京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P396-407   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

慄えるようであった。もしちょうど今日という日を狙ってフョードルのところへ行くことに決めたらどうしよう? これを心配したために、彼はグルーシェンカにも言わず、また家の人にも、『たとえ誰が来ても、自分がどこへ行ったか、決して知らせてはならぬ』と言いふくめて、出発したのである。『ぜひとも、ぜひとも今日夕方までには帰らなくちゃならん』と彼は馬車に揺られながら繰り返した。「あの猟犬《レガーヴィ》のやつは、こっちへ引っ張って来て……そして、この交渉をまとめてもいい……」ミーチャは心臓のしびれるような心持でこう空想した。しかし、悲しいことには、彼の空想は計画どおりに実現されないような、よくよくの運命を背負っていたのである。
 第一、彼はヴォローヴィヤ駅から村道をたどって行くうちに、時刻を遅らしてしまった。村道は十二露里でなく、十八露里あったのである。第二に、イリンスキイ長老は自宅にいなかった。隣村へ出かけたのである。ミーチャが疲れはてた以前の馬を駆って、その隣村へ赴き、そこでほうぼうさがし廻っているうち、もうほとんど夜になってしまった。『長老』は見受けたところ、臆病そうな愛想のいい小男であった。彼がさっそく説明したところによると、この猟犬《レガーヴィ》は、初めの間こそ自分の家に泊っていたが、今は乾   村《スホイ・パショーロク》へ行っている。今日はその森番小屋に泊ることになっているが、それはやはり、森の売買に関する仕事のためであった。いますぐ猟犬《レガーヴィ》のところへ連れて行ってくれ、『そうすれば、自分を助けることになるのだ』というミーチャの熱心な願いに対して、長老も初めのうちは渋っていたけれども、とにかく納得して、乾   村《スホイ・パショーロク》へ連れて行くことになった。どうやら好奇心も手伝ったらしい。ところが、まるでわざとのように、長老は『かち』で行こうと言いだした。僅か一露里と『ぽっちり』きゃない[#「きゃない」はママ]ほどの道のりだから、というのであった。ミーチャはむろんそれに同意し、例の大股でどしどし歩きだしたので、哀れな長老は、ほとんど駆け出すようにしながら、ついて行った。彼は大して年よりというほどでもなく、なかなか用心ぶかい男であった。
 ミーチャはさっそくこの男を相手に、自分の計画を話しだした。そして、神経的な調子で熱心に、猟犬《レガーヴィ》に関する注意を求めなどして、途中たえず話しつづけた。長老は注意ぶかく耳を傾けたが、あまり忠言めいた口はきかなかった。ミーチャの問いに対しても、逃げよう逃げようとし、『存じません、まったく存じません、わたくしなどに何がわかりましょう』などと答えるのみであった。ミーチャが遺産に関する父との衝突を話した時、長老はびっくりしたくらいである。なぜと言うに、彼はフョードルに対して、一種の従属関係に立っていたからである。とはいえ、彼はミーチャに向って、どういうわけであの百姓出の商人ゴルストキンを、猟犬《レガーヴィ》などと呼ぶのかと訊ねた後、あの男は本当に猟犬《レガーヴィ》であるけれど、この名を呼ばれると恐ろしく腹を立てるところから見ると、猟犬《レガーヴィ》でないようでもあるのだから、必ずゴルストキンと呼ばなければならぬと、くれぐれも言いふくめた。『でなければ、とても話はまとまりませんよ。あなたの言うことなぞ、聞こうともしませんからな』と彼は言葉を結んだ。
 ミーチャはちょっと性急な驚きを示して、サムソノフ自身もそう呼んでいたと説明した。この事情を聞いて、長老はたちまちこの話を揉み潰してしまいた。もし彼がその時すぐミーチャに自分の疑惑を打ち明けたら、そのほうがかえって好都合だったろう。ほかではない、もしサムソノフが猟犬《レガーヴィ》のような百姓男のところへ行けと教えたのなら、それは何かのわけで、からかおうと思ってしたことではあるまいか、何か不都合なことがあるのではなかろうか、という疑惑であった。けれど、ミーチャはそんな『つまらないこと』をぐずぐず言っている暇がなかった。彼はひたすら先を急いでぐんぐん歩いた。やっと乾   村《スホイ・パショーロク》へ着いた時、自分らが歩いた道は一露里や一露里半でなく、確かに三露里あることを悟った。これも彼に癇ざわりであったが、黙って我慢した。二人は小屋へ入った。長老と懇意な森番は、小屋の片方に住んでいて、廊下を隔てたいま一方の小綺麗ながわには、ゴルストキンが陣取っていた。
