京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP217-P240

だか気味が悪くなってきましたよ。しかし、明日あなたがどんなふうにして、顔出しをされるだろうかと、それを楽しんでるんですよ。きっと、いろんなことを準備してらっしゃるでしょう。ときに、あなたはぼくに腹を立てちゃいませんね、ぼくがこんな口のきき方をするので?」
 ニコライはまるで返事をしなかった。で、ピョートルはすっかりいらいらしてしまった。
「ときに、あなたはリザヴェータさんのことを、真面目でお母さんにそういったのですか?」
 ニコライはじっと冷ややかに相手を見据えた。
「ははあ、なるほど、ただちょっと気休めにね、そうでしょう?」
「もし真面目だったら?」とニコライはしっかりした調子できき返した。
「どうもしませんさ。こういう場合よくいうことですが、どうなとご随意に。仕事の邪魔にはなりませんさ。(いいですか、ぼくは今われわれの仕事といわなかったんですよ、あなたはわれわれという言葉がお嫌いですからね)ところで、ぼくは……ぼくはどうだっていいです。ぼくはあなたのためには犬馬の労をいといません、それは自分でもご承知のはずです」
「そう考えますか?」
「ぼくは何も、けっして何も考えてやしません」とピョートルは笑いながら大急ぎでいった。「だって、ぼくはちゃんと承知していますもの――あなたは自分のことはすべて前もって熟考を重ねたうえ、はっきりした思案がつけてあるに相違ないんですからね。ただぼくがいいたかったのは、いついかなる場所においても、またいかなる場合に当たっても、ぼくは真面目にあなたのために、犬馬の労をつくそうと覚悟してるってことなんです。いいですか、いかなる場合に当たってもですよ、わかりますか?」
 ニコライはあくびをした。
「だいぶ倦きられましたな」ふいにピョートルはまだ真新しいソフトを取って、さも出て行きそうな恰好をしながら立ちあがったが、それでもやはりじっと踏みとどまって、立ち身のままひっきりなしにしゃべりつづけた。そして、時々部屋の中を歩き廻りながら、興に乗じると、帽子で膝を叩くのだった。
「ぼくはまたあのレムブケー夫婦のことで、ちとあなたを笑わしてあげようと思ったんですよ!」と彼は愉快げに叫んだ。
「いやもう、たくさん、後でまた。しかし、ユリヤ夫人のご機嫌はどうです?」
「あなた方はだれでも実に如才ないですねえ。あのひとのご機嫌なんぞは、あなたにとって、灰色の猫の子のご機嫌くらいにしか思われないはずなんだけれど、それでもちゃんとおききになるところが感心ですね。達者ですよ、そして、まるで迷信じみるほどあなたを崇めています。迷信じみるほど多くのものをあなたから期待しています。例の日曜日の一件については口をとざしていますが、あなたがちょっと姿を現わしただけで、すべてがあなたの足下に慴伏するものと、固く信じています。まったくのところ、あのひとは、あなたのことをどんなことでもできる人のように想像していますよ。けれど、今あなたはこれまでにも増して、謎めいた小説的な人物になっているのです。――実にきわめて有利な立場といわなきゃなりませんよ。だれも本当になりかねるほど、あなたの出現を翹望しています。ぼくはこんど旅行したでしょう、――その前もやはり熱心なことは熱心なものでしたが、今はまだまだ盛んです。ときに、もう一ど手紙のお礼をいっときます。あの連中はみんなK伯爵を怖がってるのです。どうでしょう、あの連中はどうもあなたを間諜扱いにしてるらしいですよ! ぼくはそれに相槌を打つようにしてるんですが、あなた怒りませんか?」
「かまいません」
「かまわないんですよ。これがさきで非常に役に立つんですからね。ここの連中には一種特別な方式があるんですよ。ぼくはもちろんそれに賛成でさあ。ユリヤ夫人を初めとして、ガガーノフもやっぱりそれです……あなた笑っていますね? 実際、ぼくには術《て》があるんですよ。さんざ法螺を吹き散らしておいて、ちょうどみんなが求めている頃を見計らって、出しぬけに一つ気の利いたことをいってやる。と、奴さんたち、四方からぼくを取り巻くんです。そこで、ぼくはまた法螺を吹き始める。で、とうとうみんながぼくに愛想をつかして、『才能はあるんだが、どうも天から降ったような男でね』てなことをいう。レムブケーはぼくを匡正しようと思って、勤めにつくようにすすめていますよ。ところがね、ぼくあの男をひどい目に遭《あ》わすもんだから、つまり、うんと恥を掻かせてやるもんだから、奴さん目ばかりぱちくりさせてますよ。ユリヤ夫人はかえってそれを奨励してるんです。ああ、ついでにいっときますが、ガガーノフは恐ろしくあなたに腹を立てていますよ。昨日、ドゥホヴォ村でぼくに向かって、あなたのことを思いきり悪くいってましたっけ。ぼくはすぐに事実ありのままをいってやりました。といっても、むろん、本当の事実ありのままじゃないんですよ。ぼくは一日ドゥホヴォ村のあの男のまで暮らしましたが、なかなか立派な領地ですね、いい家ですよ」
「じゃ、あの男は今でもドゥホヴォ村にいるんですね?」突然ニコライは躍りあがって、烈しく前のほうへ乗り出すようにした。
「いや、今朝ほどぼくをこちらへ送って来てくれました。ぼくらはいっしょに帰ったのです」ニコライの刹那の惑乱にはいっこう気もつかぬ様子で、ピョートルはこういった。「おや、ぼくは本を落っことした」彼は自分がさわって落とした本を、かがみ込んで拾い上げた。「バルザックの女たち、挿絵入りだな」とふいに彼はページを繰って見た。「読んだことがない。レムブケーもやっぱり小説を書いてますよ」
「へえ?」とニコライは興味を感じたもののようにきき返した。
「ロシヤ語でね、もちろん内証です。ユリヤ夫人は知っていながら、大目に見てるのです。先生のろまではあるが、態度だけはなかなか立派ですよ。なかなかよく練りあげたもんでさあ。あのいかめしい形式、あのどっしりと控え目なこと! われわれにも何かああいうふうなものが必要じゃないかしら」
「きみは行政官を讃美しますか?」
「どうして讃美せずにいられます? ロシヤにおいて唯一の自然なもの、完成されたものじゃありませんか……もうやめます、やめます」と彼は急に泡を食った「ぼくは[#「食った「ぼくは」はママ]あのことをいってるんじゃありません。もうこんなデリケートな問題は、ひと言も口にしないことにしますよ。じゃ、失敬します。しかし、あなたはなんて顔色が悪いんでしょう」
「ぼくは熱があるんです」
「そりゃそうでしょう。お休みなさいよ。ときに、この県には去勢宗派がいるそうですね、面白い連中ですよ……が、まあ、後にしましょう。しかし、もう一つ奇談があるんです。やはりこの郡内に歩兵連隊がありましてね、金曜日の晩、ぼくはBで将校連といっしょに一杯やったのです。そこにはわれわれの友だち、――|わかるでしょう《コムプルネー》?――が三人いるんですよ。やがて無神論の話になりましてね、だんだんに神様をこき下ろしてしまったもんでさあ。みんなよろこんで、きゃっきゃっという騒ぎなんです。話のついでで思い出したが、シャートフの説くところによると、ロシヤで叛乱を起こそうと思ったら、ぜひとも無神論から切り出さなきゃならないそうです。或いは真を穿ってるかもしれませんよ。ところが、一人ごましおの特進大尉が、いつまでもいつまでもじっと坐ったまま、しじゅうだんまりで一口もものをいわないでいたが、出しぬけに部屋の真ん中へ突っ立って、まあ、どうでしょう、恐ろしい大きな声をしてさ、しかも、まるで独り言のような調子で『もし神様がないとすれば、ぼくだってもう大尉でもなんでもありゃせん』といったかと思うと、いきなり帽子をとって両手を広げると、そのままぷいと部屋を出てしまったじゃありませんか」
「かなりまとまった思想を表白しているね」ニコライはまた三度目のあくびをした。
「そうかしら? ぼくは合点がゆかなかったから、あなたにきこうと思ってたんですよ。ところで、まだ何か話すことはなかったかしらん。あのシュピグーリンの工場は面白いところですね。あすこにはご承知のとおり、五百人の職工がいますが、まるでコレラ菌の繁殖場でさあ。なにしろ十五年間、まるで掃除ということをしないんですからなあ。あすこじゃ職工の工賃をかするんですよ。工場主の商人連はみんな揃って百万長者でさあ。ところで、ぼくまじめでいいますが、職工の中にはインターナショナルの何たるやを解したものもいるんですよ。おや、にたっと笑いましたね? いや、今にわかりますよ、まあ、もう少し、ほんのもう少し待ってください! ぼくは前にも一とき待ってくださいといいましたが、今また改めて頼みますよ。その時になったら……いや、失礼、もういいません、ぼくは何もあのことをいったわけじゃありませんよ。そう顔をしかめないでください。じゃ、失礼します。おや、ぼくはどうしたんだろう?」とふいに彼は途中から引っ返した。
