京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP145-168

いては、きみはぜんぜん安心して可なりです、――密告などしやしません」
 彼はくるりとくびすを転じて、すたすた歩き出した。
「畜生、あいつ途中であの連中に会って、シャートフに告げ口をするに相違ない!」とピョートルは叫んで、いきなりピストルをつかみ出した。
 かちりと引金を上げる音が聞こえた。
「どうかご安心なさい」ふたたびシガリョフが振り返った。「ぼくは途中でシャートフに出会ったら、お辞儀ぐらいするかもしれないが、告げ口なんかしやしないです」
「きみ、わかってるだろうね。そんなことをしたら、それだけの報いを受けなきゃならないよ、フーリエ君」
「断わっておきますが、ぼくはフーリエじゃありません。ぼくをあんな甘ったるい、抽象的な、煮えきらない理論家と混同することによって、きみはただ一つの事実を証明するにすぎないです、――ほかじゃありませんが、きみはぼくの原稿を自分の手に握っていながら、内容は全然わかっていないんです。ところで、きみの報復については、ぼくこういっておきましょう。きみが引金を上げたのは拙いですね。この場合、きみのためにかえって不利じゃありませんか。ところで、明日とか明後日とかいってぼくを脅かすとすれば、きみはぼくを射ち殺すということによって、余計な手数のほか何物も得るところはありませんよ。ぼくを殺してみたところで、遅かれ早かれ、きみはぼくの主張に到達するわけですからね。じゃ、さよなら」
 ちょうどこの瞬間、二百歩ばかり隔てた公園の池のほうから、口笛の音が響きわたった。リプーチンは昨日の打合わせによって、さっそくおなじようにひゅう[#「ひゅう」に傍点]と一こえ合図を返した(彼は自分の乱杭歯の口が当てにならなかったので、このためにわざわざけさ市場で一コペイカ出して、土で焼いた玩具の笛を求めたのだ)。エルケリは途々前もってシャートフに、合図の口笛があることを知らせておいたので、彼はなんの懸念も起こさなかった。
「心配ご無用です。ぼくはあの連中を避けて通るから、向こうじゃ少しもぼくに気がつかないでしょう」シガリョフは諭すような調子でささやいた。
 それから、いっこう足を速める様子も急ぐふうもなく、彼は暗い公園を抜けて、きっぱりとわが家をさして歩き出した。
 今ではこの恐ろしい出来事が、どういうふうに起こったかということは、ごく細かい点までも一般に知れわたっている。最初リプーチンが洞のすぐ傍で、エルケリとシャートフを出迎えた。シャートフは彼に会釈もしなければ、手をさし出そうともせず、すぐせかせかと大きな声でいい出した。
「さあ、いったいシャベルはどこにあるんだね。そして、もう一つ角燈はないかしらん? いや、心配することはない、ここにはまるで人っ子一人いやしないから、ここからスクヴァレーシニキイまでは、大砲をぶっ放したって、大丈夫きこえやしないよ。あれはここにあるんだ。そら、ここのところだ、ちょうどこの下に……」
 彼は実際、洞のうしろ隅から森へ十歩寄ったところを、足でとんと踏んで見せた。この瞬間、木蔭からトルカチェンコが現われて、うしろから彼に飛びかかった。エルケリもおなじくうしろから彼の肘をつかまえた。リプーチンは前から躍りかかった。三人はすぐに彼の足をすくって、地べたに押しつけてしまった。そこヘピョートルが例のピストルを持って飛び出した。話によると、シャートフは彼のほうへ首を捩じ向けて、その顔を見分けるだけの暇があったとのことだ。三つの角燈がこの場面を照らし出した。シャートフはとつぜん短い絶望的な叫び声を発した。けれど、いつまでも声を立てさせてはいなかった。ピョートルは正確な手つきで、彼の額にしっかり強くピストルを押し当てると、――そのまま引金をおろした。発射の音はあまり大きくなかったらしい。少なくも、スクヴァレーシニキイでは、だれひとり耳にしたものがなかった。もちろん、シガリョフは聞きつけた。彼はやっと三百歩はなれるか離れないかだったので、叫び声もピストルの音も耳にしたが、後で彼自身申立てたところによると、後を振り向きもしなければ、立ちどまりさえしなかったとのことである。殺害はほとんど瞬間的に行なわれた。
 十分に実際的な能力、――冷静な落ちつきというわけにはいかぬ、――を保有していたのは、ただピョートル一人だけだった。彼はその場にしゃがみながら、忙しげな、とはいえしっかりした手つきで、死人のポケットをさがしにかかった。金はなかった(金入れはマリイの枕の下に置いて来たのである)。二、三枚のつまらない紙きれが出てきたが、一つは事務所から来た手紙で、一つは何かの本の目次、いま一つは古い外国の酒屋の勘定書だった。どうしてこんなものが二年間、ポケットの中で無事に残っていたのか、不思議なくらいである。この紙きれを、ピョートルは自分のポケットに収めたが、ふとみんな一つところに固まったまま、なんにもしないで、ぽかんと死骸を眺めているのを見ると、急に毒々しく不作法な調子で罵りながら、一同をせきたてはじめた。トルカチェンコとエルケリは、われに返って駆け出したが、たちまち洞窟の中から、もう今朝ほど用意しておいた石を、二つ持って来た。石はどちらも二十斤くらい重さがあって、もうちゃんと支度ができていた。つまり、固くしっかり繩が掛けてあったのだ。
 死骸は、手近の(第三の)池まで持って行って、その中へ沈めることに手筈が決まっていたので、人々は足と順に石を縛りつけ始めた。それを縛りつけるのはピョートルの役目で、トルカチェンコとエルケリは、ただ石をかかえていて、順々にそれをさし出すだけだった。エルケリが初めに石を渡した。ピョートルがぶつぶついったり、罵ったりしながら、死骸の足を繩で縛って、それに石を括りつけていると、トルカチェンコはこのかなり長い間、さあといえばすぐ渡されるように、うやうやしげに上半身をぐっと前へかがめながら、じっと石を両手にかかえたまま、ちょっとでもこの厄介ものを下へおろしておこうなどとは、一度も考えなかった。やっと二つの石が縛りつけられて、ピョートルが地べたから身を起こしながら、一同の顔を透かし見ようとしたとき、そのとき突然、まるで思いも寄らぬ一つの奇怪事が生じて、一同の胆をひしいだのである。
 前にもいったとおり、トルカチェンコとエルケリをのけたほか、一同はほとんど何もしないで、ぼんやり立っていた。ヴィルギンスキイは、みんながシャートフに飛びかかった時、同様に躍り出すには躍り出したが、シャートフには手を掛けないで、彼を取り抑える手伝いもしなかった。リャームシンは、もうピストルが鳴ってしまってから、一同の間に姿を現わした。やがて十分ばかり、死骸の始末でごたごたしている間、一同はさながら自意識を一部分とり落としたようであった。彼らは輪を作って、一ところに固まっていたが、不安とか心配とかいうよりも、今はただ驚愕の念のみに囚われているらしかった。リプーチンはだれよりも前に出て、死骸のすぐ傍に立っていた。ヴィルギンスキイは何か一種特別な、まるで人ごとのような好奇の色を浮かべながら、リプーチンの後から彼の肩ごしに覗き込んでいたばかりか、爪立ちにまでなって、よく見透かそうと努めていた。リャームシンはヴィルギンスキイのうしろに隠れて、時々おっかなびっくりで覗いて見ては、すぐにまた隠れてしまうのであった。ところが、死骸に石を括りつけて、ピョートルがやおら立ちあがったとき、ヴィルギンスキイは突然からだを小刻みにぶるぶる慄わせながら、両手をぱちりと鳴らし、喉一ぱいに声を張り上げて、悲しそうに叫んだ。
「これは違う、まるで違う。いけない、まるっきり違う!」
 彼はこの遅蒔きの叫び声に、まだ何かつけ足したかもしれなかったのだ。けれど、リャームシンはしまいまでいわせなかった。出しぬけにうしろからヴィルギンスキイをつかんで、力まかせに締めつけながら、何かとうてい想像もできないような声でわめき始めた。よく人が烈しく驚いた時には、突然いままで思いも染めなかったような、まるで借り物みたいな声を立てることがある、それがどうかすると、もの凄いほどに思われるものだ。リャームシンはまったく人間と思われない、獣のような声で叫び出したのである。痙攣的な発作に駆られてしだいに強く、両手でうしろからヴィルギンスキイを締めつけながら、彼は一同のほうへ向いて目を剥き出し、口をうんと大きく開けたまま、絶えずやみ間なしに黄いろい声を立てて叫んだ。そして、まるで太鼓で雨垂れ拍子でも打つように、両足を細かくばたばたと刻むのであった。ヴィルギンスキイはすっかり面くらって、自分でも気ちがいのようにわめき出した。そして、ヴィルギンスキイとしては思いがけない、思い切って意地の悪そうなもの凄い形相で、うしろへ手の届くかぎり、リャームシンを引掻いたり、叩いたりしながら、その手からのがれようともがき始めた。エルケリも傍から手伝って、やっとリャームシンをもぎ放した。
