京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P064-075   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

す。」
「抵当に入れました、みなさん、十ルーブリの抵当に入れましたよ。それがどうしたんです! それだけのことです、旅行から町へ引っ返すと、すぐ抵当に入れたのです。」
「え、旅行から引っ返したんですって? あなたは町の外へ出ましたか?」
「出ましたとも、みなさん、四十露里あるところへ出かけたんです。あなた方はご存じなかったですか?」
 検事とニコライはちらりと目くばせした。
「が、それはとにかく、昨日の朝からのことを筋みち立てて、残らず話していただきたいものですね。例えば、なぜあなたが町を離れたか、そしていつ出かけて、いつ帰ったかというような……そういう事実をみんな……」
「それならそれと、最初から訊いて下さればいいのに」と言ってミーチャは大声に笑った。「が、お望みとあれば、昨日のことからではなく、一昨日の朝のことから始めなければなりません。そうすれば、どこへ、どういうふうに、どういうわけで出かけたか、おわかりになりましょう。みなさん、私は一昨日の朝、当地の商人サムソノフのとこへ行きました。それは、確実な抵当を入れて、三千ルーブリの金を借りるつもりだったのです、――急に、せっぱつまった必要ができましてね、みなさん、急にせっぱつまった必要が……」
「ちょっとお話ちゅうでございますが」と検事は慇懃に遮った。「どうして急にそれほどの大金が、つまり三千ルーブリという金が、そんなに必要になったのです?」
「ええ、あなた方は、本当に下らないことを訊かないで下さい。どういうふうに、いつ、どういうわけで、ちょうどそれだけの金がいるようになったかなんて、しち面倒くさい……それは三冊の書物にも書ききれやしません、まだその上にエピローグがいりますよ!」
 ミーチャは真実を残らず言ってしまおうと望み、善良無比な心持に満たされている人に特有の、真っ正直な、しかし怺え性《しょう》のない、なれなれしい調子でこう言った。
「みなさん」と彼はとつぜん思いついたように言った。「どうか、私のがさつを責めないで下さい、重ねてお願いします。それから、私が十分に責任を感じて、事件の真相を理解していることを、もう一ど信じて下さい。酔っ払ってるなどと思って下すっては困ります。今ではもう正気なんです。もっとも、酔っ払っていたって、ちっとも邪魔にはなりませんが。私はね、

  醉いがさめれば知恵めは出るが、――しかし私はうつけ者
  たらふく飲めばうつけになるが、――しかし私は利口者

こうなんですよ、はっ、はっ! ですがねえ、みなさん、私は今、――つまり身の明かしを立てないうちに、あなた方の前で洒落なんか言うのは、無礼にあたることを知っています、どうか自分の品格を守らして下さい。もちろん、私は今の差別を知っています。何といっても、私はあなた方の前に犯人として引き据えられているのです、したがって、あなた方とは雲泥の相違です。あなた方は私を取り調べる任務をおびていらっしゃるから、グリゴーリイ事件のために、私の頭を撫でて下さるわけにはゆきますまい。実際、老人の頭を割っておいて、刑を受けずにはすみませんからね。あなた方は、爺さんに代って私を裁判し、たとえ権利を剥奪されないまでも、半年なり一年なり、懲治監か何かよくは知りませんが、そんなところへぶち込むんでしょう、ねえ、そうでしょう、検事さん。こういうわけですから、みなさん、私だってこの差異はわかりますよ……けれど、考えてもごらんなさい、あなた方のようにどこを歩いたの、どういうふうに歩いたの、いつ歩いたの、どこへ入ったの、というような問いを持って行ったら、神様さえも面くらっておしまいになりますよ。もしそうとすれば、私だって面くらってしまおうじゃありませんか。しかも、あなた方はすぐにつまらないことを一々書きつけなさる。そんなことをしてどうなるんです? 何の役にも立ちゃしませんよ! だが、私はどうせでたらめを喋りだしたんだから、ついでにしまいまで言っちまいましょう。だから、みなさんも高等教育を受けた高潔な人として、私の過言を赦して下さい。最後に一つお願いしておきますが、それは審問の常套手段を忘れていただきたいということです。つまり、まず最初にどういうふうに起きたか、何を食ったか、どういうふうに唾を吐いたか、どこに唾を吐いたか、などというようなごくつまらない、取るにもたらんことから審問を始めて、『犯人の注意をくらませといて、』それから急に『誰を殺したか、誰のものを盗んだか』というような、恐ろしい問いをあびせかけるんです、はっ、はっ! これがあなた方の常套手段です、これがあなた方の原則です、これがあなた方の狡猾手段の基礎になるんです! だが、あなた方はこんな狡猾手段で、百姓どもの目をくらますことはできましょうが、私はどっこい駄目ですよ。私はその間の消息を知っています。自分でも、お役人をしたことがあるんですからね、はっ、はっ、はっ! みなさん、ご立腹なすっちゃ困りますよ、私の無礼を赦して下さるでしょうね?」彼は不思議なほど率直な態度で、彼らを見ながらこう叫んだ。「今のはミーチカ・カラマーゾフが言ったんですから、赦すことができますよ。賢い人が言ったのなら赦すことはできないが、ミーチカが言ったんだから赦せますよ! はっ、はっ!」
