感じた。彼はもう明瞭に見てとった。これはみんなただごとではない、このままではしょせんすまぬだろう。と、果たせるかな、すぐほど遠からぬところに、帯もしめないぼろ外套の前をはだけ、頭もひげも焼け焦げになった一人の百姓が、薪の上にふんぞり返って、群集をプロハルチン氏にけしかけはじめた。群集はいやが上にひしひしとつめ寄せ、百姓はここを先途と猛り立てる。恐ろしさに身内のしびれるような思いだったプロハルチン氏は、とつぜん想い起こした、――この百姓は、ちょうど五年前に、自分が図々しくも一杯くわせた辻待ち馭者なのだ。金を払う前に、通り抜け自在の門へちょろりともぐりこんで、まるで真っ赤に焼けた鉄板の上をはだしで駆けてでも行くように、踵も地につかぬほど跡白浪と逃げたものである。必死のプロハルチン氏は何かいおう、どなろうと思ったが、声が出ない。彼は激昂しきった群集が、錦蛇のように彼にからみついて、押しつけ搾めつけするような気がした。彼は命がけの努力をして、目をさました。
 その時ふと見ると、――燃えている、彼の小部屋が燃えている、衝立が燃えている、下宿ぜんたいが、ウスチニヤ・フョードロヴナも下宿人も、みんないっしょに燃えている。彼の寝台も、枕も、掛布も、長持ちも、おまけに大事な敷蒲団まで燃えている。プロハルチン氏は躍りあがって、敷蒲団にしがみつき、それをばぞろぞろ引きずりながら駆け出した。彼は寝ていたままの姿で、恥も体裁もなく、シャツ一枚のはだしで、主婦の部屋へ駆けこんだが、大勢がかりで引っ捕まえられ、羽がいじめにされて、揚々と元の衝立の陰へかついで行かれた。ただし、その衝立は燃えてなどいず、むしろプロハルチン氏の頭のほうが燃えていたのである。こうして寝床へねかされた。それはちょうど、ぼろ服を着て、ひげも剃らず、むくつけき顔をした傀儡師が、さんざんに暴れちらして、みんなを叩きのめし、悪魔に魂を売った道化人形を、箱の中にしまうのに似かよっていた。道化は自分の存在を終わって、今度また芝居が始まるまで、例の悪魔や、黒んぼや、ペトルーシカや、マドモアゼル・カテリナや、仕合わせなその恋人の警部殿などといっしょに雑魚寝をするのである。
 人々は老若の別なく、ただちにプロハルチン氏を取り巻いて、その寝台のまわりにぐるりと並びながら、期待で一杯になった視線を病人にそそいだ。とかくするうち、彼は正気に返ったが、きまり悪くなったのか、それともほかに仔細があったのか、とつぜん一生懸命に掛布を引っぱって、頭からかぶるようにしはじめた。どうやら同情者たちの視線からのがれて、その陰に隠れようとするらしかった。とうとうマルク・イヴァーノヴィチが第一に沈黙を破った。いかにも賢い人間らしく、いたって優しい調子で、セミョーン・イヴァーノヴィチ、あなたは気を落ちつけなくちゃなりません、病気するなんていやな恥ずかしいことで、ただ小さな子供だけのすることです、早く快くなって役所へ出なくちゃいけません、といった。話の結びに、マルク・イヴァーノヴィチはこんな冗談をいった、――概して病人にはまだはっきりした俸給額がきめられていないけれども、これは官等もごく低いわけだから、したがって、自分の考えるところでは、この病人という身分は大して役得のあるものじゃない、と。要するに、見かけたところ、みんなプロハルチン氏の運命を心底から心配して、同情を惜しまないもののように思われた。しかし、彼は不思議なほど無作法な態度をつづけて、寝台の上に身を横たえたまま強情に黙りこんで、相変わらず掛布を引っ被るのであった。マルク・イヴァ-ノヴィチは、それでも自分のほうが負けたとは思わず、いまいましい胸をさすりながら、またもやプロハルチン氏に何か甘ったるい言葉をかけた。病人というものはこんなふうに扱わなければならぬ、と心得ていたので。しかし、プロハルチン氏はその好意を感じようともしなかった。それどころか、はなはだしい不信の表情で、何か歯の間から押し出すようにもぐもぐいったかと思うと、とつぜん愛想もこそもない目つきで、額ごしに左右をじろじろにらめまわしにかかった。それは、この目つきで同情者たちを一人のこさず焼きつくそうとしている、とでもいったような具合であった。
 もうこうなっては容赦などしていられなかった。マルク・イヴァーノヴィチはたまりかねて、こいつ意地になって強情を張っているのだなと見て取ると、憤慨のあまりかんかんになって腹を立て、もう甘ったるいお愛想など抜きにして、いきなり頭から真向こうに、もういい加減に起きるがいい、いつまでもごろごろねてたって仕様がない、昼となく夜となくやれ火事だ、やれ義理の姉だ、やれ酔っぱらいだ、やれ錠前だ、やれ長持ちだ、やれなんだのかんだのとわめき立てるのは、馬鹿げてもいれば、無作法でもあり、第一、人様に対して失礼というものだ。セミョーン・イヴァーノヴィチ、あんたが寝たくないのはいいとして、人の寝るのまで邪魔しないでもらいたい、どうかそれをよく頭にたたみこんで置くがいい、といった。この言葉は独特の効果を上げた。というのは、プロハルチン氏はいきなり、くるりと相手のほうへ振り向いて、まだ弱々しいしゃがれ声ではあったが、断固たる調子で声明したからである。
「お前のような若造は黙ってるがいい! 無駄な口ばかり叩いて、口悪男め! 気をつけろ、靴の裏皮野郎! いったいお前は公爵気取りでいるのかい、え? ものの道理というものがわかっているのか?」