 けれど、ヴィルギンスキイが度胆を抜かれて、十歩ばかりわきのほうへ飛びのいた時、リャームシンはふいにピョートルに気がついて、ふたたび黄いろい叫び声をあげながら、こんどは彼を目ざして飛びかかった。思わず死骸に躓くと、彼はそのまま死骸を飛び越えて、ピョートルに倒れかかった。そして、相手の胸に頭を押し当てながら、しっかり両手にかかえ込んでしまったので、ピョートルも、トルカチェンコも、エルケリも、ちょっと最初どうもすることができなかった。ピョートルはどなりつけたり、罵ったり、拳固で頭を撲ったりしながら、とうとうやっとのことでもぎ放すと、いきなりピストルを取り出して、依然としてわめきつづけるリャームシンのあいた口ヘ向けて、まともに狙いを定めた。トルカチェンコとエルケリとリプーチンは、もうしっかりリャームシンの両手をつかまえていた。けれど、リャームシンはピストルをさし向けられているのに、いつまでも叫びつづけるのであった。とどのつまり、エルケリが自分のハンカチを丸めて、巧みに彼の口へ押し込んだ。こうして、やっと叫び声は途絶えたのである。トルカチェンコはその間に、残った繩の切れっぱしで、彼の両手を縛り上げてしまった。
「これは実に奇態だ」不安な驚愕に打たれて、この気ちがいを見廻しながら、ピョートルはこういった。
 彼は見受けたところ、だいぶ度胆を抜かれたらしい。
「ぼくはあの男のことを、まるで別なふうに考えていた」彼は考え深そうにつけ足した。
 一時この男の傍へ、エルケリを付けておくことにした。まず何よりも、死人の始末を急がなければならなかった。ずいぶん大きな声で長い間わめいたので、どこかで聞きつけた者があるかもしれない。トルカチェンコとピョートルは角燈を取り上げて、死骸の頭に手を添えた。リプーチンとヴィルギンスキイは足を持って、やがて一同は歩き出した。二つの石をつけたこの荷物はずいぶん重かった。それに、距離は二百歩以上あった。中で一ばん力持ちはトルカチェンコだった。彼は、歩調を揃えたらよかろうと注意したが、だれ一人それに答えるものはなかった。で、人々は出たらめに歩いた。ピョートルは右側から歩いて行った。そして、すっかり前へのめりながら、死人の頭を肩に担いで、右手で石を下から支えていた。トルカチェンコは道のり半分ばかりの間、その石を支える手助けをしようなどとは、まるで気がつかなかったので、ピョートルはとうとう罵声を交えながら、彼をどなりつけた。その叫び声はきわめて唐突で、さびしげに響いた。一同は無言のまま運びつづけた。ようやく池の傍まで来た時、ヴィルギンスキイは荷物の重みに疲れたように、妙に背中をかがめながら、前と同じ高い泣くような声で、出しぬけにこう叫んだ。
「これは違う、いけない、いけない、これはまるっきり違う!」
 彼らが死人を運んで来たこの第三の、かなり大きな、スクヴァレーシニキイの池は、公園の中でも一ばん荒寥とした場所で、ことにこの頃のような晩秋の頃になると、ほとんど訪れる人とてもなかった。池もこちらの端になると、岸に草が生い茂っていた。人々は角燈を置くと、死骸を二つ三つ振って、池の中へほうり込んだ。鈍い音が長く尾を曳いた。ピョートルは角燈を取り上げた。つづいて一同も身を乗り出しながら、死骸の沈んで行くさまを、もの珍しそうに見透かしたが、もうなんにも見えなかった。石を二つ付けた死体は、たちまち沈んでしまった。水の表面に起こった大きな波紋は、みるみるうちに消えていった。ことはすでに終わった。
「諸君」とピョートルは一同にいった。「これでもうわれわれは別れるのです。疑いもなく諸君は、自由な義務の遂行にともなう自由な誇りを、感じていられることと思います。もし遺憾にも、今この際、そういう感覚を味うべく、あまりに興奮していられるとすれば、明日は間違いなく感得されるに相違ありません。明日それを感得しないのは、もはや恥です。ところで、あの醜悪を極めたリャームシンの興奮にいたっては、ぼくは単に熱に浮かされたものと見なしておきます。まして本当にあの男は、今朝から病気だという話ですからね。それから、ヴィルギンスキイ君、きみはほんの一分間でも、自由な気持ちで省察してみたら、共同の事業のためには、誓いなど当てに行動するわけにはいかない、どうしてもぼくらのやったようにしなきゃならない、ということがわかって来るでしょう。実際、訴状があったということは、結果がきみに示してくれますよ。ぼくはきみの叫んだ言葉を忘れることにしましょう。危険なんかって、そんなものは断じてありません。だれにもせよ、ぼくらに嫌疑をかけようなどとは、思いも寄らないこってすよ。ことにきみがたが上手に立ち廻ったらなおさらです。なぜなら、大切な点は要するに、諸君および諸君の十分な信念にかかってるんだからね。きみがたはこの信念を、明日にもさっそく獲得されることと嘱望します。しかるに、きみがたは目下共同の事業のために、互いに精力を分ち合い、必要に応じては、互いに注意監督するの目的をもって、同志の自由結社たる独立の機関に入っておられる。したがって、きみがたは一人一人、最高の責任を帯びているわけなのです、停滞のために悪臭を発する古ぼけた事物を一新する使命を持っているのです。これは勇気を失わないために、いつも念頭においてもらいたい。目下のところきみがたの進むべき道は、ただいっさいの破壊、――国家とその道徳の破壊あるのみです。その破壊の後には、あらかじめ権力を継承しているわれわればかりが残ることになる。そうして、賢者は自分たちの仲間に加え、愚者はどんどん馬蹄にかける。それをきみがたは心苦しく思ってはいけない。自由を辱しめないようにするためには、一代の人間を鍛え直さなければならない。これからさきでも、まだ幾千人のシャートフが、進路に横たわっていることでしょう。われわれは、大体の方向をつかむために団結したのです。だから、のん気そうにねそべって、ぼんやり口を開けながら、ぼくらを見ているようなやつを、手で拾い上げないのは、むしろ恥辱なくらいです。これから、ぼくはキリーロフのところへ行きます。そして、明日の朝までに例の遺書ができるわけです。それはあの男が死に臨んで、政府に対する弁明書という意味で、いっさいを自分に引き受けてくれるのですが、なにしろこれくらいまことしやかなコンビネーションはほかにありゃしませんよ。第一に、あの男はシャートフと仲が悪かった。二人はアメリカで長くいっしょに住んでいたのだから、その間には喧嘩ぐらいしたに相違ない。またシャートフが変節したこともあまねく知れわたっている。してみると、主義上の敵視、密告を恐れての敵視というやつが、あるに違いない、――つまり、とうてい妥協の道のない敵視なのです。これがすっかり遺書の中に書き込まれるわけですよ。まだその上に、あの男の住んでいるフィリッポフの持ち家に、フェージカが寝起きしていたことも書かせます。こういうわけで、われわれに対する嫌疑はことごとく排除されるわけです。なぜって、世間の間抜けどもは、すっかり五里霧中に彷徨するに決まってるから。ところで、諸君、明日はもうぼくらは会うことができません。ぼくはほんのちょっとの間、郡部のほうへ出かけなければならないのです。明後日になれば、諸君に新しい報告を伝えることができます。なるべくなら、あす一日、きみがたは家にこもっているほうがいいですよ。さて、ここでぼくらは二人ずつ、違った道を行くことになりますね。トルカチェンコ君、きみはお願いだから、リャームシンの面倒をみて、家へ送り届けてくれたまえな。きみなら、あの男に勢力があるから。それに第一、あんな気の狭いことでは、どれだけ自分を害なうことになるかもしれないと、よくあの男にいい聞かしてもらいたいね。それから、ヴィルギンスキイ君、きみの親戚のシガリョフ君のことは、ぼくもきみ自身と同様に、少しも疑念を挟まないです。彼は密告などしやしない。ただ彼の行動を惜しむのみです。しかし、彼はまだ退会を宣言したわけでないから、彼を葬るのは尚早です。じゃ、諸君、少しも早く。いくら間抜けなやつらだといっても、やはり用心にしくはないです……」
 ヴィルギンスキイは、エルケリといっしょに帰ることになった。エルケリは、リャームシンをトルカチェンコに引きわたすとき、彼をピョートルのところへつれて来て、この男はもう正気に返って、自分の行為を後悔し、宥しを乞うている、あの時はどうしたのか、自分でもおぼえていないほどだ、と告げた。
 ピョートルはただひとり迂路を取って、公園の外に当たる池の向こう側を歩いて行った。驚いたことには、もうおおかた半分道も来た頃に、リプーチンが後から追いかけてきた。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、リャームシンはきっと密告しますぜ!」
「いや、あの男は今に正気に返って、もし密告なぞしたら、自分で一番にシベリヤへ行かなきゃならない、ということに気がつくでしょうよ! もう今となっては、だれひとり密告するものはない。きみだってしやしません」
「じゃ、あなたは?」
