京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『弱い心』その2 (『ドストエーフスキイ全集2 スチェパンチコヴォ村とその住人』P253―P269より、1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

きみも苦労性だね。どうしたわけか、すっかり隠さずに話してくれないか。ただあれだけのことで、そんなになるなんて……」
 ヴァーシャはひしと彼に身を寄せたまま、何一つ口がきけなかった。息がつまったのである。
「たくさんだよ。ヴァーシャ、たくさんだよ! どうもきみにはあの仕事が片づけられそうもない。しかし、それがいったいどうしたというんだね? ぼくはきみの腹が知れない。一つきみの煩悶をうち明けてくれないか。きみだってわかってくれてるだろう、ぼくはきみのために……ああ、なんということだ、なんということだ!」部屋の中を歩き廻って、今すぐヴァーシャの薬になるものを見つけ出そうとするように、手当たり次第のものをつかみながら、彼はこういった。「ぼくはあすきみの代わりに、自分でユリアン・マスタコーヴィチのとこへ行って、もういちんち日延べしてもらうように頼むよ。拝み倒すよ。もしきみがそんなに苦しんでいるのなら、すっかりありのまま事情を話すよ……」
「とんでもない!」とヴァーシャは叫んだが、その顔はまるで紙のように白くなった。彼はやっとのことで、その場に立っているのであった。
「ヴァーシャ、ヴァーシャ?」
 ヴァーシャはわれに返った。その唇はわなわな慄えていた。彼は何かいおうとしたが、ただ黙って、痙攣的にアルカージイの手を握りしめるばかりだった……彼の手は冷たかった。アルカージイは、苦しく悩ましい期待で胸を一杯にしながら、彼の前に立っていた。ヴァーシャはまた目を上げた。
「ヴァーシャ! どうかいい加減にしてくれ、ヴァーシャ! きみはぼくの心を八つ裂きにしてしまったよ、きみ」
 と、ヴァーシャの目から霰《あられ》のような涙が、はらはらと流れた。彼はアルカージイの胸に身を投じた。
「ぼくはきみをだましたんだ、アルカージイ!」と彼はいった。「ぼくはきみをだました。堪忍してくれ、ゆるしてくれ! ぼくはきみの友情を裏切ったんだ……」
「なにを、ヴァーシャ、なにをいうんだ? いったいどうしたんだい?」すっかり度胆を抜かれて、アルカージイは問い返した。
「これだ!………」
 こういいながら、ヴァーシャは自暴自棄の身振りで、抽斗の中から六冊の厚い手帳を取り出して、机の上へほうり出した。それは彼の写していた手帳と同じものだった。
「それはなんだね?」
「これだけのものを、ぼくは明後日までに書き上げなくちゃならないのだ。今までに四分の一もやってないんだからな!」
「どうか聞かないでくれ、どうしてこんなことになったか、聞かないでくれ!」とヴァーシャは言葉をつづけながら、すぐに自分のほうから、煩悶の原因を話し出した。「アルカージイ、ぼくの大事なアルカージイ! ぼくはわれながら自分がどうなったのか、えたいが知れないんだよ。まるで何かの夢からさめ切れないような気持ちなんだ。ぼくはまるまる三週間というものを、ただで棒に振ってしまったよ、ぼくはしょっちゅう……あの……あのひとのとこへばかり行ってたんだ……ぼくの心臓は傷み通して……未知の運命に……悩まされていたもんだから……筆写なんかやっていられなかったのさ、ぼくはそんなことなんか、まるで念頭にはなかった。こんど幸福がやって来た時に、初めて目がさめたようなわけだ」
「ヴァーシャ」とアルカージイ・イヴァーノヴィチは、断固たる調子で口を切った。「ヴァーシャ! ぼくがきみを救ってやる。もうすっかり事情が呑みこめた。こいつあ冗談ごとじゃないよ。だが、ぼくが救ってみせる! いいかい、ぼくのいうことを聞きたまえ。ぼくあすにもさっそくユリアン・マスタコーヴィチのとこへ行って来るよ……そんなに頭をひねることはないさ。まあ、聞いていたまえ! ぼくがあの人にすっかりありのままを話してしまうから、ぜひそういうことにさせてくれ……ぼくがすっかりわけを話すよ!………ぼくはなんだって思い切ってやってのけるんだ! きみがどんなにしょげ返って、どんなに煩悶しているかってことを、よく説明するから」
「きみは知るまいが、きみこそいまぼくを叩きのめそうとしているんだよ」驚きのあまり全身を冷たくしながら、ヴァーシャがこういった。
 アルカージイ・イヴァーノヴィチは、さっと顔色を変えたが、すぐに考え直して、からからと笑い出した。
「たったそれだけで? たったそれだけで?」と彼はいった。「とんでもない、ヴァーシャ、とんでもないことをいうなよ! よく恥ずかしくないね? まあ、聞いてくれ! どうも見たところ、ぼくはきみの気に入らないことをいっているらしい。なに、ぼくだってきみの気持ちはよくわかるよ。きみの心の中がどうなってるか、ちゃんと承知しているよ。何しろ、ぼくらはもう五年間もいっしょに暮らしているんだからね! きみは実に善良な優しい男だが、どうも弱過ぎるよ、箸にも棒にもかからないほど弱い人間だよ。リザヴェータ・ミハイロヴナもちゃんとそれに気がついているよ。おまけにきみは空想家だろう、それもやはり感心しないぜ。がっくりまいってしまう惧れがあるからね、きみ! ねえ、ぼくはきみがどうしたいと思ってるか、ちゃんと知ってるんだよ! 早い話が、きみはこんなことを考えてるだろう、――きみが結婚するって話を聞いて、ユリアン・マスタコーヴィチが夢中になるほど喜んで、お祝いに舞踏会でもしてくれればいいなんてさ……いや、待ってくれ、待ってくれ! きみは顔をしかめてるね。ほら、もうぼくの言葉を聞いただけで、ユリアン・マスタコーヴィチのために腹を立ててるじゃないか! じゃ、あの人の話はよそう。なに、ぼくだってあの人を尊敬している点じゃ、あえてきみに負けやしないんだから。しかし、きみは自分が結婚したら、この地上に不幸な人間がいなくなるようにと、そんなことを望んでいるんだろう。もうそれだけはいくらきみが議論しても駄目だよ。この想像だけは否定しないでくれ……ね、きみ、間違いないだろう。きみは自分の唯一の親友であるこのぼくに、ひょっこり思いがけなく十万ルーブリの財産ができればいいと、そんなことを望んでいるんだろう。それから、この世にありとあらゆる敵同士が、不意になんのきっかけもなく、仲直りすればいい、みんなが往来の真ん中で嬉しまぎれに抱き合って、その後できみの宿へお客に来てくれればいい、てなことを考えてるんだろう。