京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P062-065   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦35日目]

リスト教発生後二三世紀の間、キリスト教は単に教会として地上に出現していました。そして、実際、教会にすぎなかったのです。ところか、ローマという異教国がキリスト教国となる望みを起した時、必然の結果として次のような事実が生じました。ほかでもない、ローマ帝国キリスト教国となりはしたものの、単に国家の中へ教会を編入したのみで、多くの施政に顕われたその本質は、依然たる異教帝国として存在をつづけたのです。実際、本質上から言っても、ぜひこうなるべきだったのです。しかし、帝国としてのローマには、異教的文明や知識の遺物がたくさん残っていました。例えば、国家の目的とか基礎とかいうものすらがそうです。しかるにキリスト教会は国家の組織に入ったとしても、自分の立ってる土台石、すなわち根本の基礎の中から一物をも譲歩し得なかった、というのは疑いもない事実であります。つまり、教祖自身によって示され、かつ固く定められた究極の目的を追うよりほか仕方がなかったに相違ありません。つまり、全世界を、――古い異教帝国をも含む全世界を、一つの教会に化してしまうのであります。それゆえ、教会は僕の論敵たる著者の言葉を借りると、『社会的団体』としても、『宗教的目的を有する人間の団体』としても、本来の目的において、国家の中に一定の位置を求むべきではなく、かえって、あらゆる地上の帝国こそ、結局教会にぜんぜん同化して、――単なる教会というものになりきって、教会の目的と両立しない目的を排除すべきであります。とはいえ、これはその国家の大帝国たる名誉も、その君主の光栄をも奪わずして、かえって誤れる異教的な虚偽の道から、永遠の目的に達する唯一の正しき道へ導くことになるのです。こういうわけで、もし『教会的社会裁判の基礎』の著者がこれらの基礎を発見し提唱するにあたって、これを現今の罪障多き不完全な時代に避けることのできない一時的妥協にすぎないと観たならば、その議論も正しいものとなったでしょう。ところが、もし著者が、ただ今ヨシフ主教の数え上げられた数カ条を目して、永久不変の原則であるなぞと、かりにも口はばったいことを広言するならば、それはつまり教会そのものに反対し、その永久不変な使命に反対することになるのであります。これが僕の論文です。その要旨の全体です。」
「つまり、簡単に言うとこうなのです」とパイーシイは一語一語力を入れながら、ふたたび口をきった。「わが十九世紀に入って、とくに明瞭になってきたある種の論法に従えば、教会は下級のものが上級のものに形を変えるような工合に、国家の中へ同化されなければなりません。そして、結局科学だの、時代精神だの、文明だのというものに打ち負かされて、亡びてしまわなければならんのです。もしそれをいとって抵抗すれば、国家は教会のためにほんのわずかな一隅を分けてくれて、しかも一定の監視をつけるでありましょう。これは現今、ヨーロッパ各国いたるところに行われておる現象であります。ところが、ロシヤ人の考量や希望によると、教会が下級から上級へと変形するように国家へ同化するのでなくして、反対に国家がついに教会と一つになる、――ほかのものでなく、ぜひ教会と一つになるべきであります。神よ、まことにかくあらせたまえ、アーメン、アーメンー」
「いや、そのお説を伺って、実のところ僕も少々元気が出て来ました」とミウーソフはまた足をかわるがわる組み直しながら、にたりと笑った。「僕の解釈するところでは、どうやらそれはキリスト再生の時に実現せられる、やたらに先のほうにある理想のようですね。まあ何とでも名はつけられますが、美しいユトピックな空想ですよ。戦争や外交官や銀行や、そんなものの根絶を予想するようなところは、むしろ社会主義に似ていますがね。僕はすんでのことでうっかり真面目にとって、教会はこれから[#「これから」に傍点]刑法の罪人を裁判して、笞刑や、流刑や、悪くしたら死刑さえ宣告するのじゃないか、と考えるところでしたよ。」
「もし今でも裁判が教会社会的なものしかないとしたら、今でも教会は流刑や、死刑を宣告するようなことはしないでしょう。そして、犯罪もそれに対する見解も、間違いなく一変すべきはずです。もちろん、それは今すぐ急にというわけじゃありません、次第次第にそうなるのですが、しかし、その時期はかなり早くやって来るでしょう……」イヴァンは落ちつきはらって、目をぱちりともさせないでこう言った。
