京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP205-P216

「いったいだれに話したんだい? きみとぼくくらいなものじゃないか?」
「それからポルフィーリイにも」
ポルフィーリイにもしゃべったっていいじゃないか!」
「ときに、きみは、あの人たち――おふくろと妹を左右する力を、いくらか持ってるだろうね? 今日は先生との応対に気をつけさしてくれたまえ……」
「ひと騒ぎやるだろうよ!」ラズーミヒンは気乗りのしない調子で答えた。
「だが、なんだって先生、あのルージンにああ食ってかかるんだろう? 金はあるらしいし、あの娘もまんざらきらいではなさそうだし……だって、先生たちまるっきり無一物なんだろう? え?」
「きみはなんだってそう根ほり葉ほりきくんだい?」とラズーミヒンはいらだたしげに叫んだ。「無一物か無一物でないか、ぼくの知ったことじゃないよ! 勝手に自分できくがいい、そしたらわかるだろうよ……」
「ちぇっ、きみはどうかすると、手のつけられないばかになるぜ! きのうの酔いがまだ残ってるんだろう。じゃ、失敬、プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナに、よく一夜の宿の礼を述べといてくれたまえ。ドアにかぎをかけてしまって、ぼくがドアのすき間から『ボンジュール(おはよう)』とあいさつしても、返事もしないんだ。自分じゃ七時にちゃんと起きてたくせに。女中がサモワールを持って、台所から廊下を通って行くのを、ぼくちゃんと見たんだから……とにかく、ぼくは拝顔の栄をえなかったよ……」
 かっきり九時に、ラズーミヒンはバカレーエフの下宿をたずねた。ふたりの婦人はもうよほど前から、ヒステリイじみるほどじりじりしながら、彼の訪問を待っていた。ふたりとも七時か、それよりもっと前から起きていたのである。彼は夜をあざむく暗い顔をしてはいって行くと、無器用そうに会釈《えしゃく》をして、そのためにすぐ腹を立ててしまった――もちろん、自分自身にである。しかし、それは相手なしのひとり相撲《ずもう》だった。プリヘーリヤは、いきなり彼に飛びかかって、その両手を握りしめ、ほとんどそれに接吻《せっぷん》しないばかりだった。彼はおずおずと、アヴドーチヤのほうを見た。ところが、その気位の高い顔にも、この瞬間、感謝と友誼《ゆうぎ》の表情と、彼の思いも設けなかったいつわりならぬ尊敬が、(あざけるような視線や包みきれぬ軽蔑《けいべつ》の代りに)現われていたので、彼はまったく頭ごなしに罵倒されでもしたほうが気安いほど、かえってきまりの悪い思いをした。けれども幸い、話題がちゃんと用意してあったので、彼は急いでそれにすがりついた。
『病人はまだ目をさまさない』けれど、『経過はきわめていい』と聞いて、プリヘーリヤは、そのほうがかえって好都合だといった。『なぜって、前もってぜひともご相談しておかねばならぬことがありますから』それから、お茶はどうかという質問につづいて、いっしょに飲もうという招待があった。ふたりともラズーミヒンを待っていたので、まだ飲まずにいたのである。アヴドーチヤはベルを鳴らした。するとそれに応じて、きたならしいごろつきみたいな男が現われた。で、それに茶を命じると、そのうちにやっと茶道具が並べられたが、それはふたりの婦人が赤面するほどきたならしい、不体裁なものだった。ラズーミヒンは小っぴどく下宿を罵倒しかけたが、ふと、ルージンのことを思い出したので、口をつぐんでまごまごしてしまった。で、プリヘーリヤが、やみまなく質問の雨を浴びせ出したので、すっかりうれしくなってしまった。
 彼はひっきりなく腰を折られたり、問いかえされたりしながら、それらの質問に答えて、ものの四十五分間もしゃべりとおした。そして、最近一年間のラスコーリニコフの生活について、知っているかぎりの主たった必要な事実を逐一《ちくいち》話したうえ、こんどの病気の詳細な報告で話を結んだ。それでも、彼はまだいろいろな省略を要する点を省略した。ことに警察での一件や、それから生じたいっさいの結果は黙っていた。ふたりはその話をむさぼるように聞いた。そして、彼が話を終わって、聞き手を満足させたことと思ったときも、ふたりはまだ始まったばかりのように思っているのであった。
「ねえ、ねえ、一つ聞かせてくださいまし、あなたはなんとお考えになります……ああ、ごめんなさい、わたしはまだあなたのお名前を伺いませんでしたね」とプリヘーリヤはせきこんでいった。
「ドミートリイ・プロコーフィチです」