きみ! 親愛なるヴァーシャ! ぼくは笑ってるんじゃない、みんなそのとおりなんだよ。きみはもうずっと前からそれと同じようなことを、いろいろさまざまな形でぼくにいったり、したりして来たんだからね。きみは自分が幸福なものだから、みんなが、それこそ一人残さずみんなの者が、一時に幸福になればいいと思うんだ。きみは一人だけで幸福になるのがつらいんだ、苦しいんだ! だもんだから、きみは今すぐ全力を挙げて、この幸福に値するだけのものになろうと思って、おそらく自分の良心を休めるために、何か難行苦行でもしかねない勢いなんだ! いや、そりゃぼくにもよくわかっているよ。きみは自分の勤勉ぶりと、才能と……それから、なんだ、感謝の念さえ示さなくちゃならない場合に、きみ自身にいわせれば、不意に味噌をつけてしまったので、それできみは自分で自分を苦しめてるに相違ない! ユリアン・マスタコーヴィチが、折角望みを嘱してくれたのに、それをきみが裏切ったのを見たら、きっと渋い顔をして、かんかんに怒ってしまうにちがいないと思うと、きみはやり切れないほどつらいのだろう。自分の恩人と頼む人から小言を聞くのだと考えれば、さぞ苦しいだろう――しかも、それが普通の場合でないんだからな! きみの心が喜びに溢れて、だれに感謝の念を浴びせかけたらいいかわからない、ちょうど、そういう時なんだからな……ね、そうだろう、ちがうかい? ね、そうだろう?」
 アルカージイ・イヴァーノヴィチは、しまい頃になると、声まで慄わせていたが、やっと口をつぐんで、息をついだ。
 ヴァーシャは愛情に満ちた目つきで、親友をみつめていた。微笑がその唇を滑った。
 希望の期待とでもいうようなものが、彼の顔に活気を与えた。
「ねえ、一つぼくの意見を聞いてもらおう」前より更に望みを得て、勢い込みながら、アルカージイはまたこういいだした。「つまり、ユリアン・マスタコーヴィチの愛顧を失いたくないんだろう。ね、そうだろう、きみ? それが問題なんだろう? もしそうだったら、それこそぼくが」アルカージイは椅子から飛びあがりながら、こういった。「ぼくがきみのために犠牲になるよ。明日にもぼくがユリアン・マスタコーヴィチのとこへ行こう……もう抗議は無用だよ! きみはね、ヴァーシャ、自分の過失をまるで犯罪のように誇張して考えてるんだよ。あの人は、ユリアン・マスタコーヴィチは、寛大で慈悲深い人だし、それに、きみのようじゃないからね! あの人なら、ヴァーシャ、われわれの釈明を聞いて、難局から救い出してくれるよ、さあ! これで安心したかい?」
 ヴァーシャは、目に涙を浮かべながら、アルカージイの手を握りしめた。
「たくさんだよ、アルカージイ、もうたくさんだよ」と彼はいった。「このことはもう解決がついているのだ。なに、仕事が片づかなかったんだから、それでいいのさ。片づかなかったものは、片づかなかったものさ。きみに行ってもらうまでもない、ぼくが自分で出かけて、自分ですっかり話してしまうよ。今こそもうすっかり落ちついた。もう本当に平気だよ。ただ、きみが行くのだけはよしてくれ……ね、これだけは聞いてくれたまえ……」
「ヴァーシャ、本当にきみはかわいい男だ!」とアルカージイは嬉しまぎれに飛びあがった。「ぼくがいったのも、きみのいうのと同じだ。きみが考え直して、気を取り直してくれたので、ぼくも嬉しいよ。たとえきみがどうなろうとも、きみの身の上に何が起ころうと、ぼくはきみの傍についているよ、それを忘れないでくれ! どうも見たところ、きみはぼくがユリアン・マスタコーヴィチに何かいやしないかと、それを気にかけているらしい、――だからぼくもいわない、なんにもいやしない。きみが自分で話すさ。ね、きみあす行って来たまえ……いや、いけない、きみは行かないで、ここで書いていたほうがいい。わかったかい? ぼくがあちらの様子を探って、これがいったいどんな仕事か、非常に急ぐのかどうか、必ず期限までに仕上げなくちゃならぬものか、もし期限を遅らしたら、どうなるものか、その辺のところを嗅ぎ出して来よう。そして、きみのとこへ報告に駆けつけるよ……ね、わかったろう! どうもそこに一脈の望みがあるよ、ね、どうもこれは至急の仕事じゃないらしい、――少しは期限にゆとりがつけられるらしいぜ。ユリアン・マスタコーヴィチは催促なんかしないかもしれない。そしたら、何もかも救われるのだ」
 ヴァーシャは危ぶむように首を振った。けれども、感謝するような眼ざしを、親友の顔から離さなかった。
「まあ、たくさんだよ、たくさんだよ! ぼくはすっかり疲れて、ぐったりしちゃった」と彼は息切れのする声でいった。「ぼくは自分でもそのことを考えたくないんだよ。さあ、ほかの話をしようじゃないか! ぼくはね、いま筆写のほうもしないかもしれないよ。ただちょっと一、二ページ書いて、どこか切までいったら、それでおしまいにするんだ。ねえ、きみ……ぼくは前から聞こうと思っていたんだが、どうしてそんなにぼくをよく知っているんだね?」
 ヴァーシャの目からは涙が流れ出して、アルカージイの手にぽたぽた落ちた。
「ヴァーシャ、ぼくがどのくらいきみを愛しているか、それをもしきみが知ってくれたら、そんなことをたずねはしなかったはずだ、――そうだよ!」
「そうだ、そうだ、アルカージイ、ぼくはそれを知らないんだよ。だって……だって、なんのためにそれほどまでにぼくを愛してくれるのか、合点がゆかないんだもの! それに、アルカージイ、きみは知らないだろうが、きみの愛情さえぼくには苦痛だったんだよ。実はね、ぼくは幾度となく、――ことに夜、寝床に入る時、きみのことを考えながら(だって、ぼくはいつも寝る時、きみのことを考えるんだものね)、ぼくはさめざめと泣きぬれて、心臓の慄えるような思いをしたものだ。それというのも……それというのも……まあ、つまり、きみがそれほどまでにぼくを愛してくれるのに、ぼくは何一つきみにその返礼をして、自分の気がすむようなことをしなかったからね……」
「おい、ヴァーシャ、きみはまあ、なんという男だろう!……きみが今どんなに気持ちをめちゃめちゃにしているか、見せてやりたいくらいだよ」この時アルカージイは、きのう往来で演じた光景を思い出して、心臓のしびれるような思いをしながら、こういった。
