京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP121-P144

ーリニコフは顔をふり向けようともせずにたずねた。
「つかなかったとも、そのために気ちがいみたいにおこりだしたほどだよ。ことにぼくが一度ザミョートフをつれて来たときなど、そりゃたいへんだったぜ」
「ザミョートフを?……事務官を?……何のために?」ラスコーリニコフは急にふり返って、きっとラズーミヒンに目をすえた。
「おい、何をきみはそんなに……なんだってそう心配そうな顔をするんだい? きみと近づきになりたいといいだしたんだよ。あの男が自分からいいだしたんだ。それってのがね、ふたりできみのことをいろいろ話したからさ……でなくて、だれからきみのことがこうくわしく知れると思う? きみ、あれはじつにいい男だよ、まったくすてきな人間だ……もっとも、むろん、それもある意味においてだがね。で、今じゃぼくらは親友同士の間がらで、ほとんど毎日のように会ってるんだ。だって、ぼくはこの方面へ引っ越して来たくらいだもの。きみはまだ知らないんだね? つい最近、引っ越したばかりなんだ。ルイザのところへも、あの男と二度ばかり行ってみたよ。ルイザをおぼえてるかね、ルイザ・イヴァーノヴナを?」
「ぼく、なにかうわ言をいったかね?」
「きまっているじゃないか! まるできみのからだが、きみのものでないみたいだったんだもの」
「どんなうわ言をいった?」
「へえ、これはこれは! どんなうわ言をいったかって? どんなことかわかりきってらあね……さあ、きみ、もうこのうえ時間をつぶさないように、用件にかかろうじゃないか」
 彼はいすから立って、帽子に手を掛けた。
「どんなうわ言をいったよう?」
「ええっ、一つ覚えみたいに何いってるんだ! それとも何か秘密でもあって、それを心配してるのかい! ご念には及びません、伯爵夫人のことなんか、なんにもいやしなかったよ。ただどこかのブルドッグがどうとか、やれ耳輪がなんだとか、やれ鎖がどうのといってたっけ。それからクレストーフスキイ島のことだの、どこかの門番のことだの、ニコジーム・フォミッチのことだの、副署長のイリヤー・ペトローヴィチのことだの、いろいろしゃべってたよ。ああ、そのほかきみご自身のくつ下のことが、たいそう気がかりのご様子でしたよ、たいそうね! それこそほんとうに哀願するような調子で、くつ下をくれ、くつ下をくれと、ただその一点ばりさ。で、ザミョートフが自分ですみずみをくまなくさがして、やっとのことで見つけたうえ、オーデコロンで洗いあげて指輪をいくつもはめた手で、そのぼろをきみに渡したんだ。その時はじめてご安心あそばして、まる一昼夜、そのぼろっくずを両手に握りしめていらっしったっけ。もぎ放すこともできないくらいさ。きっとまだどこか毛布の下にころがってるだろう。かと思うと、こんどはまたズボンの切れっ端をねだりだすんだが、ほんとうに涙を流さないばかりなのさ! ぼくらはいろいろ頭をひねってみたが、いったいぜんたい、どんな切れっ端やら、とんと見当がつかなかったよ……さあ、そこでいよいよ用件にとりかかろう! ここに三十五ルーブリあるから、このうち十ルーブリだけ持ってくよ。二時間もたったら、計算書をこしらえてきみに提出する。その間に、ゾシーモフにも知らせてやろう。もっとも、そうしないでも、あの男、もうとっくに来てなくちゃならんはずだがな。もう十一時過ぎだもの。ところで、きみ、ナスチェンカ、ぼくのるす中せいぜいのぞいて見てやってくれ、飲みものとか、そのほかなんでもほしいというものをやるように。パーシェンカにはぼくが自分で必要なことはいっとくから。じゃ、失敬」
「お主婦《かみ》さんのことをパーシェンカだなんて! なんてあつかましい男だろう」とナスターシヤは後ろから追っかけるようにいった。それからドアをあけて耳をすまし始めたが、しんぼうしきれなくなって、自分も下へかけ出した。
 彼女はラズーミヒンが下で主婦《かみ》さんと何を話してるか、知りたくてたまらなかったのである。それに全体から見て、彼女はどうやらラズーミヒンにぼうっとなっているらしかった。
 彼女の出たあとのドアがしまるが早いか、病人は毛布をはね飛ばして、気ちがいのようにべッドからおどり上がった。彼は焼けつくような痙攣に近い焦燥の念をいだきながら、一刻も早くふたりのものが出て行って、そのるすに仕事にかかれる時がくるのを、今か今かと待ち設けていたのである。しかし、それはなんだろう、どんな仕事だろう?――彼はまるでわざとのように、それをど忘れしたのだ。
『おお神さま。たったひと言聞かせてください――みんなはもう何もかも知っているのか、それともまだ知らないのか?もし知っていながら、ぼくの寝ている間だけ空っとぼけて、いいかげんからかったあげく、いきなりここへやって来て、もう何もかもとっくに知れていたんだが、ただちょっと知らないようなふりをしていただけだ……なんていいだしたらどうだろう? いったいこれからどうするんだったっけ? ひょいと忘れてしまった、まるでわざとねらったように急にど忘れしてしまった。つい今しがたまで覚えていたのに!』
 彼は部屋のまん中に突っ立って、悩ましい疑惑に包まれながら、あたりを見まわした。やがて、戸口へ近寄ってドアをあけ、じっと耳をすましたが、これも見当ちがいだった。と、ふいに思い出したように、彼の例の壁紙に穴のあいている片すみへ飛んで行き、一生けんめいに調べてみたり、手を突っ込んでかきまわしたりしたが、これもやっぱりそうではなかった。彼はストーヴのほうへ行って、その戸をあけ灰の中をかきまわしてみた。と、ズボンのすその切れっ端や、引きちぎったポケットのぼろぼろになったのが、あのとき投げ込んだままでころがっていた。してみると、だれも見なかったわけだ! その時ふと彼は、今しがたラズーミヒンの話したくつ下のことを思い出した。じっさいそれは長いすの上にかけた蒲団《ふとん》の下にはいっていたが、あのとき以来もうすっかりもみくたになって、よごれくさっていたので、ザミョートフはむろん、何ひとつ見わけることができなかったに相違ない。
『やっ、ザミョートフ!………警察!………だが、なんのためにおれを警察へ呼ぶんだ? どこに出頭命令があるんだ? やっ!………おれはごっちゃにしてた……おれはあのとき召喚されたんだっけ、あの時もやっぱりくつ下をしらべていた。ところで、今は……今おれは病気なのだ。が、ザミョートフは何用でやって来たんだろう? ラズーミヒンはなんのために、あんな男を連れて来たんだろう?………』ふたたび長いすに腰をおろしながら、彼は力なげにつぶやいた。『これはいったいどうしたんだろう? やっぱりうわ言のつづきかしら? それともほんとうなのか? どうもほんとうらしい……ああ、思い出した、逃亡だ。早く逃げるんだ。ぜひ、ぜひとも逃げるんだ! だが……どこへ? おれの服はどこにある? くつもない! かたづけちゃった! 隠しやがったんだ! わかってらあ! ああ、ここに外套《がいとう》がある――見落としやがったな? ほい、金もテーブルの上にのっかってる、ありがたい! ここに手形もある……おれはこの金を持って逃げ出そう。そして、ほかの住まいを借りよう。やつらにさがし出せるものか……だが、住所係は? 見つける。ラズーミヒンは見つけ出すにちがいない。いっそほんとうに逃げてしまおう……うんと遠方へ……アメリカへでも。そうすれば、あいつらなんか、くそくらえだ! 手形も持って行こう……向こうで何かの役に立つかもしれない。それからほかに何を持って行くかな! あいつらはおれを病気だと思っていやがる! おれの歩けることを知らないんだ、へ、へ、へ!おれ[#「、へ!おれ」はママ]はちゃんと目つきで読んだ、あいつらは何もかも知ってるんだ! ただ階段をおりさえすりゃ! だが、もし下に見張り巡査が立っていたら! や、これはなんだ、茶か! おや、ビールも残っている、びんに半分ほど、冷たいぞ!』
 彼はまだコップー杯分ほど残っているビールのびんを取って、まるで胸の中の火を消そうとでもするように、さも心地よげにひと息に飲みほした。けれど、一分もたたぬうちに、もうビールが頭へずきんときて、軽い、むしろ快い悪寒《おかん》が背筋を流れた。彼は横になって蒲団《ふとん》を引っかぶった。それでなくても病的なとりとめのない彼の思想は、しだいしだいにごっちゃになっていき、まもなく軽い快い眠りが彼を包んでしまった。彼は陶然《とうぜん》たる気持ちで、頭でまくらあたりのいいところをさがしあて、今までの破れ外套の代りに、いつの間にやら掛かっている柔らかい、綿のはいった蒲団にしっかりくるまると、静かに吐息をついて、ぐっすりと深い眠りに落ちた。それは治癒《ちゆ》の力を持った眠りである。
 だれかのはいって来る物音を聞いて、彼は眠りからさめた。目をあけて見ると、ラズーミヒンがドアをさっとあけ放したまま、はいったものかどうかと思いまどうように、しきいの上に突っ立っていた。ラスコーリニコフはすばやく長いすの上に起き直って、何やら思いおこそうとつとめるもののように、じっとその顔を見つめていた。
