京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P042-051   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

第九篇 予審

   第一 官吏ペルホーチンの出世の緒

 ピョートル・イリッチ・ペルホーチンが、モローソヴァの家の固く鎖された門を力ーぱいたたいているところで、われわれは一たん話の糸を切っておいたが、彼はもちろん、最後に自分の目的を達した。猛烈に門の戸をたたく音を聞いた時、二時間まえにすっかり度胆を抜かれてしまって、いまだに興奮と『もの思い』のために、床につく気になれないでいたフェーニャは、またしてもヒステリイになりそうなほど驚かされた。彼女は、ドミートリイが馬車に乗って出かけるところを自分の目で見たくせに、これはまたあの男が門をたたいているのだと思った。なぜと言って、あの男のほかに、ああ『ずうずうしい』たたき方をする人がないからである。彼女は、門番のところへ飛んで行き、――門番はもう目をさまして、音のするほうへ出かけようとしていた、――どうか入れないでくれと頼んだ。しかし、門番は戸をたたいている人に声をかけて、それが何者であるかを知り、きわめて重大な事件についてフェドーシヤ・マルコヴナに会いたいという希望を聞き取って、とうとう門をあけることに決心した。彼はまた例の台所へ通された。フェドーシヤ・マルコヴナ――フェーニャは『何だか油断がならない』と思ったので、門番も一緒に入れるように、ペルホーチン許し[#「ペルホーチン許し」はママ]を乞うた。ペルホーチンは早速いろいろと根掘り葉掘りしはじめたが、話はすぐ、一番の要点へ落ちて行った。つまり、ミーチャがグルーシェンカを捜しに馳け出した時、臼から杵を掴んで行ったが、今度帰った時にはすでに杵はなく、血みどろな手をしていたということである。
『ええ、まだ血がぽたぽた落ちてました、両手からぽたぽた落ちてました、本当にぽたぽた落ちてました!』とフェーニャは叫んだ。察するところ、彼女は自分の混乱した想像の中で、この恐ろしい事実を作り上げたものらしい。しかし、ペルホーチンもぽたぽた落ちるのこそ見なかったものの、血みどろな手は自分の目で見たばかりか、自分から手伝って洗わしたくらいである。それに、問題は血みどろの手が急に乾いたということではない、彼が杵を持って駈け出したのは、確かにフョードルのところへ行ったのだろうか? 確かにそうだという結論をどうして下すことができるか、それが問題なのである。ペルホーチンもこの点を精密に追及した。そして、結局、何の得るところもなかったけれど、しかしミーチャが駈け出して行くのは、父の家よりほかになさそうだ。してみると、そこで『何か事が』起ったに相違ないという、ほとんど確信に近いものを獲得したのである。
『そして、あの人が帰ったとき』とフェーニャはわくわくしながら言い添えた。『わたし、あの人にすっかり白状してしまいましたの。そしてね、どうして旦那さま、あなたのお手はそんな血だらけなんです、と訊きますとね、あの人の返事がこうですの。これは人間の血だ、おれはたったいま人を殺して来たのだって、すっかり白状してしまいました。後悔して、白状してしまいましたの、そして、いきなり気ちがいのように駈け出してしまいました。わたしは落ちついてじっと考えてみましたの。何だってあの人は今あんなに、気ちがいみたいに駈け出したんだろう? すると、急に考えつきましたのは、モークロエヘ行って奥さんを殺すつもりなんだということでした。そこで、わたしは奥さんを殺さないでくれと頼もうと思って、いきなり家を飛び出して、あの人の下宿をさして走って行きますとね、ふとプロートニコフの店先で、あの人がいよいよこれから出かけるってところじゃありませんか。見ると、手にはもう血がついていませんの(フェーニャはこのことに気がついて、後々までも覚えていた)。』フェーニャの祖母にあたる老女中も、できるだけ孫娘の申し立てを確かめた。それからまだ、何かのことをたずねた後、ペルホーチンは、入って来た時より一そう惑乱した、不安な心持をいだきながら家を出た。
