京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ポルズンコフ』(『ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々』P403―P417、1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

ポルズンコフ
フョードル・ドストエーフスキイ
米川正夫

                                                                                                            • -

【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)糧《かて》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)[#「保護者」に傍点]

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 わたしはこの男をじっと注視しはじめた。彼はその外貌にさえ何か特種なものがあって、こちらがどんなにぼんやりしていても、突然おもわず吸いつけられたようにこの男に目を据えて、いきなり止めどのない笑いを爆発させずにいられないだろう。わたしの場合もそうであった。断わっておくが、この小柄な紳士の目はじつによく動くのだ。それに、彼自身じぶんのほうへそそがれた視線の磁力に、いとも敏感に反応するので、自分が人から観察されているということを、ほとんど本能的に察してしまい、すぐさま観察者のほうへくるりと振り向いて、不安そうにその目つきを分析するのであった。年じゅう目をきょろきょろ動かし、体をあちこち向け変えるので、風見どりにそっくりそのままであった。不思議なことだ! 彼は社交界ぜんたいの道化役になって、精神的な意味における平手打ちにおとなしく首を差し伸べることによって(もっとも、一座の顔ぶれいかんによっては、肉体的なやつでさえ辞しかねないのだ)、その日の糧《かて》を儲けているにもかかわらず、なにか他人の嘲笑を恐れているかのように見える。自分から志願した道化は、みじめにさえ見えないものである。しかし、わたしはすぐに気がついたのだが、この奇妙な人間、この滑稽な男は、けっして職業的道化ではないのだ。その中にはまだいくらか高潔なところが残っていた。彼の絶えまなき不安、自分自身に対する不断の危惧は、もうそれだけで彼のために有利な証拠となる。わたしの感じたところでは、何かのお役に立とうとする彼の願望は、物質的な利益のためというよりも、むしろ善良な心から出るものらしい。彼は他人が自分のことをぶしつけにも面と向かって、大口あけて笑うのを、喜んでさし許しておくのであるが、しかしそれと同時に、――わたしは誓ってもいい、――彼の心は聴き手の連中が無作法残酷なのに、痛み悩んでいるに相違ない。彼らが話の内容でなく彼自身を、彼の全存在を、彼の心を、彼の頭脳を、彼の外貌を、彼の血肉いっさいを笑い飛ばすので、内心血の涙を流しているに相違ないのだ。彼はその瞬間、自分の立場の愚かさを十分に知りぬいていた、とこうわたしは確信する。しかし、その抗議もすぐさま胸の中で消えていくのだ。もっとも、そのたびに高潔無比な抗議が湧き出るのは、疑いをいれないところである。それらがすべて善良な心から生じるのであって、人から襟髪を取って突き出され、もうだれからも金を借りられなくなるという、物質的な不利益を恐れるがためでないのは、わたしの信じて疑わないところである。この紳士はもうさんざんひょっとこ面《づら》をして、自分のことで人を笑わせた後、そろそろ無心をしてもいい権利ができたと思う頃、いつも借金を申しこむ、つまりこの形式で袖乞いをするのである。しかし、ああ! それはどんな借金であったか? またどんな形でその借金がなされたか? こんな小面積に、つまりこの男のしなびて角ばった顔の中に、あれほどおびただしい種類の滑稽な表情と、奇怪な種々まちまちの感覚と、思い切って悲痛な印象が、よくもおさまるものだと思って、意想外な感に打たれるのであった。そこにはおよそ何がないというものはなかった、――羞恥の情も、見せかけの図々しさも、ふいに当人の顔をあからめさせるいまいましさも、憤怒も、失敗を恐れる臆病心も、ご厄介をかけて恐縮ですという謝罪の表情も、おのれの人間的品格の意識も、自分は無価値な人間だという深い自覚も、――何もかもが稲妻のように彼の顔をかすめるのだ。もうまる六年、彼はこうして浮き世を渡って来ながら、いざ肝腎な借金をしようという瞬間に、ちゃんとした恰好をつけるすべが、いまだにのみこめないのだ! いうまでもないことだが、徹底的に面の皮を厚くして、卑劣漢になりきることが、どうしてもできないのであった。彼の心はあまりにも敏感で、熱し易いのだ! いな、わたしは一歩すすんでこういおう。わたしの考えによると、彼はこの世でもっとも正直な、もっとも潔白な人間なのだが、ただ一つ小さな弱点を持っている。人から命令されるとすぐ、みずから進んで、慾得ずくを離れて、卑劣な真似をする、ただただ人のお気に入りさえすればいいのだ。要するに、彼はいわゆるやくざ者の完全なるものであった。何より滑稽なのは、すべての人々とほとんど同じような服装をしていて、まさり劣りがなく、小ざっぱりしていて、むしろ多少しゃれた所があり、どっしりした気品さえ示そうとしている点である。この外面的な平等と、比較にならぬ内面的な不平等と、自分自身をいたわろうとする不安の念と、同時に絶えず自分を卑下しようとする努力と、――これらいっさいのものは、驚くばかりの対照をなしているので、嘲笑と憐愍の種となるのであった。もしかりに、自分の聴き手たちは世界一の善人ぞろいで、ただ滑稽な話のために笑っているのであって、運命に呪われた自分という人間を冷笑しているのではないと、心の底から信じきっていたら(それは苦い経験にもかかわらず、しょっちゅうやることなのである)、その時は彼もその燕尾服をぬいで、それを裏返しか何かに着、人をも喜ばせ自分でも楽しむために、そのなりで。往来を歩いたに相違ない。ただ自分の保護者たちを笑わせて、みんなにご満足が行けばそれでいいのだ。けれど、平等などということは、彼としてはどんなにしたって、いつになったって及びもつかないことである。もう一つ特色をあげるなら、この変わりものは自尊心が強くて、もし危険さえ伴なわなかったら、突発的に寛大ぶりさえ示すのである。彼が時として自分に容赦せず、したがって冒険さえあえてしながら、ほとんど英雄的な態度で、あんまり業腹なことをした保護者[#「保護者」に傍点]のだれかをやっつける、その手際と来たら見もの聞きものである。が、それはほんの瞬間的なのだ……ひと口にいえば、彼は文字通りの受難者なのであるが、しかしこのうえもなく無益な、したがってもっとも滑稽な受難者なのである。