「いうまでもない、もしきみらが裏切りしようと思って、こそとでも動くが早いか、ぼくはきみたちをみんな片づけてしまうから。きみだってそれはご承知だろう。しかし、きみは裏切りなんかしない。いったいきみはたったそれだけのことで、二露里もぼくの跡を追っかけて来たんですか!」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、ねえ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、ぼくらはもう永久に会われないかもしれませんね!」
「なんだってきみはそんなことをいい出したんです!」
「ねえ、ぼくはたった一つききたいことがあるんですが」
「いったいなんです? もっとも、ぼくは、きみにとっとと行ってもらいたいんだがなあ」
「たった一つ、けれど、正確な返事がききたいんです。ぼくらの五人組は、世界じゅうでたった一つきりでしょうか、それとも、こんな五人組が何百もある、というのが本当でしょうか! ぼくは一段高い見地からきいてるんですよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
「それはきみの興奮した様子でわかるよ。きみはリャームシンより、もっと危険な人間だってことが、自分でもわかってますかね!」
「わかってます、わかってます、しかし、――返事は、あなたの返事は!」
「きみは馬鹿な男だねえ! もう今となったら、五人組なんか一つだろうが、千だろうが、きみにとっては同じことだろうに」
「じゃ、一つきりなんだ! ぼくもそうだろうと思ってた!」とリプーチンは叫んだ。「ぼくはもう始終、いまの今まで、一つきりだろうと思っていた……」
 こういい捨てて、彼はもはや次の返事を待たず、くるりと踵《くびす》を転じると、そのまま闇の中に消えてしまった。
 ピョートルはちょっと考え込んだ。
「いや、だれも密告しやしない」彼はきっぱりといった。「しかし、集団はやはりどこまでも集団として、命令に服従しなくちゃならない。それでなければ、おれはやつらを……しかし、なんというやくざな野郎どもだろう!」

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 彼はまず自宅へ立ち寄って、悠々ときちょうめんにカバンを詰めにかかった。朝の六時には、急行列車が立つことになっていた。この急行は一週に一度しか出ない。それもごく最近、当分のあいだ、試験的に運転してみることになったばかりである。ピョートルは仲間のものに、ちょっとしばらく郡部のほうへ出かけると断わったが、事実あとで判明したところによると、彼の目算はぜんぜん別だった。カバンのほうの始末をつけると、もう前もって出立を知らせておいた主婦に払いをすまして、停車場ちかく住まっているエルケリのところへ、辻馬車を傭って出かけて行った。それから、ほぼ夜中の二時ちかい頃、キリーロフのところへ行った。やはり例のフェージカのこしらえた、秘密の抜け穴から忍び込んだのである。
 ピョートルは恐ろしい気分になっていた。彼にとって非常に重大な二、三の不満を別にして(彼はいまだにスタヴローギンのことを、何一つ探り出せなかったので)、彼はこの日のうちにどこからか(おそらくペテルブルグからだろう)、近い将来に自分を待ち受けているある種の危険に関して、秘密な通知を受けたらしいのである(こういう曖昧な言い方をするのは、わたし自身も明確にそうと断言できないからなので)。もちろん、この時分のことについては、今だに町でお伽噺めいた噂がいろいろと行なわれている。けれど、もし何か正確なことを知ってる人があるとすれば、それはただその筋の人くらいのものである。わたし一個の想像するところでは、ピョートルは実際この町以外、どこかにまだ連絡を保っていて、事実そういうところから情報を得たものらしい。それどころか、リプーチンの皮肉で絶望的な疑いに反して、彼は本当にこの町以外の土地、たとえば、両首都あたりで、二、三の五人組を組織していたものと、こうわたしは信じている。たとえ五人組といえないまでも、いろんな関係や連絡があったに相違ない、――しかも、非常にとっぴなものかもしれない。
 彼の出発後、三日と経たないうちに、即時かれを捕縛するようにという命令が、この町に達した。それはどういう事件のためか、――この町の出来事か、それともまたほかのことか、その点はわたしにもわからない。この命令は、ちょうどかの神秘的な意味深い大学生シャートフの惨殺(それはこの町に続けて起こった怪事件の頂点を示すものであった)と、この事件に伴うさまざまな謎めいた事情が発見されたため、町の官憲を初めとして、今まで頑なに軽佻な態度を持して来た社交界まで俄然わしづかみにしてしまった神秘的な恐怖の印象を、ひとしお強めたのである。しかし、命令の来ようが遅かった。ピョートルは、そのとき早くも名前を変えて、ペテルブルグに忍んでいたが、少し怪しいと嗅ぎつけると、たちまち外国へすべり抜けてしまった……が、わたしは恐ろしく先廻りをしたようだ。
 彼は意地悪そうな、喧嘩腰ともいうべき顔つきで、キリーロフの部屋へ入って行った。彼はおもな用むき以外に、また何やら個人的にキリーロフに癇癪を吐き出して、何かの敵討でもしたそうなふうだった。キリーロフは彼の来訪をよろこぶように見えた。明らかに彼は恐ろしく長いあいだ、病的な焦躁をいだきながら、彼を待ち設けていたらしいのである。その顔はいつもよりさらにあおざめて、暗い色の目は重々しく据わっていた。
「ぼくはもう来ないかと思ってた」と彼は重苦しくこういったが、長いすの隅に坐ったまま、出迎えに身を動かそうともしなかった。
 ピョートルはその前に立ちはだかって、何か口を切るよりさきに、じっと相手の顔に見入るのであった。
「つまり、万事きちんとなってるんですね。例の決心を翻すようなことはありませんね、いや、えらい!」彼は人を馬鹿にしたような、いかにも保護者気取りの微笑を浮かべた。「で、どうです」と彼は厭味な、ふざけた調子でつけ足した。「少しくらい遅れたって、何もきみが不足をいうわけはないじゃありませんか。ぼくはきみに三時間めぐんであげたんですからね」
「ぼくはそんな余計な時間なんぞ、きみから恵んでもらいたくない。それに、きみなんかぼくに恵むことができるものか……ばか!」
「なに!」とピョートルはいいかけたが、すぐに自分で自分を制止した。「なんという怒りっぽい人だろう! おやおや、ぼくらはいがみ合ってしまったじゃありませんか!」依然として人を馬鹿にしたような、高慢ちきな態度で、彼は一語一語きざむようにいった。「こういう場合には、どっちかといえば、落ちつきのほうが必要ですね。まあ、自分がコロンブスになった気で、ぼくなんかは鼠かなんぞのように思って、腹を立てないのが一番いいですよ。それはぼくきのうもおすすめしたんですがね」
「ぼくはきみを鼠かなんぞのように思いたくない」
「それはなんです、お世辞ですか? もっとも、お茶も冷たくなってる、――してみると、何もかもめちゃめちゃなんですね。いかん、どうも頼りなさそうなことが持ちあがってるようだ。おや! あの窓の上に何やらある。ほら、皿の中に(彼は窓に近寄った)。ほほう、米といっしょに煮た鶏肉《とり》ですな!………だが、どうして今まで手がつけてないんだろう! ははあ、なるほど、ぼくらはいま鶏肉も食べられないような気分になってるんですね……」
「ぼくは食べたよ。きみの知ったことじゃない、黙っていたまえ!」
「おお、もちろん、それに、どっちにしたって同じことですからね。しかし、ぼくにとっては、いま同じことじゃないんですよ。ねえ、ぼくはまだほとんど食事をしていないから、もしぼくの想像どおり、もうこの鶏肉《とり》がきみに不用だとすれば、ね!」
「もし食べられればやりたまえ」
「それはありがたい。それから後でお茶もね」
 彼はさっそく長いすの反対側に陣取って、恐ろしくがつがつした様子で、食物に飛びかかった。しかし、それと同時に、絶えず自分の犠牲《いけにえ》を観察していた。キリーロフは毒々しい嫌悪の色を浮かべて、さながら目を離すことができないかのように、じっと瞬きもせず彼を見つめるのであった。
「ときに」依然として貪りつづけながら、ピョートルはとつぜん身をそらした。「ときに、用件のほうは! ぼくらは決心を翻しゃしないですね、え! ところで、遺書は!」
「ぼくは今夜いよいよ、どうなったって同じことだと決めてしまった、書くよ。檄文のことだね?」
「ええ、檄文のことも。もっとも、ぼくがすっかり口授しますよ。だって、君にはどうだって同じことなんでしょ。いったいきみはこんな間際になっても、遺書の内容なぞ気になるんですか?」
「きみの知ったこっちゃないよ」