 一行はこの小綺麗なほうへ入って蝋燭をつけた。小屋は暖炉で恐ろしく温まっていた。松の木のテーブルの上には、火の消えたサモワールがおいてあり、そのすぐそばには茶碗をのせた盆や、すっかり飲み干したラム酒の瓶や、飲みさしのウォートカの角罎や、噛りさしのパンなどがおいてあった。当の泊り客は、枕の代りに上衣を丸めて頭の下へ敷き、重々しい鼾をかきながら、長々と寝そべっていた。ミーチャは、どうしたものかちょっと迷った。『もちろん、起さなくちゃならん、おれの用事は非常に大切なことなのだ。おれはあんなに急いで来たのだし、また今日じゅうに急いで帰らなくちゃならないのだ』と、ミーチャは気をいらち始めた[#「いらち始めた」はママ]。しかし、長老も番人も自分の意見を吐かないで、黙って突っ立っていた。ミーチャはずかずかとそばへ寄って、自分で起しにかかった。猛烈な勢いで起してみた。けれど、猟犬《レガーヴィ》は目をさまそうとしなかった。『この男は呑んだくれてるのだ』とミーチャは合点した。『しかし、おれはどうしたらいいんだろう。ああ、おれはどうしたらいいんだろう?』とつぜん彼は恐ろしい焦躁を感じ、眠っている人の手足を引っ張ったり、頭を揺ぶったり、抱き起して床几の上に坐らしてみたりした、しかし、それでも、かなり長い努力の後にかち得た結果は、猟犬《レガーヴィ》がわけのわからぬことを唸ったり、不明瞭ではあるが、烈しい調子で罵ったりしたにすぎなかった。
「駄目ですよ、あなた。も少しお待ちになったほうがよろしいでしょう。」とうとう長老がこう言った。
「いちんち飲んでおりましたよ」と番人が応じた。
「とんでもない!」とミーチャが叫んだ。「僕がどんなに必要に追られているか、僕が今どんな絶望に突き落されてるか、それが君たちにわかったらなあ!」
「駄目ですよ、もう朝までお待ちになったほうがよろしゅうございますよ」と長老は繰り返した。
「朝まで? 冗談じゃない、それはできない相談だ!」彼は絶望のあまり、また酔いどれに飛びかかって起しかけたが、すぐに自分の努力の甲斐なさを悟り、手を引いてしまった。長老は黙っていた。寝ぼけた番人は陰気くさい顔をしていた。
「本当に現実というやつは、なんて恐ろしい悲劇を人間の身の上に引き起すのだろう!」ミーチャはもうすっかり絶望しきってこう言った。汗が顔から流れた。長老はその瞬間を利用して、たとえ今うまくこの男を起すことができても、酔っ払っているところだから、どんな話もできるわけがない、『あなたのご用は大切なことですから、明日の朝までお延ばしになったほうが確かでございますよ……』ときわめて道理ある意見をのべた。ミーチャは両手をひろげて同意した。
「おれはな、爺さん、蝋燭をつけてここにこうしていながら、いいおりを見つけることにするから、――目をさましたらすぐ始めるんだ……蝋燭代は払うよ」と彼は番人に向って言った。「宿賃もやはり出すよ、ドミートリイ・カラマーゾフの名にかかわるようなことをしやしない。ところで、長老、あなたと僕はどんなふうに陣取ったものかなあ。あなたはどこに寝るつもりですね?」
「いいえ、わたくしはもう家へ帰ります、この男の牝馬に乗って行きますから」と彼は番人を指さした。「では、これでごめん蒙ります。どうか十分ご満足のまいりますように。」
 で、話はそのとおりにきまった。爺さんは牝馬に乗って出かけた。彼はやっとかかり合いを逃れたのが嬉しくもあったが、それでもやはり当惑そうに首を振りながら、恩人フョードルにこの奇怪な出来事を、時の遅れぬうちに報告しなくてもいいだろうかと思案した。
『でないと、ひょっともしこれが耳に入ったら、立腹のあまり今後目をかけていただけぬかもしれん。』
 番人は体じゅうぼりぼり掻きながら、黙って自分の小屋へ引き取ってしまった。ミーチャは彼のいわゆる『いいおりを見つける』ために、床几へ腰をおろした。深い恐ろしい憂愁が重苦しい霧のように、彼の心を包んだ。何という深い恐ろしい憂愁! 彼はじっと坐って、もの思いにふけったが、何一つしっかりした考えが出て来なかった。蝋燭は燃え、蟋蟀はかしましく歌って、暖炉を焚きすぎた部屋は、たえがたいほど息苦しかった。ふと彼の目に庭が浮んだ、庭の向うには細い道がある、と、父の家の戸が忍びやかに開いて、グルーシェンカがその中へ駆け込んだ……彼は床几から跳りあがった。
「悲劇だ!」と歯を鳴らしながら言った。そして、眠れる男に近よって、じっとその顔を眺め始めた。まださして年をとっていない痩せた百姓で、顔は思いきって細長く、亜麻色の髪は渦を巻いて、赤みがかった頤鬚はひょろひょろと長かった。更紗のルバーシカに黒いチョッキを着こんでいたが、そのかくしからは銀時計の鎖が覗いていた。ミーチャは恐ろしい憎悪をいだきながら、この面《つら》がまえを見つめていた。とりわけ、この男の髪が渦を巻いているのが、なぜか憎くてたまらなかった。しかし、何よりいまいましいのは、自分ミーチャがあれだけのことを犠牲にし、あれだけのことを抛って、猶予することのできない用件をかかえながら、へとへとに疲れて立っているにもかかわらず、こののらくら者は、『いま自分の運命を掌中に握っているくせに、まるで別な遊星からでも来た人間みたいに、どこを風が吹くかとばかり鼾をかいている』ことであった。『おお、運命のアイロニーよ!』とミーチャは叫んだが、急に前後の判断を失って、酔いどれの百姓を起しにかかった。彼は一種狂暴な勢いで引っ張ったり、突き飛ばしたり、しまいには擲りつけまでして起そうとした。五分ばかり骨折ってみたが、ふたたび何の効をも奏さなかったので、力ない絶望に沈みながら、自分の床几に戻って腰をおろした。