 ニコライは、この言葉を聞きながら、同じように笑っていた。検事は笑いこそしないが、目を放さずにじろじろとミーチャを見つめていた。それは、ミーチャのちょっとした言葉じりでも、ほんのわずかな身動きでも、顔面筋肉の微かな痙攣でも、決して見のがすまいとするもののようであった。
「しかし、私たちは初めからそうしてるじゃありませんか」とニコライはやはり笑いつづけながら答えた。「朝どういうふうに起きたか、何を食ったか、というような審問をして、あなたを困らせるどころじゃない、むしろ非常に重大な問題から審問を始めたのです。」
「それはわかっていますよ、とっくに承知して感服しているのですよ。しかし、今の私に対する比類のないご好意、高潔なお心にふさわしいご好意には、さらに感謝しています。ここに集っているわれわれ三人は、お互いに高潔な人間なのです。でわれわれは、品位と名誉とを具備した教育ある紳士に特有な相互の信任を基礎として、万事を律してゆかなければなりません。とにかく、私の生活におけるこの瞬間に、私の名誉が蹂躙されたこの瞬間にも、あなた方を善良なる親友と思わせて下さい。こう言っても、べつに失礼にはあたりますまいね、みなさん、失礼にはあたりますまいね?」
「とんでもない、あなたのお言葉は実に立派ですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」とニコライはもったいらしく同意した。
「だが、つまらないことは、みなさん、あんなうるさい、つまらないことは、すっかり抜きにしましょう」とミーチャは昂然として叫んだ。「でないと、しまいにはどんな結果になるやらわかりませんよ、ねえ、そうじゃありませんか?」
「全然あなたの賢明な勧告にしたがいましょう」と検事はミーチャのほうへ向って、とつぜん口を入れた。「しかし、自分の審問を撤回することはできません。つまり、何のためにあなたはあんな大金が、三千という大金が必要になったか、ぜひとも知らなければならないのです。」
「何のために入り用だったかとおっしゃるんですか? それはこうです、こういうわけです……つまり、借金を払うためです。」
「誰にですか?」
「みなさん、それを言うことは絶対にお断わりします! そのわけはですね、これがつまらない馬鹿げきった話だから、そのために言えないのでもなければ、また気がひけるのでもなく、また万一を恐れるからでもありません。私が言わないのは、主義のためです。これは私の私生活ですから、私生活に干渉してもらいたくないのです。これが私の主義なんです! あなた方の審問は事件に無関係なことです。ところが、事件に無関係なことは、みなわたしの私生活です! 私は負債を払おうとしたのです。名誉の負債を払おうとしたのです。しかし、相手は誰か、――それは言えません。」
「失礼ですが、それをちょっと書きつけさせていただきますよ」と検事に言った。
「さあさあ、ご随意に。どうぞお書き下さい、言いません、決して言いませんから、そのことをお書き下さい。みなさん、そんなことを言うのは破廉恥だとさえ思っている、とこう書いて下さい。本当に、あなた方はよっぽどお暇だと見えますね、何でもかでも書きつけて!」
「失礼ですが、念のためにもう一度お話ししておきたいことがあります。もしあなたがご存じないとすれば……」と検事は特別いかめしい、さとすような調子で言った。「ほかでもありませんが、あなたは今わたしたちの提出した質問に対して、答えない権利を十分おもちなのです。が、われわれはその反対に、もしあなたが何らかの原因によって答えを回避なさる場合は、あなたに答弁を強要する権利を少しも持っていません。答えようと答えまいと、それはあなた一個人の考えに属することなんです。しかし、今のような場合、われわれのとるべき務めは、あなたがある種の陳述をこばむことによって、いかなる損害を自分で自分に加えておられるか、それをご得心のゆくように、説明してお聞かせするということです。さあ、そのさきを話して下さい。」
「みなさん、私は怒ってるんじゃありませんよ……私は……」ミーチャはこの警告にいくらかどぎまぎして呟いた。「そこでですね、みなさん、そのサムソノフですが、私はあの時サムソノフのところへ行ったんです……」
