メモ026 京都アニメーション放火殺人事件の後を観察して、メディア批判の98%はまったく役立たずだと気がついた
京都アニメーション放火殺人事件で、実行犯Aのパソコンの解析結果が出てこないのを異常だと考えていた。
念のために、「スマートフォン」など、別のキーワードで入力してみたが、やはり利用記録がまったく公開されないことはどのマスコミも、ブログもとりあげていない。聞きこみで9か月間やってなにも追加情報がないならば、それは調べかたが甘いか見当はずれかのどちらかだ。パソコンの利用記録の解析は、もっと早く終わるはずだ。聞きこみの結果も、パソコンの解析結果もまったく出てこない。この事例は50年に1度だろう。
だいいち、事件発生から9か月間も追加情報がないならば、多くの人が気がついてもいいはずだ。わたしの検索が悪いはずなのだが、キーワードをいろいろかえて、1時間検索しても見つからない。つまり、多くの人は気がついていないということだ。
わたしは以前から、メディア批判というものに疑いをもっていた。大きな理由の一つは、ほとんどの論者が、広く共有されているマスコミに対する疑い(不当なものもあれば、まったく正当なものもある)を悪用して、資料の扱いをかなり甘いままにしていたことだ。
わたしの予想以上に、メディア批判というのは役立たずだったようだ。せめて一行かいていてくれたら、わたしはこんなことを書かずにすんだ。
わたしがまちがっていて踏み台になるのは別にかまわないが、わたしがあたっていて踏み台になるのはおそろしいことだ。メディア批判の98%はまったく役立たずだというわたしの判断が非常に正しかった、ということだからだ。