「それでですね、ドミートリイ・プロコーフィチ、わたしはたいへん、たいへん……知りたくてたまらないんですの。全体に……あの子はいまどんな考えかたでいるんでしょう? つまり、その、おわかりになりますかしら、なんと申しあげたらいいんでしょう。つまり平ったくいいますと、あの子は何が好きで、何がきらいなんでしょう? いつもあんなにいらいらしているのでしょうか? あの子はいったいどんな望みを持ってるんでしょう、つまり、いってみれば、何を空想しているんでしょう? 何が今あれの気持ちを動かすような、特別な力を持っているのでしょう? ひと口にいえば、わたしが知りたいのは……」
「まあ、お母さんたら、そんなに一時におっしゃったら、返事なんかできやしないじゃありませんか!」とドゥーニャが注意した。
「ああ、情けない、だってわたしはまったく、あの子があんなふうになっていようとは、夢にも思いがけなかったんですもの、ドミートリイ・プロコーフィチ」
「そりゃじっさい、ごもっともなことです」とドミートリイ・プロコーフィチは答えた。「ぼくには母がありませんでしてね、その代り伯父《おじ》が毎年出て来ますが、来るたびにぼくを見ちがえるんですよ。顔さえ見まちがえるくらいです。しかも、相当に賢い人間なんですがね。ましてあなたがたは三年も別れていらっしったんですから、ずいぶん変わってしまうわけです。いや、あなたがたにこんなことをいったってしようがありません! ぼくはロジオンと一年半ぐらい知り合っていますが、気むずかしくて、陰気で、傲慢《ごうまん》で、気位の高い男です。ことに近ごろでは(あるいは、よほど前からかもしれませんが)疑い深くなって、おまけにヒポコンデリイですよ。が同時に、おうようで善良です、ただ感情を外へ出すことがきらいで、真情を表面に見せるよりも、むしろ残忍なことをするといったふうです。でも、どうかすると、ヒポコンデリイらしいところがまるでなくなって、ただもう、冷淡で、人情味がないかと思われるほど、無感覚になることもあります。じっさいあの男の内部には、まるで違った二つの性格がちゃんぽんに入り交ってるようですよ。どうかすると、ひどく無口になることもあります! いつも忙しくて暇がない、いつもみんながじゃまをする、というような様子をしながら、しかも自分はごろごろ寝ていて、なんにもしないんですからね。皮肉屋のほうじゃありませんが、なにも機知が足りないからじゃなく、そんなくだらないことをしている暇がない、といったふうなんです。人の話をしまいまで聞くということがない。現在みんながおもしろがっていることに、けっして興味を持ったことがありません。自分を恐ろしく高く評価していますが、そうする権利も多少ないことはなさそうですよ。さあ、まだ何かあるかな……とにかくぼくの見るところでは、あなたがたがいらしたことは、あの男にとって、この上もない、いい影響を及ぼすにちがいありません」
「ああ、ほんとうにそうありたいものです!」ラズーミヒンの試みた最愛のロージャの人物評に、堪えがたい悩ましさをいだきつづけたプリヘーリヤは、思わずこう叫んだ。
 ラズーミヒンはとうとう思いきって、アヴドーチヤにやや大胆な視線を向けた。彼は話の間にも何度となく、彼女の顔をちらちらと見やったが、それはほんのちょっとの間で、すぐ目をそらしてしまうのであった。アヴドーチヤはテーブルに向かって、じっと注意ぶかく聞いているかと思うと、ふいに立ちあがって、いつもの癖で手を組み合わせ、くちびるをきっと結んで、部屋の中をすみからすみへと歩きまわる。そして、ときおり歩みをやめずに質問を発して、考えこんでしまうのであった。彼女も人の話をしまいまで聞かぬ癖があった。彼女は軽い生地《きじ》で作った黒っぽい服を着て、首には透き通るような白いショールをかけていた。ラズーミヒンはいろんな点から、ふたりの女の身のまわりがいかにも貧しいのを見てとった。もしアヴドーチヤが女王にまごう装いをしていたら、かえって彼は彼女を恐れなかったろう。ところがいま彼女はこんなにみすぼらしいなりをしていて、しかも彼がその貧しい様子に気づいたためでもあろうか、彼の心には恐怖の念が食い込んで、一言一句をも慎しむようになった。これはもちろん彼のような、それでなくても自分に信用のおけない人間にとっては、かなり窮くつなことだった。
「あなたは兄の性質について、いろいろおもしろいことをお話しくださいました……しかも公平無私にね。それはけっこうなことですわ。わたしね、あなたは兄を崇拝しきっていらっしゃるのかと、そう思ってましたの」とアヴドーチヤは微笑を含んでいった。「でも、なんですか、兄には、女の人がついているに相違ないということも、ほんとうじゃないかと思われますのよ」と彼女はもの思わしげにいいたした。
