京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P050-053   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦32日目]

息子さんの名前を過去帳へ書き込んで、お寺さまへ持って行ってお経を上げておもらい、そうしたら息子さんの魂が悩みだして、手紙をよこすようになります、これは確かなことで、何遍も試したことがあるんだによって。こうスチェパニーダさんがおっしゃるけれど、わたくしはどんなものだろうかと存じましてねえ……一たい本当でございましょうか、そんなことをしてよろしいものでございましょうか、一つお教えなすって下さいまし。」
「そのようなことは考えることもなりませぬぞ。訊くのも恥しいことじゃ。生きておる魂を、しかも現在の母親が供養するというようなことが、どうしてできると思いなさる? これは大きな罪じゃ、妖法にもひとしいことじゃ、しかし、お前の無知に免じて赦して下さるであろう。それよりお前、すぐ誰にでも味方をして助けて下さる聖母さまにお祈りして、息子の息災でおりますように、また間違ったことを考えた罪をお赦し下さりますようにと、お願いしたがよろしいぞ。それからな、ブローホロヴナ、わしはお前にこれだけのことを言うておこう、――息子さんは近いうちに自分で帰って来るか、それとも手紙をよこすか、どっちか一つに相違ない。お前もそのつもりでおるがよい。さあ、もう安心して帰りなさい。わしが言うておくが、お前の息子はまめでいる。」
「有難い長老さま、どうか神様のお恵みのありますように! ほんにあなたさまはわたくしどもの恩人でございます。わたくしども一同のために、またわたくしどもの罪障のために、代って祈って下さるお方でございます!」
 が、長老はもう自分のほうへ向けられた二つの熱した瞳を、群衆の中に見分けていた。それは痩せ衰えた肺病やみらしい、とはいえまだ若い農婦であった。じっと無言に見つめている目は、何やら希うようであったが、そばへ近づくのを恐れているふうであった。
「お前は何の用で来たのじゃな?」
「わたくしの魂を赦して下さいまし。」低い声で静かにこう言いながら、彼女は膝を突いて、長老の足もとにひれ伏した。「長老さま、わたくしは罪を犯しました、自分の罪が恐うしゅうございます。」
 長老は一番下の段に腰をおろした。女は膝を起さないで、そのそばへにじり寄った。
「わたくしがやもめになってから、もう三年目でございます。」
 女はびくびく身を顫わすようなふうで、小声にこう囁いた。「わたくしは嫁に行った先が、いやでいやでたまりませんでし た。つれあいが年寄りで、ひどくわたくしをぶつのでございます。それが病気で寝ましたとき、わたくしはその顔を見い見い、もしこの人が快《よ》うなって床あげしたらどうしよう、と考えました。その時わたくしは、あの恐ろしい心を起したのでございます!」
「ちょっとお待ち!」と言って長老は、いきなり自分の耳を女の口のそばへ近寄せた。女はほとんど何一つ聞き取ることがで きないくらい小さな声でつづけて、やがて間もなく話し終った。
「三年目になるのじゃな?」
「三年目でございます。初めのうちは何とも思いませんでした が、この頃では病気までするほど、気がふさいでまいりました。」
「遠方かな?」
「ここから五百露里でございます。」
「懺悔の時に話したかな?」
「話しましてございます、二度も話しました。」
「聖餐をいただいたかな?」
「いただきました。長老さま、恐ろしゅうございます、死ぬのが恐ろしゅうございます。」