 むろん、筆者《わたし》は彼の物語を、詳しく再述するのはやめておこう。それはもはや読者の承知していることなのである。ミーチャは細かい点まで残らず話しつくして、しがをそれと同時に、少しも早く片をつけてしまいたいとあせっている模様であった。しかし、検事側では彼の陳述をそのまま書きつけ始めたので、したがって、ときどきその話を中止させなければならなかった。ドミートリイはそれを非難したが、結局、やはり服従した。彼は腹を立てていたけれど、今のところまだ率直であった。もっとも、時には『みなさん、これでは神様だって腹を立てておしまいになりますよ』とか、あるいは『みなさん、本当にそれはただ私の癇をたかぶらすだけですよ』などと叫ぶこともあったが、しかし、こんなことを叫びながらも、やはりなれなれしい饒舌の気分を変えなかった。こうして彼は、おとといサムソノフが自分に『一杯くわした』ことを物語った(そのとき自分がだまされたのだということは、彼も今はすっかり悟っていた)。彼が旅費を作るために時計を六ルーブリで売り払ったことは、予審判事と検事とにまだぜんぜん知れていなかったので、たちまち非常な注意を惹起した。彼らは、ミーチャが前の日にびた一文もっていなかったという事実の第二の証拠として、くわしくこの件を書きとめる必要があると思った。ミーチャは極度に憤慨してしまった。で、彼はだんだん気むずかしそうになってきた。次に彼は猟犬《レガーヴィ》のところへ行ったことや、炭酸ガスに満ちた森番の小屋で一夜を送ったことや、それから、とうとう町へ帰って来た時のことまで物語った。このとき彼はとくに頼まれもしないのに、グルーシェンカに対する嫉妬の苦しみをくわしく話しはじめた。検事側では黙ったまま注意して聞いていたが、ミーチャがもうずっと前から、マリヤの家の『裏庭』に、フョードルとグルーシェンカの見張所を設けていることと、スメルジャコフが彼にさまざまな報告をもたらしたという事実には、特別の注意を払ったのである。彼らはこの事実を非常に重大視して、さっそく記録に書きとめた。ミーチャは自分の嫉妬のことを熱心にくわしく話した。自分の秘密な感情を『世間のもの笑い』にするために、すっかりさらけ出してしまったことを、内心ふかく恥じながら、それでもなお偽り者になりたくないために、その恥しさを押しこらえているらしかった。彼が物語っている間に、じっとそのほうへ向けられていた予審判事、ことに検事の目にうかんでいる冷静ないかめしい表情は、とうとう彼の心をかなり烈しくかき乱した。『つい四五日前まで、おれと一緒にばかばかしい女の話などをしていた、この小僧っ子のニコライや病気もちの検事などに、こんな話を聞かせる値うちがあるものか、恥さらしだ!』という考えさえ、悩ましく彼の頭にひらめいた。で、彼は『ひかえ忍びて黙《もだ》せよ心』という詩の一句で、われとわがもの思いを結んだが、やはりふたたび元気をふるい起して、先をつづけようという気になった。彼はホフラコーヴァの話に移ると、またしてもむらむらとなって、事件に縁遠い話ではあるが、つい先ごろ起ったばかりの、この夫人に関する特別な逸話を持ち出そうとまで考えた。しかし、予審判事は彼を押し止めて慇懃に、『もっと根本的な問題に』移ってもらいたいと言った。最後に、彼が自分の絶望を物語り、ホフラコーヴァの家を出た時、『誰かを殺してなりと[#「殺してなりと」はママ]三千の金を手に入れたい』と思ったその瞬間のことを物語ると、検事側はまたもや彼を押し止めて、『殺そうと思った』次第を書きつけた。ミーチャは黙って書かせた。最後に物語が進んで、グルーシェンカが、自分には夜なか頃までサムソノフのところにいると言っておきながら、自分が送りとどけるとすぐ、老人のところから逃げ出した、『つまり、自分はだまされた』ということを、突然かぎつけたところまで話した時、『みなさん、私があの時あのフェーニャを殺さなかったのは、ただただそんな暇がなかったからです』と、思わず彼は口走ってしまった。これもまた念入りに書きとめられた。ミーチャは陰欝な顔つきをして待っていた。やがて、父親の家の庭園へ駈けつけたことを話そうとすると、予審判事はだしぬけに彼を押し止めて、そばの長椅子においてあった大きな折鞄を開き、その中から小さい銅の杵を取り出した。
「あなたはこの品をご存じですか?」彼はそれをミーチャに示した。
「ああ、そうそう!」彼は沈んだ顔つきで、にやりとした。「もちろん、知っていますとも! ちょっと見せて下さい……ちぇっ、もういいです!」
「あなたはこの品のことを言い忘れましたね」と予審判事は言った。
「くそっ、いまいましい! いや、あなた方に隠しだてなぞしませんよ。一たいそれを言わなくちゃすまないんですか、どうお思いになります? 私はただ、ど忘れしていただけなんですよ。」
「恐れ入りますが、あなたがこんな物を用意なすったわけを、聞かして下さいませんか。」
「ええ、ええ、聞かしてあげますとも。」
 ミーチャは銅の杵をとって駈け出した時の、一部始終を物語った。
