京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P408-419   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

がありません。」
「そのかわり、わたしがあなたに代って考えて上げました! 考えて考えて、考え抜きましたの! わたしもうまる一月の間、この目的をもって、あなたを観察しておりました。わたしは幾度も、あなたがそばを通りなさるところを見ましてね、ああ、この人こそ金鉱へ行くべき精力家だと、繰り返し繰り返し考えましたの。わたしはあなたの歩きっぷりを研究して、この人はきっとたくさんの金鉱を発見するに相違ないと決めました。」
「歩きっぷりでわかるんですか、奥さん?」ミーチャは微笑した。
「ええ、そりゃ歩きっぷりだってね。では、何ですの、ドミートリイさん、あなたは歩きっぷりで性格が知れるという意見を、否定なさるんですか? 自然科学でも、同じことを確認してるじゃありませんか。おお、わたしは現実派です。ドミートリイさん、わたしは今日から、――あの僧院の出来事のために心をめちゃめちゃに掻き乱されてから、すっかり現実派になってしまいました。わたしは実際的な事業に身を投じたいと思いますの、わたしの痼疾は癒されました。ツルゲーネフの言ったように、足れり!(ツルゲーネフの厭世的思想を盛った詩的散文『足れり!』を指す)ですわ!」
「しかし、奥さん、あなたが寛大にも僕に貸してやろうと約束なさいました、あの三千ルーブリは……」
「そりゃあなた大丈夫ですよ、ドミートリイさん」と夫人はすかさず遮った。「その三千ルーブリはあなたのかくしに入ってるも同然ですよ。しかも、三千ルーブリやそこいらでなくて、三百万ルーブリですよ。おまけにごく僅かな間ですよ! わたしあなたの理想をお教えしましょう。あなたは金鉱を捜し当てて、何百万というお金を儲けた上、こちらへ帰っていらっしゃるのです。そうして、立派な事業家になって、わたしたちを導いて下さるのです。善行へ向けて下さるのです。一たいすべての事業をユダヤ人まかせにしてよいものでしょうか? いえ、あなたはたくさんの建物を起して、いろいろな事業をお企てなさいます。貧民に助力をして、彼らの祝福を受けるようにおなんなさいます。現代は、鉄道の時代でございますからね、ドミートリイさん。あなたは世間に名を知られて、大蔵省になくてならない人物におなんなさいます。大蔵省はいま非常に人材を要求していますからねえ。わたしは露国紙幣の下落が苦になって、夜も寝られませんの、この方面からわたしを知っている人は、少うございますがね……」
「奥さん、奥さん!」一種不安な予感をいだきながら、ふたたびドミートリイは遮った。「僕は悦んで、心から悦んであなたのご忠告に、――分別あるご忠告にしたがうでしょう、――奥さん……僕は本当にそこへ……その金鉱へ出かけて行くでしょう……そのご相談にはまた一ど出直してまいります……いや、幾たびでもまいります。しかし今は、あなたが寛大にも僕に約束して下すったあの三千ルーブリを……ああ、それさえあれば僕は自由になれるのです、もしできるなら今日にも……つまり、その、僕はいま一時間も猶予ができないのです、まったく一時間も……」
「たくさんですよ、ドミートリイさん、たくさんですよ!」と夫人は執念く遮った。「問題はただ一つです。あなた金鉱へいらっしゃいますか、いらっしゃいませんか、十分なご決心がつきましたか、数学的なご返事を伺いましょう。」
「行きますよ、奥さん、あとで……僕はどこでもお望みのところへ行きます、奥さん……しかし今は……」
「ちょっと待って下さい!」と叫んで夫人は飛びあがり、たくさんな抽斗のついた、見事な事務テーブルへ駆け寄って、恐ろしくせかせかした様子で何やら捜しながら、一つ一つ抽斗を開け始めた。
『三千ルーブリ!』ミーチャは心臓のしびれるような心持でこう考えた。『しかも、今すぐ、何の書面も証文も書かないで……おお、これこそ実に紳士的態度だ! 見上げた婦人だ、ただあれほどお喋りでなかったらなあ……』
「これです!」と夫人はミーチャのところへ戻って来ながら、嬉しそうにこう叫んだ。「これですの、わたしが捜してたのは!」
 それは紐のついた小さい銀の聖像で、よく肌守りの十字架と一緒に体へつけるような種類のものであった。
「これはキーエフから来たものでしてね、」夫人はうやうやしげに語をついだ。「大苦行者聖ヴァルヴァーラの遺物なんですの。どうかわたし自身に、あなたのお頸へかけさして下さい。それで新しい生涯と新しい功績に向おうとする、あなたを祝福することになりますからね。」
 こう言って、夫人は本当にその聖像を頸にかけ、それをきちんと嵌めようとするのであった。ミーチャはすっかり面くらって体を前へ屈めながら、夫人の手伝いを始めた。やっとのことで、彼はネクタイとシャツの襟のあいだを通して聖像を胸へ下げた。