「何も恐れることはない、決して恐れることはない、くよくよすることもいらぬ。ただ懺悔の心が衰えぬようにしたならば、神様が何もかも赦して下さるのじゃ。それにな、本当に後悔しながら、神様から赦していただけぬような罪業は、決してこの世にありはせぬ、またあるべきはずもないのじゃ。また第一、限りない神様の愛を失うてしもうた者に、そのような大きな罪が犯せるものでない。それとも神様の愛でさえ追っつかぬような罪があるじゃろうか! そのようなことがあるべきでない。ただ怠りなく懺悔のみを心がけて、恐ろしいという気を追いのけてしまうがよい。神様は人間の考えに及びもつかねような愛を持っていらっしゃる、たとえ人間に罪があろうとも、その罪のままに愛して下さるということを、一心に信ずるがよい。十人の正しきものより、一人の悔い改むるもののために、天国において悦びは増すべけれと、昔から言うてある。さあ、帰りなさい、恐れることはない。人の言うことを気にして、腹を立てたりしてはならぬぞ。死んだつれあいがお前を辱しめたことは、一切ゆるしてやって、心底から仲直りをするのじゃぞ。もし後悔しておるとすれば、つまり、愛しておる証拠じゃ。もし愛しているとすれば、お前はもう神の子じゃ……愛はすべてのものを贖《あがな》い、すべてのものを救う、現にわしのようにお前と同様罪ふかい人間が、お前の身の上に心を動かして、お前をあわれんでおるくらいじゃによって、神様はなおさらのことではないか。愛はまことにこの上ない貴いもので、それがあれば世界じゅうを買うことでもできる。自分の罪は言うまでもない、人の罪でさえ贖うことができるくらいじゃ。さあ、恐れずに行きなさい。」
 彼は女に三度まで十字を切ってやって、自分の首から聖像をはずし、それをば女の首にかけてやった。女は無言のまま、地に額をつけて礼拝した。長老は立ちあがって、乳呑み子を抱いた丈夫らしい一人の女房を、にこにこしながら見つめるのであった。
「|上  山《ヴィシェゴーリエ》から参じやしたよ。」
「それでも六露里からあるところを、子供を抱いてはくたびれたろう。お前は何用じゃな?」
「お前さまを一目おがみに参じやした。わしはもう常住お前さまのところへまいりやすに、お忘れなさりやしたかね? もしお前さまわしを忘れなされたら、あまりもの覚えのええほうでもないとみえる。村のほうでお前さまがわずろうていなさるちゅう話を聞いたもんだで、ちょっとお顔を拝もうと思って出向きやしてね。ところが、こうして見れば、なんの病気どころか、まだ二十年くらいも生きなさりやすよ、本当に。どうか息災でいて下さりやし! それにお前さまのことを祈ってる者も大勢ありやすから、お前さまが病気などしなさるはずがござりやせんよ。」
「いや、いろいろと有難う。」
「ついでに一つちょっくらお願いがござりやす。ここに六十コペイカござりやすで、これをわしよりも貧乏な女子衆にくれてやって下さりやし。ここまで来てから考えてみると、長老さまに頼んで渡したほうがええ、あのお方は誰にやったらええかようご存じじゃ、と思いやしてな。」
「有難う、かみさん、有難う、よい心がけじゃ。わしはお前が気に入った。必ずそのとおりにして進ぜよう。抱いておるのは娘かな?」
「娘でござります。長老さま、リザヴェータと申しやす。」
「神様がお前がた二人、お前と子供のリザヴェータを祝福して下されようぞ。ああ、かみさん、お前のおかげで気がうきうきしてきた。では、さようなら、皆の衆、さようなら、大切な可愛い皆の衆!」
 彼は一同を祝福し、丁寧に会釈した。

   第四 信仰薄き貴婦人

 地主の貴婦人は、下層民との会話やその祝福の光景を、初めからしまいまでじっと見て、静かな涙を流しながらそれをハンカチで拭いていた。それは多くの点で真に善良な資質を持った、感じやすい上流の貴婦人であった。最後に長老が自分のほうへ近づいた時、彼女は歓喜に溢れた声で迎えた。
「わたくし、ただ今の美しい光景をすっかり拝見しまして、本当に切ない思いをいたしました……」彼女は興奮のために、しまいまで言いきることができなかった。「おお、わたくしはよくわかります、民衆はあなたを愛しています。わたくしは自分でも民衆を愛します、いえ、愛そうと思っています、あの偉大な中に美しい単純なところのあるロシヤの民衆を、どうして愛さないでいられましょう!」
「お嬢さんのご健康はいかがですな? あなたはまた、わしと話がしたいと言われるそうじゃが?」
「ええ、無理やりにたってお願いしたのでございます。わたくしはあなたのお許しの出る間、お窓の外でこの膝を地べたに突いたまま、二日でも三日でもじっとしている覚悟でございました。わたくしどもはこの歓びに充ちた感謝の心を、すっかり拡げてお目にかけるためにまいったのでございます。長老さま、あなたは家のリーザを癒して下さいました、すっかり癒して下さいました。しかも、あなたのなさいましたことといったら、ただ木曜日にこの子のお祈りをして、お手をつなりへ載せて下すっただけではございませんか。わたくしどもはそのお手を接吻して、わたくしどもの心持を、敬虔の情を汲んでいただくために、あわてて伺った次第でございます!」