 客の間には共通の問題で争論が起こった。ふと見ると、かの変人はいすのうえに飛びあがり、独占的に発言権をえようとして、ありったけの声で叫んでいるではないか。
「聞いていらっしゃい」と主人がわたしにささやいた。「あの男はどうかすると、じつに面白い話をしますから……先生ちょっと興味があるでしょう?」
 わたしはうなずいて、人々の中へ分け入った。果たせるかな、きちんとしたなりをして、いすの上に飛びあがり、あらん限りの声で叫んでいる紳士の姿は、一座の注意を喚起したのである。この変わり者を知らない多くの人々は、けげんそうに目を見合わせているし、また中には大きな口を開けて、げらげら笑っているものもあった。
「わたしはフェドセイ・ニコラーイチを知っています! わたしはだれよりも一番よくフェドセイ・ニコラーイチを知っているはずです!」と変わり者はその高い席からどなっていた。「皆さん、ひとつ話さしてください。わたしはフェドセイ・ニコラーイチのことを、うまく話しますから! わたしはある事件を知っているのですが、―素敵ですよ!………」
「話したまえ、オシップ・ミハイロヴィチ、話したまえ」
「話せ※[#疑問符二つ、1-8-76]」
「黙って聞きたまえ………」
「聞くんだ、聞くんだ※[#疑問符二つ、1-8-76]」
「では、始めます。しかし、皆さん、この話は特別なもので……」
「よろしい、よろしい!」
「これはこっけいな事件でして」
「大いにけっこう、よろしい、素敵だ、――さあ、かかった!」
「それはこの不肖わたくしの私生活に関連した事件でありまして……」
「ちえっ、それがこっけいな事件だなんて、なんのためにわざわざそんな説明をするんだ!」
「むしろ悲劇的なものでさえあります!」
「ああ※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
「要するに、今わたくしの話をお聞きになった皆さんに、幸福を与えようとしているこの事件は、――おかげでわたくしがじつに興味ある[#「興味ある」に傍点]仲間に巻きこまれた事件なのであります……」
「洒落はぬきにして!」
「その事件というのは……」
「要するにその事件さ。もう前口上はいい加減でけりにしてもらいたいな。まあ、何かの値打のある事件だろうよ」白っぽい髪をして、口ひげを生やした一人の若紳士が、しゃがれた声でこういった。上衣のポケットへ片手をつっこんだところ、偶然ハンカチの代わりに、金入れを引っぱり出したのである。
「その事件はですね、皆さん、あなた方をもわたしと同じ立ち場に立たせて見たい、と思うような事件なので。それから最後に、その結果としてわたしが妻帯するようになった事件なのであります!」
「妻帯した!………妻!………ポルズンコフが妻帯したい[#「妻帯したい」はママ]といい出したよ※[#疑問符二つ、1-8-76]」
「正直なところ、ぼくは今すぐマダム・ポルズンコヴァを見たいな!」
「ひとつおうかがいしますが、かつてのマダム・ポルズンコヴァはなんという名前だったか知らん」と一人の青年が人を押し分けて、話し手のほうへ寄って来ながら、黄いろい声で叫んだ。
「では、第一章であります、皆さん。それはちょうど六年まえの春三月三十一日のことでありました。皆さん、どうかこめ日にちにご注意を、――なんの前日かと申しますと……」
四月一日のさ!」と縮れ毛の青年がどなった。
「いや、驚き入ったるご推察力です。夕方のことでありました。N郡で一番の町にはたそがれが迫って、まさに月が昇らんとし……まあ、そのほか万事かたのごとくです。そこで、たそがれもいよいよ濃くなりまさった時、わたしもそろっとわが家を抜け出ました、――亡くなった蟄居の祖母に別れを告げましてね。これはしつれい、皆さん、こんな流行語を使いまして。これはつい最近ニコライ・ニコラーイチのところで聞きましたので。しかし、わたしの祖母はまったく蟄居人[#「蟄居人」に傍点]なのです。目は見えない、耳は聞こえない、口はきけない、頭は馬鹿ときてる、――なんでもご注文どおりに揃っているのですからね!………白状しますが、わたしは武者慄いに慄えておりました。大事業に出かけるところなんですからね。心臓は、まるで荒けない[#「荒けない」はママ]手に首根っこをつかまえられた小猫のように、どきどきしていました」
「ムシュウ・ポルズンコフ、ちょっと」
「何ご用で?」
「もっと簡単に話してもらいたいね、どうかあまり力演しないで!」
「承知しました」とオシップ・ミハイロヴィチは、幾らかどぎまぎしてそういった。「わたしはフェドセイ・ニコラーイチの家へ入りました(天下晴れての持ち家なので)。フェドセイ・ニコラーイチはご承知のとおり、同僚などというのではなく、立派な上官でいらっしゃいます。わたしの来訪がとりつがれますと、さっそく書斎へ通されました。今も目の前に見るようでございます。とても暗い、ほとんど真っ暗といってもいいほどの部屋で、しかもろうそくを持って来ないのでございます。見ると、フェドセイ・ニコラーイチが入ってこられます。こうして、わたしどもは暗闇の中で差向かいになりました……」
「いったいきみ達のあいだに何が起こったんだね?」と一人の将校がきいた……
「あなたどうお考えです?」とポルズンコフは痙攣的に顔をぴくりとさせて、縮れ毛の青年にいきなり問いかけた。
「そこで、皆さん、ある奇妙なことがもちあがったのです。といって、そこにはかくべつ奇妙なことはないのでして、ただいわゆる生活上の一事件があっただけです。ざっくばらんにいいますと、わたしはポケットの中からひと束の書類を取り出し、あの人は、自分のポケットから紙束を取り出したので、ただしその紙が政府のもので……」
「紙幣ですな?」
「紙幣です。わたしどもは交換したのです」
「ぼく誓ってもいい、そこには何か賄賂くさいものがあるぞ」堂々たる身なりをして、頭を綺麗に刈りこんだ若紳士が、こう口を入れた。
「賄賂ですって!」とポルズンコフは引き取った。「ええっ!

