京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP265-P288

り過ぎると、彼女は両手をわなわなと顫わせながら差し上げた。と、まるでものに驚いた子供のように、ふいにわっと泣き出した。もうちょっと棄てておいたら、彼女は大声にわめき出したかもしれぬ。しかし、客はわれに返った。一瞬にして、彼の顔つきは一変した。彼はいかにも愛想のいい、優しい笑みを浮かべつつテーブルへ近寄った。
「失礼しました。出しぬけにやって来て、お目ざめを驚かせましたね、マリヤさん」と彼女のほうへ手を差し出しながら、彼はこういい出した。
 優しい声の響きは、相当の効果をもたらした。彼女は何やら思い出そうと努力するようなふうで、やはりおずおずと男を眺めていたが、それでも、驚愕の色は消えてしまった。おずおずと手も差し伸べた。ついに臆病げなほほえみがその唇に動き始めた。
「いらっしゃいまし、公爵」なんとなく奇妙な目つきで相手を見つめながら、彼女はささやいた。
「たぶんわるい夢でも見たんでしょう?」と彼は愛想よく、いよいよ優しくほほえみかけながら、言葉を続けた。
「わたしがあのこと[#「あのこと」に傍点]を夢に見たのを、どうしてごぞんじなのでございます?………」
 こういって、彼女はふいにまた身慄いしながら、一あしうしろへよろめいた。そして、わが身を守ろうとでもするように、片手を前へ突き出しつつ、またもや泣き出しそうな顔つきになった。
「気をとり直しなさい、もうたくさんですよ。何を恐れることがあるもんですか。いったいあなたはぼくに気がつかなかったのですか?」とニコライはなだめにかかったが、今度は長いあいだ気を落ちつかせることができなかった。
 彼女はその哀れな頭の中に、依然として悩ましい疑惑と、重苦しい想念をいだいたまま、なにものかに想到しようと努めつつ、無言に相手を見つめていた。じっと目を伏せているかと思うと、急にすべてを捕えるような視線をちらりと男に投げかけるのだった。が、とうとう気を落ちつけたというよりも、むしろ、何か決心したらしい様子で、
「どうぞお願いですから、わたしの傍にお坐りください。後でよくお顔が見せていただきたいのですから」明らかに、何か新しい目的を思いついたらしく、彼女はかなりしっかりした調子でこういった。「ですけれど、今はもうかまわないでくださいまし。わたしあなたのお顔を見はいたしません。下のほうを向いております。ですから、あなたも、わたしが自分でお願いするまでは、わたしを見ないでくださいまし。さあ、お坐りくださいませんか」と彼女はむしろじれったそうにつけ足した。
 見たところ、新しい感覚がしだいに烈しく、彼女の心を領してゆくらしかった。
 ニコライは腰を下ろして、待ち受けていた。かなり長い沈黙がおそった。
「ふむ! わたしはどうもこういうことが、何もかも不思議に思われてなりません」と腹立たしげにさえ聞こえる調子で、彼女は出しぬけにつぶやいた。「わたし本当に悪い夢にうなされてたのですけれど、どうしてあなたがあんな恰好をして、わたしの夢に出ていらしったのでしょう?」
「ええ、もう夢の話なんかやめましょう」と彼は、女が止めたのもかまわず、くるりとそのほうへ振り向きながら、もどかしそうにこういった。またしてもさきほどと同じ表情が、その目をかすめたように思われた。彼の目に映ったところでは、彼女はいく度も男の顔を見ようと思ったけれど、一生懸命、強情を張って、じっと下を向いているらしかった。
「ねえ、公爵」彼女はとつぜん声を高めた。「ねえ、公爵……」
「なぜあなたはそっちを向いてしまったのです。なぜぼくを見ないのです。こんな喜劇めいた真似をして、どうするつもりなんです?」とたまりかねて彼は叫んだ。
 しかし、彼女はまるで耳に入らぬ様子で、
「ねえ、公爵」としっかりした声で三度目にまたこうくり返した、不愉快な心配らしい渋面を作りながら。「あなたがあのとき車の上で、結婚を披露するとおっしゃったとき、わたしもうこれで秘密がおしまいになるのかと思って、本当にびっくりしてしまいました。今はもうまるでわかりませんけれど、わたししじゅうそう考えもしましたし、また自分の目でもはっきり見えます、――わたしはてんで不向きな女でございます。お化粧《つくり》をするくらいはできましょう。お客をお招きすることもやっぱりできるでしょう。なんの、お茶に人を呼ぶくらい、大してむずかしいことじゃありませんからねえ。ことに召使の者もいることですもの。けれども、やっぱりわきのほうから、妙な目つきでじろじろ見ることでしょうよ。わたしは日曜の日にあの家で、朝のうちからいろんなことを見抜いてまいりました。あの綺麗なお嬢さんは、しじゅうわたしのほうばかりじろじろ見ていられました。とりわけ、あなたが入っていらしった時なぞ、なおさらでしたわ。だって、あのとき入っていらしったのはあなたでございましょう、ねえ? またあのひとのお母さんなどは、ただもう滑稽な上流の老婦人ですよ。うちのレビャードキンも、なかなかやりましたね。わたし噴き出すまいと思って、いつも天井ばかり見ておりました。あすこの天井は模様入りだから、いいあんばいでしたわ。あの人[#「あの人」に傍点]のお母さんは、修道院の院長さまにでもなるよりほかしようのないひとです。わたしあのかたが怖うございますの。黒いショールなどくれましたけれどね。きっとあの時、あのひとたちはみんながかりで、思いもよらぬほうからわたしを試験したのです。わたしべつに怒りはしませんけれど、あの時じっと坐ったまま、とてもこのひとたちの親類にはなれないと考えました。そりゃ伯爵夫人に必要なのは、ただ精神的な資格だけでございます、――なぜって家事むきのほうには、召使がたくさんおりますからねえ。それから、また外国の旅人をもてなすために、なにか社交的な愛嬌もいりましょう。けれど、それにしても日曜の日に、あのひとたちはみんな愛想をつかしたように、わたしの顔を見ていました。ただ一人ダーシャだけは、天使のような人です。わたしね、もしひょっとあのひとたちが、わたしのことを何かうっかり悪くいって、あの人[#「あの人」に傍点]を悲しませはしないかと、それを心配しているのでございます」