「ですが、あなたがこんな道具を用意なすったについては[#「用意なすったについては」はママ]、一たいどういう目的があったのです?」
「どういう目的? 何の目的もありゃしませんよ! ただ持って駈け出しただけです。」
「もし目的がないとすれば、どんなわけなんでしょう?」
 ミーチャはむかむかしてたまらなかった。彼はじっと『小僧っ子』を見つめながら、沈んだ目つきで、にくにくしげににたりと笑った。彼は今あれほど誠実に真情を披瀝して、自分の嫉妬の歴史を『こんな人間』に物語ったということが、いよいよ恥しくてたまらなくなったのである。
「銅の杵なんかくそ食らえですよ!」と彼はとつぜん口走った。
「でも。」
「なに、犬を防ぐためだったのですよ……それに、その暗いものですから……それにまさかの時の用心にね。」
「そんなに暗闇が怖いのでしたら、あなたは以前も夜分うちを出る時に、何か武器《えもの》を持ってお出になりましたかね?」
「ちぇ、ばかばかしい! みなさん、あなた方とはまったく文字どおりに話ができませんよ!」極度の憤激にミーチャはこう叫んで、書記のほうへ振り向くと、憤怒のために顏じゅう真っ赤にし、声に一種の気ちがいじみた調子を響かせながら、せき込んで言葉をつづけた。「すぐ書いてくれたまえ……すぐ……『自分の親父のフョードルのところへ駈けて行って……頭を一つ殴りつけて殺すために杵を持って行った』とこう書いてくれたまえ。さあ、みなさん、それで腹の虫が落ちつきましたかね? 気がせいせいしましたかね?」と彼はいどむような目つきで、予審判事を見つめながら言った。
「いや、私たちにはよくわかりますよ、あなたが今そんな陳述をなすったのは、私たちに対して憤慨なすったからでしょう。私たちの訊問がいまいましいからでしょう。あなたはわれわれの訊問をつまらないものと思っておいでですが、そのじつ非常に根本的なものなんですよ」と検事はそっけない調子で、ミーチャに言った。
「いや、とんでもない! むろん、杵は持ちました……だが、あんな場合、人が何か手に取るのは、一たい何のためでしょう? 私は何のためか知りません、とにかく持って駈け出したんです。ただそれだけです。恥ずべきことですよ、みなさん、Passons(もうやめて下さい) 恥ずべきことですよ。いい加減になさらんと、まったくのところ、もうだんぜん話をやめますよ!」
 彼はテーブルに肱を突き、片手で頭をささえた。彼は一同に顔をそむけて腰かけたまま、腹の中の不快な感情をおし殺しながら、じっと壁を見つめていた。実際、彼はつと立ちあかって、『たとえ死刑台に引っぱられて行こうとも、もう一ことも口をきかない』と言いたくってたまらなかったのである。
「ねえ、みなさん。」やっとの思いでわれを制しながら、彼はにわかにこう言いだした。「実はあなた方のお話を聞いてるうちに、何だかこんな気がするんです……私はね、その、どうかすると、ある一つの夢を見ることがあるんです……こう変な夢なんですが、私はよくそいつを見るんです。繰り返し繰り返し見るんですよ。ほかでもありませんが、誰か私を追っかけて来るんです。何でも私がひどく恐れている人でね、その人が夜まっ暗闇の中に追っかけて来て、私をさがすんです。私はその男に見つからないように、どこか戸の陰か戸棚の陰などへ隠れる、意気地なく隠れるんです。が、不思議なことには、私がどこへ隠れたかってことが、ちゃんとやつにわかってるじゃありませんか。ところが、やつはわざと私のいるところを知らないようなふりをして、少しでも長く私を苦しめて、私が怖がるのを楽しもうとする………あなた方は今ちょうどこれと同じことをしていられるんです! よく似てるじゃありませんか!」
「あなたはそんな夢をごらんになるのですか?」と検事は訊いた。
「そうです、こんな夢を見るんです……ですが、あなた方はもう書きつけたくなったのじゃありませんか?」ミーチャは口を歪めてにたりと笑った。
「いいえ、書きませんよ。しかし、あなたの夢は面白いですね。」
「ところが、今ではもう夢じゃありません! レアリズムです、みなさん、実際生活のレアリズムです! 私は狼で、あなた方は猟人です。さあ、狼をお追いなさい。」
「あなたはつまらない比較をしたものですね……」とニコライは非常に優しく言いかけた。
「つまらない比較じゃありませんよ、みなさん、つまらない比較じゃありません!」とミーチャはまた熱くなった。けれど、思いがけなく癇癪のはけ口ができて、気が落ちついたとみえ、彼はまた一口ごとに率直になってきた。「あなた方は犯罪者、すなわち、あなた方の訊問に苦しめられている被告の言葉を、信じないでもいいでしょう。しかし、みなさん、高潔な人間の言葉は、魂の高潔な叫びは(私は大胆にこう叫びます)断じて信じないわけにゆきません。ええ、それを信じないわけにはゆきません……あなた方にはそんな権利さえありません……しかし――

  黙《もだ》せよ心
  ひかえ忍びて黙せよ心!