「まるっきり忘れていた、しかも、一ばん大切なことだ。ぼくたったいま聞いたんですが、ぼくらのトランクがペテルブルグから着いたそうですね」
「というと?」ニコライは合点がゆかないで、じっと相手を見つめた。
「つまり、あなたのトランクです。あなたの荷物です。燕尾服や、ズボンや、肌衣が、着いたそうじゃありませんか? 本当ですか?」
「そう、なんだかそんなことをいってたっけ」
「では、今すぐ、いけないですか」
「アレクセイに聞いてみたまえ」
「いや、明日にしましょうね、明日に? あの中にはあなたの物といっしょに、ぼくの背広と、燕尾服と、それからズボンが三着はいってるはずです。ほら、あなたの紹介で、シャルメルで作った分ですよ、おぼえていますか?」
「噂によると、きみはここでだいぶん紳士ぶってるってね?」ニコライはにやりと笑った「調馬師[#「笑った「調馬師」はママ]について馬の稽古をするというのは本当のことですかね?」
 ピョートルはひん曲ったような薄笑いを浮かべた。
「ねえ」と彼は妙に慄えを帯びた、とぎれとぎれな声で、突然せき込みながら、こういった。「え、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、お互いに個人的にわたる話はやめようじゃありませんか、え、今後永久にね? もちろん、あなたがおかしいと思ったら、いくらぼくを軽蔑なすってもかまわんですが、しかし、しばらくの間は個人的にわたる話をしないようにしたほうがよかありませんか、え?」
「よろしい、じゃぼくはもういいますまい」とニコライは答えた。
 ピョートルはにこりと笑って、帽子でぽんと膝をたたき、足をちょっと踏み変えて、以前と同じ姿勢をとった。
「だって、今ここの人はぼくのことを、リザヴェータ・ニコラエヴナに対するあなたの競争者のようにいってるんですからね、ぼくだってちっとは様子をかまわんわけにゆかないじゃありませんか」と彼は声を立てて笑った。「しかし、だれがそんなことをあなたに密告するんだろう。ふむ! ちょうど八時だ。さあ、そろそろ出かけましょう。ぼくはヴァルヴァーラ夫人のところへ寄る約束をしたけれど、すっぽかすことにしましょう。あなたもお休みなさい。そうすれば、明日はもっと元気が出ますよ。そとは雨が降って真っ暗だけれど、なに大丈夫、ぼくには馬車があります。だって、ここは夜になると往来が物騒ですからね……ああ、それはそうと、ちか頃この町の近辺を、囚人のフェージカというのがうろうろしてるんですよ。シベリヤから逃げ出したんですがね。十五年まえ、うちの親父が兵隊にたたき売って金にした下男なんですよ。なかなか面白いしろ物でしてね」
「きみは……その男と話してみましたか?」ニコライは急に視線を上げた。
「話しましたよ。ぼくが目をつけたら、隠れっこはありませんよ。なんでも平気といったしろ物です、まったくなんでもね。もちろん、ぜに金ずくですが、それも一種の信念を持ってるんですよ、むろん、人物相当のものですがね。ああ、そうそう、もう一つついでにいっときますが、もしあなたがさっきおっしゃった計画、あのリザヴェータさんに関する計画が真面目な話でしたら、ぼくもやはり何事をも辞せずというところです。もう一ど念のためにいっときます。どんな性質の仕事だろうと、あなたのためにはよろこんで引き受けますよ……え、どうしたのです? あなたステッキでも引っつかもうとなさるんですか、ああ違った、ステッキじゃなかった……まあ、どうでしょう、ぼくはあなたがステッキをさがしていられるのかと思いましたよ」
 ニコライはべつに何もさがしもせず、何一ついいもしなかったが、実際、一種奇怪な痙攣を顔に浮かべながら、突然ひょいと腰をあげたのである。
「それから、もしガガーノフについても、何かあなたに必要なことがあったら」今度はもう露骨に文鎮を顎でしゃくりながら、ピョートルはたたきつけるようにいった。「その時はぼくがいっさいひき受けていいです。大丈夫、ぼくを出し抜くようなことはなさらんでしょうね」
 彼は返事を待たないで、出しぬけにぷいと出て行った。が、またもう一ど隙間から頭を突き出した。
「ぼくがこんなことをいうのは」と彼は早口にいった。「たとえば、例のシャートフですね、あの男だってこの間の日曜のように、あなたの傍へのこのこやって来て、命賭けの危い仕事をする権利なんか、けっして持っていないと思うからです、そうじゃありませんか? ぼくはこれをあなたに承認してもらいたいんですよ」
 彼はふたたび答えを待たないで、消えてしまった。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 ことによったら、彼は自分の姿を消す時に、『きっとニコライは一人きりになったとき、両の拳を固めて、壁をどんどん撲り始めるに相違ない』とこんなことを考えて、できることなら、ちょいとその様子をのぞいて見たい、くらいに思ったかもしれない。もしそう思ったとしたら、彼は非常な失望を感じたに違いない、ニコライは依然として落ち着き払っていた。二分間ばかり、彼は元のままの姿勢で、テーブルの傍に立っていた。見たところ、非常に考え込んでいるらしい。が、間もなく弛緩した冷たい微笑が、その口辺におし出された。彼は元の席、――片隅の長いすへ腰を下ろすと、疲れ切ったように目を閉じた。手紙の端は相変わらず文鎮の下からのぞいていたが、彼はそれを直すために、身じろぎさえしなかった。
 間もなく、まったく彼は忘我の境へ落ちてしまった。
 ヴァルヴァーラ夫人は、この数日来心配のあまり、身も細るような思いをしていたが、もうとうとう我慢がしきれなくなった。ピョートルが寄って行くと約束しながら、その約束を守らないで去ってしまった後、指定されている時間とは違うけれど、勇を鼓して、自分からニコラスの様子を見に行こうと決心した。もういい加減にして、何かきっぱりしたことをいってくれそうなものだ、こういう心持ちが絶えず夫人の頭に浮かぶのであった。彼女はさきほどと同じように、ほとほと静かに戸をたたいたが、今度もやはり返事がなかったので、自分で戸を開けた。ニコラスがなんだかあまり静かに坐っているので、夫人は胸を轟かしながら、そうっと長いすへ近づいて見た。ニコラスがこんなに早く寝入ったうえ、こうして身動きもせずにきちんと坐ったまま寝ていられるのが、なんだか妙に感じられた。そればかりか、寝息さえほとんどわからないくらいだった。彼の顔はあおざめて険しい表情を帯び、凍りついたようにぴくりともしなかった。少し眉根を寄せて、八の字にひそめているところなど、まるで息のかよってない蝋細工にそっくりだった。夫人は呼吸さえもはばかりながら、三分ばかりわが子の傍に立ちつくしていたが、とつぜん恐怖の情が彼女の全身をおそうた。彼女は爪立ちで部屋を出ながら、戸口のところで立ちどまって、手早くわが子に十字を切ると、だれの目にも触れずにその場を去ってしまった、また新たな重苦しい感触と、異なった憂愁をいだきながら。
 彼は長いこと、一時間以上も眠りとおした。しかも、初めから、しまいまで、この麻痺したような状態がつづいた。顔面筋肉一本うごくでもなければ、体じゅうどこ一つぴくりとする様子もなかった。眉は依然として気むずかしげに、八の字に寄せられたままだった。もしかりにヴァルヴァーラ夫人が、もう三分間ここに残っていたら、必ずやこの昏睡病的《レタルジック》な不動のもたらす、おしつけられるような印象に堪え切れないで、わが子を呼びさましたに相違ない。けれども、彼はふいに自分でぱっと目を開けた。そして、やはり身じろぎもしないで、さももの珍しげにまじまじと部屋の一隅を見つめながら、十分間ばかりじっと坐っていた。その様子は、何か非常に変わったものが目にとまったかなんぞのようだったが、そこには格別これという珍しいものも、変わったものもなかったのである。
 とうとう大きな掛時計が静かな、厚みのある音を立てて一つ鳴った。彼はいくぶん不安げなおももちで、首をねじ向けて文字盤を見ようとしたが、ちょうどそのとき廊下へ通ずるうしろ側の戸が開いて、侍僕のアレクセイが姿を現わした。彼は片手に冬の外套と、襟巻と、帽子を持ち、いま一方の手に手紙をのせた銀盆を捧げていた。
「九時半でございます」と彼は静かな声でいって、持って来た衣類を片隅の椅子の上にのせ、手紙ののった盆を差し出した。それは、鉛筆で二行ばかり走り書きしたまま、封もしてない小さな紙きれだった。