「なにも怖がることはありません、心配しちゃいけません」とニコライは口を歪めた。
「もっとも、あの人がわたしのことを、少しくらい恥ずかしく思ったって、それはわたしなんともありません。だって、こういう場合はいつでも恥ずかしいというより、気の毒な心持ちのほうが勝ちますものね、もっとも、それはむろん、人によりますけど、まったくわたしのほうが、あの人たちを気の毒がるべきで、あの人たちがわたしを気の毒がる筋のないことは、あの人がちゃんとごぞんじでございますもの」
「あなたは、恐ろしくあの人たちに腹を立ててるようですね、マリヤさん?」
「だれ、わたし? いいえ」彼女は率直な微笑を浮かべた。
「けっしてそんなことありません。わたしはあの時、皆さんの様子を見ておりましたが、あなた方はみんなてんでに腹を立てて、みんながやがやいい合っていらっしゃる。仲直りはなさるけれど、心底からうち明けて笑い合えないんですもの。あれだけお金がありながら、楽しみといったらいくらもない、――わたしこう思うといやになってしまいました。けれども、わたしはいま自分よりほかだれも気の毒でなくなりました」
「ちょっと人から聞きましたが、あなたはぼくの不在中、兄さんと二人っきりで、ずいぶんいやな思いをして暮らしたそうですね?」
「いったいまあ、だれがあなたにそんなことをいったのでしょう? でたらめばかり、今のほうがずっといやですよ。今はよくない夢ばかり見ております。よくない夢ばかり見るようになったわけは、あなたがここへいらしったからでございます。本当にまあ、あなたはなんのために、姿をお見せになったのでしょう。お願いですから、聞かせてくださいな」
「あなたはもう一ど僧院《おてら》へ行きたかありませんか?」
「ほうら、あの人たちがまた僧院《おてら》をすすめるだろうと、わたしは前から虫が知らせていた! あなたの僧院なんか別に珍しかありませんよ! それに、なんだってそんなところへ行くのです、なんのために今さら入って行くのです? 今はもうほんの一人ぼっちなんですの! 三度目の生活を始めようなんて、わたしにはもうおそ過ぎます」
「あなたはどうしたのか、ひどく腹を立てていますね。もしやぼくの愛がさめやしないかと思って、そんなことを心配してるんじゃありませんか?」
「あなたのことなんか、わたしちっとも心配しちゃいません。わたしかえって自分のほうから、だれかに愛想をつかしはしないかと、それを心配してるくらいなんですよ」
 彼女はさも軽蔑したように薄笑いを洩らした。
「わたしはあの人[#「あの人」に傍点]に対して、きっと何か大変な間違いをしたに相違ない」出しぬけに彼女は独り言のようにいい足した。「ただ、どんな間違いなのか、それ一つだけわからない。これがいつまでも心がかりなのです。いつもいつもこの五年間、夜昼なしに、何かあの人に間違いをしたのではないかと、そればっかり心配していました。わたしはもうしょっちゅう祈って祈って祈り抜きながら、あの人に対する自分の大きな過ちを、じっと考えておりましたが、案の定、それが本当だとわかりました」
「いったいどうわかったんです?」
「ただあの人[#「あの人」に傍点]のほうになにかありはしまいかと、それが気づかいなのでございます」相手の問いには答えようともせず(まるで聞かなかったのかもしれぬ)、彼女は語りつづけた。「それにしても、あの人があんな連中の仲間になるはずはありません。伯爵夫人は、わたしを馬車に乗せてくれましたけれど、わたしを取って食いたいくらいに思っています。だれもかれもみんな、ぐるになっているのです。けれど、いったいあの人までがそうなのでしょうか? あの人まで心変わりしたのでしょうか? (彼女の下顎と唇はぶるぶる慄え出した)ねえ、あなた、あなたは七つの寺で呪われた、グリーシカ・オトゥレーピエフ([#割り注]偽王子を名乗って王位を奪った僧侶上りの青年、歴史上の人物[#割り注終わり])の話をお読みなさいましたか?」
 ニコライは押し黙っていた。
「だけど、わたしもうあなたのほうへ向いて、あなたの顔を見ますよ」とふいに決心したらしくいった。「あなたもわたしのほうを向いて、わたしの顔を見てくださいな。じっと一生懸命にね。わたしもう一ペんたしかめて見たいんですから」
「ぼくはもうずっと前から、あなたのほうを見ていますよ」
「ふむ!」マリヤは一心に見入りながらいった。「あなたはずいぶんお肥りになりましたねえ……」
 彼女はまだ何かいおうとしたが、ふいにまた(もうこれで三度目である)さきほどと同じような驚愕が、彼女の顔をへし曲げた。彼女はふたたび手を目の前に突き出しながら、一あしあとへよろめいた。
「いったいどうしたのです?」ほとんど憤怒の発作を感じながら、ニコライはこう叫んだ。
 けれど、この驚愕はほんの一瞬だった。彼女の顔は何かしら疑り深そうな、気持ちの悪い、奇妙な微笑に歪められた。
「公爵、お願いですから、ちょっと立って、入ってみてくださいませんか」と彼女は突然きっとした、思い込んだような声でいった。
「入ってみるってどうするんです? どこへ入るんです?」
「わたしはこの五年間、あの人[#「あの人」に傍点]がどうして入ってらっしゃるだろうと、そればかり心に描いておりましたの。さあ、すぐに立ってあちらの部屋へ行って、戸の陰へ隠れていてくださいまし。わたしはまるでなんにも当てにしてないようなふうをして、本を手に持って、坐っております。そこへあなたが五年の旅をすまして、思いがけなく入ってらっしゃる……それがどんなふうか見とうございますの」
 ニコライはひとり心の中で歯咬みしながら、何かわけのわからないことをぶつぶつつぶやいた。