「むろん、ぼくの知ったことじゃない。もっとも、ただの二、三行でいいんですがね。まあ、いってみれば、きみがシャートフといっしょに檄文を撒き散らしたことや、また、それにはきみの宿に隠れていたフェージカの手を借りたことだの……この最後の点、つまり、フェージカと宿のことは、きわめて重要なんです。最も重大なといっていいくらい。ねえ、ご覧なさい、ぼくあなたにはぜんぜん開けっ放しでしょう」
「シャートフ! なんのためにシャートフのことなんか! ぼくはけっしてシャートフのことなんか……」
「ほうら、また、いったいきみにとってどうだというんです! もうあの男の害になることなんか、しようたってできないのですよ」
「あの男のところへは細君がやって来たんだ。さっき細君が目をさまして、あの男のいどころをぼくのところへききによこしたんだ」
「細君がきみのところへ、あの男のいどころをききによこしたんですって! ふん……それは拙いなあ。多分また使いをよこすだろう。ぼくがここにいることは、だれにも知らしちゃいけないんです……」
 ピョートルは気を揉み出した。
「細君は知りゃしない、また眠ってるんだから。あのひとのところには産婆がいる、アリーナ・ヴィルギンスカヤが」
「そ、そのとおり……しかし、聞きつけやしないでしょうね! 入口に鍵をかけなくってもいいでしょうか」
「けっして聞きつけやしない。もしシャートフが来たら、きみをあっちの部屋へ隠してあげる」
「シャートフは来やしません。そこで、きみは裏切りと密告のために……今夜あの男と喧嘩をして……それがあの男の死因となった、とこう書いてもらうんですよ」
「あの男が死んだ!」キリーロフは長いすから躍りあがりながら叫んだ。
「今夜の七時すぎ、というより、むしろ昨夜の七時すぎですな。今はもう十二時すぎてますからね」
「それは貴様が殺したんだ!………それはぼくも昨日から見抜いていた!」
「見抜かずにいられるものですか? ほら、このピストルでね(彼はいかにもちょっと見せるためらしくピストルを取り出したが、もうそれっきりしまおうとしないで、いつでも用意ができているように、引き続いて右手にじっと持っていた)。しかし、きみは奇妙な人ですね。キリーロフ君、あの馬鹿な男の最期がこうなるに決まっていたのは、きみも自分で承知してたんじゃありませんか。この場合、見抜くも何もあったものじゃない。ぼくはもう何べんとなく、きみに噛んで含めるようにいったんですよ。シャートフは密告を企てたので、あの男を監視していた。ところが、どうしてもうっちゃっておけなくなったのです。それに、きみだって監視の命令を受けたんですよ。現に三週間前、きみが自分でぼくに知らせてくれたじゃありませんか……」
「黙れ! 貴様があの男を殺したのは、あの男がジュネーブで、貴様の顔に唾を吐きかけたからなんだ!」
「それもあるし、またほかにもあるんです。いろいろほかの原因があるんですよ。しかし、いっさい私憤なしにやったことです。なんだってそう飛びあがるんです! なんのために芝居めいた所作をするんです! ほほう! なるほどきみはこんなことにまで!………」
 彼は跳ね起きて、ピストルを前へさし出した。それはこういうわけなのである。キリーロフが出しぬけに、もう今朝から用意して装填してあった自分のピストルを、窓の上から取り上げたのだ。ピョートルは身がまえをして、自分の武器をキリーロフにさし向けた。こちらは毒々しく笑い出した。
「白状しろ、悪党め、貴様がピストルを取り上げたのは、ぼくが貴様を射つかと思ったからだろう……ぼくは貴様なんか射ちやしない……もっとも……もっとも……」
 こういいながら、彼は自分が相手を射ち倒す光景を想像する、その快感をむざむざ棄てかねるように、狙いでも定めるような恰好で、ふたたびピョートルにピストルをさし向けた。ピョートルはやはり身がまえをしたまま、じっと待ちかまえていた。自分でさきに弾丸を額に受ける危険を冒しながら、引金をおろさず、最後の瞬間まで待ち設けていた。実際こんな『気ちがい』だから、そういうことがあるかもしれないのだ。けれど、『気ちがい』はついに手を下ろした。そして、せいせい息を切らして、身を慄わせながら、ものをいう気力もなかった。
「ちょっとふざけてみたんです。もうたくさん」とピョートルもピストルを下ろした。「きみがふざけてるってことは、ぼくもちゃんと承知してましたよ。ただね、きみは冒険したんですよ。ぼくは引金を下ろすこともできたんですからね」
 彼はかなり平然と長いすに腰を下ろし、自分でコップに茶をついだ。もっとも、その手はいくらか慄えていた。キリーロフはピストルをテーブルの上に置いて、部屋の中をあちこち歩き出した。
「ぼくはシャートフを殺したとは書かない。そして……今はもう何も書きゃしない、書置きなんかこしらえないよ!」
「こしらえない?」
「こしらえない」
「なんという卑怯なことだ、なんという馬鹿げたことだ!」ピョートルは憤怒のあまり真っ青になった。「もっとも、ぼくはこれを見抜いていた。ねえ、出しぬけにぼくの度胆を抜こうたって、そりゃ駄目ですよ。しかし、どうともご勝手に。もし無理にきみを強制できるものなら、そうもしたんだがなあ。だが、きみは卑怯者だ」ピョートルはだんだん我慢ができなくなってきた。「きみはあの時、われわれから金を無心して、むやみにいろんなことを約束したじゃないか……が、それにしても、ぼくは何か結果を握らなきゃ、出て行かないよ。少なくも、きみが自分で自分の額を、打ち割るところでも見なきゃね」
「ぼくは貴様に今すぐ出て行って、もらいたいのだ」とキリーロフはしっかりした足取りで、彼の真正面に立ちどまった。
「いや、それはどうしてもできませんよ」ピョートルはまたもやピストルに手をかけた。「おおかたきみは今つらあてと臆病のために、何もかも中止してしまってさ、また金でも握るつもりで、明日あたり密告に行く気になったんだろう。だって、そうするとお礼がもらえるものね。畜生、きみのような小人ふぜいは、どんなことでもしかねないからなあ! ただ、心配はご無用ですぜ。ぼくはあらゆる場合を予想してるんだから。もしきみが臆病風を吹かして、あの決心を翻すようなことがあったら、シャートフの畜生と同様に、このピストルできみの頭の鉢を打ち割らずにゃ帰らないんだ、いまいましい!」
「貴様はどうしてもぼくの血まで見たいんだな?」
「ぼくは意地でいってるんじゃありませんよ。考えてもごらんなさい、ぼくにとっちゃ同じことなんですぜ。ぼくはただ共同の事業について、安心がしたいからこそいうんですよ。人間てものは当てにならない、それはきみもご承知のとおりです。いったいきみの自殺の妄想はどういう点に存するのか、ぼくにはいっこうわからない。これは何も、ぼくがきみのために考え出したのじゃなくって、きみが自分で、ぼくに会う前から、思いついたんじゃありませんか。しかも、それを初めて聞かされたのはぼくじゃなくって、外国にいる会員連だったんですからね。それに、ご注意ねがいたいのは、だれも強制的にきみから聞き出したのでない、ということです。その会員連は、当時まるできみを知らなかったのに、きみが自分の感傷癖から勝手にやって来て、うち明けたんじゃありませんか。ねえ、当時きみ自身の提言によって(いいですか、きみ自身の提言によってですよ!)きみの承諾を経て、この町におけるわれわれの運動計画を、きみのこの決心の上に築き上げたんですからね、どうもしようがないじゃありませんか。今となって、それを変更するわけにゃいきませんよ。きみは今そういう地位に身をおいて、あまりたくさん余計なことを知り過ぎてるんです。だから、きみが馬鹿げた了簡を起こして、明日にも密告に出かけるようなことがあれば、それはわれわれにとって不利益じゃありませんか。この点をどうお考えになります? いけませんぜ、きみは義務に縛られてるんですよ。誓いを立てたんですよ、金を取ったんですよ。これはきみだって、どうしても否定するわけにいきませんぜ……」
 ピョートルは恐ろしく熱くなってしまった。けれどキリーロフは、もうだいぶ前から耳をかしていなかった。彼はふたたびもの思わしげに部屋の中を歩き廻っていた。
「ぼくはシャートフがかわいそうだ」ふたたびピョートルの前に足をとめながら、彼はこういい出した。
「そりゃぼくだってかわいそうですよ。いったい……」
「黙れ、悪党め!」もはや疑う余地もない恐ろしい身振りをしながら、キリーロフは咆えるようにこうわめいた。「打ち殺すぞ!」
「ま、ま、ま、それは嘘ですよ。そのとおり、少しもかわいそうなことはないです。さあ、もうたくさん、たくさんですよう!」ピョートルは手を前のほうへさし伸ばしながら、心配そうにちょっと腰を持ち上げた。
 キリーロフはとつぜん静かになった。そして、ふたたびこつこつと歩き出した。
「ぼくはもう延ばしゃしない。ぼくはどうしてもいまは自殺したいのだ。みんな卑劣漢ばかりだ!」
「いや、それは確かですね。もちろんだれもかれも卑劣漢ばかりで、立派な人間はこの世界で暮らすに堪えられないから……」
「ばか、ぼくもやはりきみと同じような、ほかの連中と同じような卑劣漢だ、立派な人間じゃない!」