[#ここから2字下げ]
よしや我、数多く見し
自由主義者にならんとも
[#ここで字下げ終わり]

 あなただって、万一県庁でお勤めになるようなことがあったら、少々ばかり手をお暖めにならんでしょうか……生みの祖国の炉辺でね……だって、ある作家もいってるでしょう。

[#2字下げ]祖国のものは、煙でさえも甘く懐かしい!([#割り注]グリボエードフ『知恵の悲しみ』のチャーツキイのせりふ[#割り注終わり])
 とね。皆さん母国ですよ。母なる祖国ですよ、われらの故国ですよ。われわれは雛鳥です、せっせとその乳を吸っているのです……」
 一座にどっと笑いが起こった。
「ただね、皆さん、ひとつ信用していただきたいのです、わたしは今まで一度も賄賂を取ったことがありません」会衆一同を不審の目で見まわしながら、ポルズンコフはそういった。
 ホメロス的な笑いがどっとばかり起こって、いつまでもポルズンコフの言葉を消すのであった。
「まったくそうなんで、皆さん……」
 が、そのとき彼は何か妙な表情で、一同を見まわしつづけながら、言葉をとめてしまった。あるいは、――だれぞ知らん、――あるいはこの瞬間、彼の頭に、われこそはこの潔白な一座の中でも、もっとも潔白な人間であるという考えが、浮かんだのかも知れない……ただ、その真面目な表情は、一同の浮き浮きした気分が消えるまで、彼の顔を去らなかった。
「そこで、」一座がようやく静まった時、ポルズンコフは始めた。「わたしはかつて賄賂を取ったことはありませんが、その時はやりました。賄賂を取ってポケットへ入れたのです……収賄官吏からね……つまり、わたしの手の中に、ある書類があったのです。もしそいつをある人の手に渡したら、フェドセイ・ニコラーイチも面白からん目にあうところだったので」
「じゃ、そうすると、その書類を買収したんだね?」
「買収したんです」
「たくさんよこしたかね?」
「まあ、現代人のあるものが自分の良心を、ありったけのヴァリエーションつきで売る、それくらいの額《たか》ですがね……ただし、良心に金を出すものがあれば、の話なんで。しかし、わたしは金をポケットへ入れた時、煮え湯を浴せられたような気がしましたよ。わたしはね、皆さん、どうしていつもそんなふうになるのか、まったくのところわからないんですが、――とにかく、生きた心地もなく、唇をもぐもぐさせるばかり、それに足はぶるぶる慄えるし。いや、申しわけない、ただもう申しわけないとばかり、ひたすら恐縮してしまって、フェドセイ・ニコラーイチにお詫び申しあげたいくらい……」
「ところで、どう、ゆるしてくれた?」
「いや、わたしはお詫びをいわなかったのです……わたしはただこういったばかりです、――あの時はそうだったんです、つまり、わたしが熱し易いたちだものですから、とね。見ると、あの人はまともにわたしの顔を見つめて、『オシップ・ミハイロヴィチ、きみは神様を恐れないんだね?………』という。いや、どうもいたし方がございませんよ。わたしはお体裁に、こんなふうに両手を拡げて、首を横にかしげました。『どうしてわたしが神様を恐れないのです、フェドセイ・ニコラーイチ?………』と、ただお体裁にそういっただけで……本当は穴があれば入りたかったくらいです。『ながいことわしの家庭の親友でありながら、いや、むしろ息子同然でありながら、だれだって夢にも思いそめないだろうじゃないか、オシップ・ミハイロヴィチ! 藪から棒に密告だなんて、今こういう時に密告をたくらむなんて!………こうなると、人間というものが信用できんじゃないか、オシップ・ミハイロヴィチ?』といった調子で、長々とお説教をしましたよ、皆さん!『まったく、こうなると人間というものが信用できんじゃないか、どうだいオシップ・ミハイロヴィチ?』なんとでもご勝手に! とわたしは考えました。その、なんですよ、のどがひりついて、声は慄えます。そこで、わたしは自分ながらいつものいやな癖が出そうなのを予感しましたよ。いきなり帽子をつかむと……『きみはどこへ行くんです、オシップ・ミハイロヴィチ? いったいきみは、ああいう大事な日を前に控えながら……今だにやっぱり恨みを忘れようとしないのかね、いったいわしはきみに対してどんな罪をつくったんだね?………』『フェドセイ・ニコラーイチ、フェドセイ・ニコラーイチ!』といったまま、わたしは糖蜜のように溶けてしまいましたよ、皆さん。それどころか! 例の紙幣を入れたポケットの封筒までが、『この恩知らずの悪党、大泥棒』と叫んでいるよう、――まるで五プード([#割り注]八一・九キログラム[#割り注終わり])も目方があるように重くってたまらないのです……(もし本当に五プードもあったら!………)『わかったよ』とフェドセイ・ニコラーイチがいいました。『きみが後悔しているのはわかったよ……きみ、知ってるだろう、明日は……』『エジプトのマリヤ様の日です……』『いや、泣きなさんな』とフェドセイ・ニコラーイチはいいます。『もうたくさんだ。悪いことをしたが、後悔した、それでいいじゃないか! あっちへ行こう! またきみを正道に引き戻すことができるかもしれん……もしかしたら、うちのおとなしい家神《ペナート》達が(忘れもしません、全く家神《ペナート》といったんですよ、畜生)、きみの腐……いや、腐ったとはいうまい、――迷いに落ちた魂を暖めてくれるかもしれない……』そういってね、皆さん、わたしの手を取って、家族たちのところへ、引っぱって行きました。わたしは背筋を寒けが走って、わなわな慄えていました! どの面さげて顔が合わされよう、と思いましてね……ところで、皆さん、ご承知おき願いたいのですが、ここで一つ尻くすぐったいことが起こったのです!」