「たくさんだ」と、彼は掌でテーブルを叩きながらいった。「マリヤさん、お願いだから、ぼくのいうことを聞いてください。後生だから、ありったけの注意を集中してください。もしできることなら……なんといっても、あなたはずぶの気ちがいじゃないんだから!」彼はこらえかねてこう口走った。「ぼくはあす二人の結婚を発表しようと思っています。あなたはけっして立派な邸で暮らすのじゃありません。そんな考えは捨てておしまいなさい。あなたは一生、ぼくといっしょに暮らす気がありますか、しかし、ここからずうっと遠いところなんですよ。それはスイスの山の中です。そこにちょっとした場所がありましてね………心配することはありません、ぼくはけっしてあなたを捨てもしなければ、気ちがい病院へも入れやしません。ぼくも無心をしないで暮らすだけの金はありますから。あなたの傍には女中が一人つくはずです。だから、あなたは何一つ仕事をしなくもいいのです。あなたの望みはなんであろうと、できることでさえあれば、かなえてあげます。お祈りするのもいいでしょう。どこなと好きなところへ出てみるのもいいでしょう。とにかく、なんでもしたいことはさしてあげます。ぼくはあなたにさわらないことにしますから。ぼくもやはりその場所から、一生うごかないつもりです。もしお望みなら、一生涯あなたと口をきかないでいましょうし、またお望みによっては、あの当時ペテルブルグの裏長屋でしたように、毎晩あなたの身の上話を聞かせてもらってもいいです。またお好みとあれば、本を読んで聞かせてもあげましょう。しかし、その代わり、一生ひとつところにいなければなりませんよ。それも淋しい場所なんです。行きたいですか。決心がつきますか? 後悔しやしませんか? 涙や呪いでぼくを悩ましはしませんか?」
 彼女は異常な好奇の色を浮かべて聞き終わり、長いこと黙って考えていた。
「そんなことはみんなありそうもない話よ」とうとう彼女は馬鹿にしたような、気むずかしげな調子でいい出した。「そんなことをしたら、わたし四十年もその山の中で暮らすようになるかもしれないもの」
 彼女は笑い出した。
「仕方がない、四十年も暮らそうじゃありませんか」ニコライは恐ろしく顔をしかめた。
「ふむ!………わたしどうしたって行きゃしない」
「ぼくといっしょでも?」
「わたしがあなたといっしょに行く気になるなんて、いったいあなたは何者です? こんな人といっしょに四十年も山の中に坐ってるなんて、――よくもずうずうしくやって来たもんだ! 本当にこの頃はどうしてみんなそう呑気になったもんだろう! いや、いや、鷹が梟になってしまうなんて、そんなことのあろうはずがない。わたしの公爵はこんな人じゃない!」彼女は得々と勝ち誇ったように頭《こうべ》をそらした。
 彼の顔にはさっと曇りがかかったように見えた。
 「なんだってあなたはぼくを公爵などと呼ぶんです、いったい……だれだと思ってるんです?」と彼は早口にきいた。
「え? まあ、あなたは公爵じゃないんですか?」
「一度もそんな身分になったことはありません」
「じゃ、あなたはいきなりわたしに向かって臆面もなく、公爵でないってことを白状なさるんですか!」
「一度もそんな身分になったことがないって、ちゃんといってるじゃありませんか」
「おお、どうしよう!」と彼女は両手を鳴らした。「あの人[#「あの人」に傍点]の敵はどんなことでもしかねないと覚悟はしていたけれど、こんなずうずうしい仕打ちは思いも寄らなかった! いったいあの人は生きてらっしゃるのかしら?」と、彼女はもはや前後を忘れて、ニコライに詰め寄りながら叫んだ。「お前はあの人を殺したのか殺さないのか、白状しておしまい!」
「お前はぼくをだれと間違えてるんだ?」と彼は顔を歪めながら、跳びあがって席を離れた。
 けれど、もはや彼女を威嚇することはできなかった。彼女は勝ち誇ったような態度で、
「いったいお前は何者だ、どこから飛び出したのだ! わたしの胸は、わたしの胸はこの五年間、悪だくみを底まで感づいていた! わたしはさっきここに坐っていたが、いったいこの目くら梟がどうして入って来たやら、本当にびっくりしてしまった。駄目だよ、お前さん、お前さんは芝居が下手で、レビャードキンよりもっと拙い。どうか伯爵夫人に、わたしからよろしくといっておくれ。そして、これからはお前なんかより、少し気の利いたものをよこすようにいっておくれ。お前はあのひとに傭われたんだろう、白状おし。あのひとのお情けで、台所においてもらってるんだろう? お前の小細工なんぞは、ちゃんと見え透いている。お前の仲間なんか、一人残らず承知している!」
 彼は女の二の腕を、肘の少し上の辺をしっかりつかんだ。彼女は面と向かってからからと高笑いした。
「似てるよ、お前は、恐ろしく似てるよ。ことによったら、あの人の親類かもしれないね、――油断のならない人たちだ! ただわたしの恋人は、輝くばかり立派な鷹なのだ、公爵なのだ。ところが、お前は梟だ、小|商人《あきんど》だ! わたしの恋人は気さえ向けば、神様を拝むこともできるけれど、気が向かなければ見向きもしない人なのだ。ところが、お前なんぞはシャートゥシカに(あの人はかわいい人だ、わたしの好きな懐かしい人だ)、頬っぺたを撲りつけられるくらいの人間だ。うちのレビャードキンが聞かしてくれたよ。それに、お前はあの時、どうしてあんなにびくびくしながら入って来たんだえ? だれに脅かされたんだえ? わたしが床の上に倒れた時、お前はわたしを支えてくれた。その時、お前の下卑た顔が目に入ると、まるで虫けらが胸へ這い込んだような気がした。違う、あの人[#「あの人」に傍点]じゃない、と思った。あの人[#「あの人」に傍点]じゃない! とね。わたしの鷹は、あんな貴族の令嬢の前だって、わたしのことを恥ずかしいなどと思やしない! ああ、どうしよう! わたしは五年の間というもの、『どこか山の向こうのほうにわたしの鷹が暮らしている、空高く飛びながら陽を仰いでいる……』こう考えたばかりで仕合わせだった。白状おし、贋公爵、たくさんもらったんだろう? 大金に目がくれて、承知したんだろう? わたしなんか、びた一文だってお前にやりゃしない。ははは! ははは!」