「とうとう気がつきましたね。キリーロフ君、いったいきみはそれだけの理性を持っていながら、今まで気がつかなかったんですか? だれだってみんな同じようなものですよ。この世には、善人も悪人もありゃしない、ただ賢い者と馬鹿なものがあるだけです。もしみんな卑劣漢ばかりだとすれば(もっとも、そんなことはくだらない話ですがね)、当然、卑劣漢にならずにゃいられないじゃありませんか」
「ああ! きみは本当に冷やかしてるんじゃないのかい?」キリーロフはちょっと驚いた様子で、相手を見つめた。「きみは熱心に正直な態度で……いったいきみみたいな男でも信念を持ってるのかね?」
「キリーロフ君、ぼくはなぜきみが自殺しようというのか、どうしても合点がいかなかったです。ただ信念、堅い信念……から出たことだけはわかってますがね。が、もしきみがなんというか、その衷心を披瀝したいという要求を感じるなら、ぼくは喜んで聴きますよ……ただ時間の点に気をつけなくちゃ……」
「何時だね?」
「おお、ちょうど二時です」とピョートルは時計を眺めて、巻き煙草に火をつけた。
『まだ話をつけることができそうだて』と彼ははらの中で考えた。
「ぼくは何もきみなんぞにいうことはない」とキリーロフはつぶやいた。「ぼくは、なんでも、神の話があったように覚えてますよ……ねえ、いつかきみが説明してくれたことがあるじゃありませんか、確か二度までもね。もしきみが自殺したら、きみはそのまま神になる、といったようなことでしたねえ?」
「ああ、ぼくは神になるんだ」
 ピョートルはにこりともしないで、じっと待っていた。キリーロフは微妙な表情で、彼を見つめた。
「きみは政治詐欺師で陰謀家だ。きみはぼくを哲学と熱情の境へおびき出して、和睦を成立させ、そうしてぼくの怒りを紛らしてしまおうと思ってるのだ。和睦が成立したとき、ぼくがシャートフを殺したという遺書を、ねだり取る魂胆なのだ」
 ピョートルはいかにも自然らしい、素直な調子で答えた。
「まあ、ぼくがかりにそんな卑劣漢だとしても、最後の瞬間になったら、そんなことはどうでもいいじゃありませんか、キリーロフ君? ねえ、いったいぼくらはなんのために争論してるんでしょう、一つ伺いたいもんですね。きみはそういう人間だし、ぼくはまたこういう人間なんです。それがどうしたというんでしょう? それに二人ながらおまけに……」
「卑劣漢だ」
「そう、或いは卑劣漢かもしれない。きみだってそんなことは、ただの言葉だということを、承知してるじゃありませんか」
「ぼくは一生涯の間、これがただの言葉でないように願っていたのだ。ぼくはいつもいつもそうあらせたくないと思うからこそ、これまで生きていたのだ。今でも毎日のように、ただの言葉でないようにと願っているのだ」
「仕方がないですね、めいめいが、よりよい居場所をさがしてるんだから。魚は……いや、つまり、どんな人でも自分流に、それぞれ愉楽を求めてるんです。それだけのことでさあ。ずうっと昔から、知れ切ったことですよ」
「きみは愉楽というんだね?」
「まあ、言葉争いなんかしたって、仕方がないじゃありませんか」
「いや、きみはうまいことをいったよ。じゃ、愉楽としておこうよ。神は必要だ、だから存在すべきだ」
「ふん、それでけっこうじゃありませんか」
「けれど、神は存在しない、かつ存在し得ないということを、ぼくは知ってるんだ」
「そのほうがいっそう正確ですな」
「いったいきみにはわからないのか? こんな二重の思想を持っている人間は、とうてい生きてゆくわけに行かないのだ」
「自殺しなけりゃならん、とでもいうのですかい?」
「これ一つだけでも、じゅうぶん自殺に値するということが、いったいきみにわからないのか? 何十億というきみらのような人間の中で、たった一人だけ、そんな生活を欲しない、またそれに堪え得ないような人間がいることを、きみはまるで理解していないのだ」
「ぼくは、ただきみが迷っているらしいということだけは、理解していますよ……それは非常に悪いことですぜ」
「スタヴローギンもやはり思想に呑まれたのだ」キリーロフは、気むずかしげに部屋の中を歩き廻りながら、相手の言葉には気もつかないで、こういった。
「え?」とピョートルは耳をそばだてた。「どんな思想に? あの人はきみに何かいいましたか?」
「いや、ぼくが自分で想像したのさ。スタヴローギンは、たとえ信仰を持ってても、自分が信仰を持ってることを信じないし、またかりに信仰を持ってなかったら、その信仰を持ってないことを信じない男だ」
「ふむ、スタヴローギンにはもっと違ったものもありますよ、も少し気の利いたものがね……」不安げに会話の方向と、キリーロフのあおざめた顔つきを注視しながら、ピョートルは喧嘩腰でこうつぶやいた。
『畜生、こいつとても自殺しやしないぞ』と彼は考えた。『前から直感していたよ。要するに、頭脳の産物だ、それっきりだ。なんというやくざな連中だろう?』
「きみはぼくと席を共にする最後の人間だ。だから、厭な心持ちできみと別れたくない」突然キリーロフがいい出した。
 ピョートルはすぐには答えなかった。『この畜生、今度はまた何をいいだすんだろう?』と彼はふたたび考えた。
「キリーロフ君、まったくのところ、ぼくは個人としてきみに対して、別に悪意なぞ持ってやしないんですよ、いつも……」
「きみは卑劣漢だ、きみは偽りの知恵だ。しかし、ぼくもやはりきみと同じような卑劣漢だ。ところが、ぼくは自殺して、きみは生き残るんだ」
「つまり、きみがいうのは、ぼくが生存を望むほど卑屈なやつだ、という意味ですか?」
 彼はこういう場合、こういう会話を続けるのが、はたして有利か不利か決しかねたので、『なり行きにまかせよう』と決心した。しかし、キリーロフの優越の調子と、まるで隠そうともしないいつもながらの侮蔑の色が、以前からしじゅう彼をいらいらさせていたが、今はどういうわけか、前よりいっそうひどく感じられた。或いはこういうわけかもしれない、――もう一時間ばかり経ったら、死なねばならぬキリーロフが(彼は今でもやはりそれを念頭においていたので)、彼の目から見ると、何かこう半人[#「半人」に傍点]ともいうべきもののように思われて、とうてい傲慢な態度なぞ許さるべきでないような気がしたのである。
「きみはどうやらぼくに対して、自殺を自慢してるようですね?」
「ぼくはみんながのめのめ生き残っているのを、いつも不思議に思ってるんだよ」キリーロフは相手の言葉に耳もかさなかった。
「ふん、それも一つの観念だが、しかし……」
「猿、きみはぼくをまるめ込もうと思って、相槌ばかり打ってるじゃないか。黙ってろ、きみなんか何もわからないんだ。もし神がないとすれば、その時はぼくが神なのだ」
「それそれ、ぼくはきみの説の中で、その点がどうしてもはらに入らなかったのです。なぜきみが神なんでしょう?」
「もし神があれば、神の意志がすべてだ。したがって、ぼくも神の意志から一歩も出られないわけだ。ところが、神がないとすれば、もうぼくの意志がすべてだ、したがって、ぼくは我意を主張する義務があるわけだ」
「我意? しかし、なぜ義務があるんでしょう」
「なぜって、いっさいがぼくの意志だからだ。人間は神を滅ぼして、我意を信じておりながら、最も完全なる意味において、この我意を主張する勇気のあるものは、わが地球上に、はたして一人もいないのだろうか? それはちょうど、貧しいものが遺産を相続して、度胆を抜かれたため、自分でそれを領有する力がないと思い込んで、金の袋に近寄る勇気が出ないのと同じ理屈だ。ぼくは我意を主張したのだ。一人きりでもかまわない。ぼくはあえて断行する」
「断行したらいいでしょう」
「ぼくは自殺する義務があるのだ。なぜって、ぼくの我意の最も完全な点は、――ほかでもない、自分で自分を殺すことにあるからだ」
「だって、自殺するのはきみ一人っきりじゃありませんぜ。自殺するものはたくさんあります」
「しかし、みなそれぞれ理由がある。ところが、いっさい理由なしに、自分の我意のためのみに自殺するのは、ぼく一人きりなんだ」
『自殺しやしない』またしてもピョートルの頭に、こういう考えが閃めいた。
「ねえ、きみ」と彼はいらだたしげにいい出した。「ぼくがきみの位置に立ったら、自分の我意を示すために、自分を殺さないで、だれかほかの人を殺しますよ。そのほうがよっぽど役に立ちますぜ。もしびっくりなさらなけりゃ、だれを殺したらいいか、ぼくが教えてあげますがね。そうすれば、或いはきょう自殺しなくてもいいかもしれませんよ。相談のしようがありますぜ」
「他人を殺すのは、ぼくの我意の中で最も卑劣な点なのだ。その言葉のなかに、きみの全面目が現われてるよ。ぼくはきみとは違う。ぼくは最高の点を欲する、だから自殺するのだ」
『自分相当のところまで行きついたな』とピョートルは毒々しげにつぶやいた。