「おや、寝てないんだね? ぼくもう帰って来たよ! ナスターシヤ、包みをここへ持って来てくれ!」とラズーミヒンは下へ向かって呼んだ。「今すぐ計算書を渡すよ……」
「何時だい!」と不安げにあたりを見まわしながら、ラスコーリニコフはたずねた。
「いや、すごく寝たもんだ。もう外は夕景だよ。かれこれ六時ごろだろうよ。六時間余りも寝たわけだ」
「たいへんだ! ぼくはなんだってそんなに!………」
「それがどうしたのさ! ようこそお休みじゃないか! どこへ急ぐんだい? あいびきにでも行こうってのかい? 今こそ時間が完全にわれわれのものになった。ぼくはもう三時間ばかりもきみを待ってたんだよ。二度も来て見たけれど、きみが寝てるもんだから。ゾシーモフのところも二度ばかりのぞきに行ったが、るす、るすの一点ばりさ。だが、だいじょうぶ、やがて来るよ!………やっぱり用事で家をあけたんだから。ぼくじつは今日引っ越したよ。すっかり引っ越しちゃったんだ、伯父《おじ》といっしょにね。今ぼくんとこには伯父が来てるんだよ……いや、そんなことどうでもいいや、用件にかかろう! 包みをこっちへくれ、ナスチェンカ。さあ、これからふたりで……ときに、きみ、気分はどうだね!」
「ぼくは健康だよ、病気じゃない……ラズーミヒン、きみは前からここにいたのかい?」
「三時間待ち通したって、いってるじゃないか」
「じゃない、その前のことさ」
「なんだ、前って?」
「いつごろからここへ通っているんだい?」
「だって、ついさっき、きみにすっかり話したじゃないか。それとも、もう覚えてないかい?」
 ラスコーリニコフは考えこんだ。さっきのことが夢のように彼の頭にひらめいた。が、ひとりでは思い出せなかったので、彼は問いかけるようにラズーミヒンをながめた。
「ふん!」とこっちはいった。「忘れたんだね。ぼくはどうもさっきから、きみがまだ十分……その、なに[#「なに」に傍点]になってない、というような気がしてたよ……だが、いまはひと寝入りしたおかげで、すっかりよくなった……じっさい、顔色がずっとはっきりしてきたよ。えらいぞ! さて、いよいよ用件にかかろう! なに、すぐ思い出せるよ。ひとつこっちを見たまえな、きみ」
 彼は気になってたまらなかったらしい包みを解きにかかった。
「これはね、きみ、まったくのところ、とくべつぼくの気にかかってたんだよ。なぜって、きみを人間らしくしなくちゃならないものね。さあ、着手しよう。上から始めるんだね。きみひとつこの帽子を見てくれ」と包みの中からかなり小ぎれいな、と同時にいたってありふれた、安物の学生帽を取り出しながら、彼はしゃべり始めた。「ちょっと寸法を取らせてくれ」
「あとで、こんど」気むずかしそうにその手をはらいのけながら、ラスコーリニコフはいった。
「いや、きみ、ロージャ、もう逆らわないでくれ。あとじゃ遅くなりすぎるんだから。それに寸法を取らずに、あてずっぽうで買って来たんだから、ぼく今夜一晩じゅう寝られないじゃないか。ちょうどかっきりだ!」と彼は寸法を取ってみて、勝ち誇ったように叫んだ。「ちょうどあつらえたようだ! 頭にのせるものは、きみ、服装の中でも一ばんに位するもので、一種の看板《かんばん》みたいなもんだからね。ぼくの友人のトルスチャコーフなんか、いつも公開の席へ出るたびに、ほかの者は帽子をかぶっているのに、やっこさん必ずかぶり物を脱ぐんだ。みんなはね、奴隷根性のせいだと思っているが、あにはからんや、ただ鳥の巣同然な帽子が恥ずかしいからにすぎんのさ。どうも恐ろしいはにかみやでね!
 さてと、ナスチェンカ、ここに帽子が二つあるが、お前どっちがいいと思う――このパーマストンか(と彼は片すみから、ラスコーリニコフの見るかげもない円い帽子を取り出した。彼はなぜか知らないが、これをパーマストン命名したので)、それともこの珠玉のごとき絶品か! ロージャ、ひとつ値を踏んでみたまえ、いくら出したと思う? ナスターシユシュカは?」相手が黙っているのを見て、彼は女中のほうへふり向いた。
「おおかた二十コペイカくらいなもんだろう」とナスターシヤは答えた。
「二十コペイカか? ばか!」と彼は憤慨してどなりつけた。「今どき二十コペイカそこいらじゃ、お前だって買えやしないよ――八十コペイカだよ! それも、少し使ったものだからさ、もっとも、条件つきなんだ――これがかぶれなくなってしまったら、来年はまた一つ別なのをただでよこすってよ、ほんとうだよ! さあ、こんどはアメリカ合衆国にかかろう。ほら、中学時代にそういってたじゃないか。断わっておくが、このズボンはぼくのじまんなんだよ!」と彼は軽い夏地の毛織で作ったねずみ色のズボンを、ラスコーリニコフの前へひろげて見せた。「穴もなければ、しみ一つない。古物とはいえ、なかなか悪くないだろう……それから同じくチョッキ、流行の要求するとおり、とも色だ、古物という点だが、これはじっさいのところ、かえっていいんだよ。柔らかくって、しなやかだからな……考えてもみたまえ、ロージャ、社会へ出て成功しようとするにゃ、ぼくにいわせると、常にシーズンを守りさえすりゃたくさんなんだ。正月にアスパラガスを求めるようなことをしなけりゃ、金入れには何ルーブリかの金がしまっておけるわけだよ。この買物にしてもそのとおりで、今は夏のシーズンだから、ぼくも夏の買物をしたんだ。なぜって、秋に向かうと、シーズンがまた暖かい生地を要求するから、こんなものは捨ててしまわなくちゃならなくなるからね……それに、ましてやそのころになれば、こんなものはひとりでに破けてしまうさ。奢侈《しゃし》の増加のためでなければ、内在的な不備のためにね。さあ、値を踏んでみたまえ! きみの目にはいくらに見える?――二ルーブリニ十五コペイカだ! そして、覚えときたまえ、これも同じ条件なんだから――こいつをはき破ったら、来年べつのをただでくれるんだ。フェジャーエフの店では、その方法でしきや商売しないんだよ――一度金を払っといたら、生涯《しょうがい》それですむのさ。なぜって、買い手のほうでも二度と出かけやしないからね。さあ、こんどはくつの番だ――どうだい? 一度はいたものってことはすぐわかるが、ふた月ぐらいのご用は勤めてくれるよ。だって、外国製だもの、舶来《はくらい》ものだぜ。イギリス大使館の書記が、先週トルクーチイ(古着市場)へ出したんだよ。たった六日はいたきりでさ。急場の金に困ったもんだからね。値段は一ルーブリ五十コペイカ。うまいだろう?」
「でも、足に合わないかもしれないよ!」とナスターシヤが注意した。
「合わない? じゃ、これはなんだい!」と彼はポケットから古い化《ば》けて出そうな、穴だらけのうえに、かわいたどろが一面にこびりついている、ラスコーリニコフのくつを、片足とり出した。「ぼくはちゃんと用意して出かけたんだ。この化け物然たるやつでほんとうの寸法を調べてもらったのさ。ぼくは何もかも誠心誠意やったんだからね。シャツのことは主婦《かみ》さんと話し合いをつけた。ほら、第一、ここにシャツが三枚ある。なみ麻ものだが流行のえりがついてる……だって、そこでと、帽子が八十コペイカ、二ルーブリ二十五コペイカが衣類いっさい、合わせて三ルーブリ五コペイカだ。それから一ルーブリ五十コペイカがくつ――だって、まったく上物だからな――しめて四ルーブリ五十五コペイカさ、それから五ルーブリが肌着いっさい――談判して卸《おろ》し値にさせたんだよ――いっさいで合計九ルーブリ五十五コペイカさ。四十五コペイカのおつりだが、みんな五コペイカ玉だよ。さあ、お受け取りください――とまあ、こういったわけで、きみもいよいよ衣装がすっかりできあがった。だって、きみの外套は、ぼくの意見によると、まだ役に立つばかりか、特殊の風韻《ふういん》さえ帯びているからね――シャルメルの店なんかへ注文したら、たいへんなもんだぜ。くつ下やその他の物にいたっては、きみに一任しておこう。金はまだ二十五ルーブリ残っているよ。パーシェンカのことや、下宿料のことは心配無用、さっきもいったとおり、無限の信用があるんだからね。ときに、きみ、シャツを一つかえさせてくれたまえ。でないと、病気のやつがちょうどシャツの中に隠れているかもしれないから……」
「よせ! いやだ!」ラズーミヒンの衣類調達にかんする緊張した、しかも冗談まじりの報告を、嫌悪《けんお》の色を浮かべて聞いていたラスコーリニコフは、さもうるさそうに振りはらった……
「きみ、そりゃだめだよ。じゃぼく、なんのために足をすりこぎにしたんだい!」とラズーミヒンは屈しなかった。「ナスターシユシュカ、何も恥ずかしがることはないから、手を貸してくれ――そうだそうだ!」
 ラスコーリニコフが抵抗するのもかまわず、彼はとにかくシャツを取りかえてやった。こちらはまくらの上にぶっ倒れて、二分間ばかりはひと言も口をきかなかった。
『まだなかなか離れてくれそうにもないぞ』と彼は考えた。
「どういう金でこんなにいろいろなものを買ったんだい?」と壁を見つめながら彼はたずねた。