 この手紙にざっと目をとおすと、ニコライもやはりテーブルから鉛筆を取り、手紙の端にふた言ばかり書き添えて、また元の盆へ戻した。
「ぼくが出たらすぐ渡すんだよ。さあ、着せてくれ」長いすを離れながら、彼はこういった。
 ふと軽いビロードの背広を着ているのに気がつくと、彼はちょっと考えた後、別なラシャのフロックを出すようにいいつけた。それは、少し改まった夜分の訪問に用いるものだった。ようやくすっかり着替えを終わって帽子をかぶると、彼は母夫人の入って来た戸口を閉ざして、文鎮の下に隠してあった手紙を引き出し、アレクセイを従えて、無言のまま廊下へ出た。そうして、そこの狭い石の裏梯子から真っすぐに庭に面している出入口へ下りた。その隅には、角燈と大きな蝙蝠《こうもり》傘が用意してあった。
「どうも恐ろしい大雨で、どの町もどの町も、大変なぬかるみでございますが」主人の夜歩きを、遠廻しに思いとまらせようとする、最後の試みといった体裁で、アレクセイはこう注意した。
 けれど、主人は傘を拡げて、穴蔵のように暗い、底まで湿りけの浸み込んだ、ぐしょぐしょの古い庭へ、言葉もなく出て行った。風はごうごうと鳴って、半分裸にされた立木の梢を揺すぶっていた。細い砂利路はふわふわして、すべりそうだった。アレクセイは今まで着ていた燕尾服のままで、帽子もかぶらず、角燈をかざして三歩ばかり前を照らしながらついて行った。
「見つかりゃしないかね?」突然ニコライは問いかけた。
「窓からは見えはいたしません、それに、もう前からよっく見ておきましたで」と下僕《しもべ》は小さな声で、正確に間をおきながら答えた。
「お母さんはお休みかね?」
「二、三日この方のしきたりで、正九時に部屋の戸をかけておしまいになりました。でございますから、奥様に知れる気づかいはけっしてございません。いく時ころにお待ち申したらよろしゅうございましょう?」彼は思い切って、つけたりにこうきいた。
「一時か一時半だ、二時より遅くはならない」
「承知いたしました」
 二人ともそらで覚えている庭を、うねりくねった細径づたいにぐるりと廻って、石塀の傍まで辿り着いた。そして、塀の一番はじのところに、小さなくぐりをさがし出した。これは狭い淋しい横町へ通じる出口で、ほとんどいつも閉めきりになっていたが、その鍵は今アレクセイの手にあった。
「戸が軋みはしないだろうね?」と再びニコライがきいた。
 けれど、アレクセイの報告するところによると、戸にはきのう油をさしたばかりだし、『今日もやっぱりさしておいた』とのことだった。彼はもう今の間にぐっしょり濡れていた。戸を開き終わると、アレクセイは鍵をニコライに渡した。
「もしあまり遠方へお越しになるのでございましたら、ちょっとご注意申し上げておきますが、ここの人間どもはなかなか油断がなりませんでな、ことに淋しい横町をお通りになる時は、一段とご用心が肝要でございます。それに河向こうときたら、なおさらでございますよ」彼は我慢し切れなくなって、も一度こういった。彼は昔、ニコライのおもり役として、だき歩きしたことのある老僕だった、人間が真面目で厳格なたちなので、好んで聖書の類を人に読んで聞かせてもらったり、自分でも読んだりしていた。
「大丈夫だよ、アレクセイ」
「どうか神様が、あなたにお恵みを垂れてくださいますように……と申しても、ただあなたが善いことをなさる時だけの話でございますよ」
「なんだって?」もう横町ヘ一歩ふみ出しながら、ニコライはこういって、足を止めた。
 アレクセイはきっぱりと今の言葉をくり返した。彼は今までけっして自分の主人に向かって、こんな言葉づかいをする男ではなかったのである。
 ニコライは戸を閉めて、鍵をポケットへ入れ、一歩ごとに三、四寸ずつもぬかるみへ踏み込みながら、横町を向こうのほうへ歩き出した。やがて石をたたんだ、長いがらんとした通りへ出た。町の案内はたなごころをさすように明らかだった。けれども、ボゴヤーヴレンスカヤ街はまだまだ遠かった。やっとのことで、彼が黒く古びたフィリッポフの持ち家の、閉め切った門の外へ立ち止った時は、すでに十時を過ぎていた。階下《した》の部屋は、レビャードキン兄妹の引っ越しとともに空家になって、窓はすっかり釘づけになっていたが、シャートフの住んでいる中二階には、灯影がさしていた。門にベルがなかったので、彼は手で門の戸をたたき始めた。と、窓が開いて、シャートフが往来へ首を出した。しかし、恐ろしい闇なので、あやめもわかぬほどだった。シャートフは長いあいだ、一分間ぐらいじっと見透かしていた。
「ああ、あなたですか?」とふいに彼はたずねた。
「ぼくです」と待ち設けぬ客が答えた。
 シャートフはぱたりと窓を閉じて、下へおり、門の鍵をはずした。ニコライは高い閾を跨ぐと、ひと言もものをいわないで、その傍を通り抜け、真っすぐにキリーロフの住まっている離れのほうへ通って行った。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 離れのほうは、どこもかしこも鍵がかかっていないばかりか、ろくろく閉めてもなかった。玄関もその次のふた間も真っ暗だったが、キリーロフの借りている一ばん奥の部屋には(そこで彼はいつも茶を飲んでいた)、あかりがさしていた。そして、なんだか奇妙な叫びや笑い声が洩れて来る。
 ニコライはあかりのするほうへ歩いて行ったが、中へ入らないで、閾の上に立ちどまった。茶の道具がテーブルの上に置いてあった。部屋の真ん中には家主の親類にあたる老婆が立っていた。頭には帽子も頭巾もかぶらないで、着物もただちょっとしたスカートの上に、兎のジャケツを着込んでいるばかり、靴も素足にひっかけていた。老婆の手には、シャツ一枚きりで、小さな足を剥き出しにした生後一年半ばかりの赤ん坊がだかれていた。たったいま揺り籠から下ろしたばかりらしく、頬がかっかと赤く火照って、白っぽい髪がくしゃくしゃに乱れている。つい今しがた大泣きに泣いたと見えて、まだ涙が目の下に溜まっていたが、ちょうどこの瞬間、小さな両手を伸ばして、ぱちりと鳴らしながら、幼い子供がだれでもするように、しゃくり上げて笑っていた。その前でキリーロフが大きな赤いゴム毬を、床へほうりなげているのだった。毬が天井まで跳ねあがって、また下へ落ちて来ると、子供は『まい、まい』と叫んだ。キリーロフは『まい』をつかまえて、子供へ渡した。すると、こちらは覚束ない小さな手で、今度は自分で投げるのであった。キリーロフはまた駆け出して、それを拾ってやった。そのうちにとうとう、『まい』は戸棚の下へ転がり込んだ。
「まい、まい!」と子供は叫んだ。
 キリーロフは床へ坐って、腹這いになりながら、戸棚の下から手で毬を取り出そうと努めた。ニコライは部屋の中へ入った。子供は彼の姿を見ると、老婆にひしとしがみつきながら、いきなり子供らしい長い泣き声を立て始めた。老婆はさっそく部屋の外へ連れ出してしまった。
「スタヴローギン君?」手に毬を持って、床から起きあがりながら、ふいの来訪にいささかも驚く色なくキリーロフはこういった。「お茶を飲みますか?」
 彼はすっかり体を起こした。
「けっこうですね、もし冷たくなかったら」とニコライはいった。「ぼくすっかりびしょ濡れだ」
「温いです、いや、熱いくらいです」とキリーロフは得意そうに引き取った。「まあ、おかけなさい。きみ、泥だらけですね。いや、かまわない。ぼくあとで床を濡れ雑巾で」
 ニコライは席に着いた。なみなみと注いだ茶碗を、ほとんど一息に飲み干した。
「まだ?」とキリーロフがきいた。
「ありがとう」
 今まで坐っていなかったキリーロフは、さっそくむかい合わせに座を占めると、問いを発した。
「きみは何用で来たのです?」
「ちょっと用事があって。きみこの手紙を読んでみてくれたまえ、ガガーノフから来たんです。覚えていますか。いつかペテルブルグできみに話したことがあったでしょう」
 キリーロフは手紙を取って読み終わると、また元のテーブルヘのせて、待ち設けるように相手を見つめた。