 これからすぐフョードルのところへ行って、何か変ったことはないか、もしあればどういうことなのかと訊ねて、いよいよ確固たる信念を得た後に、はじめて警察署長のところへ行くのが、一ばん手っとり早い、自然な順序のように思われた。ペルホーチンも、そうすることに決心していたのである。しかし、夜は暗く、フョードルの家の門は堅かった。またどんどん叩かなければならない。それに、彼とフョードルはごく遠い知合いであったから、もし根気よく叩いて叩き起し、戸を開けてもらったとき、案外、何のこともなかったらどうだろう。あの皮肉家のフョードルは、明日にもさっそく方々へ行って、さほど懇意でもない官吏のペルホーチンが、お前は誰かに殺されはしなかったかと、よる夜なか押しかけて訊きに来た失策談を、町じゅうへ触れ廻すにちがいない。それこそ不体裁きわまる話だ! ペルホーチンはこの世で何よりも、不体裁ということを恐れていた。しかし、彼をぐんぐん引きずって行く感情の力は、意外に強かった。彼は地団太を踏んで自分で自分を罵りながら、猶予なく別な方角をさして駈け出した。目ざすところはフョードルの家でなく、ホフラコーヴァ夫人の家であった。
 彼は考えた。もし夫人が『これこれの時刻にドミートリイに三千ルーブリの金をやったか』という自分の問いに対して、否定の答えをした場合には、もはやフョードルのところへは寄らないで、すぐ署長の家へ出かけよう。もし反対の答えを得たならば、万事あすまで猶予してまっすぐに家へ帰ろう。もっとも、彼のような若い男がよる夜なか、ほとんど十一時という時刻に、てんで知合いでも何でもない上流の婦人を叩き起し(もう夫人は床についているかもしれない)、前後の状況から見て、奇怪きわまる質問を提出しようと決心したのは、フョードルのところへ行くよりも、さらに不体裁な結果を惹き起すおそれがある。しかし、今のような場合には、正確冷静この上ない人でも、どうかするとこういう決心をとることがある。それに、この瞬間ペルホーチンは、決して冷静な人ではなかった! 次第に強く彼の心を領してゆくうち克ちがたい不安は、ついに苦しいほどに募ってゆき、彼の意志に逆らって深みへ引きずってゆくのであった。彼は生涯このことを覚えていた。もちろん、彼はこの夫人のところへ足を運ぶ自分を、道々たえまなく罵っていたが、『どうしても、どうしてもしまいまでやり通してみせる!』と、彼は歯がみをしながら、十度ぐらい繰り返した。そして、自分の決心を遂行した、――見事やり通したのである。
 彼がホフラコーヴァ夫人の家へ入ったのは、かっきり十一時であった。庭まではかなり早く通してもらえたが、奥さんはもうお休みかどうかという問いに対しては、番人もふだん大ていこれくらいの時刻にお休みになります、とよりほかに正確な返事ができなかった。
「まあ、上へあがって取次ぎを頼んでごらんなさいまし、お会いになる気があれば、お会いになりましょうし、その気がなければ、お会いになりますまいよ。」
 ペルホーチンは家へはいった。が、ここでちょっと面倒が起った。従僕がなかなか取次ごうとしないで、とどのつまり小間使を呼び出した。ペルホーチンは慇懃な、とはいえ執拗な調子で、土地の官吏ペルホーチンが特別な事故によってお訪ねした、まったく特別重大な用向きでもなかったら、決して伺うはずではなかったと、こう取次いでくれるように小間使に頼んだ。『どうかぜひこのとおりの言葉で取次いで下さい』と彼は小間使に念を押した。小間使は立ち去った。彼は控え室に残って待っていた。当のホフラコーヴァ夫人は、まだ休んでこそいなかったが、もう寝室に籠っていた。彼女はさきほどのミーチャの来訪以来、すっかり気分が悪くなって、こういう場合、彼女につきものの頭痛は、今夜ものがれっこあるまいと観念していた。