京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP005-P024

悪霊
Бесы
ドストエーフスキイ
米川正夫

                                                                                                            • -

【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)曠野《あらの》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|節《せつ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)[#ページの左右中央]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔“On ma'a traite' comme un vieux bonnet de coton!”〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html

                                                                                                            • -

[#ページの左右中央]


[#ここから7字下げ]
殺さるも痕は得わかじ
われらついに踏みぞ迷いぬ、いかがせん?
こは悪霊のわれらを曠野《あらの》に導きて
四面八面《よもやも》に引き廻すらし
………………………………
数や幾ばく、いずちへぞ追われ行くらん
かく哀しげに歌うは何ゆえ?
家に棲む魔性を野辺に送るか?
はたは妖女の嫁《とつ》ぎゆくらんか?
[#ここから22字下げ]―プーシキン
[#ここで字下げ終わり]


[#改ページ]
[#ページの左右中央]


[#ここから5字下げ]
ここに多くの豚のむれ山に草をはみいたりしが、彼らその豚に入らんことを許せと願いければ、これを許せり。悪鬼その人より出でて豚に入りしかば、そのむれ激しく馳せくだり、崖より湖に落ちて溺る。牧者《かうもの》どもそのありしことを見て逃げ行き、これを町また村々に告げたり。ひとびとそのありしことを見んとて、出でてイエスのもとに来れば、悪鬼の離れし人、着物を着け、たしかなる心にてイエスの足下に坐せるを見て、おそれあえり、悪鬼に憑かれたりし人の救われしさまを見たる者、このことを彼らに告げければ、ゲネセラ地方の多くのひとびとイエスにここを去らんことをねがえり。これ大いにおそれしがゆえなり。イエス舟にのりて返りぬ。
[#ここから27字下げ]
ルカ伝第八章第三二節――第三七節
[#ここで字下げ終わり]


[#改ページ]
[#1字下げ]第一編[#「第一編」は大見出し]




[#3字下げ]第1章 序に代えて[#「第1章 序に代えて」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 わたしは今この町、――べつにこれという特色もないこの町で、つい近頃もちあがった、奇怪な出来事の叙述にとりかかるに当たって、凡手の悲しさで、少し遠廻しに話を始めなければならぬ。つまり、スチェパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキイという、立派な才能もあれば、世間から尊敬も受けている人の、やや詳しい身の上話から始めようというのである。この身の上話は、一編の物語の序言がわりのようなもので、わたしの伝えようと思っている本当の事件は、ずっとさきのほうにあるのだ。
 ぶっつけにいってしまおう。スチェパン氏はいつもわたしの仲間で、一種特別な、公民的ともいうべき役廻りを勤めていたが、またその役廻りが大好きだった、――それどころではない、わたしなぞの目からは、それがなくては生きていかれないように思われたほどである。しかし、わたしはなにもこの人を芝居の役者にくらべるわけではない。とんでもない、わたし自身この人には尊敬をいだいているのだからなおさらのことだ。それはみんな習慣のしわざ、というよりむしろ、美しい公民としての地位を空想してみずから楽しむ、小さい時分からの、不断の君子的傾向のしわざ、といったほうが適切かもしれない。例を挙げていえば、彼は『迫害を受ける人』、『追放された人』としての自分の境遇が、恐ろしく好きなのであった。この二つの言葉のうちには、一種の古典的な輝きがあって、それがもう一遍で彼を魅惑のとりことし、やがては、彼の自己評価をだんだんと高めていって、長い年月の間には、とうとうその自尊心を満足させるような、思いきって高い、いごこちのいい台座の上へと彼を祭り上げてしまったのである。
 前世紀に出たイギリスのある諷刺小説の中で、ガリヴァーとかいう男が、だれもかれも背の高さ三寸ばかりしかない小人島から帰って来た時、自分を巨人だと考える習慣がすっかりしみ込んでしまって、ロンドンの街《まち》を歩きながらも、思わず通行人や馬車に向かって、さあ、どいた、どいた、用心しないか、うっかりしてると踏み潰すぞ、とどなりつけた。彼は今でも自分が大男で、ほかの連中が小っぽけな者のように思われたのだが、人々は彼を冷笑したり、罵倒したりするばかりでなく、無作法な馭者どもは、鞭でこの巨人を擲りつけさえした。しかし、いったいこれが正当の酬いだろうか? じっさい習慣というやつは、何をしでかすかわからない。習慣はスチェパン氏をも同じ結果に導いた。が、もっと無邪気な毒けのない(もしこんないい方ができるならば)形を取った。なぜならば、実に類のない善良な人だったからである。
 わたしはこんなふうにさえ考えている。晩年には彼もみなに忘れられてしまったが、以前からまるで知るものがなかったとは、けっしていうわけにいかない。それどころか、彼はしばらくのあいだ、前時代の名士たちの輝かしい星座の中に入っていて、一時ほんのわずかな間であったが、彼の名はチャアダーエフ、ベリンスキイ、グラノーフスキイ、それからその頃やっと外国で旗揚げしたばかりのゲルツェン、などという名前といっしょに、当時のあわただしい多数の人々の口にのぼされたことがあるのは、疑う余地のないところである。けれど、スチェパン氏の活動は、いわゆる『旋風』のために、――重なり重なった事情のために、ほとんど始まると同時に終わりを告げてしまった。ところが、どうだろう? 後になってから、『旋風』はおろか、そんな事情などは影もない、ということがわかってきた。少なくとも、この場合なにごともなかったのである。わたしは今度はじめてつい二、三日前、こういう話を聞いて非常にびっくりした。スチェパン氏がこの県下へ来て、わたしたちの間で暮らしていたのは、けっしてこの土地の人間が考えていたような、流刑者としてではない、いや、それどころか、監視を受けたことさえ一度もない、というのである。が、そのかわり、この話が十分信用に値することも確かなのである。こうなってみると、人間の空想の力に一驚を喫せざるをえない。彼は一生涯、心の底から、こんなことを信じ切っていた、――自分という人間はある階級でいつも危険視され、一挙一動ことごとく探知しつくされている、最近、二十年間に交代した三人の県知事も、県の行政を司るために赴任するにあたり、政務引継ぎの際、何よりもこの自分の人物に関して、何か特別やっかい至極な内意を上官から含められてやってきたものだ、――とこんなぐあいだったのだから、だれかもし正直この上ないスチェパン氏に向かって、お前はなにもそんなに恐れることはないじゃないかと、否みえない証拠を突きつけて説き伏せたとしたら、彼は必ずや腹を立てたに相違ない。にもかかわらず、彼は非常に聡明な、非常に才能のある人物で、学術の人といってもいいくらいだった。もっとも、学術のほうでは……まあ、つまり、学術のほうでも、あまり大して貢献するところはなかった。いや、まるでなかったのかもしれない。しかし、ロシヤの学術の人には、こんなのはざらにあることだ。