「癒したとはどういうわけでござりますな? お嬢さんはやはり椅子の中に寝ておられるではござりませぬか?」
「それでも、毎夜毎夜の発熱は、あの木曜の日からすっかりなくなって、これでもう二昼夜少しも起らないのでございます」と夫人は神経的に急き込みながら言った。「そればかりか、足までしっかりいたしました。昨夜ぐっすり寝みましたので、けさ起きました時はぴんぴんしていました。この血色を見て下さいまし、このいきいきした目つきをごらん下さいまし。今まではいつも泣いてばかりいましたものが、今ではさも愉快そうに、嬉しそうに笑ってばかりいます。今日はぜひとも立たしてくれ、と申して聞きません。そして、まる一分間、それこそ自分一人で、少しもよっかかりなしに立っていました。この子はもう二週間したらカドリールを踊ると申しまして、わたくしと賭けをしたのでございます。わたくしが土地の医者のヘルツェンシュトゥベを呼びましたところ、肩をすくめながら、驚いた、奇妙だ、とばかり申しているのでございます。それですのに、あなたはわたくしどもが邪魔をしなければいいが、こちらへ飛んで来て礼など言わなければいいが、と思っていらしったのでございますか? |Lise《リーズ》、お礼を申し上げないかえ、お礼を!」
 今まで笑っていた|Lise《リーズ》の愛くるしい顔は、急に真面目になった。彼女はできるだけ肘椅子の上に体を浮せて、長老を見つめながら手を合した。が、こらえきれなくなっていきなり笑いだした。
「わたし、あの人のことを笑ったのよ、あの人のことを!」こらえきれなくなって笑いだした自分に対して、子供らしいいまいましさを浮べながら、彼女はこう言ってアリョーシャを指さした。誰にもせよ、このとき長老の一歩うしろに立っているアリョーシャを眺めたものは、一瞬にして彼の双頬を染めたくれないに気づいたであろう。彼の目は急に輝きをおびて伏せられた。
「アレクセイさん、この子はあなたに宛てた手紙をことずかっていますのよ……ご機嫌はいかが?」とつぜん母夫人はアリョーシャのほうを向いて、美しい手袋をはめた手を差し伸べつつ語をついだ。長老はちょっと振り返ったが、ふいにじいっとアリョーシャを見つめるのであった。こちらはリーザに近寄って、何となく妙な間のわるそうな薄笑いを浮べながら、自分の手を差し出した。リーザはものものしい顔をした。
「カチェリーナ・イヴァーノヴナが、あたしの手からこの手紙をあなたに渡してくれって」と彼女は小さな手紙を差し出した。「そしてね、ぜひとも至急寄っていただきたいとおっしゃったわ。どうか瞞さないでぜひとも来ていただきたいって。」
「あのひとが僕に来てくれって? あのひとが……僕に……どういうわけだろう?」とアリョーシャは深い驚きの色を浮べながら呟いた。その顔は急に心配らしくなってきた。
「それは、やはりドミートリイさんのことや……それから近頃起ったいろんなことでご相談があるのでしょう」と母夫人は大急ぎで説明した。「カチェリーナさんは今ある決心をしていらっしゃいますの……けれど、そのためには、ぜひあなたとお目にかからなければならないんだそうですの……なぜですって? それはむろんわかりませんが、何でも至急にというお頼みでしたよ。あなたもそうしてお上げになるでしょう、きっと、してお上げになるでしょう。だって、それはキリスト教徒的感情の命令ですもの。」
「僕はあのひとを、たった一度見たっきりですよ。」アリョーシやは依然として合点のいかぬふうで、言葉をつづけた。
「あの方は本当に高尚な、まったく真似もできないような人格を持っていらっしゃいます!………あの方の苦しみだけから言ってもねえ……まあ考えてもごらんなさい、あの方がどんな苦労をしていらしったか、またどんな苦労をしていらっしゃるか、そしてこの先どんなことがあの方を待ち受けているか……何もかも恐ろしい、恐ろしい!」
「よろしい、では、僕まいりましょう」とアリョーシャは決め