小間使の取次ぎを聞いて、夫人は一驚を喫したが、それでも、いらいらした調子で、断わってしまうように言いつけた。そのくせ、自分にとって面識のない『土地の官吏』が、こういう時刻に訪問したということは、彼女の女らしい好奇心を極度に刺戟したのである。しかし、ペルホーチンも今度は騾馬のように頑強だった。拒絶の言葉を聞き終った彼は、なみなみならぬ執拗な調子で、いま一ど取次ぎを頼んだ。『私は非常に重大な用向きでお訪ねしたのですから、もしお会いにならなかったら、あとで後悔なさるかもしれません』とのべ、『これをそっくりこのままの言葉で』伝えるように頼んだ。『僕はあの時まるで山から駈け下りるような心持になっていた』と彼は後日、自分の口から言い言いしたものである。小間使はびっくりしたように、彼をじろじろ見まわした後、いま一ど取次ぎをしに奧へ入った。
 ホフラコーヴァ夫人は驚いて考え込んだ。そして、その人の見かけはどんな様子であったか、と訊ねたところ、『身なりの大変きちんとした、丁寧な若い人』だということがわかった。ここでついでにちょっと断わっておくが、ペルホーチンはなかなか秀麗な青年で、自分でもこのことを承知していた。ホフラコーヴァ夫人は接見することに肚を決めた。夫人はもう部屋着をきて、スリッパをはいていたが、その上に肩から黒いショールを羽織った。『官吏』は、さきほどミーチャの通されたと[#「通されたと」はママ]同じ客間へ招ぜられた。夫人はいかついもの問いたげな顔をして客に近より、坐れとも言わずいきなり問いを発した。
「何ご用でございます?」
「私があなたにご迷惑をかけようと決心しましたのは、おたがいに共通な知人、ドミートリイ・カラマーゾフのことでございます」とペルホーチンは言いかけた。が、この名を口に出すか出さないかに、とつぜん夫人の顔には烈しい焦躁が現われた。
 彼女はほとんど叫び声を立てないばかりの勢いで、猛然と相手の言葉を遮った。
「いつまで、いつまであの恐ろしい男のことで、わたしはこんな苦しみを受けなければならないのでしょう!」と夫人は激昂して叫んだ。「何の縁故もない婦人の家へ、しかもこんな時刻に出かけて、迷惑をかけるなんて、あんまり失礼じゃございませんか……おまけに、そのお話は何かと思えば、つい三時間まえにこの同じ客間へわたしを殺しにやって来て、地団太を踏みながら出て行った人のことじゃありませんか。身分ある人の家で、あんな歩き方をする人はほかにありゃしません。よろしゅうございますか、あなた、わたしはあなたを訴えますよ、決して容赦はしませんから。さあ、今すぐ出て行って下さい……わたしは母親として、わたしはすぐに……わたしは……わたしは……」
「殺しにですって? じゃ、あの男はあなたまで殺そうとしたのですか?」
「え、あの男はもう誰か殺したのですか?」とホフラコーヴァ夫人は勢い込んで訊ねた。
「奥さん、お願いですから、たった三十秒だけ、私の言うことを聞いて下さいまし。簡単に一切の事情を説明いたしますから」とペルホーチンはきっぱりと答えた。「今日の午後五時頃、カラマーゾフ君が私のところへ、懇意ずくで十ルーブリの金を借りに来たのです。私はあの人が少しも金を持っていなかったのを、確かに承知しています。ところが、同じく今夜の九時ごろに、あの人は百ルーブリ札の束を麗々しく手に掴んだまま、私の家へやって来たのです。かれこれ二千ルーブリか三千ルーブリくらいあったようです。おまけに、両手も顔も一面に血だらけじゃありませんか。まるで気でも違ったようなふうつきでした。どこからそんな金を手に入れたのか、と訊きますと、あの人の答えるには、たった今あなたのところからもらって来たのだ、あなたが三千ルーブリの金を、金鉱へ行くという条件つきで貸してくれたのだ、とこういう話でした……」
 ホフラコーヴァ夫人の顔には、突然なみなみならぬ病的な興奮の色が現われた。
