京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

「松本智津夫被告 Oさん殺害事件についての供述調書の要旨」(1995年6月29日~7月11日作成、『オウム法廷』8巻)

松本智津夫被告 Oさん殺害事件についての供述調書の要旨】
 ●1995年6月29日付 警察官調書(Oさん殺害に至る経緯)
 私は、オウム真理教元信者Oを殺害した罪で、六月十四日逮捕されたオウム真理教教祖です。私がこの事件を話す気持ちになったのは、事件に関与した責任ある者はその行動範囲内で、責任ない者はない者として処理していただきたいと思ったからです。オウム真理教の弟子・信者の間では、私のことを尊師と呼んでおります。この書類の中では、自分のことは「私」といって説明します。弟子達の会話の中で「尊師」と出てくれば、それは私のことを言っているのです。
 O君はAHI(オウム真理教附属医院)の薬剤師として勤務していたことがあり、九二年と九三年の私の見る極厳修行に失敗したので、ホーリーネームはついていないと思います。○○君は音楽班にいた在家信者で、信者間のセックスの戒律違反を二回起こしたことのある人です。
 ホーリーネームとは、私から与えられた祝福された名前のことで、オウム真理教信者間ではホーリーネームで呼び合っております。私も弟子達のことをホーリーネームで呼びます。
 事件のことについて話します。昨年一月か二月の寒い日ということはわかりますが、日にちまでは覚えておりません。上九にあるオウム真理教施設の第六サティアンと呼ばれる一階寝室で寝ておりました。「尊師」と私を呼ぶ声で目を覚ましました。今、私を起こした者は誰か思い出せませんが、ミラレパ(新実智光被告)、アーナンダ(井上嘉浩被告)、メッタジ(越川真一被告)、ガンポパ(杉本繁郎被告)のいずれかだと思います。私が「どうした?」とその者に聞くと、その者は「O、○○の二人が、○○のお母さんを拉致するため侵入してきました。二人は捕らえましたが、火炎瓶を投げられ三階が火事になりました。何人かのサマナが怪我をしました。今、二人を第二サティアンに連れていっております。来て下さい」ということでした。
 私はご承知の通り、目が見えないので、歩くときは誘導者を付けております。普段はドゥルガー=私の長女、ウマー・パールヴァティー・アーチャリー=私の三女の二人にしてもらっておりますが、深夜でもあり二人とも起きてこないということでした。誘導者がいないとどこへも行けないので、ヤソーダラ=私の妻知子の部屋に私は行き、ヤソーダラを起こし「ちょっと誘導してくれ」と頼みました。ヤソーダラに誘導を頼むことは、めったにないことです。第六サティアンから同じ上九にあるオウム真理教施設第二サティアンに、車で行きました。この時の車の運転は、ガンポパ、ミラレパ、カッサパ(北村浩一被告)のいずれかです。第二サティアンに着き、三階の主に私が瞑想室に使っている部屋に入る前に、○○のいることがわかったので、「なんでこんなことをした?」と質問すると、「誘われてやりました」と答えており、また、Oは大声を出して暴れている様子で、Oに対しても「二度とこのようなことをしないか。教団に戻ってこないか」と話しかけたのですが、Oは私の言葉など聞き入れる様子はありませんでした。
 O・○○を部屋の外に残して、ヤソーダラの案内で部屋に入りました。そこで再び報告を聞いたのです。内容は第六サティアンで聞いた内容とほぼ同じ内容で、それ以外といえばOが催涙スプレー、ナイフを持っていたということでした。私の周りに集まった弟子達の中には、二人の処分についてニュアンス的に殺してしまった方がいい、厳重に懲らしめた方がいいと過激的な発言をする者、強制的に修行に入れろ、改心させて帰せば、と発言する者もいました。私のすぐ脇にいたヤソーダラは、「O・○○を帰せば」と言っておりました。
 私のこの時の気持ちとしては、Oさえ落ち着けばこのまま帰らせて修行に入らせたい、と考えていたので、なんとか説得しようと思ったのです。そこで、ヴァジラティッサ(中川智正被告)に説得させようとしたのです。ヴァジラティッサはAHIでOの元上司であるばかりでなく、Oをかわいがっていたことを知っていたので、説得には最適だと思ったのです。そこで周りの者に「ヴァジラティッサを呼びなさい」と指示したのです。指示をしてから三十分くらいして、ヴァジラティッサが来ました。私はヴァジラティッサにこれまでの事情を説明して、「興奮しているから、説得して」とOの説得を頼みました。ヴァジラティッサがOを説得している間、周りの弟子達とミーティングをしましたが、発言内容は前回と同じような内容でした。しばらくしてヴァジラティッサが戻ってきて、「だめです。Oはわかってくれない」と報告してきたのです。私自身、Oを説得しようとして、「妻と子供を一緒に帰すから、○○のお母さんには手を出すな」と話しかけたのですが、Oは聞く耳を持たぬ、という感じでした。ヴァジラティッサに対して「大変だけど、もう一度説得してくれ」と、再度説得を頼みました。私の気持ちとしては、Oにサマナを傷付けられては困る、Oさえ諦めれば○○のお母さんは付いていかない、との思いでした。