「馬鹿げてる、馬鹿げてる!」とミーチャは叫んだ。「それに……何という卑屈なことだろう!」突然、彼は何のためやら、こう言いたした[#「言いたした」はママ]。頭が恐ろしく痛み始めた。『いっそ、おっぽり出してしまおうか? 思いきって、帰ってしまおうか?』という考えが彼の頭にひらめいた。『いや、とにかく朝までいよう。もうこうなれば意地にでも残っている、意地にでも! 一たい何だってあんなことのあったあとで、こんなところへのこのこやって来たんだろう? それに、帰るたって乗るものもないじゃないか。今はどうしたって帰れやしないんだ、ああ、何が何だかわかりゃしない!』
 とはいえ、頭はだんだん烈しく痛みだした。じっと身動きもしないで坐っているうちに、彼はいつともなくうとうと寝入ってしまった。察するところ、二時間か、それともいま少し長く眠ったらしい。ふと彼はたえがたい、――声を立てて喚きたいほどたえがたい、頭の痛みに目をさました。両のこめかみはずきんずきんして、額は重く痛かった。目をさましてからも、彼は長いあいだ正気に復することができず、自分の体がどうなったのやら、合点がゆかなかった。ようやくこれは暖炉を焚きすぎたために、恐ろしい炭酸ガスが籠って、運が悪かったら死ぬところだったのだ、と気がついた。しかし、酔いどれの百姓は依然として、長くなって鼾をかいていた。蝋燭は燃えつきて、今にも消えそうであった。ミーチャは大声に喚きながら、ふらふらした足どりで、廊下を隔てた番人の小屋をさして飛んで行った。番人はすぐに目をさました。そして、あっちの部屋に炭酸ガスが籠ったという話を聞くと、さっそく始末に出かけたが、不思議なほど冷淡にこの事実を取り扱っているので、ミーチャは腹立たしい驚きを感じた。
「だが、もしあいつが死んだら、あいつが死んだらその時は……その時はどうするんだ?」とミーチャは憤激のあまり、彼に向ってこう叫んだ。
 戸や窓は開け放され、煙突の蓋も開かれた。ミーチャは水の入ったバケツを廊下からさげて来て、まず最初に自分の頭を冷やし、それから何かの切れを見つけてそれを水に浸し、猟犬《レガーヴィ》の頭にのせてやった。しかし、番人は依然この事件に対して、妙に侮蔑的な態度をとっていたが、窓を開け放して、『これでいいでさあ』と言いすてたまま、火のついた鉄の提灯をミーチャに残して、また一寝入りしに行ってしまった。ミーチャは、窒息しかけた酔いどれの頭を絶えず水で冷やしながら、三十分ばかり何くれと世話をやいた。彼は夜っぴて眠るまいと真面目に決心したが、もうすっかり疲れはてていたので、ほんのちょっと息を入れようと思って腰をおろすと、そのまますぐ目がふさがって、無意識に床几の上に長くなり、死人のように寝入ってしまった。
 彼が目をさましたのはずいぶん遅かった。もうかれこれ朝の九時頃であった。太陽は小屋の二つの窓から、かんかんさし込んでいた。髪の渦を巻いた昨日の百姓は、もうちゃんと袖無外套を着けて、床几に腰かけていた。その前には、新しいサモワールと新しい角罎がおいてある。昨日あった古いほうの罎を平らげてしまった上に、新しいほうのも半分以上からにしている。ミーチャはやにわに跳ね起きた。その途端、百姓はまた酔っ払っている、取り返しのつかぬほどひどく酔っ払っている、ということを悟った。彼はしばらく目を皿のようにしながら、百姓を見つめていた。こっちはこっちで、無言のままこすそうに相手を見廻していたが、その様子が何だか癪にさわるほど平然として、人を馬鹿にしたように高慢であった。少くとも、ミーチャにはそう感じられた。彼はそのほうへ飛びかかって、
「失礼ですが、実は……私は……あなたもたぶん、あっちの小屋にいるここの番人からお聞きになったでしょうが、私は中尉ドミートリイ・カラマーゾフです。今あなたと森のことでかけ合いをしている、カラマーゾフ老人の息子です。」
「でたらめ言うない!」と百姓はいきなりしっかりした、落ちついた調子で呶鳴りつけた。
「どうしてでたらめです? フョードル・パーヴロヴィッチをご存じでしょう?」
「フョードル・パーヴロヴィッチなんてやつは、ちっともご存じないわい。」重たそうに舌を廻しながら、百姓はこう言った。
「森を、あなたは森を親父から買おうとしておいでになるじゃありませんか。まあ、目をさまして、気分をしっかり持って下さい。イリンスキイ長老が僕をここへ連れて来たのです……あなたは、サムソノフに手紙をお出しになったでしょう。それで、あの人が僕をここへよこしたのです……」とミーチャは息を切らした。
「でたらめだい!」と猟犬《レガーヴィ》はまたはっきりした調子で呶鳴りつけた。ミーチャは足の冷たくなるのを感じた。
「とんでもない、これは冗談じゃありませんよ! あなたは酒に酔っておいでかもしれませんが、もういい加減にまともな口をきいて、人の言うことも聞きわけられそうなもんじゃありませんか……さもなければ……さもなければ、僕は何が何だかわかりゃしない!」
