京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P162-166   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦60日目]

ャのいわゆる『あの恐ろしい日』のことを、グルーシェンカに話したかもしれん。ああ、そうだ、話し化、やっと思い出したよ! やはりあの時モークロエ村で話したんだ。何でも、おれはぐでんぐでんに酔っ払っていて、まわりではジプシイの女どもが歌をうたってたっけ……しかし、おれは声を上げて慟哭したんだ。そのとき自分から声を上げて慟哭しながら、膝をついてカーチャの面影に祈りをした、そしてグルーシェンカもそれを了解してくれたよ。あれはそのとき一切の事情を了解して、確か自分でも泣いたんだよ……しかし、こんなことを言ったって仕方がない! 今となっては、ああいうふうになるのが当然だったんだろうよ! あのとき泣いておきながら、今日は……今日は……『匕首《あいくち》を心臓へぶすり』か! それが女の十八番《おはこ》なんだよ!」
 彼は伏し目になって考え込んだ。
「そうだ、悪党だ! 疑いもなく悪党だ!」だしぬけに彼は沈んだ声でこう言った。「泣いたって泣かないたって同じこった、やはり悪党に相違ない! どうかあの女にそう言ってくれ、もしそれで腹が癒えるなら、悦んで悪党の名前をちょうだいするってな。しかし、もうたくさんだ、何も喋ることなんかありゃしない! 面白い話は少しもないのだからなあ。お前はお前の道を行きな。おれはまたおれの道を行くから。もういつかぎりぎり決着という時の来るまで、しばらく会いたくないよ。さようなら、アリョーシャ!」
 彼は固く弟の手を握りしめると、依然として伏し目になったまま首を上げないで、まるでその場からもぎ放されたように、急ぎ足で町のほうへ歩きだした。アリョーシャは、兄がこうだしぬけに行ってしまったとは、信じることができないで、そのうしろ影を見送っていた。
「ちょっと待ってくれ、アレクセイ、も一つ白状することがある、しかし、お前一人だけにだぞ!」とドミートリイは突然ひっ返して言いだした。「おれを見ろ、じいっと見ろ。いいか、そら、ここで、ここで恐ろしい破廉恥が行われてるのだ。」(『そらここで』と言った時、ドミートリイは奇妙な顔つきをして、自分の胸を拳で叩いてみせた。それはちょうど、胸の上に破廉恥がひそんでいる、――かくしの中に納められているか、それとも、何か縫い込んで頸にぶら下げてある、――とでもいうようなふうつきであった)。お前の知ってるとおり、おれは悪党だ、極めつきの悪党だ! しかし、おぼえておいてくれ、今、現在ここに、おれがこの胸の上に着けている破廉恥とくらべては、いかなる陋劣なことだってものの数にも入りゃしない。この破廉恥は、いま現に遂行せられようとしているのだが、これを中止しようと遂行しようと、今のところおれの自由なんだ、いいか、おぼえとってくれ! だが、結局、おれは中止しないで遂行するに相違ない、それもやはり心得ておってもらおう。さっきおれは何もかも一切ぶちまけたけれど、これ一つだけ話さなかった。なぜって、お前、おれだってそうそう面の皮が厚くないからなあ! ところで、おれはまだ思いとまることができる。思いとまったら、あすにでも失墜した名誉を、ちょうど半分だけ取り返すことができるのだ。しかし、おれは思いとまるまい、そしてこの企らみをすっかり仕おおせるに相違ない。まあ、お前、証人になってくれ、おれは前もって意識してこう言っておくから! 滅亡と暗黒だ! いや、説明することはいらん、そのうちに自然とわかるよ。じめじめした横町と極道女か! じゃ。あばよ! おれのことなんか神様に祈らんでくれ、おれにはそれだけの値うちがない。それに必要もない、ぜんぜん必要がないのだ……おれはそんな要求を少しも感じないのだ! あばよ!………」