 彼は四十年代([#割り注]一八四〇年代[#割り注終わり])の終わり頃に外国から帰ってきて、大学の講壇に最初の輝きを放った。しかし、ここではほんの数えるほどしか講義する暇がなかった。その講義は、なんでもアラビヤ人か何かのことであった。それから、当時ようやく頭を持ち上げ始めた問題、――一四一三年から一四二八年の期間における、ハナウというドイツの一小都市の有していた民権的ならびに商業同盟的意義、及びこの意義の成立を妨げた一種特別なばくとした原因、――こういう問題に関して、花々しい議論を発表したことがある。この議論は巧みに手ひどく、時のスラブ主義者の急所を衝いたので、彼はたちまちこの連中の間に、多数の猛烈な敵を作ってしまった。
 その後、――もっとも、これは大学の講座を失った後のことで、――彼は(自分の敵に、彼らがどんな立派な人物を失ったか思い知らせてやろうと、いわば報復の意味で)ディッケンズを翻訳したり、ジョルジュ・サンドの思想を宣伝したりしている進歩派の月刊雑誌に、ある深遠な研究の前半を掲載した。なんでも、ある時代の騎士たちがきわめて廉直な精神を持っていた原因か何か、まあそんなテーマを取り扱ったもので、とにかく何やら非常に高尚な、立派な思想を披瀝したものだった。人の話によると、その研究の続きはさっそく禁止されて、例の進歩派の雑誌までが、前半を掲載したためにひどい目にあったとのことだ。それはあの時分のことだから、大きにありそうな話だが、この場合としては、そんなことはてんでなかった、それはただ筆者が不精をしたために、研究が完結されなかったのだと見たほうが本当らしい。
 また彼がアラビヤ人に関する講義を中止したのも、だれかが(といっても、彼の敵たる保守派の仲間には相違ない)、だれかに宛てた彼の手紙を横取りしたからである。その手紙には何かの『事情』が開陳してあったので、そのためにだれか彼に向かって何かの説明を要求した。それから嘘か本当か知らないけれど、それと同じ頃に、ペテルブルグでなにか恐ろしく大仕掛けで、反自然的な、反国家的結社が発見されたという話である。人数は十三人ばかりで、ほとんど社会組織の根本を震撼させるようなものだったそうだ。話によると、この連中は大胆にも、フーリエの翻訳を企てていたそうだが、スチェパン氏の叙事詩がモスクワで押収されたのも、運悪くちょうどその頃のことだった。それは六年前まだ若い盛りの頃、ベルリンで書き上げたもので、二人の文学好きと一人の大学生が写し取って、手から手に渡っていたのである。この叙事詩はいまわたしのテーブルの中にも所蔵されている。ついこのごろ作者自身が写し取ったのを、去年、当のスチェパン氏の手からもらい受けたもので、見事な題銘を打った、赤いモロッコ革の表紙がついていた。この叙事詩はちょっと詩味もあったし、いくぶん才気が認められないでもなかったが、かなり奇妙なものだった。もっとも、あの当時は(つまり、より正確にいえば、三十年代のことなので)、よくそんなふうの書き方をしたものだ。したがって、内容を話すのもなかなか骨が折れる。なぜといって、正直なところ、何がなんだかさっぱりわからないからである。これは劇詩の形を取った何かのアレゴリイで、『ファウスト』の第二部を連想させるようなものであった。
 舞台は大勢の女の合唱で幕があがる。それから男声合唱になって、その次は何かの妖精の合唱、それから一番しまいは、まだ生活したことはないけれども、しきりにそれを望んでいる霊魂の合唱になる。これらの合唱はすべて、何かしら恐ろしくとりとめのないことを歌う、――たいていはだれかの呪いなのだが、しかし、ことごとく高級なユーモアの陰を帯びている。ところが、舞台面は忽然と一変して、「生の饗宴」が始まる。ここでは虫までが歌い出すやら、亀が何かラテン語で感謝の辞を述べるやら、しまいにはある鉱石までが、つまり、まるで魂を持っていないものまでが、何かの歌をうたいだすのである(もしわたしの覚え違いでないとすれば)。とにかく、なんでもかでものべつ歌いまくるわけで、時たま会話があるかと思えば、なんだか雲をつかむようなことを罵り合うのだけれど、しかし、これもやはり高遠な意味を含んでいるのだ。最後に、舞台がもう一度がらりと変わって、荒涼たる場所が現われる。その岩石峨々たる間を、文明の空気の浸み込んだ一人の若い男がさ迷い歩きながら、何かの草をむしり取っては、その汁を吸っている。お前はなんのためにそんな草を吸うのだ、という魔女の問いに対して、彼の答えはこうであった。自分は心内に生の過剰を感じているので、いろいろ忘却の法を求めていたが、ついにこの草の汁にそれを発見した。しかし、自分の最も深い希望は、すこしも早く知恵を失いたいということだ(これは少々余計な望みかもしれない)。しばらくすると、とつぜん稀世の美男子が、黒馬に跨って走り出す、その後にはありとあらゆる民族が、うようよと数をつくしてついて来る、この青年は死の象徴で、すべての民族の渇仰を受けているのだ。やがて、一ばん最後の幕になると、だしぬけにバビロンの塔が現われる。大勢の勇士が新しい希望の歌をうたいながら、ようやくその建築の工を終わろうとしているのだ。ついに塔は頂きまでできあがった。と、もとの支配者であった人(まあ、オリンピアの主神としておいていい)が、滑稽な恰好をして逃げ出す。そこで、大悟した人類はその地を自己の有に帰し、徹底せる洞察によって、ただちに新しい生活を始める、というのである。
 ところが、この詩を当時では危険視したのだ。わたしも去年スチェパン氏に向かって、この詩は今の世でちょっと類のないほど、非常にナイーヴな趣のあるものだから、一つ印刷に付してはどうか、とすすめてみた。が、彼はよそ目にも不満げな様子をして、わたしの提言をしりぞけた。非常にナイーヴというこの評言が、気に入らなかったのだ。まる二か月の間というもの、ずっとわたしに対して多少冷淡な態度をとったのも、これに原因するものとわたしは思っている。ところが、どうだろう? わたしがその詩をここで印刷するようにすすめたのとほとんど同時に、あちらで[#「あちらで」に傍点]、――つまり外国で、ある革命雑誌が、スチェパン氏の知らぬ間に、その詩を印刷掲載したのである。初め彼は仰天して、県知事のところへ飛んで行ったり、ペテルブルグへ送るべき、公明正大な弁明書をしたためて、二度もわたしに読んで聞かせたりした。が、だれに宛てていいかわからないので、とうとう送らずにしまった。一口にいえば、まる一月のあいだ狼狽しきっていたのだ。しかし、わたしの信ずるところでは、彼も深い心の底のほうでは、ひとかたならず恐悦がっていたものに相違ない。彼は、送付してもらった雑誌を抱えたまま、夜もろくろく眠らなかった。