京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P130-133   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦52日目]

り見まもるだろうが、何か何やら少しもわけはわからないのである。事実、すぐわれに返るに相違ないけれど、何をぼんやり立って考えていたのかと訊かれても、きっと何の覚えもないに違いない。しかし、その代り、自分の瞑想の間に受けた印象は、深く心の底に秘めているのである。こうした印象は当人にとって非常に大切なもので、彼は自分でもそれと意識しないで、いつとはなしに一つずつ積み重ねてゆくが、何のためかは、自分ながらむろんわからないのである。しかし、あるいは長年の間こういう印象を積み重ねた挙句、突然すべてのものを抛って、放浪の苦行のために、エルサレムをさして出て行くかもしれないが、またあるいはふいに自分の生れ故郷の村を、焼きはらってしまうかもしれない。ことによったら、両方とも一時に起るかもはかられぬ。とにかく、瞑想の人は民間にかなりたくさんある。スメルジャコフもこうした瞑想者の一人であって、やはり同じように自分でも何のためとも知らずに、こうした印象を貪るように積み重ねていたに相違ない。

   第七 論争

 ところで、このヴァラームの驢馬がとつぜん口をきいたのである。しかし、その話題は奇妙なものであった。今朝ルキヤーノフの店へ買物に行ったグリゴーリイが、この商人からある一人のロシヤ兵の話を聞いた。ほかでもない、この兵士はどこか遠いアジアの国境辺で敵の擒となったが、猶予なく残酷な死刑に処してしまうという威嚇のもとに、キリスト教を捨ててフイフイ教へ転じるように強制されたにもかかわらず、自分の信仰に裏切ることを肯じないで苦痛を選び、キリストを讚美しながら、従容として生き皮を剥がれて死んでしまった、というのである。この美談は、ちょうどその日着いた新聞にも、掲載されていた。いま食事の間に、この話をグリゴーリイが持ち出したのである。
 フョードルは以前から食後のデザートの間に、よし相手がグリゴーリイであろうとも、愉快な話をして一笑いするのが好きであった。ところが今日は余計に軽い、愉快な、浮き浮きした気分になっていたので、コニヤクを飲みながらこの話を聞き終ると、そういう兵隊はすぐにも聖徒の中へ祭り込まなければならぬ、そして剥がれた皮はどこかのお寺へ送ったがよい。『それこそ大変な参詣人で、さぞお賽銭が集ることだろうよ』と言った。グリゴーリイは、主人がいささかも感激しないで、いつもの癖として、罰あたりなことを言いだしたのを見て顏をしかめた。その時、戸口に立っていたスメルジャコフがふいににやりと笑った。スメルジャコフは以前もかなりたびたび、食事の終り頃にテーブルに侍することを許されていたが、イヴァンがこの町へ来てからというものは、ほとんど食事のたびごとに顔を出すようになった。
「お前はどうしたんだ?」その薄笑いを目ざとく見つけると同時に、これはグリゴーリイに向けられたものだなと悟って、フョードルはこう訊いてみた。「私が思いますには」とスメルジャコフは、とつぜん思いがけなく大きな声で言いだした。「よしその感心な兵隊のしたことが偉大なものだとしましても、その際この兵隊がキリストのみ名と自分の洗礼を否定したからといって、何も罪なことはなかろうと思います。そうすれば、このさきいろ先ないい仕事をするために、自分の命を助けることびできるし、またそのいい仕事でもって長年の間に、自分の浅はかな行いを償うこともできます。」
「それがどうして罪にならんか? 馬鹿を言え、そんなことを言うと、いきなり地獄へ落されて、羊肉のように焙られるんだぞ!」とフョードルが押えた。
 ちょうどこの時アリョーシャが入って来たのである。フョードルは前に述べたごとく無性に喜んで、「お前の畑だ、お前の畑だ!」とアリョーシャを席に着かせながら、嬉しそうにひひひと笑ったのである。
「羊肉のことにつきましては、決してそんなはずがありません。それに。ああ言ったからって、そのようなことはありゃしません、またあるべきはずがございませんです、公平に申しましてね」とスメルジャコフはものものしい調子でこう注意した。
「公平に申しましてとは何のことだ?」膝でアリョーシャを突っつきながら、フョードルは一そう面白そうに叫んだ。
