京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP241-P264

いのキリーロフの胸に、毒を注ぎ込んでいたのです……きみはあの男の心に虚偽と讒誣とを植えつけて、理知を狂わしてしまったのです……まあ、行って、今のあの男の様子をご覧なさい。あれがきみの創造物です……もっとも、きみはもう見たんでしょうね」
「ぼくは断わっておきますが、第一に、あのキリーロフはたったいま自分の口から、自分は幸福だ、美しい人間だ、とぼくにいいましたよ。あれがほとんど同時に行なわれたろうというきみの想像は、ほぼ正確に近いです。しかし、それがいったいどうしたのです? くり返していいますが、ぼくはきみたちのどちらにも嘘をつきはしなかった」
「きみは無神論者ですか? いま無神論者ですか?」
「そうです」
「じゃ、あの時は?」
「今もあの時も同じことです」
「ぼくは会話を始めるに当たって、尊敬を要求しましたね。あれはぼく自身に対するものじゃない。きみの頭脳でそれくらいのことがわからないはずはありません」とシャートフは憤懣の語気でいった。
「ぼくはきみの最初の一言とともに席を立って、この話に蓋をしなかった。そして、きみのところを去らないで、今までじっと坐ったまま、きみの質問……というより、むしろ怒号に対して、おとなしく答えをしてるじゃありませんか。してみると、まだきみに対する敬意を失ってないはずですよ」
 シャートフは手を振ってさえぎった。
「きみはこういうきみ自身の言葉をおぼえていますか。『無神論者はロシヤ人たりえない』『無神論者を奉ずるものはただちにロシヤ人でなくなる』とこういう言葉をおぼえていますか?」
「そう?」とニコライは問い返すようにいった。
「きみはぼくにきいてるんですか? 忘れたんですか? ところが、これはロシヤ精神の最も重要な特性を明示した、最も正確な意見の一つなのです。これはきみが自分で発見したんですよ。きみがそれを忘れるという法はない! ぼくはもっと思い出さしてあげますよ、――きみはあの時こうもいいました。『ギリシャ正教を奉じないものはロシヤ人たり得ない』」
「どうもそれはスラブ主義者の思想らしいですね」
「いや、今のスラブ主義者なら、こんな思想はごめんこうむるといいますよ。今の人はも少し利口になりましたからね。きみはもっと深入りしていたのです。ローマ・カトリックはもはやキリスト教ではない、こうきみは信じていました。きみの説によると、ローマは悪魔の第三の誘惑に陥ったキリストを宣伝したのです。地上の王国なしには、キリストも自己の地歩を保つことができない、とこういう思想を全世界に宣伝したカトリック教は、この宣伝によって反キリストを普及し、ひいては西欧全体を亡ぼしたことになるのです。いまフランスが苦しんでいるのは、ひとえにカトリック教の罪だ。なんとなれば、フランスは穢れたローマの神をしりぞけながら、新しい神を発見することができないからだ、――こう、きみは明瞭に指示してくれました。きみはあの時こういう言葉を吐くことができたのです! ぼくはあの時の二人の話をよく覚えています」
「もしぼくが信仰を持っていたら、きっと今でもそれをくり返したろう。ぼくがあのとき信あるもののように話したからって、けっして嘘をついたわけじゃない」とニコライは恐ろしく真面目にいった。「しかし、まったくのところ、自分の過去の思想をくり返すってことは、非常に不愉快な印象をぼくに与えるのです。もうやめてもらうわけにゆかないかしらん?」
「もし信仰を持っていたらですって※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」相手の乞いにはいささかの注意も払わないで、シャートフはこう叫んだ。「あのときぼくにこんなことをいったのは、きみじゃなかったでしょうか、たとえ真理はキリスト以外にあるということを、数学的に証明してくれるものであっても、自分は真理とともにあるより、むしろキリストとともにとどまるを潔しとする、――そういったですか、いわないですか?」
「しかし、ぼくも一つ質問を提出していい頃でしょう」とスタヴローギンは声を張り上げた。「このせっかちな、そして……意地の悪い試験は、いったいなんのためになるんです?」
「この試験は永久に消えてしまいます。そして、二度と再び思い出させるものはありません」
「きみはやっぱり、人間は時間と空間の外にある、という持論を主張してるんですか?」
「お黙んなさい!」とふいにシャートフはどなりつけた。
「ぼくは馬鹿で間抜けです。しかし、ぼくの名は滑稽なものとして、亡びてしまってもかまやしない! ぼくはいまきみの前で、当時のきみの主なる思想をくり返してみたいのです、許してくれますか……ええ、たった十行ばかり、ただ結論だけ……」
「やってごらんなさい、結論だけなら……」
 スタヴローギンは時計を見ようとしかけたが、我慢してやめた。
 シャートフはまたもや椅子に坐ったまま、前のほうへかがみ込んで、またちょっと指を上げようとした。
「いかなる国民といえども」まるで書いたものでも読むように、とはいえ相変わらず、もの凄い目つきで、じっと相手を見つめながら、彼はこう切り出した。「いかなる国民といえども、科学と理知を基礎として、国を建設しえたものは、今日まで一つもない。ただ、ほんの一時的な馬鹿馬鹿しい偶然によって成ったものは別として、そういう例は一つもない。社会主義はその本質上、無神論たるべきである。なぜならば、彼らは劈頭第一に、自分たちが無神論的組織によるものであって、絶対に科学と理知を基礎として社会建設を志すものだと、宣言しているからである。理知と科学は国民生活において、常に創世以来|今日《こんにち》にいたるまで第二義的な、ご用聞き程度の職務を司っているにすぎない。それは世界滅亡の日まで、そのままで終わるに相違ない。国民はまったく別な力によって生長し、運動している。それは命令したり、主宰したりする力だ。けれど、その発生はだれにもわからない。また説明することもできない。この力こそ最後の果てまで行き着こうとする、飽くことなき渇望の力であって、同時に最後の果てを否定する力だ。これこそ撓むことなく不断に自己存在を主張して、死を否定する力である。聖書にも説いてあるとおり、生活の精神は『生ける水のながれ』であって、黙示録はその涸渇の恐ろしさを極力警告している。それは哲学者のいわゆる美的原動力であって、また同じ哲学者の説く倫理的原動力と同一物なのだ。が、ぼくは最も簡単に『神を求める心』といっておく。民族運動の全目的は、いかなる国においても、またいかなる時代においても、ただただ神の探究のみに存していた。それは必ず自分の神なのだ。ぜひとも自分自身の神でなくちゃならない。唯一の正しき神として、それを信仰しなければならぬ。神は一民族の発生より終滅にいたるまでの全部を包含した綜合的人格なのである。すべての民族、もしくは多数の民族の間に、一つの共通な神があったという例は、これまで一度もなかった。いかなる時もすべての民族は、自分自身の神をもっておった。神々が共通なものになるということは、取りも直さず国民性消滅のしるしなのだ。神々が共通なものとなる時、神々も、またそれに対する信仰も、国民そのものとともに死滅していく。一国民が強盛であればあるほど、その神もまたますます特殊なものとなってゆく。宗教、すなわち善悪の観念を持たぬ国民は、かつて今まで存在したことがない。すべての国民は自己の善悪観念を有し、自己独自の善悪を有している。多くの民族間に、善悪観念が共通なものとなり始めた時は、その時は民族衰滅の時である。そして、善悪の差別感そのものまで、しだいにすりへらされ消えてゆくのだ、理性はかつて一度も善悪の定義を下すことができなかった。いな、善悪の区別を近似的にすら示すことができなかった。それどころか、つねに憫れにもまた見苦しく、この二つを混同していたのだ。科学にいたってはこれに対して、拳固でなぐるような解決を与えてきた。ことに、著しくこの特徴を備えているのは、半科学である。これは現代にいたるまで、人に知られていないけれど、人類にとって最も恐るべき鞭だ。疫病よりも、餓えよりも、戦争よりも、もっと悪い。半科学、――これは今まで人類のかつて迎えたことのない、残虐きわまりなき暴君だ。この暴君には祭司もあれば奴隷もある。そして、今まで夢想だもしなかったような愛と迷信とをもって、すべてのものがその前にひざまずいている。科学でさえその前へ出ると、戦々兢々として、意気地なくその跋扈にまかせている。スタヴローギン、これはみんなきみ自身の言葉です。しかし、半科学に関することは違います、あれはぼくの言葉です。ぼく自身が半科学そのものなんですからね、とりわけこいつを憎んでいるわけなのです。きみ自身の思想にいたっては、いい表わし方さえも何一つ変えていません、一語たりとも変えてはおりません」