「そんなことはぼくいいませんでしたが、しかし、あるいはおっしゃるとおりかもしれません、ただ……」
「なんですの?」
「だって、ロージャはだれも愛しちゃいないんですよ。また今後もけっして愛するなんてことはないでしょう」とラズーミヒンはきっぱりいいきった。
「つまり、兄には愛する素質がないんですの?」
「ねえ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、あなたもじつに兄さんそっくりですね。何から何まで!」彼はふいに、自分自身でも思いがけなく、ついずばりといってしまった。けれどもすぐに、たったいま彼女に話した兄の批評を思い出すと、彼はえびのようにまっ赤になり、恐ろしくてれてしまった。
 アヴドーチヤはそれを見ると、声をたてて笑いださずにはいられなかった。
「ロージャのことについては、ふたりとも考えちがいしておいでかもしれないよ」とプリヘーリヤは、ややむっとしたらしく口をはさんだ。「わたしは今のことをいうのじゃないよ、ドゥーネチカ。ピョートル・ペトローヴィチがこの手紙に書いておよこしになったこと……わたしたちがふたりで推量したようなことは、もしかすると、ほんとうじゃないかもしれないけれど、ねえ、ドミートリイ・プロコーフィチ、あなたはあの子がどんなとっぴな、さあ、なんといったらいいでしょう、つまり気まぐれな人間だか、とても想像がおつきになりますまい。まだやっと十五くらいの時でさえ、わたしあの子の気性には、ちっとも安心できませんでしたよ。あの子は今でも、ほかの人では考えることもできないようなことを、ふいにしでかすかもしれないと、わたし思いこんでおります……そう、古いことはいわなくても、一年半ばかりまえ、ほら、あなたご承知かどうか知りませんけれど、ザルニーツィナ――下宿のお主婦《かみ》さんの娘と結婚するなんかいいだしましてね、どんなにわたしを困らせて、心配させたことでしょう。あれにはほとほと、てこずってしまいましたよ」
「あなた、あのことで、何かくわしく知っていらっしゃいます?」とアヴドーチヤはたずねた。
「あなたなどはそうお思いになるでしょう」プリヘーリヤは熱くなって言葉をつづけた。「あの時わたしの涙が、わたしの嘆願が、わたしの病気が、わたしのもだえ死にが、家の貧乏が、あの子を思い止まらせたろうと、そうお思いでしょう?ところ[#「しょう?ところ」はママ]がどうして、あの子はどんな障害でも、平気で踏み越えて行ったに相違ありません。それであなた、それであの子がわたしたちを愛していないと、お思いになりまして?」
「ロージャは一度もその話をぼくにしませんでしたが」とラズーミヒンは用心ぶかく答えた。「けれど、ぼくは当のザルニーツィナから、少々ばかり聞いております。もっとも、この女だってあまり口数の多いほうじゃないんですがね。しかし、聞いたことは、なんだか少し変な話でしたよ」
「何を、何をお聞きになりました?」とふたりの女は一時にたずねた。
「もっとも、かくべつ変わったことは何もありませんがね。ただぼくの聞いたところでは、この結婚はもうすっかり話がととのっていたのに、花嫁が死んだばかりに成立しなかったのですが、母親のザルニーツィナさえあまり気に染まなかったということです。……そのほか、人の話では、花嫁もいいきりょうではなかった、つまり、むしろ不きりょうなくらいで……それに病身で……変な娘だったそうですよ……もっとも、どこかにいいとこがあったらしいんです。いや、きっと何かいいとこがあったに相違ないです。でなけりや、わけがわかりませんものね……持参金もまるでなかった。それにロージャは、持参金などあてにするような人間じゃありませんし……概してこうしたことは、簡単にとやかくいえないものですよ」
「きっとそのかたは、りっぱな娘さんだったに相違ありませんわ」とアヴドーチヤは言葉みじかにいった。
「でもねえ、まことにすまないことだけど、あの時わたしは娘さんが死んだのを、ほんとに心から喜びましたよ。もっとも、あの子が娘を台なしにするか、娘さんがあの子を台なしにするか、どっちがどっちかわからないけれどね」とプリヘーリヤは言葉を結んだ。それから、用心ぶかく控え目な調子で、たえずドゥーニャの顔をぬすみ見ながら(見うけたところ、こちらはそれがいやでたまらなかったらしい)、ロージャとルージンとの間に起こった昨日の一幕について、またいろいろと質問を始めた。