「ぼくは自分の不信を宣告する義務がある」キリーロフは部屋の中を歩き廻った。「ぼくにとっては、『神はなし』というより以上に高遠な思想は、ほかにないのだ。ぼくの味方は人類の歴史だ。人間は自殺しないで暮らすために、神を考え出すことばかりしてきたものだ。従来の世界史は、これだけのことだったのだ。ところが、ぼくは全世界史中のただ一人として、初めて神を考え出すことを拒否したのだ。人類はこれを知って、永久に記憶しなければならぬ」
『自殺しやしない』とピョートルは内心気を揉んだ。
「だれが知るもんですか?」彼は突っついた。「ここにはきみとぼくしかいないじゃありませんか。リプーチンのことでもいってるんですか?」
「みんな知らなきゃならない。みんな知るに相違ない……この世には、明るみへ出ないような秘密は一つもない。これは『彼』のいったことだ」
 こういいながら、彼は熱病やみのような興奮のていで、救世主の聖像をさした。その前には燈明が燃えていた。ピョートルはすっかり業を煮やしてしまった。
「じゃ、きみはやはり『彼』を信じて、お燈明なんか上げてるんですね。それはまさか、『万一の場合』のためじゃないでしょうね?」
 こちらはいつまでも黙っていた。
「ねえ、ぼくの目から見ると、きみはどうも坊さん以上に信仰してるらしいですよ」
「だれを? 『彼』を? まあ、聞きたまえ」じっと坐って動かぬ、激昂した目つきで、前方をじっと凝視しながら、キリーロフは急に歩みをとめた。「一つきみに偉大なる思想を聞かしてやろう。かつてこの地上に一つの日があった。そして、この地球の真ん中に、三つの十字架が立っていた。十字架の上にあった一人は、きわめて深い信仰を有していたので、いま一人の者に向かって『お前は今日わしといっしょに天国におもむくだろう』とまで断言した。やがてその日は終わって、二人とも死んでしまった。そして、ともに旅路に上ったけれど、天国も復活も発見できなかった。予見はついに適中しなかった。いいか、この人は全地球における最高の人で、地球の生活の目的となっていたのだ。この一個の遊星も、その上にあるいっさいのものも、この人がなかったら、ただの狂乱世界にすぎない。この人の前にも後にも、これくらいの人はかつて出て来なかった。それはじっさい奇蹟といっていいくらいだ。つまり、こういう人はこれまでにもなかったし、今後もけっして出て来そうにない、そこに奇蹟が含まれてるわけなのだ。もしそうとすれば、もし自然律がこの人[#「この人」に傍点]をも容赦しないで、――自分の奇蹟さえ容赦しないで、『彼』をして偽りの中に生き、偽りのために死なしめたとすれば、当然この遊星ぜんたいが虚偽の塊りで、愚かしい嘲笑と欺瞞の上に立ってるわけなのだ。してみると、この遊星の法則そのものが虚偽なのだ、悪魔の喜劇なのだ。いったいなんのために生きるのだ、もしきみが人間なら答えて見ろ」
「それは、話が別の方向へそれたんですよ。きみの頭の中では二つの異なった原因が、いっしょくたになっているらしいですね。これはどうもよくない徴候ですぜ。しかし、失礼ですがね、もしきみが神だとすれば、どうなんでしょう? もし虚偽が終わりを告げて、きみが忽然と『いっさいの虚偽は古き神があったからにすぎない』と悟ったとすれば、いったいどうなんでしょうね?」
「とうとうきみもわかったな!」とキリーロフは歓喜の声を上げた。「きみのような人間でさえわかったとすれば、つまり、だれでも理解できるわけなのだ。今こそわかったろう、万人のための救いの道は、すべての者にこの思想を証明するにあるんだ。ところで、だれがそれを証明するのだろう? ぼくなのだ! ぼくは合点がいかない、――どういうわけでこれまでの無神論者は、神がないということを知りながら、同時に自殺せずにいられたのだろう? また神がないと自覚しながら、同時に自分が神になったと自覚しないのは、もうまったく無意味だ。そうでなかったら、どうしても自殺せずにいられないはずだ。もしそれを自覚したら、――もうその人は帝王だ、もう自殺などしないで、最高の栄誉の中に生きていけるのだ。けれど、ただ一人だけ、つまり最初にそれを自覚した者は、必ず自殺しなければならぬ。でなけりゃ、だれがいったい始めるんだ、だれがいったい証明するんだ? ぼくはそれを始めるために、それを証明するために、必ず自殺をするつもりだ、ぼくはまだ仕方なしの神だから不幸だよ。なぜって、我意を主張する義務がある[#「義務がある」に傍点]からだ。すべての人は不幸だ。それは我意を主張することを恐れているからだ。今まで人間があんなに不幸でみじめだったのは、我意の最も肝要な点を主張することを恐れて、まるで小学生のように、そっと隅っこで我意をふるっていたからだ。ぼくは恐ろしく不幸だ、それは恐ろしく怖がってるからだ。恐怖という奴は人間の呪いだ……しかし、ぼくは我意を主張する。ぼくは自分の無信仰を信ずる義務がある。ぼくは開始して、そして終結する。ぼくは扉を開く、そうして救ってやる。すべての人間を救って、次の時代に、彼らを生理的に改造することのできる方法は、ただこれ一つしきゃないのだ。だって、ぼくの考えるかぎりでは、今のような生理的状態では、人間が古い神なしにやって行くことは、しょせん不可能だからね。ぼくは三年の間、自分の神の属性を求めて、やっとこの頃それを発見した。ぼくの神の属性は、――ほかでもない我意[#「我意」に傍点]だ! これこそぼくが最高の意味において自分の独立不羈と、新しい恐るべき自由を示し得る、唯一の方法なのだ。実際この自由は恐ろしいものなんだからね。ぼくは自分の独立不羈と、新しい恐るべき自由を示すために、自分で自分を殺すのだ」
 彼の顔は不自然にあおざめて、目つきは堪えがたいまでに重苦しそうだった。彼はさながら熱病やみのようだった。ピョートルは、今にも彼が倒れやしないかと思った。
「さあ、ペンを取ってくれ!」突然キリーロフは、感激の頂点に立ったかのように、思いがけなくこう叫んだ。「口授しろ、ぼくは何にでも署名してやる。シャートフを殺したことにも署名してやる。さあ、ぼくが滑稽に感じてるうちに、なんでも口授するがいい。ぼくは高慢ちきな奴隷どもの意見なぞ、少しも恐れやしないんだ! すべて秘密なものはやがて明るみへ出るものだということを、きみも自分で合点するだろうよ! きみなんかは押し潰されてしまうんだ……ぼくはそれを信じる、信じなくってさ!」
 ピョートルは座を躍りあがって、さっそくインキ壺と紙を持って来た。そして、適当な瞬間を狙いながら、成功を気づかって胸を躍らせつつ、口授し始めた。
『余アレクセイ・キリーロフは左の事実を宣言す……』
「ちょっと待ってくれ。ぼくはいやだ! いったいだれに宣言するのだ!」
 キリーロフはまるで熱病やみのように慄えていた。この宣言ということと、それに関する一種特別な思いがけない想念は、とつぜん彼の全身全霊を呑みつくしたらしかった。それは悩み疲れた彼の魂が、ほんの瞬間ではあるけれど、まっしぐらに飛びかかった一縷の光明であった。
「だれに宣言するのだ? ぼくはぜひそれを知りたい!」
「だれでもない、すべての者です、最初にこれを読む人間です。何もそんなことを決めてかかる必要は、ないじゃありませんか。つまり、全世界ですよ!」
「全世界! ブラーヴォ! そして、後悔めいたことは抜きだ。ぼくは後悔なんかするのはいやだ。官憲などに呼びかけるのはいやだ!」
「ええ、むろんですよ。そんな必要はありゃしない。官憲なんかくそ食らえだ! さあ、お書きなさいよ、もしきみが真面目にその気があるのなら!………」とピョートルはヒステリックに叫んだ。
「待ってくれ! ぼくは上のほうに、舌を吐き出したつらを描きたいんだ」
「ええ、くだらないことを?」ピョートルは業を煮やしてしまった。「画なんかなくたって、そんなことはみんな調子一つで出せるんですよ」
「調子で? そいつはいい、そうだ、調子だ、調子だ! 調子で口授してくれ!」
『余アレクセイ・キリーロフは』キリーロフの肩さきにかがみかかって、興奮のあまりぶるぶる慄える手で、しるしゆく文字を一つ一つ注視しながら、ピョートルはしっかりした命令的な語調で口授しはじめた。『余キリーロフは左の事実を宣言す。すなわち今十月×日午後七時すぐる頃、大学生シャートフを公園内にて殺害せり。その原因は彼が節を変じて、余ら両人の居住せるフィリッポフの持ち家に、十日間滞在宿泊したるフェージカ、並びに檄文の件に関して、密告を企てるがためなり。さわれ、余が今夜ピストルをもって自殺せんとするは、あえて後悔恐怖のゆえに非ず、すでに外国在留時代より、自己の生命を断たんとの意志を、有したるがためなり」
「たったそれだけかい?」驚きと不満の色を浮かべながら、キリーロフはこう叫んだ。
「もうひと言も書いちゃいけません!」隙もあらばこの証書を、彼の手からもぎ取ろうと狙いながら、ピョートルは手を振って見せた。
「待ってくれ!」キリーロフは手をしかと紙の上にのせた。
「待ってくれ、そんな馬鹿なことがあるものか! ぼくはだれといっしょにやったか書きたいのだ。それにフェージカのことなぞなんのために? そして、火事は? ぼくはみんな書きたいのだ、その調子というやつでもっと罵倒してやりたいんだ、調子というやつで!」