「もうたくさんだってば。きみはぼくに落ちつけというが、ぼくは今までこんなに落ちついて、幸福だったことはないくらいだよ! 実はね……いいかい、ぼくはきみに何もかも話してしまいたいんだけれど、どうもきみを悲観させるのが怖くってね……きみはいつも直ぐ悲観して、ぼくをどなりつけるものだから、ぼくはびっくりしてしまうんだよ……見たまえ、今でもこんなにぶるぶる慄えているだろう。自分でもどういうわけだかわからないんだ。実はね、ぼくこういうことがいいたかったのさ。ぼくは以前、自分というものがわからなかったらしい――本当に! それに、他人というものも、ついきのうやっとわかったような始末だ。ぼくはね、きみ、それを感じなかったんだ、完全に評価できなかったんだ。ぼくは……心臓までこつこつだったからね……ねえ、どうしてそんなことになったのか知らないが、ぼくはこの世のだれにも、まったくだれ一人にも、いいことをしてやらなかった。つまり、そうすることができなかったんだ、――それに第一、ぼくは見かけだって感じがよくないんだものね……ところが、他人はみんなぼくにいいことばかりしてくれた! 現にきみなんか第一番だ。それがぼくの目に見えないと思うがい。ぼくはただ黙っていたんだ、ただ黙っていただけなんだよ!」
「ヴァーシャ、もうよしてくれ!」
「なんでもないよ、アルカーシャ! なんでもないよ!………ぼくべつに何も……」涙に妨げられて、やっとのことで言葉を口から発しながら、ヴァーシャは相手をさえぎった。「きのうきみにユリアン・マスタコーヴィチの話をしたろう。きみも知ってるとおり、あの人は厳格なやかましい方で、きみでさえ何度かあの人のお目玉を頂戴したくらいだ。ところが、昨日は何を思ったか、ぼくに冗談なんかいって、優しくしてくだすったよ。そしてね、今までみんなに用心ぶかく隠していた善良な心を、ぼくに開いて見せてくだすったんだ……」
「なに、ヴァーシャ、それは不思議もないさ。つまり、きみがその幸福に値するということを、証明するにすぎないのさ」
「ああ、アルカーシャ! ぼくはこの仕事をすっかり片づけてしまいたくって、たまらないんだがな!………でも、駄目だ、ぼくは自分の幸福を台なしにしてしまう! ぼくにはそんな予感がする! いや、違う、あれじゃないよ」アルカージイが机の上に載っている厖大な急ぎ仕事を、ちらりと横目で睨んだのを見て、ヴァーシャはこうさえぎった。「あんなものはなんでもありゃしない。あんな紙に字を書いたものなんか……屁でもないさ! それはもう決着した問題だ……ぼくはね、アルカーシャ、今日あそこへ行って来たんだよ……ところが、内へ入らなかった。ぼくは苦しいような、悲しいような気持ちがしてね! ただ戸口に立っていたばかりなんだ。彼女がピアノを弾いていたので、ぼくはそれを聞いていたよ。実はね、アルカージイ」と彼は声をひそめながらいった。「ぼくは中へ入る勇気がなかったんだよ……」
「おい、ヴァーシャ、いったいどうしたんだ? そんな変な目つきでぼくを見てさ?」
「なんだって? なんでもありゃしない! ぼくは少し気分が悪いんだよ。足ががくがくする。それは徹夜したせいなんだ。そうなんだよ! ものが緑色に見えるくらいだ。ぼくはここが、ここんところが……」
 彼は心臓を指さして見せた。と、そのまま気絶してしまった。
 彼が正気に返った時、アルカージイは無理に応急の処置を取ろうとした。力ずくでべッドの中へ寝かせようとしたのである。けれども、ヴァーシャはいっかな承知しなかった。彼は両手を折れよとばかり揉みしだきながら、泣いて仕事をするといい張った。予定の二ページを是が非でも書き上げるのだといって聞かなかった。あまり興奮させないために、アルカージイは彼を書類の前に坐らせた。
「ねえ」自分の席に着きながら、ヴァーシャはこういった。「ねえ、ぼくにもいい考えが浮かんだよ。まだ希望があるよ」
 彼はアルカージイに、にっこり笑ってみせた。その蒼白い顔は、本当に希望の光で生き返ったように思われた。
「それはこうなんだ、ぼくあさって仕事を持って行くが、ただし全部じゃないんだ。残りの分は焼けてしまったとか、水で濡らしたとか、なくしたとかいって、嘘をつくんだ……それとも、やはり書き上げられなかったというかな。ぼくは嘘がつけないんだから。ぼく、自分で釈明しよう、――きみ、なんというかわかるかい? つまり、何もかもいってしまうんだ。かようかようの次第で書けませんでした、とぶちまけるのさ……ぼくの恋愛事件も話してしまうよ。あの方だって、近頃結婚したばかり、だからぼくの気持ちをわかってくださるに相違ない! むろんそれは慇懃に、しとやかにやるんだよ。あの方はぼくの涙を見て感動される……」
「そりゃもちろんいいことだ。行きたまえ。あの方のところへ行って、ちゃんと話をつけたまえ……それに、何も涙なんかの必要はありゃしない! そんなものが何になる? ヴァーシャ、きみはまったくぼくの度胆を抜いてしまったぜ」
「ああ、ぼくは行くよ、本当に行くよ。だが、今は書かしてくれ。ぼくに書かしてくれ、アルカーシャ。ぼくはだれの邪魔もしないから、まあ、書かしてくれ!」
 アルカージイはベッドの中へ飛び込んだ。彼はヴァーシャの言葉を信じなかった、毛筋ほども信じなかった。ヴァーシャはどんなことでもしかねない人間だ。しかし、ゆるしを乞うにしても、どういう点をどんなふうに詫びるのだろう? 問題はそんなことではない。ヴァーシャは自分の義務を履行しなかったので、自分自身に対して[#「自分自身に対して」に傍点]悪いことをしたと感じている、そこが問題なのである。ヴァーシャは自分を運命に対して恩知らずだと感じている。幸福に圧倒され震撼されて、自分はその幸福に値しないものだと思い込み、それを証明する口実をさがし出したにすぎない。つまり、きのう以来おもいがけない幸福のために、正気に返ることができない、――これが真相なのだ! アルカージイ・イヴァーノヴィチはこう考えた。あの男を救わなければならない。自分で自身を責めさいなむ心を和らげなければならない。あの男は自分で自分を葬っているのだ、――彼は考えに考え抜いたあげく、さっそくあすにもユリアン・マスタコーヴィチのところへ行って、何もかも残らず話してしまおうと決心した。
 ヴァーシャは机に向かったまま、こつこつ書いていた。へとへとに疲れ切ったアルカージイ・イヴァーノヴィチは、もう一度問題をよく考えて見るつもりで、ちょっと横になったと思うと、目が覚めたのはもう夜明け前だった。
「やっ、畜生! また!」彼はヴァーシャを見てこう叫んだ。ヴァーシャは机に向かって書き物をしていた。