「きみが変えていないとは考えられないね」とスタヴローギンは用心ぶかい調子でいった。「きみは熱烈な態度で受けいれたけれど、また同時に、熱烈な態度で改造してしまったのです。しかも、自分でそれと気がつかないでね。ただ単に、きみが神を国民の属性に引き下ろした、ということ一つだけ取ってみても……」
 とつぜん彼はとくに注意を緊張させて、シャートフを注視し始めた。それはその言葉というより、むしろその人物そのものに対してむけられた注意なのであった。
「神を国民の属性に引き下ろすって!」とシャートフは叫んだ。「まるで反対だ、国民を神へ引き上げたのです。第一、ただの一度でもこれに反した事実がありますか? 国民、――それは神の肉体です。どんな国民でも、自己独得の神をもっていて、世界におけるその他のすべての神を、少しの妥協もなく排除しようと努めている間だけが、本当の国民でありうるのです。自己の神をもって世界を征服し、その他の神をいっさいこの世から駆逐することができる、とこう信じている間のみが、本当の国民といえるのです。少なくも人類の先頭に立って、いくぶんたりとも頭角を現わしたすべての国民は、創世以来こう信じてきたのです。事実に逆らうわけにはゆかない。ユダヤ国民は、真の神の出現を見んがためのみに生存を続けた。そして、世界に真の神を遺していった。ギリシャ人は自然を神化して、世界に自己の宗教を遺した。哲学と芸術がそれである。ローマは帝国内の国民を神化して、多くの民族に帝国を遺した。フランスはその長い歴史の継続せるあいだ、単にローマの神の理想を体現し、発達させたにすぎなかった。彼がついにそのローマの神を深淵の中へなげうって、目下のところ、みずから社会主義と称している無神論に逢着したのは、無神論のほうがローマ・カトリック教よりまだしも健全だからにすぎないのだ。もし偉大なる民にして、おのれのうちにのみ真理ありと信じなかったら(実際そのうちにのみあるべきだ、断じてほかにあってはならない)。もしその偉大なる国民が、われこそ自己の真理をもって万人を蘇生させ、救済するの使命を有し、かつそれをなし遂げる力があるという信仰を欠いていたら、その国民は直ちに人類学の材料と化して、偉大なる国民ではなくなるのだ。真に偉大なる国民は人類中において第二流の役どころに甘んじることがどうしてもできない。いや、単に第一流というだけでは足りない。ぜひとも第一位を占めなくては承知しない。この信仰を失ったものは、もうすでに国民ではなくなってるのだ。しかし、真理に二つはない。したがって、たとえいくつもの国民が自己独得の、しかも偉大なる神を有するにせよ、真の神を有している国民はただ一つしかない。『神を孕める』唯一の国民――これはロシヤの国民なのだ、そして……そして……いったい、いったいまあ、きみはぼくをそんな馬鹿者と思ってるんですか、スタヴローギン?」とつぜん彼は兇暴な叫びを上げた。「今この瞬間、自分のいってることが、モスクワあたりのスラヴ主義者の水車小屋で、さんざん搗き潰された、古い黴の生えそうな世迷事《よまよいごと》か、それともぜんぜん新しい最後の言葉か、――更生と革新の唯一の言葉か、それさえ区別のつかないような、馬鹿者だと思ってるんですか? それに……それに、今の瞬間、ぼくにとって、きみのにたにた笑いなんか少しも用はありません! きみがぼくのいうことをまるっきり理解しないからといって、――たった一つの言葉、たった一つの響きさえ理解できないからといって、ぼくはまったく風馬牛です!………おお、ぼくは今この瞬間、きみのその高慢な笑顔と目つきを、心底から軽蔑する!」
 彼はついに席から躍りあがった。その唇には泡のような唾さえ見えていた。
「それどころじゃない、シャートフ、それどころじゃない」とスタヴローギンは席を立とうともせず、ごく真面目な抑えつけたような調子でこういった。「それどころじゃない、きみはその熱烈な言葉で、非常に強い多くの記憶を、ぼくの胸中に甦らせてくれた。ぼくはきみの言葉の中に、二年前のぼく自身の心持ちを認めることができます。今こそぼくもさっきのように、きみが当時のぼくの思想を誇張しているなどとは、もうけっして言やしませんよ。むしろ当時のぼくの思想はもう少し排他的で、もう少し専断的だったような気がするくらいです。もう一度、三度目にくり返していうが、ぼくはいまきみのいわれたことを、一言もらさず裏書きしたいのは山々だが、しかし……」
「しかし、きみには兎がいるんでしょう!」
「なあんですって?」
「これはきみのいった下劣な言葉なんですよ」再び席に着きながら、シャートフは意地悪い薄笑いを浮かべた。「『兎汁を作るためには兎がいる、神を信じるためには神がいる』これはきみがまだペテルブルグにいる時分にいったことだそうですね。ちょうど兎の後足をつかまえようとしたノズドリョフのように」
「いや、ノズドリョフはもうつかまえたといって自慢したね。ついでに失敬ですが、ちょっと一つきみにご返答を煩わしたいことがあるんですよ。ましてぼくは今そうする権利を、十分もっているように思われるんでね。ほかじゃないが、きみの兎はもうつかまりましたか、それともまだ走っていますか?」
「そんな言葉でぼくに質問する権利はありません、別な言葉でおききなさい。別な言葉で!」シャートフはふいに全身をがたがた慄わし始めた。
「いやどうも、じゃ、別な言葉にしよう」とニコライはきびしい目つきで相手を眺めた。「ぼくはただこうききたかったのです、きみ自身は神を信じていますか、どうです?」
「ぼくはロシヤを信じます、ぼくはロシヤの正教を信じます……ぼくはキリストの肉体を信じます……ぼくは新しい降臨がロシヤの国で行なわれると信じています……ぼくは信じています……」とシャートフは夢中になり、しどろもどろにいった。
「しかし、神は? 神は?」
「ぼくは……ぼくは神を信じるようになるでしょう」
 スタヴローギンは顔面筋肉の一本も動かさなかった。シャートフは燃ゆるがごとき眼ざしで、挑むように彼を眺めた。ちょうどその視線で相手を焼きつくそうとするかのように。
「ぼくはあえてぜんぜん信じないといったわけじゃありません!」ついに彼はこう叫んだ。「ぼくはただ自分が運の悪い、退屈な一冊の書物であって、当分の間それ以上の何ものでもないということを、ちょっと知らせたにすぎないのです。ええ、当分の間……しかし、ぼくの名は朽ち果てようとままだ! 肝腎なのはきみだ、ぼくじゃない……ぼくは才も何もない男だから、自分の血潮を捧げるほかに芸はありません。才も何もない十把ひとからげの仲間で、けっしてそれ以上なにもありません。ぼくの血潮も滅びようとままだ! ぼくはきみのことをいってるのです。ぼくは二年間ここできみを待っていたのです……ぼくはきみのために、いま三十分のあいだ裸踊りをしたのです。きみです、きみだけです、この旗印を挙げることができるのは!………」
 彼はしまいまでいわなかった。そして、絶望したもののように、テーブルの上へ肘突きし、両手で頭をかかえてしまった。
「ぼくはちょっとついでに、一つの奇妙な現象として、きみに注意しておきますがね」とふいにスタヴローギンはさえぎった。「どうしてみんなが、妙なえたいの知れぬ旗印をぼくに押しつけようとするんでしょう? ヴェルホーヴェンスキイも、ぼくが『彼らの旗印を掲げる』ことのできる男だと信じてるんです。少なくも、あの男の言葉として、人がこう取り次いでくれました。あの男はぼくが生来の『異常な犯罪能力』によって、彼らのためにスチェンカ・ラージン([#割り注]ロシヤ叛乱の巨魁、ドン・コサックを率いてヴォルガ中下流一帯を征服したが、後敗れて刑死す(一六七一年)[#割り注終わり])の役廻りを演るものと、固く信じ切っているんですからね。『異常な犯罪能力』というものも、やはりあの男の言葉です」
「なんですって?」とシャートフがきいた。「異常な犯罪能力?」
「そのとおり」
「うむ!………いったいあれは本当ですか?」と彼は毒々しくほくそ笑んだ。「きみがペテルブルグで畜生同様な秘密の好色会に入っていたというのは、本当ですか? マルキ・ド・サドでさえ、きみに教えを乞いかねないほどだった、というのは事実ですか? きみが多くの幼者を誘惑して、堕落の淵へ陥れたというのは事実ですか? さあ、返事をなさい、嘘なぞつくと承知しませんよ!」もうまるでわれを忘れてしまって、彼はどなった。「ニコライ・スタヴローギンは、その面をぶん撲ったシャートフの前で、嘘をつくことはできないはずです! さあ、みんないっておしまいなさい。そして、もし本当のことだったら、ぼくはすぐに今ここで、この場を去らずきみを殺してしまう!」
「そういうことはぼくもいいました。しかし、子供を辱しめたのは、ぼくじゃありません」とスタヴローギンは口を切った。が、それはだいぶ長い沈黙の後だった。
 彼の顔は蒼白になり、目はぱっと燃え立った。
