京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P138-141   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦54日目]

イヴァン、誰が一たい人間をこんなに愚弄するんだろう? もう一ペん最後にはっきり言うてくれ、神はあるのかないのか? これが最後だ!」
「いくら最後でも、ないものはないのです。」
「じゃ、誰が人間を愚弄しておるのだ、イヴァン?」
「きっと悪魔でしょうよ」とイヴァンはにやりと笑った。
「そんなら悪魔はおるのか?」
「いえ、悪魔もいませんよ。」
「そりゃ残念だ。ちょっくそ、じゃ、わしは神を考え出したやつを、どうしたらよいというのだ? 白楊《はこやなぎ》の木でしぼり首にしてやっても飽きたらん。」
「もし神を考え出さなかったら、文明というものもてんでないでしょう。」
「ない? それは神がなかったら、かな?」
「ええ、それにコニヤクもないでしょう。が、それにしても、そろそろコニヤクを取り上げなくちゃなりませんね。」
「ま、ま、待ってくれ、もう一杯。わしはアリョーシャを侮辱したが、お前怒りゃせんだろうな、アレクセイ? わしの可愛いアレクセイチック!」
「いいえ、怒ってやしませんよ。僕にはお父さんの腹の中がわかりますもの。お父さんは頭より心のほうがいいのです。」
「わしの頭より心のほうがよい? ああ、しかもそう言うてくれる人間がこの子だもんなあ! イヴァン、お前アリョーシカが好きかな?」
「好きです。」
「好いてやれ(フョードルは、もうひどく酔いが廻ってきたので)。よいか、アリョーシャ、わしはお前の長老に無作法なことをした。が、わしは気が立っておったのだ。ところで、あの長老には頓知があるなあ、お前どう思う、イヴァン?」
「あるかもしれませんね。」
「あるよ、あるよ、Il y a du Piron la-dedans.(あいつの中にはピロンの面影があるよ)あれはジェスイット派だ、ただしロシヤ式のものだがな。高尚な人間というものは誰でもそうだが、あの男も聖人さまの真似なんかして、心にもない芝居を打たにゃならんので、人知れずばかばかしくてたまらんのだよ。」
「でも、長老は神を信じていられます。」
「なんの、爪の垢ほども信じちゃおらん。一たいお前は知らなんだのかい。あの男はみんなにそう言うておるじゃないか。いや、みなというても、あの男のところへやって来る利口な人間にだけだよ。県知事のシュルツにはもう剥き出しに、『credo(信じてはおる)が、何を信じておるか、わからん』とやっつけたものだ。」
「まさか?」
「まったくそのとおりだよ。しかし、わしはあの男を尊敬する。あの男には何となくメフィストフェレス式なところ……というよりむしろ『現代の英雄』(レールモントフの散文小説)に出て来る……アルベーニン(同じ作者の戯曲『仮面舞踏会』の主人公)だったかな……まあそんなふうのところがあるよ。つまりその、あいつは助平爺なんだ。あいつの助平なことというたら、もしわしの娘か女房があいつのところへ懺悔に行ったら、心配でたまらんだろうと思われるくらいひどいのだ。全休あいつがどんな話を始めると思うかい……昨年あの男がわしらをリキュールつきの茶話会へ呼んだことがある(リキュールは奥さんたちが持って行ってやるんだ)。その皮をよってしまった……とりわけ面白かったのは、あの男が一人の衰弱した女を癒した話だ。『もし足が痛うなかったら、わたしは一つ、お前さんに踊りをやって見せるんだがなあ』と言うたのさ。え、どうだね? 『わしも昔はずいぶんいんちきをしてきたものさ』などとすましたものだよ。あいつはまたジェミードフという商人から、六万ルーブリ捲き上げたことがある。」
「え、盗んだのですか?」
「その商人があいつを親切な人と見込んで、『どうかこれを預って下さいまし、明日うちで家宅捜索がありますから』と言うので、あいつが預ることになった。ところで、あとになって、『あれはお前さん、お寺へ寄進しなさったのじゃないか』とやったものだ。わしがあいつのことを悪党と言うてやったら、『わしは悪党じゃない、複雑な心を持っておるのだ』ときた……いや、待てよ、これはあの男の話じゃないぞ……ああ、別な男のことだ、わしはつい思い違いをして、気づかずにおったんだ。さあ、もう一杯もろうて、それでやめにしよう、イヴァン、罎を片づけてくれ。ところで、わしがあんなでたらめを言うたのに、どうしてお前はとめてくれなんだ……そしてそれは嘘だと、なぜ言うてくれなんだ? イヴァン?」