 この一件は、察するところ、彼女にとって身ぶるいの出るほど、何よりもおそろしい心配の種らしかった。ラズーミヒンは改めていちぶしじゅうを物語ったが、こんどは自分の結論をもつけ加えた。つまり、前からたくらんで故意にルージンを侮辱したといって、ラスコーリニコフをまっこうから非難したのである。そして、こんどはあまり病気を弁解の口実にしなかった。
「これは病気の前から考えていたんですよ」と彼はいいたした。
「わたしもそう思いますよ」とプリヘーリヤは、打ちのめされたようなふうで相づちを打った。
 けれど彼女を驚かしたのは、こんどラズーミヒンがルージンのことをいうのに、慎重な態度をとったばかりか、敬意さえ示しているらしいことだった。それはアヴドーチヤを驚かしたほどである。
「ではあなた、ピョートル・ペトローヴィチについては、そういうご意見を持っていらっしゃるのですか?」とプリヘーリヤはきかずにいられなかった。
「ご令嬢の将来の夫たるべき人ですもの、ほかの、意見などあろうはずがありません」とラズーミヒンはきっぱりと、熱のこもった調子で答えた。「しかし、単に世間並みのお義理でいうのじゃありません、その……その……つまり、アヴドーチヤ・ロマーノヴナが、ご自分の意志でお選びになったからです。もしきのう、ぼくが何かあの人のたなおろしでもしたようでしたら、それはぼくが見苦しく酔っぱらって……しかもそのうえ、まるで夢中だったからです。そうです、夢中だったんです。のぼせあがっていたんです、すっかり気がちがってたんです……で、今日になってみると、それが恥ずかしくてなりません!」
 彼は赤くなって口をつぐんだ。アヴドーチヤもぱっと顔を赤らめたが、沈黙は破らなかった。彼女はルージンの話が出た瞬間から、ひと言も口をきかなかったのである。
 その間にプリヘーリヤは娘の助言を失って、見るからに思いまどっている様子だった。とうとう彼女は、ひっきりなしに娘の顔を見ながら、口ごもりがちに、今ある一つのことが気にかかってたまらないといいだした。
「こうなんですよ、ドミートリイ・プロコーフィチ」と彼女は口をきった。「このかたには何もかもうち明けてしまうからね。ドゥーネチカ?」
「そりゃ、あたりまえですとも、お母さん」とアグドーチヤは力のこもった声で答えた。
「こういうわけなんですよ」苦労をうち明けてもいいという許可をえて、重荷をおろしたようなふうで、彼女は急いでいいだした。「じつは今朝はやく、ピョートル・ペトローヴィチから手紙がまいりました。きのう着いたことを知らせてやった、その返事なんでございます。じつのところ、あの人は、停車場まで出迎えに来てくれる約束だったのに、それをしないで、何かボーイふうの男に下宿のあて名を持たせて、道案内によこしたんですの。そして、自分はきょう朝のうちに伺うからと、そういうことづけでございました。ところが今日になっても、本人が来る代りに、この手紙がまいりました……お話するよりも、いっそこれを読んでいただきましょう。その中に一つたいへん心配になることがありまして……それが何かってことはすぐおわかりになります。そして……腹蔵なくご意見を聞かせてくださいませんか、ドミートリイ・プロコーフィチ! あなたはだれよりも一ばん、ロージャの性質をよくご承知なんですから、一等いい分別を貸していただけようと思いますの。お断わりしておきますが、ドゥーネチカはもう初めっから、すっかり決心しているんですけれど、わたしは……わたしはまだどうしたものか、とほうにくれておりますので……それで……それであなたのおいでを待ち兼ねておりましたようなわけで」
 ラズーミヒンは昨日の日付になっている手紙をひらいて、次のように読みくだした。

『プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、拝啓、昨日はプラットホームまでお出迎え申しあげるはずのところ、よんどころないさしつかえのため、意にまかせず、そのため用なれた男をひとりさし向けましたしだいでございます。ところが、明朝もまた、大審院のほうにやむをえない用件ができましたうえに、あなたさまをはじめ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナの親子兄妹、水入らずのご対面をお妨げいたすのも心ぐるしくぞんじますので、拝顔の栄を断念いたすしだいでございます。つきましては、あなたにたいする訪問およびごあいさつのことは、明日の午後正八時にいたします。ただしこのさい、ぜひぜひまげてご承知願いたいことがあります。