京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P074-077   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦38日目]

ほどの値うちもないと考えたわけでしょう。あの『じごく』はこういうえらい女ですよ!」
「恥しいことだ!」と、突然ヨシフが口をすべらした。
「恥しい、そして穢わしいことだ!」しじゅう無言でいたカルガーノフが突然真っ赤になって、子供らしい声を顫わせながら、興奮のあまりこう叫んだ。
「どうしてこんな男が生きてるんだ!」背中が丸くなるほど無性に肩を聳かしながら、ドミートリイは憤怒の情に前後を忘れて、低い声で唸るように言った。「もう駄目だ、まだこのうえ神聖なる土をけがすようなことを、赦しておくわけにいかんです。」片手で長老を指し示しつつ、彼は一同を見廻した。彼の言葉は静かで規則ただしかった。
「聞きましたか、坊さん方、親殺しの言うことを聞きましたが?」とフョードルはだしぬけにヨシフに食ってかかった。「あれがあなたの『恥しいことだ』に対する返答ですよ! 一たい恥しいとは何のことです? あの『じごく』は、あの『卑しい稼業の女』は、ここで行《ぎょう》をしているあなた方より、ずっと神聖かもしれませんよ! 若い時分には周囲の感化を受けて堕落したかもしれないが、その代りあの女は『多くのものを愛し』ましたよ。多く愛したるものは、キリストさえもお赦しになりましたからな……」
「キリストがお赦しになったのは、そのような愛のためではありません……」温順なヨシフもこらえきれないで、思わずこう言った。
「いいや、お坊さん方、そのような愛のためです、そうですよ、そうですよ! あなた方はここでキャベツの行をして、それでもう神様のみ心にかなうものだと思うていなさる! 川ぎすを食べて、――一日に一匹ずつ川ぎすを食べて、川ぎすで神様が買えると思うていなさる!」
「もうあんまりだ。あんまりだ!」という声が庵室の四方から起った。
 しかし極端にまで達したこの醜い場面は、実に思いがけない出来事によって破られた。ふいに長老が席を立ったのである。師を思い一同を思う恐怖のために、ほとんど途方にくれきっていたアリョーシャは、ようやっとその手を支えることができた。長老はドミートリイのほうをさして歩きだした。そして、ぴったりそばへ寄り添うた時、彼はその前に跪いたのである。アリョーシャは長老が力つきて倒れたのかと思ったが、そうではなかった。長老は膝をつくと、そのままドミートリイの足もとへ、額が地につくほど丁寧な、きっぱりした、意識的な礼拝をするのであった。アリョーシャはすっかりびっくりしてしまって、長老が立ちあがろうとした時も、たすけ起すのを忘れていたほどである。よわよわしい微笑がようやく口のほとりに薄く光っていた。
「ご免下され、皆さん、ご免下され!」彼は四方を向いて、客一同に会釈しながらこう言った。ドミートリイは一、二分の間、雷にでも打たれたように棒立ちになっていた。『自分の足もとに辞儀をするとは、一たい何としたわけだろう?』が、とうとうふいに「ああ、なんてこった!」と叫んで、両手で顔を蔽いながら、部屋の外へ駆け出してしまった。それにつづいて一同は、慌てて主人に挨拶も会釈もしないで、どやどやと出て行った。ただ二人の主教のみは、ふたたび祝福を受けるために長老のそばへ寄った。
「あの長老が足にお辞儀をしたのは一たい何事でしょう、何かのシンボルでしょうかな?」なぜか急におとなしくなったフョードルが、また会話の糸口を見つけようと試みた。しかし、とくべつ誰に向って話しかけようという勇気もなかった。一行はこのとき庵室の囲いそとへ出ようとするところであった。
「僕は精神病院や気ちがいに対して、何の責任もないですよ」とミウーソフがすぐさま腹立たしげに答えた。「しかし、その代り、あなたと同座は真っ平ごめん蒙ります、しかも永久にですよ、いいですか、フョードルさん。さっきの坊主はどこへ行ったんだろう?」
 しかし、さきほど僧院長のもとへ食事に招待したこの『坊主』は、あまり長く探させはしなかった。一行が庵室の階段をおりるとすぐ、彼はまるで始終ずっと待ち通していたように、さっそく出迎えたのである。