「さあ、これでいつでも出発できます!」得々たるさまでふたたびもとの席へ坐りながら、ホフラコーヴァ夫人はこう言った。
「奥さん、僕は実に嬉しくてたまりません……そのご親切に対して……何とお礼を言っていいかわからないほどです。しかし……ああ、いま僕にとってどれくらい時間が貴重なのか、それがおわかりになったらなあ!………いま僕が、あなたのあの寛大なお言葉に甘えて、こうして待ちかねているその金は……ああ、奥さん、あなたはそんなにご親切な方で、感謝の言葉もないほど寛大にして下さるのですから(ミーチャは感激のあまり突然こう叫んだ)、いっそもう打ち明けてしまいましょう……もっとも、あなたはとっくにご存じのことですが……僕はこの町に住むある者を愛しているのです……で、僕はカーチャに背きました……いや、僕はカチェリーナさんと言うつもりだったのです……ああ、僕はあのひとに対して、不人情で不正直でした。しかし、ここへ来て別な……一人の女を愛し始めたのです。あなたはその女を軽蔑しておいでかもしれません。なぜって、あなたはもう何でもご承知ですからね。しかし、僕はどうしても、どうしてもその女を棄てることができません。そのためにいま三千ルーブリの金が……」
「何もかも、棄てておしまいなさい、ドミートリイさん!」恐ろしく断乎たる調子で夫人は遮った。「棄てておしまいなさい、ことに女をね。あなたの目的は金鉱にあるのですから、そんなところへ女なぞ連れて行く必要はありません。後日あなたが富と名誉に包まれて帰っていらっしゃる時、あなたはご自分の心の友を上流社会に発見なさるでしょう。それは知識があって、偏見のない、現代的な令嬢です。いま頭を持ちあげはじめた婦人問題が、ちょうどその頃に成熟するでしょうから、新しい女も出て来るに相違ありません……」
「奥さん、それは別な話です、別な話です……」ミーチャは手を合せて拝まないばかりであった。
「いいえ、それなんですよ。あなたに必要なのはそれなんですよ。あなたがご自分でも意識しないで渇望してらっしゃるのは、つまりそれなんですよ。わたしだって、今の婦人問題にまるっきり縁がなくもないんですの、ドミートリイさん。婦人の発展につれて、最も近い将来に婦人が政治上の権力をも得る、というのがわたしの理想なんですの。わたし自身にも娘がありますからね、ドミートリイさん。ところが、この方面からわたしを知っている人はあまりありません。わたしはこの問題について文豪シチェドリン(サルトウィコフ、一八二六―八九年、有名な諷刺文学者)に手紙を送ったことがありますの。この文豪は婦人の使命について、実に実に多くのことを教示してくれたので、わたしは去年、二行の手紙を無名で送りました。それはね、『わが文豪よ、現代の婦人に代りて君を抱擁接吻す、なおつづけたまえ』というんですの。そして署名は、『母より』としました。『現代の母より』としようかとも思って、しばらく迷ったんですけれど、ただ母だけにしてしまいました。そのほうに精神的の美がより多くありますからね、ドミートリイさん。それに、『現代』という言葉が雑誌の『現代人』を思い出させます、これは今の検閲の点から見て、あの人たちには苦い記憶ですものねえ……あらまあ、あなたはどうなすったんですの?」
「奥さん、」とうとうミーチャは跳りあがって、力ない哀願を表するために、夫人の前に両の掌を合せた。「あなたは僕を泣きださせておしまいになります、奥さん。もしあなたがああして寛大にお約束なすったことを、いつまでものびのびになさいますと……」
「お泣きなさい、ドミートリイさん、お泣きなさい! それは美しい感情ですよ……あなたはこれから長い旅路にのぼる人ですからね! 涙はあなたの心を軽くしてくれます。後日お帰りになってから、お悦びなさる時がありますよ。本当にわたしと悦びを頒つために、わざわざシベリヤから駆けつけていただきとうございますね……」
「しかし、僕にも一こと言わせて下さい。」突然ミーチャは声を張り上げた。「最後にもう一度お願いします。どうか決答をお聞かせ下さい、一たいお約束の金額はきょういただけるのでしょうか? もしご都合がわるければ、いついただきにあがったらいいのでしょう?」
「金額と申しますと?」
「お約束の三千の金です……あなたがああして寛大に……」
「三千? それはルーブリですの? いいえ、ありません、わたしに三千のお金はありません。」妙に落ちつきすました驚きの調子で、ホフラコーヴァ夫人はこう言った。ミーチャは、全身しびれるような思いがした……
「どうしてあなた……たった今あなたが、その金は僕のかくしに入ってるも同じことだ、とおっしゃったじゃありませんか……」