ほかのことでもございませんが、明日拝顔のさいには、ロジオン・ロマーヌイチがご同席なさらないようお取り計らいください。じつは昨日、同君を病床にお見舞い申しあげましたところ、小生にたいして言語道断《ごんごどうだん》の無礼を働かれたからでございます。なおそのほか、例の件についても、ぜひ親しく詳細にご相談いたし、あわせてあなたのご説明も承りたくぞんじます。念のため、あらかじめご注意申しあげておきますが、万一小生の希望に反し、明日お宿もとでロジオン・ロマーヌイチに出会うようなことがありましたら、小生はやむをえず即刻退去いたしますから、その節は自業自得《じごうじとく》とご承知おきください。こういうことを申しあげるのは、昨日お見舞いいたした時に、まったくご病気とお見受けしましたロジオン・ロマーヌイチが、二時間後には急にご全快なされたしだいで、したがってご外出のおり、お宿もとにお立ち寄りなさることもあるかと懸念いたすからでございます。右は小生自身したしく目にして確かめた事実で、昨夜馬にけられて非業《ひごう》の死をとげた一酔漢の住まいにおいて、ご子息はいかがわしい生業《なりわい》をいとなんでいるその娘に、葬儀費用と称して二十五ルーブリをお手渡しになりました。小生はこの金のご調達について、あなたのひとかたならぬご苦心をぞんじておりますので、驚き入ったしだいでございます。末筆ながら、アヴドーチヤ・ロマーノヴナヘ小生のなみなみならぬ尊敬の情をお伝えいただきたく、またあなたにたいする恭順な信服の念をおくみとりのほどお願い申しあげます。
[#地から1字上げ]敬具
[#地から1字上げ]P・ルージン』
「こうなってみると、いったいどうしたものでしょうね、ドミートリイ・プロコーフィチ?」とプリヘーリヤは泣かないばかりにいった。「どうしてわたしの口から、ロージャに来るななんてことがいいだせましょう? あれはきのうあんなにやかましく、ピョートル・ペトローヴィチを断わってしまえといってたのに、こちらはまた部屋へ通すななんていってよこすんですもの! いえ、あれはこんなことを聞いたら、それこそ、いじにでも来るにちがいありません……そしたらまあ、どうなるでしょう?」
「なに、アヴドーチヤ・ロマーノヴナのご決心どおりになすったらいいでしょう」とラズーミヒンは落ちつきはらって、即座に答えた。
「まあ、とんでもない! 娘がいうのは……娘はまたとほうもないことをいいだすんですの、しかもわけも話さないで!この子[#「ないで!この子」はママ]が申しますには、ロージャにも今日の八時にわざと来てもらって、ふたりを同席させたほうがいいんですって。いえ、そのほうがいいというわけじゃありませんけれど、なぜかぜひともそうしなくちゃいけないんですって……ですけれど、わたしロージャにはこの手紙も見せたくないんですの。そして、あなたにもお力を拝借したうえ、なんとかうまくごまかして、あれを来させないようにしたいと思うんですよ……だってね、あの子はあんなかんしゃくもちなんでしょう……それに、わたし何か何やらちっともわけがわかりませんの……いったいどんな酔っぱらいが死んだのやら、娘が何ものやら、どういうわけで、あの子がその娘になけなしの金をみなやってしまったのやら……だってあのお金は……」
「並みたいていの苦労でできたものじゃないんですからね、お母さん」とアヴドーチヤがいい添えた。
「あの男はきのう正気じゃなかったんですよ」考えこんだような調子で、ラズーミヒンはいいだした。「あなたがたはごぞんじないですが、きのう料理屋でロージャのしたことはなんていったら! もっとも、頭のいいには驚きますがね……まったくのところ、どこかの死人のことや娘のことは、きのういっしょに家へ帰る途中でも、何かいってましたっけ。ですが、ぼくさっぱりわからなかったんです……もっとも、きのうはぼく自身も……」
「それよかお母さん、こちらから兄さんのほうへ出かけて行ったほうがいいじゃありませんか。そうすれば、どうしたらいいかってことも、すぐわかってしまいます。わたしうけ合うわ。それにもう時間ですもの。あらまあ! もう十時すぎよ!」首にかけていた自分の時計をちらと見て、彼女はこう叫んだ。それは細いヴェニス式の鎖をつけた、七宝《しっぽう》入りのりっぱな金時計で、ほかの衣裳持ち物とくらべると、恐ろしく不調和なものだった。
『花婿の贈り物だな』とラズーミヒンは考えた。
「あっ、ほんとに時間だ……時間だよ、ドゥーネチカ、時間だよ!」とプリヘーリヤは急にあわてて、さわぎだした。「おまけに、こういつまでもぐずぐずしてると、きのうのことでおこってる、とでも思うかもしれない。ああ、たいへんだ!」