しかし、ヴァジラティッサが戻ってきて、「マンジュシュリー・ミトラ(村井秀夫元幹部)以外席をはずざせて下さい」と耳打ちしてきたので、他の者を席からはずさせたのです。残った者は、私、マンジュシュリー・ミトラ、ヴァジラティッサの三人です。ここでヴァジラティッサはOが持っていた手帳に、今回の計画が書いてあると言い出したので、その手帳に書いてあるものを読んでもらいました。記憶にあるものとしては、「手裏剣はどこどこの店で買う」「サマナ服に着替えてサティアンに入る」「○○のお父さんの電話番号」「どういう電話で誘い出す」「お父さんを巻き込んで奪還する」「○○のお母さんの世話係として家に入り、隙を見てお父さんを殺す」などで、計画書記載の手帳の他に、手裏剣、まきびし(忍者が使う武器)、青酸カリもOが持っていたと言っておりました。そして、ヴァジラティッサは、「もういいんじゃないでしょうか」「尊師、もう十分です」と言ってきたのです。その意味は、Oは説得しても変わらないので、殺すほか仕方ないんじゃないか、と私は受け止めました。また、マンジュシュリー・ミトラは、Oが持っていた計画書通りにことが進んでいる、このままOを帰せば○○のお母さんを奪還して、お母さんの世話係として家に入り、食事に毒を入れてお父さんを殺す、Oを警察に突きだしても警察はアンチ・オウムなので取り合ってくれないと言い、さらに、○○を使って懲らしめましょう、と意見を述べておりました。この二人の意見を聞いて、私の最終結論を出すべく、「これで決まったね」と言って、みんなを集めました。
 そして○○に対して、「お前は帰してやる。Oの首を素手で絞めろ。お前は信用できないから。Oとお前のお母さんはセックスしていたことは知っていたか。お前に対して約束を破ったことはないはずだ」と言い、「ヴァジラティッサ、絞め方を教えなさい」とヴァジラティッサに指示しました。ヴァジラティッサは、「はい、わかりました」と答えておりました。私の気持ちとしては、○○にOの首を絞めさせて、気絶させてから蘇生させ、こらしめてやろうと思っていたからです。そうすれば、○○とOが仲違いになり、二人一緒に○○のお母さんを拉致する、ということもなくなると思ったのです。ヴァジラティッサは柔道二段であることを知っていたので、柔道の落とし方を○○に教えると思ったのです。ヴァジラティッサは○○に話しかけている様子でしたが、その内容についてはわかりません。そのうち、Oの罵倒する声が数分続いた後、十秒くらい「助けてくれ、助けてくれ」という声が聞こえたが、急にOの声がしなくなったのです。私は、落ちた、と思ったので、声が聞こえていた方向に向かって、「息を返せ」と声をかけたのです。しかし、ヴァジラティッサが私の耳元で「心臓が止まっています。首の骨が折れています」とOの死を告げる言葉が返ってきたあとに、「私がやりました。私の責任ですから」と言っておりました。
 私はしばらく沈黙してから、「ヤソーダラを呼べ」と声をかけると、「ここにいます」とヤソーダラの声が私の右斜め前から聞こえてきたのです。私は「ずーっといたのか」と聞き返すと、ヤソーダラは「ええ」とか「はい」と答えており、ずーっと私の側にいたのがわかったので、「ヤソーダラにはこういう場面は見せたくなかった」と声をかけてやりましたが、ヤソーダラは黙っておりました。ヤソーダラに見せたくなかった理由は、ヤソーダラは妊娠九カ月の身重だったからです。○○のお父さんが一緒に来ていると聞いていたので、○○に「お父さんには、お母さんは教団で治療してから帰る。Oは教団に戻るというので、教団に残る。安心して帰るように」と伝えることと、○○本人には、「教団の信徒として戻って道場に通うように」と話をすると、○○は「はい」と答えておりました。そこで、「あとのことは頼む」と言い残して、ヤソーダラの案内で部屋を出たのです。
 この事件の各々の責任ですが、私の責任は○○に素手で首を絞めろと言わなかったら、この事件は起きなかった、ヴァジラティッサの責任は私の指示どおりにやっていれば、Oは死なずにすんだ、被疑事実にビニールをかぶせたりロープを使っていたとありますが、このことは私の知らなかったことです。○○の責任は私の知らないロープを使ったとしても、指示どおりやったことですから、私と話しているとき声や言葉から恐ろしがっている感じは受けなかったので、「いや」ということは言えたはずです。弟子のうち手伝った者の責任は、本当の手伝いであるから、罪は軽いと思います。弟子のうち見ていただけの者の責任は、罪にならないのではないかと思います。
 最後にO君に対しての気持ちですが、ヴァジラティッサはO君に憎しみがあったわけではなく、これ以上悪いことをさせたくなかった、と言っておりました。私は極厳修行の時は、弟子のために毎日食事を作ります。O君も極厳修行を数カ月やっておりますので、私の気持ちとしては、家族のような気持ちが彼に対してはあります。最初から殺すつもりであれば、自分が瞑想室に使っている部屋は使っておりません。O君のために四十九日間のバルドー誘導を行っております。バルドー誘導とは、死から再生への誘導を行う瞑想の祈りです。