「おお、違います、あなたはわたしの言葉を間違えて解釈なすったのです、ドミートリイさん。もしそんなことをおっしゃるなら、あなたはわたしを理解なさらなかったのですよ。わたしは鉱山のことを言ったんですの……まったくわたしは三千ルーブリよりずっとたくさん、数えきれないほどたくさんお約束しました、今すっかり思い出しました。けれども、あれはただ金鉱を頭において言ったことなんですの。」
「で、金は? 三千ルーブリは?」とミーチャは愚かしい調子で叫んだ。
「おお、もしあなたがお金というふうにおとりになったのでしたら、それはわたし持ち合せがありませんの、わたし今ちょうど少しも持ち合せがありませんの、ドミートリイさん。わたし今ちょうど支配人と喧嘩をしているところでしてね、わたし自身でさえ二三日前にミウーソフさんから、五百ルーブリ拝借したような始末ですの、ええ、ええ、本当にお金は持ち合せがありません。それにねえ、ドミートリイさん、よしんば持ち合せがあるにもせよ、わたしご用立てしなかったろうと思いますわ。第一、わたし誰にもご用立てしないんですの、お金を貸すってことは、つまり喧嘩をするということになりますからねえ、ことに、あなたにはよけいご用立てしたくないんですの、あなたを愛していればこそ、ご用立てしないのです、あなたを助けたいと思えばこそ、ご用立てしないのです。だって、あなたに必要なのは、ただ一つきりですもの、――鉱山です。鉱山です、鉱山です!………」
「ええ、こん畜生!………」ふいにミーチャは唸るようにこう言って、力まかせに拳固でテーブルを叩いた。
「あら、まあ!」とホフラコーヴァ夫人はびっくりして悲鳴を上げながら、客間の隅へ飛び退いた。
 ミーチャはぺっと唾を吐いて、足ばやに部屋を去り、家の外なる往来の暗闇へ飛び出した。彼は気ちがいのように自分の胸を叩きながら歩いた。それは二日前、最後にアリョーシャと暗い往来で出会った時、弟の前で叩いて見せたと同じ個所であった。胸のこの個所[#「この個所」に傍点]を叩くということが何を意味するか、またこの動作をもって何を示そうとしているか、――これは今のところ、世界じゅうで誰ひとり知るものもない秘密である。あの時、アリョーシャにすら打ち明けなかった秘密である。しかし、この秘密の中には、彼にとって汚辱以上のものがふくまれているのだ。もし三千ルーブリを手に入れて、カチェリーナに返済することによって、自分が良心の呵責を受けながら体に着けて歩いているこの汚辱を、胸の一個所から[#「一個所から」に傍点]取りはずさなかったら、たちまち破滅であり自殺であるようなものが、この秘密の中にふくまれているのだ。これは後になって十分読者に闡明されるであろう。とにかく、最後の望みの消え失せた今は、あれほど肉体的に強健であったこの男が、ホフラコーヴァ夫人の家を幾足も離れないうちに、とつぜん小さな子供のように、おいおいと泣きだしたのである。こうして彼は広場までやって来た。と、ふいに真正面から何ものかに突き当ったような気がした。それと同時に、誰やら小柄な、老婆らしいのが、金切り声を上げて喚いた。彼はこの老婆を危く突き倒すところであった。
「あれえ、あぶなく人を殺そうとしやがって! 何だって無鉄砲な歩き方をするんだい、乞食野郎!」
「おや、お前さんは?」暗闇の中に老婆の顔を見すかして、ミーチャはこう叫んだ。それは例のサムソノフの看病をしている老女中で、ミーチャは昨日よく目をとめて見たのである。
「まあ、あなたこそ思いがけない!」と老婆はまるで別人のような声で言った。「暗いものですから、どうも見分けがつきませんでね。」
「お前さんはクジマー・クジミッチの家に住み込んで、あの人の看病をしているんだね?」
「さようでございますよ、あなた、たった今プローホルイチのところへ用使いにまいりましてね……ですが、あなたは、やっぱり、どうもどなたやら思い出せませんが。」
「ちょっと訊きたいことがあるんだよ、お婆さん、アグラフェーナさんは今お前さんのところにいるかね?」もどかしさのあまりにわれを忘れて、ミーチャはこう言った。「さっきおれは自分であのひとを送って行ったんだが。」
「いらっしゃいましたよ、あなた。おいでになったと申しましても、ちょっと腰をおろしなすったきりで、すぐにお帰んなさいました。」
「何だって? 帰った?」とミーチャは叫んだ。「いつ帰ったんだ?」
「やはりあの時刻にお帰りになったのでございます。わたしどもにいらしったのは、ほんのちょっとの間でございますよ。旦那さまにちょいとした話をしてお笑わせになると、そのまま逃げ出しておしまいなさいました。」
「嘘をつけ、こん畜生!」とミーチャは呶鳴った。
「あーれまあ!」と老婆は喚いたが、もうミーチャは影も形も見えなかった。彼はまっしぐらにモローゾヴァの家をさして駆けだした。それはちょうどグルーシェンカが、モークロエヘ向けて出発した時刻で、まだ十五分とたっていなかった。フェーニャは、下働きをしている祖母のマトリョーナと台所に坐っていたが、とつぜん思いがけなく『大尉さん』が駆け込んだ。その姿が目に入ると、フェーニャは、あれえと叫んだ。
