京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

「地下鉄サリン事件 共犯被告の検事調書の要旨」(作成日不明、『オウム法廷』5巻)

地下鉄サリン事件 共犯被告の検事調書の要旨】
新実智光被告〕
 サリンを製造したのは土谷(正実被告)とそのグループと思う。各地下鉄に毒ガスを撒いたメンバーは計九人で五ヵ所で発散した。申し訳ないことをした。(注 たったこれだけだった)

〔外崎清隆被告〕
(事件の前日の)
 一九九五年三月十九日正午過ぎ、第六サティアンで、村井(秀夫元幹部)とばったり会った。七時までに渋谷に行ってくれ、と言われた。手帳にミラレパ(新実被告の宗教名)、ローマ(外崎被告の宗教名ローマサキャンギャの省略)云々とあり、このメンバーだと言われた。七時にミラレパの携帯に電話をする、ということだった。
 ミラレパに会って、七時までに渋谷に行くように言われたことを伝え、(諜報省のメンバーである)高橋克也(容疑者=逃走中)を除くメンバーで出掛けることにした。ヴィクトリー棟で北村(浩一被告)に会って、村井から渡されたメモを見せて説明した。杉本(繁郎被告)を探したが見つからないので、ミラレパに出るころになって相談すると、いない者はしようがないと言った。四時ころ、渋谷の東急通りを過ぎたところで駐車中、新実が携帯で電話をすると、八時ぐらいまでかかるというので、青山の東京総本部で北村とお茶を飲んで、高橋と待ち合わせをすることにしたが、高橋はこず、北村と一緒に渋谷に向かった。
 渋谷に行くと、(事件に関係するメンバーは)十人になっていて、井上(嘉浩被告)が来て説明した。朝の六時ごろ出て、(実行後は)やはりこっちの方に来てもらおう、ということになった。また山梨ナンバーではまずいので東京ナンバーの車で、ということで、林泰男らと車を取りに行った。井上は説明のあと、そろそろ下見をと言った。
 そこで(横山真人被告と)二人で新宿へ行くためギャランに乗り込んだ。四ツ谷に行く途中、サリンは揮発性が強いから、私が倒れたら注射を打ってくれ、と言われた。私も四ツ谷駅の出入り口の数などを下見した。電車を確かめたあと横山が出てきたので、四ツ谷で乗せた。
 私は林泰男にもう一度上九へと言われて、科学技術省の者を乗せて上九へ行った。豊田(亨被告)か誰かが(渋谷アジトのある)マンションの部屋にサリンを持ち込んだ。午前五時五十分ごろ起きた。科学技術省の四人がサラリーマンのような格好をしていた。アーナンダ(井上被告)はまたあれだから出掛けるか、と言ったので出掛けた。午前七時前に新宿の小田急に着き、横山は車から降りていった。四ツ谷駅では八時十五分を過ぎても横山が戻ってこなかった。車から出ようとすると、そこへ横山が戻ってきて、荷台に入れものと傘を投げ入れたので渋谷に向かった。マンションの玄関前に止めて、部屋に行った。このとき、広瀬、北村を除いて全員が帰っていて、誰かが治療を受けていた。テレビで様子を見た。みんなで黙って見ていたが、井上が黙ってテレビを消した。