「ご自分でおやめになるだろう、と思ったもんですから。」
「嘘をつけ、お前はわしが憎いからとめなんだのだ。ただ憎いためなんだ。お前はわしを馬鹿にしておる。お前はわしのところへやって来て、わしの家でわしを馬鹿にするのだ。」
「だから、僕はもう発ちますよ。あなたはコニヤクに呑まれてるんです。」
「わしはお前にチェルマーシニャヘ……一日か二日でよいから行ってくれと、一生懸命に頼んでるのに、お前は行ってくれんじゃないか。」
「そんなにおっしゃるなら、明日にでも行きましょうよ。」
「なんの行くもんか。お前はここにおって、わしの見張りがしたいのだ、そうだとも、だから行こうとせんのだ、意地わるめ!」
 老人はなかなかおとなしくしていなかった。彼はもうすっかり酔っ払ってしまって、これまでおとなしかった酒飲みでさえ、急にふてくされて威張りださなければ承知しなくなる、そういう程度にまで達したのである。
「何でお前はわしを睨むのだ? お前の目は何という目だ? お前の目はわしを睨みながら、『みっともない酔っ払い面《づら》だなあ』と言うておる。お前の目はうさんくさい目だ、お前の目は人を馬鹿にした目だ。お前は胸に一物あってやって来たんだろう。そら、アリョーシャの目つきなぞははればれしておるじゃないか。アリョーシカはわしを馬鹿にしておらん。おい、アリョーシカ、イヴァンを好かんでもよいぞ。」
「そんなに兄さんのことを怒らないで下さい! 兄さんを侮辱するのはやめて下さい」とアリョーシャは力を籠めて言った。
「いや、なに、わしもただちょっと……ああ、頭が痛い。イヴァン、罎をしもうてくれ、もうこれで三度も言うておるんだぜ。」彼はちょっと考え込んだが、急に引き伸ばしたようなずるそうな笑みをもちしながら、「イヴァン、この老いぼれたやくざ者に腹をごてんでくれ。わしはお前に肇われとるのはよう知っている。けれど、まあ腹を立てんでくれ。まったくわしは人に好かれる柄じゃないのだからなあ。しかし、どうかチェルマーシニャヘ行ってくれ。わしもあとから、お土産を持って行くわ。そして、あっちでよい娘っ子を見せてやるよ、もう前から目をつけておいたんだ。今でもまだ跣で飛び廻っておるだろう。跣というたからって、びっくりすることはない、軽蔑することはない――実に素敵な玉だよ。」
 彼は自分の手をちゅうっと吸った。
「わしにとってはな」と彼は自分の好きな話に移ると同時に、まるで一時に酔いがさめてしまったように、恐ろしく元気づいてきた。「わしはな……こんなことを言うても、お前らのような仔豚同然な青二才にはわかるまいけれど、わしはな……一生涯の間、みっともない女には一度も出くわさなかったよ。これがわしの原則なんだ! 一たいお前らにこれがわかるかな? なんの、お前らにわかってたまるものか! お前らの体の中には血の代りに乳が流れておるのだ、まだ殼がすっかり落ちきらんのだ! わしの規則によるとな、どんな女からでも、ほかの女には決してないような、すこぶる、その、面白いところが見つけ出せるのだ、――しかし、自分で見つけ出す目がなけりゃならん、そこが肝腎なのさ! 実際それには腕がいるのだ! わしにとって不器量な女というものは存在せんのだ。女だということが、すでに興味の一半をなしておるのさ。いや、これはお前らにわかるはずがないて! オールドミス、――こんな連中の中からでも、『どうして世間の馬鹿者どもは、これに気がつかずに、むざむざ年をよらしてしもうたのか?』とびっくりするようなところを探し出すことが、ときどきみるよ。跣女や不器量なやつは、まず第一番にびっくりさせにゃならんよ、――これがこういう手合いに取りかかる秘訣だ。お前は知らんだろう? こういう手合いは、『まあ、わたしのような身分の卑しい女を、こんな旦那さまが見そめて下さった』と思うて、はっとして嬉しいやら恥しいやら、というような気持にしてしまわにゃいかん。いつでも召使に主人があるように、いつでもこんな下司女にはちゃんと旦那さまがついておる。実にうまくできとるじゃないか。人生の幸福に必要なのはまったくこれなんだ! ああ、そうだ! おい、アリョーシャ、わしは亡くなったお前の母親をいつもびっくりさせてやったものだ。