「喚くか?」とミーチャは呶鳴った。「あれはどこにいる?」
 しかし、恐ろしさのあまり気の遠くなったフェーニャが、まだ一ことも口をきかぬさきに、彼はいきなり、どうとその足もとにくず折れた。
「フェーニャ、後生だから教えてくれ。あのひとはどこにいるのだ?」
「旦那さま、わたしは何も存じません、ドミートリイさま、わたしは何も存じません。たとえ殺すとおっしゃっても、何も知らないのでございます」とフェーニャは一生懸命に誓った。「あなた、さっきご自分で、一緒にお出かけなすったじゃありませんか……」
「それからまた帰って来たのだ!………」
「いいえ、お帰りにはなりません、誓って申します、お帰りにはなりません!」
「嘘をつけ!」とミーチャは呶鳴った。「貴様のびっくりした顔つきを見ただけで、あれの在りかはちゃんとわかってる!……」
 彼はそのまま戸外《おもて》へ飛び出した。度胆を抜かれたフェーニャは、こんなにやすやすと欺きおおせたのを悦んだが、それはミーチャに暇がなかったためで、さもなくば自分も大変な目にあったのだということをよく承知していた。しかし、ミーチャは飛び出しながらも、ある思いがけない動作によって、ふたたびフェーニャとマトリョーナ婆さんを驚かした。ほかでもない、テーブルの上に銅製の臼があって、それに杵が添わっていた。それは長さ六寸ばかりの小さな銅の杵であった。ミーチャは駆け出しざま、片手で戸で開けながら、片手で臼から杵を引ったくって、脇のかくしへ押し込むと、そのまま姿を消したのである。
「あら大変だ、誰か殺す気なんだわ!」とフェーニャは両手を拍った。

   第四 闇の中

 彼はどこへ駆け出したのか? それは知れきったことである。『おやじの家でなくって、ほかにあれのいるところがない。サムソノフの家からまっすぐに親父のところへ走ったのだ。今となっては、もう疑う余地がない。あいつらの企らみも偽りも、すっかり見えすいている……』こういう想念が、嵐のように彼の頭を飛び過ぎた。マリヤの家の庭へはもう立ち寄らなかった。『あそこへ寄る必要はない。決してそんな必要はない……一さい他人を騒がせないようにしなくちゃ……それに、すぐ裏切りをして内通するからなあ……マリヤはあいつらの仲間に相違ない……スメルジャコフだってそうだ、みんな買収されてるんだ!』
 彼の頭にはまた別な考えが湧き起った。彼は横町を抜けて、フョードルの邸を大きく一周し、ドミートロフスカヤ街へ出て小橋を渡り、まっすぐに淋しい裏通りへ現われた。それはがらんとした、人気のない横町で、片側には隣家の菜園の編垣がつづき、片側にはフョードルの庭を囲む高い丈夫な塀が聳えている。ここで彼は一つの場所を選び出した。それはかつて|悪臭ある女《スメルジャーシチャヤ》リザヴェータが乗り越したのと同じ場所らしい。この話は彼も言い伝えによって知っていた。『あんな女でも越せたんだから、』どういうわけか、こんな想念が彼の頭をかすめた。『おれに越されないはずがない!』はたせるかな、彼は一躍して、巧みに塀の上部へ手をかけた。そして元気よく身を持ちあげて、ひらりと足をかけ、馬乗りに塀の上に跨った。庭の中には、ほど遠からぬ辺に湯殿があったが、あかりのついた母屋《おもや》の窓が塀の上からよく見えた。『やはりそうだ、親父の寝室にあかりがついてる、あれはここに来てるんだ!』彼は塀から庭へ飛びおりた。グリゴーリイもスメルジャコフも病気しているから(スメルジャコフの病気もあるいは本当かもしれぬ)、誰も聞きつけるものはないと承知していたけれど、彼は本能的に身をひそめて、一ところにじっと立ちつくしながら、耳をすまし始めた。しかし、死んだような沈黙があたりを領している上に、まるでわざとのように、そよとの風もない、闃《げき》として静かな夜であった。
『静寂の囁きのみぞ聞ゆなり。』なぜかこんな詩の一節が彼の頭をかすめた。『ただ誰かおれの塀を越すところを見たものがなければいいが。おそらくないように思うけれど……』一分間ほどじっと立ちつくしたのち、彼はそっと庭草を踏んで歩きだした。彼は自分で自分の足音に一歩一歩耳を傾けながら、足音を盗むようにして、木立や灌木を迂回しつつ、長いこと歩みつづけた。五分ばかりで、彼はあかりのついた窓の近くまでたどりついた。窓のすぐ下に背の高い、みっちりと茂った接骨木《にわとこ》や木苺の大きな藪が、幾つか立っているのを覚えていた。家の正面の左側についている、内部から庭へ通ずる出口の戸は、ぴったり閉っていた。彼はそばを通り過ぎるとき、ことさら気をつけて、このことに注意した。やっと、藪のところまでたどりついたので、彼はその陰に身をひそめて、じっと息をこらしていた。『今ちょっと待たなくちゃならん』と彼は考えた。『もしおれの足音を聞きつけて、いま聞き耳を立てているとしたら、あれは空耳であったと思わせるために……どうかして咳や嚔をしないように気をつけなくちゃ……」