「どういう金? こいつぁあきれた! きみ自身の金じゃないか、さっき組合労働者が来たろう、ヴァフルーシンの使いで、お母さんが送ってよこしたんじゃないか。それとも、こんなことまでも忘れたのかい?」
「やっと思い出した……」長い気むずかしげなもの思いの後に、ラスコーリニコフはこういった。
 ラズーミヒンは眉《まゆ》をしかめて、不安げに彼をながめていた。
 ドアが開いて、背の高い、でっぷりした男がはいって来た。見たところ、どうやらラスコーリニコフにも多少見覚えがあるらしかった。
「ゾシーモフ! やっとのことで!」ラズーミヒンは喜んでこう叫んだ。

      4

 ゾシーモフは背の高い脂肪質《しぼうしつ》らしい男で、きれいにそりあげてはいるが、ややむくみのある、色つやのわるい青白い顔をして、亜麻《あま》色の髪はすんなりとして癖がなかった。めがねをかけているほか、脂肪でふくれたように見える指に大きな金指輪をはめている。年のころは二十七見当で、ゆったりとしたハイカラな外套を着、薄色の夏ズボンをはいていた。概して彼の身についているものは、すべてゆったりしたハイカラな仕立ておろしばかりだった。肌着も非の打ちどころのないもので、時計の鎖もどっしりとしている。身のこなしはゆっくりしていて、なんとなくのろくさく見えるが、同時にこしらえものの磊落《らいらく》といったようなところがあった。しかし尊大な気どりが、つとめて隠してはいるものの、のべつちらちら顔をのぞける。彼を知っているすべての人は、いやな、つき合いにくい男のようにいっていたが、しかし自分の職務には明るいという評もあった。
「ぼくはね、きみんとこへ二度も寄ったんだぜ……見たまえ、気がついたよ!」とラズーミヒンはいった。
「わかってるよ、わかってるよ。お気分はいかがですな、え?」と、じっとラスコーリニコフの顔に見入りながら、ゾシーモフは彼のほうへふり向いた。そして、彼の長いすに腰をおろし、病人の足の辺にしりを落ちつけると、すぐさまできるだけからだをくつろげた。
「しじゅうヒポコンデリイばかりおこしてるんだよ」とラズーミヒンは言葉をつづけた。「いまシャツを取りかえてやったんだが、もう泣きださないばかりさ」
「それはむりもないことだ。当人が望まなければ、シャツなんかあとでもよかったんだ……脈は上等。頭痛はまだいくらかしますか、え?」
「ぼくは健康です、ぼくはまったく健康体です!」ふいに長いすの上に身を起こして、目をぎらぎら光らせながら、強情ないらいらした調子でラスコーリニコフはそういったが、すぐにまくらの上へどうと倒れ、壁のほうへ向いてしまった。
 ゾシーモフはじっと彼を注視していた。
「たいへんけっこう……何もかも順調にいってます」と彼はだるそうにいった。「何かあがりましたかね?」
 ラズーミヒンは様子を話して、何をやったらいいかたずねた。
「なに、もう何を食べさせてもいいさ……スープ、茶……きのこ[#「きのこ」に傍点]やきゅうり[#「きゅうり」に傍点]なんかは、むろんいけないがね。それからと、牛肉もやっぱりいけない。そして……いや、このさい、なにもぐずぐずいうことはない!」彼はラズーミヒンと目くばせした。「水薬はいらない、なんにもいらない。明日ぼくが見るから……もっとも、今日だっていいんだが……いや、まあ……」
「明日の晩は、ぼくこの男を散歩に連れて行くぜ!」と、ラズーミヒンはひとりできめてしまった。「ユスーポフ公園あたりへ、それから『パレー・ド・クリスタル(水晶宮)』へも寄るんだ」
「明日はまだ病人に身動きもさせないほうがいいんだが、しかし……少々は……いや、まあもすこしたってみればわかるさ」
「そいつは残念だなあ。今日はぼくの引っ越し祝いでね。ここからたったひと足なんだ。この男も来てくれるといいんだが。せめてぼくたちの間で、長いすの上にでも寝ててくれるとなあ! きみはもちろん来るだろう?」と、ラズーミヒンは急にゾシーモフのほうへ向いていった。「忘れちゃいけないぜ、いいかい、約束したんだからな」
「行ってもいい、ただ少し遅くなるがね。いったいどんな支度をしたんだい?」
「いや、べつに何も。茶、ウォートカ、にしん。それにピローグ(揚げまんじゅう)が出るはずだ。内輪の連中だけの集まりだから」
「といって、だれだい?」
「なに、みんなこの近くの人で、ほとんど新しい顔ばかりさ。もっとも――年とった伯父《おじ》だけは例外だがね。しかしこれだって、やはり新顔といっていいんだ。――きのう、ちょっとした用向きで、ペテルブルグへやって来たばかりだからね、ぼくは五年に一度くらい会ってるのさ」
「どんな人だい?」
「一生、地方の郵便局長をじみにやって……わずかな恩給をもらっている六十五の老人で、問題にする価値はないよ……もっとも、ぼくは好きなんだ。それからポルフィーリイ・ペトローヴィチも来る――ここの予審判事で……法律家さ。ねえ、きみも知ってるはずじゃないか」
「あれも何かきみの親戚《しんせき》かい?」
「ごく遠い何かにあたるんだよ。いったい、きみ、なんだってそんなしかめっつらをするんだい? 一度あの男とけんかしたことがあるからね。じゃ、きみはたぶん来てはくれまいね?」
「ぼくあんなやつ、へとも思っちゃいない……」
「そりゃ何よりだ。それからあとは――大学の連中に、教師と官吏がひとりずつ。音楽家がひとり、警部、ザミョートフ……」
「きみ、ひとつ聞かしてもらうがね、きみやこの人と」とゾシーモフはラスコーリニコフをあごでしゃくった。「それからあのザミョートフなんて男と、いったいどんな共通点があるんだね?」
「いやはや、どうもしちむずかしい男だなあ! 主義信条の一点ばりだ!………きみはまるで発条《ぜんまい》みたいにすっかり主義で固まってて、自分の意志じゃからだの向き一つ変えることもできないんだからな。ぼくにいわせると、人物さえよければ、それで理くつが通るのさ。それ以上なんにも知ろうとは思わない。ザミョートフはじつにすばらしい男だよ」
「そして、ふところを暖めてる」
「ふところを暖めたって、われわれの知ったことじゃないじゃないか! いったい、ふところを暖めてりゃどうしたというんだい!」なんとなく不自然にいらいらしながら、ラズーミヒンは叫んだ。「あの男がふところを暖めているのを、ぼくが賛美したとでもいうのかい? ぼくはただあの男のことを、ある意味においていい人間だといったまでだよ! 端的にいったら、あらゆる点において完全に善良な人物なんて、どれだけも残りゃしないよ! まあ、ぼくなんか確信してる――そうなれば、ぼくなんぞは臓腑《ぞうふ》ぐるみほうり出したって、焼きたまねぎ一つくらいにしか、値ぶみしてくれやしない。それもきみをおまけにつけてさ!………」
「そりゃ安すぎる。ぼくならきみには二つくらい出すよ……」
「ぼくはきみに一つしか出さない! さあ、もっとしゃれのめしてみたまえ! ザミョートフはまだ小僧っ子だから、ぼくはやつを少々いじめてやるんだ。だがね、あの男は突っ放してしまわないで、ひきつけておく必要があるのさ。人間てものは、突き放すことによって、匡正《きょうせい》できるもんじゃないからね。ことに小僧っ子においては、なおしかりさ。小僧っ子にたいしては一倍の慎重さが必要だ。や、どうもきみのような進歩的鈍物ときたら、何ひとつわからないんだからね! 他人を尊重しないで、しかも自分を侮辱してるんだもの……もしきみが聞きたいというなら、話してもいいがね、じつはぼくらの間には、共通の一事件が始まりかかってるらしいのさ」
「聞きたいもんだね」
「といって、やっぱり例の塗り職人、つまりペンキ屋の一件さ……われわれはきっとあいつを救い出してみせる! もっとも、今じゃもう少しも困ることはないんだ。事件はきわめて、きわめて明白なんだからね! ただもう少しわれわれがしり押ししてやればいいんだ」
「いったい、そのペンキ屋ってなんだい?」
「え、きみに話さなかったかい? そう、話さなかったっけかなあ? そうだ、はじめの方だけちょっと話しかけたばかりだったっけ……ほら、官吏の後家《ごけ》で小金を貸してたばあさんの殺人事件さ……それにこんどペンキ屋が引っかかってるんだよ……」
「ああ、あの殺人事件なら、ぼくのほうがきみより先に聞いたんだ。そして、この事件に興味さえいだいてるくらいだ。……まあ、多少だがね……ある偶然の機会で新聞でも読んだよ! それで……」
「リザヴェータまで殺してしまったんだからねえ!」ラスコーリニコフのほうへ向きながら、ナスターシヤが薮《やぶ》から棒にこういった。
 彼女はしじゅうずっとそこに残って、ドアにぴったり身を寄せたまま、聞いていたのである。
「リザヴェータ?」やっと聞こえるほどの声で、ラスコーリニコフはつぶやいた。
「リザヴェータよ、あの古着屋の。お前さん知らないのかい? 下へもよく来てたよ。お前さんのシャツを繕《つくろ》ってくれたことがあるじゃないか」
 ラスコーリニコフくるりと壁のほうへ向いてしまった。そして白い花模様のついている、よごれた黄いろい壁紙の上に、何か茶色の線で飾られたぶかっこうな白い花を一つ選び出し、それに弁《べん》が何枚あって、弁《べん》にぎざぎざが幾つあり、線が何本あるかをしさいに点検しはじめた。彼は手も足もしびれてしまって、まるでいうことをきかなくなったような気がしたが、身じろぎ一つしてみせようともせず、強情《ごうじょう》に花を見つめていた。
