京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P328-343   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦2日目]

決を下して、いやが上にその声を挑発し、ますます高まりつつあるその憎悪を受くるなからんことを!………」
 一言につくすと、イッポリートは非常に熱してはいたけれど、十分|感動的《パセチック》に論を結ぶことができた。実際、彼が聴衆に与えた印象はすばらしいものであった。彼自身はその論告を終ると、急いで法廷から出て行った。そして、前にも述べたとおり、別室で危く卒倒するところであった。法廷では誰ひとり喝采するものがなかったけれど、真面目な人たちはいずれも満足を表していた。ただ婦人たちはあまり満足もしなかったが、それでも検事の雄弁には感心していた。ことに、その論告の結果を少しも恐れないで、ただフェチュコーヴィッチにすべての期待を繋いでいたので、『いよいよあの人が弁護をはじめれば、むろんすっかり大勝利に相違ない!』と安心していたのである。人々はみなミーチャを眺めた。彼は両手を握りしめ、歯を食いしばってうつ向いたまま、検事の論告が終るまでじっと黙っていた。でも、どうかすると頭を持ちあげて、耳をそばだてることもあった。ことにグルーシェンカの名が出る時には、必ずそうするのであった。検事が彼女に関するラキーチンの意見を伝えた時、彼の顔には軽蔑と、憤怒の微笑が浮んだ。彼は十分聞えるくらいな声で、『ベルナール!』と口走った。検事がモークロエの訊問で、ミーチャを苦しめたことを述べた時、彼は頭を持ちあげて、烈しい好奇の表情を浮べながら耳をすました。論告中のある個所では、跳りあがって何か叫ぼうとさえしたが、やっと自分を抑えて、たださげすひように肩をそびやかすのみであった。あとで当地の人々はこの論告の終結、一ことに検事がモークロエで被告を訊問した時の手柄話を噂して、『あの男とうとう我慢ができないで、自分の手ぎわを自慢しやがった』とイッポリートを冷笑した。裁判長は一時休憩を宣したが、それもほんの僅か十五分か、たかだか二十分であった。傍聴者の間には、話し声や叫び声が響きだしたが、筆者は次のような対話を記憶している。
「しっかりした論告ですね!」あるグループの中で、一人の紳士が気むずかしそうにこう言った。
「だが、あまり心理解剖が盛りだくさんだったようですねこと別の声が答えた。
「しかし、何もかもあのとおりですよ、絶対に真実ですよ!」
「そう、あの人は名人ですね。」
「総じめをつけましたね。」
「われわれにも、われわれにも総じめをつけましたよ」と第三の声が割ってはいった。「論告のはじめに、われわれもみんなフョードルのようなものだと言ったじゃありませんか。」
「論告の終りもそうでしたよ。だが、あれはほらです。」
「それに、曖昧な点がだいぶありましたね。」
「ちょっこり[#「ちょっこり」はママ]熱しすぎましたな。」
「不公平ですよ、不公平ですよ。」
「いや、そうじゃない、とにかく巧みなものです。長いあいだ言おう言おうと思っていたことを、とうとう吐き出したのですからな、へっ、へっ!」
「弁護士は何と言うでしょうね?」
 別のグループでは、こんなことを言っていた。
「だが、ペテルブルグから来た弁護士に、あんな厭味を言ったのは感心しませんな。『心を震撼するような感動に充ちた雄弁』だなんて、覚えてますか?」
「そう、あれは少々まずかった。」
「あせりすぎたんですよ。」
「神経家ですからね。」
「われわれはこうして笑っているが、被告の気持はどんなでしょう?」
「そう、ミーチャの気持はどうでしょうなあ?」
「だが、こんど弁護士はどんなことを言いますかね?」
 第三のグループでは、こう言っていた。
「あの端に腰かけている、柄つき眼鏡をもった、でっぷりした奥さんは誰だい?」
「ある将軍の夫人で、離婚したんだよ、僕はよく知ってるんだ。」
「道理で、柄つき眼鏡なんか持ってると思った。」
「すべたさ。」
「いや、なに、ちょいと味のある女だ。」
「あの女から二人おいた隣に、ブロンドの女が腰かけてるだろう。あのほうがいいよ。」
「だが、あの時モークロエでは、うまくミーチャの尻尾を押えたもんだね、え?」
「うまいことはうまいが、またぞろあの話を持ち出すんだからな。だって、検事はあのとき何遍となく、軒別に吹聴して歩いたじゃないか。」
「今も言わずにいられなかったのさ。うぬぼれの強い男だからね。」
「なにしろ不遇な人だな、へっへっ!」
「くやしがりだよ。あの論告も修辞が多くって、句が長すぎたよ。」
「そして、嚇かすんだ、あのとおりすぐ嚇かすんだ、トロイカのくだりを覚えているかい。『あちらにはハムレットがいるが、こちらにはまだ当分カラマーゾフがいるばかりだ!』なんて、うまいことを言ったもんだな。」
自由主義にちょっと厭がらせを言ったわけなのさ。怖がっているからね!」
「それに、弁護士も怖いんだよ。」
「そう。フェチュコーヴィッチ君はどんなことを言うかね?」
「どんなことを言ったにしろ、ここの百姓の目をさますことなんかできやしないよ。」
「君はそう思うかい?」
 第四のグループでは、
「だが、トロイカのことはなかなか立派に喋ったよ。つまり、あのよその国のことを言ったところさ。」
「よその国で辛抱しちゃいまいと言った、あすこのところなんかまったくだ。」
「それはどういうことだね?」
「先週のことだったが、英国の議会で一人の議員が立って、虚無党問題でわれわれロシヤ人を野蛮国民よばわりしたうえ、やつらを開化させるために、もういい加減干渉してもいい時期ではないかと、こう政府に質問したんだ。イッポリートはその議員のことを言ったんだよ。たしかに、その議員のことを言ったんだよ。あの男は現に先週そのことを言っていたからね。」
「だが、そりゃイギリスの山鷸連にとてもできることじゃないね。」
「山鷸連て何のことだい? どうしてできないんだい?」
「だって、われわれがクロンシュタットを閉鎖して、彼らに穀物を与えなかったら、一たいやつらはどこから手に入れるんだ?」
アメリカからさ。現にアメリカから輸入してるからね。」
「馬鹿なことを。」
 けれど、この時ベルが鳴ったので、一同は自席へ飛んで行った。フェチュコーヴィッチが壇に登った。

   第十 弁護士の弁論 両刃の刀