そして、昼は蒲団の中へ秘めて、女中にも床を敷き変えることを許さず、毎日、どこからか、或る電報の来るのを待っていたが、外見は傲然とかまえていた。しかし、電報も何も来なかった。その時はじめて、彼はわたしに対しても我を折った。これなぞも、この人の穏かな、いつまでも一つのことを根に持たない、世にも珍しい善良な性質を、よく証明するものである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 わたしはなにも、スチェパン氏が少しも苦しまなかったと、断言するわけではない。ただわたしは今になって、次のことを会得したというにすぎない。つまり、例のアラビヤ人に関する研究だって、ただ必要な解説だけ述べるというふうにしたら、いくらでも得心の行くだけ稿をつづけて行くこともできたのである。ところが、そこで、ちょっと妙な野心を起こして、自分の社会的生活は、『旋風のような外部の事情』のために永久に粉砕されたものと、恐ろしく気ばやに一人で決め込んだのだ。いっそ、すっかりあけすけにいってしまうと、彼の社会生活に変化を来たした真の原因は、ずっと以前ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ・スタヴローギナが、一度ならず二度までも、彼に持ちかけた婉曲な依頼であった。この富裕な陸軍中将夫人の依頼というのは、その一人息子の教育と知能全体の啓発のために、高級な教育者兼友人の役目を勤めてほしいというのである。もちろん、報酬の十分なことはいうまでもない。この依頼は、ちょうど彼が初めて男やもめの生活に入った時分、ベルリンで持ち出されたものである。彼の最初の妻は、わたしたちの県から出たある浮気な娘で、彼がこの娘と結婚したのは、前後の分別もない、まだほんの若い盛りのことだったが、この女(もっとも、なかなか魅力に富んだ女ではあったが)といっしょになってから、その贅沢な生活費の不足やら、そのほか何かだいぶ微妙な原因のために、ずいぶんくるしい目にもあったらしい。彼女は晩年の三年間というもの夫と離れ離れに暮らしていたが、ついに五つになる男の子、――まだ曇りのない、よろこびにみちた初恋の結実を(これはスチェパン氏が懊悩のあまり、わたしの前でふと口をすべらした言葉だ)彼の手に残して、パリであの世の人となってしまった。雛鳥はもう最初からロシヤヘ送られて、そのままずっとどこか草深い田舎で、遠縁に当たる叔母さんか何かの手に育てられた。
 スチェパン氏はその時ヴァルヴァーラ夫人の依頼をしりぞけて、一年もたたないうちに、さっそく一人の無口なベルリン女と結婚した。しかも、その結婚は、べつにこれという必要もなかったのである。しかし、彼が教育者の任を辞したについては、このほかにまだいろいろ原因があった。当時一世に鳴り響いた不朽の名教授の声望が、彼の心をとりこ[#「とりこ」に傍点]にしたので、みずから進んで大学の講座を担当し、そこで荒鷲のごとき翼を試みる準備をしたのである。ところが、今ではその翼も破れてしまったため、自然の順序として、もう前にも彼の決心を揺るがしたヴァルヴァーラ夫人の依頼を心に浮かべ始めた。その上、第二の妻が一年もたたぬうちに、忽然として世を去ったということは、いっさいを決定したのである。わたしは直截にいってしまおう。ヴァルヴァーラ夫人の熱心な尽力と、彼に対する尊い古典的な友情(もし友情に関して、こんな形容詞が使えるものとすれば)のおかげで、万事きれいに解決がついた。彼はこの友情の抱擁に身を投じて、それから二十年以上もつづいた固い関係が結ばれたのである。わたしは『抱擁に身を投じる』という表現を用いたが、そのためにだれか役にも立たぬ、のんきな想像を逞しゅうする者があれば、それはとんでもないことである。この抱擁なる語は最も高尚な意味においてのみ、解釈さるべきものである。最も微妙な、最も繊細な関係が、この二つの特異な性格を、永久に結びつけたのである。養育者の任を引き受けたいま一つの理由は、スチェパン氏の先妻が遺して行ったごく小さな領地が、スタヴローギン家の領地スクヴァレーシニキイ(これはわたしたちの県にある立派な領地で、町の郊外に位置を占めていた)と隣り合っていたからでもある。そのうえ、大学の山のごとき事務に没頭することなく、いつも書斎の静寂裡に閉じこもっていれば、完全に自己を科学に捧げつくし、深遠なる研究によって祖国の文献を豊富にすることができる、という考えもあったのだ。もっとも、研究などというものは少しもできなかったが、そのかわり、その後一生を通じて二十年のあいだ、国民詩人([#割り注]ネクラーソフをさす[#割り注終わり])の表現をかりると、『譴責の権化』として、祖国の前に立ちつづけ得たのである。

[#ここから2字下げ]
自由主義者なる理想家よ
なれは譴責の権化として
……………………………
祖国の前に立ちしかな
[#ここで字下げ終わり]

 もっとも、わが国民詩人の歌った理想家は、自分さえその気になれば、一生涯でも、そういう意味の態度をとる権利があったかもしれないが(実際、退屈なことには相違ないけれど)、スチェパン氏にいたっては、こういう人物にくらべると、実のところ、ほんの模倣者にすぎないので、しょっちゅう立ち疲れては、横になることが多かった。しかし、横になっている時でも、譴責の権化たる資質はやはり保たれていた。この点は大いに認めてやらなければならぬ。いわんや地方としては、このくらいのところで十分なのである。ためしに、彼が土地のクラブでカルタに向かったところを見るがいい。彼の全身は、こんなことをいっているように見える。『カルタ? おれが貴様たちのエララーシュ([#割り注]カルタ勝負の一種で、同時に「無意味」の語義をもっている[#割り注終わり])の相手になる? いったいこんなことが考え得られるだろうか? いったいこれの責任者はだれだ? おれの事業を粉微塵にして、エララーシュにしてしまったのは何者だ? ええ、ロシヤなんぞ亡びてしまうがいい?』こういったふうつきで、彼はものものしい様子をしながら、さてハートから切り始める。
 実際、彼は恐ろしくカルタの勝負を挑むのが好きだった。そのため、しょっちゅうヴァルヴァーラ夫人と、不快な衝突を起こすのであったが、別して後にはそれがしだいに昂じてきた。それも年がら年じゅう負けつづけなのだからなおさらである。しかし、このことは後廻しにしよう。ただ一ついっておきたいのは、彼は良心の働きの強い人であったから(もっとも、これはときどき起こることなので)、したがってよくふさぎ込む。二十年もつづいたヴァルヴァーラ夫人との交遊のあいだ、彼はきまって年三回か四回、われわれ仲間でいういわゆる『公民的憂愁』というやつにかかる。つまり、ただの気欝症にすぎないのだが、この言葉が尊敬すべきヴァルヴァーラ夫人の気に入ったのである。