「たくさんですよ、キリーロフ君、本当にたくさんですよ!」今にも手紙を引き裂かれはしないかと、びくびくしながら、ピョートルはほとんど祈らないばかりにいった。「人を本当にさせるには、できるだけぼんやりさせとかなくちゃ。つまり、これでいいんです、ほんのちょっと匂わしただけでいいんです。事実というやつは、ほんの隅っこだけ見せなきゃ駄目です。つまり、みんなをからかうだけでたくさんです。人間てやつはいつでも人にだまされるよりは、自分で自分によけい嘘をつきたがるものです。そして、むろん人の嘘よりは自分の嘘のほうをよけい信じるんです。しかも、それが何より好都合なんですよ! 一ばん好都合なんですよ! さあ、およこしなさい、それでけっこう。さあ、およこしなさいというのに!」
 こういいながら、彼は紙をもぎ取ろうと努めた。キリーロフは目を剥き出して、耳を傾け、何やら一生懸命に理解しようと、骨折っているらしかった。彼はすでに理解力を失ったようなふうだった。
「ええ、畜生!」ふいにピョートルは怒り出した。「ああ、まだ署名してないんだ。なんだってきみはそう目を剥き出すんです? 署名をしなさいったら!」
「ぼくは罵倒したいんだ……」とキリーロフはつぶやいたが、それでもペンを取り上げて、署名した。「ぼくは罵倒したいんだ……」
「〔Vive la re'publique〕(共和国万歳)と書きたまえ、それでたくさんですよ」
「うまい!」キリーロフは嬉しさのあまり、咆えるように叫んだ。「〔Vive la re'publique de'mocratique, sociale et universelle ou la mort!〕(民主的、社会的、国際的共和国万歳、しからずんば死)いや、これでは違う。〔Liberte', e'galite, fraternite', ou la mort!〕(自由、平等、同胞愛、しからずんば死)あ、このほうがいい、このほうがいい」彼はさも心地よげに、自分の署名の下にこう書いた。
「たくさんです、たくさんです」とピョートルは相変わらずくり返した。
「待ってくれ、もう少し……ねえ、きみ、ぼくはも一どフランス語で署名するよ。de Kiriloff, gentilhomme russe et citoyen du monde.(ロシヤの貴族にして世界の市民キリーロフ)ははは!」と彼は笑い崩れた。「いや、いや、いや、待ってくれ、もっといいのを考えついたぞ、こいつは素敵だ。〔Gentilhomme-se'minariste russe et citoyen du monde civilise'!〕(ロシヤの貴族的神学生にして文明世界の市民!)これが何より一番だ……」彼はいきなり長いすから跳びあがって、ふいに素早い手つきで窓からピストルを取り上げると、そのまま次の間へ駆け込んで、しっかりとドアを閉めてしまった。
 ピョートルは一分間ばかりもの思わしげに、ドアを眺めながら立っていた。
『今すぐなら、或いはやっつけるかもしれないが、考え始めでもしようものなら、なんのこともなしにすんでしまうに相違ない』
 彼はこの間《ま》にと、紙を取って座に着くと、もう一度それを読み返した。宣言の書き方はいま読んでみても、やはり彼の気に入った。
『今のところ、どういうことが必要なのかなあ? しばらくの間、すっかり世間のやつらをまごつかせてしまって、注意をそらしてやらねばならない。公園……しかし、この町には公園がないから、いやでもスクヴァレーシニキイと気がつくだろう。こう気がつくまでに、だいぶ時日がかかる、それからさがしてるうちに、また時日が経つ。そのうちにやっと死骸が見つかって、なるほど本当が書いてあったと、合点がいくに相違ない。してみると、何もかも本当だ、フェージカのことも本当だということになる。ところで、フェージカとはいったい何者だろう? フェージカは火事の本体だ、レビャードキン事件の本体だ。したがって、何もかもあすこから、――フィリッポフの家から出たのだ。それだのに、自分たちはなんにも気がつかなかった。何もかも見落としていたのだ、とこういうことになるんだから、あいつらの目はすっかりくらんでしまうわけだ! 仲間[#「仲間」に傍点]のことなんぞは思いそめもしない。シャートフにキリーロフ、それにフェージカとレビャードキンだ。いったいこの連中がどういうわけで互いに殺し合ったのか、こいつがまだちょっとした疑問になると。ええ、こん畜生、まだピストルの音が聞こえないぞ!………』
 彼は遺書を読んで、その書き方に興味を持ってはいたが、それでも絶えず悩ましい不安の念をいだきながら、一心に耳を澄ましていた、――と、ふいにむらむらとなった。彼は不安げに時計を眺めた。もうだいぶ遅かった。キリーロフが去ってからもう十分ばかりになる……彼は蝋燭を取って、キリーロフの閉じこもった戸口へおもむいた。ちょうど戸口のところで、もう蝋燭はだいぶ残り少なになって、いま二十分も経ったら燃え尽きてしまう、しかも、ほかには一本もないのだ、――ということがふと頭に浮かんだ。彼はハンドルに手をかけて、用心ぶかく耳を澄ましたが、こそとの物音も聞こえなかった。彼はいきなり戸を開けて、蝋燭をかかげた。と、何ものかが呻き声を立てながら、彼のほうへ飛びかかって来た。彼は力まかせにドアをぴしゃんと叩きつけて、ふたたびそれを肩で強く抑えた。けれども、あたりはもうひっそりして、また死のような静寂に返った。
 長いこと彼は蝋燭を手にしたまま、決しかねたようにたたずんでいた。いまドアを開けた一瞬間に、彼はほんのちらりとしか中の様子を見分けることができなかったが、それでも部屋の奥の窓近く立っているキリーロフの顔と、ふいに自分のほうへ飛びかかって来た彼の野獣のような、獰猛な意気組とが目をかすめたのである。ピョートルはぎくりとなって、手早く蝋燭をテーブルの上に置くと、ピストルを用意して、反対側の隅へ爪立ちでひょいと飛びのいた。で、もしキリーロフがドアを開けて、ピストルを手にテーブルのほうへ飛び出したにしても、彼はキリーロフに先んじて狙いを定め、引金を下ろすことができるのだった。
 自殺などということは、ピョートルも今はまったく本当にしなかった。
『部屋の真ん中に立って、考え込んでいたっけ』こういう想念がまるで旋風のように、ピョートルの頭脳を走り過ぎた。『それに、真っ暗な恐ろしい部屋だ……あいつ恐ろしい呻き声を立てて飛びかかったが、あれには二つの可能性が含まれてるわけだ、――つまり、あいつが引金を下ろそうとした瞬間に、おれがかえって邪魔をしたのか、それとも……それとも、あすこにじっと立っていて、どうしておれを殺したものかと、考えてたのかもしれない。そうだ、それはそうに違いない、あいつ考えてたのだ……もしあいつが臆病風を吹かしたら、おれはあいつを殺さずに帰らないってことを、きゃつも自分で承知してるのだ、――つまり、あいつの身になったら、おれに殺されないさきに、自分のほうからおれを殺さなきゃならないわけだ……ああ、また、またしても向こうがひっそりした! 本当に恐ろしいくらいだ。出しぬけに戸を開けたらどうだろう……何よりもいまいましいのは、きゃつが坊主以上に神を信じてることだ……もうけっして自殺なんかしっこない!………あの『自分相当のところへ行き着いた』連中が、このごろ馬鹿に殖えて来やがった。やくざ者め! ふう、こん畜生、蝋燭が、蝋燭が! もう十五分たったら、きっとなくなってしまう……早く片づけてしまわなきゃ。どんなことがあったって、片づけなきゃならない……どうなるものか、こうなったら、もう殺したってかまわないのだ。この手紙があったら、どんなやつだって、おれが殺したなどと、考える気づかいはない。あいつの手に発射したピストルを握らせて、床の上に具合よくねかしておいたら、必ずやつが自分でやったものと思うに違いない……ええ、あん畜生、どうして殺してやろうかなあ? おれが戸を開けると、やつがまた飛びかかって来て、おれよりさきに火蓋を切ったら……ええ、畜生、きっとしくじるに相違ない!』
 彼は相手の心中を測りかねて、自分の不決断に身を慄わしながら、悩みつづけていたが、とうとう蝋燭を手に取り、ピストルをさし上げて身がまえしながら、戸口のほうへ近づいた。そして、蝋燭を持っている左の手で、錠前のハンドルをじっと抑えた。けれども、それがうまくいかなかった。ハンドルがかちりと鳴って、軋むような音を立てたのである。『もうきっと射つ!』という考えが、ピョートルの頭に閃めいた。彼は力まかせに足で戸を蹴放して、蝋燭を上げながらピストルをさしつけた。けれど、発射の音も叫び声も聞こえなかった……部屋の中にはだれ一人いないのだ。
 彼はびくっとした。それは通り抜けられない、がらんとした部屋で、逃げ出す道などはどこにもなかった、彼はなおも蝋燭をさし上げて、じっとあたりを見透かした。まったくだれ一人いなかった。彼は小声にキリーロフを呼んで見た。それからまた一度、やや大きな声で……が、だれも答えるものがなかった。