 有名な弁護士の最初の一言が鳴り響くと、あたりはしんとしてしまった。傍聴者の目は一せいに彼の顔に食い入った。彼はきわめて率直な、確信に充ちた口調で直截に弁じだしたが、少しも傲慢なところはなかった。しいて言葉を飾ろうともしなければ、悲痛や語調や、感情に訴えるような句を用いようともせず、さながら同情を持った親密な人々の間で話しているような調子であった。彼の声は美しく、張りがあって、そのうえ情味もあった。そして、声そのものの中に、すでに誠意と率直とが響いていた。けれど、間もなく、弁護士が突如として、真の感傷的《パセチック》な心境に高翔して、『何か不思議な力をもって、みなの心を打つ』ということが、すべての人に理解された。彼の喋り方はイッポリートほど整然としていなかったかもしれないが、長文句がなくって、ずっと正確であった。ただ一つ婦人たちの気にいらなかったのは、弁護士が、――ことに弁論の初めに、――妙に背中を屈めていることであった。それは、べつにお辞儀をしているわけでもないけれど、まるで聴衆のほうへまっしぐらに飛んで行こうとでもするように、その長い背を中ほどから曲げていたので、ちょうど彼の細長い背の真ん中に蝶つがいでもあって、ほとんど直角に背を曲げることさえできそうに思われた。彼は初め散漫な調子で、事実をばらばらに摑んで来ながら、いかにも無系統らしく論じていたが、それでも結局、ちゃんと立派にまとまりがつくのであった。彼の弁論は二つの部分にわけることができた。前半は批判であり、起訴理由に対する反駁であって、時として意地のわるい皮肉が出た。けれど、後半になると、急に語調も論法も一変して、たちまち悲痛な高みへ昂翔した。満廷はそれを待ちもうけていたもののように、感激のあまりどよめきはじめた。弁護士はただちに問題へ入って、まず自分の活動舞台はペテルブルグにあるのだが、被告を弁護するためにロシヤの町々を訪れたのは、あえてこれが初めてではない、自分が弁護の労をとってやる被告は、みんな罪なき人間であると確信しているか、あるいは前もってそう予感しているか、二つのうちどちらかであると述べた。
「今度の事件もそうであります」と彼は説明した。「初めて新聞の通信を読んだそもそもから、私は被告の利益となるようなあるものに、ぱっと心を打たれました。つまり、私はまず何よりも、ある法律上の事実に興味を覚えたのであります。その事実は通常、裁判事件においてしばしば繰り返されるものでありますが、しかし今度の事件ほど完全に、しかも特殊な形相をもって現われたことは、珍しいと思います。この事実は弁論の終りに公表すべきものでしょうが、私はまず初めに述べておくことにいたします。なぜかと言えば、私は効果を隠さず、印象の経済を考えず、問題の中心に直往邁進するという、一つの弱みをもっているからであります。これは、私の立場から言うと、あるいは思わざるのはなはだしいものかもしれませんが、しかしその代り誠実なのであります。私の思想、信条はこういうのであります。つまり、被告を不利におとしいれる事実は、圧倒的に累積しているけれど、またそれと同時に、その事実を一つ一つ観察してみると、批判にたえ得るものは一つとしてない、ということであります。世間の噂を聞いたり、新聞を見たりするにつけて、私はいよいよこの信念を固くしました。そこへとつぜん被告の親戚から、弁護に来てもらいたいと招聘を受けたのであります。で、さっそく当地へ来てみますと、さらに一そう自分の信念を固めました。私がこの事件の弁護を引き受けたのは、この恐るべき事実の累積を打破するためです、すなわち起訴の理由となっている事実がことごとく証拠不十分で、かつ空想的なものであるということを、立証するためなのであります。」
 弁護士はこう言って急に声を高めた。
陪審員諸君、私は当地へ新たに来た人間です。したがって、私の受けた印象には、少しも先入見がありません。粗笨にして放縦な性格を有する被告も、かつて私を侮辱したことはありません。ところが、この町の多くの人々は、以前かれから非礼を受けているので、前もって被告に反感をいだいているわけであります。むろん、当地の人々の激昂が正当であることは、私とても承知しています。被告は乱暴で放縦な人間です。もっとも、かれ被告が当地の社交界にいれられていたことは事実です。すぐれた才幹を有しておられる起訴者の家庭などでも、むしろ愛されていたくらいであります。(Nota bene 弁護士がこう言った時、聴衆の間に二三嘲笑の声が聞えだ。もっとも、その声はすぐ押し殺されたが、それでも、一同の耳にはいった。当地の人は事情を知っていたが、検事はいやいやながらミーチャを出入りさしていたのであった。それは、検事の細君がなぜか彼に興味をもっていたからで。細君はきわめて徳行の聞え高い立派な婦人であったが、空想的でわがままな性分で、ときおり、――おもに些細なことで、――よく夫に楯突くことがあった。もっとも、ミーチャはあまり彼らの家を訪問しなかった。)が、それにもかかわらず、私はあえてこう申します」と弁護士は語をつづけた。「わが論敵は独立不羈の見識を有し、公明正大な性格を備えておられるにもかかわらず、わが不幸なる被告に対して、何か誤った先入見を蔵しておられるかもしれないのであります。むろん、それはさもあるべきことです。不幸なる被告がそれだけの報いを受けるのは、きわめて当然なことであって、傷つけられた徳義心、ことに審美心は、時として一切の妥協を許さないことがあります。むろん、われわれはこの光彩陸離たる論告において、被告の性格ならびに行為に対する鋭利な解剖を聞き、事件に対する峻厳なる批判態度を見ました。ことに、事件の真相説明のために開陳された深い心理解剖にいたっては、もし尊敬すべき論敵が被告の人格に対して、少しでも悪意をおびた意識的な偏見をもっておられたとすれば、とうてい望むことのできないほど深い洞察に充ちたものでありました。しかし、この場合、事件に対する意識的な悪意をおびた態度より以上に悪い、恐るべきものがあります。それは、例えて言うと、一種の芸術的、遊戯的本能に捉えられた時などです。すなわち芸術的創作の要求、いわば小説を作ろうとする要求なのです。ことに、神から心理的洞察力を豊富に授かっている場合は、なおさらであります。私はまだペテルブルグにあって、当地へ出発する前からすでに忠告されていました。