 アルカージイは飛んで行って、彼を両手に抱きかかえ、無理やりにベッドに寝かした。ヴァーシャはにやにや笑っていた。その目は力なげに、ともすれば閉じ勝ちであった。彼は口をきくのもやっとであった。
「ぼくは自分でも寝ようと思っていたんだよ」と彼はいった。「ねえ、アルカージイ、ぼくいい考えが浮かんだ。もう片づけるよ。ぼくは筆を早めたんだ[#「早めたんだ」に傍点]! だが、もうこれ以上起きていられない。八時に起こしてくれたまえな」
 彼はしまいまでいいおわらないうちに、死人のように眠ってしまった。
「マヴラ!」茶を運んで来たマヴラに向かって、アルカージイ・イヴァーノヴィチはひそひそ声でいった。「一時間経ったら起こしてくれと頼んだのだけれど、こんりんざい起こすんじゃないよ! 九時間でも十時間でも寝さしておいてくれ、いいかい?」
「よろしゅうございます、旦那様」
「食事のこしらえなんかするんじゃないよ、薪を運ぶのに騒騒しく音を立てたりしたら、承知しないぞ! もしぼくのことを聞いたら、勤めに出たといってくれ、わかったか?」
「わかりましてございます、旦那様。勝手に存分おやすみなさるがよろしゅうございます。何もわたしのかまったことではございません! わたしは、旦那方がよくお眠《やす》みになれれば嬉しいので、ご主人様の品物に間違いのないように、よく番をいたしております。先だって茶碗を割ったといって、お小言を頂戴いたしましたが、あれはわたしじゃございません、猫が毀したのでございます。つい油断しております間にね。わたしは、しいっ、畜生! といってやりました」
「声が高い、黙っていろ、黙っていろ!」
 アルカージイ・イヴァーノヴィチは、マヴラを台所へ追いやって、鍵を出させ、勝手のほうへ閉めこんでしまった。それから役所へ出かけた。道々、どんなふうにユリアン・マスタコーヴィチの前に出たものか、失礼ではなかろうか、うまくゆくだろうか、などと思案をめぐらした。彼はおずおずと役所へ入ってゆくと、閣下はご出勤かと、びくびくしながらたずねた。すると、まだお見えにならないし、それに今日はご出勤がないだろう、との答えであった。アルカージイ・イヴァーノヴィチは、さっそく閣下の私邸へ出向こうかと思ったが、ユリアン・マスタコーヴィチは出勤しないところをみると、自宅でも忙がしい[#「忙がしい」はママ]わけだと、良いところへ考えがついた。で、彼はそのまま役所に残った。一時間一時間が際限なくつづくように思われた。シュムコフに依頼された仕事のことも、内緒で探ってみようとしたけれど、だれもいっこうに知る者がなかった。ただユリアン・マスタコーヴィチが、ヴァーシャに何か特別の仕事をお頼みになった、ということだけは知っていたが、どういう仕事かとなると、だれひとり知らなかった。とうとう三時が打った。アルカージイ・イヴァーノヴィチは尻に帆をかけて駆け出した。玄関で一人の筆生が彼を呼び留めて、ヴァシーリイ・ペトローヴィチ・シュムコフが、かれこれ十二時過ぎにやって来て、「あなたは出勤していらっしゃるか、またユリアン・マスタコーヴィチも見えておいでか、とたずねていらっしゃいました」と筆生はいい添えた。アイカージイ[#「アイカージイ」はママ]・イヴァーノヴィチはこれを聞くと、いきなり辻馬車を傭って、驚きのあまり夢中になって、わが家へ駆けつけた。
 シュムコフは家にいた。彼は恐ろしく興奮した様子で部屋を歩き廻っていた。アルカージイ・イヴァーノヴィチを見るが早いか、彼はすぐ考え直した様子で、急いで興奮を隠しながら、その場をとりつくろった。彼は無言でテーブルに向かい、筆写にとりかかった。そして、親友の問いも煩さく思われるらしく、なるべく話を避けるようにしていた。彼は何やら心の中で考えついたのだが、その決心も断然うち明けないことにきめてしまった。それは、友情さえも頼みにならないと思ったからである。これがアルカージイに強いショックを与えた。彼の心臓は刺すような痛みに疼《うず》き悩んだ。彼は寝台に腰を下ろして、自分の持っているたった一冊の本を開いたが、そのくせ不幸なヴァーシャから一刻も目を離さなかった。けれども、ヴァーシャはかたくなに押し黙って、顔をあげようともせず、書きつづけていた。こうして、幾時間か経った。アルカージイの苦悶は頂点に達した。やっと十時を廻った頃に、ヴァーシャは頭をあげて、じっと動かぬ鈍い眼ざしでアルカージイを見やった。アルカージイは待ち設けていた。二分、三分と経ったが、ヴァーシャは黙りこくっている。
「ヴァーシャ!」とアルカージイは叫んだ。ヴァーシャは答えなかった。「ヴァーシャ!」寝台から飛びあがりながら、アルカージイはくり返しこう叫んだ。「ヴァーシャ、きみどうしたんだ? どうしたというんだ?」友の傍へ駆け寄りながら、彼はこうどなった。
 ヴァーシャは顔をあげて、前と同じように、じっと動かぬ鈍い眼ざしで彼をみやった。『やっ、放心状態になっちまったんだ!』アルカージイは驚きのあまり全身を慄わせながら、こう考えた。彼は水の入ったフラスコを引っつかんで、ヴァーシャを抱き起こすようにしながら、その頭から水をかけ、両のこめかみを濡らし、それから友の手をこすり初めた、――ヴァーシャは我に返った。
「ヴァーシャ、ヴァーシャ!」もう我慢しきれなくなって、さめざめと涙を流しながら、アルカージイはこう叫んだ。「ヴァーシャ、自分で自分を殺すような真似をするんじゃない、気を確かに持ってくれ! 気を確かに!………」彼はしまいまでいい切らないで、熱い抱擁の中に友の体を包んだ。何かしら、重苦しい感覚が、ヴァーシャの顔をかすめた。彼は自分の額をこすりながら、両手で頭を引っつかんだ。それは頭がばらばらになって、飛び散りはしないかと、心配でたまらないようなあんばいであった。
「ぼくは自分ながら、どうしたことやらわからないんだ!」とうとう彼はこういった。「ぼくはどうやら無理をして、自分の体にひびを入らしてしまった[#「ひびを入らしてしまった」はママ]らしい、だが、いいんだよ、いいんだよ! もうたくさん、アルカージイ、くよくよしないでくれたまえ、たくさんだ!」ぐったりしたような沈んだ目つきで相手を眺めながら、彼はこうくり返した。「なにを心配しているんだね? もうたくさんだよ!」
「きみのほうが、きみのほうがあべこべにぼくを慰めるなんて!」とアルカージイは叫んだ。彼は胸がちぎれそうな気がした。「ヴァーシャ」とうとう彼はこういった。「少し横になって、一寝入りしたらどうだ? 下らないことで苦しむのはたくさんだ! 後でまた仕事にかかったほうがいいよ!」