 こういいながら、彼女は気ぜわしそうにケープをまとい、帽子をかぶった。ドゥーネチカも身支度をした。彼女のはめている手ぶくろは、くたびれているというくらいのことでなく、ほうぼうに穴さえあいていた。ラズーミヒンはそれに気がついたけれど、かえって、このあまり明白な服装の貧しさが、そまつなものをじょうずに着こなす人によく見られる、ある特殊な奥ゆかしさをこの親子に添えていた。ラズーミヒンは敬虔《けいけん》の念をもって、ドゥーネチカをながめた。そして、これから彼女とつれだって行くのだと思うと、誇らしい思いさえするのであった。
『女王』と彼は腹の中で考えた。『あの牢屋《ろうや》の中でくつ下を繕ったという女王は、この上なくきらびやかな儀式や出御の時よりも、かえってその瞬間のほうが、真の女王らしく見えたに相違ない』
「ああ、情けない!」とプリヘーリヤは声を上げた。「ほんとにわたしは現在のわが子に、かわいいかわいいロージャに会うのを、こんなにまでこわがるだろうなんて、そんなこと夢にも考えたことがないのに、わたしなんだかこわいんですよ、ドミートリイ・プロコーフィチ!」彼女はおずおずと相手を見上げながら、こういいたした。
「こわがることないわ、お母さん」とドゥーニャは母に接吻《せっぷん》しながらいった。「それより、兄さんを信じてらっしゃい。わたし信じるわ」
「ああ、どうしよう! わたしも信じているんだよ。だけど、昨夜は一晩じゅう眠れなかったんだもの!」と哀れな婦人は叫んだ。
 彼らは外へ出た。
「ねえ、ドゥーネチカ、わたし明けがたになって、少しとろとろすると、思いがけなく、なくなったマルファ・ペトローヴナが夢まくらに立ったんだよ……何もかもまっ白な着物を着てね……わたしのそばへ来て手をとりながら、かぶりを振って見せるんだよ。それはそれはこわい顔をしてね。まるでわたしを責めでもするように……これはいいしらせだろうかね! ああ、そうそう、ドミートリイ・プロコーフィチ、あなたはまだごぞんじないでしょう。マルファ・ペトローヴナがなくなったんですよ!」
「ええ、知りません。いったい、マルファ・ペトローヴナってだれです?」
「急なことでねえ! まあ、どうでしょう……」
「あとになさいよ、お母さん」とドゥーニャが口を入れた。「だって、このかたは、マルファ・ペトローヴナが、どういう人か、ごぞんじないじゃありませんか」
「おや、ごぞんじないんですって? わたしはまたね、何もかもごぞんじだと思っていましたの。どうぞごめんくださいましね、ドミートリイ・プロコーフィチ。わたし、この二、三日、気が顚倒《てんとう》してしまってるものですから。わたしはまったくあなたという人を、わたしたちの救い神みたいな気がしてるものですから、あなたはなんでもごぞんじのこととばかり思いこんでしまいましてね。わたしあなたを身内かなんぞのように思ってるんですの……わたしとしたことが、こんなことを申しあげて、どうぞ気をわるくなさらないでね。おや、まあ、あなたの右のお手はどうかなさいまして? ぶっつけでもなすったんですの?」
「ええ、ぶっつけたんです」とラズーミヒンはすっかり幸福になってつぶやいた。
「わたしはどうかすると、あまり本気になってお話するもんですから、いつもドゥーニャに直されるんですの……ああ、それはそうと、せがれはまあ、なんというひどいところに住まっているでしょう! でも、もう起きているでしょうかしら?いったいあの主婦《かみ》さんは、あれでも部屋だと思ってるんでしょうか? ときに、あなたそうおっしゃいましたねえ――あの子は腹にあることを外へ出して見せるのがきらいだって。ですからわたし、もしかすると……もちまえの……弱い性分で、あの子をうるさがらせはしないかと思いまして!……ねえ、ドミートリイ・プロコーフィチ、いったいあれはどう仕向けたらいいのか、教えてくださいませんか? わたしはもうごらんのとおり、とほうにくれているんですから」
「もし顔でもしかめるようでしたら、あまりうるさく、いろんなことをたずねないようにするんですね。ことにからだのことを聞いちゃいけませんよ。いやがりますから」
「ああ、ドミートリイ・プロコーフィチ、母親というものは、なんてつらい役目でしょう! ですが、もう階段です……なんという恐ろしい階段だろう!」
「お母さん、顔色まで青くなってることよ。落ちついてちょうだいよ」とドゥーニャは母にすり寄っていった。「兄さんたら、お母さんに会うのを喜ばなくちゃならないはずだのに、かえってお母さんのほうがそんなに気苦労なさるなんて」両眼をぎらぎら光らせながら、彼女はそういいたした。