「このガガーノフという男には」とニコライは説明にかかった。「きみもご承知のとおり、一月ばかり前に、生まれて初めてペテルブルグで会ったんです。ぼくらは二、三ど集まりの席で、顔を合わしたばかりなんですがね、紹介もされなければ、言葉を交わしたこともないくせに、なんと思ったか、ぼくに思いきり失敬な真似をするんです。このことは当時きみに話したけれども、ただ一つきみの知らないことがある。あの男はぼくよりさきにペテルブルグを立ったが、その時だしぬけに一通の手紙をよこした。もっとも、この手紙のようなことはないけれど、やはり思いきって無作法きわまるものなんです。第一、そんな手紙を書く気になった動機がまるで説明してない。それが何より奇妙なんですよ。ぼくはその時、さっそく返事をやった。やっぱり手紙でね。そして、きわめて腹蔵のない調子で、こういってやった、――あなたはおそらく四年前、ここのクラブで起こったご尊父に関する出来事を根にもって、わたしに腹を立ててるんでしょう。そのことならば、できるかぎり謝罪の方法を講ずる覚悟です。もっとも、ぼくの行為がべつに悪意あってのことではなく、単に病気のさせた業にすぎない、ということを前提にしたのです。どうか自分の謝罪を聞いたうえで、思案をしてくれと頼んでやりました。けれど、あの男は返事もよこさないで立ってしまったのです。ところが、今ここであの男の噂を聞いてみると、まるで気ちがいのようになってるそうです。あの男が衆人|稠座《ちゅうざ》の前で発したぼくに対する評言を三つ四つ耳にしたが、もう純然たる悪罵で、おまけにびっくりするような言いがかりなんですからね。ところが、とうとう今日の手紙が来ました。こんな手紙をもらった者は、今までかつて一人もないだろう、罵詈雑言をつくしたうえに、『貴様の撲られたしゃっ[#「しゃっ」に傍点]面』といったような文句まで使ってあるんだからね。ぼくは、きみが介添人たるの労をいとわれないだろうと思って、やって来たんですよ」
「きみは、こんな手紙をもらったものは一人もないといいましたが」とキリーロフがいった。「だれでも夢中になったらやりかねませんよ。こんなことを書いたのは、二人や三人じゃない。プーシキンもへッケルン([#割り注]プーシキンを決闘で倒したフランス生まれの将校[#割り注終わり])にあてて書きました。よろしい、行きましょう。で、どうするんです?」
 ニコライの説明によると、彼は明日にもさっそく決行したいと望んでいるが、その前にぜひもう一どあらためて謝罪を申し込もうと思う。いや、もう一ど謝罪の手紙を約束してもかまわない。ただし、ガガーノフのほうからも、今後二度と手紙をよこさない、という約束をしなければならぬ。今まで受け取った手紙は全然なかったものと見なしておこう、とこういうのであった。
「それじゃ、譲歩し過ぎる。あの男が承知しないでしょう」とキリーロフがいった。
「ぼくがここへ来たのは、何よりも第一に、きみがこういう条件を先方へ伝えてくれるかどうか、それを聞きたいがためなんですよ」
「ぼくは伝えます、人のことですもの。しかし、あの男が承知しません」
「承知しない、それはぼくも知っています」
「あの男は決闘したいのです。で、どうして闘うんです?」
「つまり、そこなんですよ。ぼくはぜひあすじゅうに、すっかり片をつけてしまいたい。朝の九時ごろ、きみあすこへ行ってくれたまえ。あの男はきみのいうことを聞いて、不同意を唱える。そして、自分のほうの介添人にきみを引き合わせる、――それがまあ、十一時になるでしょう。きみはその男と万端の手筈を決めてください。それから、一時か二時には、双方指定の場所へ出合わなくちゃならない。きみお願いだから、そういうふうにしてくれたまえ。武器はむろんピストル。そして、とくにお願いがあるんです。二つの発射線の間は十歩として、われわれ二人をその線からおのおの十歩の距離に立たしてください。われわれは一定の合図で近づくことにしましょう。もちろん、どちらも発射線に行き着かなくちゃならないけれど、発射はその前に、歩きながらやってもかまわない。まあ、これくらいなもんですね、ぼくの考えてるのは」
「発射線間十歩の距離は近すぎます」とキリーロフがいった。
「じゃ、十二歩、それ以上だめです。きみにもわかるでしょうが。あの男は真面目に決闘を望んでるんですよ。きみ、装填ができますか?」
「できます。ぼくピストルを持っています。ぼくは、きみが一度もぼくのピストルを使ったことがないということを、先方へ誓っておきます。先方の介添人にも、やはり自分のピストルのことをね、――そう誓わせます。そこで、この二組のピストルの中から、丁半《ちょうはん》をやってみて、先方のかこっちのか決める」
「けっこう」
「ピストルを見ますか?」
「そうですね」
 キリーロフはまだ片づけないで、片隅に置いてあるカバンの前へしゃがんで(彼は必要にしたがってこの中から、いろんな物を引っ張り出すのだった)、内側に紅いビロードを張った棕櫚の箱を、底のほうから引き出した。中からは洒落た、恐ろしく上等のピストルが一対でてきた。
「すっかり揃ってる。火薬も、弾丸《たま》も、弾薬筒もね。ぼくはまだ連発拳銃《レヴォルヴァ》を持ってますよ。ちょっと待ってください」
 彼はまたもやカバンの中へ手を突っ込んで、アメリカ製の六連発拳銃の入った箱を引き出した。
「きみはずいぶんピストルを持ってますね、しかも、立派なのばかり」
「まったく。非常に」
 ほとんど乞食のような貧しい境涯にいるキリーロフが(もっとも、自分の貧しさに一度も気がつかないでいたけれど)、今夜はさも自慢そうに、高価な武器を持ち出して見せるのだった。それはいうまでもなく、非常な犠牲を払って手に入れたものに相違ない。
「きみは今でもやはり、あのとおりな考えでいるんですね?」つかの間の沈黙の後、スタヴローギンはいくぶん大事を取るような調子で、こうきいた。
「あのとおりです」とキリーロフはすぐに声の調子で、問いの意味を察してしまったので、言葉みじかに答えながら、テーブルから、拳銃を片づけにかかった。
「いつ?」再び幾分かの間《ま》をおいて、前よりもさらに大事を取りながら、スタヴローギンはたずねた。
 キリーロフはその間に箱を両方ともカバンヘしまっておいて、もとの席へ腰を下ろした。
「それはご承知のとおり、ぼくの意志できまるわけじゃない。人がきめてくれます」いくぶん問いを持てあますようなふうだったが、同時に、このさきどんなことを問いかけられても、躊躇なしに答えそうな様子を示しながら、彼はこうつぶやいた。
 彼はなんとなく穏かな、人のいい、やさしい感情をこめながら、光のない黒い目で、あからめもせずスタヴローギンを見つめるのであった。
「ぼくにもむろんわかります、――ピストル自殺」長いこと三分ばかり、もの思わしげに黙り込んでいた後、ニコライは心もち眉をひそめながら、再びきり出した。「こいつはぼくもときどき自分で考えてみましたよ。するとね、いつも何かこう、新しい考えが湧いて来るんですよ。つまり、非常に兇悪なこと、でなければ非常に恥ずかしいこと……といって、非常な恥辱になることね、しかも、思いきって陋劣な、そして滑稽なことをやっつける、――そこで……人がそのために千年万年も覚えていて、千年万年も爪はじきする、と仮定しましょう。そのとき忽然として『こめかみにどんと一つ打ち込んだら、もう何一つ残りゃしないじゃないか』とこういう想念が浮かんだらどうでしょう。そうしたら、人がなんと思おうと、千年万年つまはじきしようと、いっこうかけかまいはないじゃありませんか、そうでしょう?」
「きみはそれを新しい思想というんですか?」ちょっと考えた後、キリーロフはこうたずねた。
「ぼくは……あえてそういうわけじゃない……ただかつてこのことを考えた時に、まったく新しい思想だと感じたのです」
「新しい思想だと感じた?」キリーロフは鸚鵡返しにいった。「それはいいことです。そういう思想はたくさんあります、――いつでもある、それがとつぜん新しくなる、それは本当です。ぼくもこの頃いろんなことがまるで初めて見るように目に入りますよ」
「かりにきみが月の世界に住んでいて」相手のいうことには耳をかさず、自分の思想の糸を手繰りながら、スタヴローギンはさえぎった。「まあ、かりにきみが月の世界で、ありとあらゆる滑稽醜悪なことをしつくしたとする……ところが、きみはこの地球に居を移しながら、月の世界できみの名を千年も万年も、永久に月の存在のつづく限り、笑ったり爪はじきしたりしてるのを、ちゃんと百も承知してると仮定しよう。しかし、きみはもうここにいて、ここから月の世界を眺めてるんだからね、きみが向こうで何をしたにしろ、また向こうの人間が千年万年つまはじきするにしろ、そんなことはここにいる以上、なんのかけかまいがあるものですか、そうじゃありませんか?」
「知りません」とキリーロフは答えた。「ぼくは月の世界にいたことがないから」いささかの皮肉もなく、ただ単なる事実表白のために、彼はこうつけ足した。
「あのさっきのはだれの子です?」
「あの婆さんの姑がよそから来たんです。いや姑じゃない、嫁だ……まあ、どっちでもいい、三日まえにね。ところが、子供といっしょに病気して臥《ね》てるんです。子供は夜になると無性に泣くんですよ、腹痛《はらいた》でね。母親は寝てる、しょうことなしに婆さんが連れて来るんです。で、ぼくは毬をもってね……毬はハンブルグから持って来ましたよ。ハンブルグで買ったんです、投げたり、つかまえたりしようと思ってね……背中を丈夫にしますから……女の子です」