「貴様は染物屋だ!」
「とんでもない、僕はカラマーゾフです、ドミートリイ・カラマーゾフです。あなたに用談があって……有利な相談があって来ました……非常に有利なことで……しかし、あの森に関係があるのです。」
 百姓はものものしげに鬚を撫でた。
「なんの、貴様は請負仕事を途中で投げ出したりして、悪党になってしまったのだ。貴様は悪党だぞ!」
「誓って、そんなことはありません、それはあなたの考え違いです!」とミーチャは絶望のあまり両手を捻じ上げた。百姓は相変らず鬚をしごいていたが、突然こすそうに目を細めて、
「それよりか、貴様に一つ訊きたいことがあるんだ。一たい穢らわしいことをしてもかまわないって法律が、どこかにあるかい、え? 貴様は悪党だ、わかったか?」
 ミーチャは悄然としてうしろへさがった。と、ふいに『何か額をどやしつけられたような気がした』(これはあとで彼自身の言ったことである)。一瞬にして、心の迷いがさめてしまった。『とつぜん炬火《たいまつ》のようなものがぱっと燃えあがって、僕はすべてを理解したのだ』と彼は語った。自分は何といっても分別のある人間だ、それがどうしてあんな馬鹿な話にうかうか乗って、こういう仕事に手を出しなばかりか、ほとんど一昼夜の間、その馬鹿なことをやめようとせず、猟犬《レガーヴィ》などという人間を相手にして、その頭まで冷やしてやる気になったのだろう、と、彼はわれながら不思議な気持がして、じっと棒のように立ちすくんでいた。『いや、この男は酔っ払ってるんだ、へべれけに酔っ払ってるんだ。そして、まだ一週間くらいは、がぶ呑みに呑むだろう、――してみると、待ってたって仕方がないじゃないか? それどころか、もしサムソノフが、わざとおれをこんなところへよこしたとすれば、どうしたらいいのだ? それどころか、もしあれが……ああ、おれは何ということをしでかしたのだ!」
 百姓はじっと坐って彼を見やりながら、せせら笑っていた。これがもしほかの場合であったなら、ミーチャは憎悪のあまり、この馬鹿者を殺してしまったかもしれぬ。しかし、今は彼も子供のようにすっかり弱くなっていた。静かに床几へ近よって、自分の外套をとり、黙ってそれを着おわると、そのまま小屋を出てしまった。いま一方の小屋には番人も見あたらなかったし、誰ひとりいなかった。彼はかくしから小銭で五十コペイカだけ取り出して、宿料、蝋燭代、それに厄介をかけた礼としてテーブルの上へのせておいた。小屋を出てみると、あたりは一面の森で、ほかには何一つなかった。彼は小屋からどっちへ曲ったらいいのか、――右か左かそれさえわきまえず、でたらめに歩きだした。昨夜、長老とここへ来た時には、急いだために道など少しも気をつけなかった。彼は誰に対しても、サムソノフに対してすら、復讐の念を感じなかった。ただ『失われたる理想』をいだきながら、どこへ向けて歩いているかにはいささかも頓着なく、ふらふらと無意味に森の径をたどった。今はどんな子供でも、彼を喧嘩で負かすことができた。それほど彼は精神的にも肉体的にも、とつぜん力を失ってしまったのである。けれども、とうとう、どうにかこうにか森の外へ出ることができた。ふと、刈入れのすんだ真裸な野が、見渡すことのできないくらい曠漠として、彼の眼前にひらけてきた。『何という絶望、何という死滅があたりを領していることか!』と彼は繰り返した、絶えず前へ前へと進みながら。
 彼を救ったのは通行の人であった。馬車屋がどこかの年よった商人《あきんど》を乗せて、村道を過ぎでいたのである。馬車が追いついた時、ミーチャは道を訊ねた。すると、彼らもやはりヴォローヴィヤ駅へ行く、ということがわかった。両方から話し合った末、ミーチャを合乗りとして入れることになった。三時間ばかりたって目的地へ着いた。ヴォローヴィヤ駅でミーチャはすぐさま、町へ行く駅遞馬車を命じたが、突然たえ得られぬほどの空腹を感じているのがわかった。馬を車につけている間、彼は玉子焼を拵えてもらい、見る間にそれを平らげて、大きなパンの切れをすっかり食べつくした上、その辺にあった腸詰も腹の中へ入れてしまった。ウォートカも三杯かたむけた。腹ができあがると元気がついて、胸の中もせいせいしてきた。馭者を叱陀して、街道を飛ばしているうちに、『あのいまいましい金』を今日じゅうに調達することのできる、今度こそ『間違いのない』新しい計画を作り上げた。
『まあ、思ってもみろ、ちょっと考えただけでも厭になるじゃないか、僅か三千やそこいらのはした金で、人間ひとりの運命がめちゃめちゃになるなんて!』と彼は馬鹿にしたような調子で叫んだ。『今日こそ必ず解決してみせる!』こういうふうで、もしグルーシェンカに関する想念、グルーシェンカに何か変ったことが起りはせぬかという想念が、絶えず彼の頭に浮ばなかったら、彼はもともとどおりすっかり愉快な気持になったかもしれない。しかし、彼女に関する想念が鋭い剣のように、ひっきりなしに彼の心をさし貫くのであった。やがて、ようやく町へ帰り着いたミーチャは、即刻グルーシェンカのもとへ駆けつけた。