 後になって、彼は『公民的憂愁』のほかに、シャンパン病にもかかった。けれど、敏感なヴァルヴァーラ夫人は、彼がすべて凡俗な傾向に陥らないように、しじゅう気をつかっていた。それに、実際、彼にはお守りが必要であった。なぜというに、彼はどうかすると、恐ろしく奇妙なふうになるからである。きわめて高潔な悲哀に沈んでいるかと思うと、ひょっこり出しぬけに、朴訥な農民でなければ聞かれないような開けっ拡げな笑い声を立てる。またどうかすると、自分で自分のことを、諧謔的な調子で話しだすこともあった。けれど、ヴァルヴァーラ夫人にとって何が恐ろしいといって、この諧謔的な調子ほど恐ろしいものはなかった。最高の思索のためでなければ、けっして何事もしないという夫人は、女の古典派であり、女の芸術保護者であった。この高潔なる貴婦人が、その哀れな友だちに与えた二十年間の感化は、けっして僅少なものではないから、この人については別に語っておく必要がある。で、わたしは実際そうしようと思う。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 世の中には妙な友情がある。二人の友だちが、互いに取って食いそうにしていながら、そのくせ別れることができないで、一生そのまま暮らしている。いや、別れるのはぜんぜん不可能なくらいである。もし絶交などということになれば、気まぐれを起こして絶交したほうの友だちが、まず第一に病気して死んでしまうだろう。わたしは確かにこういうことを知っている。スチェパン氏はヴァルヴァーラ夫人を相手に額に額をつき合わせ、思いきって隔てのないうち明け話をしておきながら、夫人が帰ってしまうと、急に長いすから躍りあがり、両の拳を固めて壁を叩き出す、というようなことも一度や二度ではなかった。
 しかも、これには少しも比喩的な意味は含まれていないので、一度などは壁の漆喰《しっくい》を叩き落としたことさえある。ことによったら、どうしてお前はこんな機微な点まで知っているのか、と尋ねる人があるかもしれない。しかし、わたしは実際、そういうところを目撃したのだから仕方がない。事実、スチェパン氏がわたしの肩に顔を埋めてすすり泣きしながら、心の奥底を色濃く描き出したことも、一度や二度でないのだから仕方がない。(またそういう時には、ずいぶん思いきったことまで口走るものだ!)しかし、こうしたすすり泣きの後で起こることは、たいていいつもお定りであった。その翌日になると、彼はそうした忘恩な態度を悔いて、われとわが身を磔刑《はりつけ》にでもしたいような気になる。そして、ただただヴァルヴァーラ夫人が『潔白な優しい天使であるのに、自分はまるで正反対だ』ということを知らせたいばかりに、わたしを自分のところへ呼びつけるか、自分でわたしのところへ駆けつけるのだ。彼は単にわたしのところへ駆けつけるばかりでなく、夫人自身に宛てて流麗な手紙をしたため、立派に自署をして、すっかり洗いざらい白状するような場合も幾度となくあった。その手紙の文言はたいていおきまりで、つい昨日よその人にこんなことをいった、――夫人が自分の世話をしているのは、ただ虚栄心のためで、実際は自分の学識と才能を羨んでいるのだ、夫人は自分を憎んでいるけれども、それを明らさまに素振りに出して見せないのは、自分が夫人のもとを去ってしまうようなことがあったら、夫人が文学者仲間にかちえた評判を傷つけるおそれがあるからだ、こう考えると、自分という人間が馬鹿馬鹿しくなったので、ひと思いに自殺しようと決心したが、夫人の最後の言葉を待って、それでいっさいを決めることにする、云々といったような調子である。世間には五十になっても赤ん坊のような人が少なくないが、その中でもことに罪のないわがスチェパン氏の神経的発作が、時にどれくらい極端なところまで昂じたかは、これでもって想像がつくだろう? わたしも一度二人の間の諍いのあげくに書かれた、この種の手紙を一つ読んだことがある。それは原因こそ馬鹿馬鹿しいけれど、結果はなかなか毒々しいものであった。わたしはぎょっとして、その手紙を出さないように懇願した。
『いけない……公明正大にやらなくちゃ……義務だ……何もかも……すっかり奥さんにうち明けてしまわないくらいなら、わたしはもう死んでしまう!』と彼は熱に浮かされたような調子で答えた。そして、とうとう手紙は出してしまった。
 もしヴァルヴァーラ夫人だったら、こんな場合、けっして手紙など書きはしなかったろう、これが二人の違うところなのである。もっとも、彼は気ちがいじみるくらい手紙を書くのが好きで、夫人と一つ家に暮らしていながら、絶えず手紙を送っていた。少しヒステリックになった時などは、日に二通も書いてやることさえあった。わたしの確かに聞いたところでは、夫人は非常な注意をもってこれらの手紙を読んだうえ(日に二ど送ってくる場合でも)、読んでしまうとしるしをつけて、部類わけをしたうえ、特別な小箱の中へしまって置くばかりでなく、自分の胸にもしっかりたたみ込んでおくのであった。
 それから、まる一日返事をせずにうっちゃっておいて、翌日はけろりとした顔つきで、平然として顔を合わす。そして少しずつじりじりと責めつけて、しまいには、昨日のことなどおくびにも出せないように仕向けるので、スチェパン氏もややしばらくは夫人の顔を見つめるばかりであった。しかし、夫人のほうで何一つ忘れることがないのに反して、彼はどうかすると、あまり早く忘れすぎるほど忘れっぽかった。相手の落ちつきすましているのに元気づいて、もし友だちなぞ来ようものなら、その日のうちからシャンパンなど傾けながら、笑ったりふざけたりすることも珍しくなかった。そういう時、夫人がどんなに毒々しい目つきで彼を眺めたか、想像するにもあまりあるくらいだが、彼はいっこうお気がつかなかった! やっと一週間か、一月、時には半年くらい経ってから、何かの時にひょっとしたはずみで、自分の手紙の文言が頭に浮かび、つづいてその全文と、当時のいきさつがすっかり思い出される。と、恥ずかしさに全身燃えるような心持ちがして、ついには持ち前の疑似コレラめいた発作を起こすほど煩悶する。この疑似コレラめいた一種特別な発作は、ある種の場合、彼の神経錯乱のお定りの幕切れで、その体質の奇怪にして独自な点である。
 事実、ヴァルヴァーラ夫人は疑いもなく、たびたび彼に憎しみを感じたに相違ない。けれど、彼が最後まで、たった一つ見破りえないことがあった。それはほかでもない、彼がしまいには夫人の息子同様になったことである。彼は夫人の創造物、いや、夫人の発明品といってもいいくらいになりすました。実際、彼は夫人の肉から生まれ出た肉である。夫人が現に彼の世話をし、また今後もつづけて世話をするつもりでいるのは、けっして『彼の才能に対する羨望』のためのみではない。もし夫人がこんな推測を聞いたら、どんなに侮辱を感じることか! 夫人の心中には、彼に対する絶え間なき憎悪と嫉妬と侮蔑に交って、一種堪え難い愛情が潜んでいるのであった。夫人は二十二年のあいだ、彼を荒い風にも当てないようにして、乳母かなんぞのように面倒を見てやった。もし何か彼の詩人、学者、国士としての名誉にかかわることでもあったら、夫人は心配のあまり、夜もおちおち眠れなかったに相違ない。つまり、夫人は彼を自分の頭の中で生み出して、その空想の産物を、まず自分から一番に信じたのである。彼は夫人にとって、いわば一種の空想であった……しかしそのかわり、夫人は彼のほうからもずいぶん多くのものを望んだ。時としては奴隷のような服従すら必要だった。しかも、夫人はほとんど信じられないくらい、意地悪くものを覚えていた。ついでに、もう二つばかりエピソードを話しておこう。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 まだ農奴解放の噂が、初めて広がりだしたばかりの頃だった。ロシヤ全土がよろこびにみちて、面目一新の気勢を示していたとき、ヴァルヴァーラ・ペトローヴナは、ペテルブルグから来たある男爵の訪問を受けた。