「うーん、この馬鹿女め!」なおもつよく女の手を押えながら、ニコライは歯をぎりぎり鳴らした。
「おどき、贋公爵!」と彼女は命令口調で叫んだ。「わたしは公爵の妻です、お前の刀なんぞ恐れはしない!」
「刀!」
「ああ、刀だよ! お前のかくしの中に刀がある。お前はわたしが寝ているとお思いだろうが、わたしはちゃんと見ていた。さっき入って来た時に、お前は刀を引き出したのだ!」
「お前は何をいうのだ、かわいそうに、なんという夢をお前は見ているのだ!」と、こうわめいて、彼は力まかせに女を突き放した。女は肩と頭をうんと長いすに打ちつけた。
 彼は一目散に駆け出した。けれども、マリヤはすぐさま起きあがって、びっこを引きながらその後から駆け出した。早くも入口まで飛び出した彼女は、仰天して度胆をぬかれたレビャードキンに力いっぱい抱き止められたまま、高らかな笑いを交えた甲高い声で、彼のうしろから外の闇に向けてわめいた。
「グリーシカ・オトゥレーピエフ! あーくーま!」

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

『刀、刀!』道も選ばず、ぬかるみや水溜りの中を大股に歩きながら、彼は癒し難き憎悪の念をもってくり返した。ときどき大声に笑いたくてたまらなくなったが、なぜか一生懸命に笑いを抑えつけた。さきほどフェージカに出会った橋の上、しかもちょうど同じところまで来て、彼は初めてわれに返った。やはり同じフェージカがここで彼を待っていて、今度も彼の姿を見ると、帽子を取り、愉快そうに歯を剥きながら、すぐ何やら早口に、面白そうにまくし立て始めた。ニコライは初めのうち、立ちどまろうともしないで歩きつづけた。またしても後からまとわりつく浮浪漢の言葉に、しばらくはまるで耳をかそうともしなかった。
 とつぜん彼は、ある想念に打たれて、ぎょっとした。ほかでもない、彼はまるでこの男のことを忘れていた。しかも、ちょうど『刀、刀』と絶え間なく心にくり返しているとき、まるで思い出さなかったのである。彼はいきなり浮浪漢の襟髪を取って、今までこらえこらえた癇癪を一度に破裂さしたような勢いで、力まかせに彼を橋板に叩きつけた。こちらは初めちょっと手向かいしようとしたが、ほとんどそれと同時に、ニコライが自分を襲ったのはただ一時の出来心にすぎないけれど、その腕力にくらべると、自分なぞはほんの藁しべのようなものだと悟ったので、少しも手向かいしないでおとなしく、じっと押し黙っていた。目先の利いたこの浮浪漢は両膝を突いて、地べたへぐいと押しつけられ、両手をうしろざまに捩じ上げられながら、自分の身の上に何か危険が迫っているなどとは、てんから考えてもいないらしいふうで、平然と大団円を待っていた。
 彼の睨んだ目は狂わなかった。ニコライは自分の巻いている襟巻を左手ではずして、俘《とりこ》をうしろ手に縛り上げようとしたが、急になぜかその手を放して、向こうへ突き飛ばした。こちらはくるりと跳ね起きて振り返った。短い幅の広い靴屋の使う小刀が、どこから出したのか、突然その手中に閃いた。
「小刀なんか棄ててしまえ。隠さんか、早く隠さんか!」とニコライはいらだたしげな手つきをしながら命令[#「命令」に傍点]した。と、小刀は取り出された時とおなじ速さで、ふたたび影を消してしまった。
 ニコライはまたもやもとの無言に返って、後をも見ずにさっさと歩き出した。しかし、執拗な浮浪漢は、それでも彼の傍を離れなかった。もっとも、今度は前のようにしゃべらないで、うやうやしげに一歩の間隔さえ保ちながら、後からついて来るのだった。こうして、二人は橋を渡り終わって向こう岸へ出、今度は左へ曲って、やはり細長いがらんとした裏通りへ出た。これを通って行くと、さっきのボゴヤーヴレンスカヤ街よりも、町の中心へ出るのに近道だった。
「おい、貴様はこのあいだどこか郡部のほうの教会へ泥棒に入ったそうだが、あれはいったいほんとなのか?」と出しぬけにニコライは問いかけた。
「実のところ、わっしは初めお祈りするつもりで寄ったので」まるで何事もなかったような口調で、浮浪漢はものものしく慇懃にこう答えた。いや、ものものしいというより、ほとんどもったいぶった調子だった。
 さきほどの『なれなれしい』砕けたところは跡形もなくなって、理由もなく侮辱されながらその侮辱を忘れるだけの度量を持った、真面目な事務家らしい態度がうかがわれるのであった。
「まったく神様のお導きであそこへ入った時には」と彼は言葉を続けた。「まあ、ありがたい、まるで天国のようだ、とこう思いました! いったいあの一件も、わっしの頼りない境涯から起こったことなのでございます。この世の中では、他人の助けがなくちゃ、本当にどうすることもできませんからねえ。ところが、正直のところ、あれは骨折り損でございました。悪いことをして、神様の罰が当たりましたんで。助祭の帯だとか、振り香炉だとか、なんだかだといって、みんなでわずか十二ルーブリしか儲からなかったのでございます。ニコライ行者の下顎が純銀だということでしたが、これが一文にもなりません。メッキなんだそうで」
「番人を殺したろう?」
「といって、つまりその番人とぐるでやったところ、それからもう夜明けに近い頃、河の傍で二人の間に口論がおっ始まったのでございます。どちらが袋を背負って行くか、という論なので。その時つい罪なことをしてしまいました。ちょっくらこの世の重荷を軽くしてやりました」
「もっと殺すがいい、もっと泥棒するがいい」
