京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P040-042   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

「何でもないよ!」とミーチャは歯ぎしりした。「グルーシェンカ、お前は正直にしたいと言うが、おれは泥棒なんだよ。おれはカーチカの金を盗んだんだ……なんて恥さらしだ、なんて恥さらしだ!」
「カーチカ? それはあのお嬢さんのこと? いいえ、あんた盗みなんかしないわ。返しちゃったらいいじゃないの、わたしんとこから持ってらっしゃい……何も大きな声をして騒ぐことないわ! もうわたしのものはすっかりあんたのものよ。一たいわたしたちにとってお金なんか何でしょう? そうでなくても、わたしたちはめちゃめちゃに使い失くしちゃうのよ……わたしたちみたいなものは、使わずにいられないんだもの。それよかいっそ、どこかへ行って畠でも起そうじゃないの。わたしこの手で土に十字を切りたいの。働かなくちゃならないわ、わかって! アリョーシャもそうしろと言ったもの。わたしはあんたの色女にはなりたくない。わたしはあんたの貞淑なおかみさんになるの。あんたの奴隷になるの。あんたのために働こうと思うわ。わたしたちは二人でお嬢さんのところへ行って、赦して下さいってお辞儀を一つして、それから発とうじゃないの。赦してくれなかったら、それでもいいからやっぱり発ちましょう。あんたはあのひとんとこへお金を持ってらっしゃい。そして、わたしを可愛がってちょうだい……あのひとを可愛がっちゃいやよ。もうあのひとを可愛がっちゃいやよ。もし可愛がったら、あのひとを締め殺しちゃうわ……あのひとの目を針で突き潰しちゃうわ……」
「お前を、お前ひとりだけを可愛がるよ、シベリヤへ行っても可愛がるよ……」
「何だってシベリヤへ? いや、かまわないわ、あんたの望みならどこでも同じこったわ……働くわ………シベリヤには雪があるのね……わたし雪の上を橇で走るのが好きよ……それには鈴がついてなくちゃならない……おや、鈴が鳴ってる……どこであんな鈴が鳴ってるんだろう? 誰か来てるのかしら……ほら、もう音がやんだ。」
 彼女は力が抜けて目を閉じた。と、ちょっと一時とろとろと眠りに落ちた。鈴は本当にどこか遠くのほうで鳴っていたが、急にやんでしまった。ミーチャは、女の胸に頭をもたせていた。彼は鈴の音がやんだのにも気づかなかったが、またとつぜん歌の声がはたと途絶えて、歌や酒宴の騒ぎのかわりに、死んだような静寂が忽然として、家じゅうを占めたのにも気がつかなかった。グルーシェンカは目を見ひらいた。
「おや、わたし寝てたのかしら? そう……鈴の音がしたんだっけ。わたしうとうとして、夢を見たわ。何だかわたし雪の上を橇で走っているらしいの……鈴がりんりんと鳴って、わたしはうとうとしてるの。何だか好きな人と、――あんたと一緒に乗ってるようだったわ。どこか遠い遠いところへね。わたしあんたを抱いたり、接吻したりして、あんたにしっかりとすり寄ってたわ。何んだか寒いような気持だったの。そして、雪がきらきら光ってるのよ……ねえ、よる雪が光ってる以上、月が出てたんだわね。何だかまるでこの世にいるような気がしなかったわ……目がさめてみると、可愛い人がそばにいるじゃないの。本当にいいわねえ……」
「そばにいるよ。」彼女の着物、胸、両手などを接吻しながら、ミーチャはこう呟いた。
 が、ふと彼は妙な気がした。ほかでもない、グルーシェンカは一生懸命に前のほうを見つめている、が、それはミーチャの顔ではなく、彼の頭を越して向うのほうを眺めている。しかも、怪しいほど身動きもしないでいる、――ように感じられたのである。彼女の顔にはとつぜん驚愕、というよりほとんど恐怖の色が浮んでいた。
「ミーチャ、あそこからこちらを覗いてるのは誰でしょう?」ふいに彼女はこう囁いた。