 ●1995年6月30日付 警察官調書(Oさん殺害の経過)
 私が○○に、Oを殺せと言ったことになっているようですが、私は○○に対して殺せと指示したことはありません。○○に対して言ったことは、「Oの首を素手で絞めろ」と言ったのです。この意味は、柔道の落としをやって、後で蘇生させ、こらしめようと思っていたからです。○○は最初、Oの首を素手で絞めているはずです。Oの体格はがっちりしており、○○の体格はやせ形で力がないことを私は知っているので、○○がOを素手で絞め殺すことはできないことはわかっております。
 私に対する被疑事実を読んでもらったところ、Oにビニールを被せたり、ロープを使って首を絞めたことになっていました。私はビニールをOに被せろ、ロープを使って首を絞めろという指示は出しておりません。ビニールやロープも触っておりません。また、周りの者からビニールを被せるとか、ロープを準備しましたとかいう話も聞いておりません。O殺害現場の最高責任者は、私です。現場に私がいるのですから、私の指示以外のことをやるのであれば、私の許可を受けるべきです。○○をはじめ周りの者から、素手ではなくロープを使います、という話は聞いていません。目の見えない私が素手で絞め落とすことができないことを知り、連続してビニールやロープを使ってやれ、という発想が起きるわけがないです。私の指示でないので、周りにいた弟子達が一斉にOを押さえつけたことはないはずです。個々バラバラに手伝ったと思います。