さあ、どうです。つづけましょうかね?」と彼は陰欝な顔つきをして言葉を切った。
「むろん、ぜひお願いします」と、ニコライは答えた。

   第五 受難―三

 ミーチャは気むずかしげに話し始めたが、しかし、自分の伝えようとしている事件を、ただの一カ所でも忘れたり言い落したりすまいと、前より一そう骨折っているらしかった。彼は塀を乗り越えて父の家の庭園へ入り込んだことや、窓のそばまで近よったことや、それから最後に、窓の下で演ぜられた出来事などを詳しく物語った。彼はグルーシェンカが父のところに来ているかどうか、一生懸命に知ろう知ろうとあせりながら、庭園の中でさまざまな感情に胸を波立たせたことを、明瞭に、確実に、さながら浮彫のように話して聞かせた。けれど、不思議にも、こんどは検事も予審判事も、何か妙に遠慮がちに耳を貸しながら、そっけなく彼を眺めていた。質問の度数さえずっと減ってしまった。ミーチャは彼らの顔色を見たばかりでは、何ともその心持を判ずることができなかった。『侮辱を感じて怒ってるんだろう』と彼は思った。
『ちぇっ、勝手にしやがれ!』とうとうグルーシェンカが来たという合図をして、父親に窓を開けさせようと決心したくだりを物語った時、検事と予審判事は『合図』という言葉に少しも注意を払わなかった。この言葉がこの場合どんな意味をもっているかが、全然わからないもののようであった。ミーチャさえもこれに気がついたほどである。最後に窓から顔を突き出した父親を見て、かっと憤怒の情が沸きたって、かくしから杵を取り出したその瞬間まで話を進めると、彼は急にわざとのように言葉を切った。彼はじっと坐ったまま壁のほうを見た。人々の目が食い入るように自分を見つめているのを彼は知っていた。
「で」と予審判事は言った。「あなたは兇器を取ったのですね……そ、それからどういうことになりましたね?」
「それからですか? それからぶち殺しましたよ……やつの額をがんとやって、頭蓋骨をぶち割った……とこうあなた方はお考えなのでしょう、そうでしょう!」彼の目は突然ぎらぎらと輝きだした。それまで消えていた憤怒の火は、急に異常な力をもって彼の胸に燃えあがった。
「私たちの考えはそうです。」ニコライは鸚鵡返しにこう言った。「で、あなたのお考えは?」
 ミーチャは目を伏せて、長いこと黙っていた。
「私はね、みなさん、私はこうしましたよ。」彼は静かに言い始めた。「誰かの涙の力でしょうか、死んだ母が神様に祈ったのでしょうか、あるいは天使がその瞬間、私に接吻したのでしょうか、――どういうわけだか知りませんが、とにかく悪魔が征服されたのです。私は窓のそばから飛びのいて、塀のほうへ駆け出しました……親父はびっくりしました。そして、その時はじめて私の顔を見分けて、あっと叫びながら窓のそばを飛びのきました……私はそれをよく憶えています。私は庭を横切って、塀のほうへ行きました……ところが、もう塀の上に昇ってしまった時、グリゴーリイが私に追いついたのです……」
 このとき彼はとうとう目を上げて聴き手を見た。聴き手は妙に冷静な注意をもって、彼を眺めているようであった。一種憤懣の痙攣がミーチャの心をさっと流れた。
「みなさん、あなた方はいま私を笑ってるんですね!」と彼は急に言葉を切った。
「どうしてそうお考えになるのです?」とニコライは言った。
「それはあなた方が、私の言葉を一ことも信用して下さらんからです、ええ、そうです! そりゃもう私にだってわかりますよ。私は一番だいじなところまで話してきたのです。老人は頭を割られて、今あそこに倒れています。ところが、私はどうでしょう――いよいよ殺そうという気で、杵を手にした悲劇的な光景を描きながら、急に窓のそばから逃げ出したなんて……叙事詩です! 詩になりそうなことです! 若造の言うことがそのまま信じられるものですか! はっ、はっ! みなさん、あなた方は皮肉やですねえ!」
 こう言って、彼は椅子に坐ったまま、くるりと体をねじって、そっぽを向いた。椅子がめきめきと音をたてた。
「だが、あなたは気がつかなかったですか?[#「気がつかなかったですか?」はママ]」検事はミーチャの興奮にまるで注意しないらしく、突然こう口を切った。「あなたは窓のそばから逃げだす時、離れの向う側にある庭に向いた戸が開いていたかどうか、気がつきませんでしたか?」
「いいえ、開いてはいなかったです。」
「開いていなかった?」
「むろんしまっていました。それに、誰が開けるもんですか? そうだ、戸はと[#「戸はと」はママ]、ちょっと待って下さい!」彼は急にわれに返ったようなふうで、ぶるぶると微かに身顫いした。「では、あなた方がごらんになった時、戸は開いてたんですね?」