 彼はふいに駆け出して、今度こそはほんとに行ってしまった。アリョーシャは僧院さして歩きだした。『一たいどうしたことだろう、もうこれっきり、兄さんには会えないのだろうか? 兄さんは何を言ってるんだろう?』という考えが奇妙に彼の頭に浮んだ。『明日ぜひ兄さんに会わなくちゃならない。無理にでも捜し出さなくちゃ、一たい兄さんは何を言ってるんだろう?』

 彼は僧院を迂回して松林を通り抜け、まっすぐに庵室をさして進んだ。庵室ではこの刻限になると誰も入れないことになっていたが、彼はすぐに戸を開けてもらった。長老の部屋へ入ったとき、彼の心臓はおののいた。『何のために、一たい何のために自分はここを出て行ったのだろう? また何のために長老は自分に「娑婆」へ出ろとおっしゃったのだろう? ここは静寂と霊気に充ち満ちているのに、あそこは混乱と暗黒の世界で、中へ入ったらたちまち方角を失って、途方にくれてしまわなければならぬ……』
 庵室の中には、聴法者のポルフィーリイとパイーシイ主教とが居合せた。主教はきょう一時間おきくらいに、ソシマの容体を訊きにやって来たが、長老の病気は次第次第に険悪になっていった。毎日のしきたりになっている、同宿を相手の晩の談話さえも、今日はできなかったほどである。これを聞いたアリョーシャはぎくりとした。いつも晩の勤行の後、やがて訪れる夜の安息の前に、寺内の僧侶一同が長老の庵室へ集って来て、めいめい今日一日のうちに犯した罪や、罪ふかい空想、思想、誘惑、さては同宿の間に生じたいさかいなどを、懺悔するのであった。中には膝をついて告白するものさえあった。長老は、それを一々解決し、和解し、訓戒し、改悛をすすめ、さて祝福をして退出させるのであった。この同宿の懺悔に対して、長老制度の反対者は攻撃の火の手を上げ、これは秘密な懺悔の神聖をけがすもので、ほとんど涜神罪と言ってもいいくらいだなどと、まるで見当ちがいのことを言いだした。そして、一時は僧正管区長にまで問題を持ち出して、こうした懺悔は単によい結果をもたらさないばかりか、かえって目に見えて人々を罪悪と誘惑へ導くばかりだ、などと騒いだこともある。
 実際、同宿の多くは長老のもとへ集るのを苦痛に感じて、いやいやながらやって来るのであった。なぜなら、大ていのものは、叛旗をひるがえす高慢な人間だなどと思われたくなさに、出席するからである。また、こんな話もあった。同宿の中には懺悔の集りへ出る前に、おたがい同士あらかじめ打ち合せをして、『おれは今朝お前に腹を立てたというからお前うまくばつを合してくれ』などといったふうに話の種を拵えて、自分のお務めをすまそうとするものもあった。事実こういうことがときどき起るのは、アリョーシャも承知していた。また彼は次のようなことも知っていた。ほかでもない、苦行者が肉親のものから受け取った手紙さえ、まず第一に長老のもとへ運ばれて、受信人よりもさきに長老が封を切って通読するという習慣に非常な不平をいだいているものがある。もちろん、規定としては、これらはすべて任意の服従と救済を目的とする教訓の名の下に、自由に誠実に行わるべきであったが、実際においては、時としてきわめて不誠実などころか、むしろわざとらしい技巧を弄して行われることがあった。
 けれど、同宿の中でも年長の経験ふかい人々は、『苦行のために真心をもってこの僧院の壁の中へ入って来た人には、服従や難行が疑いもなく、救霊の力を持っていることがわかって、そういう人たちには偉大な利益をもたらすに違いない。ところが、それを苦に病んで不平を鳴らすような人は、僧侶でないと同じだから、僧院などへやって来る必要はなかったので、こういう人のいるべき場所は俗世間の中にある。罪悪や悪魔は俗世間のみならず、僧院の中でもやはり防ぎきれるものでない、したがって、罪悪を黙許する必要はさらさらないのだ』とこんなふうに考えて、自説を主張するのであった。