「ああ、大変! あの男は自分の親を殺したのです!」彼女は両手を拍ちながらこう叫んだ。「わたしは決してあの男に金なんか出しゃしません、決して出しゃしません! さあ、走ってらっしゃい、走ってらっしゃい!………もう何も言わないで下さい! あの老人を助けておやりなさい、あの親父さんのところへ走ってらっしゃい、早く走ってらっしゃい!」
「失礼ですが、奥さん、何でございますね、あなたはあの男に金をおやりにならなかったのですね? あなたしっかり覚えていらっしゃいますね、少しも金をおやりにならなかったのですね?」
「やりません、やりません! わたしきっぱり断わってしまいました。だって、あの男にはお金の有難味がわからないのですもの。すると、あの男は気ちがいのようになって、地団太を踏みながら出て行ったのでございます。おまけに、ひとに飛びかかろうとしましたので、わたしはびっくりして、飛びのきましたの……わたしはもう今さらあなたに、何一つ隠しだてしようという気はありません。あなたを信頼すべき方としてお話ししますが、あの男はわたしに唾まで吐きかけましたの。本当に想像もつかないようなお話じゃありませんか! だけど、何だってわたしは、こうぼんやり立ってるんでしょうね? まあ、おかけ下さい……本当にごめん下さいましね、わたしは……いえ、それよりやはり走ってらしたほうがようござんす、走ってらっしゃい。あなたは今すぐ駈け出して、あの老人の恐ろしい死を救わなくちゃなりません!」
「しかし、もう殺してしまったあとでしたら?」
「あら、まあ、どうしましょう、本当にねえ! では、これからどうしたらいいのでしょう? 一たいあなた何とお思いになります、これからどうしたらよろしいのでしょう?」
 こんなことを言ってる間に、彼女はペルホーチンに腰をかけさして、自分でもその真向いに座を占めた。ペルホーチンは簡単ではあるが、かなり明瞭に事件の経過、少くとも、きょう自分で目撃しただけのことを夫人に物語り、さきほどフェーニャの住居を訪れたことも、杵のことも話して聞かせた。こうした詳細な物語は、それでなくても興奮した夫人を、極度にまでいらだたせたのである。夫人は絶えず叫び声をたてたり、両手で目を隠したりした……
「ねえ、わたしはこういうことを、すっかり見抜いていたのでございます! わたしには、そうした天賦の才能がありますの。わたしの想像することは、何でも事実となって現われるんですからね。わたしはあの恐ろしい男を見るたびに、これこそしまいにはわたしを殺す人間だ、とこう心の中で何べん考えたかわかりませんわ。ところが、はたしてこのとおりの始末じゃありませんか……あの男がわたしを殺さないで、自分の父親を殺したのは、もう確かに目に見えて、神様のお手がわたしを守って下すったに相違ありません。それに、あの男も自分でそんなことをするのを、きっと恥しいと思ったのでしょう。なぜって、わたしは偉大なる殉教者ヴァルヴァーラの遺された聖像をここで、この客間であの男の頸に自分でかけてやったんですもの……本当にわたしはあの時、死というもののすぐそばまで寄ってたんですわ。だって、わたしはあの男のそばへぴったりと寄り添って、あの男はわたしのほうヘ一ぱいに頸を突き出したんですからね! ねえ、ピョートル・イリッチ(失礼ですが、あなたは確かピョートル・イリッチとおっしゃいましたね?)実はわたし奇蹟というものを信じていません。けれど、あの聖像とあの疑う余地のない奇蹟は、わたしの心を底から動顛さしてしまいました。わたしはまた何でも信じそうな心持がしてきました。あなたはゾシマ長老のことをお聞きになりまして?……もっとも、わたしは自分でも何を言ってるかわかりません……だけど、まあ、どうでしょう、あの男は聖像を頸にかけたまま唾を吐きかけましたの……もちろん、唾を吐きかけただけで、殺しはしませんでしたけど……本当にとんでもないところへ駈け出して行ったものですわねえ! けれど、わたしたちはどこへ行ったものでしょう? わたしたちは一たいこれからどこへ行きましょう? あなたはどうお考えになります?」