「あなた、まことに恐れ入りますが、わたくしの深い尊敬を僧院長にお伝え下すった上で、急に思いがけない事情が起ったために、どうしてもお食事《とき》をいただくわけにまいりませんから、あなたからよろしくお詫びして下さいませんか、まったく心から頂戴したいとは存じているのですけれど。」ミウーソフは僧に向っていらいらした調子で言った。
「その思いがけない事情というのはわしのことでしょう!」とすぐにフョードルは押えた。「もしあなた、ミウーソフさんはわたしと一緒にいたくないから、ああ言われるんです。でなければ、すぐに出かけなさるはずなんですよ。だから、おいでなさい、ミウーツフさん、僧院長のところへ顔をお出しなさい、そして、――機嫌よう召し上れ! いいですか、あんたよりわたしがごめん蒙りましょう。帰ります、帰ります。帰って家で食べましょうよ。ここではとてもそんな元気がありません、なあ、うちの大事な親類のミウーソフさん。」
「僕はあなたの親類でもないし、今まで親類だったこともありませんよ。本当にあなたは下司な人だ!」
「わしはあんたを怒らせるために、わざと言ったんです。なぜというて、あんたは親類と言われるのを馬鹿に嫌うておいでですからな。しかし、あんたが何とごまかしても、やはり親類に相違ありません。それは教会の暦を繰っても証明できまさあ。ところで、イヴァン、お前も残っていたかったら、わしがいい時刻に馬車をよこしてやるよ。なあ、ミウーソフさん、あんたは礼儀から言うても、僧院長のところへ顔を出して、わしと二人が長老のところで騒いだことを、お詫びしなくちゃなりませんて……」
「あなた、本当に帰るんですか? 嘘じゃありませんか?」
ミウーソフさん、ああいうことのあった後で、どうしてそんな真似ができるものですか! つい夢中になったのです、本当に皆さん失礼しました、夢中になってしまったのです! おまけに腹の底までゆすられたもんですからな! 実に恥しい。なあ、皆さん、人によっては、マケドニヤ王アレクサンドルのような心を持っておるかと思えば、また人によっては、フィデルコの犬みたいな心を持ったものもあります。わしの心はフィデルコの犬のほうでしてな、すっかり気おくれがしてしまいましたよ! あんな乱暴をしたあとで、どの面さげてお食事に出られるもんですか、どうしてお寺のソースを平らげたりなんかできますか! 恥しくてできませんよ、失礼します!」
『わけのわからん男だ、あるいはI杯くわすかもしれないて!』次第に遠ざかり行く道化者を不審そうに見送りながら、ミウーソフは思案顔に佇んだ。フョードルは振り返って見て、彼が自分を見送っているのに気がつくと、手で接吻を送るのであった。
「君は僧院長のところへ行きますか?」ぶっきら棒な調子でミウーソフはイヴァンに訊ねた。
「どうして行かずにいられますか? それに僕は昨日から、僧院長の特別な招待をもらってるんですからね。」
「残念ながら、僕も同様、あのいまいましいお食事《とき》にぜひ出席しなければならないように思いますよ。」ミウーソフは僧が聞いているのもおかまいなしで、例の苦々しそうないらいらした調子で語をついだ。「それにわれわれがしでかしたことを謝った上で、あれは僕らのせいでないということを明らかにするためから言ってもね……君は何とお思いです?」
「そう、あれが僕らのせいでないってことを、明らかにする必要がありますね。それに、親父もいないことですから」と、イヴァンが答えた。
「あたりまえですよ、お父さんが一緒でたまるもんですか! 本当にいまいましい『おとき』だ!」
 が、それでも一同は先へ進んで行った。小柄な僧は押し黙って聞いていた。木立を越して行く道すがら、僧院長はずっと前から一行を待っていて、もう三十分以上おくれてしまったと、たった一度注意したばかりである。誰一人それに答えるものはなかった。ミウーソフは、にくにくしげにイヴァンを見やりながら、
『まるで何事もなかったような顔をして、しゃあしゃあとお食事《とき》へ出ようとしている!』と腹の中で考えた。『鉄面皮|即《そく》カラマーゾフの良心だ!』

   第七 野心家の神学生