「もしやポルズンコヴァ夫人じゃないかね?」
「マリヤ・フェドセエヴナなので。ただこのひとは、今あなたのご命名なすったような夫人になる運命を持っていなかったのです。その娘さんはそうした光栄にありつけなかったので。じつはですね、フェドセイ・ニコラーイチがわたしのことを、この家で息子同然に思われている、といわれたのは本当なので。それは半年ばかり前のことでして、ミハイロ・マクシームイチ・ドヴィガイロフという、退職の士官候補生がまだ生きている頃でした。ところで、この男が神様の思し召しでひょっこり死んでしまったのですが、遺言状の作製をずるずるに延期していたところ、死んだ後で縁起でもない、どこにもそいつが見つからない……」
「へえ※[#疑問符二つ、1-8-76]」
「いや、なんでもありません、どうもいたし方がありません、皆さん、おゆるしを、ちょいと口がすべったので、――悪い洒落を飛ばしましたが、洒落の悪いのはまだしも我慢ができますが、事情はそれよりもっと悪いのでございます。わたしは将来なんの目当てもない裸一貫で取り残されましたので。というのは、その退職の士官候補生は、わたしを家へ寄せつけてこそくれませんでしたが(豪勢な暮らしをしておりましたよ、手が長かったもんですからね!)、まさか間違いじゃないと思いますが、やっぱりわたしを自分の生みの子同然に思っておりましたので」
「ははあ※[#感嘆符三つ、ページ数-行数]」
「さよう、そういったわけなので! さて、それからわたしはフェドセイ・ニコラーイチのところで、みんなに馬鹿にされるようになりました。わたしはそれに気がついていながら、じっと辛抱しておりましたっけ。ところが、突然、不幸にも(あるいは仕合わせにも、といったほうがいいかもしれません!)まるで天から降ったように、馬匹徴発官がわたし達の町へ現われたのです。なにしろ騎兵のことですから機動は敏捷です。もうどっしりとフェドセイ・ニコラーイチのところへ尻を落ちつけてしまって、まるで臼砲でも据えつけたようなのです! わたしは下劣な癖で、わきのほうから遠巻きにやったものです。いわく、『フェドセイ・ニコラーイチ、これこれしかじかで、いったいなんのためにわたしに恥をお掻かせになるのです? わたしはある意味において息子も同然なのですから……父親としての……愛情は、いつになったら見せてくださるのです?』すると、先生、その答えにいろんなことをいいだすじゃありませんか! それこそ、二十章もあるような韻文の叙事詩([#割り注]娘のマリヤ・フェドセエヴナを嫁にやるといったような話[#割り注終わり])を、長々と演じ出すものですから、それを聞いていると、うっとりといい心持ちになって、舌なめずりをしながら両手を拡げるばかりですが、とりとめたところはこれんばかり[#「これんばかり」はママ]もない。つまり、なんのことやらとんとわからないのです。合点がいかないで、馬鹿みたいにぼんやり立っていると、相手はしきりに目つぶしを食らわせて、あっちへうねり、こっちへくねり、つるつると身をかわしてしまう。いや、天才ですな、まったく天才です。人ごとながらそら恐ろしくなるほどの天賦です! わたしは無我夢中でもがきまわりました。あっちへ泣きつき、こっちへ訴えだす! 小唄《ロマンス》の譜を持って行ったり、お菓子を届けたり、洒落を一生懸命で[#「一生懸命で」はママ]考えだしたり、溜息つくづく、心が痛む、恋に心が悩むと訴えたり、涙を流したり、人に隠れて思いのたけをうち明けたり! いやはや、人間て馬鹿なものでしてな! 自分が三十になることを坊さんに確かめもしないで……それどころか! ずるい手でいこうと考えついた次第です! ところが、駄目! わたしの細工はうまくいきませんでした。どっちを向いても冷笑です、くすくす笑いです。そこで、わたしはくそいまいましくなって、息もつまりそうなくらい、――わたしはするりと身をかわして、それからというもの足踏みもしなくなりました。考えに考え抜いたあげく、そうだ、密告だ! ということになったのです。いや、下劣な振舞いでした、親友を売ろうとしたのですからな。正直なところ、材料はたくさんありました、素晴らしい材料がありました、大した事件です! わたしがこいつを訴状といっしょに金に替えた時、銀貨で千百ルーブリになりましたからね!」
「ははあ、つまり、それは賄賂なんだね!」
「さよう、あなた、賄賂なんで、収賄官吏がわたしに年貢を収めたんで!(ね、これは罪じゃないでしょう、え、まったく罪じゃないでしょう!)さて、そこでこれから前の続きをやります。フェドセイ・ニコラーイチは、覚えていらっしゃいますか、わたしを茶の間へ引っぱって行きました。生きた心地もありません。家の人はわたしを迎えましたが、みんな何か怒ってでもいるようなのです。いや、怒っているのじゃなくって、逆上《のぼ》せてるんです、その逆上せようといったら、もうはや……フェドセイ・ニコラーイチはしょげている、すっかりしょげこんでいるのですが、しかもそれでいて、顔は上品なものものしい色に輝いて、目は堂々とした貫禄を示しています。何か、こう、父親らしい、肉親らしいところがあって……放蕩息子が帰って来た、――とまあ、いったところです! 