「きみ、子供は好きですか?」
「好きです」とキリーロフは答えたが、それはかなり気のない調子だった。
「じゃ、きみは生活も愛してますね?」
「ええ、生活も愛してます、それがどうしたのです?」
「でも、自殺を決心してるとすれば」
「それがどうしたんです? なぜそれをいっしょにするんです? 生活は生活、あれはまたあれです。生活はあります。しかし、死というものはまるでありゃしない」
「きみは未来の永世を信じるようになったんですか?」
「いや、未来の永世じゃない、この世の永世です、一つの瞬間がある、その瞬間へ到達すると、時は忽然ととまってしまう、それでもう永世になってしまうのです」 
「きみはそういう瞬間へ到達しうると思いますか?」
「ええ」
「それはどうも現代じゃ不可能らしいね」と同じくいささかの皮肉もなく、ニコライは答えた。「黙示録の中で、一人の天使が、時はもはやなかるべし、と誓っていますがね」
「知っています。あれはまったく非常に正確な言葉です。明晰で的確です。完全な一個の人間が幸福を獲得した場合、時はもはやなくなってしまいます。必要がないですものね。非常に正確な思想です」
「いったいどこへ隠すんでしょう?」
「どこへも隠しゃしない。時は物件じゃなくて、思念ですからね。心の中で消えてしまう」
「古い哲学のきまり文句だ、開闢以来、相も変わらないもんだね」なんだか気むずかしげな憐憫の色を浮かべながら、スタヴローギンはつぶやいた。
「相も変わらない! 開闢以来、相も変わらない、ほかにけっしてありようがないです!」と、まるでこの観念の中に、立派な勝利でも含まれているように、キリーロフは目を輝かせつつさえぎった。
「キリーロフ君、きみは非常に幸福らしいですね?」
「ええ、非常に幸福です」と、彼はまるで平凡な日常茶飯事かなんぞのように答えた。
「しかし、きみはつい近ごろ非常に悲観して、リプーチンのことで腹をたててたじゃありませんか?」
「ふむ!………しかし、今は人を罵倒したりなんかしませんよ。あの時はまだ自分が幸福なことを知らなかったんです。きみは葉を見たことがありますか、木の葉を?」
「ありますよ」
「ぼくはついこのあいだ黄いろのを見ましたよ。もう青いところは少なくなって、ぐるりが枯れかかってるんです。風に飛ばされたんですね。ぼくは十ばかりの頃、冬わざと目をふさいで、葉脈の青々とくっきりした木の葉を想像してみた。陽がきらきら照ってるんです。それから目をあけて見たとき、なんだか本当にならないようでした。だって、実にいいんですものね。で、ぼくはまた目をふさぐ」
「それはなんです、比喩ででもあるんですか?」
「い……いや、なぜ? ぼく比喩なんか。ぼくはただ木の葉……ほんの木の葉のことをいっただけです。木の葉はいいもんです。何もかもいいです」
「何もかも?」
「何もかも。人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと、断じてそれだけです、断じて! それを自覚した者は、すぐ幸福になる、一瞬の間に。あの姑が死んで、女の子がたった一人取り残される、――それもすべていいことです。ぼくは忽然としてそれを発見した」
「人が飢死しても? 女の子を辱しめたり、けがしたりしても、――それでもやっぱりいいことなんですか?」
「いいことです。人が子供の敵討《かたきうち》に脳味噌をたたき潰しても、それでもやっぱりいい。また脳味噌をたたき潰さなくても、それもやはりいいことです。すべてがいい、すべてが! すべてがいいということを知ってる者は、すべてがいいのです。もし世の中の人が、自分たちにとってすべてがいいということを知ったら、すべてがよくなるんだけれど、彼らがすべて善なりということを知らないうちは、彼らにとってもいいことはないでしょう。それが全部の思想です。もうそのうえほかの思想なんかありゃしない!」
「きみは、いつ自分がそんなに幸福だってことに気がつきました?」
「先週の火曜日、いや、水曜日です。あの時はもう水曜になってたっけ。夜中だったから」
「どういう動機で?」
「おぼえていませんね。ただひょっこり、なんでも部屋の中を歩き廻っていたっけ……まあ、そんなことはどうでもいい。ぼくは時計をとめちゃった。なんでも二時三十七分のところでしたっけ」
「時はとどまらざるべからず、という象徴ですか?」
 キリーロフは黙っていた。
「世間の人は好くない」とつぜん彼はまたこういい出した。「それは、自分たちのいいことを知らないからです。もしそれを悟ったら、小さな女の子を辱しめなどしなくなるでしょう。みんな自分のいいことを知らなくちゃならない。そうすれば、みんなよくなるです、みんな一人残らず」
「ところが、きみはそれを悟ったから、きみはいい人なんですね?」
「ぼくはいいですよ」
「もっとも、それはぼくも同感ですね」とスタヴローギンは眉をひそめながらつぶやいた。
「すべて善しということを教える人は、この世界を完成する人です」
「それを教えた人は磔刑《はりつけ》にされたっけね」
「その人は必ずやって来る。その名は人神」
「神人?」
「人神、そこに区別がありますよ」
「ときにこの燈明をつけるのは、きみじゃありませんか?」
「そう、これはぼくがつけたんです」
「信心してるんですか?」
「あの婆さん、燈明をあげるのが好きで……ところが、今日ひまがなかったもんだから」とキリーロフはつぶやいた。
「きみは自身で祈祷しませんか?」
「ぼくはすべてのものに祈祷します。ほら、蜘蛛が壁を這ってるでしょう。ぼくはじっと見てるうちに、その這ってるのがありがたくなる……」
 彼の目は再び燃えてきた。彼はしじゅうしっかりした撓《たゆ》みない目つきで、じっとスタヴローギンを見つめていた。スタヴローギンは眉をひそめながら、気むずかしそうに相手を注視していたが、その眼ざしにはいささかの冷笑も見えなかった。
「ぼく誓ってもいいですよ、今度ぼくが来る時には、きみはもう神を信じるようになってるから」立ちあがって帽子を取りながら、彼はこういった。
「なぜ?」キリーロフも腰を浮かした。
「もしきみがね、自分で神を信じてるということを悟ったら、きみは実際信じたでしょうよ。しかし、きみはまだ神を信じてるということを悟らないから、つまり信じていない」とスタヴローギンはにやりと笑った。
「それは違う」じっと考え込んだ後、キリーロフはこう答えた。「それはぼくの思想を逆にしたのです。才子流の駄洒落です。スタヴローギン、きみがぼくの生涯にどんな意義をもっていたか、それを思い出してください」
「失敬、キリーロフ」
「夜分にまた来てください。いつ?」
「いったいきみは明日のことを忘れてやしませんか?」
「ああ、忘れてた。大丈夫、寝すごしゃしません。九時ですね。ぼくはいつでも、自分の起きたい時に起きられます。寝る時に、七時だぞといっておくと、七時に目がさめる。十時というと、十時に目がさめる」
「きみはふう変わりな特色をもってますね」スタヴローギンは相手のあおざめた顔を見つめた。
「ぼく行って門を開けましょう」
「それには及びません。シャートフが開けてくれます」
「ああ、シャートフ。じゃ、さようなら」

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 シャートフの住んでいるがらんとした家のあがり口は、鍵がかけてなかった。けれど、廊下へ入ってみると、まるで真の闇だった。スタヴローギンは手探りで、中二階へ登る階段をさがし始めた。と、急に上のほうの戸が開いて、あかりがさした。シャートフは自分では出て来ないで、部屋の戸だけ開けたのである。ニコライが部屋の閾に立ったとき、片隅のテーブルの傍に、待ち心で立っているあるじを見つけた。
「用事があって来たんですが、会ってくれますか?」と彼は閾の上からきいた。
「入ってお坐んなさい」とシャートフは答えた。「まあ、戸を閉めてください。いや、ぼく、自分でしましょう」
 彼は戸に鍵をかけて、テーブルの傍へ引っ返すと、ニコライの真正面に腰を下ろした。彼はこの一週間にだいぶ痩せが見えた。そして、今は熱でもありそうなふうであった。
「きみはぼくを苦しめましたね」と彼は伏目がちで、なかばささやくように口をきった。「どうして来なかったんです?」
「じゃ、きみは、ぼくがここへ来るものと確信してたんですか?」
「いや、ちょっと、ぼくは譫《うわ》ごとをいったんです……ひょっとしたら、今も譫ごとをいってるのかもしれない……ちょっと待ってください」
 彼は立ちあがり、三段になっている本棚の中で、一ばん上の端にのせてある一物を取りおろした。それはピストルだった。