 アリョーシャは長老を寝室へ導いて、寝台の上へたすけのせた。それはほんのなくてならぬ道具を並べただけの、ささやかな部屋であった。寝台は鉄で造った幅の狭いもので、その上には蒲団の代りに毛氈が敷いてあるばかりだった。聖像を安置した片隅には読書づくえがすわっていて、十字架と福音書とが載せてある。長老は力なげに、寝台の上に身を横たえたが、その目はぎらぎら光って、息づかいも苦しそうであった。すっかり体を落ちつけたとき、彼は何か思いめぐらすように、じっとアリョーシャを見つめるのであった。
「行って来い、行って来い、わしのところにはポルフィリイが 一人おったらたくさんじゃで、お前は急いで行くがよい。お前はあちらで入り用な人じゃ、僧院長のお食事《とき》へ行って給仕するがよい。」
「どうぞお慈悲に、ここにおれと言って下さいまし」とアリョーシャは祈るような声で言った。
「いや、お前はあちらのほうで余計いり用なのじゃ、あちらには平和というものがないからなあ。給仕をしておったら、何かの役に立とうもしれぬ。騒動が始まったらお祈りをするがよい。それにな、倅(長老は好んで彼をこう呼んだ)、今後ここはお前のいるべき場所でないぞ。よいか、このことを覚えておってくれ。神様がわしをお召し寄せになったら、すぐにこの僧院を去るのじゃぞ。すっかり去ってしまうのじゃぞ。」。
 アリョーシャはぎっくりした。
「お前は何としたことじゃ? ここは当分お前のおるべき場所でない。お前が娑婆世界で偉大な忍従をするように、今わしが祝福してやる。お前はまだまだ長く放浪すべき運命なのじゃ。それに、妻も持たねばならぬ。きっと持たねばならぬ。そして、ふたたびここへ来るまでは、まだまだ多くのことを堪え忍ばねばなりませんぞ。そうして、仕事もたくさんあるじゃろう。しかし、お前という者を信じて疑わぬから、それでわしはお前を娑婆世界へ送るのじゃ。お前にはキリストがついておられる。気をつけてキリストを守りなさい、そうすればキリストもお前を守って下さるであろう! 世間へ出たら、大きな悲しみを見るであろうが、その悲しみの中にも、幸福でおるじゃろう。これがわしの遺言じゃ、悲しみの中に幸福を求めるがよい。働け、たゆみなく働け。よいか、今からこの言葉を覚えておくのじゃぞ。なぜというに、お前とはまだこの先も話をするけれど、わしは残りの日数ばかりでなく、時刻さえもう数えられておるからじゃ。」
 アリョーシャの顔にはふたたび烈しい動揺が現われた。唇の両隅がぴりりと慄えた。
「またしても何としたことじゃ?」と長老は静かにほお笑んだ、「俗世の人々は涙をもって亡き人を送ろうとも、われわれ僧族はここにあって、去り行く父を悦ばねばならぬのじゃ。悦んでその人の冥福を祈ればよいのじゃ。さ、わしを一人でおいてくれ、お祈りをせねばならぬでな、急いで行って来い。兄のそばにおるのじゃぞ。それも一人きりでのうて、両方の兄のそばにおるのじゃぞ。
 長老は祝福の手を上げた。アリョーシャは無性にここへ残りたくてたまらなかったが、もはや、言葉を返す余地はなかった。まだそのうえ長老が兄ドミートリイに、地に額のつくほど拝をしたのは何の意味か、それをも訊いてみたくてたまらなかった。危くこの問が口をすべるところであったが、やはり問いかける勇気がなかった。それができるくらいなら、長老が問われない先に自分から説明してくれるはずだ。つまり、そうする意志がないからである。しかし、あの行為は恐ろしくアリョーシャを驚かした。彼はあの中に神秘的な意味の存することを、盲目的に信じていた。神秘的というより、あるいは恐ろしい意味かもしれない。
 僧院長の昼餐の始まりに間に合うよう(もちろん、それはただ食卓に侍するのみであった)、僧院をさして庵室を出たとき、急に彼は心臓を烈しく引きしめられるような思いがしてそのまま立ちすくんでしまった。自分の近い死を予言した長老の言葉が、ふたたび耳もとで響くような思いであった。長老が予言したこと、しかもあれほど正確に予言したことは、必ず間違いなしに実現する。それはアリョーシャの信じて疑わぬところであった。しかし、あの人が亡くなったら、自分はどうなるだろう、どうしてあの人を見ず、あの人の声を聴かずにいられよう? それにどこへ行ったらいいのだろう? 長老は泣かないで僧院を出て行けと命じている、ああ、何としよう! アリョーシャはもう長い間こんな悩みを経験したことがなかった。彼は僧院と庵室を隔てている木立を急ぎ足に歩みながら、自分の