「しかし、きみはいったんですね!」ぎらぎら光る目を相手からはなさないで、シャートフは威を帯びた調子で語を続けた。「それからまた、きみは何かその、淫蕩な獣のような行為も、何かこう非常に立派な働き、つまり人類のために生命を犠牲にするといったような行為も、美の見地から見ると、ほとんど差別を認め難いと断言したという話だが、それはまったく本当ですか? この両極において美の合致、快楽の均等を発見したというのは、事実ですか?」
「どうもそうきかれると、返事ができない……ぼくは答えたくありませんね」とスタヴローギンはつぶやいた。彼は、今すぐにも立ちあがって、帰って行くことができるにもかかわらず、立ちあがろうともしなければ、帰って行こうともしなかった。
「ぼく自身もなぜ悪が醜くて、善が美しいかってことが、よくわからない。しかし、どういうわけでこの差別感がスタヴローギンのような人においてとくに著しく磨滅され、消耗されてゆくかということを、ぼくは、ちゃんと知っています」シャートフは全身をわなわなと慄わせながら、どこまでも追求するのであった。「ねえ、きみはどうしてあの時、ああまで醜悪下劣な結婚をしたか、そのわけがわかっていますか? ほかじゃありません、あの場合、この醜悪な無意味というやつが、ほとんど天才的ともいうべき程度に達したからです! おお、あなたは端のほうをおっかなびっくりで歩いたりなんかしないで、真っさかさまに飛び込んでしまうんです。きみが結婚したのは、苦悶の欲望のためです、良心の呵責に対する愛のためです、精神的情欲のためです。あの場合、神経性の発作が働いたのです……つまり、常識に対する挑戦が、強くきみを誘惑したのです! スタヴローギンとびっこの女、醜い半きちがいの乞食女! あの県知事の耳を噛んだとき、きみは何か情欲を感じましたか? 感じたでしょう? え、感じたでしょう? こののらくらの極道若様!」
「きみは心理学者だ」いよいよ顔をあおくしながら、スタヴローギンはこういった。「もっとも、ぼくの結婚の原因については、きみもいくぶん思い違いをしていますがね……しかし、いったいだれがきみにそんなことを知らせたんだろう」と彼は苦しそうな薄笑いをした。「キリーロフかな? いや、あの男は仲間に入ってなかったっけ……」
「きみ、あおくなりましたね?」
「ところで、きみはいったいどうしようというんです?」とうとうニコライは声を励ました。「ぼくは三十分間、きみの鞭の下に坐ってたんだから、せめてきみも礼をもっていいかげんにぼくを釈放してくれてもいい時でしょう……もしそういうふうにぼくを扱うについて、別に合理的な目的がないならば」
「合理的な目的?」
「当たり前ですよ。もういい加減にして、自分の目的を話すということは、少なくもきみの義務じゃありませんか。ぼく、きみがそうしてくれることと思って待ってたんだが、要するにただ興奮した憎悪を見いだしたばかりだ。じゃ、一つ門を開けてください」
 彼は椅子を立った。シャートフは兇猛な態度で、そのうしろから躍りかかった。
「土を接吻なさい、涙でお濡らしなさい、ゆるしをお求めなさい!」相手の肩をつかまえながら、彼はこう叫んだ。
「しかし、ぼくはあの朝……きみを殺さないで……両手をひいてしまいましたよ……」ほとんど痛みを忍ぶような調子で、スタヴローギンは目を伏せながらいった。
「しまいまでおいいなさい、しまいまで! きみはぼくに危険を知らせに来て、ぼくにいいたいことをいわしてくれたじゃありませんか。きみはあす自分の結婚のことを、世間へ発表しようと思ってるんでしょう!………いったいぼくにわからないと思いますか? きみが何かしら新しい、しかも恐ろしい思想に征服されているのは、きみの顔でちゃんとわかっています……スタヴローギン、なんのためにぼくは永劫、きみという人を信じなきゃならない運命を持って生まれたんでしょう? いったいぼくが、ほかの人をつかまえて、今のようなことがいえたでしょうか? ぼくだって童貞の心は持っているけれど、ぼくは自身の裸を恐れなかった。なぜって、相手がスタヴローギンだからです。ぼくは偉大な思想に手を触れて、それを戯画化するのを恐れなかった。なぜって、聴き手がスタヴローギンだからです。……きみが帰った後で、ぼくがきみの足あとに接吻しないと思いますか? ぼくは自分の胸からきみという人を、どうしてももぎはなすことができないのです。ニコライ・スタヴローギン!」
「ぼくはどうも残念ながら、きみを愛することができないのですよ、シャートフ」と、ニコライは冷ややかにいった。
「きみにできないのはわかっています。きみが嘘をついてないのもわかっています。ねえ、ぼくはいっさいを正すことができますよ。ぼくきみのために、兎を手に入れてあげましょう!」
 スタヴローギンは黙っていた。
「きみが無神論者なのは、きみが貴族の若様だからです、屑の屑の若様だからです。きみが善悪の差別感を失ったのは、自国の民衆を見分けることができなくなったからです……新しい時代は直接人民の胸から流れ出ている。けれど、それはきみにも、ヴェルホーヴェンスキイ親子にも、またぼく自身にもわからない。なぜって、ぼくもやっぱり貴族の若様ですからね、きみの家で奴隷づとめをしていた、下男パーシカの息子ですからね……ねえ、きみ、労働で神を獲得なさい、要はすべてこれ一つにあるのです。でなければ、醜劣な黴のように消えてしまいますよ。労働で獲得するんです」
「神を労働で? どんな労働です?」
「百姓の労働です。断然出ておしまいなさい、きみの富をなげうっておしまいなさい……ああ! きみは笑ってるんですね、きみは手品に終わるのを恐れてるんですね?」
 けれども、スタヴローギンは笑わなかった。
「きみは労働によって、しかも、百姓の労働によってのみ、初めて神をうることができると思ってるんですか?」実際なにか相当に思慮を費す価値のある、新しい重大なものでも発見したように、ちょっと考えてから、彼はこう問い返した。「ついでにいっときますがね」出しぬけに彼は別な想念に移ってしまった。「いまきみの言葉で思い出したんだが、実はね、ぼくはまるで富も何もないんです。したがって、なげうとうにもなげうつ物がない。ぼくはマリヤの将来さえほとんどもう保証するだけの力がないんです……そこで、いま一ついっておくことがある――ぼくがここへ来たのは、もしできることなら、今後ともマリヤの面倒をお頼みするためなんです。そのわけはきみだけがあの女の憫れな心に、ある種の感化力を持っていられたからですよ。ぼくは万一の場合を予想していうのです」
「いいです、いいです、きみはマリヤ・チモフェーヴナのことをいってるんでしょう?」とシャートフは片手に蝋燭を持ったまま、いま一方の手を振った。「いいです、それは後で自然と……ねえ、きみ、チーホンのところへ行きませんか」
「だれのところへ」
「チーホンのところへ。元の僧正のチーホンですよ。いま病気のために静養かたがた、この町に住んでいます。あのエフィーミエフの聖母寺院に」
「いったいそれはなんのために?」
「なんでもありません。みんなその人のところに出かけてますからね。まあ、行ってごらんなさい。きみにとってなんでもないことじゃありませんか?」
「はじめて聞いた、それに……今まで一度もそういう種類の人を見たことがないから……いや、ありがとう、行ってみましょう」
「こっちです」とシャートフは階段を照らした。「まあ、お出でなさい」彼はくぐりを往来へさっと開け放した。
「ぼくはもうきみのところへ来ませんよ、シャートフ」くぐりを跨ぎながら、スタヴローギンは小声でいった。
 闇と雨は依然として変わらなかった。

[#3字下げ]第2章 夜(つづき)[#「第2章 夜(つづき)」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 彼はボゴヤーヴレンスカヤ街を通り抜けて、とうとう坂道を下り始めた。足は泥の中をひとりでにすべって行った。と、急に広々として靄のかかった原っぱのようなものが眼界に展けた、――河だ。家並はまるで掘立小屋のようなものに変わって、往来は秩序のない無数の路地の中に隠れてしまった。ニコライは河岸から遠く離れないようにしながら、長いあいだ垣の傍を辿って行った。しかし、道に迷う気色がないばかりか、そんなことはろくろく考えもしないようなふうだった。彼はまったく別なことに心を奪われていた。で、ふと深いもの思いからさめて、あたりを見廻したとき、雨に濡れた長い船橋の、ほとんど真ん中に立っているのに気がついて、思わず愕然としたくらいである。まわりには人けとてさらになかったので、とつぜん肘の下あたりから、思いがけなく慇懃な、なれなれしい声が聞こえたとき、彼はなんだか奇妙な感じがした。それはかなり気持ちのいい声だったが、この町でもいやにハイカラがった町人や、髪を渦巻かした勧工場あたりの若い手代が伊達に使うような、例のわざとらしく甘ったるい、いや味なアクセントを帯びていた。