「ちょっと待ってください、起きたかどうか、ぼく先に見て来ますから」
 ふたりの婦人は、先に立って行くラズーミヒンについて、そろそろ上って行った。もう四階まで上って、主婦の部屋の戸口ヘさしかかったとき、ドアがごく細目にあいていて、すばしっこい二つの黒い目が、やみの中からふたりをうかがっているのに気がついた。けれど、双方の目がぱったり出会うと、ドアはいきなりぱたんとしまった。それは、プリヘーリヤが驚きのあまり、危うく叫び声を立てそうになるほど、猛烈な勢いだった。

      3

「元気です、元気です!」はいって来るふたりの婦人を出迎えて、ゾシーモフはうきうきした調子で叫んだ。
 彼は十分ばかり前に来て、昨日と同じ長いすの片すみに腰かけていたのである。ラスコーリニコフは近ごろ珍しく、ちゃんと服を着て、おまけに念入りに顔まで洗い、髪をとかして、反対のはしに腰かけていた。部屋は一度にいっぱいになったが、それでもナスターシヤは、客のあとからはいって来て、一座の話に耳をすまし始めた。
 なるほどラスコーリニコフは、もうほとんど健康といってよかったが(ことに昨日と比べたらなおさらだった)、ただ非常に顔色がわるく、ぼんやりした様子で、気むずかしそうだった。外から見たところ彼はけが人か、それとも何かはげしいからだの痛みでもこらえている人のような感じだった。眉《まゆ》は八の字に寄せられ、くちびるはきっと結ばれ、目は燃えるように輝いていた。彼は何か義務でもはたすように、気乗りのしない様子で、しぶしぶ口をきいたが、その挙動にはどうかすると、妙に落ちつかない気持ちがうかがわれた。
 もしこのうえ、手に繃帯《ほうたい》でもしているか、指にタフタのサックでもはめていたら、たとえば指が膿《う》んではげしく痛むとか、手に打ち身をこさえたとか、とにかく、そんなふうな状態にある人に、そっくりそのままだったに相違ない。
 もっとも、この青ざめた気むずかしい顔も、母と妹がはいって来た時には、刹那《せつな》、何かの光に照らされたようになったが、これもただ前の悩ましげな放心の表情に、いっそう凝結したような苦悶《くもん》の影を加えたにすぎない。光はすぐに消えうせたが、苦悶はそのまま残った。
 治療を始めたばかりの医者に特有の若人らしい熱心さで、自分の患者を観察し、研究していたゾシーモフは、肉親の来訪に接した喜びの代りに、このさき一、二時間、のがれられない拷問《ごうもん》を忍ぼうとする、人知れぬ重苦しい覚悟の色が彼の顔に浮かんだのを見て、驚きの念に打たれたのである。それからしばらくして、つづいて起こった会話のほとんど一語一語が、患者のかくしている何かの傷口に触れて、それをかきまわすようなふうに見えるのも認めたけれど、同時に、昨日はちょっとした言葉の端にも、ほとんど気ちがいじみるほど興奮したあの偏執狂が、今日はよく自己を制御して自分の感情をかくす手ぎわにも、かなり一驚を喫したのである。
「ええ、ぼくはもう自分でも、ほとんど健康体になったのがわかりますよ」あいそよく母親と妹に接吻《せっぷん》しながら、ラスコーリニコフはいった。このひと言で、プリヘーリヤの顔は見るまに輝きわたった。「しかも、これは昨日の流儀[#「昨日の流儀」に傍点]でいってるんじゃないよ」彼はラズーミヒンのほうへ向いて、親しげにその手を握りながら、こういいたした。
「いや、ぼくも、今日はこの人を見て、面くらったぐらいですよ」もう十分ばかりの間に、患者との話に継ぎ穂を失っていたゾシーモフは、三人がはいって来たのに大喜びでいいだした。「この調子でいけば、三、四日後には、それこそすっかりもともとどおりになりますよ。つまりひと月まえ、いやふた月……あるいは、み月まえといったほうがいいかな?だって、この病気はだいぶ前からきざして、潜伏期が長かったんですからね……え、どうです? 今となったら白状なさい、もしかしたら、きみ自身にも責任があるんじゃないですか?」まだ何かで患者をいらだたせてはと心配するように、彼は用心ぶかい微笑を浮かべて、いいたした。
「大いにそうかもしれません」とラスコーリニコフは冷ややかに答えた。