 彼は二分間ばかり待ってみたが、胸の動悸が激しくて、ときどき息もとまりそうなほどであった。『駄目だ、動悸はやみゃしない』と彼は考えた。彼は藪の陰に立っていた。藪の前面は、窓からさすあかりにぱっと照らし出されている。『木苺よ、ほんに綺麗な苺の実!』何のためとも知らず、彼はこんなことを口ずさんだ。やがて一歩一歩、くぎるような静かな足どりで、そろっと窓に近よって、爪立ちをした。フョードルの寝室の様子は、まるで掌をさすように、まざまざと彼の眼前に展開せられた。それは、赤い衝立てで縦に端から端まで仕切られた、小さな部屋であった。フョードルはこの衝立てを『シナ出来』と呼んでいた。『シナ出来』という言葉がミーチャの頭をかすめた。『あの衝立ての向うにグルーシェンカがいるのだ。』彼はフョードルの姿を仔細に眺めはじめた。老人はまだミーチャの一度も見たことのない、新しい縞絹の部屋着を着て、房のついた同じ絹の紐を腰に巻いていた。部屋着の襟の陰からは清潔《きれい》な洒落たワイシャツ、オランダ製の細地のワイシャツが覗いて、金のカフスボタンが光っている。頭には、かつてアリョーシャが見たと同じ、赤い繃帯が依然として巻いてある。『洒落のめしてやがる』とミーチャは思った。
 フョードルは何やら考え込んでいるらしい様子で、窓のそば近く立っていたが、急にぶるっと首を振り上げて、心もち耳を傾けた。しかし、何一つ耳に入らないので、テーブルに近よって、ガラスの瓶から杯半分くらいコニヤクを注ぎ、ぐいと一息に飲み乾した。それから胸一ぱいの息をして、またしばらくじっと突っ立っていたが、やがて窓と窓の間にかけてある鏡のほうへふらふらと近づいて、例の赤い繃帯を右手でちょっと額から持ちあげ、まだ癒りきらない打身や痂を、と見こう見していた。『親父ひとりきりだ』とミーチャは考えた。『どうもひとりきりに相違ないようだ。』フョードルは鏡から離れると、急に窓のほうへ振り向いて、じっと見すかしはじめた。ミーチャはすばやく物陰へ飛びのいた。
『ことによったら、あれは衝立ての陰でもう寝てるのかもしれない。』彼はちくりと胸を刺されるような気がした。フョードルは窓を離れた。『親父が窓を覗いているのは、あれを見つけ出そうとしてるのだ。してみると、あれは来てないのだ。親父が暗闇の中を覗いてみるわけがないからな……つまり、焦躁に心を掻きむしられてるんだ……』ミーチャはさっそく窓のそばへ駆けよって、ふたたび室内を眺めはじめた。老人は屈託そうな様子をして、もうテーブルの前に坐っていた。そして、しまいには肘杖ついて、右の掌を頬にあてがった。ミーチャは貪るように見入るのであった。
『ひとりだ、ひとりだ!』と彼はまた断言した。『もしあれがここにいるのなら、親父はもっと違った顔つきをしてるはずだ。』奇妙なことではあるが、彼女がここにいないと思うと、とつぜん何かしら意味もない、奇怪な憤懣の情が彼の心に湧きだってきた。『いや、これはあれがいないからじゃない。』ミーチャは即座に自分で解釈して、自分に答えた。『つまり、あれが来てるか来てないか、どうしても確かにつきとめることができないからだ。』ミーチャの理性はこの瞬間なみはずれて明晰になり、一切のものをきわめて微細な点まで考量し、一点一画をも見おとすことなく取り入れた。しかし、焦躁が、未知と不定の焦躁が、計り知ることのできない速度をもって、彼の心に刻刻つのってゆくのであった。『一たいあれは本当にここにいるのかいないのか?』という疑いは、毒々しく彼の胸に煮え返るのであった。彼はとつぜん肚を決めて手をさし伸べ、ほとほとと窓の枠を叩いた。スメルジャコフと老人との間に決められた、合図のノックをしたのである。初めの二つを静かに、しまいの三つを少し早目に、とんとんとんと叩いた、――つまり、グルーシェンカが来たという知らせの合図である。老人はぎっくりして、ぶるっと首を振り上げると、すばやく飛びあがって窓のほうへ走りよった。ミーチャは物陰へ飛びのいた。フョードルは窓をあけて、頭をすっかり外へ突き出した。
「グルーシェンカ、お前か、お前なのか一たい?[#「お前なのか一たい?」はママ]」と彼は妙に顫える声で、なかば囁くように言った。「どこにいるのだ、グルーシェンカ、これ、どこにいるのだ?」
 彼はむやみに興奮して、息を切らせていた。
『一人きりだ!』とミーチャは考えた。
「一たいどこにいるのだ?」と老人はふたたび叫んで、一そう首を外へ突き出した。彼は肩まで窓の外へ覗かせながら、きょろきょろと左右を見廻すのであった。「ここへおいで。わしはいい贈物を拵えて待っておったよ。おいで、見せてやるから!……」
『あれは、例の三千ルーブリの包みのことを言っているんだ。』こんな考えがちらとミーチャの頭にひらめいた。