「開いてました。」
「もしあなた方自身でないとすれば、一たい誰が開けたんだろう?」ミーチャは急に恐ろしく仰天した。
「戸は開いていました。あなたのご親父を殺したものは、疑いもなくこの戸から入ったのです。そして、兇行を演じてしまうと、またこの戸口から出て行ったに相違ありません。」検事はえぐるような調子で、そろそろと一語一語くぎりながら言った。「これはわれわれには明白です。兇行が演ぜられたのは確かに室内で、窓ごし[#「窓ごし」に傍点]ではありません。これは臨検の結果から見ても、また死体の位置やその他の事柄から見ても、十分明々白白です。この点には毫も疑いの余地がありません。」
 ミーチャは恐ろしく動顚してしまった。
「でも、みなさん、そんなはずはありませんよ!」と彼はすっかり度を失って叫んだ。「私は……私は入りません……私は確かに、私は正確に断言します。私が庭の中におった時も、庭から逃げ出した時も、戸は初めからしまいまで閉っていました。私はただ窓の下に立っていて、窓ごしに親父を見ただけです、ただそれだけです……私は最後の一瞬間まで憶えています。また、よしんば憶えていないまでも、ちゃんと、わかっています。なぜと言って、あの合図[#「合図」に傍点]を知っているものは、私とスメルジャコフと、そして亡くなった親父だけなのです。合図がなけりゃ、親父は世界じゅうのどんな人間が来たって、金輪際、戸を開けるこっちゃありません!」
「合図? その合図というのは何です?」検事は貪るような、ほとんどヒステリイに近い好奇心を現わしながら、こう言った。彼は慎重ないかめしい態度を一時になくしてしまった。彼はおずおずと匐い寄るように問いかけた。彼はまだ自分の知らない、重大な事実のあることを感じた。そして、またすぐ、ミーチャがその事実をすっかり打ち明けないかもしれぬ、という非常な恐怖をも感じたのである。
「じゃ、あなた方は知らなかったのですね!」とミーチャは嘲るような、にくにくしげな薄笑いを浮べながら、検事に向って目をぱちりとさせた。「もし私が言わなかったらどうします? 一たい誰から聞き出すことができるでしょう? 合図のことを知っているのは、亡くなった親父と、私と、それからスメルジャコフと、それっきりなんですよ。ああ、それからまだ天道さまも知っています。だが、天道さまはあなた方に教えてくれませんよ。なかなか面白い事実でしてね、これを基にしたら、どんな楼閣でも築き上げることができますよ。はっ、はっ! しかし、みなさんご安心なさい、打ち明けますよ。あなた方も馬鹿なことを考えて心配していますね。一たい私をどんな人間だと思っているんです! あなた方の相手にしていられる被告は、みずから自分のことを白状して、わが身を不利に落すような人間なんです! そうです。なぜと言って、私は名誉を護るナイトだからで。ところが、あなた方はそうじゃありません!」
 検事はさまざまな当てこすりを黙って聞いていた。彼はただ新しい事実が知りたさに、いらだたしげに身慄いしていた。ミーチャは、父がスメルジャコフのために案出した合図を、一つ残らず正確に詳しく話して聞かせた。彼は、窓をとんとんと叩く一つ一つの音が、どんな意味をもっているかを物語った。彼はこの合図をテーブルで叩き分けてまでみせた。また、彼ミーチャが老人の窓を叩いた時、『グルーシェンカが来た』という意味の合図をしたのか、と訊ねたニコライの問いに対して、彼は確かに『グルーシェンカが来た』という合図をしたのだと答えた。
「さあ、これであなた方は楼閣をお築きなさい!」と言ってミーチャは言葉を切り、また軽蔑するように一同から顔をそむけた。
「では、この合図を知っているものは、亡くなられたご親父と、あなたと、下男のスメルジャコフだけだったのですね? もうそれ以外にはありませんか?」も一度ニコライは念を押した。
「そうです、下男のスメルジャコフと、それから天道さまです。天道さまのことも書きつけて下さい。これを書きつけておくのも無駄ではないでしょう。それに、神様はあなた方ご自身にとっても必要なことがありますよ。」
 もちろん、さっそく書きつけにかかった。が、書記が書きつけている間に、検事は思いがけなく新しいことを思いついたように、突然こう言いだした。
「もしその合図をスメルジャコフが知っていたとして、そしてあなたがご親父の死に関する嫌疑を頭っから否定される場合には、約束の合図をしてご親父に戸を開けさせ、それから……兇行を演じたのは、そのスメルジャコフではありませんか?」