「ああ、ああ!」とヴァーシャはくり返した。「よかろう!ぼくも横になるよ。ああ、けっこうだとも! 実はね、ぼく仕事を片づけてしまおうと思ったんだけれど、また考え直したよ。そう……」
 アルカージイは彼をベッドへ引っ張っていった。
「おい、ヴァーシャ」と彼はきっぱりした口調でいい出した。「この問題はきれいに解決してしまわなければならない! さあ、聞かしてくれ、きみはいったいなにを考えだしたのだ?」
「ああ!」とヴァーシャはいって、弱々しく手を一つ振ったと思うと、頭を反対側へくるりと向けてしまった。
「いい加減にしろよ、ヴァーシャ、いい加減に! 思い切って聞かしてくれ! ぼくはきみの下手人になりたくないんだ。ぼくはもう黙っていられない。きみは思い切っていってしまわない限り、けっして寝られっこないよ。ぼくにはちゃんとわかっている」
「どうともきみの勝手に、きみの勝手に」とヴァーシャは謎のような調子でくり返した。
『そろそろ兜をぬぐぞ!』とアルカージイ・イヴァーノヴィチは考えた。
「ヴァーシャ、ぼくのいうとおりになってくれ」と彼はいった。「ぼくのいったことを思い出してくれ。そうしたら、明日はぼくがきみを救ってやるよ。明日はぼくがきみの運命を決してやるよ! ちょっ、ぼくは何をいっているんだ、運命だなんて! きみがあんまり脅かすもんだから、ぼくまできみの言葉使いでしゃべるようになってしまった。何が運命なものか! 下らないことさ、馬鹿げたことさ! きみは、ユリアン・マスタコーヴィチの恩顧というか、もしなんなら愛情といってもいい、そいつを失いたくないんだ。そうとも! なに、失いやしないよ。今に見ていたまえ……ぼくが……」
 アルカージイ・イヴァーノヴィチは、まだいつまでもしゃべりそうな様子だったが、ヴァーシャがそれをさえぎった。彼はベッドの上に身を起こし、無言のままアルカージイ・イヴァーノヴィチの頸に両手を廻して、じっと抱きしめながら、接吻した。
「たくさんだよ!」と彼は弱々しい声でいった。「たくさんだよ! その話はこれくらいにしておこうよ!」
 彼はまたくるりと壁のほうへ頭を向けてしまった。
『ああ、困った!』とアルカージイは考えた。『ああ、困った! いったいどうしたんだろう? あの男はすっかり血迷ってしまった。いったいどんな決心をしたんだろう! あの男は結局自滅してしまう』
 アルカージイは絶望の目つきで友を眺めていた。
『もし病気でもしたのなら』とアルカージイは考えた。『そのほうがむしろ良かったかもしれない。病気といっしょに心配ごともすんでしまって、それこそうまくすべてをまるめてしまうことができただろうに。だが、おれは何を出たらめいっているんだ? ああ、やり切れない!………』
 その間にヴァーシャはうとうとしかけたらしい。アルカージイ・イヴァーノヴィチは喜んだ。『こりゃ、いい兆候だぞ!』と彼は考えた。彼は夜っぴて枕もとにつき添おうと決心した。けれど、肝腎のヴァーシャが落ちつかなかった。彼はのべつぴくぴくと身慄いして、べッドの中で輾転反側しながら、ちらちらと目を開くのであった。けれど、とうとう疲労のほうが勝ちをしめて、彼は死人のように寝入ったらしく思われた。それは午前二時頃であった。アルカージイ・イヴァーノヴィチは、ヴァーシャの机に肘づきしながら、椅子に腰かけたまま、うとうとしはじめた。
 彼の眠りは落ちつきのない、奇妙なものだった。彼は相変わらず眠っていないし、ヴァーシャは依然としてベッドに横たわっているような気がした。しかも、不思議なことには、ヴァーシャがそら寝入りをして、自分をだましているように思われるのであった。今にも薄目を開けて友の様子をうかがいながら、そっと起きあがって、仕事机のほうへ忍び寄るに違いない。焼きつくような痛みが、アルカージイの心臓を刺した。彼はヴァーシャが自分を信用しないで、包み隠しをするのを見て、いまいましくもあれば苦しくもあり、また悲しくもなるのであった。彼は友を抱きかかえて、叱りつけながら寝台へ連れて行こうとした……その時ヴァーシャは彼の腕に抱かれたまま、きゃっと一声叫んだ。そして、彼がベッドへ運んで行ったのは、空しい亡骸にすぎなかった。アルカージイの額には冷汗が滲み出て、心臓は恐ろしいほど動悸を打っていた。彼は目を開けて、はっと気がついたヴァーシャは目の前の机に向かって、書きつづけている。
 アルカージイは、自分の感覚を信頼しかねて、べッドのほうを見やったが、そこにはヴァーシャはいなかった。アルカージイはやはり夢の印象から抜け切れないで、ぎょっとしたように躍りあがった。ヴァーシャは身じろぎもしなかった。彼はのべつ書き通していた。と、不意にアルカージイは慄然とおののいた。ヴァーシャはインキのついてないペンを紙の上に走らせては、真っ白なページをめくりながら、まるでこのうえもなく立派に仕事を進めているように、せっせと忙がしそうにやっていた! 『いや、これは放心状態とも違う!』とアルカージイ・イヴァーノヴィチは考えて、全身をぶるぶる慄わし始めた。
「ヴァーシャ、ヴァーシャ! どうか返事をしてくれ!」相手の肩をつかみながら、彼はこう叫んだ。けれども、ヴァーシャは押し黙って、相変わらず空のペンを紙の上に走らせつづけるのであった。
「とうとうぼくは促進法[#「促進法」に傍点]に成功したよ」顔をあげてアルカージイを見ようともしないで、彼はこんなことを口走った。
 アルカージイはその両手を抑えて、ペンをもぎ取った。
 呻吟の声がヴァーシャの胸から洩れた。彼は手をだらりと下げて、アルカージイの顔に目をあげた。それから、さも侘しい悩ましげな様子で、額をひと撫でした。それは、自分の全存在を圧迫している重い鉛の大塊を、取りのけようとでもするふうつきであった。やがてもの思わしげに、静かに頭《こうべ》を胸に垂れた。
「ヴァーシャ、ヴァーシャ!」とアルカージイ・イヴァーノヴィチは絶望の声をあげた。「ヴァーシャ!」
 ややあって、ヴァーシャは彼を見やった。その水色をした大きな目には涙が宿って、おとなしそうなあお白い顔は、無限の苦しみを現わしていた……彼はなにやらつぶやいていた。
「どうしたのだ、どうしたのだ?」アルカージイはかがみこみながら、こうどなった。
「なんだって、いったいなんだってぼくをこんな目に?」とヴァーシャはつぶやいた。「いったいなんだって?……ぼくが何をしたというのだ?」
