京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P114-117   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦48日目]

ね?』
『それは何のこと? 何だってそんなことをおっしゃるの?せんだって将軍閣下がお見えになったとき、そっくりちゃんとあったわ。』
『その時はあっても今ないんですよ。』
『後生だから脅かさないでちょうだい、一たい誰から聞いて?』と恐ろしくびっくりしている。
『心配することはありません、僕だれにも言わないから。ご承知のとおりこんなことにかけたら、僕は墓石も同然ですよ。しかし、これについて「万一の用心」という意味で、一つお話があるんです。ほかではありませんがね、お父さんが四千五百ルーブリの金を請求された時、その金がなかったら、さっそく軍法会議ですよ。すると、あの年をして一兵卒の勤めをしなければならない。どうです、いっそあなたの家の女学生さんを内証でおよこしなさい。僕ちょうど金を送ってもらったから、あのひとに四千ルーブリの金をさしあげます。そして、誓って秘密を守ります。』
『まあ、あなたはなんて穢わしい人なのでしょう!(実際こう言ったのだ)――なんて穢わしい悪党なんでしょう! どうしてそんな失礼なことが言えるんでしょう!』と恐ろしく憤慨して行ってしまった。おれはそのうしろからもう一度、秘密は誓って神聖に守るからと呶鳴った。この二人の女、つまりアガーフィヤと伯母さんとは、あとで聞いてみると、この事件に関して純潔な天使のように振舞ったそうだ。高慢ちきな妹のカーチャをしんから崇め奉り、そのために自分を卑下して小間使のように働いたんだ。ただし、アガーフィヤはその一件を、つまりおれの話を、すぐ当人に知らしちゃった。なれはあとで掌をさすように聞き出したが、この娘は隠しだてしなかったのだ。ところで、そこがこっちの思う壼なのさ。
 そのうちに突然、新来の少佐が大隊を引き継ぎにやって来て、さっそく引き渡しの手続きが始まった。すると老中佐は、急に発病して動くことができないとかで、二昼夜というものは自宅へ籠ったきり、隊の金をさし出そうとしない。軍医のクラフチェンコも、実際病気に相違ないと証明した。この事件の内幕はおれがとうから秘密に、確かなことを嗅ぎ出していたんだ。この金はもう四年も前から長官の検閲がすみ次第、暫時のあいだ姿を消すことにきまっていた。つまり、中佐が確実この上ないという男に融通したからだ。それは、トリーフォノフという町の商人で、金縁の眼鏡をかけた、髯むくじゃらな、年とった男やもめなのだ。この男は市へ出かけて、何か必要な取引きをすますと、すぐにその金を耳を揃えて中佐に返したうえ、市から土産物など持って来る。土産に利子が添わってるのはもちろんだ。ところが、今度にかぎって(おれはそのとき偶然にトリーフォノフの息子で相続人の、涎くり小僧から聞いたのだ。これは、世界じゅうまたと類があるまいという極道者なんだ)、ところが、今度にかぎってトリーフォノフは、市から帰って来ても何一つ返さないんだそうだ。中佐がその男のところへ飛んで行くと、『私は、決してあなたから何一つ受け取った覚えはありません、第一、そんなはずがないじゃありませんか』という挨拶だ。こういうわけで、中佐は家へ引き籠ってしまった。タオルで頭を縛って、三人の女たちが氷で額を冷やすという騒ぎさ。そこへ当番の兵隊が帳簿と命令を持って来た。『即刻、二時間内に官金を提出すべし』というのだ。で、中佐は署名をした(おれは後でこの帳簿に書いてある署名を見たよ)。それから起きあがって、軍服を着に行くのだと言って、自分の寝室へ走り込み、遊猟に使っていた二連発銃を取って装填した。兵隊用の弾丸《たま》をこめると右足の靴を脱いで、銃口を胸へ当て、足で引き金を探りにかかった。ところが、アガーフイヤはおれの言葉を覚えていたので、もしやと思って忍び足について来たから、手遅れにならぬうちに見つけたんだ。転ぶように駆け込んで父に飛びかかり、うしろから抱きしめたので、銃は天井へ向けて発火して、幸い誰ひとり怪我をしなかった。やがて、ほかの人たちも駆けつけて、中佐を抑えて、銃を取り上げ、両手をじっと掴まえていた……このことは、後ですっかり、一分一厘たがえずに聞いたのだ。その時、おれは家にいた。ちょうど暮れがたであったが、外出するつもりで服も着替え、頭も撫でつけ、ハンカチに香水もつけて、帽子まで手に取ったところへ、とつぜん戸が開いて、――おれの目の前へ、しかもおれの部屋へ、カチェリーナ・イヴァーノヴナが現われたのだ。