   第三 金鉱

 それは、グルーシェンカがラキーチンに向って、さもさも恐ろしそうに話して聞かせたミーチャの来訪である。そのころ彼女は、例の『知らせ』を待っていたので、昨日も今日もミーチャが姿を見せないのを悦んで、どうか神様のお計らいで自分の出発まで来ないでくれるようにと望んでいた。ところへ、ふいに姿を現わしたのである。それから先はもうわかっている。彼女は男をまいてしまうために、さっそく自分をサムソノフの家まで送るように説き伏せた。『金の勘定』にぜひぜひ行かねばならぬ、といったふうに持ちかけたのである。ミーチャはすぐさま送って来たが、クジマーの門ぎわで別れる時、彼女は自分を家まで送り帰すために、十一時すぎに迎えに来るという約束を男にさせた。ミーチャはこの命令にも、やはり満足を感じた。『クジマーのところにいるといえば、つまり親父のところへは行かないのだ……もしあれが嘘をつかなかったら』と彼はすぐこうつけたした。しかし、彼の目には嘘をついたように思われなかった。
 つまり、彼はこういうふうな性質のやきもち焼きなのであった、――ほかではない、愛する女と別れている間は、留守ちゅう女の身にどういうことが起るだろうと案じたり、またどうかして女が自分に『背き』はしないだろうかなどと、恐ろしいことのありたけを考えつくした挙句、もうきっと背いているにちがいないと心底から思い込み、惑乱して死人のようになって女のところへ駆けつけるが、女の顔を、――愉快そうに笑っている優しい女を一目見るなり、もうさっそく元気を取り戻して、すべての疑いはどこへやら、嬉しいような恥しいような心持で、われとわが嫉妬を罵るのである。ミーチャも、グルーシェンカを送りとどけると、わが家をさして駆けだした。おお、彼は今日じゅうに仕遂げなければならぬことが、山ほどある! しかし、少くとも、心は重荷をおろしたように軽くなった。『ただ少しも早く[#「少しも早く」はママ]スメルジャコフを掴まえて、昨夜なにか変ったことがなかったか訊かなきゃならん。もしあれが親父のところへ行ったとすれば、それこそ大変だ、おお!』という考えが彼の頭にひらめいた。こういうありさまで、まだ自分の家まで走りつかぬうちに、またもや嫉妬の念が、休みなき彼の心に動きだしたのである。
 嫉妬! 『オセロは嫉妬ぶかくない、いや、かえって人を信じやすい』とはプーシュキンの言葉である。そして、この言葉一つだけでも、わが大詩人の異常なる洞察の深さが証明せられたものと言ってよい。オセロは単に心をめちゃめちゃに掻き乱され、全人生観を濁されたというにすぎない。なぜなれば、彼の理想が亡びたからである[#「彼の理想が亡びたからである」に傍点]。オセロは身をひそめて探偵したり、隙見をしたりなぞ決してしない。彼は人を信じやすい。それゆえ、彼に妻の不貞を悟らせるためには、非常な努力を費してつっ突いたり、後押ししたり、油をかけたりしなければならぬ。本当のやきもち焼きはそんなものでない。本当のやきもち焼きが何らの良心の呵責をも感ずることなく、どれくらい精神的堕落と汚辱のうちに安住し得るかは、想像さえも不可能である。しかも、それらすべての人が、陋劣、醜悪な魂の所有者であるかというに、決してそうでない。それどころか、かえって高潔な心情を具え、自己犠牲の精神に充ち、清浄な愛を『いだいた人が、同時にテーブルの下に隠れたり、卑屈きわまる人間を抱き込んだり、間諜や立聞きなどという醜悪な行為を、平然とすることができるのだ。
 オセロはいかなることがあろうとも、決して妥協し得なかったに相違ない。たとえ彼の心が幼児のごとく穏かで無邪気であろうとも、赦す赦さぬは別として、妥協することはできなかったろう。ところが、本当のやきもち焼きはまるで違う。ある種のやきもち焼きがどれくらいまで妥協し赦し得るかは、想像することも困難である。やきもち焼きは誰より最も早く赦すものである。それはすべての女が呑み込んでいる。やきもち焼きは非常に早く(もちろん、はじめ恐ろしい一幕を演じたあとで)、火のごとく明らかな不貞をも赦すことができる。みずから目撃した抱擁や接吻さえ赦すことができる。ただし、これは『最後の』出来事で、競争者は今からすぐ世界の果てへ去っていなくなってしまうとか、もしくはその恐ろしい競争者の来る気づかいのないところへ、自分で女を連れて逃げてしまう、といったようなことが考えられる場合の話である。
 もちろん、妥協の心が生ずるのはごく僅かな時間にすぎない。なぜと言うに、もしその競争者がほんとうに姿を隠してしまうにしても、すぐ翌る日は新しい別な競争者を拵えて、新しい競争者にやきもちを焼くからである。それほどまでに監視しなければならぬ愛に、どんな有難味があるのだろう? それほど一生懸命に見張らねばならぬ愛が、どんな価をもっているのだろう? とまあ、よそ目には思われるけれども、本当のやきもち焼きは決してそんなことを考えない。そのくせ、彼らの間にはまったく高潔な心情を有する人たちも、往々にして見受けられるものである。なおここに注意すべきは、高潔な心情を有するこれらの人々が、どこかの小部屋に立って盗み聞きしたり、探偵したりする一方、もちまえの『高潔なる心情』によって、われから好んで沈み込んだ汚辱の深さを明らかに了解してはいるくせに、少くも小部屋の中に佇んでいる間は、決して良心の呵責を感じないものである。