遠藤誠一被告〕
 三月十七日夜、尊師の家に呼ばれ、ステージ昇進のお祝いがあるので、識華(教団経営の東京都杉並区高円寺にあった飲食店)へ行った。尊師のご家族のほか、村井、井上、I(教団法皇官房の実質的トップ)らがいた。(会合を終えて)ロールスロイスで上九へ戻る車中、三人ずつで向かい合って座っていたが、マンジュシュリー正大師(村井元幹部)の肩越しに尊師が「ジーヴァカ(遠藤被告)、サリンを作れるか」と言った。それまでの話は聞いていなかったが、厚生省のメンバーで出来るか、という意味だと思い、クシティガルバ師(土谷被告)が教えてくれるのとその他の条件がそろえば出来ます、と答えた。
 十八日昼過ぎ、村井からヴァジラティッサ師(中川被告)が行くと連絡があり、ヴァジラティッサ師が一人で来て、「持ってきたぞ、ジフロだ」と容器を見せた。ジフロ(メチルホスホン酸ジフロライド)がサリンの原料であることは知っていた。ただ、私はジクロ(メチルホスホン酸ジクロライド)がないとサリンは作れないのではないかと思っていたが、ヴァジラティッサ師はジフロだけで作れるんじゃないかと言った。
 それからクシティガルバ師のところへ行って、ジフロを見せて分析して作ってくれと言った。それから尊師の部屋に行くとマンジュシュリー正大師がいて、「ジーヴァカ師、サリンを作れ」と言った。二十日までに早く作れということだった。それで再びクシティガルバ師の所へ行くと、「僕の所はドラフト(強制排気装置)の吸引力が弱くて作れない」と断られたので、やはり自分で作るしかないと思った。そこで、自分の部屋に薬品をそろえ、十九日の夕方だったと思うが、田下にも手伝わせて作った。クシティガルバ師、ヴァジラティッサ師も手伝ってくれた。ジフロは一・四キログラムあった。クシティガルバ師が書いたプロトコルのメモをもとに三ツロフラスコを使った。ヘキサンを二キログラム使ったが、あとはどのくらいか分からない。
 クシティガルバ師が滴下はゆっくりやらないといけない、と言い、反応の様子を見て、GCMS(ガスクロマトグラフィー資料分析器)で分析し、ゆっくりと温度をあげた。クシティガルバ師の言うとおりにヴァジラティッサ師がドラフトルームで作業を行い、沈殿物が出来たので攪拌して三ツ口フラスコで透明部分と沈殿部分を分けた。クシティガルバ師がサンプリングしてGCMSで分析したところ両方とも出来ている、ということだった。
 そこでマンジュシュリー正大師のところへ行って、どうしたらいいか、と尋ねた。分留には半日から一日かかるので二十日の夜までかかってしまうということだったからだ。それから尊師のところへ行き、「出来ましたが、混合物です」と言うと、「いいよ、それで」と言った。
 そこでバラのビニール袋と段ボール箱を探したが、ヴァジラティッサ師が厚手のビニール袋を持ってきて、マンジュシュリー正大師にそれにサリンを入れろ、と指示された、と言っていた。二種類あるうち、より小さいビニール袋にサリンを入れた。クシティガルバ師から沈殿物濾過の方法を教えられていたので、液体の濾過をし、耐熱ガラス瓶の五・五リットルの目盛りより多く入れたので総計五・五から六リットルだと思う。
 ヴァジラティッサ師の持ってきたビニール袋に、吸入器で注入した。袋の大きさは二〇~二五センチ。とくに大きさの指示はなかったが、目分量で三分の二ぐらいずつ入れて、十一のビニール袋が出来た。
 入れ終わったとき、マンジュシュリー正大師に報告し、袋を見せると、正大師は二重にしてくれ、と言ったので、ヴァジラティッサ師と二重にする作業をした。
 十一袋を二重にして部屋にあった段ボール箱に入れ、マンジュシュリー正大師に渡し、中の袋を見せた。その後、マンジュシュリー正大師から電話があって、水が入ったものを五、六個持って来てくれ、と言われた。五、六個作って第七サティアンヘ持っていった。
 渡してジーヴァカ棟に戻ろうとしたとき、マンジュシュリー正大師が薬、薬と言ったので、私は急いでヴァジラティッサ師から(解毒剤を)もらってきた。