 世間にはよく不思議なことがあるものさな。そのとき令嬢がおれのところへ入ったのを、往来で見てるものが一人もなかったので、町でもこのことは、うんともすんとも噂が出なかった。それに、おれはある二人の官吏の後家さんの部屋を借りていたが、もう大昔の婆さんで、万事おれの世話をしてくれた。なかなか丁寧な年寄りで、何でもおれの言うがままになってたから、このときもおれの言いつけで、まるで鉄の棒かなんぞのように黙っていてくれた。もちろん、おれはすぐ一切のことをを見つめるじゃないか。その暗色《あんしょく》をした目は決然として、ひしろ大胆なくらいに光っていた。しかし、唇の上にもまわりにも、何となく思いきりのわるい色が窺われた。『姉から伺いますと、もしわたくしが……自分であなたのところへまいりましたならば、四千五百ルーブリのお金を下さるそうでございますね、……わたくしまいりました……さあ、お金を下さいまし!………』と言ったが、とうとうこらえきれないで息を切らし、慴えたように声をとぎらした、唇の両はしとそのまわりの筋肉がぴりりと慄えた。おい、アリョーシャ、聞いているのか、眠ってるのか?」
「ミーチャ、僕はあなたがすっかり本当のことを話しなさるだろうと信じています。」アリョーシャは興奮して答えた。
「そうだ、その本当のことを話すんだ。もしすっかり本当のことを言うとすれば、まあ、こういうふうないきさつだ。なあに、自分のことなんか容赦はしゃしないよ。まず第一に浮んだ考えはカラマーゾフ式なものだった。おれは一度むかでに咬まれて、二週間ばかり熱に浮かされながら寝ていたことがある。ところが、このむかでが、意地のわるい毒虫が、ちくりとおれの心臓をさしたんだ。おれはじろりと令嬢の姿を見廻した。お前はあのひとを見たかい? 美人だろう。しかし、その時の美しさは、あんなふうでないのだ。その時あのひとが美しかったのは、あのひとが高潔この上もないのに引き換えて、おれが一個の陋劣漢だったからなんだ。あの人が父の犠牲として、偉大というものの絶頂に立っているに引き換えて、おれはまるで南京虫にもひとしいからなんだ。ところが、その陋劣漢で南京虫のおれのために、あの人は精神も肉体も一切を挙げて、生殺与奪の権利を握られてるのだ。おれは腹蔵なく打ち明けるが、この想念は――毒虫の想念は、もうしっかりとおれの心を掴んでしまって、悩ましい焦躁のために心臓が溶けて流れないばかりだった。ちょっと考えてみると、この間に何の躊躇も争闘もなさそうだろう? つまり、南京虫か毒蜘蛛のように、少しの容赦もなしに断行したらいいのだ……おれは息がつまるほどだった。ところが、またこういう方法もある。翌日、中佐のところへ行って結婚を申し込み、一切のことを公明正大にやって、この秘密を誰も知らないように、また知るわけにもいかないようにすることができる。なぜって、おれは卑しい欲望に動かされはするが、しかし潔白な人間だからな。けれど、突然その瞬間、誰やらおれの耳もとで噺くやつがあった。『だが、あす結婚を申し込みに行っても、あの女がお前のところへ出ても来ないで、馭者に言いつけてお前を邸から抛り出さしたらどうする? 勝手に町じゅうへ触れ廻すがいい、お前さんなぞ恐れやしないからと言ったら、どうするつもりだ?』
 おれは、ちらと令嬢を見た。すると、おれの心の声は嘘を言わなかった。もちろん、そうあるべきはずなんだもの。あす出かけて行ったら、おれの襟首を摑んで抛り出すってことは、もうその顔を見たばかりでちゃんと読めた。と、急におれの心中に毒々しい想念が湧き立ってきて、陋劣この上ない、豚か素町人のような芝居が打ちたくなった。つまり、馬鹿にしたような目つきで令嬢を見ながら、相手が自分の前にじっと立ってる間に、素町人でなければとても言えないような口調で、いきなり令嬢を取っちめてやりたくなったんだ。
『へえ、四千ルーブリですって! おりゃちょっと冗談半分に言ったのに、あなたは一たい、どうしたんです? そりゃお嬢さん、あんまり勘定がお手軽すぎますぜ。百や二百の金ならば、わっしも悦んでさしあげましょうが、四千ルーブリといえば、こんな浮いたことに拠げ出せる金じゃありませんからね。そりゃ無駄なご足労というもんですぜ。」
 とまあ、こんな調子さ。しかし、こんなことを言ったら。もちろんおれは何もかも失くしてしまわなきゃならん。令嬢は逃げ出してしまうに違いない。しかしその代り、思いきって悪《あく》がきいて腹いせができて、一切を償うてあまりがある。生涯、後悔のために呻吟するかもしれないが、しかしとにかく、今はこの手品がやってみたくてたまらない! お前ほんとうにはなるまいが、おれがこういう場合、相手の女を憎悪の念をもって、睨むなんて、そんなことは、どんな女に対してもありゃしなかった、――ところがその時ばかりは、あのひとを三秒ほどの間、恐ろしい憎悪をいだきながら見つめていた。まったくだ、誓ってもいいよ。しかし、その憎悪は恋、気ちがいじみた恋と、僅か間一髪を隔てたようなものだった!