「ピョートル・スチェパーノヴィチも、ちょうどそれと同じことをおっしゃいました。まるでそっくり同じ言い方でわっしにすすめてくださいましたよ。まったく人を助けるということにかけちゃ、けちで不人情な方でございますからねえ。それに、わっしどもを土から創ってくだすった天の神様を、これっからさきも信じようとしないで、何もかも獣一匹の末にいたるまで、自然が造り出したものだ、などとおっしゃる。そればかりか、この世の中で情け深い人の助けがなかったら、どうにもこうにも仕方がないってことを、とんと会得していらっしゃらないんですからね。あの方にこんな講釈をすると、まるで羊が水でも見たようなふうつきでしてね、本当にもうあきれるほかはありませんよ。ところがねえ、旦那、今お訪ねになりましたレビャードキン大尉ですが、あの人はまだ、フィリッポフの家に住まっている時分から、どうかすると、一晩じゅう戸を開けっ放しにしておいて、自分はまるで死人みたいに酔っぱらってるじゃありませんか。そして、どのかくしからも、どのかくしからも、金がばらばら床へ転がり出しておりますんで。この目で見ることもちょいちょいありますよ。なにぶんわっしどものような身の上じゃ、人様の助けなしには、どうにもしようがございませんので……」
「え、この目で見た? じゃ、夜中に入りでもしたのかい?」
「入ったかもわかりませんが、それはだれも知らないことなんで」
「どうして殺さなかったのだ!」
「なに、胸の中で算盤をはじいて見て、気を長く持つことに決めたのでございます。なぜって、百や百五十の金はいつでも取れるということが、しっかりわかった以上、もう少し待って、千か千五百の金を引き出したほうがいい、とこういう気にならずにゃいられないじゃありませんか。わっしは確かにこの耳で聞いたのですが、いつでもレビャードキン大尉は酔っぱらった紛れに、恐ろしくあなたを当てにしてるようなことを申しておりました。こういうわけで、どんな料理屋だって、どんな下等な酒屋だって、あの男がこのことを大っぴらでしゃべらないところは、町じゅうに一軒もないくらいでございます。で、わっしもこの話をいろんな人の口から聞きまして、やっぱり旦那さまに深い望みをかけるようになりましたので、わっしは旦那さまのことを、親身の父親《てておや》か兄貴のように思って、お話したのでございます。ピョートル・スチェパーノヴィチなぞの耳には、けっして入れることじゃありません。いいえ、だれ一人にだって知らせやしませんよ。そこで、旦那さま、三ルーブリばかりお恵みくださいますでしょうか、いかがなもので? 本当にもうわっしの心の謎を解いて、心底のところを知らせてくだすっても、よさそうなもんじゃございませんか。なにぶんわっしどもは人様の助けがなくちゃ、どうにもやってゆけませんのでねえ……」
 ニコライは大きな声でからからと笑い出した。そして、細かい札で五十ルーブリばかり入った金入れをかくしから取り出すと、束の中から一枚ぬき取って、浮浪漢に投げ出してやった。それから一枚、また一枚……フェージカは宙にそれを受け留めようと、飛び廻った。札はひらひらと泥の中に飛び散った。彼は『ええっ、ええっ!』と叫びながら、札の後を追うのだった。ニコライは、とうとう一束すっかりなげつけてしまうと、やはりからからと笑いつづけながら、今度はもう一人きりで、裏通りをすたすたと歩き出した。浮浪漢は後に残って、ぬかるみの中を四つん這いに這い廻りながら、風に吹き散らされて水溜りの中に浮かぶ札をさがしていた。そして、まる一時間ばかりも闇の中で、『ええっ、ええっ!』と叫ぶ、引きちぎったような声が聞こえるのだった。

[#3字下げ]第3章 決闘[#「第3章 決闘」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 翌日午後二時、予想されていた決闘は成立した。ことがこうまで速かに決せられたのは、是が非でも闘わねばならぬという、ガガーノフの一徹な要求に基づくものであった。彼は敵の行為が納得できなかったので、今は前後を忘れるほど狂憤してしまった。もう一月ばかり敵を侮辱しつづけてきたのに、さらになんの手ごたえもない。どうしても相手の勘忍袋の緒を切らすことができなかった。しかし、決闘の申し込みはどうしても、ニコライのほうからさせなければならなかった。彼自身のほうで決闘を申し込もうにも直接の口実をもたなかったからである。心の奥底に潜めている実際の動機、すなわち四年前、父に加えられた侮辱のために、スタヴローギンに対していだいている病的な憎悪は、どういうわけか自分でも肯定するのがはばかられた。ことにニコライが二度までも率直な謝罪の手紙をよこしている以上、こういうことはしょせん口実とするわけにいかないのを自認していた。彼は心の中で、ニコライを恥知らず、臆病者と決めてしまった。事実、シャートフからあれほどの無礼を加えられながら、どうして平然と忍んでいられるかと、不思議でたまらなかったのである。とうとう彼は、暴慢比類なき例の手紙を送ることに決心し、これがついに相手のニコライをして決闘を申し込ませる動機となったのである。
 前日この手紙を出した後、ガガーノフは熱病やみのようないらいらした心持ちで、決闘の申し込みを待ち設けながら、時には望みをいだき、時には絶望したりして、希望実現の可能の程度を考量してみるのだった。彼は万一の場合に備えるため、前の晩から介添人を用意して待っていた。それはほかでもない、学校時分から無二の親友として、つねづね敬愛してやまぬマヴリーキイ・ドロズドフだった。こういうわけで、翌朝九時頃にキリーロフが、依頼を受けて訪れた時には、もうすべての準備は整っていた。ニコライのあらゆる謝罪の言葉も、かつて類のないような譲歩も、すぐさま一言の下に恐ろしい憤激をもってしりぞけられた。マヴリーキイは、前の晩はじめてことのいきさつを聞いたばかりなので、こうした前代未聞の条件を耳にすると、驚きのあまり口を開いて、さっそく和睦を主張しようとした。けれど、彼の心を悟ったガガーノフが、椅子に腰かけたまま、ぶるぶる身を慄わせ始めたのを見て、急に口をつぐみ、何もいわないことにした。実際、親友としてあんなことを約束しなかったら、彼は即座に身をひいてしまったはずなのである。しかし、事件の終わりに当たって、何か方法が立つかもしれぬという望みに繋がれて、彼はとにかくその場に居残った。