「あなた真面目なんですか?」ミウーソフはじっと彼を見据えながら反問した。
「もし一切が教会となってしまったら、教会は犯罪人や抵抗者を破門するだけにとどめて、決して首なんか切らないでしょうよ」とイヴァンは語りつづけた。「ところで、一つあなたに伺いますが、破門された人間はどこへ行ったらいいのでしょうか? そのとき破門された人間は今日のように、単に人間社会を離れるばかりでなく、キリストをも去ってしまわなくちゃならないでしょう。つまり、その人間は自分の犯罪によって、単に世間ばかりでなく、教会に対しても叛旗を翻すことになるじゃありませんか。これはもちろん、今日でも厳格な意味におい
と妥協することができます。『おれはなるほど盗みをした。けれども教会に叛くわけではない、キリストの敵になったわけではない。』今の犯人はほとんどすべてこんなふうに理屈をつけます。しかし、教会が国家に代って立った場合には、地上における教会の全部を否定してしまわないかぎり、こんなことを言うわけにゆきません。『誰も彼もみんな間違っている、みんなわき道にそれている、すべてのものが偽りの教会だ。ただ人殺しで泥棒の自分一人だけが、正統なキリストの教会だ』とは、ちょっと言いにくいことですからね。これを言うためには、そうざらにないようなえらい状況を必要とします。また一方、犯罪に対する教会そのものの見解を考えてみるのに、はたして教会は、目下社会保安のために行われている方法、すなわち腐敗せる人間を仲間から切り離してしまう異教的、機械的方法を改めずにいられるでしょうか? いな、今度こそは一時を糊塗するようなやり口でなく、人間の更生と復活と救済の理想にむかって、徹底的に変改してしまわなければなりません……」
「と言うと、つまりどういうことになるのです? 僕はまたわからなくなってしまいました」とミウーソフは遮った。「また何かの空想ですね。何だか形のないようなもので、まるでわけがわかりませんよ。破門とはどういうことです、何の破門です? 僕は何だか、慰み半分に言っていられるような気がしてなりませんよ。」
「ところで、事実それは今でも同じことですじゃ。」突然、長老がこう言いだしたので、人々は一せいにそのほうを振り向いた。「実際、今でもキリストの教会がなかったら、犯罪人の悪行《あくぎょう》に少しも抑制がなくなって、その悪行に対して後に加えられる罰すらも、まったく路を絶ったに違いない。しかし、罰というても、今あの人の言われたように、多くの場合、単に人の心をいらだたせるにすぎぬ機械的なものでなしに、本当の意味の罰なのじゃ。つまり真に効果のある、真に人をおののかせかつ柔らげるような、自分の良心の中に納められた本当の罰じゃ。」
「それはどういうわけでしょう? 失礼ですが、伺います」とミウーソフは烈しい好奇心に駆られて訊ねた。
「それはこういうわけですじゃ」と長老は説き始めた。「すべて、今のように流刑に処して懲役につかせる(以前はそれに笞刑まで加わっていたのじゃが)、そういうやり方は決して何人をも匡正することはできませんじゃ。何よりもっとも悪いのは、ほとんどいかなる罪人にも恐怖を起させないばかりか、決して犯罪の数を減少させることがない。それどころか、犯罪は年を追うてますます増加する一方じゃ。これはあなたも同意せられるはずですじゃ。で、つまり、このような方法では社会は少しも保護せられぬということになる。そのわけは、有害な人間が機械的に社会から切り離されて、目に触れぬように遠いところへ追放されるとしても、すぐその代りに別な犯罪者が、一人もしくは二人現われるからじゃ。もし現代において社会を保護するのみならず、犯人を匡正して別人のようにするものが何かあるとすれば、それはやはり自己の良心に含まれたキリストの掟にほかならぬ。ただキリストの社会、すなわち教会の子として自分の罪を自覚した時、犯人ははじめて社会に対して(すなわち教会に対して)自分の罪を悟ることができる。かようなわけで、ただ教会に対してのみ、現代の犯人は自分の罪を自覚するのであって、決して国家に対して自覚するのではない。で、もし裁判権が教会としての社会に属していたならば、どんな人間を追放から呼び戻してふたたび団体の中へ入れたらよいかということが、ちゃんとわかっているはずですじゃ。現今、教会は単なる精神的呵責のほか、なんら実際的な裁判権を持っておらぬから、犯人の実際的な処罰からは自分のほうで遠ざかっておる。