「ある晩、ぼくは熱に浮かされましてね、きみが殺しに来そうに思われて仕方がないんです。で、翌朝はやく、例ののらくら先生のリャームシンを訪ねて、なけなしの金をほうり出して、このピストルを買ったんですよ。ぼくはきみにおくれを取りたくなかった。ところが、後で気がついてみると……火薬も弾丸も持ってないじゃありませんか。それ以来、そのまま棚の上にうっちゃらかしたままなんです。ちょっと待ってください……」
 彼は立ちあがって、窓の通風口を開けようとした。
「ほうるのはおよしなさい、なんだってそんなことを?」ニコライは押し止めた。「それだって売れば金になる。それに、明日になったら、人がいろんなことをいい出しますよ、シャートフの窓の下にピストルが転がっているって。さ、もとのところへのっけておきたまえ。そうそう。ところで、さっそくおたずねしますが、いまきみは、ぼくが殺しに来るだろうと考えたのを、なんとなくすまないと思っていられるようだが、いったいそれはどういうわけです? ぼくは今だって何も和睦に来たのじゃない。ただ必要なことを話しに来ただけですからね。まず第一にはっきりしてほしいのは、あのとききみがぼくを撲った原因ですよ。まさかきみの奥さんとぼくとの関係じゃないでしょう?」
「そのためでないということは、きみ自身も知ってるでしょう!」とシャートフは再び目を伏せた。
「じゃ、ダーリヤさんのことに関した馬鹿馬鹿しい流言を、信じたためでもないでしょうね?」
「違います、違います、むろん違います! ばかなことを! 妹は最初からぼくにうち明けていますよ……」とシャートフはほとんど地だんだふまないばかりの勢いで、じれったそうに声を尖らせた。
「じゃ、ぼくの想像は当たっていた。そして、きみの想像も当たっていたのです」とスタヴローギンは落ち着き払った調子でいった。「きみの想像のとおりです。マリヤ・レビャードキナは、ぼくの正妻です。四年半ばかり前に、ペテルブルグで立派にぼくと結婚式を挙げたのです。ねえ、きみはあれのためにぼくを撲ったんでしょう?」
 シャートフはまるで雷《らい》にでも打たれたように、一言も発せずに聴いていた。
「ぼく想像はしていたけれど、本当にできなかった」奇妙な目つきでスタヴローギンを見つめながら、ついにシャートフはつぶやいた。
「それで撲ったんですか?」
 シャートフは急にかっとなった。そして、ほとんど脈絡もなく、しどろもどろにつぶやき始めた。
「ぼくは、きみの堕落のために……きみの虚偽のために撲ったのです。しかし、ぼくがきみの傍へ近寄ったのは、あえてきみを罰しようというつもりじゃなかった。出て行った時には、撲ろうなどと、考えてもいなかった……ぼくがあんなことをしたのは、きみがぼくの生涯において実に意味ぶかい人だったからなんです……ぼくは……」
「わかった、わかった。どうか言葉を節してもらいたいですな。きみが熱に浮かされてるのは残念だ。実はごく大切な用件があるんですがね」
「ぼくはずいぶん長くきみを待ったですよ」まるで全身を慄わさないばかりにしながら、シャートフはこういって、また腰を浮かせかけた。「早くきみの用件を話してください。ぼくもやはりいいますから……後で……」
「その用件はまるで範疇が違うんですよ」とニコライは好奇の色を浮かべて、相手の顔をのぞき込むようにしながらいい出した。「ぼくはやむを得ない事情のために、今こういう時を選んできみのところへやって来て、ぜひとも注意しておかねばならなくなったのです。ねえ、きみはもしかしたら殺されるかもしれませんよ」
 シャートフはけうとい目をして、彼を見つめた。
「そういう危険がぼくを威嚇するおそれがあるのは、ぼくも知っています」と彼はなだらかにいった。「しかし、――きみがどうしてそれを知りえたのです?」
「それは、ぼくもやっぱりきみと同様に、あの連中に加わっているからさ。きみと同様に、あの会の会員だから」
「きみが……きみがあの会の会員だって?」
「ぼくはきみの目つきでちゃんとわかります。きみはぼくをどんなことでもしかねない人間と思っていたけれど、こればかりは思いもかけなかったのでしょう」とニコライはあるかないかの薄笑いを洩らした。「しかし、ちょっとききますが、じゃ、なんですね、きみは自分が狙われていることをもう知ってたんですね?」
「考えたこともありません。今だって、現在きみにそういわれても、やっぱり本当と考えられません。しかし……しかし、あの馬鹿者どもにかかったら、どんなことにでもなりかねない!」拳固でテーブルを撲りつけながら、ふいに凄まじい勢いで彼はこう叫んだ。「ぼくはあんなやつら恐ろしくない! ぼくはあいつらと縁を切ったんだ! もっとも、あの男が四へんもぼくのところへ駆けつけて、大いに……」と彼はスタヴローギンを見やった。「あり得ることだとはいってたけれど。で、いったいこのことについて、きみはどういうことを知ってるんです?」
「心配ご無用、ぼくはきみをだましたりなんかしやしません」単に自分の義務のみ果たそうとする人のように、かなり冷淡な調子で、スタヴローギンは言葉をつづけた。「きみはぼくがどういうことを知ってるか、それを試験しようとするんですね? ぼくはこれだけのことを知っています、きみは二年前、外国であの会へ入ったでしょう、それはあの会の組織が変わらないさきのことでした。ちょうどきみのアメリカ行きの前、例のぼくら二人が話し合ってから間もなくのことらしいですね。あの話のことは、きみがアメリカからよこした手紙にも、ずいぶん書いてありましたっけ。ああ、手紙といえば、悪かったですね、ぼくはあのとき同じように手紙で答えないで、ただ単に……」
「送金だけですましたんですか。お待ちなさい」とシャートフは相手をおし止め、忙しげにテーブルの抽斗をあけて、書類の間から一枚の虹色|紙幣《さつ》([#割り注]百ルーブリ[#割り注終わり])を取り出した。「さあ、受け取ってください。きみの送ってくれた百ルーブリです。きみという人がなかったら、ぼくはもう駄目になるところでした。この金はまだ近いうちに返せるはずじゃなかったけれど、幸いきみのお母さんのおかげでね。九か月まえぼくの病後に、困るだろうといって恵んでくだすったのです。しかし、どうか次を話してください……」
アメリカできみは思想を一変して、スイスへ帰って来ると、退会を申し込んだのです。ところが、会のほうではうんともすんとも答えないで、かえって、ロシヤヘ帰ったらこの町である人からある活版の機械を受け取って、会から人が引き取りに来るまで預っているように命ぜられた。ぼくはすべてを完全、正確に知ってるわけじゃないが、大体こんなふうだったのでしょう? きみはこれが彼らの最後の要求で、これがすんだら綺麗に放してくれるだろうと当てにして(或いはそういう条件だったかもしれない)、とにかく引き受けたのです。今いったことは、みんな本当か嘘か知らないが、それをぼくが知ったのは、あの連中の口からではなく、まったく偶然なことだったのです。しかし、たった一つだけ、きみも今まで知らないことがあるらしい、――あの先生たちはまるできみと別れる気なんかないのです」
「それは馬鹿げた話だ!」とシャートフは叫んだ。「ぼくはすべての点で彼らと見解を異にしていると、立派に宣告したじゃないか! これはぼくの権利だ、良心と思想の権利だ……ぼくはもう我慢ができない! もうこのうえ…」
「ねえ、きみ、そんなにどなるもんじゃありませんよ」とニコライは大真面目で彼を押し止めた。「ヴェルホーヴェンスキイはああいうたちの人間だから、自分で来るか人の耳を借りるかして、今もぼくらの話を立ち聴きしてるかもしれませんよ。ことによったら、きみの家の廊下でね。あの飲んだくれのレビャードキンでさえ、きみに対する監視の義務をもっていたといってもいいくらいなんですからね。しかし、きみもあの男に対して、そういう地位に立ったんじゃありませんか、そうでしょう! それよりまあ伺いましょう、ヴェルホーヴェンスキイはいまきみの論点に同意してるんですか、どうです?」
「同意してるんです。あの男はそれはできる、きみには権利がある……とそういっていました」
「ふん、それはただそういって、きみをだましてるんです。ぼくの知ってるところでは、ほとんどこのことに無関係なキリーロフでさえ、きみに関する報告を提供してるんですからね。あの連中には手先がたくさんあります。中には、あの会のご用を勤めていることを、自分で知らないような廻し者さえあるんですよ。きみはいつも監視を受けてたんです。ヴェルホーヴェンスキイがここへ来たのは、いろいろ用事のあるうちでも、きみの事件をすっかり片づけるのが主なのです。そして、それに対する全権を帯びているのです。つまり、ほかじゃありませんが、都合のいい時機を見計らって、きみを、あまりに多くのことを知り、かつ密告のおそれある人物として、殺してしまおうというのです。くり返していいますが、これは確かな事実ですよ。それから、もう一つつけ足さしてもらいましょう。あの連中はなぜだか、きみが廻し者で、たとえ今まで密告しなかったにせよ、将来かならず密告するものと、堅く信じきっています。いったいそれは本当ですか?」