 こういういいぐさを聞いて、マルク・イヴァーノヴィチはかっとなったが、相手は病人だと気がついて、寛大にも腹を立てるのをやめてしまった。ただちょっとたしなめてやろうと思ったが、そこまでも言葉なかばで途切れざるを得なかった。ほかでもない、プロハルチン氏がたちまちにして、なめた真似をすると承知しないぞ、マルク・イヴァーノヴィチが詩を作ろうとどうしようと、そんなことにへこみはしないぞ、といい放ったからである。二分間ばかり沈黙がおそった。ついにマルク・イヴァーノヴィチは、驚愕から我に返って、幾分か腰の弱いようなところもあったが、真正面からはっきりと、かつきわめて雄弁に、セミョーン・イヴァーノヴィチ、あんたは立派な紳士達の中にいるということを覚えていなくちゃならない、「潔白な人間を相手にした時には、どういう態度を取らねばならんか、それを心得ておってもらいましょう」といった。マルク・イヴァーノヴィチは機におうじて雄弁をふるうことができたし、聴き手をなるほどと感心させるのが好きであった。ところが、一方プロハルチン氏は、おそらく黙りこくってばかりいた長い間の癖のためであろうが、口のきき方も、よろずの動作も、ちぎれちぎれという感じであったし、おまけに、たとえば少し長い文句をいわなければならぬ時などは、話の進行につれて、一つの言葉が次の言葉を生み、次の言葉は生み出されるとすぐ第三の言葉を生み、第三の言葉は更に第四の言葉を生む、といったようなあんばいだったので、しまいには口の中が一杯になってしまって、のどがくすぐったくなって来るほどであった。こうして、とどのつまり、一杯につめこまれた言葉は、いとも見事な無秩序をなして飛び出しはじめた。そういったわけで、プロハルチン氏は賢い人間であるにもかかわらず、時として恐ろしい出たらめをいい出すのであった。
「馬鹿いうな、お前」と彼は今もやり返した。「この若造、のらくら者! 今にこんな袋を首にかけて、袖乞いに出かけるぐらいのことだろう、この自由主義者め、引きったれめ、そうとも、このへぼ詩人め!」
「いったいあんたはまだやっぱり熱に浮かされているのかね、セミョーン・イヴァーノヴィチ?」
「おいおい」とプロハルチン氏は答えた。「熱に浮かされるのは馬鹿だ、酔っぱらいだ、畜生だ、利口な人間には分別というものがあるからな。お前なんかはな、ものの筋道というものをわきまえておらんよ、だらしのないへぼ学者め、お前なんか二本足で歩く本の化物だ! 今に見ていろ、焼け死んでしまうんだから、そして頭が焼け落ちても自分で気がつかずにいるんだ、そういう話を聞いたことがあるか※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
「ふん……といって、どういうことなんです……つまり、あんたはなんのことをいっているんです、セミョーン・イヴァーノヴィチ、頭が焼け落ちるなんて?………」
 マルク・イヴァーノヴィチはしまいまでいい切らなかった。プロハルチン氏がまだ正気に返らないで、譫言をいっているのに、だれもがはっきりと気づいたからである。しかし、主婦は辛抱しきれなくなって、いきなり口をはさんだ。このあいだクリヴォイ横町の家が焼けたのは禿げ頭の娘のせいだ、そこには本当に禿げ頭の娘がいて、それがろうそくに火をつけて納屋を焼いたんだが、しかし自分のとこではそんなことなどさせはしない、この家はどの部屋部屋も無事ですむに相違ない。
「ねえ、セミョーン・イヴァーノヴィチ!」とジノーヴィイ・プロコーフィチはやっきとなって、主婦をさえぎりながら叫んだ。「セミョーン・イヴァーノヴィチ、あんたは本当にしようのない人ですねえ、困った人ですねえ、いったいいまあんたを相手にして、義理の姉さんだの、踊りの試験だのって、そんな洒落や冗談をやっておられる場合ですかい? そうじゃありませんかね、え? そう思いませんかね?」
「え、おい、なんだって?」とわが主人公は寝床からなかば身を起こし、最後の力をふるってこう答えた。もうすっかり有象無象の同情者連中に腹を立てたのである。「冗談てそりゃだれのことだい? お前こそ冗談者じゃないか、この道化野郎、ひょうきん野郎、わしはお前風情の指図で、洒落や冗談をするような人間じゃないぞ。わかったか、おれはお前の召使とは違うんだからな!」
 プロハルチン氏はまだ何かいおうとしたが、力つきて寝床の上に倒れてしまった。同情者たちはけげんそうな様子で、だれも彼も口をぽかんと開けていた。というのは、プロハルチン氏が何をおっぱじめたかを、今はじめて悟るには悟ったものの、何から切り出したらいいかわからなかったからである。そのときふいに台所の戸がぎいときしんで、細目に開くと、飲み助の親友、いい換えればジモヴェイキン氏が、臆病そうに頭を突っこんで、いつもの癖で用心ぶかくその辺を嗅ぎまわすのであった。一同はさながらこの男を待っていたかのように、早く入って来いといっせいに手を振った。ジモヴェイキン氏は大喜びで、外套も脱がず、唯々諾々と、急いでプロハルチン氏の寝台へと進み寄った。
 見受けたところ、ジモヴェイキンは夜っぴて眠らないで、何か重大な仕事のうちに過ごしたらしかった。彼の顔の右側には何やらべったりくっついてい、脹れた目は目やにでぐじゃぐじゃしていた。燕尾服もズボンもずたずたに裂けて、しかもその左側には何か水溜りの泥らしい汚いはねが一面にかかっていた。彼は小腋にだれかのヴァイオリンをかかえていたが、それはどこかへ売りに行くところであった。一同がこの男の助力を求めたのは、どうやら見当ちがいではなさそうである。なぜなら、彼はすぐさまどこが勘どころであるかを見抜いて、騒動のもとであるプロハルチン氏に向かい、いかにも優越権を握っている人間、しかもあるこつを心得ている人間といった様子で、こう口を切った。
「どうしたい、センカ、起きろ! どうしたい、センカ、賢人のプロハルチン、もう分別の命ずるところを聞く時だぞ! さもないと、空威張なんかしてると、引きずり下ろすぞ。やせ我慢はよせ!」
 この簡単ではあるが力のこもった言葉は、その場に居合わす人々を驚かした。しかし、それよりもこの言葉を聞き、目の前に飲み助の顔を見たプロハルチン氏が、すっかりへどもどしてしまい、おじけづいた様子を見た時は、さらに一驚を喫せざるを得なかった。プロハルチン氏はやっとの思いで、歯の間から押し出すようなひそひそ声で、必要欠くべからざる抗議を試みた。
「なんという情けない男だ、出て行け」と彼はいった。「本当に情けない男だ、この泥棒! おい、わかったか? お前は大した人間だな、大将、ほんとに大した代物だよ!」