「ひどく衰弱されてな、嗜眠状態におちいっておいでだ」とパイーシイ主教はアリョーシャを祝福した後、こう囁いた。「もうお目をさまさすのさえむずかしいくらいだ。もっとも、そんな必要もないがな。さきほど五分間ほど目をさまされて、この祝福を同宿の人に伝えてくれと頼まれた。そして、同宿の人には、夜祈禱のとき自分のために祈ってもろうてくれ、とのご伝言であった。明日はもう一度ぜひ聖餐を受けたいと言うておられる。それからな、アレクセイ、お前のことも思い出されて、もう出て行ったかと訊かれるから、いま町に行っておりますと返事をすると、『わしもそうさせようと思うて祝福してやったのだ。あれのいるべき場所はあそこだ、当分ここにおらんほうがよい』とこうお前のことを言われたぞ。それがいかにも愛に富んだ、心配らしい言い方であった。お前は、自分がどんな光栄を受けたかわかるかな? ただし、長老がお前の身の上について、当分のあいだ俗世間へ出ておれと言われたのは、どういうわけであろう? 大方お前の運命に関して、何か見抜かれたことがあるのだろう? しかし、アレクセイ、たとえお前が俗世間へ帰るとしても、それは長老がお前に授けて下さった一つの服従の義務と見るべきで、決して空しい俗世間の歓楽や、軽薄な行為のためではない。このことをよく覚えておるのだぞ……」
 パイーシイ主教は出て行った。長老がよしや一日二日生き延びるとしても、やがてこの世を去ろうとしているのは、アリョーシャにとって疑いもない事実であった。アリョーシャはあす父を初めとして、ホフラコーヴァ親子、兄、カチェリーナなどと面会の約束はしたけれど、決して僧院の外ヘー歩も出ないで、長老の逝去までそのそばにつき添っていよう、と熱情をこめて固く決心したのである。彼の胸は愛情に燃え立ってきた。それと同時に、彼はたとえしばらくの間でも町へ出て、僧院へ残した人を忘れえた自分を、強く咎めずにはいられなかった。事実、世界じゅうの誰にもまして愛している人が、いまわの床に打ち臥しているのではないか! 彼は長老の寝室へ入ると、そのまま跪いて、眠れる人に向って額が地につくほど礼拝した。長老はほとんど耳に入らぬくらい穏かに呼吸しながら、静かに身動きもせず眠っていた。その顔はきわめて平静であった。
 次の間へ引っ返すと(それは今朝、長老が客を迎えた部屋であった)、アリョーシャはただ靴を脱いざぽかりでほとんど着替えもせず、固い革張りの狭い長椅子の上に横になった。彼はもうずっと前から毎晩枕だけ持って来て、この椅子の上で寝ることにきめていた。けさ父が大きな声で言った例の蒲団は、もうとうから敷くのを忘れてしまっていた。彼はただ自分の法衣を脱いで、これを毛布の代りに上からかけるだけであった。しかし、就眠の前に、彼は跪いて長いこと祈禱をした。その熱心な祈禱で、彼が神に乞うたのは、自分の惑いを解くことではなかった。彼はただ、以前神に対する讃美を唱えたあとでいつも自分の心を訪れていた悦ばしい歓喜の情を、取り戻したいと願ったばかりである。彼の就眠前の祈祷は、おおむね神に対する讃美のみで充されていた。こうした歓喜の情は、いつも軽い穏かな夢を伴なうのであった。今もこんなふうに祈禱をしていたが、ふとポケットの中で手に触れるものがあった。それはさきほどカチェリーナの女中が追っかけて来て、彼に手渡したばら色の小さな封筒である。彼はちょっとまごついたが、とにかくをすました。やがて少しためらった後に封を開いてみた。その中にはLise《リーズ》と署した自分あての手紙が入っていた、――それは今朝ほど長老の前でさんざん彼をからかった、例のホフラコーヴァ夫人の若い娘である。