いや、私自身だれの注意を受けないでも、当地で自分の反対側に立つ人が深刻精密な心理学者であり、この点において早くよりわが若き法曹界に、一種の令名を馳せておられる方であることを知っていました。けれど、諸君、心理解剖はきわめて至難なものでありまして、かつ両刃のついた刀のようなものであります(聴衆の中に笑声が起った)。むろん、諸君はこの平凡な比喩をお許し下さることでしょう。私はあまり美しい表現をすることが得手でないほうなのですから。しかし、それはとにかくとして、いま起訴者の論告の申から、取りあえず一例を挙げてみましょう。被告は真夜中、くらい庭を走り抜けて、塀を乗り越えようとした時、自分の足に縋りついた従僕を銅の杵で殴りつけましたが、それからすぐにまた庭へ飛び降りて、五分間ばかり被害者のそばで世話をやきました。それは、彼が死んだかどうかを確かめるためでありました。ところが起訴者は、被告がグリゴーリイ老人のそばへ飛び降りたのは、憐憫の情からだという被告の申し立てを、どうしても信じまいとしておられます。『いや、そういう瞬間に、そういう感情が起り得るものであろうか? それは不自然である。彼が飛び降りたのは、自分の兇行の唯一の証人が生きているか、死んでいるかを見さだめるためであった。したがって、これはすでに被告が兇行を演じたことを立証するものである。こういう場合、何かほかの動機、ほかの衝動、ほかの感情からして庭へ飛びおりるはずはない』と、こう起訴者は言われます。なるほど、これは心理的な説明です。しかし、今その心理解剖を事実にあてはめてみましょう。ただし、別な側面からであります。するとやはり、検察官の説に劣らないほど本当らしくなってきます。兇行者が下へ飛びおりたのは、証人が生きているか死んでいるか、見さだめようという警戒心のためと仮定しましょう。けれど、起訴者の証明によると、被告は自分が手にかけて殺した父親の書斎に、この犯罪を立証する有力なる証拠品、すなわち三千ルーブリ封入と上書きした封筒を、破ったまま棄てて来たではありませんか。『もし彼がその封筒さえ持って行ったなら、もう世界じゅうに誰一人その封筒のあったことも、その中に金がはいっていたことも知らなかったに相違ない。したがって、その金が被告によって奪われたということも、ぜんぜん知られずにすんだはずである。』これは起訴者ご自身のお言葉であります。こういうわけで、一つの場合においては、被告はまるきり警戒心が欠けていて、驚愕のあまり前後を忘却して、床の上に証拠物件を取り残したまま逃走しながら、二分の後、いま一人の人間を殴打し殺傷した時には、たちまち冷酷な打算的感情を現わしたことになります。しかし、それもいいとしましょう。そうした場合、たったいま彼は、コーカサスの鷲のように残忍、鋭敏であったと思うと、次の瞬間にはすぐ、あわれな土竜《もぐらもち》のように、盲目な臆病者になったかもしれません。そこがすなわち、心理作用の微妙な点かもしれません。けれど、もし彼が兇行を演じておいて、その兇行を目撃した者の生死を見さだめに飛びおりるほど、残忍で冷酷で打算的であったとすれば、なぜこの新しい犠牲者のために五分間も費して、さらに新しい証人を作るような危険を冒したのでしょう? なぜ彼は被害者の頭の血をハンカチで拭いたりなぞして、そのハンカチが後日の証拠となるようなことをするのでしょうか? いや、もし彼がそれほど打算的で残忍であるならば、むしろ塀から飛び降りたとき、打ち倒れた下男の頭をさらに例の杵でたたき割り、その息の根を止めて目撃者を根絶し、自分の心から一切の不安を除いてしまったはずではありませんか? またさらに、彼は兇行の目撃者の死を確かめに飛びおりながら、そこの路ばたにもう一つの証拠品、すなわち例の杵を残しています。その杵は二人の女のところから持って来たのですから、彼らは後日それを自分たちのものだと申し立てて、被告がそれを自分たちのところから持って行った事実を証明するはずです。それに、杵は路ばたに忘れたのでもなければ、また茫然自失して取り落したのでもありません。いや、彼はその兇器を投げ出したのです。なぜなら、それはグリゴーリイが倒れていた場所から、十五歩も距たったところに発見されたからです。一たい何のためにそんなことをしたのだろう? こういう疑問が自然と起ってきます。それはこういうわけです。彼は一個の人間を、長年つかっていた下男を殺したことを悲しんで、呪詛の言葉とともに、その兇器を投げ棄てたのであります。でなければ、あんなに力一から一ぱい投げ飛ばす理由がありますまい。また、もし彼が一個の人間を殺したことに、苦悶と憐憫を感じ得たものとすれば、むろんそれは父親を殺さなかったからであります。もしすでに父親を殺したものとすれば、第二の被害者に憐憫を感じて飛びおりるはずはありません。その時はもはや別な感情が起るのが当然であります。憐憫どころではなく、むしろ自分の身を助けようという感情が起るはずであります。それはむろん、そうなければなりません。繰り返して言いますが、彼は五分間もそのために時間を費したりなぞしないで、ひと思いに被害者の頭蓋骨を打ち割ってしまったでしょう。ところで、惻隠の情や善良な感情が現われる余地があったのは、その前から良心がやましくなかったからであります。こうして、今はぜんぜん別個な心理が生じました。陪審員諸君、私がいま自分から心理解剖を試みたのは、人間の心理というものは、勝手に自由に解釈し得るものだということを、明示するためなのであります。要は、それをあつかう手腕いかんによるのであります。心理は、最も真面目な人々をさえ、えて知らず識らず小説家たらしめるおそれがあります。陪審員諸君、私は心理解剖の濫用と悪用を警告いたします。」
 ここでまた聴衆の中に同意を表するような笑声が起った。それはやっぱり検事に向けられたのである。筆者《わたし》は弁護士の弁論を巨細にわたって紹介しないで、ただその中から最も肝腎な点だけ挙げることにする。

   第十一 金はなかった 強奪行為もなかった

 弁護士の弁論中すべての人を驚かせた一点は、この不祥な三千ルーブリの金がぜんぜん存在していなかった、したがって、被告がその金を強奪するはずもない、――という説である。