「いけないよ、兄弟」とジモヴェイキンは泰然自若として、言葉尻を引きながら答えた。「よくないよ、賢人のプロハルチン、お前はプロハルチン式な代物だよ!」いくらかプロハルチン氏のいいぐさをもじって、得意げにあたりを見まわしながら、ジモヴェイキンはつづけた。「やせ我慢はよしな! 我を折りなさい、セーニャ、我を折りなさい、さもないと、告訴するぞ、兄弟、何もかも話しちまうぞ、わかったか?」
 どうやらプロハルチン氏は何もかもはっきり合点したらしい。というのは、相手の結論を聞いて、ぶるっと身慄いし、とつぜんすっかりとほうにくれた様子ですばやくあたりを見まわしはじめたからである。この明瞭な効果に満足したジモヴェイキン氏は、さらに言葉をつづけようとしたが、マルク・イヴァーノヴィチがとたんに機先を制した。プロハルチン氏がおとなしくなり、気を落ちつけるのを待って、この不安に悩まされている男に分別をつけてやろうと、もったいらしく長々としゃべり出した。いわく、「あんたの頭にあるような、そんな思想をいだくのは、第一に無益なわざであるし、第二には、単に無益なばかりでなく有害でさえある。最後に、有害というよりはむしろだんぜん背徳でさえある。その原因といえばほかでもない、セミョーン・イヴァーノヴィチ、あんたがみんなを誘惑に導いて、悪い実例を示すからだ」こういう名言を聞いた一同は、今度こそ好ましい結果が現われるものと期待した。のみならず、プロハルチン氏は今すっかりおとなしくなって、返す言葉も穏やかになった。争論がはじまった。人々は彼に向かって、なんだってああおじけづいたのかと、親身な態度でたずねかけた。プロハルチン氏は答えたが、かえりみて他をいうといった調子であった。それに対して抗議が出た。プロハルチン氏はまたそれに抗弁した。それから、双方の側からも一ど抗弁があって、そのあとはもうみんなが、老若の別なくいっしょくたになってしまった。なぜなら、話がとつぜん奇々怪々な問題に移っていって、もうなんといっていいやら、まるっきり見当がつかなかったからである。ついに争論はたまらないほどになり、焦躁は叫びになり、叫びは涙にすらなった。で、マルク・イヴァーノヴィチは、狂憤のあまり口角泡を飛ばしながら、これまでこんな釘みたいな人間は知らなかったと声明して、向こうへ行ってしまった。オプレヴァニエフはぺっと唾を吐き、オケアーノフはびっくり仰天し、ジノーヴィイ・プロコーフィチは涙ぐみ、ウスチニヤ・フョードロヴナは、大切な下宿人が行ってしまった、気が狂った、旅券もなくて死んでしまう、なんにもいやしない、ところが、わたしはみなし児だから、みんなにごまかされてしまう、と掻き口説きながら、おいおい泣き出した。ひと口にいえば、一同はとどのつまり、はっきりとさとった、――蒔きつけがよかったために、みんながめいめいの思いつきで蒔いたものは、一粒万倍で返って来た、おまけに土地もよく肥えていた。そこで、プロハルチン氏はみんなの中に交っているうちに、自分の頭を見事に、しかも取り返しのつかないように改造してしまったのである。一同は口をつぐんだ、というのは、今まで何を見ても聞いてもおじけづくプロハルチン氏を見て来たものだが、今度は同情者自身のほうがおびえてしまったので……
「なんだって!」とマルク・イヴァーノヴィチは叫んだ。「いったいあんたは何を恐れてるんです? なんだって気が狂ったんです? いったいぜんたいだれがあんたのことなんか考えてるんです? あんたは恐れる権利を持ってるんですかね? あんたはいったいなにものですね? ゼロですよ、あんた、薄っぺらなブリン(薄やきのパンケーキ)だけのしろもんですぜ、そうですとも! なんだってどんどん叩くんです? 往来でどこかの女房が馬車に轢かれた、それとおんなじように、あんたも轢き殺されますかね? 酔っぱらいがすりに金をすられた、それとおんなじように、あんたも燕尾の裾を切られますかね? 家が一軒やけたからといって、あんたの頭も焼け落ちますかね? ねえ、あんた、そうじゃありませんか? そうでしょう、おじさん? そうでしょう?」
「お前は、お前は、お前は馬鹿だ!」とプロハルチン氏はもぐもぐいった。「お前なんか鼻をかじり取られても、それをパンといっしょに食べて、いっこうお気のつかん組だよ……」
「どうせ靴の裏皮ですよ、靴の裏皮ということにしておきましょう!」とマルク・イヴァーノヴィチはろくに聞きもしないでどなった。「おそらく、ぼくは靴の裏皮的な人間でしょうよ、しかしね、ぼくは試験を受けるのでもなければ、結婚するわけでも、ダンスを習うわけでもないからね。ぼくの踏んでる大地は毀れやしませんよ。どうです、おじさん? それでも、あんたにゃゆったりした場所がないんですかね? あんた立ってる床板が落っこちますかねえ?」
「なんだね? お前にだれかがきいてるのかい? 閉鎖してしまったら、もうそれっきりだ」
「いや、何を閉鎖するんです※[#疑問符感嘆符、1-8-77] いったいあんたにゃまだ何があるんです、え?」
「だって、ほら、あの飲み助はくびになったじゃないかね……」
「くびになった、しかしあれは飲み助のことで、あんたやぼくはれっきとした人間だからね!」
「そりゃ人間さ。でも、あれは今ちゃんとしてるけれど、今になくなるんだ……」
「なくなる! いったいあれってなんです?」
「そうさ、あれさ、役所……や―く―しょ―だよ※[#感嘆符三つ、ページ数-行数]」
「いやはや、あんたも変人だなあ! だって、あれは必要じゃありませんか、役所は……」
「そりゃ必要だ、が、いいかね、今日は必要だ、明日も必要だ、が明後日になって、何かの拍子で必要がなくなるかもしれやしない。現に歴史を見たって……」
「だって、あんたはちゃんと年俸をもらってるじゃありませんか! トマス、あんたは不信のトマスだよ! あんたなんか古参というわけで、別の役所だって相当に待遇してくれますよ……」
「俸給? わしは俸給なんか食ってしまった、それに泥棒がやって来て、金をみんな持って行ってしまう。ところが、わしには義理の姉があるんだよ、聞いてるかね? 義理の姉だよ! この釘男めが……」