『アレクセイさま』と彼女は書いていた。『あたしがこの手紙を書くのは誰にも内証なのです、お母さまにも内証なのです。そして、それがどんなに悪いかってことも知っています。けれど、あたしの心の中に生れ出たことをあなたに言わないでは、あたしもう生きてはいられません。このことはあたしたちふたりのほかには、しばらくのあいだ誰にも知られてはなりません。けれど、あたしの言いたいと思うことを、どんなふうにあなたに言ったらいいのでしょう? 紙は赧い顔をしないと申しますが、それは嘘です。あたし誓ってもいいわ。紙も今のあたしと同じように真っ赤な顔をしています。いとしいアリョーシャ、あたしはあなたを愛します。まだ子供の時分から、――あなたが今とはまるで違っていらしったモスクワ時分から愛しています。そして、一生あなたを愛します。あたしはあなたと一つになって、年とったら一緒にこの世を絡ろうと、自分の心であなたを選んだのです。けれど、必ずお寺から出ていただくという条件つきですの。あたしたもの年のことなら、それは法律で命じられているだけ待ちましょう。その頃までにはあたしもきっと快《よ》くなって、一人で歩いたり舞踏したりしますわ。そんなことは言うまでもありません。
 ねえ、あたしがどれだけ考えたかわかったでしょう。けれど、たった一つ、どうしても考えつかれないことがありますの、――この手紙をお読みになる時、あなたはまあ何とお思いになるでしょう? あたしいつも笑ったり、ふざけたりばかりしてるんですもの。今朝だって、あなたをすっかり怒らしてしまいました……けれど、誓って言いますわ。あたし今ペンを取る前に、聖母マリヤさまのお像を拝んで、今でもやはりお禱りしていますの、もう泣かないばかりですわ。
 あたしの秘密は今あなたの手に握られてしまいました。明日いらっしゃる時に、あたしどんなふうにあなたと顔を合していいやらわかりまぜん。ああ、アリョーシャ、もしあたしがあなたの顔を見ているうちに、我慢できなくなって、今朝と同じように、馬鹿みたいに笑いだしたらどうしましょう? たぶんあなたはあたしを意地わるな冷かしやだと思って、この手紙さえ本当にして下さらないでしょう。ですからね、もしあたしを可哀そうだとお思いになったら、明日あたしのところへ入ってらっしゃる時に、後生ですから、あまりまっすぐにわたしの目を見ないようにして下さい。だって、もしわたしの目があなたの目にぴったり出合ったら、きっと笑いだすに相違ないんですもの。それにあなたは、あんなぞろぞろした着物を着てらっしゃるじゃありませんか……あたし今でさえそのことを考えると、身うちが寒くなってきます。ですから、入ったときしばらくの間、一切あたしの顔を見ないで、お母さまのほうか窓のほうを見てて下さいな……
 とうとうあたしはあなたに恋文を書いてしまいました。ああ、なんてことをしでかしたのでしょう! アリョーシャ、あたしを軽蔑しないで下さい。もしあたしが大変な悪いことをして、あなたに心配をかけたのでしたら、どうか勘忍して下さいまし。あたしの永久に亡びた名誉の秘密は、今あなたの手の中にあるのです。
 あたし今日きっと泣きますわ。さよなら、恐ろしき再会の時まで。Lise《リーズ》.
 P・S・アリョーシャ、ただね、きっときっと来てちょうだいな! Lise.』
 アリョーシャは驚きの念をいだきつつ読み絡った。そして、今一ど読み返して、しばらく考えていたが、ふいに静かな甘い微笑をもらした。と、彼はぴくりと身を顫わした。今の微笑が罪悪のように思われたのである。しかし、一瞬の後、また同じように静かな、仕合せらしい笑みをもらすのであった。彼はゆっくりと手紙を封筒へおさめてから、十字を切って横になった。すると、急に胸の嵐がぱったり凪いでしまった。
『神様、どうぞさきほど会って来たすべての人たちを憐れんで、あの荒れ狂う不幸な人たちをお救い下さいまし。そしてあの人たちの心を正しい道へ向けて下さいまし。あなたはすべての道を握っておいでになります。あの人たちを救うべき道をご存じでございます。あなたは愛でございます、どうぞあの人たちに悦びを授けて下さいまし!』とアリョーシャは、呟きながら十字を切って、穏かな夢を結ぶのであった。