 ミーチャはふかい嘲笑のまなざしで、しかし同時に、恐ろしい憎悪の色をうかべながら検事を見た。彼は無言のまま長いこと見つめていたので、検事も目をしぱしぱさせはじめた[#「しぱしぱさせはじめた」はママ]。
「また狐を捕まえましたね!」ミーチャはとうとう口を切った。「また悪者の尻尾をひっ摑みましたね。へっ、へっ! 検事さん、あなたの肚の中はちゃんと見えすいていますよ! あなたは私がすぐに飛びあがって、いきなりあなたの助言にしがみつき、『ああ、それはスメルジャコフです、あれが犯人です!』と喉一ぱいの声で呶鳴るだろう、とこうお考えになったんでしょう。白状なさい、そう考えたんでしょう。白状なさい、でなけりゃ、先を話しませんよ。」
 けれど、検事は白状しなかった。彼は黙って待っていた。
「あなたのお考えは間違っています。私はスメルジャコフだなんて喚きませんよ!」とミーチャは言った。
「では、あの男を少しも疑わないのですか?」
「あなた方は疑っておいでですか?」
「あの男も疑いました。」
 ミーチャはじっと目を床の上に落した。
「冗談はさておいて」と彼は陰欝な調子で言いだした。「ねえ、みなさん、私は最初から、さっきあのカーテンの陰からあなた方のところへ駈け出した時から、もう『スメルジャコフだ!』という考えが私の頭にひらめいたんです。ここでテーブルのそばに腰をかけて、あの血を流したのは自分じゃないと叫びながらも、私は、『スメルジャコフだ』と考えていました。スメルジャコフは、私の心から離れなかったのです、今もまた突然『スメルジャコフだ』と考えました。が、それはほんの瞬間で、すぐそれと同時に、『いや、スメルジャコフではない!』と考えました。みなさん、あれはやつの仕事じゃありませんよ!」
「そうすると、ほかに誰かあなたの疑わしいと思う人物はありませんか?」とニコライは用心ぶかい調子で問いかけた。
「一たい誰なのか、どういう人物なのか、天の手か、それとも悪魔の手か、私には一切、わかりません。しかし……スメルジャコフではありません!」とミーチャはきっぱり断ち切るように言った。
「しかし、なぜあなたはそう頑固に、そして執拗に、あの男でないと断言されるのです?」
「信念です、印象です。なぜかと言えば、スメルジャコフはごく下司な人間で、そのうえ臆病者だからです。いや、臆病者ではありません、二本脚で歩く世界じゅうの臆病の塊です。あの男は牝鶏から生れたんです。私と話をする時でも、こっちが手を振り上げもしないのに、殺されはしないかと思って、いつもぶるぶる慄えています。あいつは私の脚もとで、四つん這いになって涙を流しながら、文字どおりに私のこの靴を接吻して、『嚇かさないで下さい』と言って哀願するのです。『嚇かさないで下さい』とはどうです、――何という言葉でしょう? ですが、私はあの男に金を恵んでやったくらいです。あいつは癲癇やみの薄馬鹿の、ひ弱い牡鶏です。八つの小僧っ子でもぶちのめすことができますよ。これがそもそも一人前の人間でしょうか? スメルジャコフじゃありませんよ、みなさん。それに、あいつは金をほしがらないんですからね。私が金をやっても取ったことはありません……第一、あいつが何のために親父を殺すんです? だって、あいつは親父の息子らしいんです、隠し子らしいんですよ。あなた方もご存じでしょう?」
「われわれもその昔話は聞きました。しかし、あなたもご親父の息子さんじゃありませんか。それにあなた自身みんなの前で、親父を殺してやると言われたじゃありませんか。」
「一つ探りを入れましたね! しかも、質の悪い下劣な探りです! 私はびくともしませんよ! ねえ、みなさん、私の目の前でそんなことを言うのは、あまり陋劣すぎるかもしれませんよ! なぜ陋劣かと言えば、私が自分からあなた方にそう言ったからです。私は殺そうと思ったばかりか、殺したかもしれないのです。おまけに、すんでのことで殺すところだったと、潔く自白しているじゃありませんか。しかし、私は親父を殺さなかった、私の守り神が私を救ったのです!………あなた方はこのことを考慮に入れなかったですね……だから、あなた方を陋劣だと言うんですよ。なぜって、私は殺さなかったからです、殺さなかったからです! わかりましたか、検事さん、殺さなかったんですよ!」
 彼はもう喘ぎ喘ぎ言っていた。彼がこんなに興奮したことは、長い審問中まだ一度もなかったのである。
「ところで、みなさん、あのスメルジャコフは、あなた方にどんなことを言いました?」彼はしばらく無言ののち、にわかにこう言って言葉を結んだ。「それを聞かせてもらえませんか?」