「畜生だ、それだけのやつだ!」とグリゴーリイはだしぬけにこらえかねてこう言った。彼は忿怒に燃える目で、ひたとスメルジャコフの顔を見据えていた。
「畜生などとおっしゃるのは少々お待ち下さい、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ」とスメルジャコフは、落ちついた控え目な調子で言葉を返した。「それよりか、ご自分でよく考えてごらんなさい。もし私がキリスト教の迫害者の手に落ちて、キリストのみ名を呪い自分の洗礼を否定せよとしいられたら、私はこのことについて、自分の理性で行動する権利を持っているのですから、罪などというものは少しもありゃしません。」
「そのことはもう前に言うたじゃないか。だらだら飾り立てるのはやめて証明しろよ!」とフョードルが叫んだ。
下司!」とグリゴーリイは吐き出すように呟いた。
下司なんておっしゃるのもやはり少々お待ち下さい。そんな汚い口をきかないで、よく考えてごらんなさい。なぜって、私が迫害者に向って、『いいや、私はキリスト教徒じゃありません、私は自分の神様を呪います』というが早いか、さっそく私は神の裁きによって呪われたる破門者となり、異教徒と全然おなじように、神聖な教会から切り放されてしまいます。ですから、私が口をきるその一瞬間というよりか、むしろ口をきろうと思った瞬間に(このあいだ四分の一秒間もかかりません)、私はもう破門されておるんです、――そうじゃありませんか、グリゴーリイ・ヴァシーリェヴィッチ?」
 彼はいかにも満足げにグリゴーリイに向ってこう言った。しかしその実、ただフョードルの質問に答えているにすぎないのは自分でもよく承知しているくせに、わざとこうした質問をグリゴーリイが発しているようなふりをして見せるのであった。
「イヴァン、」突然フョードルがこう叫んだ。「ちょっと耳を貸してくれ。あれはみなお前のためにやっておるんだぞ。お前に褒めてもらいたいからだ。褒めてやれよ。」
 イヴァンは父の得々たる言葉を、真面目くさった様子で聞いていた。
「待て、スメルジャコフ、ちょっとのま黙っておれ」とまたしてもフョードルが叫んだ。「イヴァン、もう一ペん耳を貸してくれ。」
 イヴァンはまた思いきり真面目くさった様子をして身を屈めた。
「わしはお前もアリョーシャと同じように好きなんだぞ。わしはお前を嫌うとるなぞと思わんでくれ。コニヤクをやろうか?」
「下さい。」『しかし、ご自分でもいい加減つぎ込んでるじゃないか』と思って、イヴァンはじっと父の顔を見つめた。が、同時に異常な好奇の念をいだきながら、スメルジャコフを観察していたのである。
「貴様は今でも『呪われたる破門者《アナテマ》』だあ」とだしぬけにグリゴーリイが破裂したように呶鳴った。「それだのに、どうして貴様はそんな理屈が言えるだか、もし……」
「悪口をつくな、グリゴーリイ、悪口を!」とフョードルが遮った。
「グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ、ほんのちょっとの間でいいから待って下さい。まだすっかり言ってしまったわけでないのですから、もっと先まで聞いて下さいよ。ところで、私がすぐ神様から呪われた瞬間に、本当に間一髪をいれないその一瞬間に、私はもう異教徒と同様になって、洗礼も私の体から取り除けられてしまうのですから、したがって私は何の責任もなくなるわけです、――これだけは本当のことでしょう?」
「おいおい、早くけりをつけんか、けりを。」いい気持そうに杯をぐいと呷りながら、フョードルはせき立てるのであった。
「で、もし私がキリスト教徒でないとしたら、フイフイ教のやつらに『貴様はキリスト教徒か、どうだ?』と訊かれた時、嘘を言ったことにはなりません。なぜって、まだ私が迫害者に一言も口をきかぬさきから、ただ言おうと思っただけで、神様からキリスト教徒の資格を奪われるからです。で、こんなふうに資格を奪われたとすれば、私があの世へ行った時、キリストを否定したからという理由で、私をキリスト教徒扱いにして、かれこれ咎め立てする権利がどこにあります? だって、私はただ否定しようと考えただけで、もう否定するまでにちゃんと洗礼を剥ぎ取られてるんですからね。もし私がキリスト教徒でないとすれば、キリストを拒絶することはできません。なぜって、何もないものを拒絶するわけにゆかないじゃありませんか。穢れた韃靼人が天国へ行った時だって、なぜお前はキリスト教徒に生れなかったといって、咎め立てするものはありませんからね、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ。誰だって、一匹の牛から二枚の革が取れないくらいは知っていますから、そんな人間に罰をあてたりなんかしませんよ。宇宙の支配者の神様も、その韃靼人が死んだとき、ほんの申しわけばかりの罰をおあてになるだけですよ(だって、まるきり罰をあてないわけにもゆきませんからね)。たとえ穢れた両親から穢れた韃靼人としてこの世へ生れて来たからって、当人に何の責任もないということは、神様だってお考えになりますよ。また神様も無理に韃靼人を摑まえて、お前はキリスト教徒であったろう、などというわけにもいかないでしょう? そんなことを言ったら、神様が真つ赤な嘘をおつきなすったことになりますからね。一たい宇宙の支配者たる神様が、たとえ一言でも嘘をおつきになることがありますかねえ?」
 グリゴーリイは棒のように立ちすくんだまま、目を皿にして弁者を見つめていた。彼はいま言われたことがよくわからなかったけれど、それでもこの奇怪な言葉の中から何かあるものを摑んだので、まるでふいに額を壁へぶっつけた人よろしくの顔をして、じっとその場に突っ立っていた。フョードルは杯をぐいと飲み干し、甲高い声をたてて笑いだした。
「アリョーシャ、アリョーシャ、まあ、どうだ? おい、驢馬、お前はなかなか理屈やだな! あいつ、大方どこかのジェスイット派のところにいたんだぜ、なあ、イヴァン。おい、悪ぐさいジェスイット、一たいお前はどこでそんなことを習うたんだ? しかし、お前の屁理屈は嘘だ、嘘だ、真っ赤な嘘だよ。こら、グリゴーリイ、泣くな、泣くな、今わしらがあいつの屁理屈を影も形もないように吹っ飛ばしてやるから。おい、理屈やの驢馬君、ひとつ返答してみい。まあ、かりにお前が迫害者に対して公明正大だとしたところで、何というても、自分の心の中では自分の信仰を否定したに相違ない。第一、お前は自分でも、それと同時に破門者《アナテマ》となると言うておるじゃないか。もし破門者《アナテマ》だとすれば、地獄へ行った時に、おお、よく破門者《アナテマ》になったと言うて、お前の頭を撫でてはくれんぞ。このことをお前は何と思う、偉い異教徒君?」
「私が自分で否定したというのは、まったく疑いの余地がありません。が、なんていっても、それは何の罪にもあたりません。よし罪になるとしてもごくごく普通なものですよ。」
「どうしてごくごく普通なものです、だ?」
「馬鹿ぬかせ、こん畜生!」とグリゴーリイが喚いた。
「まあ、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ、ご自分でよく考えてこらんなさい。」自分の勝利を自覚しながら、ただ寛大な心から敗れた敵を憐れむといったような調子で、スメルジャコフは落ちつきはらって、しかつめらしく言葉をつづけた。「ねえ、聖書の中にこう言ってあるじゃありませんか。もし人間か、ほんのこれっぱかりでも信仰を持っていたら、山に向って海の中へ入れと言うと、山は最初の命令と同時に少しも躊躇しないで海に入って行くだろうってね。どうです、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ、もし私が不信心もので、あなたがいつも私を呶鳴りつけることのできるほど、立派な信仰を持ってらっしゃるとしたら、一つご自分であの山に向って、海へ入れと言ってごらんになりませんか。いや、海とは言いません(ここから海まではだいぶ遠いから)、せめてつい庭の裏を流れている、あの汚い溝川でもいいですよ、どんなにあなたが呶鳴ってみても、何ひとつ動こうとしないで、そっくりもとのままでいまさあ。それはすぐご自分でもおわかりになりますよ。これはつまり、あなたが本当に信仰を持っていないくせに、間がな隙がな他人を悪口なさるってことを証明してるんですよ。これはただあなたばかりじゃありません、今の世の中では立派な偉い方々をはじめとして、一番くずの百姓にいたるまで誰一人として、山を海の中へ突き飛ばせるものはないのです。例外といっては、世界じゅう探しても一人、多くて二人ぐらいのもんでしょうよ。それもどこかエジプトあたりの砂漠の中で、人知れず隠遁していることでしょうから、結局そんな人はみつかりゃしません。もしそうとしたら、もしそのほかの人がみんな不信心者だとしたら、あれほど万人に知れ渡った情け深い心を持っていらっしゃる神様が、その砂漠の中に住んでいる二人の隠者をの