「これ、どこにいるのだ?……戸のそばにでもいるのかな? すぐ開けてやるよ!」
 老人はもうほとんど窓から乗り出さないばかりの勢いで、庭に通ずる戸口のある右手を眺めながら、暗闇の中を見すかそうと骨折っていた。もう一瞬の後には、彼はグルーシェンカの返事も待たずに、必ず駆け出して戸を開けるに相違ない。ミーチャは脇のほうから身動きもしないで見つめていた。彼があれほど忌み嫌っていた老人の横顔、――だらりと下った喉団子、鉤なりの鼻、甘い期待の微笑を浮べた唇、これらすべてのものが、左のほうからさす室内のランプの斜めな光線に、くっきりと照らし出されたのである。恐ろしい兇暴な憎悪の念が、突然ミーチャの心に湧きたった。『あいつだ、あれがおれの競争者だ、あれがおれの迫害者だ、おれの生活の迫害者だ!』これは彼がかつてアリョーシャに向って、一種の予覚でも感じたかのように断言した憎悪、――突発的な復讐の念に充ちた、狂暴な憎悪の襲来であった。彼は四日まえ、四阿でアリョーシャと対談した時に『お父さんを殺すなんて、どうして、そんなことが言えるのです?』という弟の問いに対して、
『いや、おれにもわからない、自分でもわからない』と答えた。『もしかしたら、殺さないかもしれんし、またもしかしたら、殺すかもしれん。ただな、いざという瞬間に[#「いざという瞬間に」に傍点]、親父の顔が[#「親父の顔が」に傍点]急に憎らしくてたまらなくなりはしないか、とこう思って心配してるんだ。おれはあの喉団子や、あの鼻や、あの目や、あの厚かましい皮肉が憎らしくてたまらない、あの男の人物がいやらしいのだ。おればこれを怖れている。こればかりは抑えきれないからなあ。』
 こうした嫌悪の念がたえがたいまでにつのってきた。ミーチャはもはやわれを忘れて、ふいにかくしから銅の杵を取り出した。…………………………………………………………………………………………………………………………………………
『神様があのとき僕を守って下すったんだろう。』後になってミーチャは自分でこう言った。ちょうどそのとき、病めるグリゴーリイが、自分の病床で目をさましたのである。その日の夕方、彼はスメルジャコフがイヴァンに話した例の治療法を行った。つまり、何か強い秘薬を混じたウォートカを、妻の力を借りて全身にすり込んだ後、その残りを妻の念ずる祈禱とともに飲み干して、それから眠りについたのである。マルファもやはりその薬を飲んだが、元来いけぬ口とて、そのまま夫のかたわらで、死んだように寝込んでしまった。ところが、とつぜん思いがけなく、グリゴーリイは夜中に目をさました。一分間ばかり思案した後、恐ろしい痛みを腰の辺に感じたにもかかわらず、寝床の上に身を起した。それから、また何やら思いめぐらした末、立ちあがって手早く着替えをした。ことによったら、『こうした険呑な時』誰ひとり家の番をするものもないのに、自分は安閑として寝込んでいるといったような、良心の呵責に胸を刺されたのかもしれない。
 癲癇のために総身を打ちひしがれたスメルジャコフは、隣りの小部屋で身動きもせずに臥っている。マルファもぴくりともしなかった。『婆さん弱りこんどるな。』グリゴーリイは妻を見やってそう思った。そして、喉をくっくっと鳴らしながら、入口の階段へ出た。もちろん、彼はちょっと階段から様子を見るだけのつもりだった。というのは、腰ぜんたいと右足の痛みがたえがたくて、いっかな歩くことができなかったからである。しかし、ちょうどその時、彼は庭へ通ずる小門に、晩から鍵をかけないでいるのに気がついた。彼はこの上なく厳重で正確な男で、一定の規則と多年の習慣に凝り固っていたから、痛みのために跛を引いたり体を縮めたりしながら、階段を下りて庭のほうへ行った。はたして、小門はまるで開っ放しであった。彼は機械的に庭の中へ足を踏み入れた。それは、目に何か映じたのか、耳に物音が入ったのか、原因はよくわからないけれど、とにかく、ふと左手のほうを眺めると、主人の居間の窓が開いている。窓はがらんとして、もう誰もその中から覗いてはいなかった。
『どうして開いてるんだろう、もう夏でもないのに!』とグリゴーリイは考えた。
 と、ちょうどその瞬間、何やら異様なものが、彼の真向いにあたる庭の中を、突然ちらちら動きはじめた。彼のところから四十歩ばかり隔てた暗闇の中を、何か人間らしいものが駆け抜けていた。何かの影が非常な速さですっすっと動く。
「大変だ!」と言ってグリゴーリイは、腰の痛いのも忘れながら、曲者の行手を遮るつもりで、前後の考えもなく駆け出した。
 彼は近道をとった。見たところ、庭の案内は彼のほうが曲者よりもくわしいようであった。曲者は湯殿を目ざして走っていたが、やがて湯殿の向うへ駆け抜けて、塀に飛びかかった……グリゴーリイはその姿を見失わぬように跡をつけながら、われを忘れて走って行った。ちょうど曲者が塀を乗り越した瞬間に、彼は塀の下まで駆けつけたのである。グリゴーリイは夢中になって飛びかかり、両手で曲者の足にしかと絡みついた。