「ええ、旦那、失礼でござんすが、一つその傘ん中へごいっしょにお願いできませんかねえ」
 実際、だれかの影が彼の傘の下へ潜り込んだ(或いは潜り込むような真似をしただけかもしれない)。浮浪人は彼とおし並んで、『肘で相手を探りながら』、――これは兵隊のいうことなので、――ついて来た。ニコライは歩調をゆるめながら、暗闇の中でできる限りこの男を見分けようとした。男はあまり背の高いほうでなく、ちょっとその辺で遊んで来た町人者、というようなところがあった。みなりはうそ寒そうで、さっぱりしていなかった。ぼうぼうと渦を巻いた頭には、庇《ひさし》の半分はなれかかった、びしょ濡れのラシャ帽が、ちょこなんとしている。見たところ、この男は痩せた、色の浅黒い、極度なブリュネットらしい。目は大きかったが、きっとジプシイのように真っ黒で、ぎらぎらと光って、黄がかった底つやがあるに相違ない。闇の中ながら、これだけは想像がついた。年はどうやら四十前後らしく、別に酔ってはいなかった。
「お前はおれを知ってるのか?」とニコライはきいた。
「スタヴローギンさま、――ニコライ・フセーヴォロドヴィチでございましょう。わっしは前の日曜日に停車場でね、汽車が着くとすぐ教えてもらいましたんで。そればかりじゃありません、前からお噂は承知しておりましたよ」
「ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイからだろう? お前……お前かね、懲役人のフェージカは?」
「洗礼の時にゃ、フョードル・フョードロヴィチという名をもらいましたがね。生みの母親は今でもやっぱりこの近在におりますんで。神様と仲よしのお婆さんでしてね、腰が曲っていく一方でござんすよ。毎日、昼となく夜となく、わっしどものことを神様に祈っております。そういうわけでござんすから、何も煖炉《ペーチカ》の上で、ぼんやり閑を潰してばかりいるわけじゃありませんので」
「お前は懲役から逃げ出したんだろう?」
「へえ、少々運勢を変えました。聖書も鐘も教会のお勤めも、すっかりほうり出してしまいました。なぜって、わっしはずっと一生涯、懲役の宣告を受けてたんですが、それじゃどうもあまり待ち遠しすぎますんで」
「ここで何をしてる?」
「朝から晩まで何ということなしに、一日ぶらぶらしております。伯父のやつが贋金のことで、やっぱりここの監獄に食らい込んでましたが、先週とうとう亡くなりましたのでね、わっしもその供養を営むために、石を二十ばかり犬にくらわしてやりましたが……まあ、わっしらのすることといっちゃ、今のところ、それくらいなものでございますよ。そのほかにピョートルの旦那が、ロシヤ全国を渡って歩くことのできる商人《あきんど》の旅行免状を手に入れてやるとおっしゃったので、かたがたそのご親切を待っていますんで。『実際うちの親爺はイギリス・クラブでカルタに負けて、それでお前をたたき売ったんだからなあ。どうもこれは不公平な、人情を欠いた仕打ちだよ』とこうおっしゃいましてね。いかがでしょう、旦那、お茶の一杯も飲んで、暖まりたいのでござんすが、あなたもどうか三ルーブリばかり恵んでやってくださいませんか」
「じゃ、貴様はここで待ち伏せしていたんだな。おれはそんなこと嫌いだ。いったいだれの言いつけなのだ?」
「言いつけなんかとおっしゃいましても、そんなことはけっしてありゃいたしません。わっしはただ、世間に知れ渡った旦那様のお情け深さを、承知でまいりましたんで。わっしらの収入《みいり》と申しちゃ、旦那もご承知のとおり、ほんの蚊の涙くらいなものでございますからねえ。ついこのあいだ金曜日にゃ、饅頭にありつきましてね、まるでマルティンが石鹸でも食べるように、うんと腹一杯つめ込みましたよ。ところが、それ以来なんにも食べない始末なんで。次の日は辛抱しました。その次の日もまた食べずじまいでございました。で、川の水をもうたらふく飲みましたから、まるで腹の中に魚でも飼ってるようで、こういうわけでござんすから、一つ旦那様のお情けでいかがでしょう。実はついちょうどそこのところで、仲よしの小母さんが待っておりますが、そこへは金を持たずに行くわけにゃまいりませんでねえ」
「いったいピョートルの旦那はおれに代わって、何を貴様に約束したんだい?」
「別に約束なすったというわけじゃありませんが、もしかしたら、その時の都合次第で、何か旦那のお役に立つことがあるかもしれんと、これだけのお話があったので。どういう仕事か、そりゃ明らさまに聞かしてくださいませんでしたよ。なぜって、ピョートルの旦那は、わっしにコサックみたいなつらい辛抱ができるかどうか、ためしてごらんなさるきりで、ちっともわっしという人間を信用してくださらないんで」
「なぜだい?」
「ピョートルの旦那はえらい天文学者で、空をめぐる星を一つ一つそらで知っておられますが、あの方でも難をいえばあるんでございますよ。ところが、わっしは旦那の前へ出ると、まるで神様の前へ出たような気がいたしますんで。なぜって、旦那、あなたのことはいろいろ伺っておりますものね。ピョートルの旦那はああいう人、旦那は旦那でまた別な人でござんすからね。あの方は人のことでも、あれは極道だといったら、もう極道者よりほかなんにもわかりゃしません。また、あいつは馬鹿だといったら、もう馬鹿のほかにゃその男の呼び方を知らない、といったふうでございます。しかし、わっしも火曜水曜は、ただの馬鹿かもしれないが、木曜日にゃあの方より利口になるかもわかりませんからね。ところで、いまあの方は、わっしが一生懸命に旅行免状をほしがってることだけ知って(まったくロシヤではこの免状なしじゃ、どうにもしようがありませんからね)、まるでわっしの魂でも生け捕ったように思ってらっしゃる。旦那、わっしは遠慮なく申しますがね、ピョートルの旦那なんざあ、世渡りは楽なもんでございますよ。なぜってあの方は、人間を自分一人でこうと決めてしまって、そういうものとして暮らしておられるんですからねえ。そのうえに、どうも恐ろしいしみったれでございますよ。あの方はよもや自分を出し抜いて、わっしが旦那とお話をしようとは、夢にも思っていらっしゃらないが、わっしはねえ、旦那、旦那の前へ出たら神様の前へ出たのも同じような気でいますんで。もうこれで四晩もこの橋に立って、旦那のおいでを待ってるんでございますよ。あの方の力を借りなくったって、こっそり自分のすべきことをしようと思いましてね。考えてみると、同じことでも、草鞋《わらじ》より靴に頭を下げるほうが、よっぽど気が利いてますからね」
「おれが夜中にこの橋を通るなんて、いったいだれがお前にいったんだ」
「それは白状いたしますが、わきのほうからひょっくり小耳に挟みましたんで。つまり、レビャードキン大尉の迂闊から出たことなんで。なにしろあの人は、はらの中にものをしまっておくってことが、どうしてもできない性分でござんしてね……で、三日三晩つらい目をした駄賃に三ルーブリだけ、旦那様のお情けに預るわけにゃまいりませんでしょうか。着物の濡れたことなぞは、もう諦めて何も申しませんよ」
「おれは左だ。貴様右へ行くんだろう。橋はもうおしまいだ。いいか、フョードル、おれは自分のいったことを、一度ですっかり呑み込んでもらうのが好きなたちなんだ。おれは一コペイカだって貴様にやりゃしない。今後、橋の上だろうがどこだろうが、おれの目にかかったら承知しないぞ、おれは貴様なんかに用はない、また今後だってありゃしないんだ。もしいうことを聞かなけりゃ、ふん縛って警察へ突き出すぞ、とっとと行っちまえ!」
「ええまあ、せめてお伴の駄賃でも投げてくださいませんか、少しはお気晴らしになりましたろうに」
「行かんか!」
「ですが、旦那はここの道をごぞんじでございますか? あそこら辺はまったくひどい路地つづきでござんしてね……なんならご案内いたしましょうか。本当にこの町は、もうまるで悪魔が籠の中へ入れて、振り廻したようなところでございますよ」
「ええっ、ふん縛っちまうぞ!」ニコライは恐ろしい剣幕で振り返った。
「まあ、旦那、考えてもくださいまし。頼りのない人間をいじめるくらい、造作もないことじゃございませんか?」
「いや、貴様はなかなか自信が強いらしいな!」
「なに、旦那、わっしはあなたを信じているので、けっして自分を信じてるわけじゃござんせん」
「おれは貴様なんぞにまるで用はありゃしない、一どいったらわかるだろう!」
「ところが、わっしのほうはあなたに用があるんで、へえ。じゃ、旦那、お帰り道を待っておりますよ、もうしようがない」
「おれはちゃんといっとくぞ、今度あったらふん縛ってやるから」
「それじゃ一つ繩でも用意しておきましょう。では、旦那、ご機嫌よろしゅう。お傘の中へ入れていただきまして、どうもありがとうござんした。これ一つだけでも、旦那のことは棺へ入るまで忘れはいたしません」