「義理の姉ですって! だって、あんたって人物は……」
「人物、そうわしは人物だよ、ところが、お前は本こそたくさん読んでるかしれないが、馬鹿だよ、わかったか、釘男、お前は釘的な人間だよ、そうとも! ところが、わしはお前の冗談話を種にしていってるんじゃない。あれはな、急に思いがけなく失くなってしまうような役所なんだよ。デミードだって、わかるかね、デミードだってあれは失くなるといってたよ……」
「ああ、デミード、デミード! 罪つくりな人間だなあ、だって……」
「そうさ、ぱたんと閉めちゃったら、それでおしまいだ、それで失職してしまうんだ。まあ、お前あの男といっしょに、なあ……」
「いや、あんたはつまるところ、出たらめばかりいってるんだよ、それともすっかり気が狂ってしまったかだ! あんたひとつ、ざっくばらんにわれわれにいってしまったらどうです? 何か悪いことでもしたのなら、白状してしまいなさい! 恥ずかしがることはありませんよ! 本当に気がふれたんですかね、おじさん、え?」
「気がふれたんだ! 気ちがいになった!」という声が周囲にひびいた。だれも彼もが絶望のあまり腕をねじた。主婦などは両手でマルク・イヴァーノヴィチを抱きしめて、もうこのうえプロハルチン氏をいじめてくれるなと頼んだ。
「きみは異教徒だ、異教徒的精神の持主だよ、この賢人さん!」とジモヴェイキンは懇願した。「ところで、セーニャ、きみはかわいい顔をしてもいるし、怒ったことのない人間だし、愛想もいいしさ! きみは単純で、善徳で……聞いてる? それはみんなきみがあまり善徳すぎるから起こったことなんだよ。おれなんか暴れんぼの、馬鹿の、乞食だが、それでも親切な人がおれを見棄てないでくれるんだもの、心配することはないよ。きみの世話をするのは名誉だくらいに思うだろうよ。現にぼくはこの人達や、かみさんにありがとうをいわなくちゃならんよ、ほら。見ていな、おれは額を床につけてお辞儀をするから、ほら、ほら、ね。これは義務を、自分の義務を果たすんだよ!」といいさま、ジモヴェイキンは本当に、何か衒学《ペダント》じみるくらい、品威を保ちながら、完全に額を床につけての感謝を果たした。
 その後で、プロハルチン氏はまた話をつづけようとしたが、今度はもう皆が口を開かせなかった。一同は割りこんで来て、懇願したり、誓ったり、慰めたりした。その努力のかいがあって、とうとうプロハルチン氏はすっかり恥じ入って、弱々しい声でひとつ弁明させてくれと頼み出した。
「いや、なに、そりゃけっこうだよ」と彼はいった。「わしがかわいい顔をしておって、おとなしくって、な、善徳で、忠実で、な、最後の血の一滴までお上のためにつくそうという人間だ、わかったか、若造のおえらがた……まあ、それはちゃんとしてるとしよう、そのお役所がな。ところが、わしは貧乏人だから、ふいに、そのぱっとやったら、な、わかるかい、おえらがた、今は黙ってろ、よく合点しなさい、――ふいにぱっとやったら、その……そりゃ、今はちゃんとしてるが、やがてそのうちに失くなってしまう……わかるかね? わしはな、お前、乞食袋をもって、な、わかるかね?」
「センカ!」とジモヴェイキンは夢中になって、その場に起こった騒音を自分の声で圧倒しながら叫んだ。「きみは自由主義だ! 今すぐ告訴してやる! きみはいったいなにものだ? きみはだれだ? 暴れものかい、この間抜け! 暴れものの馬鹿はな、いいかい、免職の辞令が出ないうちに役所を追ん出されてしまうぞ。いったいきみは何ものだ※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
「いや、その、あれだ……」
「あれとはなんだ※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
「まあ、お前、ひとつあの男といっしょにやってみな!」
「あれといっしょにやって見ろって、いったいなんのこったい?」
「さあ、あの男も自由な人間だし、わしも自由だ。だから、じっと、ねてばかりいるうちに、その……」
「何がそのだ?」
「ひょっこり自由主義になったのだ……」
「自―由―主―義! センカ、きみが自由主義だって※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「まあ、待ってくれ!」と、プロハルチン氏は片手をひと振りして、一座に起こった叫びをさえぎりながら、こうわめき出した。「わしは、そのあれじゃない……まあ、お前合点しな、よく合点しな、この間抜け。わしはおとなしい人間だ、今日もおとなしいし、明日もおとなしい。ところが、そのうちにおとなしくなくなって、乱暴な真似をする、それで手もなく自由主義になっちまうんだ!………」
「いったいぜんたいあんたは何者だね!」ついにマルク・イヴァーノヴィチは、ひと休みしようと腰を下ろしかけたいすから躍りあがって、部屋中へひびくような声でどなった。そして、全身興奮と憤激につつまれ、いまいましさと癇ざわりのため体じゅうを慄わせながら、寝台に駆け寄った。「いったいあんたは何者だ? あんたこそ間抜けだ! この宿無し。いったいこの世はあんただけが住んでいるのかね? いったいあんた一人のためにこの世はつくられているのかね? あんたはいったいナポレオンか何かだとでもいうのかね? さあ、あんたは何者だ? だれだ? ナポレオンなのかね? ナポレオンかそうでないのか※[#疑問符感嘆符、1-8-77] さあ、いいなさい、ナポレオンかそうでないか?………」