「ヴァーシャ! きみは何をいうのだ! 何を恐れているのだ、ヴァーシャ? いったい何を?」絶望のあまり両手を捻じあわせながら、アルカージイはこう叫んだ。
「なんだってぼくを兵隊なんかにやろうというんだ?」親友の目をまともに見つめながら、ヴァーシャは口走るのであった。「いったいなんのために! ぼくが何をしたというのだ?」
 アルカージイは総身の毛がよだつような感じがした。彼は本当にしたくなかった。そして、まるで叩きのめされた者のように、親友の傍に立ちつくしていた。
 ややあって、彼は我に返った。『これはほんのちょっと一時的のものだろう!』真っ青な顔をして、紫色の唇をわなわな慄わせながら、彼は胸の中で考えた。そして、あわてて着替えを始めた。彼はいきなり医者を迎えに行こうと思った。不意にヴァーシャが声をかけたので、アルカージイはそのほうへ飛んで行って、まるで愛《いと》し児を奪われようとしている母親のように、ひしとばかり抱きしめた……
「アルカージイ、アルカージイ、だれにもいわないでくれ! いいかい、これはぼくの不幸なんだから、ぼく一人で勝手に忍ばなくちゃならないんだ……」
「何をいうんだ? きみ、何をいうんだ? 気を確かに持ってくれ、ヴァーシャ、気をたしかに!」
 ヴァーシャはほっと吐息をついた。静かな涙が双の頬を伝って流れ始めた。
「なんのためにあのひとを殺すんだ? あのひとがどうして悪いんだ!………」と彼は腸《はらわた》たを掻きむしるような、さも悩ましげな声で呻いた。「ぼくの罪だ、ぼくの罪なんだ!………」
 彼はちょっと口をつぐんだ。
「さようなら、わたしのリーザ! さようなら、わたしの恋人!」不幸な彼は頭をふりながら、こうささやいた。アルカージイはびくりとして我に返ると、いきなり医者のところへ飛んで行こうとした……「行こう、もう時間だ!」アルカージイの動作につりこまれて、ヴァーシャは叫んだ。「行こう、きみ、行こう、ぼくはもう用意ができてる! きみ、案内してくれたまえ!」彼はこういって口をつぐむと、打ちのめされたような、疑わしげな目つきで、アルカージイをちらと見やった。
「ヴァーシャ、お願いだからついて来ないでくれ! ここで待ってくれよ。ぼくは今、今すぐ帰ってくるから」アルカージイは自分でもあわてて夢中になりながら、こう言い捨てたまま帽子を引っつかんで、医者を迎えに駆け出した。ヴァーシャは直ぐさま腰を下ろした。彼は静かでおとなしかった。ただその目の中に、何かしら自暴自棄の決心が輝いていた。アルカージイは引っ返して、開いたペン削りのナイフを机の上から引っつかむと、最後にもう一度不幸な友だちを一目見やって、またもや外に駆け出した。
 もう七時過ぎだった。部屋の中にはもうとっくに明かりがさして、薄闇を追い散らしていた。
 彼はだれひとり見つけることができなかった。もうまる一時間も駆け廻っている。彼は門番のところへ寄って、この建物の中にだれか医者が住んでいないかとたずねてみて、二、三のアドレスを調べたけれども、ある者は勤めの用事で、ある者は自分の仕事の都合で、どの医者もみんな留守だった。ただ一人宅診をしている医者があった。ネフェーデヴィチが来たと取り次いだ下男をつかまえて、医者はこんなに早朝からやって来た男が何者で、だれのところから来たのか、用件はいったいどんなことか、どんな様子をしているか、などと長いこと詳しく根掘り葉掘りたずねた。そして、とどのつまり、仕事がこんでるから往診するわけにはゆかない、そんなふうの患者は病院へ連れて行くのが本当だと、はねつけてしまった。
 その時、こんな結末を夢にも期待していなかったアルカージイは、あまりに激しいショックを心に受けて、まるで死人のようになってしまった。彼は医者も何も世の中のものにいっさい見切りをつけて、ヴァーシャに対する不安で胸を一杯にしながら、家へ飛んで帰った。彼は夢中で自分の住居へとびこんだ。マヴラはけろりとした様子で床を掃いたり、木っぱを割ったりしながら、煖炉を焚く用意をしていた。彼が部屋に入ってみると、――ヴァーシャは影も形も見えなかった。どこかへ行ってしまったのである。
『どこへ行ったんだろう? どこにいるんだろう? どこを当てに駆け出したのだろう、困ったものだ!』恐怖に全身を凍らせながら、アルカージイはこう考えた。彼はマヴラにいろいろたずねてみたが、こちらはいっこうに何も知らぬぞんぜぬで、とんでもない! あの人が出て行かれる気配には、少しも気がつかなかったとのことである。ネフェーデヴィチは、コロムナヘ飛んで行った。
 どういうわけか知らないけれど、ヴァーシャはそちらへ行っているに相違ないという考えが、彼の頭に浮かんだのである。
 彼がそこへついた時には、もう九時過ぎていた。むこうでは、彼の来訪など少しも思い設けていなかったし、またなんにも知らなかった。彼はあわてて気もそぞろの様子で、家の人の前に立ちはだかりながら、ヴァーシャはどこにいるかとたずねた。老母は思わず膝をがくりとさせて、長いすの上にへたってしまった。リーザンカはびっくりして、全身をわなわなと慄わせながら、事件の顛末を詳しくたずねた。しかし、何を話すことができよう? アルカージイ・イヴァーノヴィチは、いい加減にごまかしてしまった。彼は何か口から出まかせの出たらめを話したが、むろん、だれもそれを本当にする者はなかった。彼は悩ましい不安と動揺の中に一同を取り残して、そのまま逃げるように出てしまった。彼は少なくとも、手遅れにならないうちに届けを出して、少しも早く手配りをしてもらうようにと、勤め先の役所へ飛んで行った。その途中で、ヴァーシャはユリアン・マスタコーヴィチのところにいるかもしれない、という考えが頭に浮かんだ。それは一ばん図星らしかった。アルカージイはまず第一に、コロムナヘ行く前から、このことを考えたのである。閣下の邸の前へさしかかった時、彼は車を止めようかと思ったけれど、すぐさきへ進めるようにいいつけた。彼は役所のほうに何ごとかなかったかを調べてみて、もしそこでも見つからなかったら、閣下のところへ推参しよう。少なくとも、ヴァーシャの件を報告するという意味でも、顔を出してみる必要がある、とこう決心したのである。実際、だれか一人は報告者がなくてはならなかった。