 彼はやっと傍を離れた。ニコライは不安げな様子で、目ざすところまで辿りついた。まるで天から降ったようなこの男は、自分がニコライになくてはならぬ人間だと信じ切って、どこまでもずうずうしくこのことを知らせようとあせっている。それに全体として、この男は彼を恐れはばかる様子がなかった。しかし、この浮浪漢もずぶ出たらめをいったのではないらしい。実際、彼はピョートルに内証で自分の一量見で、ニコライのご用を勤めさしてもらおうとねだったのかもしれない。これは何より注目すべき事実だった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ニコライの辿りついた家は、両側から垣根に挟まれた、淋しい横町にあった。垣根の向こうには菜園が続いて、まったく字義どおりに町はずれだった。それはぜんぜん孤立した、小さな木造の家で、まだほんの建てたばかりらしく、羽目板も打ってなかった。一つの窓はわざと鎧戸を開け放して、窓じきりには蝋燭が立ててあった、――それは今夜おそく来るはずになっている客人のため、燭台の代わりにしようというつもりらしい。まだ三十歩ばかり手前の辺から、入口に立っている背の高い男の姿を見わけることができた。たぶんこれはこの家のあるじが待ち遠しさのあまり、往来の様子を見に出たものであろう。そればかりか、その男のじれったそうな、そのくせおずおずしたような声さえ聞こえた。
「そこにいらっしゃるのは、あなたですか? あなたですか?」
「ぼくです」家の入口まで辿りついて傘をすぼめた時、ニコライは初めてこう答えた。
「まあ、やっとのことで!」とレビャードキン大尉は(これが男の正体だった)急に足踏みして、騒ぎ出した。「さあ、お傘をこっちへください。おや、大変ぬれておりますなあ。一つ、この隅の床に広げときましょう。さあ、どうぞ、さあ」
 廊下から、二本の蝋燭で照らされた部屋に通ずる戸口は、一ぱいに開け広げてあった。
「ぜひ来るというあなたのお言葉がなかったら、とても本当にはしなかったかもしれませんよ」
「十二時四十五分だね」ニコライは部屋へ入りながら、ちょっと時計を眺めた。
「しかも、おまけに雨まで降っておりますし、――それに、なかなか道のりがありますでなあ……わたしは時計を持っておりません。ところで、窓の外を見ても野菜畑ばかりで、まったくその……うき世から遠ざかってしまいますな……しかし、何もあえて不平をいうわけじゃありません。どうして、どうして、そんな僭越なことを……ただ一週間というもの、ひたすら待ち佗びておったものですから……それに、すっかり解決をつけてしまいたいと思いましてね」
「なんだって?」
「自分の運命《なりゆき》が聞きたいのでございますよ。さあ、どうぞ」
 彼はテーブルの傍らなる長いすを示しつつ、小腰をかがめてこういった。
 ニコライはあたりを見廻した。部屋は狭苦しくて、天井が低く、道具類もほんのなくてかなわぬものばかりだった、――いくつかの椅子と一脚の長いす(これはみな木造りで、やはりこしらえたばかりらしく、皮も布《きれ》もなんにも張ってなく、肘もついていなかった)、二脚の菩提樹のテーブル(一脚のほうは長いすの傍に据えてあり、いま一脚は隅のほうに置いて、クロースを掛けてあったが、何やら一杯ごたごたとのっけた上から、素晴らしく綺麗なナプキンがかぶせてある)、――これだけがすべてだった。しかし、全体として部屋の中は、驚くばかり清潔に手入れがしてあるらしかった。レビャードキン大尉は、もう八日ばかり酒を飲まなかった。彼の顔はなんだかげっそりして、黄いろみを帯び、目つきはきょときょとして好奇の色を浮かべ、いかにも何か腑に落ちないような表情を呈していた。彼はどんな調子でニコライに話しかけたものか、またいきなりどういう調子をつかんだらより多く有利なのか、それがまだ自分にもはっきりわかっていなかった。これはもうありありとおもてに現われていた。
「ご覧のとおり」と彼はあたりを指さした。「まるでゾシマ長老のような暮らしをしております。禁欲、孤独、欠乏、――ちょうど昔の騎士が誓いでも立てたようですよ」
「昔の騎士がそんな誓いを立てたと思いますか?」
「いや、或いは出たらめをいったかもしれません。どうも悲しいことに、わたしは十分の教育を受けておりませんのでね! ああ、わたしはいっさいを亡ぼしてしまいました! 実はね、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、わたしはここで初めて覚醒して、愧ずべき[#「愧ずべき」はママ]欲望をなげうちました。盃一杯はおろか、一ったらしも飲みません。この一隅に蟄居して、この六日間、良心の安らかになったのを感じます。部屋の壁さえも、ちょうど自然を連想させるように、松脂の香りがしておりますよ。ああ、わたしはなんという人間だったのでしょう、何をしておったのでしょう?

[#ここから2字下げ]
夜は吐息す、泊りさえなく
昼は昼とて舌を吐きつつ……
[#ここで字下げ終わり]

 天才詩人の言葉をかりると、まったくこのとおりですよ! しかし……まあ、大変ぬれておしまいになりましたなあ……お茶を一杯いかがですか?」
「かまわないでください」
「湯沸《サモワール》は七時すぎから煮立っておりましたが、しかし……消えてしまったのです……この世におけるすべての物のごとく。太陽でさえ、そのうちに順が廻って来れば、自然に消えてしまうといいますからなあ……もっとも、お入用でしたらまたこしらえますよ。アガーフィヤはまだ寝ておりませんから」
「ときに、きみ、マリヤは……」
「ここです、ここです」とレビャードキンはすぐに小声で引き取った。「ちょっと覗いてごらんになりますか?」彼は次の部屋との境になっている、閉めきった戸を指さした。
「寝てやしないかね?」
「おお、どうしてどうして、そんなことがあってよいものですか! それどころか、もう夕方から待ちかねております。そして、さっきおいでになったことが知れると、さっそくお化粧をしたくらいですからなあ」と彼は口を歪めて、ふざけた薄笑いを浮かべようとしたが、すぐにまた引っ込めてしまった。
「全体として? どんなふうだね?」ニコライは顔をしかめながらきいた。
「全体として? それはご自分でご承知のとおりです(と彼は気の毒そうに肩をすくめた)。ところで、今は……今はじっと坐って、カルタの占いをしております……」
「よろしい、後にしよう。まずきみのほうから片づけなきゃならない」
 ニコライは椅子に腰を据えた。
 大尉はもう長いすに坐る勇気がなくて、すぐに自分も別な椅子を引き寄せた。そして、びくびくもので、相手の言葉を待ち設けながら、体《たい》をかがめて謹聴の態度を取った。
「あの隅っこのほうにクロースがかぶせてあるのは、いったいなんです?」突然ニコライは気がついて、こうたずねた。
「あれでございますか?」レビャードキンも同じく振り向いた。「あれはあなたご自身のお恵みでできたものでございます。いわばまあ、引っ越し祝いといったようなわけで……それに、遠路のところをわざわざお運びくださることですし、また自然それに伴うお疲れなども考えましてな」と彼は恐悦げにひひひと笑った。それから席を立って、爪立ちで片隅のテーブルに近寄り、そうっとうやうやしげにクロースを取りのけた。
 その下からは用意の夜食が現われた。ハム、犢肉、鰯、チーズ、緑色がかった小さなウォートカのびん、長いボルドー酒のびん、――こういうものがすべて小綺麗に、順序をわきまえて、手際よく配列してあった。
「これはきみのお骨折りかね?」
「わたしでございます。もう昨日からかかって、できるだけのことをしましたので……あなたに敬意を表しようと思って……マリヤはこういうことになると、ご承知のとおり無頓着でございますからなあ。まあ、とにかく、あなたご自身のお恵みでできたもので、あなたご自身のものでございます。なぜといって、この家《や》のあるじはあなたでして、わたしじゃありませんからね。わたしなんぞはまあ、あなたの番頭といったような格でございます。しかし、なんと申しても、なんと申しても、ニコライさま、なんといっても、わたしは精神的独立をもっております。どうか、たった一つ残ったわたしのこの財産を取り上げないでください!」彼は一人で悦《えつ》に入りながら言葉を結んだ。
「ふむ……きみはまた坐ったらどうだね」