それは、最高の階級に多くの縁故を持った人で、農奴解放の事件にもきわめて密接な関係があった。夫人は夫の死後、上流社会との関係がだんだん薄らいで、ついにはまったく絶えてしまったので、こういう人の来訪を一かたならずありがたく思った。男爵は夫人のところに、一時間ばかりも腰を据えて、お茶を飲んで行った。ほかにはだれもいなかったが、スチェパン氏だけは夫人に招かれて、客人の前へ突き出された。男爵はもとから彼について、ちょいちょい小耳に挾んだこともあるが(もっとも、そんな様子をして見せただけかもしれぬ)、お茶のあいだにもあまり彼に話しかけなかった。もちろんスチェパン氏とても、自分の顔に泥を塗るようなことをするはずがないし、またそのものごしもなかなかみやびやかなものだった。彼はあまりいい家の生まれではなかったらしいが、妙な廻り合わせでごく幼い頃から、モスクワのある名家で育てられることになったので、したがって、非の打ちどころは何一つなかった。フランス語なぞはパリジャンのようにうまかった。こういうわけだから、男爵は一目見たばかりで、夫人がこんな田舎へ引っ込んでいても、なかなか立派な人たちに取り巻かれていることを会得すべきはずであった。ところが、実際はそうはゆかなかった。
 男爵が断固とした調子で、当時、ひろがり始めたばかりの大改革の噂が、完全に信頼すべきものだ、と保証した時、スチェパン氏は我慢しきれなくなって、突然『ウラー』と叫んだうえ、おまけに片手を振って、何か歓喜の情を現わすような身振りまでした。もっとも、その叫び声はあまり高くなく、むしろ優美なくらいだった。ことによったら、それは前から企んだ歓喜の声で、身振りもお茶の三十分ばかり前、鏡に向かってわざわざ練習したものかもしれない。しかし、どこかこう仕損じたところがあったに相違ない。男爵はにったりと、あるかないかの微笑を洩らした。が、すぐに恐ろしく慇懃な調子で、この偉大な事件を眼前に控えた露国民ぜんたいの喜悦の声が、この際いかにも当然のものだ、というようなことをちょっとのべて、それから間もなく辞し去った。しかし、帰る時スチェパン氏にも、二本の指を差し伸べることを忘れなかった。ヴァルヴァーラ夫人は客間へ帰って来ると、何かテーブルの上で捜し物でもするようなふうで、初め三分間ばかり黙って立っていたが、突然スチェパン氏のほうを振り返って、あおざめた顔に両眼を輝かせながら、歯と歯の間から押し出すような低い声で、
「わたくしこのことはけっして忘れませんよ!」といった。
 翌日、夫人はなんのこともなかったようなふうで、友だちと顔を合わした。昨日のことはおくびにも出さなかった。しかし、十三年後に、また悲劇的な衝突が起こったとき、夫人はだしぬけにこのことをいいだして、彼を責め、十三年前、初めて彼を責めた時と同じように、真っ青な顔をした。夫人が彼に向かって、『わたくしこのことはけっして忘れやしませんよ!』といったのは、生涯でたった二度きりである。この男爵事件の時はもう二度目だった。しかし、最初の場合にも、やはり夫人の性格が明らかに出ているうえに、スチェパン氏の運命に重大な意義を帯びているように思えるので、わたしはこの出来事もついでに話しておこうと思う。
 それは一八五五年の春五月、ちょうど故スタヴローギン中将死去の報知が、スクヴァレーシニキイヘ届いた後のことだった。この浮気者の老人は、クリミヤの隊へ転任を命ぜられて、急いでそこへ出かけて行く途中、胃病でなくなったのである。ヴァルヴァーラ夫人は未亡人となって、全身をすっかり喪服に包んでいた。もっとも、夫人はあまり悲嘆に暮れてもいなかった。なぜなら、夫人は性格の相違のため、もうこの四年間というもの、ぜんぜん別居の暮らしをして、夫に年年仕送りをしていたからである(主人の中将には声望と知己のほか、百五十人の農奴と俸給しかなかったので、財産の全部もスクヴァレーシニキイも、富裕な商人のひとり娘であるヴァルヴァーラ夫人のものであった)。が、それでも夫人は意外な報知に顛倒して、じっと家に閉じこもりながら、孤独を守っていた。スチェパン氏がしじゅうそばにつききりだったのは、いうまでもない。
 それは五月も春たけなわ頃で、夜ごと夜ごとの風情はえもいわれなかった。ちょうど野桜が咲き始めていた。二人の友は毎晩庭に落ち合って、夜更けるまで四阿《あずまや》に坐り込んだまま、互いに感慨や思想を披瀝し合うのであった。どうかすると、恐ろしく詩的になることもあった。ヴァルヴァーラ夫人は運命の変化に影響されて、不断よりよく話した。そして、まるで友だちの胸にぴったりと寄り添うているような具合であった。こういう状態が幾晩もつづいた。そのうちに突然ある奇怪な想念が、スチェパン氏の心に影を投げた。『もしや頼りのない寡婦《やもめ》としてあのひとは、ほかでもないこの自分に望みをかけているのじゃなかろうか? そして、一年の喪が明けると同時に、こちらから結婚を申し込むのを、待ち設けているのではなかろうか?』ずいぶん鉄面皮な考えではあったが、高潔な素質は時とすると、かえって鉄面皮なものの考え方を助長させるものでもあるし、そのうえ修養の多方面ということ一つだけでも、優に説明のできることである。彼はいろいろ考えてみたあげく、どうもそれらしいところがあると、決めてしまった。彼は思い煩った。『財産は大したものだ、それは事実だが、しかし……』実際、ヴァルヴァーラ夫人はあまり美人とはいわれなかった。背の高い骨立った女で、黄いろい顔は馬かなんぞのように、やたらに長かった。しだいしだいに、スチェパン氏の迷いは烈しくなった。彼はさまざまな疑惑に苦しめられて、二度ばかりわれとわが不決断に泣いたことさえある(彼はかなりよく泣いたものだ)。晩になると、つまり、四阿《あずまや》へやって来ると、彼の顔は自然と一種気まぐれな、人を馬鹿にしたような表情を浮かべるようになった。その表情は媚びるようでもあったが、また同時に高慢なところもあった。これは何かの拍子で自然そうなっていくので、その人が正直であればあるほど、よけい目に立つものである。この場合、事実をどう判断したらいいか、それはだれにもわからない。しかし、スチェパン氏の推察に符合するようなことは、ヴァルヴァーラ夫人の心に芽ざしていなかった、とこう解釈したほうが真に近そうである。それに、夫人は自分のスタヴローギンという姓を、たとえ劣らず世に聞こえていようとも、ヴェルホーヴェンスキイの姓に変えるようなことはしなかったに相違ない。おそらく夫人の側《がわ》としては、ただ女らしい戯れがあったにすぎないらしい。つまり、少し変わった境遇にいる女にはきわめてありがちな、無意識な女らしい要求のあらわれなのである。しかし、わたしはあえて確言しようとは思わない。女というものは、今日の時代になっても、まだ究めつくせない深淵なのだから! しかし、もうさきへ移ろう。