「で、そのペンキ屋がどうしたんだい?」何やらかくべつ不きげんな様子で、ゾシーモフはナスターシヤの饒舌《じょうぜつ》をさえぎった。
 こちらはほっと吐息《といき》をついて、口をつぐんだ。
「やっぱり犯人とにらまれたのさ!」とラズーミヒンは熱くなって言葉をつづけた。
「何か証拠でもあるのかい?」
「証拠なんかあってたまるものか! もっとも、つまり証拠があればこそなんだが、この証拠が証拠になっていないのだ。そこを証明しなくちゃならんわけさ! それはね、初め警察があの連中……ええと、なんといったっけ……コッホとベストリャコフ、あの二人を引致して嫌疑《けんぎ》をかけたのと、寸分たがわず同じ筆法さ。ぺっ! こういうことはじつに愚劣きわまるやり口で、人ごとながら胸くそがわるくなるくらいだ! ペストリャコフのほうは、もしかすると、きょうぼくのところへよるかもしれない。ときに、ロージャ、きみはもうこの一件を知ってるだろうな。病気になる前の出来事だから。ちょうどきみが警察で卒倒した前の晩さ、あの時あすこでそのうわさをしてたはずだ……」
 ゾシーモフは好奇の目を向けて、ラスコーリニコフを見やったが、こちらは身じろぎもしなかった。
「ねえ、ラズーミヒン! こうして見ていると、きみはずいぶんおせっかいだなあ」とゾシーモフが口をはさんだ。
「それだってかまわないさ。とにかく救い出してやらなくちゃ」とラズーミヒンは、げんこでテーブルをたたいて叫んだ。「ねえ、やつらのすることで最もしゃくにさわるのは、なんだと思う? それはあいつらがでたらめをいってることじゃない。でたらめは許すことができる。でたらめは愛すべきものだ。なぜなら、それは真実へ導く一つの道程だからね。ぼくがいまいましくてたまらないのは、やつらがでたらめをいいながら、しかも自分のでたらめを跪拝《きはい》していることなんだ。ぼくもポルフィーリイは尊敬している。しかしだ、……たとえば警察のやつらをまずのっけ[#「のっけ」に傍点]から、とまどいさせてしまったのは、いったいなんだと思う? ほかでもない、初めドアがしまっていたのに、ふたりが庭番をつれて来て見ると、ちゃんと開いていた、だからコッホとペストリャコフが殺したのだ! これがやつらの論理なんだからなあ」
「まあ、そうむきになるなよ。あのふたりはただちょっと拘留《こうりゅう》しただけなんだもの。それをしないわけにゃいかないよ……ときに、ぼくはそのコッホに会ったよ。聞いてみると、どうだい、やつはあのばあさんのところで質流れの買い占めをやってたんだぜ! え?」
「うん、何かそんなふうのいんちき野郎さ! やつは手形の買い占めもやってるよ。抜け目のない男さ。だが、あんなやつなんか勝手にしやがれだ! いったいぼくが何を憤慨してるか、きみ、わかるかい? 警察の時代おくれな、俗悪な、ぼけて干からびた、月なみなやり口を憤慨してるんだぜ……この事件については、ただこの事件ひとつだけでも、大した新しい道を開拓することもできるんだからね。ただ心理的材料だけでも、いかにして真の証拠を突きとめるべきかということを、証明することができるんだからね。『われわれのほうには事実があがっている!』なんていってるが、しかし事実は全部じゃないからね。少なくとも事件のなかばまでは、事実を取り扱う腕にあるんだ!」
「じゃ、きみにゃ事実を取り扱う腕があるんだね?」
「だって、事件に力を貸すことができるのを感じながら、肌でそれを感じてるのに、黙ってるわけにいかんじゃないか!ただもし……ええ、くそっ! きみはこの事件をくわしく知ってるのかい?」
「だから、ペンキ屋の話を待ってるんじゃないか」
「あっ、そうだっけね! じゃ、まあ事の顚末《てんまつ》を聞きたまえ。凶行があってからちょうど三日目の朝、警察のやつらがコッホとペストリャコフを相手にさ、ふたりとも自分の行動の径路を証明して、無罪は一見して明白になっているのに、なおくどくどうるさくやってたと思いたまえ――そこへとつぜん意外千万な事実がわいて出た。というのは、例の家と向かい合わせに居酒屋を出してる百姓出のドゥーシュキンという男が、警察へ出頭してさ、金の耳輪のはいったしゃれたケースをさし出して、まるで一編の小説ともいうべき話を陳述《ちんじゅつ》したんだ。『じつは、てまえどもヘー昨日の晩、かれこれ八時をまわったころでもござりましょうか』――この日日《ひにち》と時刻、よく聞いてるね、きみ?――『その日も昼間に一度やって来たペンキ職人のニコライという男が、金の耳輪と宝石類のはいったこの箱を持ってまいりまして、それを抵当に二ルーブリ貸してくれと申します。てまえがどこで手に入れた? とたずねますと、歩道で拾ったと申します。で、てまえもそれ以上は根掘り葉掘りいたしませんでした』とドゥーシュキンがいうんだ。先生さらにいわくさ。『札《さつ》を一枚出してやりやした』――つまり一ルーブリのことだね――『それというのは、てまえどもで取らなけりゃ、わきへ持って行くで、どのみち飲んじまうんだから、まあ品物は手もとへおいておけ、よっく大事にしまっといたほうが、出す時に好都合だ、もし変なことでもあるとか、何かうわさでも立つようだったら、さっそくお届けすればいい、とこう思いましたので』いや、もちろん口から出まかせのうそ八百で、まるで夢のような話なのさ。ぼくはこのドゥーシュキンをよく知ってるが、自分が小金貸しで、盗品なんか取って隠してるやつさ。今の話の三十ルーブリからの貴金属だって、うまくニコライからかたり取ったんで、けっして『お届けする』つもりなんかありゃしない。ただおじけがついたので出頭しただけなんだよ。だがまあ、そんなことはどうだっていいや、あとを聞きたまえ、ドゥーシュキンのやつ、つづけていわくさ。『てまえはそのニコライ・デメンチエフを幼い時分からぞんじております。同県のザライスク郡の百姓でござります。じつは、てまえどもリャザン生まれでござりますので。ニコライは酒飲みと申すほどじゃござりませんが、ちょっくらやりますほうで。ところが、やつが例のあの家でミトレイといっしょにペンキ塗りの仕事をしておったことは、てまえどもも承知しておりました。ミトレイというのも、やはり同じ村の出でござります。そこで、野郎は札《さつ》を握ると、すぐにそいつをくずして、一時にコップ二杯ひっかけて、つりをつかんで行ってしまいました。その時ミトレイはいっしょじゃござりませんでした。さてところが、そのあくる日、アリョーナ・イヴァーノヴナと、妹のリザヴェータ・イヴァーノヴナが、おのでやられたって話を聞きました。てまえどもは、あのふたりを知っておりましたんで、すぐ例の耳輪のことをくさいぞと感づきました――と申しますのは、故人が品物を抵当に金を貸しておったのを、承知してたからでござります。てまえはやつの働いておる家へ行って、そっとけどられぬようにかぎ出してやろうといたしました。まず第一にたずねましたのは、ニコライが来ておるかどうかということなので。ところが、ミトレイの申しますには、ニコライのやつは夜遊びを始めて、夜明けごろに酔っぱらって宿へ帰って来たが、十分ばかりいたっきりで、またぞろ出てしまい、それからてんで姿を見せないもんだから、ミトレイがひとりで仕事をかたづけておるところだと、こういうわけでござります。仕事と申しますのは、人殺しのあった住まいと同じ階段つづきになっている二階の部屋なんでござります。てまえはそれだけ聞きまして、その時はだれにも何ひとつしゃべりませんでした』これはドゥーシュキンがいうことなんだよ。『それから人殺しのことにつきましては、いろいろできるだけのことを聞き込みまして、やはり初めと同じ疑念をもったままで、家へ帰ってまいりました。ところが今朝八時のことでござります』つまり三日目のことなんだよ、わかるね。『ニコライが、てまえどもへはいってまいりました。しらふでもござりませんが、大して酩酊《ていめい》してもおりませず、話はわかるのでござります。腰掛に腰をおろしたまま、黙りこんでおります。ちょうどそのとき、店のなかには、やつのほかによその男がひとりと、別な腰掛の上でもうひとり、なじみの客が寝ているだけで、あとは家の小僧ふたりきりでござりました。――そこで「ミトレイに会ったかい?」とたずねますと、「いや会わねえ」とこう申します。「家へも来なかったね?」「おとといから来なかった」とこうなんで。「ゆうべどこで泊った?」「ペスキイだ、コロムナの連中のとこさ」と申しやす。「ときにあの耳輪はどこから持って来たんだい?」といいますと、「歩道で拾ったんだ」と申しましたが、なんだかいかにもばつが悪そうで、人の顔か、見ようともいたしません。で、てまえは、「お前はあの晩あの時刻に、あの階段つづきで、これこれの事があったのを聞いたか?」と申しますと、「いんや、聞かねえ」とはいったけれど、目を円くして、人の話を聞きながら、みるみる死人のように真青になりました。てまえはそこでこれこれこうと話しながら、様子を見ておりますと、やつめ帽子をつかんで、腰を浮かすじゃござりませんか。そのとき、てまえはやつをおさえようという気をおこしまして、「まあいいじゃねえか、ニコライ、一杯やらねえか?」といいながら、小僧にドアをおさえてろと目くばせしておいて、帳場から出て行きますと、野郎はいきなり、てまえどもから通りへ飛び出して、一もくさんに横町へかけ込んじまいました――あっという間もござりません。そこでてまえの疑っておったことが、まちがいないときまりました。たしかにやつの仕業に相違ござりません……』」