陪審員諸君」と弁護士は論歩を進めた。「ほかから当地へやって来て、一切の先入見を有しない人々は、この事件の中にある一つの特質を発見して、驚異を感ずるのであります。それは、被告が金を強奪したといって責めながら、しかもそれと同時に、何か強奪されたかという疑問に対して、実際上の証拠を全然あげ得ないことであります。三千ルーブリの金が強奪されたとのことですが、その金が実際にあったかどうか、誰ひとり知るものがありません。そうじゃありませんか、第一に、どうしてわれわれは金のあったことを知りましたか、また、誰がそれを見ましたか? 現在その金を自分の目で見て、署名した封筒の中に入っていたと言うものは、下男のスメルジャコフ一人きりです。彼は事件の起る前にそのことを被告と、被告の弟イヴァン・フョードロヴィッチに告げました。それから、スヴェートロヴァもそれを聞いていました。しかし、三人とも自分でその金を見たのではありません。見たものは、やはりスメルジャコフ一人なのです。ところで、ここに一つ疑問があります。すなわち、たとえ本当にその金があって、それをスメルジャコフが見たとしても、彼がそれを最後に見たのはいつか、ということであります。もし主人がその金を蒲団の下から取り出して、スメルジャコフには知らせずに、また金庫の中へ入れたとしたら、どうでしょう? スメルジャコフの言葉によると、その金は蒲団の下に、敷蒲団の下にあったという。してみれば、被告はその金を敷蒲団の下から引き出さねばならなかったわけです。けれども、蒲団は少しも乱れていませんでした。このことはくわしく予審調書に記入してあります。どうして被告は蒲団を少しも乱さなかったのでしょう? そればかりか、その夜、とくに敷いてあった雪のように白い華奢な敷布を、被告はその血みどろの手で汚さなかったのであります。でも、床に封筒が落ちていたではないか、ここうおっしゃるでしょう、ところが、その封筒についてこそ、一言すべき価値があるのであります。私は先刻、敏腕な起訴者が自分の口から、――よろしいですか、――自分の口からこの封筒について言われたことに、いささか一驚を喫したのであります。諸君もお聞きになったことでしょうが、起訴者はその論告において、スメルジャコフが下手人であるという仮定の不条理なことを示すために、封筒を引き合いに出して、『もしこの封筒がなかったら、もしこの封筒を強奪者が持って逃げて、証拠物件として床の上に残しておかなかったら、誰一人としてこの封筒のあったことも、その中に金が入っていたことも知らなかったろうし、したがって、その金が被告に強奪されたことも知らなかったに相違ない』と言われました。で、起訴者の告白によると、ただ上書きをしたこの破れた紙きれ一つが、被告の強盗行為を証明するもので、『それさえなければ、誰一人として強盗の行われたことはもとより、金のあったことさえ知らなかった』のであります。しかし、床の上にこの紙きれが落ちていたという一事が、はたしてその封筒の中に金があったことや、その金が強奪されたことを立証するものでしょうか?『しかし、封筒の中に金が入っていたのは、現にスメルジャコフが見たではないか』とお答えになるでしょう。しかし、彼がその金を最後に見たのはいつなのでしょう。一たいいつのことでしょう? 私はそれを訊いているのであります。私はスメルジャコフに会いましたが、彼はその金を兇行の二日前に見たと言いました! すると、私はこういう事情を仮定する権利をもっています。すなわち、フョードル老人がひとり家に閉じ籠っていて、恋人の来るのを気ちがいのように待ちあぐみ[#「あぐみ」はママ]ながら、所在なさに封筒を取り出して破ったのではないでしょうか。彼は、『こんな封筒を見たって本当にしないかもしれん。一束になった虹模様の紙幣三十枚のほうが、たぶんきき目が多いだろう。きっと涎を流すに違いない。』こう考えて、封筒を破りすて、金を取り出したのではないでしょうか。彼はその金の持ち主であるから、大威張りで封筒を床の上に投げ棄てたわけなのです。それが何かの証拠物件になりはしないか? などと心配するはずはむろんありません。どうです、陪審員諸君、こうした仮定、こうした事実はきわめてあり得べきことではないでしょうか? これがなぜ不可能なのでしょう? もしこれに似たようなことでもあり得るとしたら、強奪の罪はおのずから消滅するわけであります。金がなければ、したがって強奪するはずもないのです。もし封筒が床の上に落ちていたことが、その中に金の入っていた証拠になるとすれば、その反対に、封筒が床の上に転がっていたのは、もうその中に金がなかったからである、すなわち、主人がその前に金を抜き取ったからである、こう証明のできないわけがどこにありましょう?『しかし、もしフョードル自身が封筒から金を出したとすれば、その金は一たいどこへおいたのだろう? あの家を捜索した時に、どうして発見されなかったのだろう?』という反駁があるかもしれませんが、第一に、彼の金庫の中から一部分の金が発見されました。第二に、彼フョードルはすでにその朝か、またはその前夜に金を取り出して、何か別な用途にあてるためにどこかへ送ったかもしれない。また最後に、自分の考えや行動や計画を根本的に変更してしまい、しかもその際そのことを前もって、全然スメルジャコフに告げる必要がないと思ったのかもしれない。もしこうした仮定を下し得るものとしたら、どうしてあれほど頑強な、あれほど決然たる態度で、被告を罪することができましょう? 彼はとつぜん強盗の目的で親を殺したとか、実際、強盗が行われたとか、そういうことがどうして言われましょう? これはもう創作の範囲に属しているのであります。もし何か盗まれたことを証拠だてようとするなら、その盗まれたものを示すか、あるいは少くとも、そのものが存在していたという確実な証拠を挙げなければなりません。だが、そのものを誰も見る人はないのです。
「近頃ペテルブルグでこういう事件がありました。やっと十八になったばかりの、まだほんの子供のような若い棒手ふりが、昼日中、斧を持って両替店に押し入り、典型的な残忍性を発揮して、亭主を惨殺したうえ、千五百ルーブリの金を奪ったのであります。五時間後に彼は捕縛されましたが、ただ十五ルーブリを消費しただけで、総額に近い残りの金を持っていました。のみならず、兇行後、店へ帰って来た番頭は、単に金を盗まれたということだけでなく、その盗まれたのがどんな金かということまで、すなわち虹色の紙幣が何枚、青いのが何枚、赤いのが何枚、金貨が何枚あったということまで、詳しく警察に届け出たのであります、はたして捕縛された犯人は、そのとおりの紙幣と貨幣を持っていました。なおそのうえ犯人は、自分が殺して金を奪ったということを、きっぱりといさぎよく申し立てました。陪審員諸君、私が証跡と名づけるのは、こういうものであります! むろん、私はその金を知ってもいたし、目撃もしたし、手でさわってさえもみたので、その金がないとか、なかったとかいうことは不可能です。ところで、今度の場合もそうでしょうか? しかも、このことたるや、人間の生死の運命にかかわる問題なのであります。