 とにかく、夫人は彼の奇妙な表情を、はらの中で看破していたものと考えねばならぬ。なぜなら、夫人が非常に物事にさとく、よく気がつくのに反して、彼のほうは時とすると、あまりおめでたすぎると思われるくらいだったからである。しかし、二人は依然たる調子で夜な夜なを過ごし、その会話は同じように詩的で興味があった。ところが、ある晩、夜も更けてきたので、とりわけ活気と詩趣にみちた会話を交した後、スチェパン氏の住まいとなっている離れの入口で、互いに固く手を握り合って、親しく別れを告げた。毎年夏になると、彼はスクヴァレーシニキイの大きな地主邸を出て、ほとんど庭の真ん中に立っているこの離れへ引っ越して来るのであった。彼は自分の居間へ入って、せわしないもの思いに耽りながらシガーを取ったが、まだそれを吸いつけないうちに、がっかりした心持ちで開け放した窓の前にじっとたたずみながら、皎々たる月をかすめる和毛《にこげ》のような、ふわふわした白雲に見入っていた。と、ふいに聞こえる軽い衣摺れの音に、ぴくりとして振り返った。彼の目の前には、つい四分ほど前に別れたばかりのヴァルヴァーラ夫人が、再び突っ立っている。その黄いろい顔はほとんど紫色になって、きっと食いしばった唇は、両はじをわなわな慄わしていた。まる十秒間、彼女は断固とした容赦のない目つきで、じっと無言に相手を見つめていたが、やがてだしぬけに、早口にこうささやいた。
「わたくしこのことはけっして忘れませんよ!」
 スチェパン氏はもう十年もたった後で、わたしにこの佗しい物語を伝えたが(まず入口の戸を閉めておいて、声を潜めながら話したのだ)、彼の誓っていうところによると、そのとき彼は石のようにその場へ立ちすくんでしまったので、ヴァルヴァーラ夫人が姿をかき消したのは、目にも耳にも入らなかったほどである。その後、夫人はこの出来事をおくびにも出さず、まるでなんのこともなかったように、澄ましこんでいたので、彼は死ぬまでもこのことを病気前の幻覚にすぎないと考えていた。実際、彼はその晩から発病して、二週間ばかりずうっと床についたのである。ついでにいっておくが、四阿《あずまや》の逢いびきもそのために自然中止になった。
 しかし、幻覚にしてしまおうという考えもありながら、彼は毎日、死ぬまでも、この事件の後日譚、いわばこの事件の解決を、待ち佗びるような気持ちになっていた。このことがあのままですんでしまったとは、どうしても信じられなかった。もしあのままですんでしまったとすれば、彼はときどき自分の親友の顔を眺めて、妙な心持ちを抱かざるをえないではないか。

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 夫人は彼のために、自分で着物まで工夫してやった。で、彼も一生涯それを着通したが、その着物は優美で、一風かわっていた。裾の長い、ほとんど上までボタンのついた、すこぶるハイカラな落ちつきのよい黒のフロック、鍔の広い柔かい帽子(夏は麦藁帽に変わった)、結び目の大きい両端の垂れた白い精麻《バチスト》のネクタイ、銀の金具のついたステッキ、そして、髪は肩まで垂れていなければならぬ。スチェパン氏は黒味がかった亜麻色の髪をしていて、それもこの頃やっといくらか白くなり始めたばかりである。鼻ひげも顎ひげも綺麗に剃り上げていた。噂によると、若い時は非常な好男子だったそうだが、わたしにいわせると、年をとってからも、なかなか押し出しが堂々としていた。それに、五十三やそこらでは年をとったというほどでもない。しかし、彼は一種の公民としての見得のために、けっして若がえろうとしなかったばかりでなく、かつは押しも押されもせぬ不惑の年輩に入ったことを、得意にしているようであった。で、くだんの着物をきて、髪を肩まで垂らした、痩せぎすのすらりとした彼の姿は、僧正か何かに似ていた。というよりは、三十年代の頃にどこかの本屋から出版された石版画の詩人クーコリニックに似ている、といったほうが適評だろう。ことに夏、庭の中で、咲き満ちたライラックの木陰に置かれたベンチに腰を下ろし、ステッキに両手を掛けてもたれながら、ページを開いた本を傍に置いて、伏目がちに落日に向かって詩的な瞑想に耽っている時などは、まるでそっくりそのままであった。
 本といえば、晩年になって、彼はどうやら読書から遠ざかったようである。もっとも、それはずっと後のことで、ヴァルヴァーラ夫人が取り寄せてくれる数多くの新聞雑誌には絶えず目を通して、ロシヤの文壇で評判になった物語などにも、しじゅう気をつけていた。もっとも、自分の見識だけはけっして落とさなかった。一どロシヤ現代の高級な内政外交の研究に没頭しかけたこともあるが、間もなくこの計画も諦めて、ほうり出してしまった。また時々トクヴィールを庭へ持ち出して読んだり、ポール・ド・コックをかくしの中へひそまして、持ち歩いたりすることもあった。しかし、これなどは問題にもならぬつまらないことだ。
 余計なことだが、ついでにクーコリニックの肖像のこともいっておこう。この絵が初めてヴァルヴァーラ夫人の目に入ったのは、まだモスクワの名門の寄宿学校にいた娘時分のことである。寄宿舎にいる若い娘というものは、何にでも手当たり次第に恋をするものだが(学校の先生たちも彼らの恋の対象になる、それも主として、習字と絵の先生である)、ヴァルヴァーラ夫人もその例にたがわず、さっそくこの肖像に恋してしまったのだ。しかし、面白いのは、こうした若い娘の特質ではなくて、夫人が五十からになる今日の日まで、この絵を自分の最も懐かしい秘蔵品の一つとして、大切に保存していることである。こういうわけであるから、夫人がスチェパン氏に作ってやった服装も、幾分この絵に描いてある着物に似せたのかもしれない。が、これももちろん、つまらぬことだ。
 最初の数年間、というよりも、むしろヴァルヴァーラ夫人のもとに暮らした期間の前半は、スチェパン氏もしじゅう何か著作のことを考えて、毎日のように真面目な心持ちで書き始めるのであったが、その後半期になると、もはや前のほうは忘れてしまったようなふうつきだった。『もうすっかり仕事にとりかかる用意もでき、材料も集めてあると思うのだが、どうも働く気持ちになれない! なんにもできない!』暗然と首を垂れながら、われわれに向かってこんな愚痴をこぼす度数が、だんだんと多くなっていった。こういう事実もわれわれの目から見て、科学の殉教者たる彼の偉大さを増す所以となったに相違ないが、しかし、彼自身は何か別なことを望んでいたらしい。『おれはみんなに忘れられてしまった。もうおれはだれにも用のない人間なのだ!』こんな言葉が思わず口を突いて出ることも、一再にとどまらなかった。この仰々しい憂欝のしるしは、五十年代の終わり頃に、とくに烈しく彼を領したのである。とうとうヴァルヴァーラ夫人も、これは冗談事でないと思った。それに、自分の友が世間から忘れられて、無用人になりはてたなどと考えるのは、夫人にとって、とうてい堪えうるところでなかった。で、彼の気を紛らし、かたがたその名声を回復するために、夫人は彼をモスクワへ連れて行くことにした。そこには文士や学者の仲間に、幾人か優雅な知人があったので。しかし、行ってみると、モスクワもあまり感心しなかった。
 それは一種特別な時代であった。以前の静けさとは似ても似つかぬ。まるで新しい、しかも妙に恐ろしいあるものがやって来たのである。このあるものはいたる処で、――スクヴァレーシニキイのような田舎でさえも、それとなく感じられた。さまざまな噂も伝わってきた。いろいろな事実も、精粗の差こそあれ、全体としてわかってきた。けれど、疑いもなく、事実のほかに、まだ何かそれに伴う思想がある。しかも、その数がまた大変なものだ。つまり、これが頭を混乱させるのであった。どうしてもそれに順応することができず、またその思想が何を意味するかを正確に突き留めることもできなかったのである。ヴァルヴァーラ夫人は女性特有の性質で、必ずその中に秘密があるものとしなければ、承知できなかった。彼女は新聞雑誌を初め、外国の出版物や、当時もう出はじめた檄文(こんなものまで夫人の手に入ったのだ)にいたるまで、自分で読んでみたけれど、ただ目の廻るような気持ちを覚えたばかりである。で、今度は手紙を書きにかかった。しかし、あまり返事が来なかったうえに、せっかく来た返事もだんだんわからなくなっていった。スチェパン氏は、『こんなふうの思想をすっかり』一度できっぱりわかるように説明してほしいと、改まって夫人のところへ呼ばれて行った。が、その説明には夫人は恐ろしく不満足だった。この世間一般の運動に対するスチェパン氏の見解は、思いきって尊大なものであった。そして、彼のいうことはことごとく、自分は世間から忘れられた、自分はだれにも用のない人間だ、という一点に帰着してしまった。