 ミーチャもグルーシェンカを見ると同時に、嫉妬の情はどこへやらけし飛んで、一瞬の間に信じやすい綺麗な心持になってしまった。そればかりか、むしろ自分で自分の汚い感情を卑しんだほどである。しかし、これも要するに次の実情を証明するにすぎない。ほかではない[#「ほかではない」はママ]、この女に対する彼の恋には、彼自身の考えているよりもはるかに高尚なあるものがふくまれているので、かつてアリョーシャに説いたような、『肉体の曲線美』や情欲ばかりではない。が、そのかわりグルーシェンカの姿が見えなくなると、ミーチャはすぐにまた、彼女が卑劣で狡猾な不貞の所業を犯しているのではないかと疑い始めた。良心の呵責などはこのとき少しも感じなかった。
 こうして、ふたたび嫉妬心が彼の心に沸き立ち始めた。何にしても急がなくてはならぬ。第一着手として、急場の間に合せに、ほんの少しばかりでも金を手に入れる必要がある。昨日の九ルーブリは旅行のために、ほとんどなくなってしまった。しかし、まるきり一文なしでは、むろん、手も足も出ない。けれど、彼はさっき馬車の上で、新しい計画とともに、急場の間に合せに金を拵える方法を、もうちゃんと工夫しといたのである。彼は優秀な決闘用のピストルを一対、薬莢つきで所持していた。今までこれを質にも入れずにいたのは、自分の所有品の中で、これを一ばん愛好していたからである。
 彼はもうずっと前から料理屋の『都』で、ある若い官吏とちょっとした近づきになっていたが、何かの機会に同じ料理屋で小耳に挾んだところによると、この若い裕福な官吏は熱心な武器の愛好者であり、ピストルや連発拳銃《レヴォルヴァ》や匕首を買い集めては、居間の四|壁《へき》にかけ並べ、知人に見せて自慢している、そしてピストルの構造や、装填法や、発射法などを説明するのが、すこぶる得意だとのことであった。
 ミーチャは、長くも考えないで、すぐさまこの人のもとへ赴き、十ルーブリでピストルを質に取ってくれないかと申し込んだ。若い官吏は非常に悦んで、すっかり手放してしまわないかと勧めたが、ミーチャは承知しなかった。で、彼は利子なぞ決して取らないからといって、十ルーブリの金を渡した。二人は親友として別れた。ミーチャは急いだ。彼は少しも早く[#「少しも早く」はママ]スメルジャコフを呼び出そうと、フョードルの家の裏手にあたる例の四阿《あずまや》さして飛んで行った。こういうふうにして、またもや次のごとき事実が成立したのである。すなわち、これから筆者が物語ろうとしているある事件発生の三四時間まえに、ミーチャは一コペイカの金も所持していなかった。そして、自分の愛玩品を十ルーブリで質入れしたが、三時間の後には、幾千という金が彼の手に握られていた、――しかし、筆者はまた先廻りをしている。
 マリヤ(フョードルの隣家の娘)のところでは、スメルジャコフ発病の報知がミーチャを待ちもうけていて、非常に彼を驚かせ、かつ当惑さした。彼は穴蔵へ墜落の顛末から、医師の来診、フョードルの心づかいなどに関する物語を、すっかり聞きとった。弟のイヴァンがけさモスクワへ出発したということも、興味をもって聞いた。『きっとおれより先にヴォローヴィヤを通過したんだろう』とミーチャは考えた。とはいえ、スメルジャコフはひどく彼を心配さした[#「心配さした」はママ]。『これからどうしたらいいんだろう、誰が見張りをしてくれるんだろう。誰がおれに内通してくれるんだろう?』彼は親子のものに向って、ゆうべ何か気づいたことはないかと、貪るような調子で根掘り葉掘りして訊いてみた。こちらは、彼が何を訊きたがっているか、よくわかっていたので、決して誰も来はしなかった、ゆうべはイヴァンも泊ったことだしするから[#「ことだしするから」はママ]、『もう万事きちんとしておりました』と言って、彼の疑いを解いた。彼は考え込んだ。どうあっても、今日もやはり見張りをしなくてはならないが、どこにしたものだろう? ここにするか、それともサムソノフの門前にするか? 彼は臨機応変でどっちへも行かねばならぬと決心したが、しかし、今は、今は……というのは、ほかでもない。今はあの馬車の中で案出した『計画』、今度こそ間違いのない新しい計画が彼の目前に儼として控えているので、もはやその実行をゆるがせにするわけにゆかなかった。ミーチャはこのために、一時間だけ犠牲に供することとした。『一時間のうちに、すっかり解決して是非を見きわめ、それから、それからまず第一にサムソノフの家へ駆けつけて、グルーシェンカがいるかいないか調べてみる。そうして、またすぐにここへ引っ返し、十一時まで待っていよう。そのあとで、もう一度サムソノフのところへ行って、あれを家まで送り返すんだ』と、こう手はずを決めた。