もっとも、だいぶ工合が違うておったがな。ふだんは決して優しい言葉をかけんようにしながら、ちょうど潮時を見はかろうて、だしぬけに、ちやほやと愛嬌を振りまくのだ。膝を突いて這い廻ったり、あれの足を接吻したりして、しまいにはいつでもいつでも(ああ、わしはまるでつい今しがたあったことのように覚えておる)、いつも笑わしてしまうのだ。その笑い声が一種特別でな、細くて神経的で鈴のように透き通っておった。あれはそんな笑い声しか出さなんだよ。しかし、そういう時いつも病気が頭を持ちあげて、翌日はもうすっかり『|憑かれた女《クリクーシカ》』になって喚きだす。だから、この細い笑い声も、決して嬉しいというしるしではないのだ。いや、人を一杯くわすのだけれど、しかし、嬉しいには相違ないからなあ。どんなものの中にでも特色を見つけるというのは、つまりこういうことなのさ! ある時ベリャーフスキイが、――その時分そういう金持の好男子がおったのさ、――これがお前の母親の尻を追っかけ廻して、しきりにわしの家へ出入りしておったが、ある時どうかした拍子でわしの頬げたを、しかもあれの目の前で、こっびとくひん曲げたと思え。すると、ふだんまるで牝羊のような女が、この頬げた一件のために、わしをぶん殴るのじゃないかと思われるほど、恐ろしい権幕でくってかかってきた。『あなたは今ぶたれましたね、ぶたれましたね、あんな男のために頬打ちの恥辱なんか受けて! あなたはわたしをあの男に売ろうとしてらっしゃるんです……あの男、本当によくもわたしの目の前で、あなたをぶてたものだ! もうもう決してわたしのそばへ来て下さいますな! さあ、すぐ走って行って、あの男に決闘を申し込んで下さい。』そこでわしは乱れた心を鎮めるためにお寺へ連れて行って、方丈さまに有難いお経を上げてもろうたよ。しかし、アリョーシャ、わしは誓うてお前の『|憑かれた女《クリクーシカ》』を侮辱したことはないよ! したが一度、たった一度ある。それはまだ結婚した初めての年だったが、その時分恐ろしくお祈りに凝り固まって、聖母マリヤの祭日なぞはことにやかましゅう言うてな、わしまで自分のそばから書斎へ追い返してしまうじゃないか。で、わしは一つあれの迷信をぶちこわしてやろうと思うて、『見い、見い、ここにお前の聖像がある、よいか、わしが今こうしてはずすぞ。な、お前はこいつをあらたかなものだというて有難がっとるが、わしはそらこのとおり、お前の目の前で唾を吐きかけるが、決して何の罰もあたりゃせんから!』ところが、あれがわしのほうを見た時、や、大変、今にもわしを殺すのじゃないかと思うたよ。しかし、あれはただ飛びあかって手を叩いたばかりで、ふいに両手で顔を隠したと思うと、ぶるぶるっと身ぶるいして床の上へぶっ倒れたが……そのまま気絶してしまった……アリョーシャ、アリョーシャ! どうしたのだ、どうしたのだ?」
 老人はびっくりして跳りあがった。アリョーシャは彼が母親の話を始めた時から、次第次第に顔色を変え始めたのである。顔はくれないを潮し、目は輝き、唇はぴくぴく顫えだした……酔っ払った老人は何にも気がつかないで、しきりに口から泡を飛ばしていたが、突然アリョーシャの体にはなはだ奇怪なことが生じた。ほかでもない、たった今フョードルが話した『|憑かれた女《クリクーシカ》』と同じことが、思いがけなく始まったのである。アリョーシャはテーブルの前から飛びあがって、今の話の母親と寸分たがわず手を拍つと、そのまま両手で顔を蔽うて、さながら足でも払われたように、椅子の上に倒れかかった。そうして声に出ぬえぐるような涙が、思いがけなくせぐり上げるままに、突然ヒステリイのように全身をわなわな顫わせはじめるのであった。こうした恐ろしい母親との類似は、ことのほか老人を驚かしたのである。
「イヴァン、イヴァン! 早う水を持って来てくれ、まるであれのようだ、寸分たがわずあれと同じだ。あの時のこの子の母親と同じだ! お前、口から水を吹きかけてやれ、わしもあれにそうしてやったんだ。つまり、この子は自分の母親のために、自分の母親のために……」と彼はイヴァンに向って、しどろもどろな調子でこう言った。
「しかし、僕のお母さんは、つまりアリョーシャのお母さんだと思うんですが、あなたはどうお考えです?」突然イヴァンは恐ろしい軽侮の念をこらえかねたように、思わず口をすべらした。