 しかし、プロハルチン氏はもうこの問いには返事しなかった。自分がナポレオンであるのを恥じたのか、あるいはそんな責任を引き受けるのにおじけづいたのかどうか、――彼はもはやいい争うことも、筋道の立った話をすることもできなかった……つづいて病的な危機がおそった。熱病で火のように燃える灰色の目から、不意に大粒の涙がぽろぽろとあふれた。病気でやせ細った骨ばかりの手で、焼けるような頭をかかえ、寝台の上になかば身を起こして、しゃくりあげながら、こんなことをいい出した。自分はそれこそまったくの貧乏人で、他愛のない不幸な人間で、馬鹿の無教育者だから、親切な人達にゆるしてもらい、かばいいたわってもらい、飲み食いもさせてもらって、困った時に見棄てないようしてほしい。なおそのほか、プロハルチン氏は何かわけのわからぬことを口説き立てるのであった。口説き立てながらも、彼はさながら、今にも天井が落ちて来はしまいか、それとも床が抜けはしないかと気づかうもののように、けうとい恐怖の色を浮かべながら、あたりを見まわしていた。病人のこの有様を見ているうちに、みんなはそぞろ哀れを催して、気持ちをやわらげた。主婦は百姓女のようにおいおい泣きながら、自分の頼りない身の上を訴え、手ずから病人を床につかせた。マルク・イヴァーノヴィチも、いたずらにナポレオンの記憶をかき立ててもしょせん無駄だと見て取って、同様にすぐさまお人好し気分になり、負けずに何かの手伝いをし始めた。ほかの連中もめいめい何かしなければという気で、莓の汁などすすめながら、これは何に対しても即効があるから、病人も具合がよくなるに相違ない、といった。しかし、ジモヴェイキンはすぐさま一同の説を反駁して、こんな場合には、強いかみつれの煎薬を服用するのが何より一番だ、と口を入れた。ジノーヴィイ・プロコーフィチはというと、根が心の優しい人間だったので、さめざめと涙を流して泣きながら、さまざまな根もない作りごとでプロハルチン氏を脅かしたことを後悔した。そして、自分は貧乏人だから養ってもらいたいといった、病人の最後の言葉を今さらのように想い起こして、義捐金を集めると騒ぎ出したが、それは今のところこの下宿の内部だけに限ることとした。一同きそって嘆声を発した。だれもかれもが惻隠の情をいだき、悲痛の感に打たれたが、それにしても、どうして男一匹これほどまでにおびえこんだものだろうと、奇異の思いをしたのである。しかも、そのおびえた原因というのはなんだろう? それも、顕職にあって、妻子でもかかえているというのなら、まだしも話がわかる。また、何かで起訴されたとでもいうなら、うなずけないこともないけれど、ご当人とるにもたらぬみじめな老人で、財産といったら長持一つにドイツ製の錠前だけではないか。二十年以上も衝立の陰にねたまま無言の行をつづけ、憂き世のことも知らないで、けちけちとつましい暮らしをしていた男が、急につまらない冗談を真に受けて、すっかり頭を顛倒させ、この世に暮らしていくのが苦しくなるだろう、などと心配しはじめたのだ……しかも、苦しいのは自分だけでなくみんな同じなのだ、ということを考えてみようともしなかった!
「もしあの男が」と後になってオケアーノフがいったものである。「みんな同じように苦しいのだってことを納得したら、あんなに頭を狂わすこともなく、方々うろつきまわるような真似もやめて、とにもかくにも、一生を無事に終わっただろうになあ」
 その日はいちんち、プロハルチン氏の噂でもちきりであった。入れ代わり立ち代わり、彼のとこへのぞきに来ては、容態をたずねたり、慰めたりした。が、夕方になると、彼はもう慰めどころではなくなった。不幸な男は発熱して、譫言をいうようになった。すっかり意識を失ったので、すんでのことに医者を呼びに駆け出すところであった。下宿人一同は心をあわせて、今夜は夜っぴて、交代でプロハルチン氏をみとり、気分を落ちつかせ、何かことが起こったらみんなを起こそう、ということに約束した。そのため、寝入ってしまわぬ用心に、病人のそばには飲み助の友達を付けて置き、自分たちはカルタを始めた。飲み助はこの日いちんち、病人の枕もとに腰を据えていたが、とどのつまり、今夜は泊めてくれといい出したのである。ところが、このカルタは何も睹けない空勝負だったので、いっこうに面白いこともなく、間もなくだれてしまった。で、カルタを棄てて、何やら議論を始めたが、やがてどたばた騒ぎになり、あげくの果てには、めいめい自分の部屋へ別れて行った。が、それでもまだ長いこと、怒りっぽい調子でしゃべったりわめいたりしていた。ところで、みんなどうしたのか急に中っ腹になったので、もう夜伽などするのはいやだといって、寝てしまった。間もなく下宿の中はしんとして、まるで空っぽの穴蔵そっくりになった。まして、骨の髄にまで浸むような寒さなので、なおさら穴蔵じみるのであった。最後にねむりに落ちたのはオケアーノフであった。
「なんだか」と彼は後でそういった。「夢ともつかずうつつともつかず、かれこれ夜の明けるちょっとまえ頃、ぼくのすぐ傍で二人話し合っているような気がしたのさ」オケアーノフの物語ったところによると、彼はすぐジモヴェイキンの顔を見分けた。ジモヴェイキンは傍にいる古馴染みのレムニョフを起こしはじめ、二人で長いことひそひそ話し合っていた。やがて、ジモヴェイキンが出て行ったと思うと、台所の戸を鍵で開けようとしている物音が聞こえた。「その鍵は」と、その後で主婦はきっぱりと断言した。「わたしの枕の下に入れておいたのが、その夜のうちに見えなくなったものです」とどのつまり、――とオケアーノフは状況報告をつづけた。――二人は病人のねている衝立の陰に潜りこんで、ろうそくをつける気配がした。その後はいつの間にか目がふさがってしまって、なんにも覚えがない。それから目がさめたのは、みんなといっしょだった。その時には、下宿中のものがいっせいに床を蹴って起き出した。というのは、プロハルチン氏の衝立の陰で、死人でもびくっとしそうなただならぬ叫び声が起こって、――しかも同時に、そこについていたろうそくが消えた、――と多くの人には思われた、――からである。さあ、騒動がはじまった。みんなが胸をどきっとさせた。取るものも取りあえず、叫び声のするほうへ飛んで行ったが、その時はもう衝立の陰でどたばたいう音、わめき声、悪口雑言、つかみ合いの喧嘩が始まっていた。あかりをつけて見ると、つかみ合いをやっているのはジモヴェイキンとレムニョフで、二人がお互いに責めたり、罵ったりしているのであった。