「いや、どうもありがとうございます。ありがとうはございますが、それでも独立性をもった人間です! (彼は坐った)おお、ニコライさま、わたしのこの胸は煮えくり返るようで、とてもご光来が待ちきれないだろう、と思われるくらいでございました! さあ、今こそ運命を決してください、わたしの運命と、そして……あの不幸な女の運命を……そのうえで……そのうえで昔よくやったように、あなたの前にすべてを吐露してしまいます、ちょうど四年以前と同じようにね。あの時分あなたは、わたしのような者のいうことでも聞いてくださったし、また詩も読んで聞かしてくださいましたよ……あのころ、人がわたしのことをあなたのファルスタッフ、――沙翁の書いたファルスタッフだといっておりましたが、それはいわれてもかまわんです。あなたはわたしの運命に甚大なる影響を与えた人ですからなあ!………わたしはいま非常な恐怖をいだいております。そして、ただただあなた一人から助言と光明を待っているのです。ピョートル・スチェパーノヴィチがわたしに恐ろしい仕向けをされるので!」
 ニコライはもの珍しげに耳を傾けながら、じっと相手を見つめるのであった。見たところ、レビャードキン大尉は、酒に食らい酔うことだけはやめたが、しかし、なかなか均衡のとれた状態に戻っている様子はなかった。こういうふうな病い膏肓に入った酒飲みは、結局、どことなくがたぴし[#「がたぴし」に傍点]した、ぼうっと煙のかかったようなところができて、何かしら損なわれたような感じのする、気ちがいじみた傾向が、しだいに明瞭になってゆくものである。もっとも、必要な場合には人並みに嘘もつくし、狡知も弄するし、悪企みもするには相違ないけれど。
「大尉、ぼくの見たところでは、きみはこの四年間少しも変わらないね」前よりいくぶん優しい調子で、ニコライはこういい出した。「ふつう人間の後半生は、ただ前半生に蓄積した習慣のみで成り立つというが、どうやら本当のことらしいね」
「なんという高遠な言葉でしょう! あなたは人生の謎をお解きになりましたよ!」なかば悪くふざけながら、なかばわざとならぬ感激に打たれて(彼はこうした警句が大好物だったので)、大尉は叫んだ。
「ニコライさま、あなたのおっしゃったお言葉の中で、後にもさきにもたった一つ覚えておるのがあります。これはあなたがまだペテルブルグにいらっしゃる時分のことで、『常識にすら反抗して立つためには、真の偉人となるを要す』とこういうのでございます!」
「ふん、それと同じように『或いは馬鹿者たるを要す』ともいえるね」
「さよう、また馬鹿者でもいいでしょう。とにかく、あなたは一生を警句で埋めていらっしゃる。ところが、あの連中はどうでしょう? リプーチンにしろ、ピョートル・スチェパーノヴィチにしろ、せめて何か似たようなことでもいえますか? ああ、ピョートル・スチェパーノヴィチは実に残酷な仕向けをなさいますよ……」
「しかし、きみはどうだね。大尉、きみはなんという行為をしたのだ?」
「酒の上でございます。それに、わたしは無限に敵をもっておりますのでね! しかし、今はもうすっかり、何もかもすんでしまいました。で、わたしも蛇のように更新しているところでございます。ニコライさま、実はわたしは遺言状を書いております。いや、もう書いてしまったので」
「それは珍聞だね。いったい何を遺そうというんだね、そしてだれに?」
「祖国と、人類と、大学生に。ニコライさま、わたしは新聞であるアメリカ人の伝記を読みましたが、その男は、莫大な財産を工業と積極的科学に、また自分の遺骨を学生に、――つまり、むこうの大学へ寄付した上、皮を太鼓に張らしたのです。ただし、夜昼なしにその太鼓で、アメリカの国歌を奏するという条件でね。ああ、悲しい哉、北米合衆国の奔放な思想にくらべたら、われわれはまったく一寸法師も同然ですなあ! ロシヤは自然の戯れです、理性の戯れじゃありません。まあ、かりにわたしが自分の皮を初めて軍務に服したアクモーリンスキイ連隊へ、太鼓の張代《はりしろ》に寄付して、毎日隊の前でロシヤの国歌を奏してくれと申し出てごらんなさい、たちまちこれは自由思想だといって、皮は差し止めになってしまいますから……それで、まあ、大学生のほうだけにしておいたのです。わたしは自分の骨を大学へ遺すつもりでございます。ただし、その額へ永久に『悔悟せる自由思想家』という文字を入れた札を、立派に貼りつけるという条件つきでございます。まあ、こういうわけなんで!」
 大尉は熱くなってしゃべり立てた。もちろん、今はすっかり、アメリカ人の遺言の美しさを信じきっていたが、しかし、彼はなんといっても、ずるい根性の男だから、もう長いあいだ道化役に廻って、仕えているニコライを笑わそうという了簡も大いにあったのである。しかし、こちらはにこりともしなかった。それどころか、妙にうさん臭そうな調子でたずねた。
「してみると、きみは生きてるうちに遺言を発表して、褒美にありつこうと思ってるんだね?」
「まあ、そうしといてもよろしゅうございます、ニコライさま、そうとしてもかまいませんなあ?」とレビャードキンは大事を取りながら、顔色をうかがった。「実際、わたしの運命はどうでしょう! 今では詩を書くことさえやめてしまいました。むかしは、あなたもわたしの詩を興がって聞いてくだすったものですがねえ。ニコライさま、おおぼえですか、ほら、酒の席などでね? しかし、わたしの筆にも終わりが来ました。ところで、たった一つ詩を作りました。ちょうどゴーゴリが『最後の物語』を書いたようにね。おぼえておいでですか、ゴーゴリはロシヤの国に向かって、この物語は自分の胸から『絞り出された』ものだ、とこう宣言したじゃありませんか。わたしもそれと同じで、こんど書いたのが絶筆でございます」
「どんな詩だね?」
「『もしも彼女が足を折りなば』というので!」
「なあんだって?」
 大尉はただこれのみ待ち受けていたのである。彼は自分の詩を無限に尊重して、高い評価をいだいていたが、それと同時に、一種狡猾な心の分裂作用のために、以前ニコライがよく彼の詩に興がって、時とすると腹をかかえて笑うのを、ないないよろこんでいたのである。かような次第で、同時に二つの目的、――自分の詩的満足とご機嫌とりが達せられるわけだった。けれども、今日は第三の目的も潜んでいた。これは一種特別な、しかもきわめて尻こそばゆい目的だった。ほかでもない、大尉は自分の詩を舞台へ持ち出して、自分が何よりも剣呑に感じ、かつ何よりも失策を自覚している一つの点に関して、自己弁護を企てたのである。
「『もしも彼女が足を折りなば』、つまり、馬から落ちた場合なので。いや、夢ですよ、ニコライさま、うわごとですよ。しかし、詩人のうわごとです。実はあるとき通りすがりに、一人の騎馬の美人に出会って、その美に打たれた。そして、この実際的な疑問を起こしました。『いったいその時はどうだろう?』つまり、その今のような場合ですな。なあに、わかり切ったことです。崇拝者どもはみんな尻ごみして、花婿の候補者もどこかへ行ってしまう。急に朝寒《あさざむ》がきて、水っ涕を啜らぬばかり、その時ただ一人の詩人のみが圧しひしがれた心臓を胸にいだきながら、変わらぬ愛を捧げていると、こういうわけなんです。ねえ、ニコライさま、たとえ虱のような虫けらでも、恋することはできますよ。けっして法律で禁《と》められてはおりません。ところが、それ、令嬢はわたしの手紙や詩を読んで、腹を立てられたのでございます。あなたまで憤慨なすったということですが、いったい本当なのでしょうか? 実に悲しむべきことです。わたしはほとんど信じかねたくらいでございますよ! ねえ、ただほんの想像ばかりで、人に迷惑のかけようがないじゃありませんか? おまけに、正直なところ、これにはリプーチンが関係してるのでございます。『送るがいい、送るがいい、人間という者は、だれでも通信の権利を持ってるんだ』などというものですから、それでわたしも出してみたようなわけで」
「きみは、確か自分で自分をあのひとの花婿に推薦したはずだね?」
「敵です、敵です、敵の企みです!」
「その詩をいってみたまえ!」とニコライは厳しい調子でさえぎった。
「うわごとです、もうまるっきりうわごとです」
 けれども、やはり彼は身をそらして、片手を差し伸ばしながら吟じ始めた。

[#ここから2字下げ]
美しき人の中にも美しき
君は図らず足折りて
前にも倍して魅力を増しぬ
前にも倍して想いを増しぬ
すでに烈しく恋える男は
[#ここで字下げ終わり]

「もうたくさんだ!」とニコライは手を振った。
「わたしは、ピーテル([#割り注]ペテルブルグの俗称[#割り注終わり])を空想しておるのです」とレビャードキンは、まるで詩なんか読んだことは、夢にもないような口調で、大急ぎで話頭を転じた。「わたしは更生を夢みておるのです……恩人! ニコライさま、あなたはわたしに路銀を恵むのをいやだとはおっしゃらんでしょうね。あなたに望みをつないでかまわんでしょうなあ? わたしはこの一週間、まるで太陽かなんぞのように、あなたを待ち焦れておったのです」
「いや、駄目だよ。もうまっぴらごめんこうむる。ぼくは金なんかほとんど失くなってしまった。それに、どうしてそうそうきみに金をあげなくちゃならないのだ?」