茶のテーブルに坐らされましたが、どうでしょう、わたしはまるで自身の胸の中にサモワールでも入れられたように、ぶつぶつぶつぶつ沸き立っているのです。それに、足は氷のように冷たくなってね、わたしはおじけづいて、縮みあがってしまいました! マリヤ・フォーミニシナ、これはその家の奥さん、つまり七等官夫人ですが(今では六等官夫人になっています)、いきなりわたしにお前さん[#「お前さん」に傍点]言葉で話し出すじゃありませんか。『お前さんひどくやせたじゃないの』って。『さようです、マリヤ・フォーミニシナ、ちょっと病気しておりますので……』という声も慄えるのです! すると、奥さんはいきなり藪から棒にこういうのです。口を入れる折をちゃんと狙っていたわけなのです。なかなか意地の悪い女でしたからな。『どうなの。きっとお前さんの良心は、その胸と寸法が合わなかったらしいね、オシップ・ミハイロヴィチ、え! わたし達が親身の気持ちでもてなしてあげた、それがあんたの胸につかえたんだね! わたしの流した血の涙があんたにかかったんですよ!』まったくこういったのです、自分の良心をごまかしてのいいぐさなんです! いやはや、これぐらいのことは朝飯前で、とても気の強い女なんですよ! じっと坐って、みんなにお茶を注いでいましたが、わたしは心の中で、お前さんが市場へ行ったら、物売りの女どもをみんなどなり負かすだろうよ、と思っていました。わが七等官夫人はそういう女なのでした! そこへ運わるく、お嬢さんのマリヤ・フェドセエヴナが、あどけない様子で出て来ました。が、顔はちょっとあおざめて、どうやら泣いたらしく、目は赤くなっていました。わたしは馬鹿みたいに、その場でへたへたっとなってしまいました。後でわかったことですが、馬匹徴発官のために涙をこぼしたのです。先生、国へ帰て[#「帰て」はママ]行ったのです。はいさよならと、すまして行っちまったわけです。というのは、つまり(これはいま話のついでに出たのですが)、先生、帰る時が来たのです、期限が一杯になってね。もっとも、それはお上できめた期限というわけではないのですがね! つまり、その……後になって両親は気がついて、秘密をすっかり知ったのですが、なんともいたし方がない、そっと綻びを縫い合わしたわけです、――家の中のことですからね!………で、どうも仕方がありません、わたしは彼女をひと目みるなり、へたへたっとなってしまいました。すっかりふにゃふにゃになってしまって、帽子を横目に睨み、さっとひっつかんで、一刻も早く抜け出そうとしましたが、どっこい、帽子を取られてしまいました……わたしはもう正直なところ、ひとつ帽子なしでもと思いましたが、――駄目です、戸に鍵がかかっているのです。どっといっせいに笑い声が起こって、みんな目くばせしたり、合図をしたり、わたしはすっかり照れてしまった、何かとんでもないことをいってしまいました。愛が何とかとやっつけたのです。いとしい彼女はピアノに向かって、剣《つるぎ》にもたれた軽騎兵の歌をうたいましたが、いささかむっとしたような調子でした。その素晴らしさ!『さあ』とフェドセイ・ニコラーイチはいいました。『もう何もかも水に流した。来たまえ、来たまえ……わしの抱擁の中に!』わたしはいきなり、そのチョッキの中に顔を埋めました。『わたしの恩人、生みの父親!』というわけです。そして、熱い涙を流して泣いたこと! ああ、じつにその場の光景はなんともいえません! 主人公も泣く、奥さんも泣く、マーシェンカも泣く……そこには眉やまつ毛の白っぽい娘がいましたが、それまでが泣き出すという始末です……それどころか、あっちの隅からもこっちの隅からも、小さな子供たちが出て来て(神様はこの一家に繁栄をお授けになったので!)その連中までがおいおい泣き立てる……そのおびただしい涙、つまり感激ですな、歓喜ですな。放蕩息子をまた取り戻したというわけです。まるで兵隊が故郷へ帰ったようです! やがてご馳走が出る、カルタ遊びが始まる。『ああ、痛む!』『何が痛むんですの?』『心が』『だれのために?』彼女は顔を真っ赤にするじゃありませんか、かわいいひと! わたしは老人といっしょにポンス酒を飲みました――というわけで、すっかりまるめこんでしまったものだから、わたしは陶然としてしまいました……おばあさんのところへ帰った時には、目まいがしていたほどです。途中あるきながらも、のべつげたげた笑いをして、家へ帰ってからも、まる二時間というもの小部屋の中を歩きつづけたものです。おばあさんを叩き起こして、身の仕合わせを残らず話して聞かせたところ、『でも、あの悪党、お金をくれたかえ?』『くれたよ、くれたよ、おばあさん、くれたとも。どっと流れこんだから、門を開けて待っていなさい!』『まあ、それなら今すぐにも結婚しなさい、本当にちょうどいい時だから、結婚しなさい』とおばあさんはいいます。『つまり、わたしのお祈りが神さまに届いたんだよ!』ソフロンまで叩き起こしました。ソフロン、長靴をぬがせろ、というと、ソフロンはわたしの足から長靴を引きぬきました。『おい、ソフローシャ! 今こそお祝いをいってくれ、おれに接吻してくれ! 結婚するんだよ、おれは、結婚するんだよ。明日は思う存分飲んで、浮かれるがいい。お前のだんな様が結婚なさるんだからな!』心の中が浮き浮きして、笑いがこみあげて来る!………もう寝ようとしましたが、駄目なんです、またもやひとりでに起き出してしまって、坐って考え始めました。その時ふとある考えが頭に浮かびました。