 キリーロフは決闘の申し込みを伝えた。スタヴローギンの提出したいっさいの条件は、いささかの異議もなくそのまま即座に受納された。もっとも、ただ一つ補足が加えられた。しかも、非常に残忍なものだった。ほかでもない、もし第一発でなんら決定的な結果が生じなかったら、さらにもう一ど手合わせをしよう、二度目にもこれという結果を見なかったら、三度目の手合わせをしようというのだった。キリーロフは顔をしかめて、三度目という点について談合をこころみたが、なんの効果もなかった。で、とうとう『三度まではかまわないが、四度目はどうあっても駄目』という条件つきで賛成した。これには、先方も譲歩した。こういうふうで、その日の午後二時、ブルイコーフで決闘が成立した。それは一方からはスクヴァレーシニキイ、いま一方からはシュピグーリンの工場で挟まれた、郊外の小さな森の中である。昨夜の雨はすっかりあがっていたが、じめじめと湿っぽい風の吹く日だった。低い濁ったちぎれちぎれの雲が、冷たい空を忙しげに流れ、木々の梢は時に強く時に弱く、ごうっと深みのある音を立てて騒ぎ、根のほうはぎしぎし軋んでいた。なんともいえぬ佗しい日だった。
 ガガーノフとマヴリーキイとは、洒落た散歩馬車に乗って、指定の場所へ到着した。二頭立の馬はガガーノフがみずから馭していた。そのほか一人の下男がついて来た。それとほとんど同時に、ニコライとキリーロフもやって来た。しかし、この二人は馬車でなく、馬に乗って来たのである。やはり一人の下男が騎馬で供をしている。キリーロフは今まで、一度も馬に乗ったことがないのだが、右手にピストルの入った重い箱をかかえながら、大胆な態度で昂然と鞍に跨っていた。この箱を下男に持たすのがいやだったのである。で、左手だけで手綱を支えていたが、不馴れなために絶えず巻いたり、引っ張ったりするので、馬はぶるぶると首を振りながら、今にも棒立ちになりそうな様子を示したが、乗り手は少しも驚くふうがなかった。生来うたぐり深いたちで、すぐに烈しい侮辱を感じるガガーノフは、彼らが騎馬でやって来たのを、また一つの新しい侮辱と解釈した。それは敵が負傷の場合、乗せられて帰るべき馬車の必要を感じていないとすれば、早くも自分の勝利を信じ切っているのだ、という意味なのであった。彼は憤怒のあまり、顔を黄いろくしながら馬車を出たが、われながら両手がわなわなと慄えるのを感じ、このことをマヴリーキイに話した。ニコライの会釈には返しもしないで、そっぽを向いてしまった。二人の介添人は籖を抽いた。ピストルはキリーロフのが当たった。やがて、境界線が引かれて、闘手は両方に立たされた。そして、馬車や馬や従僕は、三百歩ばかり後のほうへ追いやってしまった。ついに武器は装填され、二人の闘手に渡された。
 わたしは物語のさきを急がなければならないので、詳しく描写している暇がないのを悲しむが、それでも要所要所の叙述をまったく抜きにしてしまうわけにはいかない。マヴリーキイは妙に沈み込んで、心配そうなふうだった。が、その代わりキリーロフはどこまでも落ちつき払って、どこを風が吹くかというような顔つきだった。そして、いったんひき受けた義務の履行に関しては、細かいところまで正確を守っていたが、もう目の前に迫っている運命的な事件の成行きについて、すこしもあわてたようなふうがないばかりか、ほとんど好奇心らしいものさえ見えなかった。ニコライはいつもより少しあおい顔をして、外套に白い毛皮の帽子という、かなり軽い服装をしていた。彼はだいぶ疲れているらしく、ときどき眉をひそめながら、自分の不愉快な気持ちを、少しも隠そうとしなかった。しかし、この瞬間ガガーノフは、だれよりも一ばん目立っていた。したがって、彼のことだけ全然べつに一言しないわけにいかないのである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 わたしは今まで一度も、彼の外貌を述べる機会がなかった。彼は色白で背の高い、平民仲間でいわゆる『脂ぶとりのした』いかにも満ち足りたらしい紳士で、年のころは三十三、四、うすい亜麻色の髪の毛をした、かなり美しい輪郭の顔だちだった。彼は大佐で軍務を退《ひ》いたが、もし将官になるまで勤務を続けたら、将官という背景の下に、いっそう堂々たる感じを与えたろうし、また立派な戦場の指揮官となることができたかもしれない。
 この人物の性格の描写上、逸することのできないのは、彼の軍務を退いた動機である。それはほかでもない、四年前ニコライのために、父がクラブで恥辱を受けて以来、長い間しゅうねく彼を悩ました家門の名折れという一念だった。このうえ勤務を続けるのは、良心に対しても恥ずかしい破廉恥なことに思われた。自分が職にとどまるのは、連隊はじめ同僚の顔に泥を塗るに均しい、とこう信じて疑わなかった。そのくせ同僚仲間ではだれ一人として、この出来事を知る者はなかったのである。もっとも、彼はずっと以前、この侮辱事件の起こらないさきから、まったく別な理由で軍務を退こうと思ったこともあるが、この時まできっぱりと決しかねていた。奇妙な話だけれど、彼が軍務を退こうとした最初の原因、というよりむしろ動機は、一八六一年二月十九日の農奴解放だった。ガガーノフは、県内でも屈指の富裕な地主で、しかも、解放令の発布の後も、大した損害はこうむらなかったのだし、彼自身もこの処置の人道的意義を承認し、改革によって生ずる経済的利益をも、了解するだけの頭脳はあったのだが、それでも解放令の発布後、急に自分自身が個人的侮辱を受けたように感じ出した。それは何かこう無意識的な感情だったが、はっきりしないだけ、かえって痛烈に感じられた。もっとも、父親の死ぬるまでは、どうとも断固たる処置を取る決心がつかなかった。しかし、ペテルブルグでは、その『高潔な』思想のために、諸名士の間にも名を知られるようになってきた。彼はこういう人たちと、なるべく、関係を絶たないように努めていた。