「そうでなくってさ!………」とゾシーモフはいった。
「まあ待ってくれ! しまいまで聞くもんだ! そこで、もちろん全力を挙げてニコライの捜索にとりかかった。ドゥーシュキンは拘留して、家宅捜索をやった。ミトレイも同様さ。それから、コロムナの連中もちょっとばかり引っぱられた――こうして、やっとおととい当のニコライを拘束したんだ。見付け付近のはたご屋で取りおさえたのさ。やつはその家へ行くと、銀の十字架をはずして、それで一合くれというんだ。そこで飲ませてやった。しばらくたって、女房が牛小屋へ行って、何げなく隣の納屋のすき間からのぞくと、やつは小屋の梁《はり》へ帯をかけて、輪を作ってさ、丸太の切れ端に乗っかって、その輪を首へかけようとしているじゃないか。女房はびっくりして、声をかぎりにわめき立てたので、たちまち大ぜい集まって来た。『お前はいったい何者だ?』と聞くと、『わっしをこれこれの警察へ連れてってくれ、残らず白状する』というんだ、そこで相当の手続をして、これこれの警察、つまりここの警察へ突き出したのさ。さあ、それから、姓名は、職業は、年齢は、『二十二歳』云々《うんぬん》、云々があってさてその後で尋問だ。『お前はミトレイと仕事をしているときに、だれか階段を上って来たのを見かけなかったか、時刻はこれこれだ』答えていわく、『そりゃきっと通って行ったにちがいありますまいが、わっしたちは気がつきませんでした』『では、何か変わった物音のようなものを聞かなかったか?』『べつに変わった物音も聞きませんでした』『では、ニコライ、お前はその当日、これこれの日の、これこれの時刻に、これこれのやもめが妹といっしょに殺害されて、金品を強奪されたことは知らなかったか?』『いっこうにぞんじません、夢にも知りません。わっしは三日目に初めてアファナーシイ・パーヴルイチ(ドゥーシュキン)の居酒屋で、亭主から聞いたばかりでございます』『では、どこで耳輪を取って来た?』『歩道で拾いましたので』『なぜあの翌朝ミトレイといっしょに仕事に出なかったか?』『じつは、その、遊んだもんでございますから』『どこで遊んだ?』『これこれこういうところで』『なぜドゥーシュキンのところから逃げ出したか?』『あの時にゃなんだかやたら無性におっかなかったもんで』『何がこわかったのか?』『裁判所へ引っぱられそうで』『もし自分で何も悪いことをした覚えがないものなら、何もこわがる筋はないじゃないか』……ところで、ゾシーモフ君はほんとうにするかどうか知らんが、こんな問いが提出されたんだぜ。このとおりの言いまわしでさ、ぼくはたしかに知ってるんだ。正確に聞かしてもらったんだから! まあどうだね、どうだね?」
「そう、だが、しかし、証拠にはなってるね」
「いや、ぼくがいまいってるのは証拠のことじゃなくて、尋問そのもののことだ。彼らがその本質をいかに解釈しているか、それを論じてるんだ! まあ、あんな連中なんかどうでもいいや!………彼らはニコライを責めて、責めて、きゅうぎゅういうほど絞めつけたので、とうとう白状してしまった。『歩道で拾ったんじゃありません。じつは、ミトレイとふたりで壁を塗っていた、あのアパートで見つけましたんで』『どんなふうにして見つけた?』『へえ、それはこんなふうでございました。わっしはミトレイとふたりでいちんち八時ごろまで仕事をして、帰り支度をしておりますと、ミトレイのやつがいきなりわっしの面《つら》へ、ペンキをさっとひと刷毛《はき》なすりつけました。こんなあんばいに、わっしの面ヘペンキをべたっとつけて逃げ出しやがったんで、わっしもそのあとを追っかけて行きました。追っかけながら、ありたけの大きな声でわめきました。ところが、階段から門へ出る口で――いきなりはずみで、庭番とだんながたにぶっつかりましたんで。だんながたが幾たりいられたか、覚えがございません。すると、庭番がわっしをどなりつけました。もうひとりの庭番も同じようにどなりました。そこへまた庭番のかかあが出て来て、これもやっぱりわっしたちをどなりつけやがるんで。そこんところへ、奥さんづれのだんなが門の中へはいって来て、やはりわっしたちをおしかりになりました。わっしとミトレイが道幅いっぱいにころがっていたからなんで。わっしがミトレイの髪の毛をつかんで、引きずり倒してぶんなぐると、ミトレイも下からわっしの髪の毛をつかんで、ぶんなぐるのでございます。もっとも、ふたりとも本気で怒ったんじゃなくって、つまり仲がいいもんだから、おもしろ半分にやってたんで。そのうちに、ミトレイのやつが振りほどいて、通りのほうへ逃げ出したので、わっしはまたあとを追っかけましたが、追いつけなかったので、ひとりでアパートヘもどって来ました――あとかたづけをしなきゃなりませんからね。わっしはかたづけながら、ミトレイが、今くるかくるかと待っておるうちに、入口の部屋のドアのそばで、小壁のかげの片すみに、ふいとこの箱を踏んづけましたんで。見ると、紙にくるんだものが落っこってる。紙をとって見ると、こんな小っぽけな鉤《かぎ》がついているんで、その鉤をはずして見たら、箱の中に耳輪が……』」
「ドアの外かい? ドアの外にあったのかい? ドアの外に?」ふいにラスコーリニコフは、おびえたようなどんよりしたまなざしで、ラズーミヒンを見ながら叫んで、片手をつきながら、ぱっと長いすの上に起き直った。
「うん……だが、どうしたんだい? きみはいったいどうしたんだい? なんだってきみはそんな?」
 ラズーミヒンも同じく席から身を起こした。
「なんでもない!………」とラスコーリニコフは、またまくらの上へ身を落として、ふたたび壁のほうへ向きながら、やっと聞こえるくらいの声で答えた。一同はしばらく黙っていた。
「きっと、うとうとしかけたところを、寝ぼけていったんだよ」もの問いたげにゾシーモフの顔を見ながら、とうとうラズーミヒンはそういった。
 こちらは軽く頭を横に振った。
「まあ、話をつづけたまえ」とゾシーモフはいった。「それから?」
「それからも何もあるものか! やっこさん耳輪を見ると、たちまちアパートのことも、ミトレイのことも忘れてしまって、帽子をひっつかむなり、ドゥーシュキンのところへ、かけつけたのさ。そして先刻ご承知のとおり、歩道で拾ったとうそをついて、一ルーブリ受け取ると、その足で、遊びに出かけちゃったんだ。が、殺人事件については、前と同じようにいいはってるんだ。『いっこうにぞんじません。夢にも知りません、やっと三日目に聞いたばかりなんで』『じゃ、なぜ今まで出て来なかったか?』『こわかったからなんで』『なぜ首なんかくくろうとしたか?』『思案にくれたからで』『どんな思案に?』『裁判に引っぱり出されそうで』さあ、これがいちぶしじゅうの顚末《てんまつ》だ。そこで、きみはどう思う、彼らはこれからいかなる結論を引き出したか?」
「何を考えることもありゃしない、罪跡《ざいせき》はあるんじゃないか。よしそれがいかなるものにもせよさ。そうとも。きみがいくら騒いだって、そのペンキ屋を無罪放免にするわけにいかないじゃないか?」
「だって、やつらはもう今じゃ頭から、真犯人にしてしまってるんだよ! もうなんの疑念も持ってないんだぜ……」
「なに、そりゃうそだ。きみはあまり熱しすぎてるよ。じゃ、耳輪はどうしたというんだい? きみ自身だって同意せずにいられないだろう――同じ日の同じ時刻に、ばあさんのトランクの中の耳輪が、ニコライの手へはいったとすれば――ね、わかるだろう、何かの方法で手にはいったに相違ないじゃないか! こういう事件の審理にさいして、この事実はけっしてささいなものじゃないよ」
「どうして手にはいったかって! どうして手にはいったかって?」とラズーミヒンは絶叫した。「ねえ、ドクトル、きみは、きみは第一に人間を研究すべき職務の人じゃないか、他のなんぴとよりも、人間の性情を研究する機会を多く持つてる人じゃないか――そのきみがこれだけの材料を持ちながら、このニコライがどういう性情の人間か、全体それがわからないのかい? 彼の陳述が一見しただけで、神聖この上ない事実だってことがわからないのかい? まったく彼が申し立てたとおり、まちがいなくそのとおりの順序で手にはいったんだよ。箱を踏んづけて、拾い上げたのさ!」
「神聖この上ない事実だって! しかし先生自身も、初めはうそをいったと白状してるじゃないか!」