「どんなことでもお訊きになってかまわないですよ」と検事はひややかな、いかめしい態度で答えた。「事件の事実的方面に関したことならば、どんなことでもお訊き下さい。繰り返して申しますが、われわれはあなたからどんな問いを出されても、それに対して十分満足な答えをすべき義務があるのです。お訊ねの下男スメルジャコフを見つけた時、当人は立てつづけに十度も繰り返して襲ったかと思われる非常に烈しい癲癇の発作にかかって、意識を失ったまま病床に横たわっていました。一緒に臨検した医師は患者を診察すると、とても朝までもつまいとさえ言ったほどです。」
「ふむ、それじゃ親父を殺したのは悪魔だ!」と、ミーチャは思わず口走った。彼はその瞬間まで『スメルジャコフだろうか、それとも違うかしらん?』としきりに自問していたらしい。
「またあとで、もう一度この事実に戻ることとして」とニコライは決めた。「今はさきほどの陳述をつづけていただけないでしょうか。」
 ミーチャは休息を乞うた。検事側は慇懃にそれを許可した、一息いれると、彼はつづきを話しだしたが、よほど苦しそうであった。彼は精神上の苦痛と、屈辱と、動乱とを感じたのである。それに、検事も今はわざとのように、『瑣末な事柄』に拘泥して、絶えずミーチャをいらだたせはじめた。ミーチャが塀の上に馬乗りになって、自分の左脚に縋りついたグリゴーリイの頭を杵で撲りつけると、そのまますぐ倒れた老僕のほうへ飛びおりた、という話をするやいなや、検事は急にミーチャを押し止めて、塀の上に馬乗りになっていた時の様子を、もっと詳しく話してもらいたいと言った。ミーチャはびっくりして、
「なに、それはこういうふうに腰かけたんです、馬乗りに跨ったんです、一方の脚をあっちに、いま一方をこっちに……」
「で、杵は?」
「杵は手に持っていました。」
「かくしの中じゃなかったですか? あなたはそれを詳しく記憶していますか? どうです、あなたは強く手を振りましたか?」
「それはきっと強かったでしょうね、そんなことを何にするんです?」
「あなたがそのとき塀の上に腰かけたと同じように、一つその椅子に腰をかけて、どっちへどう手をお振りになったか、よくわかるように、手真似をして見せていただけませんか。」
「あなた方は、また私をからかっていられるんですね。」ミーチャは傲然と訊問者を見つめながら、こう訊いた。が、相手は瞬き一つしなかった。
 ミーチャは痙攣的にくるりと向きを変えて、椅子の上に馬乗りになって片手を振った。
「こういうふうに撲ったのです! こういうふうに殺したのです! それから、何が入り用です?」
「有難う。では、ご苦労でしょうが、も一つ説明していただけませんか、一たい何のために下へ飛びおりたんです、どういう目的があったのです、つまり、どういうつもりだったのです。[#「つもりだったのです。」はママ]」
「ちょっ、うるさい……倒れた者のそばへ飛びおりたのは……何のためだったかわかりません!」
「あれほど興奮していながらですか? 逃げ出していながらですか?」
「そうです、興奮していながらです、逃げ出しながらです。」
「では、あの男を助けようとでも思ったのですか?」
「助けるなんて……そうです、あるいは助けるためだったかもしれないが、よく記憶していません。」
「あなたは夢中だったのですか? つまり、一種の無意識状態だったのですか?」
「おお、どういたしまして、決して無意識状態におちいったのじゃありません。私はすっかり記憶しています。一糸乱れず、こまかいことまですっかり記憶しています。傷を見るために飛びおりたんです。そして、ハンカチであれの血を拭いてやりました。」
「われわれもあなたのハンカチを見ました。では、あなたは倒れた者を蘇生させてやりたいと思ったのですね。」
「そんなことを思ったかどうか知りません。ただ生きているかどうかを確かめたかったのです。」
「ははあ、確かめたかったのですか? で、どうでした?」
「私は医者ではないから、どっちかわからなかったです。で、殺したんだと思って逃げ出しました。ところが、あれは蘇生したんです。」
「結構です」と検事は訊問を結んだ。「有難う。ただそれだけが聞きたかったのです。さあ、ご苦労ですが、その先をつづけて下さい。」
 哀れにも、ミーチャは憐愍の心から飛びおりて、死せる老僕のそばに立ちながら、『運の悪いところへ爺さんが来あわしたもんだ。しかし、どうも仕方がない。そのままそこに臥てるがいい』というような、哀れな言葉さえ発したのを記憶していながら、それを話そうなどという考えは、てんで浮ばなかった。ところが、検事はただ次の結論を引き出したばかりである。この男が『あんな瞬間にあんなに興奮していながら』、わざわざ