 ペルホーチンは立ちあがり、自分はこれから警察署長のところへ行って、様子をすっかり話してしまう、それからさきはどうしようと向うの勝手だと言った。
「ああ、あの人は立派な、実に立派な人物です。わたしミハイル・マカーロヴィッチとはごく懇意にしていますの。本当にぜひとも、あの人のところへいらっしゃらなければなりません。本当に、あなたは何という機転のきくお方なんでしょうねえ、ピョートル・イリッチ。そして、よくまあ、そんなにいろんなことをお考えつきになりましたのねえ。まったくわたしがあなたのような位置に立ったら、まるで途方にくれてしまいますわ!」
「それに、私自身も署長とは昵懇な間柄ですから。」ペルホーチンはやはり立ったままでこう言った。見受けたところ、彼はどうかして少しも早く、この一本向きな婦人のそばを逃げ出したいようなふうであったが、夫人はいっかな暇を告げて立ち去らせようとしなかった。
「あのね、あのね」と彼女はしどろもどろな調子でこう言った。「あなたこれからご自分で見たり聞いたりなすったことを、わたしに知らせに来て下さいません?……どんな事実が発見されるか、どんなふうに裁判せられて、どんな宣告を受けるか……ねえ、あなた、ロシヤには死刑ってものはないのでしょうか? ですけど、必ずいらしって下さいな。夜中の三時でも、四時でも、四時半でもかまいませんわ……もしわたしが目をさまさなかったら、揺ぶり起すように言いつけて下さいましよ……ああ、大変なことになったものだ。それに、わたし寝られそうもありませんわ。ねえ、いっそわたしもご一緒に出かけるわけにまいりますまいかしら?」
「ど、どういたしまして。時にですね、万一の用心に、あなたがドミートリイ君に一文もお金をお貸しにならなかったということを、今すぐあなたのお手で、一筆かいて下さいましたら、たぶん、むだにはなるまい思いますが[#「むだにはなるまい思いますが」はママ]……万一の用心にね……」
「ぜひ書きますわ!」ホフラコーヴァ夫人は歓喜の情に駆られて、事務テーブルのほうへ飛んで行った。「ねえ、あなた、わたしはあなたがこういう事件について、よく機転がおききになるので、すっかり感心してしまいましたわ。腹の底から揺ぶられたような気持がいたしますわ……あなたはここで勤めていらっしゃるのでございますって? それはまあ、何より嬉しいことでございますわ……」
 こう言いながら、夫人はもう半切の書簡箋に、大きな字で次の文句をさらさらと手早くしたためた。
『わたくしはいまだかつてかの不幸なるドミートリイ・カラマーゾフ氏に(何というとも彼はいま不幸なる身の上なれば)、三千ルーブリの金を与えたることなきのみならず、一度たりとも金銭の貸与をしたることなし! 世界にありとあらゆる聖きものをもってこの言葉の真なるを誓う。
[#地付き]ホフラコーヴァ』
「さあ、書けました!」と夫人はくるりとペルホーチンのほうへ振り向いて、「さあ、行って助けておあげなさい。それはあなたにとって偉大なる功業ですわ。」
 と夫人は彼に[#「 と夫人は彼に」はママ]三ど十字を切ってやった。彼女は駈け出して、控え室まで見送った。
「わたし本当にあなたに感謝いたしますわ! あなたがわたしのところへ第一番に寄って下すったということを、わたしがどれくらい感謝しているか、あなたにはとても想像がおつきにならないでしょう。どうして今までお目にかからなかったのでしょうねえ? これからも宅へお遊びにいらして下さいましたら、わたしどんなにか嬉しゅうございましょう。それに、あなたがこの町で勤めていらっしゃると伺って、ほんとうに愉快でございますわ……まあ、あなたは、なんて正確な、なんて機転のきいたお方なんでしょう……ほかの人もあなたを尊敬するに相違ありません、あなたを理解するに相違ありません。わたしも自分でできるだけのことは、あなたのために、ねえまったく……ええ、わたしはお若い方が大好きなのでございます! わたし今の若い人たちに惚れ込んでいるのでございます。若い人たちは今の苦しめるロシヤの礎《いしずえ》でございます、希望でございます……さあ、いらっしゃい、いらっしゃい……」