 おれは窓に近寄って、凍ったガラスに額を押し当てた。氷が、まるで火かなんぞのように額を焼いたのを覚えている。心配するな、長いこと待たせはしなかった。おれはくるりと振り返ってテーブルに近寄り、抽斗を開けて、五分利つき五千ルーブリの無記名手形を取り出した。(それはフランス語の辞書の中に挟んであったのだ)。それから無言のまま令嬢に見せた後、畳んで手渡した。そして、自分で玄関へ出る戸を開けて、一足さがり、探く腰をかがめて、相手の心忙浸み渡るようなうやうやしい会釈をした。信じてくれ。本当なんだ! 令嬢はぎくりとして、一秒ばかりじっとおれを見つめながら、まるでテーブル・クロースのように蒼白い顔をしていたが、とつぜん一口もものを言わないで、静かに深く全身を屈めて、ちょうどおれの足もとへ額が地につくほど辞儀をした、――それが突発的でなくもの柔らかな挙動なんだ。女学生式でなく純ロシヤ式なんだ! やがて急に跳りあがって飛び出しちゃった。令嬢が飛び出した時、おれはちょうど軍刀を着けていたので、それをすらりと引き抜いて、即座に自殺しようとした。何のためやら自分でもわからない、ひろん、恐ろしい馬鹿げたことではあるけれども、きっと歓喜のあまりに相違ない。お前にわかるかどうかしらんが、ある種の歓喜のためには、自殺もしかねないことがあるよ。しかし、おれは自殺しなかった。ただ、軍刀を接吻しただけで、またもとの鞘へ納めた、が、こんなことはお前に話さなくてもよかったんだなあ。それに、今ああいう暗闘の話をしているうちに、自分をいい子にしようと思って、どうやら少少ごまかしたところもあるようだ。しかし、かまわん、それならそれでいい、本当に人間の心の間諜を、みんなどこかへ吹っ飛ばしちゃうといいんだ! さあ、これがおれとカチェリーナとの間に起った『事件』の全部なんだ。今これを知ってるのはイヴァンと、――それにお前っきりだ。」
 ドミートリイは立ちあがって、興奮したように一歩二歩踏み出しながら、ハンカチを取り出して額の汗をぬぐった。やがてふたたび腰をおろしたが、それは前に坐っていた場所でなく、反対の壁についている床几であった。で、アリョーシャはその力へ向くために、すっかり坐り直さなければならなかった。

   第五 熱烈なる心の懺悔――『真逆さま』

「さあ、これで」とアリョーシャが言った。「僕もこの話の前半を知ったわけなんですね。」
「前半はそれでわかったんだ。これは戯曲で、舞台はあっちだ。後半は悲劇で、これからこっちで演じられようとしてるのさ。」
「その後半の事情が、僕にはまだちっともわからないのです」とアリョーシャは言った。
「じゃ、おれはどうなんだ? 一たい、おれにわかってるというのかい?」
「兄さん、ちょっと待って下さい、ここに大切な言葉が一つあるんですよ。一たい兄さんは、許婚の夫なんですか、今でもそうなんですか。」
「許婚の夫になったのは今じゃない、あの事件があってから三カ月たった後の話だ。よくあることだが、すぐその翌日、おれは自分で自分にこう誓った、――この事件はもうこれで大団円になったので、決して後日譚なんかない。したがって結婚の申し込みにのこのこ出かけるのは、卑劣なことだと感じられた。あの人はまたあの人で、その後、町に六週間も住んでいたくせに、一言半句も便りをしてくれなかった。もっとも、一度例外があったよ。あの訪問の翌日、おれのとこへ中佐の家の小間使が、こそこそとすべり込んで、何も言わずに一つの包みを渡したのだ。包みの上には誰々様と宛名が書いてある。あけて見ると五千ルーブリの手形の釣り銭なんだ。実際、必要だったのは四千五百ルーブリだけれど、手形を売るとき二百ルーブリ以上