土谷正実被告〕
 出家後、村井から爆薬の研究をしろといわれて、ロシアでレクチャーを受けた。
 村井から化学兵器の防御ということを聞いた。防御のための軍事力を持つということで、攻撃されたときのためにその特性を知る必要がある、ということだった。日本は天変地異が起きると無秩序の状態になるので、(教団が)軍事力を持つ必要がある、ということだった。化学兵器のうち、実験のしやすさ、製造工程の観点から、サリンを選んで合成実験をした。
 九三年七月ごろからサリン合成の論文を集め、クシティガルバ棟が出来てから、サリンの製造を始めた。第一~五工程の方法を採用し、最初二〇グラムに成功した。十一月ごろで、その下旬には一キロ。さらに五キロから二〇キロの合成をした。
 九五年三月十八日、遠藤さんから電話があり、ちょっと来て下さいということだった。ジーヴァカ棟に行くと、その場でクーラーボックスからテフロン容器を出し、五〇〇ミリリットルから一リットルぐらいのジフロからサリンを作らねばいけない、出来るか、と聞かれた。ジクロがあれば、と言うと、ないからジフロから作る方法と、ジフロの分析を、と言われ、棟に持ち帰ってGCMSで分析した。ヘキサンを媒介にしてジエチルアミンと反応させる方法を考え、ヴァジラティッサ師が来たので、クーラーボックスと合成方法のメモを渡した。
 遠藤さんが来て、君のところで出来るか、と聞かれた。しかし、私のところの排気能力が低いことと、他の実験を用意していたので出来なかった。十八日、ジェチルアミンは使わずにトリエチルアミンの方法はないか、と言われて教えてあげた。
 十九日早朝、遠藤さんらが薬を取りに来て、結局ジエチルアミンを使うことになった。数時間後、ちょっと見てくれ、と遠藤さんから電話があって、セットの具合を見ていると、その場で遠藤さんがアルコールを入れたので、バルブの調整をした。
 十九日の昼ごろ、沈殿が出来た、というので、フッ化水素の沈殿が出来ていると考えて温度を上げることにした。
 十九日の夕方、沈殿が生じたと遠藤さんから連絡があったが、ごく微量で沈殿物が見える状態なので、サンプリングをし、GCMSで分析するとサリンが出来ていた。電話で遠藤さんに伝えた。滴下が終わったら見てくれというので熟成させる必要がある、とアドバイスした。フラスコの中は半々で、透明とそうでないのと二層になっていた。遠藤さんにジエチルアミンなどの不純物が出来ていると言うと、中川さんが分留にどのくらいかかるか、と尋ねるので、一日ぐらいと答えた。いつまでに必要か、と聞くと、遠藤さんが今日中と言うので、無理ですね、と答えた。
 それから後でまた見てくれと言われ、ヴァジラティッサ師が持ってきたものを分析したところサリンが出来ていた。

中川智正被告〕
 九五年一月一日の後、第一上九で井上君が読売新聞の朝刊を見せてくれた。私は捜査が進んでいるなら、オウムが大量にサリン原料を購入していることを警察は知っている、と考えて、サリンプラントの第七サティアンとクシティガルバ棟へ行った。土谷君がスーパーハウスのドラフトのところで、中間生成物を中和処理しているところで明らかにサリンの中毒症状を起こしていた。そこで私が放置されていたドラフト内の中和処理の作業を引き継いだ。二〇リットルぐらいの容器に七、八割サリンがあるもの、二割ぐらい入っているものがあったほか、ジフロライドが一リットル入っている容器、他に数個の容器やフラスコがあった。
 そこで私はジフロライドが一リットル入ったものをどこかに保管しようと思った。作るのには時間がかかるが、新聞によれば、捜索で設備は押収されて、作れなくなってしまう。そこで二五×三〇センチぐらいのクーラーボックスに入れ、第二上九の敷地内に隠した。九五年一月三日から四日ごろだ。その後、マンジュシュリー正大師にだけ、ジフロ一リットルを隠していることを伝えた。
 三月十八日ごろだと思うが、出来るだけ早くサリンを作ってくれ、作れるだけ作れ、という話があった。たぶんこのとき、村井さんから地下鉄に使うと聞いたと思う。
 しばらくして遠藤さんが持ってきてくれというので、ジフロを使ってサリンを作れという指示がある、という意味とすぐに分かった。ジフロを第二上九の敷地内から持ってきて遠藤さんに渡した。遠藤さんは、「えっ、ジクロないの」と言った。ないんです、これでやるしかない、と私は言った。
 私と遠藤さんとの間で意見の違いがあり、ジエチルアミン、ヘキサンを遠藤さんが主張し、私はイソプロピルアルコールだけで出来る、と主張した。遠藤さんが土谷君に相談して、遠藤さんの方法を取った。このとき土谷君には物質収支を書くことを頼んでおいた。設備は私と遠藤さんでやることにした。また、村井さんから電話があり、第七サティアンヘ行くと、これを持っていって、と大きなビニール袋と段ボール箱を渡された。
 三月十九日の夕方、ジーヴァカ棟でサリン生成の作業をした。十リットルのフラスコを使い、ジフロにアルコールを滴下すると反応が起きたので加熱したところ、二層の液が出来た。土谷君に分析を頼み、遠藤さんが出来ているようだと報告した。
 このほか、ビニール袋を十五、六個作ってくれ、と言われ、私が作った。
 サリンが出来て袋詰めした。十リットルの三ツロフラスコの半分ぐらいで袋は十一袋あった。袋詰めしたのは二十日午前零時までに終わった。遠藤さんから二重にと言われて、二重にする作業をした。それを遠藤さんがどこかへ持っていった。
 後片づけをしていると、遠藤さんが薬を取りにきた。メスチノン錠五錠を渡した。アルミ箔でパッケージしたものだった。