 彼は家へ飛んで帰って、顔を洗い、頭を梳き上げ、服を浄め、着替えをすまして、ホフラコーヴァ夫人のもとへ赴いた。悲しいかな、彼の『計画』はここにあった。彼はこの婦人から三千ルーブリの金を借りようと決心したのである。何よりも注意すべきは、夫人が自分の乞いを拒まないだろうというなみなみならぬ確信が、ふいに咄嗟の間に生じたことである。もしそんな確信があったくらいなら、なぜ初めから自分と同じ社会に属するこの女のところへ来ないで、話すべき言葉にさえ迷うほど肌合いの違うサムソノフのとこなぞへ出かけたのだろう、こういう不審が起るかもしれないが、それにはわけがある。ほかでもないが、この一月ばかり、彼はホフラコーヴァ夫人とだいぶ疎遠になっているし、以前とてもあまり親しくしていたわけではない。その上、彼女自身ミーチャが大嫌いなのを、彼もよく承知していたからである。この婦人は最初からミーチャを憎んでいた。それもただ、ミーチャがカチェリーナの許嫁《いいなづけ》だからというまでのことである。彼女はカチェリーナがミーチャを棄てて、『古武士のように人格の完成した、ものごしの端正な優しいイヴァン』と結婚するのを、夢中になるほど望んでいた。ミーチャの『ものごし』などは、憎らしくてたまらなかったのである。ミーチャはミーチャで、夫人を冷笑していたので、ある時こんなことを言ったことがある。『あの婦人はなかなかさばけていて元気がいいが、しかしそれと同じくらいに無教育だよ。』
 ところが、今朝ほど馬車の中で一つの輝かしい想念が、彼の心を照らしたのである。『もしあの婦人がそれほどまでに、おれとカチェリーナの結婚を嫌っているならば(実際、あの婦人はヒステリイになりそうなほど嫌っているのだ)、今この三千ルーブリを拒絶するはずがない。なぜって、おれはこの金をもってカーチャを棄て、永久にここから逃げ出して行くんじゃないか。ああいうわがままな上流の婦人たちは、何か非常に気まぐれな望みを起すと、自分の望みどおりにするためには、どんなものだって惜しみはしない。それに、あの婦人は大した金持なんだからなあ』とミーチャは考えた。
 ところで、『計画』そのものはどうかというに、それは前と同じくチェルマーシニャに対する、自分の権利の提供であった。しかし、昨日サムソノフに対したような、商業上の目的を持ってはいなかった。つまり三千ルーブリの代りにその倍額、すなわち六七千ルーブリの利益を引き出すことができるなどといって、この婦人を誘惑しようとは思わなかった。ただ負債に対する正当な抵当にしよう、というだけのつもりであった。
 この新しい着想を展開させてゆくうちに、ミーチャは有頂天になってしまった。これは、事を始める時とか、何か急な決心をした場合などに、いつも彼の心に生ずる現象であった。彼はすべて自分の新しい思いつきに、熱情を傾けて没頭するのが常であった。それでも、ホフラコーヴァ夫人の家の階段に足をかけた時、背中に恐怖の悪寒を感じた、これこそ自分の最後の希望であって、もうこれから先は、世界じゅうに何一つ残っていない。もしこれが失敗に帰したら、『僅か三千ルーブリのために斬取り強盗をするよりほかはない……』ということを、この一瞬に初めて完全に、数学的に明瞭に自覚したのである。彼がベルを鳴らしたのは、もはや七時半であった[#「もはや七時半であった」はママ]。
 初めのうち、状況は彼に微笑を示すかのように思われた。彼が取次ぎを頼むやいなや、すぐさま恐ろしく急に案内してくれた。『まるでおれを待ってたようだ、』ちらとこんな考えが彼の頭をかすめた。つづいて彼が客間へ案内された時、ほとんど駆け込むように、女主人公が入って来て、本当に待ちかねていたと告げるのであった。
「待ちかねてました、待ちかねてました。まったくあなたが来て下さろうとは、わたしにとって思いもよらないことでしょう、ね、そうじゃありませんか。けれども、わたしはあなたを待っていましたの。わたしの直覚力に感心なすったでしょう。ドミートリイさん、わたし今日あなたがいらっしゃるに相違ないと、朝じゅう信じきっていましたの。」
「それはまったく不思議ですね、奥さん、」不器用に腰をおろしながら、ミーチャはこう言った。「しかし……僕は非常に重大な用件で伺ったのです。重大な中でも重大な用件で……しかし、奥さん、それは僕にとって、僕一人だけにとって重大なのです。しかも、火急を要する……」
「ええ、非常に重大な用件でいらしったのです、承知してます。それは予感などという問題じゃありません、保守的な奇蹟の要求でもありません(あなたゾシマ長老のことをご存じですか)。これは、これは数学の問題なんです。なぜって、カチェリーナさんにあんなことが起ったあとで、あなたがいらっしゃらないはずがないんですもの、ええ、はずがありません、はずがありません。それは数学的に明瞭です。」
「現実生活のレアリスムです、奥さん、これなんです! しかし、どうぞ一通り……」