明日は四月の一日だ、楽しく遊び戯れる日だ、こいつはなんとしたものだろう? そこで、考えつきました! どうでしょう、皆さん、わたしはベッドから跳ね起きて、ろうそくに火をつけ、それなりの姿でテーブルに向かいました。つまり、すっかり調子に乗って、浮かれ出してしまったのです、――人間うかれ出したらどんなになるか、皆さんもご承知でしょう! 泥水の中へ頭からすっぽりはまりこんだのです! つまり、わたしはこんな癖なんですね。やつらはおれからこれこれのものを取るから、こっちはやつらにこれこれのものをくれてやろう、さあ、これも受け取るがいい! というわけです。やつらが俺《ひと》の頬っぺたを撲ると、こっちは嬉しまぎれに背中を突き出す。やつらが俺《ひと》を犬のようにパン切れでおびき寄せようとすると、こっちは心《しん》から底から嬉しがって、馬鹿みたいに両手を拡げて抱きついて、接吻までするんですからね! ほら、今だってそうですよ、皆さん! あなた方は笑い笑い耳打ちしていらっしゃるでしょう、ちゃんとわかっていますよ! わたしが自分の秘密をすっかり話してしまったら、後であなた方はわたしを笑いぐさにして、いじめなさるに相違ない。それたのに[#「それたのに」はママ]、わたしはしゃべって、しゃべって、しゃべりまくっています! え、いったいだれがわたしにいいつけたのでしょう! え、いったいだれがわたしをけしかけてるのでしょう! だれかがわたしのうしろに立って、しゃべれ、しゃべれ、話せ、話せ、とささやいてでもいるよう! ところが、わたしはまるであなた方が親身の兄弟か莫逆の友みたいに、胸襟を開いてしゃべりまくってるんですからね……ええ!」
 四方八方からだんだんと起こりはじめた笑い声は、ついにはげしい爆笑となって、事実なにか有頂天の状態になった話し手の声を消してしまった。彼はしばらくの間、目をきょろきょろさせて一座を見まわしながら、言葉をとめたが、やがて突然、まるでつむじ風にでも襲われたように片手を振って、しんから自分の立ち場をこっけいなものと思ったかのように、自分でもからからと笑い出した。そして、またもやしゃべり出すのであった。
「皆さん、わたしはその晩ほとんど眠りませんでした。夜っぴて紙に書きとおしたのです。じつは面白いことを考え出したんで! いやはや、皆さん! ちょっと思い出しただけで気がさすくらいです! それも夜、酒の酔いにまぎれて変な気になった、馬鹿を仕出かした、出たらめをやった、とでもいうのならまだしもですが、そうじゃないんで! 朝、白々に目をさまして、やっと一、二時間しか眠らなかったんですが、その代わり、顔を洗って、着替えをし、頭に鏝をあて、ポマードを塗りつけて、新しい燕尾服を着用におよび、さっそくフェドセイ・ニコラーイチのとこへ祭日のお祝いに出かけました。例の書面は帽子の中にちゃんと隠してあるのです。老人は両手を拡げてわたしを出迎え、また父親らしい温情で、チョッキに顔を突っこめといわぬばかり。わたしはちょいと威厳をつくって見せました。頭の中にはまだ昨夜のもやもやが低迷しているのです! 一歩あとへすさって、『いや、フェドセイ・ニコラーイチ、よろしかったら、ひとつこの書面を読んでみてください』といってそれを報告のさいに差し出しました。書面の中には何が書いてあったとお思いになります? ほかでもありません、これこれしかじかの理由によって、オシップ・ミハイロヴィチ某を罷免相成たくというので、その罷免願いの最後に官等まで書いてのけたのです! こういうことを考えついたんですからね、皆さん! これより気のきいたことは何一つ考え出せなかったわけで! つまり、今日は四月一日だから、ちょっとした冗談にかこつけて、おれの恨みは晴れてはいないぞ、一晩のうちに考えが変わったんだぞ、という振りがしたかったのです。考えが変わってむくれてるんだぞ、前よりもっと腹を立ててるんだから、お前さんとも、お前さんの娘とも縁切りだ、金は昨日ちゃんとポケットヘ納めてしまったから、もうこっちのものだ、そこでお前さんには辞表を叩きつけてやる。。フェドセイ・ニコラーイチみたいな上官の下では勤務したくない! ほかの役所へ変わって、そこで密告状を出してやるぞ。まあ、そういったような悪党づらをして、おどかしてやろうと考えついたのです! なんというおどかしの手を考え出したものでしょう! え? うまいでしょう、皆さん? つまり、昨夜からわたしはこの一家に甘えたくなってきたので、ひとつ家庭的な洒落を演じて、フェドセイ・ニコラーイチの親心をからかってやりましょう……とね。
 ところが、老人はわたしの書面を受け取って拡げたかと思うと、顔中がひくひくと慄えました。わたしはちゃんと見てとりました。『どうしたんだね、オシップ・ミハイロヴィチ?』わたしはまるで阿呆みたいに、『四月一日です! 祭日のお祝いを申しあげます。フェドセイ・ニコラーイチ!』つまり、まるでおばあさんの肘掛けいすのうしろにそっと隠れて、後でその耳もとヘ一杯の声で、『わっ!』といっておどかそうと考えついた、小さな悪戯小僧そっくりそのままなのです! そう……皆さんまったくお話するのも気恥ずかしいほどですよ! しかし、よしましょう! もう話さないことにします!」
「いや、いけない、それからどうした?」
「いや、いや、話したまえ! いや、もうこうなったら話してしまいたまえ」という声が八方から起こった。