 案の定、予覚は彼を欺かなかった。曲者の見分けがついた。それはあの『ならず者の親殺し』であった。
「親殺し!」と老僕は近所合壁へ鳴り響くほど喚き立てた。
 しかし、彼が声を立て得たのはこれだけであった。突然、彼は雷にでも打たれたもののように、どうと倒れた。ミーチャはふたたび庭へ飛び下りて、被害者の上に屈み込んだ。ミーチャの手には銅の杵があったが、彼はそれを機械的に草の中へ投げ出した。杵はグリゴーリイから二歩ばかり離れたところへ落ちたが、それは草の中ではなく径の上の、最も目立ちやすい場所であった。幾秒かの間、彼は自分の前に倒れている老僕を仔細に点検した。老僕の頭はすっかり血みどろであった。ミーチャは手を伸ばして触ってみた。彼はそのとき、老人の頭蓋骨を割ってしまったのか、それともただちょっと杵で額を傷つけたばかりか、『十分に確め』たかったのである。これは、彼自身あとになってはっきり思い起した。けれど、血はだくだくと止め度なく噴き出して、その熱い流れはたちまちミーチャの慄える指を染めてしまった。彼はホフラコーヴァ夫人訪問の際に用意した、白い新しいハンカチをかくしから取り出して、老人の頭へ押しあてながら、額や顔から血を拭きとろうと無意味な努力をした(これもあとから思い出したことである)。しかし、ハンカチも見る見るずぶずぶに濡れてしまった。
『ああ、何のためにこんなことをしてるんだ?』ミーチャはふいとわれに返った。『もし割ってしまったとしても、今それを確めるわけにゆきゃしない……それに、もうこうなったら同じことじゃないか?』とつぜん絶望に充ちた心もちで、彼はこうつけたした。『殺したものは殺したのさ……運の悪いところへ爺さんが来あわしたのだ、じっとそこに臥てるがいい!』と大きな声で言って、彼はいきなり塀に跳りかかり、横町へひらりと飛びおりると、そのまままっしぐらに駆け出した。
 彼は血でずぶずぶになったハンカチを丸めて、右手に握っていたが、走りながらフロックのうしろかくしへ押し込んだ。彼は飛ぶように走った。その夜まっ暗な往来で、まれに彼に行きあった幾人かの通行人は、猛烈な勢いで走り過ぎた男があったことを、後になって思い出した。彼はふたたびモローゾヴァの家をさして飛んで行ったのである。さきほどフェーニャは、彼の立ち去ったすぐあとで、門番頭のナザールのところへ飛んで行き、『後生一生のお願いだから、あの大尉さんを今日も明日も、決して通さないでちょうだい』と哀願した。ナザールは様子を聞いて、さっそく承知したけれど、運わるく二階の奥さんに呼ばれて、ちょっとそのほうへ出かけた。その途中で、つい近ごろ田舎から出たばかりの甥、二十ばかりの若者に出会ったので、代りに門の番をするように言いつけたが、大尉さんのことはすっかり忘れてしまった。門のそばまで駆けつけたミーチャは、どんどん戸を叩き始めた。若者はすぐに彼の顔を見分けた。ミーチャが一度ならずこの若者に茶代を与えたからである。若者は、早速くぐりを開けて中へ通し、陽気な微笑を浮べながら、『アグラフェーナさまはいまお留守ですよ』と警戒するような調子で急いでこう知らせた。
「どこへ行ったんだい、プローホル?」とミーチャはとつぜん足をとめた。
「さっき二時間ほど前に、チモフェイの馬車でモークロエヘおいでになりました。」
「何しに?」とミーチャは叫んだ。
「そりゃわかりませんなあ。何でも、将校とやらのところですよ。誰だか奥さまに来いと言って、そこから馬車をよこしましたんで……」
 ミーチャは若者をうち捨てて、気ちがいのように、フェーニャのもとをさして駆け出した。

   第五 咄嗟の決心

 フェーニャは祖母と一緒に台所におった。二人とも寝支度をしているところであった。彼らはナザールを頼みにして、今度も内から戸締りをしないでいた。ミーチャは駆け込むやいなや、フェーニャに跳りかかって、しっかりとその喉を抑えた。
「さあ、すぐ白状しろ、あれはどこにいる、いま誰と一緒にモークロエにいるのだ?」と彼は前後を忘れて叫んだ。
 二人の女はきゃっと声を立てた。
「はい、申します、はい、ドミートリイさま、今すぐ何もかも申します、決してかくし立てはいたしません。」死ぬほど驚かされたフェーニャは早口にこう言った。「奥さまはモークロエの将校さんのところへおいでになりました。」
「将校さんて誰だ?」ミーチャは猛りたった。
「もとの将校さんでございます、あのもとのいい人でございます。五年まえに奥さんを棄てて行ってしまった……」依然たる早口でフェーニャはべらべらと喋った。