「まあ、ぼくのいうことを聞きたまえ、よく耳をほじくって聞きたまえ、――庭番も、コッホも、ペストリャコフも、もうひとりの庭番も、第一の庭番の女房も、庭番小屋にいた女も、ちょうどそのときつじ馬車からおりて女と腕を組みながら門の下へはいって来た七等官のクリュコフも――だれもかれも、つまり八人ないし十人の証人が口をそろえて証言してるんだ。ニコライがミトレイを地べたへ押しつけて、その上へのしかかってぶんなぐってると、こっちもやつの髪を引っつかんで、同じように相手をなぐりつけていたそうだ。ふたりは道幅いっぱいにころがって、往来のじゃまをしているので、四方八方からふたりをどなりつけるんだが、ふたりはまるで、『小さな子供みたいに』――これは証人の言葉そのままだよ――上になり下になりして、きゃっきゃっわめいたりなぐり合ったり、われ劣らじと大声に笑ったりして、滑稽《こっけい》きわまるつらつきをしてるんじゃないか。そして、子供みたいに互いに追っかけっこしながら通りへかけ出して行ったんだよ。いいかい? そこで一つしっかり考えてみたまえ――四階の上にはまだぬくもりの残った死体がころがってるんだぜ。発見されたときには、まだあたたか味があったんだ! もし彼らが、あるいはニコライひとりが、殺人犯をおかして、しかもそのさいトランクをこわして強盗を働いたとか、あるいは何かで強盗の幇助《ほうじょ》をしたとすれば、一つ、たった一つだけきみに質問さしてもらいたい――いったいぜんたい今いった心理状態が、つまりきゃっきゃっわめいたり、大声で笑ったり、門の下で子供らしいつかみ合いをするというようなことが、――おのだの、血だの、凶暴無比な悪知恵だの、ああした細心な注意だの、強奪などというものと、はたして一致するものかどうか? たったいま人を殺したばかりで、せいぜい五分か十分しかたたないのに――だってそういうことになるだろう、まだ死体があたたかいんだからね――急に死体をおっぽり出したうえ、部屋をあけっ放しにしといて、今そちらへ向けて人がぞろぞろ通って行ったのを承知しながら、獲物をほうり出したまま、道のまん中で子供のようにころげまわったり、げらげら笑ったり、みんなの注意をひいたりする。しかも、それには陳述《ちんじゅつ》の一致した証人が十人もいるんだからね!」
「もちろん、変だ。むろん不可能な話だ、がしかし……」
「いや、しかし[#「しかし」に傍点]じゃないよ。もし同じ日の同じ時刻にニコライの手にはいった耳輪が、じっさい彼にとって不利な、重大な物的証拠になるとすれば――もっともその証拠は、彼の陳述によっても釈明がつくんだから、したがってまだ争う余地のある証拠[#「争う余地のある証拠」に傍点]だが――もしそうとすれば、一方の無罪をしめす事実をも、考慮に入れるべきじゃないか。ましてそれは拒み難い事実なんだからね。ところで、きみはどう思う。わが国の法律学の性質上、そうした事実を――単に心理的不可能性とか、精神状態とかに基礎を置いている事実を――拒み難い事実として受け入れるだろうか? よしんば、いかなるものであろうとも、有罪を肯定するいっさいの物的証拠をくつがえしてしまうような事実として、受け入れてくれるだろうか、いや、受け入れるだけの雅量を持ってるだろうか? なんの、受け入れるものか、こんりんざい受け入れやしない。箱は見つかったし、当人は縊死しようとしたんだもの。『自分に悪事をした覚えがなけりゃ、そんなことをするはずがない!』というわけさ。つまり、これがぼくを熱くならせる重大問題なんだ! 少しはわかってくれよ!」
「うん、そりゃきみが熱くなってるのは、ちゃんとわかってるよ。だが待てよ、ぼくはきくのを忘れてたが、耳輪のはいった箱がほんとうにばあさんのトランクから出たものだってことは、なんで証明されたんだね?」
「それは証明されてるさ」とラズーミヒンは眉をひそめて何やら進まぬ調子で答えた。「コッホがそのしろ物に見覚えがあって、質入れ主を教えたのさ。すると、その男がたしかに自分のだと、きっぱり証明したんだ」
「そりゃまずいな。じゃ、もう一つ――コッホとペストリャコフが上って行ったときに、だれかニコライを見たものはなかったのか。その点を何かで証明できないのかい?」
「そこなんだよ、きみ、だれも見たものがないんだ」とラズーミヒンはいまいましそうに答えた。「そいつがまったく困るんだ。コッホとペストリャコフですら、上へのぼって行くとき、ふたりに気がつかなかったんだからね。もっとも、彼らの証言は、この場合大した意義を持ちえないんだがね。『あの住まいの開いているのは見ました、たしかその中で仕事をしていたのでしょう。が、通りすぎるとき、別に注意しなかったので、職人が中にいたかどうか、覚えがありません』とこういうんだ」
「ふん……してみると、弁解の方法といっては、ただお互いになぐり合って、きゃっきゃっ笑っていたということだけだね。まあ、かりにそれが有力な証拠だとしよう。しかし……じゃまたきくがね――きみ自身はこの事実ぜんたいをどう説明する? 耳輪を拾ったのをなんと説明するね? まったく彼が陳述どおり拾ったものとして」
「どう説明するって? 何も説明することもないじゃないか――わかりきった話だ! 少なくとも、事件を進捗さすべき径路は明瞭で、ちゃんと証明されてるよ。つまり、箱がそれを証明したのさ。ほかでもない、真犯人がその耳輪を落として行ったのだ。犯人は、コッホとペストリャコフがドアをたたいていたときには、四階のあの住まいにいて、せんをさして息をこらしてたんだ。ところが、コッホがあほうなまねをして下へおりて行ったので、そのとき犯人はいきなり飛び出して、同じく下へかけおりたんだ。だって、ほかに逃げ道がないものね。それからやつは階段の途中で、コッホとペストリャコフと庭番の目をさけて、あき部屋に隠れたんだ。それはちょうど、ミトレイとニコライがかけ出して行った時なのさ。そこで犯人は、三人が上へ行ってしまう間ドアのかげに立っていてさ、足音の消えるのを待ってゆうゆうと下へおりて行った。それはちょうどミトレイとニコライが通りへかけ出したあとで、いあわせた人は散ってしまって、門の下にはだれもいなかった時なんだ。もっとも、見た人はあったかもしれないが、かくべつ気にもとめなかったろう。人が通るのは珍しいことじゃないんだからね。箱はそいつがドアのかげに立っているうちに、ポケットから落としたんだが、落としたのは気がつかなかったんだ。それどころじゃないんだからな。つまりその箱こそ、犯人がそこに立ってたことを明白に証明してるじゃないか。そこが手品の種なのさ!」
「うまい! いや、きみ、じつにうまい、だが、それはあまりうますぎるね!」
「どうして、え、どうしてだい?」
「だってさ、何もかもあんまりうまく合いすぎる……あんまりしっくりしすぎる……まるで芝居のようじゃないか」
「ちぇっ、きみは!」ラズーミヒンはひと声叫んだが、ちょうどこのときドアが開いて、そこにいあわせたものがだれひとり知らない、新顔の男がはいって来た。

      5

 それはもうさして若くない、鼻もちのならないほどすましかえった紳士で、用心ぶかい気むずかしそうな顔をしていた。彼はまず隠しきれない不快な驚きを示しながら、あたりを見まわして、『これはいったい、なんというところへ飛び込んだものだ?』と目顔でたずねるような表情をしながら、戸口のところに立ちどまった。彼はとても信じられないといった面持ちで、一種の驚きというより憤慨の色をわざわざ見せつけながら、天井の低い狭くるしいラスコーリニコフの『船室』をじろじろ見まわした。それから同じ驚きの表情で、着物もろくすっぽ身につけず、髪もぼさぼさで、顔も洗わずに、みすぼらしいよごれた長いすの上に横になったまま、やはり身動きもせず彼を見まわしている当のラスコーリニコフに目を移し、そのままじっと見つめていた。それから、座を立とうともせず、同じくうさんくさそうな、人を食った態度で、まともに彼の目を見すえているラズーミヒンの、ひげもそってなければ、髪もとかしてないぼうぼう姿を、ゆっくりとじろじろながめ始めた。緊張した沈黙が一分ばかりつづいたが、やがて当然予期されたとおり、場面に小さな変化が生じた。あれやこれやの徴候によって(もっとも、それはかなりはっきりした徴候だったが)、くだんの紳士はこの船室の中では、誇張した、いかめしい態度を取ったところで、なんの効果もないと気がついたのだろう、いくらか顔色をやわらげて、多少しかつめらしい調子がないでもなかったが、いんぎんにゾシーモフのほうへ向いて、ひと言ひと言はっきり区切りながら問いかけた。
「大学生の、いや、もと大学生だったロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ氏は、こちらでしょうか?」
 ゾシーモフはゆっくりと身を動かした。そして、おそらくその返事をしたはずだったろうに、まるで問いかけられもしないラズーミヒンが、やにわに先を越してしまった。
「そらあそこに、長いすの上に寝ていますよ! いったい、なんの用です?」
 このなれなれしげな『なんの用です?』が、気どりや紳士の出鼻をくじいた。彼は危うくラズーミヒンのほうへふり向こうとしたが、どうやらうまく自制して、また大急ぎでゾシーモフのほうへ向き直った。