『そうかもしれないが、しかし彼はその夜、遊興で金を撒き散らした。しかも、千五百ルーブリの金を持っていた、――一たいそれでは金をどこから持って来たのだ?』と諸君はおっしゃるでしょう。けれど、千五百ルーブリだけ見つかって、あとの半分がどうしても見つからなかったという事実は、その金がぜんぜん別の金、――封筒にも何にも入ったことのない金かもしれぬ、ということを立証するではありませんか。すでに厳密な考究によって証明されている時間から計算しても、被告が女中たちのところから、すぐ官吏ペルホーチンのところへ走って行って、自分の家へもどこへも立ち寄らなかったし、その後も、しじゅう人中に立ちまじっていたことは、予審でも認められ、かつ証明されています。してみれば、被告が町の中で三千ルーブリから半分だけ別にして、どこかへ隠すなどということはできないわけです。これがつまり起訴者をして、半分の金はモークロエ村で何かの隙間に隠したのだろう、とこう仮定せしむるにいたった原因であります。いっそ、ウドルフ城の地下室に隠してある、とでも言ったほうがいいじゃありませんか? そんな仮定はあまりに空想的、小説的ではないでしょうか? で、このただ一つの仮定、すなわちモークロエに隠してあるという仮定さえ消滅すれば、強奪の罪はたちどころに消滅してしまうのです。なぜかと言えば、その時この千五百ルーブリの金がどこへ行ったか、わからなくなるからであります。もし被告がどこへも寄らなかったことが証明されたとすれば、一たいその金はどういう奇蹟で消え失せたのでしょうか? しかも、われわれはそうした架空的想像で、一個の人間の生命を滅ぼそうとしているではありませんか! 『それにしても、彼は自分の持っていた千五百ルーブリの出所を、十分説明することができなかった。のみならず、その夜まで彼が金を持っていなかったことは、みんな誰でも知っている』と、諸君はおっしゃるかもしれません。しかし、誰がそれを知っていたか? 被告は金の出所について、きっぱりと明瞭な申し立てをしました。陪審員諸君、もし諸君が私の意見を聞きたいとおっしゃるなら申しますが、――これ以上に確かな申し立ては決してほかになかったし、またあろうはずもありません。のみならず、その申し立ては被告の性格と精神とに最もよく一致しております。しかるに、起訴者はご自作の小説のほうが、お気に召したのであります。被告は意志の薄弱な男で、許嫁が渡した三千ルーブリの金を恥を忍んで受け取るほどだから、その半分を別にして袋の中へ縫い込むようなはずはない。また、たとえ縫い込んだとしても、二日目ごとにそれを解いて、百ルーブリずつくらい引き出しながら、一カ月のうちに残らず出してしまったに相違ない、とこう言われました。しかも、この議論は、いかなる反駁をも許さないような調子で述べられたのであります。しかし、もし事件の真相が全然それに反して、つまり諸君の作られた小説とぜんぜん違って、そこにまったく別な一面が存するとしたらどうでしょう。問題は、諸君が別な一面を作り出した点に存するのであります! あるいは諸君は、『被告が兇行の一カ月前、カチェリーナ・イヴァーノヴナから受け取った三千ルーブリの金を、モークロエ村で一度に、一夜のうちに、一コペイカのこらず使いはたしたということについては、ちゃんとした証人がある。してみれば、被告が半分別にしておくはずはない』と言われるかもしれません。しかし、その証人というのはどんな人間であるか? この証人たちの確実さの程度は、すでにこの法廷で暴露されたではありませんか。のみならず、人の持っているパンは、常に大きく見えるものです。ことにこれらの証人の中で、その金をかぞえたものは誰ひとりありません。ただ自分の目分量で判断したにすぎないのであります。現に証人マクシーモフのごときは、被告が二万ルーブリも握っていたと申し立てたではありませんか。陪審員諸君、かようなわけで、心理解剖は両刀の刀のようなものでありますから、私はその反対の側を当てて、どういう結論が生ずるかを見ようと思います。
「椿事勃発の一カ月前に、被告はカチェリーナ・イヴァーノヴナから三千ルーブリの郵送を頼まれました。が、はたしてその金は、先刻いわれたような侮辱と、軽蔑の意志をもって依頼されたものでしょうか? そこが問題なのであります。その問題に関する彼女の最初の申し立ては、決してそうではありませんでした。全然それとは違っていました。二度目の申し立ての時に、われわれは初めて憎悪と復讐の叫びを聞きました。長いあいだ秘められていた嫉妬の叫びを聞いたのであります。ところで、証人が最初不確実な申し立てをしたということは、二度目の申し立てもやはり不確実なものであると、断定する権利をわれわれに与えるのであります。起訴者はこの物語にふれることを、『欲しない、あえてしない』(これは検事自身の言葉であります)と言われる。それもいいでしょう。私もそれにふれますまい。しかし、私は次の一事を認めさしてもらいたいのであります。すなわち、かの潔白な、徳義心の発達した、尊敬すべきカチェリーナ・イヴァーノヴナのごとき婦人が、明らかに被告を破滅させようという目的をもって、法廷において最初の申し立てを軽率に変更する以上、この申し立てが公平かつ冷静なものではない、ということは明らかであります。諸君、復讐の念に駆られた女が、とかく誇張しがちなものであると断定する権利を、諸君はわれわれから奪おうとなさらないでしょう? そうです、確かに彼女は金を渡すときの屈辱と侮蔑を誇張しています。事実、彼女はその金を受け取ることができる、とくに被告のような軽浮な人間にとっては容易に受け取ることができるような態度で、金を渡したに相違ありません。第一、被告はそのとき、精算上自分の所有に属すべき三千ルーブリの金を、すぐ父親から受け取ることをあてにしておりました。それはいかにも軽はずみな考えです。