 ミーチャは振り返った。見ると、本当に誰やらカーテンを押し分けて、自分たちの様子を窺っているふうであった。しかも、一人だけではないらしい。彼は飛びあがって、足ばやにそのほうへ歩いて行った。
「こっちへ、こっちへおいで下さい」と、あまり高くはないが、しっかりした、執拗な調子で、誰かの声が言った。
 ミーチャはカーテンの陰から出た。と、そのままじっと立ちすくんでしまった。部屋じゅう人間で一ぱいになっていたが、それはさきほどとはまるで違った新しい人たちである。一瞬の間に、悪寒が彼の背筋を流れた。彼はぶるっと身慄いした。これらの人々を、一瞬の間に見分けてしまったのである。あの外套を着て、徽章つきの帽子をかぶった、背の高い、肥えた男は、警察署長ミハイル・マカールイチである。それから、あの『肺病やみらしい』、『いつもあんなてらてら光る靴をはいた』、身なりの小ざっぱりした伊達男は副検事である。『あの男は四百ルーブリもする専門家用時計《クロノメータア》を持ってる。おれも見せてもらったことがある。』あの若い、小柄な、眼鏡をかけた男……ミーチャは苗字こそ忘れてしまったけれども、人間はよく見て知っている。あれは、ついこのごろ法律学校を卒業して来た予審判事である。またあの男は警部のマヴリーキイ・マヴリーキッチで、これはもうよく承知していて、心やすい仲なのである。それからあの徽章をつけた人たち、あれは何しに来たのだろう?そのほかにまだ百姓ふうの男が二人いる。それから、また戸口のところには、カルガーノフと亭主のトリーフォンが立っている…
「みなさん……一たいあなた方はどうして……」とミーチャは言いかけたが、急にわれを忘れて口をすべらしたかのように、喉一ぱいの声をはり上げて叫んだ。
「わーかーった!」
 眼鏡の若紳士はとつぜん前へ進み出て、ミーチャのそばまで近よると、威をおびてはいるが、幾分せき込んだような調子で口を切った。
「わたしどもはあなたに……つまり、その、こちらへおいでを願いたいのです、ここの長椅子へおいでを願いたいのです、ぜひあなたにお話ししなくちゃならんことがあるのです。」
「老人ですね!」とミーチャは夢中になって叫んだ。「老人とその血ですね!………わーかーりました!」
 さながら足でも薙がれたかのごとく、そばにあり合う椅子へ倒れるように腰をおろした。
「わかったか? 合点がいったか? 親殺しの極道者、年とった貴様の父親の血が貴様のうしろで叫んでおるわ!」老警察署長はミーチャのほうへ踏み出しながら、突然こう喚きだした。
 彼はわれを忘れて顔を紫色にしながら、全身をぶるぶる慄わしていた。
「それはどうもいけませんなあ!」と小柄な若い人が叫んだ。「ミハイル・マカールイチ、ミハイル・マカールイチ! それは見当ちがいです、それは見当ちがいです!………お願いですから、わたし一人に話さして下さい。あなたがそんなとっぴな言行をなさろうとは、思いもよらなかった……」
「しかし、これはもうめちゃめちゃです、みなさん、まったくもうめちゃめちゃです!」と署長は叫んだ、「まあ、あの男をごらんなさい。よる夜なか酔っ払って、みだらな女と一緒に……しかも、父親の血にまみれたままで……めちゃめちゃだ、めちゃめちゃだ!」
「ミハイル・マカールイチ、折り入ってのお願いですから、今日だけあなたの感情を抑制して下さいませんか」と副検事は老人に向って早口に囁いた。「でないと、わたしは余儀なく相当の手段を……」
 しかし、小柄な予審判事はしまいまで言わせなかった。彼はしっかりした大きな声で、ミーチャに向ってものものしく口を切った。
「予備中尉カラマーゾフ殿、わたくしは次の事実を告げなければなりません、あなたは今夜起ったご親父フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフの殺害事件の、下手人と認められているのであります……」
 彼はまだこのほか何やら言った。そして副検事も何か口を挿んだようである。しかし、ミーチャはそれを聞くには聞いたけれど、もう何のことやらわからなかった。彼は野獣のような目つきで一同を見廻していた。