 ミーチャは女の喉を絞めていた手をひいた。彼は死人のような蒼い顔をして、言葉もなくフェーニャの前に立っていたが、その目つきで見ると、彼が一瞬にしてすべてを悟ったことが察しられた。彼は一ことも聞かないうちに一切のことを、ほんとうに一切のことを、底の底までも悟ったのである。何もかも見抜いたのである。しかし、哀れなフェーニャは、この瞬間かれが悟ったか悟らないか、そんなことを詮議している余裕はなかった。彼女はミーチャが駆け込んだ時、箱の上に坐っていたが、今もやはりそのままの姿勢で全身を慄わせながら、わが身を庇おうとするかのように、両手をさし伸べていた。彼女はその姿勢のままで、化石になったように見えた。そうして、恐怖のために瞳孔のひろがったような慴えた目で、じっと食い入るように彼の顔を見つめていた。ミーチャは恐ろしい形相に、かてて加えて両手を血だらけにしているではないか。おまけに、走って来る途中、額の汗を拭くのにその手で顔に触ったと見え、額にも右の頬にも血の痕が赤くついていた。フェーニャは、今にもヒステリイが起りそうになった。下働きの老婆は席から跳りあがったまま意識を失って、気ちがいのような顔つきをして立っていた。ミーチャは一分間ほどぼんやり立っていたが、とつぜん機械的にフェーニャの傍らなる椅子に腰をおろした。
 彼はじっと坐ったまま、何か思いめぐらしている、というよりも、何かこう非常に驚いて、ぼうとなったというようなふうであった。しかし、一切は火を見るよりも明らかである。あの将校なのだ、――自分はこの男のことを知っていた、何もかもようく知っていた、当のグルーシェンカから聞いて知っていた、一月前に手紙の来たことも知っていたのだ、つまり、一月、まる一月の間、今日この新しい男の到着するまで、このことは深く自分に隠して運ばれていたのだ。それだのに、自分はこの男のことを夢にも考えないでいた! 一たいどうして、本当にどうしてこの男のことを考えずにいられたのだろう? どうしてあのとき造作もなく、この男のことを忘れたのだろう? 知ると同時に忘れたのだろう? これが彼の面前に、奇蹟かなんぞのように立ち塞がっている問題であった。彼は真に慄然として、身うちの寒くなるのを覚えながら、この奇蹟を見まもるのであった。
 が、急に彼はおとなしい、愛想のいい子供のような調子で静かにつつましく、フェーニャに向って話しかけた。たったいま自分がこの女を驚かし、辱しめ、苦しめたことは、まるで忘れてしまったようなふうであった。とつぜん彼は、今のような状況にある人としては不思議なくらい、極度に正確な調子で、フェーニャにいろいろと訊きはじめた。またフェーニャも、彼の血みどろな手をけげんそうに見つめてはいたけれど、同様に不思議なほど気さくな調子で、一つ一つの質問に対してはきはき答えるばかりか、かえって少しも早く『正真正銘の』事実を、洗いざらい吐き出そうとするかのようであった。彼女はこまごまとしたすべての事実を物語るのに、次第に一種の快感を感じはじめた。しかも、それは決して彼を苦しめようという心持のためでなく、むしろできるだけ彼のためにつくそうと、あせっているからであった。彼女はきょう一日の出来事を細大もらさず話して聞かせた。ラキーチンとアリョーシャが訪ねて来たことから、彼女、フェーニャが見張りに立っていたこと、女主人が出立した時の模様、それからグルーシェンカが窓からアリョーシャに向って、ミーチャによろしく言ってくれ、そして『わたしがあの人をたった一とき愛したことを、生涯おぼえてるように言ってちょうだい』と叫んだことなど物語った。ミーチャによろしくと聞いた時、彼はとつぜん薄笑いをもらした。と、その蒼ざめた頬にさっとくれないが散った。その時フェーニャは、自分の好奇心に対するあとの報いなど、少しも恐れずにこう言った。
「まあ、あなた何という手をしてらっしゃるのでしょう、ドミートリイさま、まるで血だらけじゃございませんか!」
「ああ。」ぼんやりと自分の手を見廻しながら、ミーチャは機械的に答えたが、その手のこともフェーニャの問いも、すぐに忘れてしまった。
 彼はまた沈黙におちいった。ここへ駆け込んでから、もう二十分ばかりたった。さきほどの驚愕は鎮まりはてて、その代り何かしら新しい確固たる決心が、彼の全幅を領したようなふうつきであった。とつぜん彼は席を立って、もの思わしげに微笑した。
「旦那さま、一たいあなたはどうなすったのでございます?」またもや彼の手を指さしながら、フェーニャはこう言った。その調子には深い同情が籠っていて、まるで今の彼の不幸を慰めるべき、きわめて親身な人間かなんぞのように思われた。ミーチャはふたたび自分の両手を眺めた。
「これは血だ、フェーニャ、」奇妙な表情をして相手を見つめながら、彼は言った。「これは人間の血だ。ああ、何のために流した血だろう? しかし、フェーニャ、ここに一つの塀がある(彼は謎でもかけるような目つきで女を眺めた)、それは高い塀だ、そして見かけはいかにも恐ろしい、しかし……あす夜があ