二人の姿が灯りに照らし出されると、一人が、「おれじゃない、この泥棒め!」とどなった。すると、もう一人は、というのはジモヴェイキンだが、「とんでもない、おれは潔白だぞ、この場で立派に誓ってみせる!」とわめいたが、両人ながら人間らしい相はなかった。しかし、最初の一瞬間は、こんな連中にかまっている段でなかった。いつもの衝立の陰に病人がいなかったのである。さっそく二人の猛者《もさ》を引き分けて、うしろへどかせて見ると、プロハルチン氏は寝台の下に伸びていた。意識は全然ないらしく、掛布も枕も引きずり落していた。で、寝台の上には、なんのおおいもない、古ぼけて脂じみた敷蒲団が残っているばかりであった(敷布というものは、かつて使ったことがないので)。人人はプロハルチン氏を引き起こして、敷蒲団の上にねかしたが、もうこうなったら、ばたばた騒ぐにはあたらない、完全にお陀仏だということは一目でそれと見て取られた。両手はしだいにこわばっていき、五体はほとんどきかなくなっていた。みんな傍に寄って見ていると、病人は依然として全身を小刻みにぶるぶる慄わせて、手をどうかしようとあせっていたが、もう舌さえ動かすことができないのであった。ただ目ばかりぱちぱちさせていたが、それはちょうど首切人の斧から離れたばかりの、血みどろな、しかしまだ生きていて暖かい首が、目をぱちぱちさせるといわれている、あれにそっくりそのままなのである。
 ついに何もかもがしだいしだいに静まっていった。知死期《ちしご》の痙攣も戦慄もおさまって、プロハルチン氏はぐいと両脚を伸ばしたかと思うと、自分の善徳と罪業の多寡に運命をゆだねて、あの世の旅に立って行った。プロハルチン氏は何かに脅やかされたのか、またはその後レムニョフが断言したように妙な夢を見たのか、――それともほかに何か罪なことでもしていたのか、――それはわれわれの知るところではないが、要するに、たとえいま役所から執行係がこの下宿へ姿を現わして、プロハルチン氏を自由主義、暴行、乱酒の科によって免職に処すると宣告したにせよ、――また、いま別の戸口から貧相な乞食女が、プロハルチン氏の義理の姉と称して入って来たにせよ、――それどころか、プロハルチン氏が今すぐ二百ルーブリの賞与をもらったにせよ、――最後に、この家が燃え出して、プロハルチン氏の頭が焼け落ちたにしろ、――プロハルチン氏はいまそのような報告に接したところで、指一本うごかそうともしなかったに相違ない。
 そこに居合わせた人々が、最初の驚愕からさめて、やっと口がきけるようになり、ざわざわしたり、臆測をたくましゅうしたり、疑惑を現わしたり、叫んだりしている間に、――ウスチニヤ・フョードロヴナが寝台の下から長持ちを引っぱり出して、あたふたと枕の下や敷蒲団の下や、それどころか、プロハルチン氏の長靴の中さえ探りまわしている間に、――レムニョフとジモヴェイキンが問いつめられている間に、――今まで一ばん気がきかなくて、しごくおとなしい静かな男だった下宿人のオケアーノフが、忽然として分別を取りもどし、天賦の能力を発見して、いきなり帽子を引っつかみ、どさくさまぎれに宿をすべりぬけた。今まで静かだった下宿の隅々がざわめき立って、無政府状態の恐怖が極度にまで達した時、突然おもいがけなく戸が開いて、まず最初に、上品な風采をして、いかめしい不満げな顔つきの紳士が姿を現わした。つづいてヤロスラフ・イリッチ、ヤロスラフ・イリッチの後からそのお供の連中や、ここへ来なければならぬいっさいの人々が現われ、――いちばん最後にオケアーノフ氏が、もじもじしながら入って来た。いかめしい、けれども上品な風采をした紳士は、いきなりプロハルチン氏のそばへ寄って、ちょっと脈を見ると、顔をしかめて、ひょいと肩をすくめ、わかりきったことを声明した。つまり故人《ほとけ》はもう死んでいる、といったのである。ただ自分の観察として、二、三日前にもやはり同じようなことがあった。人から尊敬されている一人の偉い人物が、夢がもとになってひょっこり死んでしまった、とつけ加えたばかりである。上品な、しかし不満げな顔つきをした紳士は、そういうなり寝台のそばを離れ、つまらないことで暇つぶしをさせられたといって、部屋を出てしまった。ヤロスラフ・イリッチはすぐさま代わりをひきうけて(その際、レムニョフとジモヴェイキンは、しかるべき人の手に渡された)、だれ彼のものを訊問し、主婦が早くも開けようとかかっていた長持ちを取り上げ、長靴が穴だらけで全然ものの役に立たないのを見てとって、もとの所へ直し、枕も元のとおりに置かせ、オケアーノフを呼んで鍵を要求して(それは飲み助の友達のポケットにあった)、しかるべき人々を立ち会わせて、いとも荘重にプロハルチン氏の財産を開いて見た。何もかもすっかり揃っていた、――ぼろ切れ二枚、靴下一足、半分になった風呂敷、古い帽子、幾つかのボタン、古い靴の裏皮、長靴の胴、ひと口にいえば、「錐にシャボンに下着類([#割り注]兵隊の背嚢に入れる雑品を意味する[#割り注終わり])」、つまり、がらくた、古物、ごみのようなござござ物ばかりで、慾ばり婆のつづらの匂いがしていた。立派なのはドイツ製の錠前ばかりであった。そこで、オケアーノフを呼んで、厳しく訊問したが、オケアーノフは宣誓してもいいとさえいった。で、今度は枕を持って来させて検査したが、それはただ汚いだけで、どこから見ても枕に相違なかった。いよいよ敷蒲団に取りかかった。持ち上げようとして見たが、ちょっと手をとめて頭をひねったとたんに、突然、まったく思いも寄らず、何かしら重いものが金属性の音を立てて床に落ちた。人々は屈みこんでその辺を探りまわしたところ、紙で貼りつけた円い棒が見当たった。その棒は十枚ばかりのルーブリ銀貨であった。