 ニコライは急に腹を立てたらしい。彼は言葉みじかにそっけない調子で、大尉の不行跡、――乱酔、放言、マリヤに宛てられた金の浪費、それから妹を僧院から奪い出したこと、秘密を発表するという脅し文句を並べた手紙を送ったこと、ダーリヤに不正な行動をあえてしたことなどを、一つ一つ数え立てた。大尉は体を揺すぶったり、手真似をしたりして、言いわけを試みようとしたが、ニコライはそのたびに高圧的な態度で押し止めるのであった。
「まあ、聞きたまえ」と彼は最後にいった。「きみはしじゅう『一家の恥辱』てなことを書いているが、きみの妹がスタヴローギンと正当の結婚をしているということに、いったいどんな恥辱があるんだい?」
「しかし、秘密の結婚ですからなあ、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、秘密の結婚、永久に秘密の結婚ですからなあ。わたしはあなたから金をいただいておりますが、もし人から出しぬけに『それはどうした金だ?』ときかれたら、なんと返答します。わたしは束縛を受けておりますから、それに返答ができないじゃありませんか。それが妹のためにも、また一家の名誉のためにも、非常な損害を来たしますので」
 大尉は声を高めた。これは彼の十八番で、彼はこれにかたく望みをつないでいた。しかし、悲しい哉! 彼はそのとき、どんな恐ろしい報知が待ち設けているか、夢にも予想できなかったのである。ニコライは、きわめて些細な日常茶飯事でも語るように、近いうちに、ことによったら明日か明後日あたり、自分の結婚を一般に公表しようと思っている、『警察へも社会全体へも知らせるつもりだ』、したがって、一家の恥辱という問題も、また同時に補助金という問題も、自然消滅すべきだと告げた。大尉は目を剥くのみで、相手のいうことが合点できなかった。で、ニコライはもう一度、よくわかるように説明を余儀なくされた。
「でも、あれは……気ちがいじゃありませんか?」
「それはまた相当の方法を講じるさ」
「けれど……お母様はなんとおっしゃいますかしらん?」
「なあに、そりゃどうとも勝手にするだろうよ」
「しかし、奥さんをお宅へお入れになるのでしょう?」
「或いはそうするかもしれん。しかし、それはまったくきみの知ったことじゃないのだ。きみにはまるっきり関係のないことだよ」
「どうして関係のないことですか?」と大尉は叫んだ。「わたしがどういうわけで……?」。
「ふん、あたりまえじゃないか。きみなんかぼくの家へ入れやしないよ」
「でも、わたしは親戚じゃありませんか」
「そんな親戚はだれだってまっぴらだよ。ね、そうなってしまえば、きみに金をあげる必要がどこにあるだろう、考えてもみたまえ」
「ニコライさま、ニコライさま、そんなことがあってよいものですか。まあ、よく考えてごらんなさいまし。まさかあなただって、その……われとわが身を亡ぼすようなことをなさりたくはありますまい……第一、世間がなんと思うでしょう、なんというでしょう?」
「きみの世間ならさぞ恐ろしいだろうよ。ぼくはあのとき酒もりの後で、ふいと気が向いたものだから、酒の飲みくらをして、それに負けてきみの妹と結婚したんだ。だから、今度はこのことを公然と披露するのだ……それが今のぼくにとって慰みにでもなるかと思ってね」
 こういった彼の調子はことにいらいらしていたので、レビャードキンはぞっとしながら、その言葉を信じ始めた。
「しかし、それにしてもわたしは、わたしはいったいどうなるんです。この場合、わたしのことが一ばん肝腎じゃありませんか!………大方それはご冗談でしょう、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ?」
「いや、冗談じゃない」
「じゃ、どうともご勝手に。しかし、わたしはおっしゃることを本当にしませんよ……わたしは訴訟でも起こしますから」
「大尉、きみはずいぶん馬鹿だねえ」
「かまいませんよ。わたしとして、それよりほかにしようがないんです!」と大尉はすっかり脱線してしまった。「以前はなんといっても、あれがいろんな手伝いなどしていたので、隅っこのほうに寝る所だけでも当てがってもらえましたが、今あなたに捨てられたら、いったいどうなるとお思いです?」
「だって、きみはペテルブルグへ出かけて、なんとか自分の進む道を変えるといってるじゃないか。ああ、そうだ、ついでにきいておくが、きみがペテルブルグへ行くのは、密訴のためだとか聞いたが、それはいったい本当なのかね? つまり、ほかのものを売った褒美に、おゆるしをいただこうというつもりかね」
 大尉は口をぱっくり開けて、目を剥き出したまま、とみに答えも出なかった。
「ねえ、大尉」急に恐ろしく真面目な調子になって、テーブルの上へかがみながら、スタヴローギンはこういった。
 これまで彼は妙にどっちつかずな調子で話していたので、道化の役廻りではかなり経験を積んだレビャードキンも、今の今まで、はたして主人公が怒っているのか、それともちょっと冗談をいっているのか、本当に結婚発表などという奇怪な考えをいだいているのか、或いはただ自分をからかっているのか、その辺がちょっと怪しく感じられた。しかし、今という今は、スタヴローギンのなみなみならぬいかつい顔つきが、相手を説き伏せねばやまぬ強い力を持っていたので、大尉は背筋に冷水を浴びせられたような気がした。
「ねえ、大尉、よく聞いてまっすぐに返事をしたまえ。きみはもう何か密告したのか、それとも、まだなのか? 本当に何もかもやっつけてしまったのかい? まっすぐに返事したまえ。何かくだらんことで、妙な手紙を出しゃしなかったかい?」
「いいえ、まだ何もいたしま……そんなことは考えもしませんでした」と大尉は身じろぎもせずに相手を見つめた。
「ふん、考えもしなかったなんて、そりゃ、きみ、嘘だよ。きみがペテルブルグへ行きたがるのも、つまり、それがためなんだ。もし手紙を出さなかったとすれば、この町のだれかに口をすべらしはしなかったかね? まっすぐに返事したまえ、ぼくもちょっと聞き込んだことがあるんだから」
「酔った勢いでリプーチンにその……リプーチンの裏切り者め、おれは自分の心臓を明けて見せてやったのに……」と哀れな大尉はつぶやいた。
「心臓は心臓としておいてさ、そんな馬鹿な真似をする必要はないじゃないか。きみは何か思案があったら、ちゃんとはらの中にしまっとくがいいじゃないか。いま時の利口な人は、そんなにぺらぺらしゃべらないで、じっと黙ってるよ」
「ニコライさま」と大尉はぶるぶる慄え出した。「だといって、あなたご自身、何一つかかり合っていらっしゃらないじゃありませんか。わたしは何もあなたのことを……」
「まさかきみだって、自分の米櫃を訴える勇気はなかったろうよ」
「ニコライさま、まあ、お察しを願います、お察しを……」
 大尉は自暴自棄になって、涙ながらに、この四年間の身の上を早口に語り始めた。それは柄にもない仕事に引き摺り込まれながら、しかも、淫酒放埒に気をとられて、つい今の今まで、その仕事の重大な意義を悟りえなかった馬鹿者の、思い切って間の抜けた物語だった。彼の話によると、まだペテルブルグにいた頃から、『最初はただほんの友だちに対するお付き合いとして、大学生ではないけれど、思想は忠実な大学生という心持ちで、夢中になってその運動に没頭』した。そして、何がなんだかわけはわからず、ただ『なんの罪もなく』いろんな紙きれを、よその階段へ撒き散らしたり、一時に何十枚と固めて、戸口のベルの傍へ置いて来たり、新聞の代わりに捩じ込んだり、芝居へ持って行ったり、帽子の中へ突っ込んだり、かくしの中へ落としたりした。その後、こういう仲間から金さえもらうようになった。『だといって、わたしの収入がどんなものか、大抵ご承知でしょうからなあ!』こうして二県にわたって各郡各郡へ、『ありとあらゆる紙くず』を撒いたのである。
「おお、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ」と彼は叫んだ。「何より一ばん気がさしたのは、それがぜんぜん民法に、というより、むしろ国法に背いている点でした? 何が刷ってあるかと思うと、まるで薮から棒に、股木([#割り注]乾草の取り入れに用う[#割り注終わり])を持って出て来いだの、朝すかんぴんで家を出ても、晩には金持ちで帰れることを記憶せよだのと、――じつに驚くじゃありませんか! わたしはもう身慄いがつくようでしたが、それでもやっぱり撒き散らしておりました。かと思うと、また出しぬけに、これというわけもないのに、ロシヤ全国の人に向かって、五行か六行印刷したものですよ。『速かに教会を鎖し、神を撲滅せよ。結婚制度を破壊し、相続権を撲滅し、すべからく刃をもって立つべし』と、こんなことばかり並べたものです。そのあとはどうだったか、てんで覚えてもおりませんよ。ところが、この五行ばかりの紙っ切れのために、すんでのことにやっつけられるところでした。ある連隊で、将校連にさんざんぶちのめされましたが、まあ、ありがたいことにゆるしてくれました。また去年カラヴァーエフに、フランスでこしらえた贋の五十ルーブリ札《さつ》を渡した時なぞは、あやうくふん捕まらないばかりでした。まあ、いいあんばいに、ちょうどその時分カラヴァーエフが酔っぱらって、池で溺れ死んだので、わたしの仕業を見抜く暇がなかったのですよ。ここではヴィルギンスキイのところで、婦人共有の自由を宣言しました。六月にはまた**郡でビラ撒きをしました。なんでもまたやらされるそうでございます……ピョートル・スチェパーノヴィチが出しぬけにわたしをつかまえて、お前はなんでもいうことを聞かなくちゃならんぞと、いい聞かしてくださいましたのでね。もう前から脅かしていらっしゃいますよ。ねえ、あの日曜日のいじめようといったら、本当にどうでしょう! ニコライさま、わたしは奴隷です、虫けらです。が、ただし神ではありません。そこが詩人ジェルジャーヴィンと違うところです。しかし、わたしの収入といったら、実際ごぞんじのとおりでございますからなあ!」