 しかし、ペルホーチンはもう駈け出してしまった。でなかったら、夫人はなかなか、こんなに早く放しはしなかったろう。もっとも、ホフラコーヴァ夫人は彼にかなり気持のいい印象を与えた。そればかりか夫人の印象は、こんな穢らわしい事件に巻き込まれたという彼の不安を、幾分やわらげてくれたほどである。わかりきった話であるが、人間の趣味はずいぶんさまざまなものである。『それに、あの人は、決してそんなに婆さんじみちゃいない』と彼はいい気持になってこう考えた。『それどころか、僕はあのひとをあそこの娘さんかと思ったくらいだ。』
 当のホフラコーヴァ夫人にいたっては、もうすっかりこの若紳士に魅了されていた。『何という如才のない、几帳面な人だろう! 今どきの若い人に似合わないことだ、しかも起居振舞いが見事で、男まえもなかなかいい。今どきの若い者は何一つできないって、よく人が言うけれど、一つあの方を見せてやりたいものだ、云々、云々。』かような次第で、彼女はこの『恐ろしい出来事』をほとんど忘れてしまっていたが、ようやく床につくだんになって、自分がほとんど『死のすぐそばに』立っていたことをふと思い起し、『ああ、恐ろしいことだ、恐ろしいことだ!』と言ったが、たちまちぐっすり甘い眠りに落ちてしまった。もっとも、筆者《わたし》はこんな些末な挿話を、ああまで詳しく物語るはずでなかったのだが、若い官吏とまだ大して年をとっていない未亡人とのこのとっぴな対面は、後にいたって正確で几帳面な青年の出世の緒となったのである。このことは今でも町の人が、驚異の念をいだきながら語り合っている。筆者《わたし》もカラマーゾフの兄弟に関する長い物語を終った後で、別にこのことを話すかもしれない。

   第二 警報

 この町の警察署長ミハイル・マカーロヴィッチ・マカーロフは、文官七等に転じた休職中佐で、やもめ暮しの好人物であった。彼は僅々三年前にこの町へ赴任して来たのであるが、もう今では世間一般の人から、好意をもって迎えられるようになった。そのおもな理由は、『社交界を引き締めてゆく技倆をもっている』からであった。彼の家には来客が絶えなかった。また彼も、客というものなしには生きて行かれないらしかった。毎日、誰かしら必ずやって来て食事をした。たとえ一人でも二人でも、とにかく客がいなかったら、彼はてんで食卓に向おうとしなかった。さまざまな口実、時によると突拍子もない口実をもうけて、正式に客を食事に招待することもたびたびあった。出されるご馳走は、山海の珍味ではないまでも、確かに豊富であった。魚肉饅頭もなかなか上等なものだし、酒も、質をもって誇ることはできなかったが、その代り量のほうでは、ひけをとらなかった。応接室には球撞台があって、ぜんたいの調度も非常に念入りなものであった。つまり、独身ものの球撞室に必要欠くべからざる装飾となっている英国産の駿馬を描いた黒縁の額が、四方の壁にかけつらねてあるのであった。よし人数は少くても、毎夜カルタの勝負が行われた。けれど、またこの町の上流の人たちが、母夫人や令嬢たちをつれて舞踏会に集る[#「集る」はママ]こともたびたびであった。