 しかし、ついに彼も人の口に上るようになった。はじめ二、三の外国で出る刊行物が、彼のことを流謫の受難者と評し、また次に間もなくペテルブルグで、かつて輝かしい星座に加わっていた一つの遊星として、噂をしだした。中には、どういうわけだか、ラジーシチェフ([#割り注]ロシヤの文学者(一七四九―一八二〇年)『ペテルブルグよりモスクワへの旅』で農奴制を公然と非難したため筆禍を買った[#割り注終わり])に比較するものさえあった。それからまただれかが彼の訃報を伝えて、近いうちにその小伝を掲載すると予告した。スチェパン氏はたちまちよみがえった。そして、恐ろしく気取り始めた。現代の人々に対する高慢な態度は、ことごとく一時に姿を消したばかりか、かえって現代の運動に加わって、力量を世に示したいという空想が、彼の心中に燃え始めた。ヴァルヴァーラ夫人は、再びいっさいを信用してしまって、恐ろしく騒ぎだした。で、一刻の猶予もなくペテルブルグへ出かけて、いっさいを実地に調査し、親しくその空気を呼吸してみたうえで、もしできるならば、直接あたらしい事業に全身を捧げようと、決心したのである。そのとき夫人は自身で一つ雑誌を発行して、それに一生をささげるつもりだといいだした。事がこれほどに進行したのを見たスチェパン氏は、ますます高慢になってきた。そして、ペテルブルグへ行く途中などでは、ほとんど保護者然たる態度で、ヴァルヴァーラ夫人に向かうようになった。このことも夫人は胸の奥深くたたみ込んだ。もっとも、この旅行については、夫人にしてみると、きわめて重大な原因がほかにあった。つまり、上流の社交界における地位の復興である。できるだけ社交界で、自分のことを思い出させなければならない、少なくとも、試みをしてみる必要がある。しかし、まず第一の口実は、当時ペテルブルグ大学の業を卒えんとしていた、一人息子に会いに行くということであった。

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 ペテルブルグへ着いた彼らは、そこで冬のシーズンをだいたい過ごした。けれど、四旬斎近くなる頃には、何もかも虹の色をしたシャボン玉のように、脆くも消えてしまった。空想はむなしく散り失せた。しかも、わけのわからぬ何物かは、少しもはっきりしないばかりか、かえってますますいまわしくなってゆくのであった。第一、上流社会における地位の回復は、ほとんど不成功に終わって、恥ずかしい無理な運動をしたあげく、やっと一縷の関係を取り留めたにすぎない。これに侮辱を感じたヴァルヴァーラ夫人は、もう遮二無二『新しい思想』を目ざして飛びかかった。そして、自分の住まいで夜の小集会を催しては文学者などを招き寄せたのである。こういう連中は、うようよするほどやって来て、はては招待もなしに自分でのこのこ押しかけて来るようになった。そして、だれもかれも新たに自分の友だちを引っ張って来る。夫人は今までこんな文学者を見たことがなかった。鼻持ちがならぬほど見栄坊で、しかも、そうするのが自分の義務であるかのように、全然おおっぴらなのである。中には(けっして皆が皆とはいわぬ)、酔っぱらってやって来ながら、つい昨日あたり発見された特殊な美でも自覚したような顔つきをしている者もあった。みな揃いも揃って不思議なほどなにやかやと誇りばかり高く、その顔には『われわれはたった今、ある非常に重大な秘密を発見したばかりなんです』とでも書いてあるように見える。彼らは絶えず罵り合って、しかも、それを名誉のように心得ている。いったいどんなことを書いているのかわからないが、その中には批評家もいれば、小説家もいるし、脚本家も諷刺家も、あらさがしの専門家もいた。
 スチェパン氏は、一代の運動を支配しているこの連中の、一流株のサークルへも首を入れてみた。こういう支配者の階級は、ちょっと信じかねるくらい高いところにあったが、それでも彼らは愛想よく氏を迎えた。もっとも、彼らはスチェパン氏について、『ある思想を代表する人』とよりほかには、何一つ知ることも聞くところもなかったのはもちろんである。彼はこの人たちの周囲で大いに活動して、彼らがオリンピアの神々にもたとうべき高い位置に納まっているにもかかわらず、ヴァルヴァーラ夫人の客間へ、二度ばかり招待したことさえあった。この連中は恐ろしく真面目で、丁寧で、立ち居振舞いも尋常だった。ほかの連中は、見受けたところ、彼らを恐れているらしかった。しかし、見るから暇がないというようなふうだった。また、ヴァルヴァーラ夫人が久しい前から、みやびやかな交際をつづけていた前時代の著名な文学者で、当時ペテルブルグに居合わせた人たちも、二、三顔を見せた。けれど、驚いたことには、こうした本当の大家、疑う余地のない大家が、水よりも静かに、草の葉よりもつつましやかなのであった。中には明らかに、今のわいわい連に付和雷同して、意気地なくその鼻息をうかがっているようなのもあった。
 初めのうち、スチェパン氏は廻り合わせがよかった。彼は方々から引張り凧になって、いろいろな文学会の席へ引き出されるようになった。初めてある公開の朗読会で、朗読者の一人として演壇に現われたとき、割れるような拍手が起こって、ものの五分間ばかり鳴りもやまなかった。彼は九年後に涙とともにこのことを思い出した、――もっとも、それは感謝の涙というより、むしろ持ち前の芸術的性情から出たことである。『本当だよ、誓ってもいい、賭でもするよ』と彼はわたしにいった(これはわたし一人にだけ秘密でうち明けたのである)。『この聴衆の中で、わたしのことを少しでも知っているものは、まるっきりいなかったんだからねえ!』これはなかなか意味深い告白である。もし彼が当時演壇に立った刹那、感激に溢れた心をいだきながら、そのくらい明確に自己の地位を意識しえたとすれば、つまり犀利な機知を持っているということになる。が、同時に、九年もたった後、侮辱の感なしにこれを回想することができなかったとすれば、彼には犀利な機知がないということになる。