が、つまり被告はその軽はずみのために、父は必ず三千ルーブリの金を渡すに相違ない、その金を受け取りさえすれば、依頼されている金はいつでも郵送できるから、したがって、負債のかたもきれいにつけることができる、とこう固く信じていたのであります。しかるに、起訴者は、被告がその日に受け取った金を二分して、半分を袋の中に縫い込んだということを、いっかな承認しようとされません。『それは被告の性格に反している、被告がそんな感情をもっているはずはない』と起訴者は言われます。しかし、あなたは自分の口から、カラマーゾフの性格は広汎である、と叫ばれたではありませんか。あなたは自分の口から、カラマーゾフは二つの深淵を同時に見ることができる、と絶叫されたではありませんか。まったくカラマーゾフは二つの面を備え、両極端の間に動揺する天性をもっております。遊蕩に対して抑えがたい要求を感じている場合でも、もし他の面から何かに刺戟を受ければ、すぐ歩みを止めることのできる男であります。他の面というのは、つまり愛なのであります、――そのとき火薬のように燃えあがった新しい愛であります。ところが、この愛のためには金が必要です。恋人との遊興に必要なよりも、もっともっと必要なのであります。もし彼女が、『わたしはあなたのものです、フョードルさんなんかいやです』と言ったら、彼は女と一緒に逃げなければなりません。そうすればいろんな費用がかかる。このほうが遊興よりもっと重大な問題だったのです。これがカラマーゾフにわからないはずはないじゃありませんか? いや、彼はつまりこれがために苦悶したのです、肝胆を砕いたのであります、――彼が金を二分して、万一の場合のために半分かくしておいたということが、どうしておかしいのでしょう? ところで、時はどんどんたって行くのに、フョードルは被告に三千ルーブリを与えないばかりか、反対に彼の恋人を誘惑するために、その金を用立てようとしている、という噂さえひろまりました。
『もし親父がよこさなけりゃ、自分はカチェリーナに対して泥棒になってしまう』と彼は考えました。で、しじゅう守り袋に入れて持っている千五百ルーブリを、カチェリーナの前において、『僕は卑劣漢だが、しかし泥棒じゃない』と声明しよう、という考えが浮んできました。こういったわけで、千五百ルーブリを目の玉のように大切にして、決して袋も開けなければ、また百ルーブリずつ引き出しもしなかったという事実に対して、二重の理由が存在するのであります。諸君、諸君はどうして被告に名誉心の存在を否定なさるか? そうです、彼は名誉心をもっています。もっとも、それは方向を誤った、間違った名誉心かもしれません。が、とにかく名誉心はあります、しかも情熱の域に達するほどであります、つまり彼はこれを証拠だてたわけであります。けれど、事態が紛糾して、嫉妬の苦痛が極度に達すると、例の疑念、すなわち以前の二つの疑問がいよいよ痛切になって、被告の熱した頭脳を苦しめました。『もしこれをカチェリーナに返したら、どうしてグルーシェンカを連れ出せるだろう?』彼があの一カ月の間、あんなに無鉄砲に酒をあおって、到るところの酒場を暴れ廻ったのも、つまりその苦しみにたえ得なかったからかもしれません。結局、この二つの疑念はますます鋭さをまして行って、とうとう彼を絶望におとしいれてしまいました。彼は弟を父のところへ送って、最後にその三千ルーブリを請求させましたが、返事も待たずに自分で暴れ込んで、みなの目の前で父親を殴りつけました。こうなった以上、もう誰からも金を手に入れる望みはありません。殴られた父親がくれるはずはもとよりありません。その晩、彼は自分の胸を、――ちょうど守り袋を吊した上の辺を打って、自分は卑劣漢にならないですひ方法をもっているが、しかし結局、卑劣漢で終るに相違ない、なぜなら、その方法を用うるだけの精神力もなければ、またそうした意気地もないのを、自分でちゃんと見抜いているからだ、とこう彼は弟に誓いました。なぜ、なぜ起訴者はアレクセイの申し立てを信じられないのでしょう? 彼はあんなに潔白に、あんなに誠意をこめて、何ら小細工を弄したあともなく、正直に申し立てたではありませんか? またその反対に、なぜ起訴者は金がどこかの隙間に、――ウドルフ城の地下室に隠してあるなどということを、私に信じさせようとなさるのでしょう? その晩、弟と話をしたあとで、被告はかの宿命的な手紙を書きました。この手紙こそ被告の罪状を明らかにする、最も肝要な、最も有力な証拠となったのであります! 『みんなに頼んでみて、誰も貸してくれないようだったら、イヴァンが出発するやいなや、すぐに親父を殺して、やつの枕の下からばら色のリボンでしばった封筒を引き出してやる。』これはもう立派な人殺しのプログラムです。むろん、彼でなくてどうしましょう。『実際、書いてあるとおりに行われたのだ!』と、こう起訴者は叫ばれました。しかし、まず第一に、手紙は泥酔の上で書かれたものです。非常な興奮状態で書かれたものであります。第二に、封筒の件はやはりスメルジャコフから聞いて書いたもので、彼自身その封筒を見たことはないのであります。第三に、この手紙は被告が書いたものに相違ないが、はたして書いてあるとおりに実行されたのでしょうか、それは何で証明されましたか? 被告は実際、枕の下から封筒を取り出したのでしょうか、金を見つけたでしょうか、いや、それどころか、金ははたして存在していたでしょうか? 被告ははたして金を奪いに駈け出したのでしょうか、一つご記憶を願います! 彼は金を奪うためではなく、ただ自分を夢中にさした女の行方を突き留めるために、駈け出したのであります、――してみると、プログラムどおり、すなわち手紙に書いてあるような意味で、駈け出したのではありません。かねて考えていた強盗のためではなく、とつぜん嫉妬の念に駆られて、何心なく駈け出したものです。『それにしても、やはり駈けつけて父親を殺して、金を奪ったに違いない』と諸君はおっしゃるでしょう。しかし、彼はその上まだ殺人までしたのでしょうか、どうでしょうか? 強奪の罪は私の憤然としてしりぞけるところです。奪われたものが明示されない以上、人に強奪の罪をきせることは不可能です、それは原則であります! 一方、彼は殺人をしたのでしょうか? 強奪しないで殺人だけしたのでしょうか? それははたして証明されているでしょうか? それもやはり創作ではないでしょうか?