 ミハイルはやもめになっていたけれども、やはり家庭生活をしていた。彼のところには、もうとっくに後家になった娘が来ていた。彼女もやはり、ミハイルにとっては孫娘にあたる二人の令嬢の母親であった。令嬢はもう年頃で、学業も終っていた。器量も十人並みだし、活発な気だてでもあるので、持参金など一文もないことは周知であったにもかかわらず、この町の社交界の青年たちは令嬢の家に引きつけられていた。ミハイル・マカーロヴィッチは、事務にかけてはあまり腕ききとも言えないが、自分の責任をはたすことにおいては、決して人後に落ちなかった。手っとり早く言えば、彼はほとんど無教育といってもいいくらいな男で、自分の行政上の権限をもはっきり理解していないほど無頓着な人間であった。彼は現代の改革についても、十分に意味を掴むことができなかったのみならず、どうかすると、目立って間違った解釈をすることもあった。これは何か特別な無能のためではなく、単に無頓着な性格に由来するのであった。彼は物事を落ちついて考えている暇がなかったのである。『みなさん、わしの性質はどっちかというと軍隊向きで、文官には向かんのですよ。』こう彼は、自分で自分の批評をすることもあった。彼は農奴制度改革の確実な根底に関してさえ、まだこれという堅固な観念を掴んでいなかったらしく、一年一年知らず識らずのうちに、実地のほうから知識を殖やして行きながら、やっと改革の根底を悟ったような始末である。そのくせ彼は地主なのであった。
 ペルホーチンは、今夜もきっとミハイル・マカーロヴィッチのところで誰か来客に出会うに相違ないと思った。けれども、誰かということはわからなかった。しかし、この時ミハイル・マカーロヴィッチのところへは、まるで誂えたように検事が来ていて、地方庁医のヴァルヴィンスキイとカルタを闘わしていた。この医者はつい近頃、ペテルブルグからこの町へ来たばかりの若紳士であった。彼は抜群の成績でペテルブルグの医科大学を卒業した秀才の一人である。検事といっても、本当は副検事のイッポリート・キリーロヴィッチは(しかし、町ではみんな彼を検事と呼んでいた)、この町でも風変りな人間であった。まだ三十五という男盛りだが、非常に肺が弱かった。そのくせ、恐ろしく肥った石女《うまずめ》の細君を持っていた。彼は手前勝手な怒りっぽい性分であったが、いたって分別のしっかりした、心のすなおな男であった。彼の性格の欠点は、真価以上に自分を値踏みするところから生じるらしい。いつも落ちつきがないように思われるのは、つまりそれがためなのである。それに、彼は一種高尚な、芸術的ともいうべき野心を持っていた。例えば、心理的観察眼とか、人間の心に関する特別な知識とか、犯人とその犯罪を見抜く特別な才能とか、そんなものについて、自負するところが多かった。この意味において、彼は自分を職務上いくぶん不遇な地位にある除け者と自認していた。で、彼はいつも上官たちが自分の価値を認めてくれない、自分には敵がある、とこう思い込んでいた。あまり気のくさくさする時など、もういっそ刑事訴訟専門の弁護士にでもなってしまう、と脅かすのであった。思いがけなくカラマーゾフの親殺し事件が突発した時、彼はこれこそ『ロシヤ全国に知れ渡るような大事件だ』と考えて、全身の血を躍らせた。しかし、筆者《わたし》はまた先廻りしているようだ。
 隣室では町の若い予審判事が、令嬢と一緒に話していた。この男は、ニコライ・パルフェノヴィッチ・ネリュードフといって、つい二カ月前にペテルブルグからここへ赴任して来たのである。あとで町の人たちは、ちょうど『犯罪』の行われた夜に、こういう人たちがわざと申し合せたように、行政官の家に集っていたことを語り合って、奇異の感さえいだいた。が、これはきわめて単純な、きわめて自然な出来事であった。イッポリートは、前の日から細君が歯を病んでいたので、その呻き声の聞えないところへ逃げ出さなければならなかった。医者は晩になると、カルタをしないではいられない性分であった。ニコライはもう三日も前から、この晩だしぬけにミハイル・マカーロヴィッチのところへ行こうと思っていた。それは、ミハイル・マカーロヴィッチの長女オリガに不意打ちを食わしてやろうという、ずるい企らみなのである。彼はオリガの秘密を知っていた。というのは、この日は彼女の誕生日にあたるのだが、町じゅうのものを舞踏会に招待しなくてはならないので、これがいやさに、わざと町の社交界に知らすまいと思っていたのである。