「それから、皆さん、いろんな噂や評定、おおだの、ああだのいう溜息が起こりました! わたしは悪戯者です、剽軽者です、みんなをびっくりさせてしまいました。しかも、手ひどいことをやっつけたので、自分さえ恥ずかしくなったほどです。そうして立っていてもびくびくもので、こんな神聖な場所がこんな罪深い人間を、どうしてちゃんとのっけているか、と心の中で思いましたよ!『まあ、お前さん』と七等官夫人はわめき出しました。『あんまりびっくりさせたので、今でも足が慄えてるくらいですよ、立っているのもやっとの思い! わたしはもう気ちがいみたいになって、マーシャのところへ駆け出して、マーシェンカ、わたし達はいったいどうなるのだろう! お前のお婿さん[#「お前のお婿さん」に傍点]がどんなふうだか! といったもんです。わたしも悪かったよ、お前さん、どうかこのお婆さんを勘忍しておくれ、はしたない真似をして! さあ、わたしは考えましたよ、――あの人は家を出てから、夜おそく帰りついて、さて考え始めたところ、ひょっとしたらわたし達があの時、わざとお前さんにちやほやして、うまく罠にかけようとしたんじゃないか、とそんなふうに思われたかもしれない、――そう思うと、わたしは気が遠くなってしまいましたよ! マーシェンカ、わたしに目くばせするのはたくさんだよ、オシップ・ミハイロヴィッチはわたし達にとって他人じゃないのだから。それに、わたしはお前の母親なんだから、なんにも悪いことはいやしませんよ! ありがたいことに、この世に生きてきたのは十年や二十年ではなくて、満四十五になるんだからね!………』そこで、皆さん、どうです! わたしはあやうくその場でお婆さんの足もとに身を投げ出さないばかりでした! またぞろみんな涙ぐんで、接吻し出すという騒ぎ! 冗談話がはじまりました。フェドセイ・ニコラーイチまでが、四月一日に顔を立てて、洒落を考え出しましてね! いわく、火の鳥が飛んで来た、くちばしはダイヤモンドで、そのくちばしには手紙をくわえている! ご同様にみなをだまそうとしたわけです、――みんなで笑ったこと! その感激ぶりたるや大したものでしたが……ちえっ! 話すのもくそいまいましい! さて、皆さん、もうそろそろ話もおしまいになりました! 一日たち、二日たち、三日たちして、一週間すぎてしまいました。わたしはもうすっかり許婚《いいなずけ》です! いやはや! 指環はあつらえる、日取りは決める、ただ世間へは当分のあいだ発表しないことにしました、検察官が来ることになっていたものですから。わたしは検察官の来るのを、じりじりして待っていました。わたしの幸福がそのお蔭でストップしたのですからね。早く追っぱらって、肩の荷を下ろしたいものだ、という気持ちだったのです。フェドセイ・ニコラーイチは、そのどさくさまぎれと嬉しまぎれで、仕事という仕事をみんなわたしに押っつけてしまったものです。報告を書くことも、帳簿を調べることも、締めを出すことも、何もかもです。見ると、恐ろしいごっちゃごちゃで、何から何までうっちゃらかしになっていて、どこもかしこもびっこちゃっこ[#「びっこちゃっこ」はママ]です! さあ、ここでひとつ舅ごのために一骨折ろう! とわたしは思いました。老人はいつも病気がちなのです。何かの病気が取っついて、どうも日ましに悪いのです。ところで、なんの、わたしは夜も昼も寝ないで働き通し、まるでマッチのようにやせ細って、今にもぶっ倒れはしないかと心配なくらいでした! でも、仕事のほうは首尾よく片づけました! 期限までに、ちゃんと仕上げたのです! ところが、とつぜんわたしのところへ急使が飛んで来ました。『すぐフェドセイ・ニコラーイチのところへ出頭しろ』というので! 一目散に駆けつけて、何ご用? というわけです。見ると、わがフェドセイ・ニコラーイチは繃帯で頭を縛って、額を酢でしめしながら、顔をしかめて、おお、おお、と唸り唸り坐っているじゃありませんか!『かわいい息子、わしはもう死ぬ、あの子供たちのことをいったいだれに頼んだらいいのだろう!』とこうです。細君が子供をつれて、とぼとぼと歩いて来ました。マーシェンカがわっと泣き出すので、さあ、わたしまでがしくしくやり出しました!『いや』と老人はいいます。『神様はお慈悲ぶかいから、わしがいろいろ罪を重ねたからといって、お前たちに罰をおあてにはなるまい!』そこで、老人はみんなをさがらせて、そのうしろの戸を閉めさせ、わたし達は二人さし向かいになりました。『きみに頼みがあるのだが!』『どんなことで?』『これこれしかじかでな、きみ、臨終《いまわ》の床でも心の安まる暇がない。いよいよせっぱつまってな!』『どうしてそんな?』わたしはその時真っ赤になって、舌がいうことをきかなくなりました。『なに、ただそうなったんだよ、きみ、自腹を切って国庫へ返さにゃならなくなってな、わしは、きみ、一般の福祉のためには、なんにも惜しいとは思わんよ! 自分の命だって惜しみはせん! きみ、何か変に思わんでくれ! わしは腹黒いやつのために、きみの前で中傷されたのが辛いよ……きみが一時の迷いを起こしたもんだから、あれ以来わしは苦労のために頭を白くしてしまった。検察官は鼻の先まで来ているし、マトヴェエフが国庫に七千ルーブリという穴を明けたが、その責任はわしが負わにゃならん……ほかにだれがあると思う? わしが責めを負わされるのだ、どういう監督をしおったか! ちゅうわけでな。マトヴェエフから何が取れる? あの不仕合わせな人間を裸にしても、しようがないじゃないか!』ああ、なんという聖人だろう! とわたしは思いました。