   第十二 それに殺人もなかった

陪審員諸君、これは人間一個の生死に関することですから、慎重にご考慮あらんことを願います。起訴者は最後まで、すなわちきょう裁判が始まるまで、被告が完全に予定の計画にもとづいて兇行をあえてしたかどうか惑っていた、『酔いに乗じて』書かれたこの宿命的な手紙が、きょう法廷に出されるまで惑っていた、とこう明言せられました。それはわれわれも確かに聞いたところであります。『書いてあるとおりに実行したのだ!』と起訴者は言われます。が、私は繰り返し申します、彼が駈け出したのは、ただ女を捜すため、女のありかを捜すためにすぎませんでした。これは動かすべからざる事実であります。もし彼女が家にさえおれば、彼はどこへも駈け出さず、そのそばに残って、あの手紙で約束したことを実行しなかったに相違ありません。彼は突然、何の考えもなしに駈け出したので、『酔いに乗じて』書いた手紙のことなどは、その時すっかり忘れてしまっていたかもしれません。『だが、杵を摑んで行ったじゃないか』と言われます。しかし、起訴者はたった一つの杵を基礎として、被告がこの杵を兇器と認め、兇器として摑んで行った理由を説明する大袈裟な心理解剖をつくり出されました。ところが、この際わたしの頭には、ごく平凡な一つの考えが浮んできます。というのは、もしこの杵が目につきやすい棚の上(被告はそこから持って行ったのです)などでなく、戸棚の中にでも片づけてあったとしたら、――その時は被告の目に映らなかったに相違ないから、被告は兇器を持たずに、空手で駈け出したことでしょう。そうすれば、誰も殺さなかったかもしれないのであります。してみると、私は持兇器謀殺罪の証拠とされているこの杵を、そもそもどう判断したらいいのでしょう? 『それはそうだが、しかし以前、彼は到るところの酒場で、親父を殺してやると公言していたのに、二日前の晩、酔いに乗じて手紙を書いた時には、静かにおとなしくしていて、ただ酒場で一人の番頭と喧嘩しただけではないか』と、こう起訴者は抗言されるでしょう。『なにしろカラマーゾフだから、喧嘩をせずにはいられなかったのだ』と言われました。が、私はそれに対して、もし被告が計画どおり、すなわち手紙に書いたとおりに、父を殺そうと企らんだものとすれば、彼は確かに番頭とも喧嘩をしなかったろうし、また第一、酒場などへ入らなかったろう、と答えます。なぜなら、そういうことを企らんでいる人間は、静寂と孤独を求め、人の耳目にふれないように身を隠して、『できるだけ自分を忘れさせよう』とするからであります。それは打算というより、本能的にそうするのであります。陪審員諸君、心理は両面をもっていますから、われわれもそれを理解し得るのであります。またこの一カ月間、被告が到るところの酒場で吹聴したことにいたっては、よく子供などが言うのと同じようなものです。酔っぱらった遊び人が酒場から出て来て、喧嘩しながら、お互いに『ぶち殺すぞ』などと呶鳴るのは、珍しいことじゃありません。しかし、彼らは本当に殺しはしないじゃありませんか。だから、この不祥な手紙も、やはり酒の上の激昂ではないでしょうか、酔漢が酒場から出て来て、『殺してやる、手前たちをみんな殺してやる!』と叫ぶのと同じことではないでしょうか! なぜそうでないのでしょう? なぜそうあってはならないのでしょう? なぜこの手紙は不祥なものでしょう? なぜその反対に、滑稽なものと言えないのでしょう? それはほかでもありません、父親の死骸が発見されたからであります、兇器を持って庭から逃げて行く被告の姿を、一人の証人が見たからであります。またその証人自身が、被告から危害を加えられたからであります。それゆえ、すべてが書いたとおりに実行されたということとなり、その手紙は一笑に付しがたい、不祥なものとなった次第であります。おかげでわれわれは、『庭に入った以上、彼が殺したに違いない』という見解に達しました。この『入った以上』必ず殺したに『違いない』という、この二つの言葉の中に、起訴理由のすべてがつくされているのです。『入った以上、殺したに違いない。』しかし、たとえ『入った』にしても、それが殺したに『違いない』ということにならなかったら、どうでしょう? ああ、私は事実の累積と合致が、実際かなり雄弁であることに同意します。が、しかし、その事実を一つ一つ、累積とか合致とかいうことに拘泥しないで、別々に観察してごらんなさい。
「たとえば、起訴者は、被告が父親の窓のそばから逃げ出したと言う申し立てを、なぜ信じようとなさらないのですか? とつぜん犯人の心に生じた『敬虔な』感情や、うやうやしい態度に関して、先刻起訴者が皮肉さえ弄されたことを記憶して下さい。けれど、もし実際そうした感情が、――たとえ敬意でないまでも、一種の敬虔の念があったとしたら、どうします?『そのとき、母親が私のために祈ってくれたに相違ない』と被告は審問の時に申し立てております。こうして、彼は父親の家にスヴェートロヴァがいないことを確かめると、すぐ逃げ出したのであります。『しかし、窓ごしにそんなことが確かめられるものじゃない』と起訴者は反対されるでしょう。が、なぜ確かめられないのでしょう? 実際、被告の合図のよって、窓が開けられたではありませんか。その時フョードルが何とか言って声を立てたでしょう。そこにスヴェートロヴァのいないことを、被告に確信させるような言葉を、何か叫んだに相違ありません。なぜわれわれは自分の想像するように、想像したいと望むように、すべてを仮定しなければならないのでしょうか? 現実生活においては、最も周匝緻密な小説家の観察眼さえ逸し去るような事件が、無数に発生し得るものであります。『それはそうだ。しかし、グリゴーリイは、戸の開いているところを目撃したではないか。だから、被告は家の中に入ったはずだ。したがって、彼が下手人に相違ない』と言われる。陪審員諸君、ところで、この戸ですが……この戸が開いていたと証明するものは、ただ一人しかありません。しかも、その証人たるや、その時ああいう状態にあったのですから……しかし、かまいません、戸は開いていたとしましょう。被告が強情をはって、こうした場合ありがちな自衛心のために、嘘をついたとしましょう。かまいません、被告が家の申へ入り込んだとしましょう――が、一たいなぜ家へ入れば、必ず殺したということになるのでしょうか? 彼は暴れ込んで、部屋から部屋を駈け廻ったかもしれません。父親を突きのけたかもしれません。あるいは、殴りさえしたかもわかりません。しかし、スヴェートロヴァがいないことを確かめるやいなや、彼女のいなかったことを、したがって父を殺さずにすんだことを、喜んで逃げ出したのです。だからこそ、彼は一分間後に塀から飛びおりて、憤怒のあまり危害を加えたグリゴーリイのそばへ駈け寄ったのです。だからこそ、彼は潔白な感情、――同情と憐憫の情を起すことができたのです。つまり、父を殺そうという誘惑をまぬがれて、心ひそかに、潔白な感情と、罪を犯さないですんだ喜びを覚えたからであります。