つまり決して犯人を破門するようなことはなく、ただ父としての監視の目を放さぬというまでじゃ。その上、犯人に対しても、キリスト教的な交わりを絶やさずにおいて、教会の勤行にも聖餐にも列せさせるし、施物も頒けてやる。そして、罪人というよりはむしろ俘虜に近い待遇をするのじゃ。もしキリスト教の社会、すなわち教会が俗世間の法律と同じように、罪人を排斥し放逐したら、その罪人はどうなるであろう? おお、考えるのも恐ろしい話じゃ! もし教会が俗世間の法律の轍を踏んで、犯罪の起るたびにすぐさま破門の罰を下したらどうであろう? 少くとも、ロシヤの罪人にとって、これより上の絶望はあるまい。なぜというて、ロシヤの犯人はまだ信仰をもっているからじゃ。実際その時はどんな恐ろしいことがもちあがるかも知れぬ、――犯人の自暴自棄な心に信仰の失墜が生じんともかぎらぬ。その時はどうするつもりじゃ? しかし、教会は優しい愛情に充ちた母親のように、実行の罰を自分のほうから避けておる。まったく罪人はそれでなくても、国法によって恐ろしい罰を受けておるのじゃから、せめて誰か一人でもそのような人を憐れむ者がのうてはならぬ。しかし教会が処罰を避けるおもな原因は、教会の裁判は真理を包蔵する唯一無二なごまかしはとうてい許されぬ。人の話によると、外国の犯人はあまり後悔するものがないとのことじゃ。つまりそれは現代の教えが、犯罪はその実、犯罪でのうて、ただ不正な圧制力に対する反抗である、という思想を裏書きしているからじゃ。社会は絶対の力をもって、まったく機械的にこういう犯人を自分から切り離してしまう。そして、この追放には憎悪が伴なう(とまあ、少くともヨーロッパの人が自分で言うておる)、憎悪ばかりでなく、自分の同胞たる犯人の将来に関する極度の無関心と忘却が伴なうのじゃ。こういう有様で、一切は教会側からいささかの憐愍をも現わすことなしに行われる。それというのも多くの場合、外国には教会というものが全然なくなって、職業的な僧侶と輪奐の美をきわめた教会の建物が残っておるにすぎぬからじゃ。もう教会はとうの昔に教会という下級の形から、国家という上級の形へ移ろうと努めておる。つまり国家というものの中ですっかり姿を消してしまおうとあせっておるようなものじゃ。少くともルーテル派の国ではそのように思われる。ローマにいたっては、もはや千年このかた、教会に代って国家が高唱されておるではないか。それゆえ、犯人自身も社会の一員という自覚がないから、追放に処せられると、絶望の底に投げ込まれてしまう。よしや社会へ復帰することがあっても非常な憎悪を抱いて帰るものが少くないので、社会が自分で自分を追放するような工合になってしまうのじゃ。これが結局どうなるかは、ご自分でも想像がつきましょう。わが国においても大抵それと同じ有様じゃ、とまあ一見して考えられるが、そこがすなわち問題なのですじゃ、わが国には、国法で定められた裁判のほかに教会があって、何といってもやはり可愛い大切な息子じゃ、というようなふうに犯人を眺めながら、いかなる場合にも交わりを断たぬようにしておる。まだその上に実際的なものではないが、未来のために、空想の中に生きる教会裁判が保存されておって、これが疑いもなく、犯人によって本能的に認められておるのじゃ。たった今あの人が言われたことは本当ですじゃ。すなわち、もし教会裁判が実現されて、完全な力を行使する時がきたら――つまり、全社会がすべて教会に帰一してしもうたら、単に教会が罪人の匡正にかつてその比を見ぬほどの影響を与えるばかりでなく、事実、犯罪そのものの数も異常な割合をもって減少するかもしれぬ。疑いもなく教会は未来の犯人および未来の犯罪をば、多くの場合、今とはまるで別な目をもって見るようになるに相違ない。そうして追放されたものを呼び戻し、悪い企みをいだくものを未然に警め、堕落したものを蘇生さすことができるに相違ない。実のところ」と長老は微笑を浮べた。「いまキリスト教の社会はまだすっかり準備が整うておらぬので、ただ七人の義人を基礎として立っておるばかりじゃが、しかしその義人の力は、まだ衰えておらぬから、異教的な団体から全世界へ君臨する教会に姿を変えようとして、いまだにその期待の道をしっかりと踏みしめておる。これは必ず実現せらるべき約束のものゆえ、よし永劫の後なりともこの願いの叶いますように、アーメン、アーメン! ところで、時間や期限のために心を惑わすことはありませんじゃ、なぜと言うて、時間や期限の秘密は、神の知恵と、神の先見と、神の愛の中に納められておるからじゃ。それに人間の考えでま