 控え室へ入るが早いか、若手の同僚が彼を取り囲んで(それは大てい、彼と同じくらいの官等の連中だった)、いっせいにヴァーシャはどうしたのだと問いかけた。それと同時に、彼等のほうでもヴァーシャは気がちがった、仕事のやり方が粗漏なために、兵隊にやられるという強迫観念に襲われている、という話をして聞かせた。アルカージイは四方八方へ返事をしながら、というより、むしろだれ一人にもまともな返事をしないで、奥の部屋をさして飛んで行った。その途中、ヴァーシャはユリアン・マスタコーヴィチの部屋にいて、みんなそこへ出かけていったし、エスペル・イヴァーノヴィチもそちらへ出向いた、という噂を聞きつけた。彼はちょっと足を止めた。だれか上役の一人が、お前は何者で、どういう用なのかとたずねた。彼はよく顔の見分けがつかなかったので、何かちょっとヴァーシャのことをいっただけで、真っ直ぐに閣下の部屋へ足を進めた。部屋の中からは、もうユリアン・マスタコーヴィチの声が聞こえていた。「あなたはどこへ行くのです?」戸口のすぐ傍で、だれかがこうたずねた。アルカージイ・イヴァーノヴィチはすっかりまごついてしまって、すんでのことに引っ返そうとしたが、ふと開きさしになった戸の隙き間から、不幸なヴァーシャの姿が見えた。彼は戸を開けて、どうにかこうにか中へ潜りこんだ。部屋の中はごった返しの騒動で、みんなうろうろしている様子だった。それはユリアン・マスタコーヴィチが、ひどく落胆していたからである。そのまわりにはえらそうな人たちが立って、ひそひそ相談していたけれど、何一つ決定することができないでいた。少し離れた所にはヴァーシャが立っていた。その姿を一目見た時、アルカージイの胸は痺れたようになってしまった。真っ青な顔をしたヴァーシャは、まるで新しい長官の前に立った新兵のように、頭をそらせ、両足をぴったり合わせ、両手をズボンの縫い目にあてたまま、ぴんとそっくり返って立っていた。彼はまともにユリアン・マスタコーヴィチの目を見つめていた。人々はすぐネフェーデヴィチに気がついた。だれかが二人の同宿関係を知っていて、その旨を閣下に報告した。アルカージイはその前へ引き出された。彼は自分に向けられた質問に対して、何か答えようと思ったが、ふとユリアン・マスタコーヴィチのほうに目を向けて、その顔に偽りならぬ哀憐の色が浮かんでいるのを見ると、いきなりわなわなと身を慄わせ、子供のようにしゃくり上げながら泣き出した。それどころか、彼は前へとび出して上官の手をとり、それを自分の目に押し当てて、涙でしとどに濡らしてしまった。で、ユリアン・マスタコーヴィチも、大急ぎでその手をもぎ離し、空中でひとふりしながら、「いや、たくさんだよ、きみ、たくさんだよ。見たところ、きみは優しい心を持っているようだな」といわざるを得なかった。アルカージイはしゃくり泣きを続けながら、祈るような視線を一同に投げた。みんなが不幸なヴァーシャの兄弟で、みんなが同じように彼のことで心を傷め、彼のために泣いているような気がしたのである。
「これはどうしたことだ、どうしてこんなことになったのだ?」ユリアン・マスタコーヴィチはいった。「なんだってこの男は気がちがったのだ?」
「感―感―謝のためで!」アルカージイ・イヴァーノヴィチはやっとこれだけしかいえなかった。
 一同は腑に落ちなさそうな様子で、彼の答えを聞いていた。だれもかれも不思議な、あり得べからざることのような気がしたのである。どうして感謝のために発狂などするのだろう? アルカージイはできるだけの言葉で弁明した。
「ああ、どうもかわいそうだ!」とうとうユリアン・マスタコーヴィチはいった。「あの男に渡した仕事は、大して重要なものじゃないし、ちっとも急を要する仕事じゃなかったのだ。それじゃ、まるでなんの意味もないことで、人間一人の一生を棒にふってしまったわけだ! しようがない、この男を連れて帰らなくちゃ!………」そこで、ユリアン・マスタコーヴィチは、またアルカージイのほうへふり向いて、いろいろとたずねにかかった。「この男は」ヴァーシャを指さしながら、彼はこういった。「このことをある娘に話さないでくれと頼んでいたが、それはこの男の許嫁ででもあるのかね?」
 アルカージイは説明を始めた。その間にヴァーシャは何やら考えているらしかった。一生懸命に緊張しながら、今すぐ必要な重大この上もないことを、考え出そうとしているようなふうであった。時々、だれか自分の忘れたことを思い出させてくれないかと、頼みをかけるように、さも苦しげにあたりを見廻すのであった。彼の目はじっとアルカージイにそそがれた。と、不意に希望の色がその目に閃いた。彼は左から足を起こして、その場を動き出した。そして、自分を呼んだ将校の傍に行く兵士のように、一生懸命に鮮やかにやろうと気をつけながら、三歩だけ前進すると、右の靴をこつりと鳴らした。一同はどうなることかと待ち設けていた。
「わたしは肉体的に欠点があるのでございます、閣下。背が小さくて、力が弱いので、兵役には不適当でございます」と彼はちぎれちぎれにいった。
 この時、部屋に居合わせたすべてのものは一人残らず、まるでだれかに心臓をぎゅっと握られたような気がした。ユリアン・マスタコーヴィチなども、かなり毅然たる性格の人ではあったが、一滴の涙がその目から溢れた。
「この男を連れてゆけ」彼は片手をふってこういった。
「額が!」とヴァーシャは小声にいって、くるりと左向け前へをしながら、部屋から出て行った。彼の運命に興味を持った人は、いっせいにその後から駆け出した。アルカージイはその後から、人々の間をくぐって行った。人々はヴァーシャを病院へ連れて行くために、命令書と馬車の来るのを待ち受けながら、ひとまず彼を控え室に坐らせた。ヴァーシャは黙り込んで坐っていたが、どうやら恐ろしく心配そうな様子だった。だれか顔に見覚えのある人に気がつくと、まるで別れを告げるように、うなずきかけるのであった。彼はひっきりなしに戸口のほうをふり返って、「さあ、よろしい」というのを、心がまえしているらしかった。彼のまわりには群集がぐるりと詰め寄せていた。みんなしきりに頭を捻りながら、同情を表わしていた。ヴァーシャの変事はたちまち評判になってしまって、多くの人々を驚かしたのである。ある者は自分の意見を述べるし、またある者はヴァーシャを褒めたり、気の毒がったりした。そして、将来有望な、静かなおとなしい男だったのに、などといった。彼が向学心に富んで、知識欲に満ち、修養に精進していたことなども、話題にのぼった。「独力で下層から出て来たんだよ!」とだれかが口を入れた。閣下が彼に好意を寄せておられたことを、感激の調子で話す者もあった。