「起訴者は、モークロエ村における被告の恐るべき地位を、恐ろしいほど雄弁に述べられました。すなわち、新しい恋が彼の前に展開されて、彼を新生活へさし招いているのに、彼の背後には血みどろになった父親の死骸があり、さらにその背後に刑罰が待っているために、恋は被告にとって不可能なものとなった、という次第でありますが、それでも起訴者はやはり彼の恋をみとめて、それを得意の心理解剖で説明されました。『酔っ払った時の状態や、犯人が刑場に引いて行かれる時、刑場の遠いことを頼みにしている心理作用』云々と言われました。しかし、私はまたお訊ねしますが、起訴者はまたここでも、別な人物を創造されたのではありますまいか? もし実際、父親の血を流したものとすれば、被告はその瞬間なお恋愛や、法官に対する欺瞞などを考えるほど、粗暴かつ残忍な人間でしょうか? いや、いや、決して、決してそうじゃありません! 彼は女が自分を愛のほうへさし招き、新しい幸福を約束していることを知ると同時に、――ああ、私は誓って言います、もし彼の背後に、父の死骸が横たわっていたとすれば、彼はそのとき自殺しようという要求を、二倍も三倍も強く感じたに相違ありません。そして、立派に自殺したことでありましょう。決して、決してピストルのありかを忘れたのではありません! 私は被告をよく知っています。起訴者によって誣いられた粗野な石のような無感覚は、彼の性格に一致するものではない。彼は自殺したに相違ありません、それは確かです。彼が自殺しなかったのは、『母親が彼のために祈ってくれた』からであり、したがって父の血に対して、罪がなかったからであります。彼はその夜モークロエで、老僕グリゴーリイに危害を加えたことばかり嘆き悲しんで、老人が正気づいて立ちあがるように、自分の加えた打撃が致命傷でないように、そして自分も刑罰を受けないですかようにと、心ひそかに神に祈っていたのであります。なぜ事件のこういう解釈が許されないのでしょう? われわれは、被告が嘘をついているということについて、どんな確かな証拠をもっているのでしょうか? 父親の死骸が証拠じゃないか、とすぐまた諸君は言われるでしょう。彼が殺さないで逃げ出したとすれば、その時はそもそも誰があの老人を殺したのだ? とこうおっしゃることでしょう。
「繰り返して言いますが、そこに起訴の論理か全部ふくまれているのであります。つまり、彼が殺したのでないとすれば、ぜんたい誰が殺したのか? 彼の代りにおくべきものがないではないか、とこういうのです。陪審員諸君、実際そうなのでしょうか? はたして彼のほかには嫌疑を受くべきものがないのでしょうか? 起訴者は当夜あの家に居合せたものや、出入りしたものを残らず数えて、結局、五人のものを挙げられました。そのうち三人には、まったく罪のきせようがないということには、私も同意します。それは殺された当人と、グリゴーリイ老人と、その妻とであります。そこで、あとに残るのは被告とスメルジャコフであります。ところが、起訴者の説によると、被告がスメルジャコフを挙げたのは、ほかに誰もさすべき人がないためである、もし彼以外に誰か六人目のものがあれば、少くとも六人目のものの影でもあれば、被告はスメルジャコフに罪をきせることを恥じて、すぐさまその六人目のものを挙げただろう、と起訴者は感激をこめて叫ばれました。しかし、陪審員諸君、一たいわたしはその正反対論を論結することができないでしょうか? ここに二人の人物、すなわち被告とスメルジャコフが立っています。ところが、私の立場から見て、あなた方が被告に罪をきせられるのは、ただほかに罪をきせるものが見あたらないためである、とこう言いきることができないでしょうか? ほかに罪をきせるものが見あたらないのは、あなた方が先入見によって、スメルジャコフをぜんぜん嫌疑の埒外へ取り除いてしまわれたからです。スメルジャコフを挙げるものは当の被告と、その二人の弟と、スヴェートロヴァだけであります。しかし、なおそのほか幾人か、スメルジャコフを挙げている人があります。それは社会における漠然たる疑念と、嫌疑の醗酵であります。何か漠とした噂が市中に聞えます、ある期待が感じられます。また最後に、幾つかの事実の対立も、それを証拠だてています。むろん、それは正直なところ、まだ判然としたものではありませんが、きわめて独得な性質をおびているのであります。第一、兇行の日に起った癲癇の発作ですが、起訴者はなぜかその発作の真実性を、しきりに弁護しようと苦心しておられます。次に、公判の前日、スメルジャコフが同じようにとつぜん自殺したことであります。またさらに、被告のすぐ次の弟がきょう法廷で、前二者に劣らないほど唐突に申し立てた証言であります。彼はそれまで兄の犯罪を信じていたのに、きょうとつぜん金まで提出して、これまたスメルジャコフの名を兇行者として挙げました。ああ、むろん私とても、イヴァン・カラマーゾフは譫妄狂にかかった病人で、彼の申し立てが、死者に罪を塗って兄を救おうとする絶望的な企て、――しかも、熱に浮かされながら考えついた企てかもしれないという、裁判官ならびに検事諸君の確信を分つものであります。しかし、またしてもスメルジャコフの名が挙げられたところに、そこに何か謎めいたあるものが感じられます。陪審員諸君、どうやらそこにはまだ十分説明されない、はっきり言いつくされないあるものが潜んでいるようです。それは不日、説明される時があるかもしれません。しかし、このことについてはいま深入りしますまい、これは後まわしにしましょう。
「で、先刻、裁判長閣下は評議を継続する旨を宣告されましたが、私はそれを待つ間に、ここでちょっと死んだスメルジャコフに加えられた性格批判について、一言しておこうと思います。起訴者の試みられたスメルジャコフ性格論は、実に精細をきわめたもので、なかなか優れた議論でありました。が、私は起訴者の天才に一驚を喫すると同時に、その批判の真髄にぜんぜん同意することができません。私はスメルジャコフを訪ねて、彼と会談してみました。しかし、彼が私に与えた印象はまったく別なものでした。彼が健康を害していたことは事実です。けれど、その性格、その感情にいたっては、――どうしてどうして、彼は決して起訴者の言われたような低能ではありません。ことに私は臆病な点、――起訴者があれほど明瞭に述べられた臆病さを、発見することができませんでした。また単純率直などという点は、寸毫もありませんでした。むしろ私は、率直の仮面に隠れている恐ろしい猜疑心と、鋭い智力を発見しました。ああ! 起訴者はあまりお手軽に、彼を単純な低能児としてしまわれましたが、私は彼から非常に強い印象を受けました。私は、彼が非常な毒念をもった、底の知れない野心家で、復讐心のさかんな、嫉妬心の強い人間である、という確信をいだいて帰りました。私は二三の情報を蒐集しましたが、彼はわれとわが出生を憎みかつ恥じていました。彼は常に歯ぎしりして、『リザヴェータ悪臭女《スメルジャーシチャヤ》の子だ』と言っていました。彼は幼年の頃の恩人たる、老僕グリゴーリイ夫婦さえ尊敬していませんでした。そして、ロシヤを呪い嘲って、フランスに帰化するために、パリヘ出かけようと空想しておりました。フランスへ行きたいけれど旅費がたりないと、彼は以前からよく言っていました。彼は自分以外の何ものをも愛していない上に、しかも不思議なほど自尊心が強かったように思われます。彼は立派な着物と、清潔なシャツと、てらてら光る靴を文明と心得ていました。彼は自分をフョードルの私生児と考えていたので(これには証拠があります)、正腹の息子たちと比較して自分の境遇を憎むということは、きわめてあり得る話であります。彼らは一切を有しているのに、自分は何一つもっていない、彼らはあらゆる権利を与えられて、遺産まで相続するが、自分はただ一個の料理人にすぎない、こう彼は考えたはずであります。彼は私に向って、フョードルが金を封筒に入れる手つだいをしたと言いました。彼はもちろんこの金の用途をいまいましく思ったに違いありません。これだけの金があれば、自分の新生活を始めるのに十分だからです。のみならず、彼はつやつやしい虹色の紙幣で