彼は自分というものの中に入り込んで、そこにじっと閉じこもっているような人だった。いま一つの特質ともいうべきは、自分の家柄の古いのと血統の正しいのを、やたらに自慢することだった。彼はそんなことに真面目な興味をいだいている奇妙なロシヤ貴族の仲間に属していた。こういう貴族は、今でもロシヤに生き残っている。が、それと同時に、彼はロシヤ歴史が大嫌いで、全体にロシヤの習慣を醜悪なものと考えていた。主として、富裕な名門の子弟のみのために設けられた、特別な軍事学校に籍をおいている少年時代に(彼はこの学校で教育を終始するの光栄を有していた)、一種詩的な人生観が彼の心に根を張ったのである。彼は城とか、中世紀の生活とかいうものがむやみと好きになった。もっとも、それはただオペラ式の方面ばかりで、騎士|気質《かたぎ》といったようなものだった。彼はモスクワ帝国時代の皇帝が、貴族に体刑を課する権利をもっていた事実を、西欧の歴史に比較して顔をあからめ、恥ずかしさのあまりに泣き出さんばかりであった。
 自己の勤務については、なみなみならぬ知識を有し、義務の遂行上はなはだしく厳格な、いくぶん鈍重な気味のあるこの男も、内心なかなかの空想家だった。ある人の確言するところによると、彼は弁舌の才をもっていて、集会の席で演説するくらいは平気だということだった。しかし、この三十三年間というもの、彼はとうとう沈黙を貫き通した。近ごろ出入りし始めたペテルブルグの社交界でも、彼は並みはずれて倨傲な態度を持していた。外国旅行から帰ったニコライと初めてペテルブルグで出会ったとき、彼はほとんど気も狂わんばかりだった。
 いま決闘の場に立ちながらも、彼は恐ろしく不安な心持ちにおそわれていた。ひょっとしたら、ことが不成立に終わりはしまいか、というような気が始終してたまらないので、わずかばかりの猶予も、彼を惑乱の渦巻へ投げ込むのだった。キリーロフが決闘開始の合図を与える代わりに、とつぜん口を切ってしゃべり出したとき、病的な印象がその顔にありありと浮かんだ。もっとも、彼の言葉は当人が公然といっているとおり、ただの形式にすぎなかったのである。
「ぼくは単に形式上一言しておきます。もうピストルも手に握られて、いよいよ合図をしなければならぬ今この瞬間に、いかがでしょう、最後にもう一度いいますが、和解することは不可能でしょうか? これは介添人の義務ですから」
 今まで無言でいたマヴリーキイさえ、思わず申し合わせでもしたように、突然キリーロフの考えに賛成して同じようなことをいい出した。彼は昨日以来、自分があまり意気地なく、緩慢な態度をとったのを、苦に病んでいたのである。
「ぼくも全然キリーロフ君の説に賛成します……決闘の場所で和解できないという思想は、単にフランス式の偏見にすぎません……それに、ぼくは侮辱がどこにあるか、それが第一わからないです。きみはなんと思うか知らないが、ぼくは前からこのことがいいたかったのです。……なんといっても、言葉をつくして謝罪の意を申し入れてるんですからね、そうじゃありませんか?」
 彼は顔じゅう真っ赤にした。今までこんなに言葉数多く、こんなに興奮して口をきいたことは、めったにないのであった。
「ぼくはあらゆる方法をつくして、謝意を表するという自分の提言を、もう一度ここで確めておきます」ニコライも大急ぎで口を入れた。
「いったいそんなことができるもんですか?」憤怒のあまり足を踏み鳴らしながら、ガガーノフはマヴリーキイに向かって、兇猛な声で叫んだ。「マヴリーキイ君、もしきみがぼくの敵でなくて、介添人だとすれば、ひとつあの男にいって聞かしてください(と彼はピストルでニコライのほうをさして見せた)。そんな譲歩はただ侮辱を増すばかりです! あの男は、ぼくに腹を立てるなんて、不可能だと思ってやがる!……あの男はぼくを相手にした場合には、決闘の場所を去ることくらい、てんで恥辱と思っていないんだ! いったいあいつはぼくをだれだと思ってるんだろう。きみたちの見ている目の前で……きみはそれでもぼくの介添人ですか! きみはぼくの弾丸《たま》があたらないようにと思って、ぼくに癇癪を立てさせてばかりいるんです」
 彼はまたもや足を踏み鳴らした。唇からは唾が飛んでいた。
「交渉は終わりました。さあ、号令を聴いてください!」とキリーロフはありたけの声を出して叫んだ。「一! 二! 三!」『三』の声とともに、闘手は互いに敵を目ざして進み始めた。ガガーノフはすぐピストルを上げて、五足目か六足目に火蓋を切った。そして、ちょいと歩みをとめたが、しくじったなと見定めると、また早足に境界線のほうへ近寄った。ニコライも同じく歩み寄ってピストルを上げたが、なんだか恐ろしく高いところへ筒先を向け、ろくろく狙いもしないで引き金を下ろした。それからハンカチを取り出して、右手の小指を繃帯した。その時はじめて、ガガーノフも全然しくじったわけでない、ということがわかったのである。弾丸《たま》は小指の関節の肉をかすめただけで、骨には少しもさわらず、ただちょいとした擦り傷ができたばかりである。キリーロフは、もし敵手同士がこれで満足しなければ、決闘はまだ続行すると宣言した。
「ぼくは次の事実を明言する」ふたたびマヴリーキイのほうを向きながら、ガガーノフはしゃがれ声でどなった(もう喉がすっかり乾いてしまったので)。「この男は(と、またしてもスタヴローギンのほうを指さして)、この男はわざと空を向けて射ったのです……故意にやったのです……これは実に重ね重ねの侮辱だ! あいつは決闘を成立させまいとしてるのだ!」
「ぼくは規則にさえそむかなければ、どうなと勝手な射ち方をする権利を持っています」ニコライはきっぱりといった。
「いいや、持っていない! よく説明してやってください、よく説明して!」とガガーノフはわめいた。
「ぼくは全然スタヴローギン君の意見に同意です」とキリーロフは宣告した。
「なんのためにあいつはぼくに容赦するのだ?」人の言葉は耳にもかけず、ガガーノフは猛り立った。「ぼくはあいつのお情けなんかに預りたくない……唾でも引っかけてやりたいくらいだ……ぼくは……」