 こういう平気な調子で発しられたこの問いを聞いて、シャートフは口を曲げた。
「もしぼくが廻し者だとすれば、いったいだれに密告するんだ?」直接問いには答えないで、彼は憎々しげにこういった。「いや、もうかまわないでください、ぼくのことなんかどうだっていいです!」と、ふいにまた最初の想念に躍りかかりながら、彼は叫んだ。あらゆる徴候から察するところ、この想念は自分自身の危険に関する報知よりも、さらに烈しく彼の心を震撼したものらしい。「きみ、きみ、スタヴローギン、いったいきみはどうしてあんな破廉恥で無能な、下司ばった、ばかばかしい仕事にかかり合う気になったんです! きみが、あの会の会員ですって! それがまあ、ニコライ・スタヴローギンの仕事ですか?」と彼はほとんど絶望したように叫んだ。
 彼は手さえぱちりと鳴らした、まるで自分にとってこれ以上悲しい、いたましい発見はないかのように。
「いや、ごめんください」と実際ニコライは面くらってしまった。「しかし、きみはまるでぼくを太陽かなんぞのように考えて、きみ自身という人をぼくに比較すると、ほとんど虫けら扱いにしてるようじゃありませんか。この事実は、きみがアメリカからよこした手紙によっても、明らかに見てとることができましたよ」
「きみ……きみはご承知でしょうか……いや、もうぼくのことなんかすっかり、すっかりやめてしまったほうがいい!」と、ふいにシャートフは語をきった。「もしきみが、きみ自身について何か説明ができるなら、早く説明してください……ぼくの問いに答えてください!」と彼は熱に浮かされながらくり返した。
「いいですとも。まずどうしてぼくがあんな穢らわしい仲間にかかり合ったか、とこういう質問なんですね? ぼくもああいう事実をきみに通告したうえは、多少ともこの件についてうち明けたお話をするのが、義務だとさえ考えてるんですよ。いいですか、ぼくは厳正な意味において、全然あの会に属していないんです。また以前とても属してはいなかった。だから、きみより以上に脱会の権利を持っています。なぜって、初めから入会しなかったんだから。それどころか、ぼくは初めからちゃんと宣言してあるんです、ぼくはあの連中の仲間じゃないってね。たまたま手を貸したことがあるとすれば、それはただ閑人としての仕事だったのです。ぼくは、あの会が新しい計画によって組織の変更をしたとき、ちょっとそれに関係しただけなんです、それっきりです。ところが、今あの連中は考えを変えて、ぼくという人間もやはり手放しては危険だと、内々決議した。だから、ぼくも同じ宣告を受けているらしいんです」
「おお、やつらはなんでもかでも死刑です、なんでもかでも指令で決まるんです。何かの紙切れに印を捺して、三人半ばかりの人間が署名するんだ! で、きみはやつらにそんなことができるとお思いですか?」
「きみのいうことはなかば正しく、なかば違っていますね」スタヴローギンは相変わらず気のない調子で、むしろ大儀そうに言葉を次いだ。「そりゃ、いつでもこういう場合に見受けられるように、愚にもつかない空想がたぶんに含まれてるのはもちろんです。一塊りぐらいの人間が、その発達や勢力を誇張して考えてるんですよ。遠慮なくいわしてもらうと、あの連中の仲間は、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイ一人きりなんです。ところが、当のあの男さえ、自分はある会の代表者にすぎないと、こんなことを考えてるほどのお人好しなんですからね。しかし、根本の理想は、他の同種類のものに比較すると、いくぶん気が利いているようです。あの連中は、インターナショナルと連絡を保って、ロシヤ各地へ巧みに代表者を置いたものです。しかも、ずいぶん奇抜な方法を考えついたようですが……しかし、もちろん、理論のみにとどまっている。ところで、この土地における彼らの計画はどうかというと、わがロシヤではそうした結社運動が実に曖眛で、人の意表外に出るから、まったくのところ、ロシヤではなんでもやってみることができますよ。きみも気がついたでしょうが、ヴェルホーヴェンスキイは執念ぶかい男ですからね」
「あいつは南京虫だ、下司だ、ロシヤのことをなに一つ知らない馬鹿者だ!」とシャートフは毒々しく叫んだ。
「きみはあの男をよく知らないのです。そりゃ全体として、あの連中がロシヤについて知るところが少ないのは事実だが、しかし、きみやぼくよりほんの少しばかり、知り方が少ないというだけのこってすよ。それに、ヴェルホーヴェンスキイは熱情家ですよ」
「ヴェルホーヴェンスキイが熱情家ですって?」
「ええ、そうですとも。ある一つの点があって、それを踏み越えると、もうあの男は道化じゃなくなって、その……半きちがいになるのです。『一人の力がいかに偉大なるかをきみは知りたもうや?』といったきみ自身の言葉を思い出したらいいでしょう。どうか、笑わないでくれたまえ。あの男はいざとなったら、引き金を下ろす力をもってるんだから。あの連中はぼくを廻し者と信じ切っています。あの連中はだれもかれも、自分でうまく仕事を運ぶ腕がないものだから、人を間諜よばわりするのが、恐ろしく好きなんですよ」
「しかし、きみは恐ろしくないですか?」
「い、いや……ぼくは大して恐ろしくないです……しかし、きみの場合は全然べつです。とにかく、ぼくはきみがこのことを頭におくように、前もって注意しておきますよ。ぼくにいわせれば、馬鹿者どものために危険が迫ったからって、憤慨する必要は少しもありません。問題は彼らの賢愚いかんにあるのじゃないですからね。きみやぼくどころじゃない、まだまだ立派な人たちにも、彼らは謀計をめぐらしてるんですよ。あっ、もう十一時十五分だ」彼は時計を眺めて立ちあがった。「しかし、ぼくは一つきみに、まるっきり筋の違った質問を提出したいんですがね」
「どうかお願いです!」と叫んでシャートフは凄まじい勢いで躍りあがった。
「というと?」ニコライはけげんそうに見やった。
「提出してください、きみの質問を提出してください、お願いです」名状し難い興奮の体で、シャートフはくり返した。「ただし、ぼくもきみに別な質問を提出する、という条件つきですよ。お願いだから、そいつを許してください……ああ、ぼくは駄目だ……早くきみの質問をしてください!」
 スタヴローギンはいっとき控えていたが、やがて口をきった。
「ぼくの聞いたところでは、ここできみはあのマリヤ・チモフェーヴナに一種の感化力を持っていて、あれもきみに会って話を聞くのを楽しんでいたそうですね。本当ですか?」
「ええ、聞いていましたよ……」とシャートフはちょっとまごついた。
「ぼくは二、三日のうちに、あれとぼくとの結婚を、この町で公けに披露しようというつもりなんです」
「いったいそんなことができるものですか?」シャートフはぎょっとしたようにこうつぶやいた。
「というと、どういう意味で? 何もむずかしいことはないでしょう。結婚の証人はここにいるじゃありませんか。それはあのときペテルブルグでゆっくり落ち着いて、完全に公定の手続きを踏んでやったことですからね。今までそれが世間へ知れなかったのは、この結婚のたった二人の証人、つまりキリーロフとヴェルホーヴェンスキイ、そしていま一人、当のレビャードキン(これがいまありがたいことには、ぼくの親戚ということになってるのです)、この三人が当時沈黙を守ると、約束したためにすぎないのです」
「ぼくがいうのはそれじゃない……きみはよくそんなに落ち着き払って話せますね……しかし、次をおっしゃい! いや、ちょっと、きみは何もこの結婚を、力ずくで強制されたんじゃないでしょう、ね、そうじゃないでしょう?」
「違います、だれもぼくを力ずくで強制したものはありません」シャートフの突っかかるようなせき込み方を見て、ニコライはにやりと笑った。
「じゃ、どういうわけであのひとは、自分の生んだ赤ん坊のことなんかいってるんです?」熱に浮かされて脈絡もなく、シャートフはせき込んでこうたずねた。
「自分の生んだ赤ん坊のことをいってる? へえ! 知らなかった。初耳ですねえ。あれには赤ん坊なぞなかった、またあるべきはずがない。マリヤは処女ですからね」
「ああ! ぼくもそうだろうと思った。まあ、聞いてください!」