 ニコライはしじゅう好奇の色を浮かべながら聞いていた。
「ぼくのまるで知らないことがあった」と彼はいった。「もっとも、きみならどんなことだってしかねないよ……ねえ、きみ」彼はちょっと考えて、こういい出した。「もしなんなら、あの連中に、――どの連中かわかるだろう、――あの連中にそういったらいいだろう。つまり、リプーチンは出たらめをいったのだ。実はスタヴローギンにもうしろ暗いことがあるかと思ったので、密告といって脅かして、もっと金を絞ろうと考えただけなんだ、とこんなふうにね……わかったかい!」
「ニコライさま、若旦那、いったいわたしの身にはそんな危険が迫ってるのでしょうか? わたしはそれをおたずねしようと思って、一生懸命、ご光来を待っておりましたので」
 ニコライはにたりと笑った。
「ペテルブルグなぞへは、たとえぼくが路用をあげたにしろ、けっして行かしてくれやしないよ……あ、もうマリヤのところへ行かねばならん時刻だ」
 彼は椅子を立った。
「ニコライさま、マリヤのことはどうなりますので?」
「今まで幾度もいったとおりさ」
「いったいあれは本当でございますか?」
「きみはまだ本当にしないのかい?」
「じゃ、あなたははき古した靴のように、わたしをほうり出しておしまいになるのですか?」
「さあ、どうするか」とニコライは笑った。「さあ、放したまえ」
「一ついかがでございましょう。わたしがしばらく入口に立っておりましょう……ひょっと立ち聴きするものがないとも限りませんからね……なにぶんちっぽけな部屋でございますから」
「それは思いつきだ。一つ入口に立ってくれたまえ。その傘をさすといい」
「あなたのお傘……わたしにそれだけの値打ちがありましょうか?」と大尉は甘ったるい口調でいった。
「だれだって傘ぐらいの値打ちはあるさ」
「一句でもって人間の権利のミニマムを喝破なさいましたな……」
 しかし、彼は機械的に口を動かしているにすぎなかった。彼は今夜の報告にすっかり圧し潰されたようになって、まるでとほうにくれてしまったのである。けれど、入口へ出て傘を広げるやいなや、彼の変わりやすい狡猾な頭には、再びいつもの気休めがそろそろ動き出した。あの男ずるいことをしておれをだましてるのだ、もしそうだとすれば、おれは何も恐れることはない、かえって向こうがこっちを恐れているのだ。
『もし狡いことをして、おれをだましてるとすれば、その魂胆はどういうところにあるのだろう?』という疑問が、彼の頭を掻きむしるのであった。結婚の発表などは馬鹿げた話に思われた。『もっとも、あんなとっぴな変人だから、何を仕出かすかわかりゃしない。人を苦しめるために生きてるんだからな。いや、しかし、あの日曜日の恥さらしな一件から、先生自身びくびくしてるとすれば、――しかも、これまでに覚えがないほどびくびくしてるとすればどうだろう? そうだ、だから、わざわざこんなところまで駆けつけてさ、自分でご披露に及ぶなんて、人をごまかそうとしている。つまり、おれがしゃべりゃしないかと思って、おっかないのさ。おい、しっかりしなくちゃいかんぜ、レビャードキン! 自分で披露する気でいるくせに、なんのためにわざわざよる夜中、こそこそと隠れて来るんだろう。もし恐れておるとすれば、それはほかじゃない今だ、この今という時なのだ。この三、四日の間が恐ろしいのだ。おい、しくじっちゃいけないぜ、レビャードキン!』
『ふん、ピョートルをだし[#「だし」に傍点]に使って脅かしやがる。おお、油断がならんぞ。おお、油断がならんぞ。いや、まったくどうも油断がならんぞ。ついふらふらと、リプーチンの奴にしゃべってしまったもんだからな。本当にあの連中、いったい何を企らんでやがるんだろう。今まで一度だってわかったことがない。また五年前のようにこそこそ始めやがった。いったいおれがだれに密告したというんだ? 「うかうかとだれかに手紙を出しはしなかったか?」だってよ。ふむ! してみると、ついうかうかといったような体裁で、手紙を出してもかまわんと見える。ことによったら、入れ知恵をつけてるのかもしれんぞ? 「きみがペテルブルグへ行こうというのも、つまりそのためなんだろう」ときた。こん畜生、おれはひょいとそんな夢を見ただけなんだが、あいつはもうその夢を解いてくれた! まるで、自分から行け行けとけしかけてるようだ。こいつは確かに二つに一つだ。あんまり悪くふざけたので、少々こわくなったか、それとも自分では少しも恐れないで、ただおれにみんなを密告しろとそそのかしてるか、どっちか一つなんだ! おお、油断がならんぞ、レビャードキン、どうかどじを踏まんようにしてくれ!』
 彼は夢中になって考え込んだので、立ち聴きすることも忘れてしまった。もっとも、立ち聴きするのはむずかしいことだった。境は分の厚い一枚扉になっているうえ、話し声も非常に低くって、ただ不明瞭な音《おん》が洩れて来るにすぎなかった。大尉はぺっと唾を吐いて、またもの案じ顔に外へ出、口笛を吹きにかかった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 マリヤの部屋は大尉の占領しているほうにくらべると、二倍くらい大きかった。しかし、道具類は同様に荒削りの粗末なものだった。けれども、長いすの前にあるテーブルには、けばけばしい色をしたクロースを掛けて、その上には火をともしたランプが置いてあった。床には一面に立派な絨毯を敷きつめ、寝台は部屋の端から端まである長い緑いろのカーテンで仕切ってあった。そのほかテーブルの傍には、大きなふっくらした肘掛けいすが据えてあったが、マリヤはそれに腰を掛けなかった。片隅には、前《ぜん》の住まいと同じように聖像が安置され、その前には燈明《みあかし》がともっていた。テーブルの上には依然として、必要欠くべからざる品々が並べてあった――カルタ、小鏡、唱歌本、おまけに味つきパンまで揃っている。そのほか、べたべたと色をつけた絵入りの本が二冊あった。一つは通俗むきの旅行記の抜萃で、少年の読物に編纂されたものだし、もう一つは軽い教訓的な、主として古武士の物語を集めた、降誕祭《ヨルカ》や学校むきにできたものである。それからまだ、いろんな写真を貼ったアルバムもあった。なるほど大尉のいったように、マリヤは客の来訪を待っていたが、ニコライが入って行った時には、長いすの羽根枕にもたれながら、半ば横になって眠っていた。客は音のせぬように入って、戸を閉めると、そのまま動かないで、眠れる女を見廻し始めた。
 マリヤがお洒落をしてるといったのは、大尉がちょっと嘘をついたのである。彼女はあの日曜にヴァルヴァーラ夫人のところへ行った時と同じ、黒っぽい着物をつけ、髪もやっぱりちっぽけな髷に束《つか》ねて、うしろ頭にのっけているし、長いかさかさした頬も、やはりあの時と同様に剥き出しだった。ヴァルヴァーラ夫人から贈られた黒のショールは、丁寧にたたんで長いすの上に置いてあった。相変わらず彼女は毒々しく白粉を塗り、紅をつけていた。ニコライが入ってからまる一分もたたないうちに、マリヤは自分の体にそそがれた男の視線を感じたように、ふいに目をさまして、瞳を見開き、大急ぎで身をそらした。しかし、客の心にも、何か奇怪なあるものが起こったに相違ない。彼は依然として、一つところに、戸の傍に突っ立ったまま、身動きもせず、突き刺すような目つきで、言葉もなくしゅうねく女の顔を見つめるのだった。或いはこの目つきがあまりにも度を越えていかめしかったのかもしれず、或いはまたその中に嫌悪の色、――というより、むしろ女の驚きを楽しむような、意地悪い表情が浮かんだのかもしれないが(しかし、これはマリヤの寝起きの目に、そう映ったばかりかもしれぬ)、とにかく、何やら期待するような一分間が過ぎたとき、哀れな女の顔には、とつぜん極度の恐怖が現われた。そして、一脈の痙攣がその上を走