中には、なぜヴァーシャが仕事を終えなかったために、兵隊にやられるなどという考えを起こして、その強迫観念に気が狂ったかというわけを、説明する者もあった。あの不幸な男はつい近頃まで平民階級だったのに、彼の才能と従順さと、世にも珍しい謙抑な性質を見抜いたユリアン・マスタコーヴィチの肝入りで、近頃はじめて任官したのだ、というような話も出た。ひと口にいえば、いろいろな臆測が発表されたのである。ことにひどいショックを受けた人の中で、ヴァーシャ・シュムコフの同僚に当たる、一人の小柄な男が目についた。非常に年若というほどでもなく、もうかれこれ三十がらみの年配だった。この男はハンカチのように真っ青な顔をして、全身をわなわなと慄わせ、なんだか奇妙な微笑を浮かべていた。それは、一般にスキャンダルに近い出来事、というより恐ろしい光景が、局外の見物を驚かすと同時に、多少は面白がらせる傾向を持っているからであろう。彼はひっきりなしに、シュムコフを取り囲んでいる群集のまわりを、駆け廻っていた。そして、背が小さいので、しょっちゅう爪先立ちしながら、出会うものごとに、――といっても、そうする権利のある人に限るのだが、――ボタンをつかまえては、どうしてこうなったか、そのわけを知っていると、のべつ吹聴するのであった。彼にいわせれば、これはけっしてつまらない事件でなく、かなり重大な出来事だから、このままうっちゃってはおけないのである。彼はまた爪先立ちになって、相手の耳にひそひそささやいて、二度ばかりうなずいてみせると、またさきへ駆けて行くのであった。とうとういっさい片がついた。小使といっしょに病院の看護手がやって来て、ヴァーシャの傍に近よりながら、もう出かける時刻だといった。彼は躍りあがって、急にそわそわしはじめた。そして、あたりを見廻しながら、二人のものといっしょに歩き出した。彼はだれやら目でさがしているらしかった。
「ヴァーシャ、ヴァーシャ!」とアルカージイ・イヴァーノヴィチは、泣きじゃくりながら叫んだ。ヴァーシャは歩みを止めた。アルカージイはいきなり人々を押し分けて、傍へ寄った。二人は互いに飛びかかって、最後の抱擁を交わした。二人はさもつらそうに抱きしめ合った……それは見るのも痛ましい光景だった。なんという突拍子もない不幸が、彼らの目から涙を絞り取ったことか! いったい彼らは何を泣いたのか? この災厄はどこに潜んでいるのか? なぜ二人は互いに理解し合わなかったのか?
「さあ、さあ、これを取ってくれ! 大事にしまってくれ」アルカージイの手に何かの紙切れを押し込みながら、シュムコフはこういった。「あの連中が持っていっちゃうから、後でぼくに届けてくれたまえ。大事にしまっておいて、届けてくれるんだよ……」彼はしまいまでいい切れなかった。小使が呼び立てたのである。彼はみんなにうなずいてみせて、別れを告げながら、階段を駆け下りた。その顔には絶望の色が浮かんでいた。とうとう、彼は馬車に乗せられて、行ってしまった。アルカージイは急いで紙切れを開けてみた。それはシュムコフが肌身離さず持っていた、リーザの黒髪の一束であった。熱い涙がさっとばかり、アルカージイの目から溢れ出た。『ああ、かわいそうなリーザ!』
 勤務時間がすむと、彼はコロムナの家へ出かけた。そこでどんなことが持ちあがったかは、くだくだしくいうまでもない! ペーチャまでが、あの善良なヴァーシャの身の上に起こったことをまだはっきりと呑みこめないペーチャ少年までが、片隅へ引っ込んで、両手で顔を隠しながら、子供らしい真情の限りを尽くして、しゃくり泣いた。アルカージイが家路に向かった時は、もうとっぷり日が暮れていた。ネヴァ河の傍まで来ると、彼はしばらく足を止めて、河の流れに沿いながら、冷たくどんより煙っている遠方《おちかた》に鋭い視線を投げた。靄がかった天涯は、燃え残る血のような夕映えの最後の輝きに、赤々と染まっていた。夜のとばりは市街の上へ垂れかかって、凍った雪のために盛りあがった、目もとどかぬ広漠たるネヴァの河面は、針のような霜に名ごりの夕陽を反射して、幾千万とも知れぬ細かい火花を散らしていた。零下二十度からの凍《いて》が襲いかかっていた……冷たい湯気が、半死半生に追い立てられている馬からも、走って行く人からも、もやもやと立っていた。凝結した空気は、ごく僅かな響きにも震えるのであった。両側の河岸通りに並ぶ家々の屋根からは、巨人のような煙の柱が立ちのぼって、互いに縺れたり、解けたりしながら、上へ上へと昇っていった。それは、まるで新しい建物が、古い建物の上に重なって、新しい街が空中に出現したようであった……それどころか、この黄昏《たそがれ》どきには全世界が、強弱すべての人間も、その住居も、――貧者のあばら家も富者の喜びである金殿玉楼も、何もかもひっくるめて、何かの夢か幻想のように思われ、この夢が今にも跡かたなく消えてしまって、あお黒い空に霧のように昇ってゆきそうな気がした。ある奇怪な想念が、ヴァーシャを失って孤独になったアルカージイの心を訪れた。彼はぴくりとした。彼の心はこの瞬間、今まで経験したことのない、力強い感覚の刺激で、とつぜん噴き出した血の泉に浸ってしまった。彼は今やっと初めて、この不安の感じがすっかりわかったように思われた。そして、なぜあの不幸なヴァーシャが、自分の幸福に堪え切れないで、発狂したかということを悟った。彼の唇は慄えて、目は急に燃え立った。彼は見る見るうちにあおざめて来た。この瞬間、何かある新しいものを洞察したような具合だった。……
 彼はそれから気難かしい退屈な男になって、今までの快活さをすっかり失くしてしまった。もとの住居がいやでたまらなくなったので、彼はほかへ引っ越した。コロムナの家へは行こうとも思わなかったし、それに足が向かなかった。二年たってから、彼は教会でリーザンカに出会った。彼女はもう結婚していて、そのうしろには、乳呑児を抱いた守がついていた。二人は挨拶を交わしたが、昔話はしばらく避けるようにしていた。リーザはありがたいことに仕合わせで、金にも困らないし、夫も親切な人だし、自分も夫を愛している……といった。けれど、ふと話なかばに彼女の目は涙で一杯になり、声が急に低くなった。彼女は顔を背けながら、みずからの悲しみを人に見られまいと、会堂の台に身を寄せかけた……



底本:「ドストエーフスキイ全集2」河出書房新社
   1970(昭和45)年8月25日初版
入力:いとうおちゃ
校正:
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