「まったくレアリズムですの、ドミートリイさん。わたしは今すっかりレアリスムの味方です。わたし今まであんまり奇蹟などということを教え込まれていたものですから……あなたゾシマ長老のなくなられたことをご存じですか?」
「いや、今が聞き始めです、奥さん、」ミーチャはちょっと驚いた。彼の頭にはちらとアリョーシャの姿がひらめいた。
「けさ夜の明けないうちでした。それに、どうでしょう……」
「奥さん」とミーチャは遮った。「僕はいま自分が非常な絶望におちいって、もしあなたが助けて下さらなかったら、何もかもがらがらになってしまう、まず誰よりも自分がまっさきにがらがらになってしまう、ということだけしか考えられないのです。言い廻しの卑俗なのはお赦し下さい。僕は夢中なのです。熱病にかかってるのです……」
「知ってます、知ってます。あなたは熱病にかかってらっしゃるんです、わたし何でも知ってます。あなたはそれよりほかの心持になれないんですよ。あなたのおっしゃることは、何でも初めからわかっています。わたし前《ぜん》からあなたの運命を気にかけていましたの、ドミートリイさん、あなたの運命から目を放さないで研究していますの……ええ、まったくのところ、わたしは経験のある魂の医者ですからね。」
「奥さん、あなたが経験のある医者でしたら、僕はその代り経験のある患者です」とミーチャはやっとの思いでお愛想を言った。「もしあなたが僕の運命を研究して下さる以上、滅亡に瀕しているその運命を助けても下さるだろう、というような気がします。しかし、そのためには、僕の計画を一通り話さしていただきたいのです。実はその計画をお勧めしようと思って、大胆にもお宅へ伺ったようなわけなんです……それに、あなたから期待していることも聞いていただきたいので……僕が伺いましたのはね、奥さん……」
「話さないでおおきなさい、それは第二義にわたりますわ。わたしが人を助けるのは、あなたが初めてじゃありません。あなたはたぶんわたしの従妹のベリメーソヴァをご存じでしょう。あれのつれあいが破滅に瀕した時、――あなたの適切なお言葉を借りると、がらがらになりかけた時、どうしたとお思いになります? わたしが馬匹飼養を勧めてやったので、今では立派に栄えております。あなた馬匹飼養の観念を持ってらっしゃいますか、ドミートリイさん?」
「ちっとも持っていません、奥さん、――ええ、奥さん、ちっとも持っていません!」とミーチャは神経的にいらいらしながら叫んで、ちょっと席を立とうとした。「お願いですから、一通り聞いて下さい。たった二分間だけ自由な物語の時を与えて、まず最初に僕の来訪の目的たる計画を、すっかり話さして下さい。それに、僕は時間が必要なのです、非常に忙しいのです……」すぐにまた夫人が口を出しそうな気配を感じたので、相手を呶鳴り負かそうという意気ごみで、ミーチャはヒステリックにこう叫んだ。「僕は絶望のあまりにこちらへ伺ったのです……絶望のどん底に落ちてしまったので、奥さんから金を三千ルーブリだけ拝借しようと思って伺ったのです。しかし、奥さん、確実な、確実この上ない抵当があるのです。確実この上ない保証があるのです! お願いですから一通り……」
「そんなことはあなたあとで、あとで!」とホフラコーヴァ夫人も負けないで手を振った。「それにさきほども申したとおり、あなたのおっしゃることは、何でも前から知り抜いていますの。あなたは幾らかのお金がほしい、三千ルーブリのお金が入り用だとおっしゃいますが、わたしもっとたくさんさし上げます、数えきれないほどたくさんさし上げます。わたしあなたを助けて上げますわ、ドミートリイさん。けれど、わたしの言うことを聞いて下さらなくちゃなりませんよ!」
 ミーチャはまたもや椅子から跳りあがった。
「奥さん、本当にあなたはそんなにご親切なのでしょうか!」と彼は異常な感激をこめて叫んだ。「有難う、あなたは僕を救って下さいました。あなたは人間ひとりを不自然な死から、ピストルから救って下すったのです……僕は永久に感謝いたします……」
「わたし三千ルーブリよりかずっとたくさん、数えきれないほどたくさんさし上げます!」とホフラコーヴァ夫人は輝くような微笑を浮べて、ミーチャの歓喜を眺めながら叫んだ。
「数えきれないほど? しかし、そんなには必要がないのです。僕にとってなくてかなわぬのは、あの恐ろしい三千ルーブリです。そこで、僕のほうでも無限の感謝をもって、その金額に対する保証をするつもりでおります。ほかではありません、僕はある計画を提供したいと思います、それは……」
「たくさんですよ、ドミートリイさん、言った以上は必ずいたします。」われこそ慈善家だという無邪気な誇りをいだきながら、夫人は断ち切るような調子でこう言った。「わたしあなたをお助けすると言った以上、必ず助けてお目にかけます。わたしはベリメーソフと同じように、あなたもやはりお助けしますわ。あなた金鉱のことを何とお考えになります、ドミートリイさん?」
「金鉱ですって、奥さん! 僕そんなことは一度も考えたこと