『まさか窓から逃げ出しゃしまいな?』
 実際、一つの窓の通風口が開いていた。『馬鹿な。通風口から逃げ出すはずはない』ピョートルは部屋を突っ切って、窓に近寄った。『けっしてそんなはずはない』と、ふいに彼はくるりと振り返った。何やら異常なあるものが、彼の全幅を震撼したのである。
 窓に向かった壁に沿うて、戸口から右手に戸棚が一つ立っていた。この戸棚の右側に当って、壁と戸棚の間にできた凹みの中に、キリーロフが立っていたのである。しかも、その様子が、恐ろしく奇怪千万なものだった、――じっと身動きもしないで、全身を反り返らせ、両手をズボンの縫い目に当てたまま、首をぐっと上げて、うしろ頭をぴったり壁の真隅に押しつけている様子は、まるで姿を掻き消して隠れてしまいたそうなふうだった。あらゆる点から推して、本当に隠れようとしたものに相違なかった。けれど、なんだか本当にできなかった。ピョートルはその隅から少し斜めに立っていたので、ただ相手の姿の飛び出ているところだけしか観察できなかった。彼はもっと左のほうへ歩を移して、キリーロフの全身を見すかした上、謎の意味を解こうという決心が、まだつかなかったのである。彼の心臓は烈しく打ち始めた……と、ふいに極度の狂憤が彼をおそった。彼は身を躍らして、叫び声を立てると、地だんだを踏みながら、猛然として、かの気味わるい場所へ飛びかかった。
 しかし、ぴたりと傍へ近寄ったとき、ふたたび前にも増した恐怖に打たれて、まるで釘付けにされたように立ちどまった。彼が心を打たれたおもな原因は、恐ろしい叫び声にも、気ちがいじみた飛びかかりようにもかかわらず、この立姿がまるで化石したものか、または蝋細工かなんぞのように、少しも身動きしないばかりか、手一本、足一本ぴくりともさせないことだった。あおざめた顔色も不自然だし、黒い両眼もきっと据わって、どこか空中の一点を凝視していた。ピョートルは蝋燭を上から下へ、それからさらに下から上へ移しながら、あらゆる点をも洩らさず照らし出して、この顔を見極めようとした。彼はふと気がついた。キリーロフはどこか前のほうを見つめてはいるけれど、横目でピョートルのほうを見ているばかりか、ことによったら、仔細に観察しているかもしれないのだ。この時ある考えが彼の心に浮かんだ、一つこの灯をいきなり、『あん畜生』の鼻先へ持って行って、やけどをさして、どうするか見てやろう。と、ふいにキリーロフの顎がぴくりと動いて、その唇の上には、まるでこっちのはらの中を察したかのように、冷笑的な薄笑いがすべって通ったような気がした。彼は思わず身震いしながら、われを忘れて、強くキリーロフの肩をつかんだ。
 これに続いて、何かしら思い切って醜悪なことが、電光石火のように起こったのである。ピョートルも後になって、この時の記憶を秩序だって整頓することが、どうしてもできなかった。彼がキリーロフにさわるかさわらないかに、こちらはすばやく首を前へかがめて、頭で蝋燭を彼の手から叩き落としてしまった。燭台はからりと音を立てて床へ飛び、あかりは消えてしまった。その瞬間、彼は自分の左手の小指に、恐ろしい疼痛を感じた。彼はきゃっと叫んだ。それからあとは、こっちにのしかかりながら指をかんだキリーロフの頭を、ただもう前後を忘れて三度ばかり、ピストルで力まかせに撲りつけたことを、おぼえているばかりだった。やっと彼は指をもぎ放すと、暗闇の中に道をさぐりながら、後をも見ずに家を駆け出した。その後から追いかけるように、恐ろしい叫び声が部屋の中から飛んで出た。
「すぐ、すぐ、すぐ、すぐ!………」
 これが十度ばかりくり返された。しかし、彼はひた走りに走って、やっと玄関口の廊下まで走り出た。と、ふいにピストルの音が高々と鳴りわたった。このとき彼は廊下の暗闇に足をとめて、五分ばかり想像をめぐらしていた。ついに彼はふたたび部屋へ引っ返した。まず蝋燭を手に入れねばならなかった。それには、戸棚の右手で床の上へ叩き落とされた燭台を、拾い上げさえすればよいわけだが、しかし、どうして燃えさしの蝋燭に火を点けたらよかろう? ふと彼の心に、一つのぼんやりした記憶が浮かんだ。きのう台所へ駆け下りて、フェージカに飛びかかったとき、片隅の棚の上にマッチの赤い大きな箱を、ちらと見たような気がするのであった。彼は手さぐりで、左手にある台所の戸をさして進んだ。戸はすぐ見つかった。彼は入口の間を抜けて階段を下りた。棚の上には、いま彼が思い浮かべたのとちょうど同じ場所に、まだ口を切ってない、大きなマッチの箱が置いてあるのを、彼は暗闇の中でさぐり当てた。そのまま火をつけないで、急いで上のほうへ引っ返した。やっと例の戸棚の傍、――さっき彼の指に咬みついたキリーロフを、ピストルで撲りつけた場所まで来ると、彼はとつぜん咬まれた指のことを思い出した。その瞬間、ほとんど堪えがたい痛みを覚え始めた。
 彼は歯を食いしばりながら、やっとのことで、蝋燭の燃え残りに火をつけると、それをまた燭台にさして、あたりを見廻した。通風口を開けた窓の傍ちかく、足を部屋の右隅へ向けながら、キリーロフの死体が横たわっていた。弾丸は右のこめかみから打ち込まれ、頭蓋骨を突き抜けて左側から上のほうへ出ていた。血や脳味噌のはねている痕が見えた。ピストルは床の上に投げ出された自殺者の手中に残っていた。死は瞬間的に遂げられたものらしい。すっかり綿密にすべての模様を検査すると、ピョートルは身を起こして、爪先立ちで部屋を出た。そして、後の戸を閉めて、蝋燭をもとの部屋のテーブルの上に立てた。彼はちょっと思案したが、火事など起こす心配はないと考えたので、消さずにおくことに決心した。テーブルの上にのせてある遺書に、もう一ど目を落とすと、彼は機械的ににたりと笑って、なぜか依然として爪先立ちで、足音を偸みながら、今度はいよいよこの家を出てしまった。彼はまたもやフェージカの抜け穴を潜って、ふたたびきちょうめんにその後をふさいでおいた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 かっきり六時十分まえ、停車場のプラットフォームに、かなり長く続いている列車の傍を、ピョートルとエルケリが歩いていた。ピョートルがこれから出発するので、エルケリは別れを告げに来たのである。手荷物はすでに預けてしまったし、手カバンは二等車内に取っておいた自分の場所へ運んであった。第一鈴はもうとうに鳴って、人々は第二鈴を待ちかねているのであった。ピョートルは列車の中へ入って行く旅客を観察しながら、公然とあたりを見廻していた。親しい知人はほとんど見当たらなかった。ただ二度ほど軽く会釈したばかりである。一人は間接に知っている商人で、一人は二《ふた》停車場ほどさきにある自分の教区へ出かける若い田舎牧師だった。エルケリはこの最後の瞬間に、もっと重大なことを話したくてたまらないらしかった、――もっとも、はっきりどういうことなのかは、自分でもわかっていないのかもしれぬ、――けれど、自分のほうから切り出す勇気もなかった。彼はどうもピョートルが自分を邪魔にして、早く最後のベルが鳴ればいいと、じりじりしながら待っているような気がしてならなかった。
「あなたは思い切って公然と、みんなの顔を見ていますね」彼は相手を警戒しようとでもするように、何となく臆病げな調子で注意した。
「どうしていけないんだろう? ぼくはまだ隠れるわけにいかないよ。早すぎるからね。心配しないでくれたまえ。ぼくはただあのリプーチンの野郎が来やしないかと、それだけびくびくしているんだよ。嗅ぎつけて、やって来るかもしれないからね」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、あの連中は望みがありませんよ」断固とした調子でエルケリ[#「エルケリ」は底本では「エリケリ」]がいった。
「リプーチンかい?」
「みんなですよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
「くだらないことを。今あの連中は、みんな昨日のことで結びつけられてるのだ。一人だって裏切るものはありゃしない。理性というものを失わないかぎり、だれがみすみす滅亡の淵に飛び込むものかね?」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ[#「スチェパーノヴィチ」は底本では「スチェパーノヴイチ」]、あの連中はみんな理性を失いますよ」
 こうした懸念はすでに一度ならず、ピョートルの心に忍び込んだものらしい。それでエルケリの意見は、いっそう彼をむらむらとさせたのである。
「エルケリ君、きみまで臆病風を吹かせ出したのじゃないかね? ぼくはあの連中をすっかり束にしたよりも、むしろきみ一人のほうに望みを嘱しているんだよ。ぼくは一人一人の仲間が、どれだけの価値を有しているか、今こそすっかりわかった。きみ、きょうにもさっそくあの連中に、口頭ですっかり報告してくれたまえ。ぼくはあの連中をぜんぜんきみに