これこそ真心の人だ! ところが、老人は、『それに、娘の持参金に当ててあるものから取るわけにもいかんしなあ、あれは神聖な金だから! そりゃ自分の金もある、あるにはあるが、方々へ貸してあるので、とても今すぐ集めらりゃせん!』わたしはいきなりその場で、老人の前にどうと膝を突いて、『ああ、大恩人、わたしはあなたに失礼なことをいたしました。重々申しわけございません。腹黒いやつがあなたを中傷する書類をこしらえたのです。どうかわたしにとどめを刺さないで、ご自分の金をもとへお納めくださいまし!』老人はわたしを眺めましたが、その目からは涙が流れているのです。『多分そういってくれることと思っていたよ、わしの息子、さあ起きなさい。あの時は娘の涙のためにゆるしてやったが、今度は心の底からゆるすよ。きみはわしの痛手を癒してくれた! 永久に君を祝福する!』いやいや、皆さん、その祝福のしようといったらありません。わたしは韋駄天ばしりに家へ帰って、例の金を取って来ました。『さあ、おとうさん、そっくりございます。ただ五十ルーブリ費っただけで!』『いやあ、かまわんよ、だが、この頃はなんでもいちいちやかましいから、急いで報告を書きなさい、前の日付でな、ちょっと困ることがあったので、俸給を五十ルーブリ前借りしました、とな。わしは上官にそう申し立てておくよ、きみに前渡ししたって……』さあ、どうです、皆さん! なんとお思いになります! わたしはその報告も書いたんですよ!」
「ふん、それで、さあ、どうしました、――で、その結末はどうなったね?」
「わたしが報告を書くやいなや、こういう結末になったんですよ、皆さん。翌日、つまり次の日、朝はやく役所の封印をした手紙が届きました。見ると、いったいなにが出て来たでしょう! 免官の辞令じゃありませんか! 事務引継ぎをして会計で清算した後、どこへなと勝手に行け、というのです!」
「そりゃどうして?」
「いや、わたしこそそのとき金切り声を立てて、そりゃどうして、と喚きましたよ、皆さん! どうしたことだと思うと、耳の中がわんわん鳴り出しました! わたしは無邪気に考えていたのですが、それどころか、検察官はもう町へ乗りこんだのです。わたしは思わず胸が慄えました! さあ、こりゃ無邪気どころじゃないぞ! と考えて、取るものも取りあえず、フェドセイ・ニコラーイチのところへ駆けつけました。『どうしたことです?』というと、『どうしたんだ?』という返事です。『だって、ほら、免官の辞令が!』『免官の辞令だって?』『これです』『ふん、それがどうしたんだ、免官の辞令さ!』『でも、どうして、わたしはそんなことを望んだ覚えがありません!』『どうしてだね、きみは辞表を出したじゃないか、四月の一日に出したろう』(わたしはあの朝、願書を取り戻さなかったのです!)『フェドセイ・ニコラーイチ、それはあなたのおっしゃることですか、この目が見ているのはいったいあなたですか!』『わしだよ、それがどうしたね?』『ああ、情けない!』『残念だ、きみ、残念だ、きみがこんなに早く勤務をやめる気になったのは、じつに残念だよ! 若いものは勤めなけりゃならんのに、きみの頭の中には、軽はずみな考えがうろつくようになった。だが、勤務証明書のことは心配せんでもいい、わしが心がけてあげる。きみの勤め振りはいつも立派なものだったからな!』『でも、フェドセイ・ニコラーイチ、あのときわたしはほんの冗談にしたのです。わたしは免官を望んだのじゃありません。わたしがあの願書を出したのは、ただあなたの……父親としての……その……』『何がそのだ! 何がほんの冗談だ! いったいああいう書類を冗談あつかいにしていいものかね? そういう冗談をすると、きみはいつかシベリヤ流しになるぞ。では、しっけい、わしは暇がないから。検察官が来ておるのでな。勤務が何より第一だよ。きみはのらくらしておるが、われわれは仕事をせにゃならんのだ。ところで、きみの証明書はあちらでしかるべくこしらえるだろう。ああ、それからな、わしはマトヴェエフの家を買ったから、三、四日のうちに引っ越しするが、新居のほうではまさかきみとお目にかかる光栄は有さないだろうね。ご機嫌よう!』わたしは一目散に家へ走って帰りました。『おばあさん、わたしたちは破滅だあ!』かわいそうに、おばあさんはわっと泣き出しました。ふと見ると、フェドセイ・ニコラーイチの小僧が、手紙と鳥籠を持って走って来るじゃありませんか。鳥籠の中には椋鳥がいて、そいつはわたしが感きわまって、マーシェンカにおくった口をきく椋鳥でした。手紙には、『四月一日』と書いてあるばかり、ほかにはひとこともないのです。まずこういう次第ですが、皆さん、なんとお思いになります※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
「で、それから、どうしました※[#疑問符二つ、1-8-76]」
「それからどうした、ですって! わたしは一度フェドセイ・ニコラーイチに出会ったので、面とむかって卑怯者といってやろうとしました……」
「で!」
「ところが、皆さん、なんだかそれが口から出ませんでしたよ!」



底本:「ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々」河出書房新社
   1969(昭和44)年10月30日初版
入力:いとうおちゃ
校正:
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