「よ、よ、よ、よ!」とヤロスラフ・イリッチは、敷蒲団のとある裂け目を指さしながら、こういった。そこからは馬の毛やら綿などがのぞいていた。その裂け目をよくよくしらべた結果、それはたったいま刃物で切り裂かれたものだということが確認された。長さは一尺あまりであった。中へ手を突っこんでみると、主婦の庖丁が出て来た。どうやら、蒲団を切った後で、あわててその中へ突っこんだものらしい。ヤロスラフ・イリッチは、蒲団の裂け目から庖丁を引っぱり出して、またもや「よ、よ!」というかいわないかに、たちまちもう一本まえと同じような棒が転がり出した。続いてばらばらと、五十コペイカ銀貨が二枚、二十五コペイカ玉が一枚、それから何かの小銭と、大昔のずっしりした五コペイカ玉が転がり出た。人々は即座にそれを拾い集めた。その時、これは敷蒲団を綺麗にばらしたほうがよさそうだと見てとって、鋏を請求した……
 その間、火勢を増した脂ろうそくが、観察家にとってはきわめて興味ある情景を照らしていた。寝台のそばに集まったおよそ十人ばかりの下宿人が、思い切って絵画的な身なりをしてひしめいていた。みんな頭をぼうぼうさせて、ひげも剃らなければ顔も洗わず、これから寝床にもぐりこもうとしていたそのままの様子で、さもねむそうな目をしている。ある者は真っ青な顔をしているし、ある者は額に汗をにじませてい、ある者は全身わなわな慄わせているし、またある者は熱にとっつかれていた。主婦はすっかり腑抜けのようになって、腕組みしたまま静かに立って、ヤロスラフ・イリッチのお情けを待っていた。煖炉《ペーチカ》の上から、下女のアガーフィヤと主婦の愛猫の頭がのぞいている。あたりにはめちゃめちゃにこわされ引きちぎられた衝立が散乱し、開けっ放しの長持ちはお上品ならぬ臓物をむき出しにし、掛布や枕は敷蒲団から出た綿くずにまみれて転がっていた。と、同時に、三本脚の木のテーブルの上には、銀貨をはじめありとあらゆる小銭が、燦然と輝きながら、しだいに堆高く積まれていった。ただプロハルチン氏だけは、完全に冷静を保持しながら、おとなしく寝台の上に身を横たえていた。どうやら自分の破産はいっこうに予感していないらしい。
 やがて鋏が持って来られ、ヤロスラフ・イリッチの補佐役が、手勝手のいいようにとご忠義だてに、敷蒲団を持主の背中の下から引っぱり出そうとして、少々手荒く揺すった時、礼儀をわきまえているプロハルチン氏は、初め検視の人々に背を向けてくるりと横になり、少々ばかり場所を譲った。それからもう一度ゆすぶられた時には俯伏せになり、最後にもうちょっと場所を譲った。ところが、寝台の端っこの板がちょっと足らなかったために、突然、思いがけなくも真っ逆さまにどしんと下へ落ちて、目に入るのはただ二本の痩せて骨ばったあおい脚ばかり、――さながら焼け残った立木の二本の枝のように、にょきっと上に押っ立っていた。ところで、プロハルチン氏は今朝すでに二度までも、自分の寝台の下を訪問に行ったので、さっそく疑惑を呼びさますこととなった。で、下宿人のだれ彼が、ジノーヴィイ・プロコーフィチの音頭取りで、そこにまた何か隠してはないか見究めようという心組みで、さっそく這いこんで行った。けれども、探検隊はただ額を鉢合わせさせたばかりで、なんの得るところもなかった。その時ヤロスラフ・イリッチがその連中をどなりつけて、即刻プロハルチン氏を、けしからん場所から救い出すように命令したので、分別のある連中が二人、両手に脚を一本ずつ持って、意外な財産家を日の目の射す世界へ引っぱり出し、寝台の上へ横にねかせた。
 その間にも、馬の毛や綿くずはあたりを飛びめぐり、銀貨の山はだんだん高くなっていった、――ああ! そこには何といってないものはなかった……上品なルーブリ銀貨、重みのあるかっちりした一ルーブリ半銀貨、かわいらしい五コペイカ玉、下賤な二十五コペイカ玉、二十コペイカ玉、頼み少ない老婆のへそくりにも似た十コペイカ、五コペイカ銀貨などというござござ、――すべてそれぞれ特別な紙につつまれて、方法論的な堂々たる秩序で保存されている。中には稀覯の品もあった。何かのメダルが二つ、ナポレオン金貨が二枚、それから何かということはわからないが、ひどく珍しい貨幣が一枚……ルーブリ銀貨の中にも同様に、ごく古い時代のものが幾枚かまじっていた。すれて傷だらけになったエリザヴェータ女帝時代のもの、ドイツの十字章入りのもの、ピョートル大帝時代のもの、エカチェリーナ女帝時代のもの、そのほかに、たとえば、今日ではいたって珍しい貨幣とされて、耳飾りのために穴を開けてある十五コペイカ玉、どれもこれもすれきってはいるものの、ちゃんと法定の品位は備えている。銅貨もあったが、もう青錆が一面についていた、……それから、赤い紙きれが一枚出てきた、――が、それでもうおしまいだった。最後に、この解剖がすっかり終わって、幾度も敷蒲団の残骸をふるって見た時、もはやなんの音もしないことを確かめて、ありたけの金をテーブルの上に積んで、勘定にかかった。ちょっと目にはすっかりだまされて、いきなり百万ルーブリと想像ができそうだった、――それほど大きな山をなしていたのである! しかし、百万はなかった。もっともかなり大きな金額で、――ちょうど二千四百九十七ルーブリ五十コペイカあった。だから、もし昨日ジノーヴィイ・プロコーフィチの主唱した義金が成立していたら、かっきり二千五百ルーブリになったわけである。金はぜんぶ押収されて、故人の長持ちには封印がせられた。主婦の訴えは聴き入れられ、故人の借金に関する証明を、いつどこそこへ提出せよと指定された。しかるべき人達は受領証を書かされた。そのとき義理の姉のことをいい出したものもあったが、義理の姉は一つの神話にすぎない、すなわちプロハルチン氏の空想の産物でしかないという確信に達したので(この点では、みんなが一度ならず故人に証拠を突きつけて非難したものである)、その考えは有害無益、プロハルチン氏の名を傷つけるものであるとして、即座にしりぞけられ、それで事件はけりになった。