そのほか、あの人のことでまだうんと笑って、皮肉を言ってやろう、あの人は自分の年を知られるのを恐れているが、いま自分はあの人の秘密の支配者だから、明日になったらみんなに話して聞かせる、などと言って脅かしてやろう、――まだ若々しくって愛らしい彼は、こういうことにかけると人並みすぐれた悪戯者であった。この町の貴婦人たちは、彼のことを悪戯者と呼んでいたが、それがまたひどく当人の気に入っているらしかった。しかし、彼は非常に立派な階級と立派な家柄に属する人で、そのうえ立派な教育も受けており、また立派な感情をも持っていた。もっとも、彼はかなりの放蕩者であったが、それもごく罪のない、社交上の法則にかなった放蕩者であった。見かけから言うと、背が低くて、弱々しく優しい体質をもっていた。彼のほっそりとした青白い指には、いつも図抜けて大きな指環が幾つか光っていた。彼が職務を遂行するときには、自分の使命と義務を神聖視してでもいるように、いつもに似ずものものしい様子になるのであった。ことに平民出の殺人犯人や、その他の悪漢どもを審問する際に、難問をあびせて度胆を抜く手腕をもっていた。また実際、彼らの心中に敬意でないまでも、とにかく一種の驚異の念を呼び起すのであった。
 ペルホーチンは署長の家へはいると、たちまち度胆を抜かれてしまった。そこに居合す人々が、意外にも、もはや何もかも承知している。[#「している。」はママということがわかったのである。いかにも、一同はカルタを抛り出して、総立ちになって評議していた。ニコライまでも令嬢たちのところから飛んで来て、戦争のような緊張した様子をしていた。まずペルホーチンがそこで耳にしたことは、本当にフョードルが今晩自宅で殺されて、そのうえ金まで取られたという恐ろしい報告であった。これはつい今しがた。[#「今しがた。」はママ]次のような事情で知れたのである。
 塀のそばで打ち倒されたグリゴーリイの妻マルファは、自分の蒲団の中でぐっすり寝込んでいたので、朝まで一息に眠ってしまうはずなのに、なぜか急に目がさめた。彼女の目をさましたのは、人事不省のまま隣室に横たわっているスメルジャコフの、癲癇もち特有の恐ろしい叫び声であった。いつもその叫び声と同時に、癇癪の発作が始まるので、その度ごとにマルファは、この声におびやかされて、病的な刺戟を受けるのであった。彼女はどうしても、その呻き声に慣れることができなかった。マルファは夢心地で飛び起きると、ほとんど無我夢中で、スメルジャコフの小部屋へ駈け込んだ。けれど、そこは真っ暗で、ただ病人が恐ろしく呻きながら、もがき始めた物音が聞えるのみであった。で、マルファも同様に叫び声を立てて、亭主を呼び始めたが、ふと自分が起きて来る時、グリゴーリイは寝台の上にいないようだった、と心づいた。彼女は寝台のそばに駈け戻り、改めてその上を探ってみると、案の定、寝台は空になっていた。してみると、どこかへ行ったのであろうが、一たいどこだろう? 彼女は入口の階段へ駈け出して、そこからおずおずと亭主を呼んでみた。もちろん返事はなかったが、その代り夜の静寂の中に、どこからともなく、遠く庭園のほうからでもあろうか、何か呻くような声がするのを聞きつけた。彼女は耳をすました。呻き声はまたしても繰り返された。その声がまさしく庭のほうから響いて来るのは、もう間違いなかった。『ああ、まるであのリザヴェータ・スメルジャーシチャヤの時みたいだ!』という考えが、彼女のかき乱された頭をかすめた。おずおずと階段を降りて、闇をすかして見ると、庭へ通ずる木戸が開いたままになっている。『きっとうちの人があそこにいるんだ。』彼女はそう考えて、木戸口のほうへ近よった。と、ふいにグリゴーリイが弱々しい、しかも恐ろしい呻き声で、『マルファ、マルファ!』と呼んでいるのを明瞭に聞き分けた。『神様、何か変ったことのありませんように!』とマルファは呟いて、声のするほうへ走って行った。こうして、彼女はついにグ