「あれがラスコーリニコフです!」ゾシーモフは病人のほうをあごでしゃくって、口の中でむにゃむにゃといった。そしてやたらに大きく口をあけてあくびをすると、やたらに長くそのまま口をあけていた。それからのろのろのろとポケットヘ手を伸ばして、胴《どう》のふくらんだ恐ろしく大きな両ぶたの金時計を引っぱり出し、ふたをあけてちょっと見ると、また同じくたいぎそうにのろのろと、もとのところへしまい込んだ。
 当のラスコーリニコフは、しじゅう黙ってあおむけにねたまま、いっさいなんという考えもなく、はいって来た紳士をじっと見つめていた。今しも壁紙の興味|津々《しんしん》たる花模様からふり向けられた彼の顔は、すごいほど真青で、たったいま苦しい手術を受け終わったか、それとも拷問《ごうもん》から放されて来たばかりとでもいったような、なみなみならぬ苦痛の色を現わしていた。けれど、はいって来た紳士はしだいに彼の注意を喚起《かんき》して、それがやがて疑惑となり、不信となり、ついには危惧《きぐ》の念とさえなった。ゾシーモフが彼を指さして、『あれがラスコーリニコフです』といったとき、彼はやにわに、おどりあがらんばかりの勢いで、すばやく身を起こし、ベッドの上にすわった。そして、まるでいどみかかるような、とはいえきれぎれな、弱々しい声でこういった。
「そうです! ぼくがラスコーリニコフ! それで、ご用は?」
 客は注意ぶかく目をすえて、おしつけるような調子でいった。
「わたしはピョートル・ペトローヴィチ・ルージンです。わたしの名前はあなたにとって、まんざら初耳ではないと信じますが」
 けれども、ぜんぜん別のことを期待していたラスコーリニコフは、鈍いもの思わしげな目つきで、じっと相手を見つめるのみで、そんな姓名はまったく初耳だというように、なんの答えもしなかった。
「え! いったいあなたは今まで、まだなんの知らせもお受け取りにならなかったのですかね?」いささかむっとしたていで、ルージンはたずねた。
 ラスコーリニコフは、その返事がわりに、ゆうゆうとまくらの上に身を横たえ、両手を頭の下にかって、じっと天井をながめにかかったルージンの顔には、悩ましげな色が現われてきた。ゾシーモフとラズーミヒンは、いっそう好奇心をそそられたらしく、彼の様子を見まわし始めた。とうとう彼はてれてしまった。
「わたしはあてにしていたのです、そのつもりでおったのです」と、彼は口の中でもぐもぐいいだした。「もう十日あまりまえに、いや、かれこれ二週間も前に出した手紙だから……」
「ねえ、あなた、どうしてそう、戸口に突っ立つたままでいなけりゃならないのです?」とふいにラズーミヒンがさえぎった。「もし何かお話があるんなら、お掛けになったらいいじゃありませんか。そこはナスターシヤとふたりじゃ狭いでしょうに。ナスターシユシュカ、ちょっとわきへ寄って、通り道をあけてあげるんだ! どうぞこちらへ、さあ、これがいすです、ここまで! ずっと割り込んでください!」
 彼は自分のいすをテーブルから少し片寄せて、テーブルと自分のひざとの間にわずかな余地を作り、やや緊張した姿勢で、客がこのすき間へ『割り込む』のを待っていた。あまりうまい瞬間をねらってつかまえられたので、客はどうしても断わりきれなくなり、急いだり、つまずいたりしながら、その狭いすき間をすりぬけた。そして、やっといすにたどり着くと、それに腰をおろして、うさんくさそうに、ラズーミヒンを見やった。
「ですが、なにも当惑なさることはありません」とラズーミヒンはいきなり、まっこうからいってのけた。「ロージャはもう五日も病気で寝ていましてね、三日ばかりうわ言ばかりいってたんです。しかし、今ではやっと正気にかえって、食欲も出てきましてね、喜んで食事をしたくらいです。ここにいるのはお医者さんで、今ちょうど診察してくれたばかりなんです。ぼくはロージャの友人で、やはり前の大学生、今はこのとおり先生のお守りをしてるわけです。だから、どうぞわれわれのことは気になさらず、お続けください。いったい、なんのご用です」
「いや、ありがとう。しかし、わたしがここにすわって話をしたんじゃ、ご病人にさわりはしないでしょうかね?」とルージンはゾシーモフのほうへふり向いた。
「い、いや」とゾシーモフは口の中でもぐもぐいった。「かえって気晴らしになるかもしれませんよ」こういって、またあくびをした。
「なに、先生はもうずっと正気でいるんですよ、朝っから!」とラズーミヒンはつづけた。この男のなれなれしさには、偽りならぬ純朴《じゅんぼく》さが見えたので、ルージンはちょっと考えて、だんだん元気づいてきた。それはこのあつかましいぼろ書生が、自分でいち早く大学生と名のったことも、一部の原因だったかもしれない。
「あなたのお母さまは……」とルージンは切り出した。
「ふん!」ラズーミヒンは大きな声でこういった。
 ルージンはけげんそうにその顔を見た。
「いや、なんでもありません。ぼくはただちょっと。どうかお続けください……」
 ルージンはひょいと肩をすくめた。
「……あなたのお母さんは、わたしがあちらでごいっしょにいた間に、あなたあての手紙を書きかけておられたのです。で、わたしはこっちへ着いてからも、わざと四、五日訪問を遅らしたのです。万事あなたのお耳へはいったのが十分まちがいなしというときに、お伺いしようと思ったものですからね。ところが、いま伺えば、意外にも……」
「知ってます、知ってます!」ふいにラスコーリニコフは、なんともいえないじりじりした、いまいましそうな表情で口をきった。「じゃ、あなたがそうなんですか? 花婿なんてすね? 知ってます!………だからもうたくさん!………」
 ルージンはすっかり腹を立てたらしかったが、おし黙っていた。彼はこれらいっさいのことが何を意味するのか、少しも早く思い合わそうと一生けんめいにあせった。一分ばかり沈黙がつづいた。
 その間にラスコーリニコフは、返事をするとき、ちょっと彼のほうへからだを向けたままでいたが、急にまた目をこらして、何かしら特殊な好奇の色をうかべながら、じっと相手の観察にかかった。それはさきほどよく見定める暇がなかったか、それとも何かはっとするような新しいものを発見したのか、その点は明瞭《めいりょう》でなかったけれど、とにかく彼はそのために、わざわざまくらから身を起こしさえした。じっさいルージンの風采には全体として、どことなく一風変わったところが目についた。それはつまり、たったいま無遠慮にあたえられた『花婿』という名称を裏書きするような、一種のあるものだった。だいいち、ルージンが首都におけるこの数日を懸命に利用して、花嫁を待つ間におしゃれをし、男ぶりをあげようとあせったのは、見えすいているというより、むしろ目だちすぎるくらいだった。もっともこんなのはきわめて罪のない話で、許されうべきことである。それどころか、自分は前より美しくなったという、その快い変化を思うあまりにうぬぼれた自意識すら、こうした場合には許さるべきものかもしれない。なにしろルージンは、目下|許嫁《いいなずけ》という身分なのである。彼の服装はすべていま仕立屋から届いたばかりで、何から何までりっぱなものずくめだった。ただ、しいていえば、何もかもあまりに新しすぎて、あまりに一定の目的を暴露《ばくろ》しすぎている。まあ、それくらいなものだろう。ハイカラな、ま新しい丸形帽子も、その目的を証明していた。ルージンはそれをさもうやうやしげに扱って、さも大事そうに両手でささげていた。本物のジューヴェン製らしい、みごとなライラック色の手ぶくろまで、それをはめようとせずただ飾りのために手に持っている。ただそのこと一つだけでも、やはり同じ目的を証明しているのであった。ルージンの服装には、明るい若ごのみな色が勝っていた。彼が身につけていたのは、薄茶色の気どった夏の背広と、薄色の軽快なズボンと、とも色のチョッキと、買いたての細地のシャツと、ばら色のすじのはいった、ごく軽い上麻のネクタイである。しかし何よりなことには、これらがすべてルージンに似合うのだった。彼の顔はまだいたってみずみずしく、美しいといってもいいくらいで、そのままにしておいても、四十五という年よりはるかに若く見えた。まっ黒なほおひげが、カツレツを二つ並べたように、両側から快く顔をくまどって、きれいにそりあげたなめらかなあごのあたりで、いちだんと美しく深い影をつけていた。ほんの心もち白いもののまじった髪の毛も、理髪師の手ですきあげられ、カールまでしてあったけれど、そのためになんとなく間がぬけて滑稽《こっけい》に見えるようなことはなかった。というのは、普通カールをした髪というものは、いやでもおうでも、結婚式に臨むドイツ人めいた類似をその顔に与えるものだからである。もしこの美しいりっぱな容貌《ようぼう》の中に、何か不愉快な反感をそそるものがあるとすれば、それはたしかに別な原因によるものだった。ラスコーリニコフはルージン氏を無遠慮に観察し終わると、毒々しい冷笑を浮かべて、またもやまくらの上に身を横たえ、前のように天井をにらみ始めた。けれどルージン氏はじっとがまんした。そして、すべてこうした奇怪な態度も、ある時期までは気にとめまいと、覚悟をきめたらしい。