 彼はまた二、三の連名抗議文に署名をしいられて(何に対する抗議やら、彼自身も知らない)、署名をした。ヴァルヴァーラ夫人も、何かしら『けがらわしい仕事』に署名をしいられて、これも同様に署名した。もっとも、これらの新しい人たちの大多数は、ヴァルヴァーラ夫人を訪問には来るけれど、なぜか隠しきれない嘲りと軽蔑の念をもって、夫人を見おろすのを義務と心得ていた。その後スチェパン氏が心安からぬ折々に、わたしにほのめかすところによると、夫人はこの時から彼を羨み始めたのだそうである。もちろん、夫人もこんな連中を相手にすべきでないことは、自分でよく承知していたけれど、それでも婦人特有のヒステリックな焦躁をもって、夢中になってこの連中を迎えた。何よりも、しじゅう何ものかを待ち設けるような心持ちが、強かったのである。こうした夜の集会では、夫人はあまり多く話さなかった。むろん、その気にさえなれば、話すこともできたのだが、どちらかといえば人の話を傾聴するほうが多かった。その連中の話題といえば、検閲の撤廃、硬音符([#割り注]子音に終わる語の後に付ける無音の記号[#割り注終わり])の廃止、ロシヤ文字を廃してラテン文字を代用すること、きのうだれやらが追放されたという話、勧工場で見苦しい騒ぎが始まったという噂、自由な連邦組織の下にロシヤを民族別で分立さしたほうが有益だという説、陸海軍を廃止すること、ドネープル流域のポーランドの土地復興、農民改革と檄文の配付、相続制度、家族制度、親子関係、僧侶制度などを全廃すること、婦権を高唱すること、万人が異口同音にその非を鳴らしているクラーエフスキイ氏([#割り注]当時の一流雑誌『祖国雑誌』の発行者[#割り注終わり])の邸宅のこと、――こんなものであった。
 こうした新人のわいわい連の中に、ずいぶんいかさま者が混っているのは明白だったが、正直なごく人好きのする人たちも大勢いたのは、疑いをいれない。もっとも、どこか奇態なところが少なからずあったのは、仕方のないことだ……しかも、正直な人たちは、不正直で無作法な連中より、余計わけのわからない点が多かったが、それにしても、いったいだれがだれの牛耳を取っているのか、さっぱり見当がつかなかった。ヴァルヴァーラ夫人が雑誌発行の意志を発表した時、またもや以前に増して多くの人が押しかけて来るようになった。やがて間もなく夫人に面と向かって、お前は資本家だ、労力を搾取しているのだなどと、さまざまな非難を浴びせ始めた。こうした種類の非難は、だしぬけであると同じ程度に無作法であった。
 イヴァン・イヴァーノヴィチ・ドロズドフという、ずいぶん年をとった将軍があった。これは亡きスタヴローギン将軍の同僚であり、また親友でもあって、ごくごく立派な(といっても、それは一種特別の立派さなので)人物であった。わたしたちはみんなこの人をよく知っていたが、思いきって頑固な癇癪持ちで、非常な大食と非常な無神論きらいで知られていた。これがある晩ヴァルヴァーラ夫人のところで、一人の有名な青年文学者と争論を始めたことがある。青年文学者は開口一番、『もしそんなことをおっしゃるなら、あなたは将軍といわれても仕方がありませんよ』つまり、将軍という言葉以上の、ひどい罵詈の言を見いだしえない、という意味なのであった。ドロズドフ将軍は烈火のごとく怒った。『そうじゃ、わしは将軍じゃ、陸軍中将じゃ、わが皇帝陛下にお仕え申した男じゃ。それになんじゃ、貴公はただの小僧じゃないか、神様を持たん人間じゃないか』で、とうとう許すべからざる醜態が演出された。翌日この出来事が新聞にあばかれたけれど、この将軍をすぐにその場から追い出そうとしなかったヴァルヴァーラ夫人の『醜行』に対しては、連名の抗議が準備された。また絵入雑誌は一つの漫画を掲げて、ヴァルヴァーラ夫人と老将軍とスチェパン氏を、保守党仲間の三幅対として画中に並べたうえ、この事件のためにわざわざある国民詩人を煩わした一編の詩を添えたほどである。わたし一個の意見を述べてみようなら、実際、将軍の位にある多数の名士は、滑稽なものの言い方をする癖がある。『わしはわが皇帝陛下にお仕え申した』……などと、まるでこういう人たちの皇帝陛下は、われわれ平民のとは同一人でない、別な皇帝陛下ででもあるような具合である。
 もうこのうえペテルブルグに止まることは、とうていできなかった。それにまだスチェパン氏は、取り返しのつかぬ失態を演じたのである。ほかでもない、彼はついに我慢ができなくなって、芸術の権威を主張しはじめたので、世間ではなおさら彼を馬鹿にするようになった。最後に出席した朗読会で、彼はあっぱれ公民として恥ずかしからぬ雄弁を揮って、聴衆の胸の琴線に触れ、自分の受けている『迫害』に対して尊敬を喚び起こすつもりだったのである。彼は『祖国』なる言葉の無益で滑稽なことには異論なく同意し、宗教の有害という思想にも賛成したけれども、ただ長靴はプーシキンより価値の低いものだ、比較にならぬほど低いものだと、臆面もなく断固としていいきった。聴衆はいっせいに容赦なく、口笛を吹いて騒ぎだしたので、彼は演壇をおりもやらず、そのままそこで手放しで泣きだした。ヴァルヴァーラ夫人は、ほとんど生きた心地もない彼を引っ張って、家へ連れて帰ったのである。〔“On ma'a traite' comme un vieux bonnet de coton!”〕(あの連中は、わたしをまるで木綿の部屋帽子かなんぞのように扱いおった)と彼は意味もなくこうくり返した。夫人は夜っぴてその傍につききりで、ベーラムの雫をたらしてやりながら、夜の明けるまでくり返しくり返しこういった。『あなたはまだまだなすところのある人です。あなたはまた世に出る時がきます。また人に認められる時がきます……ほかの土地へ行けばね……』
 翌日の早朝、ヴァルヴァーラ夫人のもとへ、五人の文学者が訪ねて来た。そのうち三人は、今までまるで見たこともない、まったく縁もゆかりもない男だった。彼らはしかつめらしい顔つきをして、自分たちは夫人の雑誌発行の件を商議して、これに関する決議をもたらしたのだと切り出した。ヴァルヴァーラ夫人は、今までだれにも雑誌のことについて、商議をしてくれとも、決議をしてくれとも、依頼したことはなかったのだ。決議というのはほかでもない。夫人は雑誌の基礎を定めたら、これを自由組合の組織にして、資本も何もそっくり自分たちに引き渡したうえ、スクヴァレーシニキイヘ帰ってもらいたい、そしてついでに『頭の古くなった』スチェパン氏をも、連れて帰ることを忘れないでほしい、しかし、夫人の所有権を認めて、毎年収入の六分の一を送ることだけは、彼らも礼儀上承諾する、というのであった。何より感に堪えないのは、この五人の連中のうち確かに四人までは、少しも利己的な目的なしに、ただただ『公共の事業』のために尽力している、という点であった。
『わたしたちは、まるで腑抜けのようになってペテルブルグを出ましたよ』とスチェパン氏はよくこう話した。『わたしはもうなんにも考えることができなかった。ただ今でもおぼえているのは汽車のわだちの音に合わせて、
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ヴェーク イ ヴェーク、イ レフ カムベーク
レフ カムベーク、イ ヴェーク イ ヴェーク……
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]([#割り注]「ヴェーク」は「世紀」或いは「時代」、「イ」は「および」、「そして」の意、レフ・カムベークは人名、いかなる人なるや不明[#割り注終わり])
とまあ、こんなわけのわからないことを、モスクワへ着くまで、のべつ口の中で、念仏のようにくり返していたものさ。モスクワへ着いて、やっと初めて人心地に返った、――実際、ここで何かしらまるで違ったものを、見つけたような気がしたよ、諸君』と彼は時おりわたしたちに向かって、感激に打たれながら叫ぶのであった。『ああ、きみたちにはとても想像できんだろう、自分が久しい前から、神聖なものと崇めていた偉大な思想を、わけのわからない連中が手づかみにすると、自分たちと同じような馬鹿者に見せるために、往来へ引き摺り出してさ、馬鹿な子供の玩具《おもちゃ》か何かにするつもりで、均斉も調和もなく片隅のほうへ、古道具市の泥の中へ、