「シャートフ、きみはいったいどうしたんです?」
 シャートフは両手で顔をおおいながら、くるりと横を向いたが、出しぬけにしっかりとスタヴローギンの肩をつかんだ。
「ねえ、きみ、ねえ、なんといっても、きみ自身にはわかってるでしょう」と彼は叫んだ「なんの[#「叫んだ「なんの」はママ]ためにきみはこんなことを仕出かしたんです。そして、なんのために今そんな刑罰を受けようと、決心したのです?」
「きみの質問は気が利いて、皮肉だね。しかし、ぼくもやはりきみをびっくりさしてあげるつもりですよ。ええ、なんのためにぼくがあのとき結婚したか、またなんのためにいまきみのいわゆる『そんな刑罰』を受けようと決心したか、ぼくには大抵わかっています」
「いや、このことはやめましょう……このことは後にしましょう。ちょっと話すのを控えてください。それより肝腎のことを話しましょう、肝腎のことを。ぼくは二年のあいだきみを待っていました」
「そうですか?」
「ぼくはもうずっと前からきみを待っていました、絶えずきみのことを考えていました。きみはその……あれを成し遂げうる唯一の人です。ぼくはまだアメリカにいた頃、このことをきみに書いてあげました」
「ぼくもきみのあの長い手紙のことは、よく覚えています」
「しまいまで読み通すのに長すぎる? もっともです。書簡紙六枚ありましたからね。黙ってらっしゃい。黙ってらっしゃい! 一つおたずねしますが、きみはもう十分だけぼくのために時をさくことができますか、今、今すぐに……ぼくはあまりに長くきみを待ってたのです!」
「さあ、どうぞ。もう三十分割愛しましょう。しかし、それ以上は駄目ですよ。もしそれでお間に合えば」
「ただし」シャートフは猛然として引き取った。「きみのその調子を変えていただきたいのです。いいですか、ぼくは、実際、哀願しなくちゃならない地位にありながら、これを要求するのです……え、わかりますか、哀願しなくちゃならないのに、要求するということは、そもそも何を意味するのでしょう?」
「わかりますよ。そういうふうにして、きみはいっさいの日常茶飯事から超絶しようというんでしょう。より高遠な目的のためにね」ほんの心もちニコライは微笑した。「同時に、きみが熱に浮かされているのを見て、ぼくははなはだ悲しく思いますよ」
「ぼくは自分に対して尊敬を求めます、いや、強要します!」とシャートフは叫んだ。「しかし、それはぼくの人格に対してじゃありません、――そんなものはどうだっていい、――まるで別なものです。今こうしている間だけでいいです、ぼくのある言葉に対してね……われわれは二つの存在です、それが無限の中に相会したのです……宇宙あって以来、最後の会見です。さあ、きみのその調子を捨てて、人間らしい調子でお話しなさい! せめて一生に一度でも、人間らしい声でものをおいいなさい。ぼくはけっして自分のためじゃない、きみのためにいってるんですよ。いいですか、ぼくがきみの頬を打ったとき、自分の無限な力を感ずる機会をきみに与えた、この一つの理由だけでも、きみはぼくをゆるしてくれるべきです……またきみは例の気むずかしそうな、社交紳士的な笑い方をしてますね。おお、いつになったらぼくを了解してくれるんです! 若様根性は断然すてておしまいなさい。ぼくがこれを要求してるという心持を了解してください。でなくちゃ、ぼくはもう話すのもいやだ、どんなことがあったっていいやしない!」
 彼は激昂のあまり、ほとんどうなされてでもいるような有様だった。ニコライは眉をひそめて、いくぶん大事をとり始めたふうだった。
「ねえ、いまぼくにとって非常な大切な時を割いて」と彼はいい含めるような、真面目な調子で切り出した。「もう三十分ほどきみのところに居残ろうと決心したのは、実際、少なくも、興味をもってきみの話を聞く意志があるからですよ。そして……いろいろきみから珍しいことが聞けると、信じているからですよ」
 彼は椅子に腰を下ろした。
「お坐んなさい!」とシャートフはどなって、妙に出しぬけに自分でも腰を下ろした。
「失礼ですが、ちょっと注意しますよ」とスタヴローギンはまた急に思い出していった。「ぼくはマリヤのことについて、きみに一つ依頼を持ち出しかけたんですがね。少なくとも、あの女にとって非常に重大なことです……」
「で?」とシャートフはふいに顔をしかめた。一ばん肝腎なところで話の腰を折られたので、相手を眺めてはいるけれど、まだその間《かん》の意味を会得する暇がない、といったような顔つきをしていた。
「ところが、きみはそれをしまいまでいわしてくれなかったのです」とニコライは微笑を浮かべながらつけ足した。
「ええ、つまらんことを、後でいい!」やっとのことで相手の要求を了解すると、シャートフは気むずかしそうに片手を振って、さっそく自分の話の眼目に移った。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

「あなたわかりますか」目をぎらぎらと輝かしながら、右手の人差指を目の前にさし上げて(自分でもこれに気がつかないらしい)、椅子に腰かけたまま前へ乗り出しつつ、彼はほとんど威嚇するような調子でいい出した。「あなたわかりますか、今この地上において、新しき神の名によって世界を更新し救済すべき、唯一の『神を孕める』国民はだれでしょう? いのちと新しき言葉の鍵を与えられた唯一の国民はだれでしょう……きみはこの国民が何者かわかりますか、そして、その名をなんというかわかりますか?」
「きみの態度から察しると、ぼくはぜひとも、そして、できるだけ迅速に、それはロシヤ国民だと、結論しなくちゃならないようですね……」
「きみはもう茶化してるんですね、おお、なんという情けない人たちだ!」とシャートフは猛り始めた。
「まあ、落ち着いてください、後生だから。それどころか、ぼくは初めから、そんなふうの話を期待してたんですよ」
「そんなふうの話を期待してた? いったいきみ自身この言葉におぼえはないのですか?」
「大いにあります。きみが何をいおうと思ってるかは、ぼくには明瞭すぎるくらい見え透いています。きみの文句は『神を孕める』国民という表現にいたるまで、二年あまり前、きみがアメリカヘたつ間際に、外国で交換した二人の議論の、単なる結論にすぎないのですよ。少なくも、いまぼくの思い起こしうる限りではね」
「これはきみのいった言葉そっくりそのままなんです。ぼくのいったことじゃありません。みんなきみ一人のいったことで、二人の話の結論じゃありません。『二人』の話なぞはてんでなかった。偉大な言葉を告げる師匠と、死から甦った弟子があったばかりです。ぼくがその弟子、きみがその師匠だったのです」
「しかし、今おもい出せる限りでは、きみがあの会へ入ったのは、ぼくの話を聞いてからで、アメリカへ渡ったのはその後でしょう」
「そうです。だが、ぼくもそのことはアメリカから、手紙できみに知らせましたよ。何もかも書きましたよ。まったく子供の時分から根を下ろして育った地盤を、血の滲むような思いをしてまで、すぐさまもぎ放すことが容易にできなかったのです。なにしろぼくの希望の歓びもぼくの憎悪の涙も、それ一つにかかってたんですからね……神を取り替えるのはむずかしいことですよ。ぼくはあのとききみの言葉を信じなかった。信じたくなかったからです。そして、ここを最後とばかり、あの腐った溝《どぶ》にしがみついたのです……しかし、種は残って生長しました。真面目に、本当に真面目にいってください、――きみはアメリカから送ったぼくの手紙を、しまいまで読まなかったのですか? ひょっとしたら、まるっきり読まなかったかもしれませんね?」
「ぼくはあのうち三ページだけ読みましたよ。初めの二ページと終わりの一ページと……それに、中のほうもざっと目をとおしたっけ。もっとも、ぼくはしじゅう読もうとは思って……」
「ええ、どっちだって同じこってす、やめてください、勝手になさい!」とシャートフは手を振った。「もしきみが今になって、あの時の国民に関する言葉を否定してるとすれば、どうしてあの時あんな言葉を発することができたのでしょう、それがいまぼくの心を圧してやまない問題なのです」
「ぼくはけっしてあのとききみをつかまえて、冗談をいったのじゃない。きみを説伏しようとすると同時に、ぼくはむしろ自分のことを心配したかもしれませんよ」とスタヴローギンは謎めいた調子でいった。
「冗談をいったのじゃないって! ぼくはアメリカで三か月間ある一人の……不幸な男と枕を並べて、藁の上に寝てたのです。その男の口から聞いたのですが、きみはぼくの心に神と故郷《ふるさと》を植えつけたのと同じ頃、いや、もしかしたら、まったく同じ時かもしれない、――その男の、つまり、あの気ちが