「あなたがこうした状態でいられるのを、深く深く残念に思います」彼はつとめて沈黙を破ろうとしながら、改めて口をきった。「ご病気と知っていたら、もっと早く伺うところでした。しかし、どうも多忙なもんで……それに、弁護事務のほうも、大審院にきわめて重大な事件をかかえているものですから。そのうえ、ご賢察の取り込みについては、あらためて、申しあげるまでもありません。ご家族のかた、といって、つまりご母堂とご令妹のおいでを、今か今かとお待ちしているわけで……」
 ラスコーリニコフはやや身を動かして、何かいいだそうとした。その顔はなんとなく興奮の色を現わした。ルージンは言葉を休めて待っていたが、いっこう何も出そうにないので、また先をつづけた。
「……今か今かとね。で、まずさし向きの用意として、宿所をさがしておきました……」
「どこに?」と弱々しい声でラスコーリニコフはたずねた。「ここからごく近いです。バカレーエフの持ち家なんで……」
「ああ、それはヴォズネセンスキイ通りだ」とラズーミヒンがさえぎった。「貸間専門の二階建てで、ユーシンという商人が経営してるのさ。ちょくちょく行ったことがあるよ」
「さよう、貸間ですよ……」
「とてもひどいところさ――きたなくって、くさくって、それに怪しげな家なんだ。ときどき変な騒ぎがもちあがるよ。およそどんな連中だって、あすこに巣を食っていないやつはないぜ!………ぼくも一度ある騒動で引っぱり出されたことがある。もっとも、安いにゃ安いよ」
「むろん、わたしは、自分からして土地不案内なものですから、それほどくわしい事情を調べあげるわけにいきませんでしたが」とルージンは、くすぐったそうにいい返した。「しかし、ごくごくきれいな部屋をふた間とっときましたよ。なにしろほんの短期間ですからね……わたしはもうほんとうの、つまりわれわれの今後の住まいも、ちゃんと見つけておいたですよ」と彼はラスコーリニコフのほうへふり向いた。「で、今そのほうを修繕中なんで。わたしもその間、貸間で窮くつな目をしているわけなんです。ここからほんのひと足、リッペヴェフゼル夫人の家でしてな、わたしの若い友人アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフの住まいに同居しているのです。バカレーエフの家もこの男が教えてくれたので……」
「レベジャートニコフ?」何やら思い出したらしく、ラスコーリニコフはゆっくりといった。
「さよう、アンドレイ・セミョーヌイチ・レペジャートニコフ、ある省に勤めている、ごぞんじですか?」
「ええ……いや……」とラスコーリニコフは答えた。
「これは失礼、わたしはあなたが問いかえされた口ぶりで、そんな気がしたものですから。わたしはいつかその男の後見をやったことがありましてな……きわめて愛すべき青年です……いつも新しい思想に留意してる男で……いったいわたしは若い人に接するのが好きなんですよ――若い人からは、新しい思想がどんなものか、知ることができますからね」
 ルージンはある希望をいだきながら、一座の人々をひとわたり見わたした。
「それはどういう意味です?」とラズーミヒンがたずねた。
「もっともまじめな意味です。いわば、事の本質そのものといったところです」とルージンは、質問されたのがさもうれしそうに、すぐこう受けた。「わたしなどは、なんですよ、ペテルブルグへはもう十年も来なかったです。いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか、すべてそうしたものは、田舎《いなか》住まいのわれわれには触れないことはないが、それを確実に見るためには、いっさいを残りなく見ようとするには、やっぱりペテルプルグにいなければいけません。まあ、わたしの意見はこうです――いろいろと多くのことを認識するのには、何よりもわが新しき世代を観察するのが一ばんですて。で、わたしはじつのところ、大いにうれしかったです……」
「何がです?」
「あなたの質問はあまり範囲が広すぎますね。あるいは、わたしの考えがちがっているかもしれませんが、若い人にはより明晰な見解、つまり、なんといいますか、より多くの批判精神があるように思えるのです。より多くの実際的精神……」
「それはほんとうですよ」とゾシーモフが歯と歯の間から押し出すようにいった。
「でたらめだ。実際的精神なんかありゃしないよ」とラズーミヒンが割り込んだ。「実際的精神なんてものは、そうやすやすと得られやしないよ。天から降って来やしまいしさ。われわれロシヤ人はいっさいの活動から遠ざかって、仕事を忘れてしまってから、もうかれこれ二百年もたつんだからね……もっとも、思想は醗酵《はっこう》しているかもしれません」と彼はルージンのほうへふり向いた。「それから、子供らしいものではあるけれど、善にたいする願望もあります。また山師に類した連中がうようよぞろぞろ出ては来たけれど、それでもまだ潔白な精神さえも見いだすことができましょう。しかし、実際的精神は依然としてありません! 実際的精神はざらにその辺にころがっちゃいない」
「あなたのご意見にはどうも同意しかねますなあ」といかにもうれしそうな様子で、ルージンは弁駁《べんばく》した。「もちろん。一時の気まぐれから出た軽薄な熱中もあれば、まちがったこともあります。しかし、多少は大目に見てやらなくちゃいかんです。夢中になるということは、つまり仕事にたいする熱意と、仕事を取り巻いている外的状況の不正を証明するものです。もしまだいくらも仕事ができていないとすれば、それはつまり時間も少なかったというわけです。方法にかんしては今なにも申しますまい。わたし一個の見解に従えば、すでに多少の成果があげられている、とこういうことさえできるくらいです。まず新しい有益な思想が普及しています。以前の空想的な、ロマンチックなものの代りに、いろいろ新しい有益な著述が普及されています。文学はより成熟した陰影を帯びてきましたし、多くの有害な偏見がのぞかれ、完全に嘲笑《ちょうしょう》されてしまいました……一言にしてつくせば、われわれは完全に過去と絶縁してしまったのですな。このことは、わたしにいわせると、すでに一つの事業ですて……」
「ばかの一つ覚えだ! 自己礼賛をやってやがる」とふいにラスコーリニコフがいった。
「なんですと?」とルージンは、よく聞こえなかったので問いかえしたが、返事はなかった。
「お説ごもっともですな」ゾシーモフが急いで口をはさんだ。
「そうでしょう?」いい気持ちそうにゾシーモフに視線を投げながら、ルージンは言葉をつづけた。「あなたもご同意のことと思いますが」こんどはラズーミヒンのほうを向いてそういったが、もう多少勝ち誇ったような優越の色を見せて、あぶなく『え、お若いの』とでもいいそうだった。「現代は長足の進歩、今の言葉でいうと、プログレスをとげておりますよ。少なくとも、科学や、経済上の真理の名においても……」
「月なみですよ!」
「いや、月なみじゃありません! たとえば今日まで『隣人を愛せよ』といわれておりましたが、もしわたしがやたらに他人を愛したとすれば、その結果はどうなったでしょう?」とルージンは言葉をつづけた。あるいは、少々せきこみすぎたかもしれない。「その結果は、わたしが上着を二つに裂いて隣人に分けてやる。そしてふたりとも裸になってしまうのです。つまりロシヤのことわざでいう『二兎をおうものは一兎をもえず』というあれですな。ところが科学はこういいます――まず第一におのれひとりのみを愛せよ、なんとなれば、この世のいっさいは個人的利益にもとづけばなり。おのれひとりのみを愛すれば、おのが業務をも適宜に処理するをえ、かつ上着も無事なるをえん、とこうです。しかも経済上の真理はさらにこう付言しています――この世の中というものは整頓《せいとん》した個人的事業、すなわち無事な上着が多ければ多いほど、ますます強固な社会的基礎が築かれ、同時に一般の福祉《ふくし》もますます完備されるわけだとね。かようなわけで、ただただ自分一個のために利益を獲得しながら、それによって万人のためにも獲得してやることになる。そして隣人だってちぎれた上着よりは、多少ましなものが手に入るようにと、心がけております。しかもそれは、もはや単なる個人的慈善のためじゃなくて、社会全般の進歩によるのですからな。この思想はきわめて単純なものですが、不幸にも感激性と空想癖におおわれて、あまりにも長くわれわれを訪れなかったのです。これを語るには大して機知もいらなさそうなものですが……」
「失礼ですが、ぼくもやはり機知に富んだほうじゃないから」と言葉鋭くラズーミヒンはさえぎった。「もう打ち止めにしようじゃありませんか。じつのところぼくは目的があって口をきったんだが、そんなひとりよがりの、いつ終わるとも知れぬはてしのない陳腐《ちんぷ》なおしゃべりは、もう三年の間、いやになるほど聞き飽きちゃった。自分で口にするのはおろか、自分のいるところで人がいいだすのですら、まったく顔が赤くなるくらいだ。あなたはむろん一刻も早く、自分の知