 さて、最初の恐怖感がやや薄らいで、みんながやっと正気を取り戻し、プロハルチン氏がいかなる人物であったかを認識した時、一同は謙虚な気持ちになって静まり返り、何かうろんくさそうに互いの顔をまじまじと眺めはじめた。中には、まるで自分のことみたいに感じて、プロハルチン氏の行為を憤慨してでもいるような手合いがいた……これだけの財産を! よくもためこみやがった! という意味である。マルク・イヴァーノヴィチは心の落ちつきを失わず、どうしてプロハルチン氏がああ出しぬけにおじけづいたか、という理由を説明し出したが、もうだれも聞いてはいなかった。ジノーヴィイ・プロコーフィチはどうしたものか、ひどく考えこんでしまった。オケアーノフは一杯機嫌だったし、そのほかの連中は、妙にひと塊りに縮こまっていた。雀のくちばしみたいな鼻をした小柄なカンタリョフは、極めて念入りに自分のトランクや包みを縛ったり、封をしたりしたうえで、夕方に引っ越してしまった。どうしてだ、どうしてだ、とききたがる連中に向かって、だんだん暮らしにくい世の中になって、ここの払いは自分などのお歯に合わないからだ、と素っけない説明をしていった。主婦はひっきりなしに泣きつづけ、頼りないわたしをうっちゃって行ったと、プロハルチン氏を呪いつ、くどきつ[#「くどきつ」はママ]するのであった。だれかがマルク・イヴァーノヴィチに、どうして故人は金を銀行に預けなかったのだろう? とたずねた。
「それはね、おかみさん、頭が単純だったからですよ、そのほうに考えがまわらなかったんでさあ」とマルク・イヴァーノヴィチは答えた。
「それにね、おかみさん、あんたもやっぱり、頭が単純ですよ」とオケアーノフが口を入れた。「あの人は二十年もあんたんとこで辛抱していたのに、ちょいと指ではじかれただけで、ぐらりといってしまった。ところが、あんたは世帯のことにかまけて、よく見てる暇がなかったんだ!………いや、どうも、おかみさん!………」
「ちょいと、あんたはくちばしの黄いろいくせに、わたしに意見がましいことをおいいなの!」と主婦は言葉をついだ。「銀行なんかなんですよう! もしあの人がお金をほんのひと握りでもわたしのとこへ持って来て、ウスチーニュシカ、これをあんたにあげるから、母なる大地がわしをのせてくれてる間は、わしを賄っておくれ、とでもいったら、わたしもあの人にちゃんと飲み食いさせて、面倒を見てあげたのにねえ。ああ、罪の深い人、ひとをだましてさ! 頼りのないこのわたしをだました、一杯くわした!………」
 人々は再びプロハルチン氏の寝台に近寄った。今では彼も例の着た切り雀ではあったけれども、前よりはましな、きちんとした恰好でねていた……骨ばったあごを、幾らか拙い結び方をしたネクタイの中に埋めていた。体もちゃんと洗われ、頭や髪も撫でつけられていた。ただ顔は本当にはあたってなかった、というのは、この下宿に剃刀がなかったからである。たった一梃、ジノーヴィイ・プロコーフィチ所有に属する品があったけれど、もう去年あたり歯がぼろぼろに欠けたので、古物市場《トルクーチイ》で上手に売ってしまったので、みんな理髪屋《とこや》へ行くことにしていた。あたりの乱脈はまだすっかり片づける暇がなかった。めちゃめちゃにこわれた衝立はそのまま転がって、死というものはわれわれのあらゆる秘密、奸計、小細工からヴェールを引きむしるものだ、といった意味の象徴であるかのように、プロハルチン氏の孤独をさらけ出していた。敷蒲団の臓物もやはり片づけてなく、かなり大きな塊りになって散乱していた。こうして、突如荒廃に帰した小部屋を、詩人が形容したなら、無慚にこわされた「世話女房式な」燕の巣といううまい比喩を持って来たであろう。嵐のために何もかも破壊しつくされ、雛も母鳥もろともに死骸となって、かれらの暖い寝床は生毛、羽、古綿となって、あたり一面にちらばっている……
 もっとも、当のプロハルチン氏はむしろ年とった利己主義者というか、泥棒雀というか、そんなふうの顔つきをしていた。恥も良心もなく、ぶしつけ千万なやり方で、みんなをだまして一杯くわすような悪い洒落をしたのは、けっして自分ではない、何も自分のせいではない、とでもいったように、今はひっそりと静まって、息をひそめているかのよう。今ではもはや、頼りない境涯に突き落されて、大憤慨している主婦の慟哭も号泣も、まるで聞いてはいなかった。それどころか、経験のあるすれっからしの資本家然として、棺の中でも一分間も無為に過ごしたくないといった様子で、何やら投機仕事の計画に没頭しきっている。その顔には何か深いもの思いが浮かび、唇はきっと結ばれていて、その様子といったら、とても在世中はプロハルチン氏のものとは夢にも想像できないていのものであった。全体に、彼は一段と賢くなったように見え、右の目は妙に悪ごすい表情で、ちょいと細められていた。プロハルチン氏は何やらいいたそうであった。何かきわめて重大な事実を報告したい、よく説明したい、それも一刻たりともむだにしないで、大至急すましてしまいたい、なにぶんにも仕事が後から重なって、今までその暇がなかったのだ……とでもいいたげな風情であった。なんだか、こういっている声が聞こえるような気がする。
「お前さん、どうしたのだ? よしなさい、これ、馬鹿な女だなあ! めそめそするのはたくさんだ! さあ、おかみさん、目をさましなさい、わかったかい! わしは死んだんだから、今となったらなんにもいらない、本当だよ! こうしてねていると、いい気持ちだよ……だが、待てよ、わしは見当ちがいのことをいってるぞ。お前さんは女にしたら将軍だ、女将軍だ、わかったかい。さて、今はもう死んでしまった、と。だが、しかし、もしひょっと、その、つまり……そんなはずはない。さあ、もしひょっと、その、わしは死んだのじゃなくって、――お前さん、聞いているかい、――ひょっくり起きあがったら、その時はどういうことになるんだい、え?」



底本:「ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々」河出書房新社
   1969(昭和44)年10月30日初版
入力:いとうおちゃ
校正:
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