「ぼくもその意味でいってるんですよ」とゾシーモフは自分の成功に味をしめて、言葉をつづけた。「これからきみが完全に回復されるのは、ただ心の持ちようしだいなんですよ。今こうして、きみと話ができるようになってみると、ぜひこれだけのことをよく納得していただかなきゃなりません――つまり、きみの病的状態の発生に一ばん多く影響した最初の、いわば根本的原因を除かなければならないのです。そうすればほんとうに回復されます。が、さもないと、かえって悪くなってしまいますからね。この根本的原因はぼくにこそわからないけれど、きみにはよくわかっているはずです。きみは聡明《そうめい》なかただから、もちろん、自分自身にたいして観察を試みておられるでしょう。ぼくの見るところでは、きみの健康障害の始まりは大学を退学された時と一致しているようですね。きみは仕事をせずにいちゃいけません。だから、ちゃんと規則的な仕事をして、前途に確固《かっこ》たる目標を定めるということが、きみには最も有効と思われるんですが」
「そうです。そうです、おっしゃるとおりです……そのうちに、ぼくもなるべく早く大学へ復学しましょう。そうすれば万事……とんとん拍子にいくでしょう……」
 一つは婦人たちの前で当たりを取ろうというつもりで、こういった賢明な忠告をはじめたゾシーモフも、言葉を終わってから、聞き手の顔をちらと見やり、その顔にまざまざと嘲笑《ちょうしょう》の色を認めたときには、多少毒気を抜かれた形だった。とはいえ、それはほんのちょっとの間である。プリヘーリヤはすぐさまゾシーモフに礼を述べ、ことにきのう夜中に下宿を訪問してもらったことに感謝を述べ始めた。
「えっ、この人が夜中にたずねたんですって?」とラスコーリニコフは、はっとしたらしい様子でたずねた。「してみると、お母さんたちは旅づかれのあとを、ろくろく寝なかったんですね?」
「いえ、なに、ロージャ、それはほんの二時ごろまでの話なんだよ。家にいる時だって、わたしもドゥーニャも、二時より早く寝たことなんかついぞないんだから」
「ぼくもやはりこの人に、どうしてお礼したらいいかわからないんです」とラスコーリニコフは急に眉《まゆ》をひそめて、うなだれながら言葉をついだ。「金の問題は別として――こんなことなんか口に出して失礼ですが(と彼はゾシーモフのほうへふり向いた)、ぼくはどうしてあなたから、こうした特別なご親切を受けるんだか、ほとほと合点がいきません。ただもうわからないんですよ……で……で、ぼくにはそのご親切が苦しいくらいです。だって、不可解なんですものね。ぼくは遠盧なしにいわせてもらいます」
「まあ、きみ、そういらいらしないでください」とゾシーモフはむりに苦しそうな笑い声を立てた。「まあ、きみがぼくにとって初めての患者だ、とでも想像していただくんですな。まったく、開業早々のわれわれ医師仲間は、最初の患者をわが子同様にかわいがるもんですからね。中には、ほとんど、ほれこんでしまうのがいるくらいですよ。なにしろ、ぼくもまだ患者がありあまるほうじゃないので」
「あの男のことは、今さらいってもしようがない」ラスコーリニコフはラズーミヒンを指しながらつけ加えた。「あの男は、ぼくから侮辱とめんどうよりほかには、何ひとつ受け取ったことがないくせに」
「何をばかいってるんだい! きみは今日はセンチな気分になってるとでもいうのかい?」とラズーミヒンはどなった。
 けれど、もし彼に、もすこし鋭い観察力があったら、それはけっしてセンチメンタルな気分どころでなく、なにかしらぜんぜん正反対のものだと気づいたはずである。しかし、アヴドーチヤはそれに気がついた。彼女は不安げにじっと兄を注視していた。
「お母さん、あなたのことになると、ぼくはもう申し訳などする勇気もないくらいです」まるで朝から暗記した宿題のような調子で、彼は言葉をつづけた。「ぼくは今日になって、お母さんたちが昨日、ここでどんなにか気をもみながら、ぼくの帰りを待っておられただろうと、やっといくらかお察しできたようなしまつなんです」こういいながら、彼は急に無言のまま、微笑をふくんで妹に手をさしのべた。この微笑の中には、こんどこそ作りものでない真実な感情がひらめいていた。ドゥーニャはすぐさまさしのべられた手を握って、さもうれしそうに、感謝の熱意をこめて握りしめた。これが昨日の争論以後、はじめて妹に示した態度なのである。兄と妹のこうした無言の固い和解を見て、母親の顔は歓喜と幸福にかがやいた。
「これだからぼくはこの男が好きなんだ!」なんでも誇張する癖のあるラズーミヒンは、いすのまま勢いよくからだをふり向けながらささやいた。「あの男はよくああした含蓄《がんちく》のある動作を見せますよ!………」
『まあ、あの子のすることは、なんでも感じよくうまくいくこと!』母は心の中で考えた。『ほんとうになんという奥ゆかしい心意気だろう! あのきのう以来の妹とのわだかまりを、なんとまあ、ああもむぞうさに、しかも優しく解いてし