 ●1995年7月1日付 警察官調書(O事件殺害の凶器について)
 私が逮捕された事実のO耕太郎殺害現場である、オウム真理教施設第二サティアン三階の私が主として使っている瞑想寔に事件当時いた者は、私、ヤソーダラ、マンジュシュリー・ミトラ、ミラレパ、ヴァジラティッサ、アーナンダ、○○、Oです。この事件の共犯者として、メッタジ、メーギャ(後藤誠)、ガンポパなどの名前があがっておりますが、この三人が部屋の中にいたのか、私にはわかりません。弟子達の性格などから、この中で真実を話す者は、ヤソーダラ、メッタジで、その他の者は私見を入れたりするので、色盲に例えれば、色弱がガンポパ、色盲がミラレパ、アーナンダ、ヴァジラティッサ、メーギャ、超色盲が○○です。
 O君の所持品について、O君が信徒などに取り押さえられ捕まった時、催涙スプレー、手裏剣、ナイフ、火炎瓶、まきびし、青酸カリをバッグに持っていたと聞きました。手裏剣と聞いたので興味がわき、どんな手裏剣かと思い、その手裏剣を手に取ってみました。その手裏剣はどっしりした重量感があり、手のひら大の約十センチくらいの大きさで、平たい十字型の金属製で、歯が付いているものでした。これを投げ、身体に当たれば、かなりの怪我をすると思いました。その他のものについては手にとってみておりませんが、ナイフと聞き、刃渡り二十~三十センチの登山ナイフ用だと思いました。なぜこのように思ったかと言いますと、O君が下向する時、ナイフを持っており、そのナイフを私が手にして確認したことがあるからです。ナイフを含め、火炎瓶、まきびしを実際に使われたら、火事になったり怪我をする者が大勢出たと思います。青酸カリは、手帳に書いてある○○のお父さんを毒殺するためのものだ、と思いました。
 O君の殺害にロープが使われたということですが、瞑想室に以前、経行のロープがありましたが、事件の後六カ月ぐらい前に取り外して科学技術省の者が持ち出しているので、事件の時はないはずです。経行のロープとは、私が目が見えないので、瞑想室の真ん中に鉄柱を設け、その鉄柱にロープを結びつけ、周りの壁にあたらない長さにして、私がそのロープを握って部屋の周りを歩く修行の時使ったロープのことです。ロープの太さはコカコーラの口くらいの太さで、二重にしておりましたので、全長二十メートルくらいあったと思います私が神々に供物をあげるためと、マンジュシュリー・ミトラにひだ付き鉄板を取り付けさせた時に取り外したので、その時からロープはないはずです。
 瞑想室は四十五畳くらいの広さで、奥行きが十五メートルくらいで、出入り口は一カ所です。私の座った位置は壁際で、O君が首を絞められた位置は私には断定できませんが、私の座った反対側の壁際で行われたと思います。O君の罵倒する声、「助けてくれ、助けてくれ」という声を聞いておりますが、他の弟子の声や、○○の声は聞いておりません。O君の声がしなくなったら、「落ちた」と判断するため、O君の声のみに集中していたので他の者の声が耳に入らなかった、というのが本当です。O君の遺体の処理や、所持品の処分については誰からも報告を受けておりません。弟子達も私はデリケートなことを知っているので、報告しなかったと思います。手帳でも残っていれば、私が本当のことを言っていることがわかってもらえるはずです。

 ●1995年7月4日付 警察官調書(妻松本知子の性格について)
 妻松本知子の性格等ですが、まじめで曲がったことが嫌い、不殺生の戒を持つ、子供を大事にする、貞操観念が高い人です。子供のことや、私の生い立ちのことについては、直接この事件に関係がないので、今は話せません。必要が出てくれば話します。

 ●1995年7月4日付 検事調書(謀議の際、妻に黙っていろと言った理由について)
 第二サティアン三階の私の瞑想室で、最初皆でOをどうするかについて話し合った時に、妻がOらについて、「このまま帰したらどうか」と言い、私が「お前は黙っていろ」と言ってやりました。
 妻が、Oらを帰すという穏健な発言をしたのに、なぜ黙っていろと言ったのかとお尋ねですが、すでにお話ししたようにその当時は興奮して殺気立ち、殺すというニュアンスのことを言った者もおり、険悪な雰囲気になっていましたので、妻に余計な発言をさせて危険な目にあわせたくないし、また妻にかかわらせたくなかったからです。だいたい妻は、弟子達に軽んじられているところがあります。名前は明らかにできませんが、以前妻を自動車に乗せて運転している男が、妻が怖がっているにもかかわらず無謀な運転をして非常に怖い思いをさせたこともあるのです。娘の言葉に腹を立て、娘の首を絞めた者もいるのです。これらは事実です。尊師である私の家族だからといって危害を加えられない、ということはないのです。そんなことから私は、この時、妻を黙らせたのでした。したがって、以後妻は発言していません。なお、妻の発言と私の制止は、確か中川が来る前のことだったと思います。

 ●1995年7月11日付 検事調書(中川呼び出しの経緯について)
 O事件について補充して尋ねたいとのことですが、起訴後の任意調べで本来的に調べに応ずる義務がないことはわかっています。第二サティアン三階の私の瞑想室に入ってから間もなく、中川に来てもらうよう電話連絡をとってもらったのは、確か村井だったと思います。室内の電話を使ったような気がしますが、はっきり記憶にありません。室内に入ってから、私はすぐに私専用の椅子に座りました。その後Oが死ぬまで、私はその椅子から立ち上がったことはありません。立ち上がって室内にいる弟子達の方へ歩いていったりしたこともありません。
 私と中川・村井の三人だけで話し合った時間は、正確には言えませんが、二、三十分ぐらいだったと思います。こうやって三人で話し合った時は、他の弟子達は全員外に出ていました。私の妻も室内にはその時いなかったことは、間違いありません。