「ぼくは立派に誓います。ぼくはけっしてあなたを侮辱するつもりじゃなかったのです」とニコライはいらだたしげにいい出した。「ぼくが上を向けて射ったわけは、もう今後、人を殺したくないからです。相手があなたであろうと、またほかのだれかであろうと、対人的差別は持っていません。実際、ぼくは侮辱を受けたものと思っていないのに、それがあなたのお気にさわるのを残念に思います。しかし、自分の権利に干渉することは、だれにもゆるすわけにゆきません」
「それほど血を見るのが恐ろしいなら、どういうわけでぼくに決闘を申し込んだのだ、それをきいてください」依然としてマヴリーキイに向かって、ガガーノフはわめき立てた。
「どうしてきみに申し込みをせずにいられます?」とキリーロフが口を入れた。「きみは何一つ耳をかそうとしないんですもの、ほかにきみを振りほどく方法がないじゃありませんか?」
「ただ一つきみの注意を促しておきますが」努力し苦悶と戦いつつ、ことの成行きを考察していたマヴリーキイが、やっとこう口を切った。「敵手が前もって、空へ向けて発射すると明言している以上、事実、決闘を続行することはできないじゃありませんか……微妙な……しかも明瞭な理由によって……」
「ぼくはいつもいつも空へ向けて発射するとは、けっして明言しやしなかったです!」と、もうすっかり我慢ができなくなって、スタヴローギンは叫んだ。「あなたはぼくが何を考えてるか、ぼくがこの次どういうふうに発射するか、少しもごぞんじないのです……ぼく決闘を制限するようなことは、何一つ言やしなかった」
「そういうことなら、手合わせはまだつづけてもよろしい」とマヴリーキイはガガーノフに向かっていった。
「諸君、めいめい自分の位置に立ってください!」とキリーロフが号令した。
 ふたたび両敵手は近づいた。ガガーノフはまたもや失敗をくり返し、スタヴローギン[#「スタヴローギン」は底本では「スロヴローギン」]はまたもや上へ向けて射った。はたして空中へ発射したかどうか、それについては議論の余地もありえたのである。もし、わざと仕損じたのだと、当人が白状しなかったら、ニコライは正当に発射をしたと、断言することができたかもしれない。彼は露骨にピストルを空中へ向けたり、立木を狙ったりしたわけではない、とにかく敵を狙ったようには見受けられた。が、実際はやはり、帽子のうえ二尺ばかりの辺を狙ったのである。ことに今度の二回目はまだ下のほうを狙って、前よりさらに真実らしく見せた。けれど、もうガガーノフの疑いを解くことは、とうていできなかった。
「またか!」と彼は歯咬みをした。「なに、どうだってかまうもんか! ぼくは申し込みを受けてるんだから、当然の権利を行使する。ぼくはもう一度うつつもりです……ええ、どうあっても」
「きみは十分その権利をもっておられます」とキリーロフは断ち切るようにいった。
 マヴリーキイはなんにもいわなかった。介添人たちはこれでもう三ど双方を引き分けると、号令をかけた。ガガーノフは今度は仕切りのすぐ傍まで行って、線の上から十二歩へだてて、狙い始めた。しかし、彼の手は正確な発射に成功するべく、あまり烈しく慄えていた。スタヴローギンはピストルを下ろしたまま、身じろぎもせずに相手の発射を待っていた。
「あまり長すぎる、あまり狙いが長すぎる!」とキリーロフは烈しい語調でいった。「お射ちなさい! お射ちなさい!」
 しかし、発射の音は響き渡った。そして、今度は白い帽子が、ニコライの頭からけし飛んだ。狙いはかなり正確で、帽子の山のだいぶ低いところが打ち抜かれていた。もしいま二分ほど低かったら、もう万事了しているところだった。キリーロフは帽子を拾って、ニコライに渡した。
「お射ちなさい、敵を引き留めちゃいけません!」マヴリーキイは極度の興奮にこう叫んだ。スタヴローギンは発射のことを忘れたように、キリーロフといっしょに帽子を調べていたのである。
 スタヴローギンはぎくりとして、ちらとガガーノフを見やった。そして、いきなりそっぽを向くと、今度はいささかの遠慮もなく、わきのほうの森へ向けて射ち放した。決闘は終わった。ガガーノフはうちひしがれたように棒立ちになっていた。マヴリーキイが傍へ寄って、何か話しかけたが、こちらはまるで何もわからないようだった。キリーロフは帰りしなに帽子を取って、マヴリーキイにちょっと会釈した。しかし、スタヴローギンはさきほどの礼節を忘れてしまった。森へ向けて一発放すと、仕切りのほうを向いて見ようともせず、キリーロフの手ヘピストルを押し込んで、さっさと馬のほうへ歩き出した。その顔は憤怒の色を現わしていた。彼はおし黙っていた。キリーロフも無言であった。二人は馬に乗って、駆足で走り出した。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

「なんだってきみは黙ってるんです?」もう家の近くまで来た時、彼はじれったそうにキリーロフに声をかけた。
「何用です?」と、こちらはあやうく馬からすべり落ちそうになって答えた。馬がふいに後足で突っ立ったのである。
 スタヴローギンはじっと心を押し静めた。
「ぼくはあの……馬鹿を侮辱したくないと思ったんだが、やっぱり侮辱するようになってしまった」と、彼は低い声でいった。
「ええ、あなたはまた侮辱しました」キリーロフはずばりといい切った。「それに、あの男は馬鹿じゃありませんよ」
「しかし、ぼくはできるだけのことをした」
「そうじゃありません」
「じゃ、どうすればよかったのです?」
「決闘を申し込まなければよかったのです」
「もう一ペん頬っぺたを打たせるんですか?」
「ええ、打たせるんです」
「まるでわけがわからなくなってきた!」とスタヴローギンは毒々しげにいった。「なんだってみんなぼくに対して、ほかの者からはとうてい望めないようなことを期待しているんだろう? なんのためにぼくはほかの者が忍びえないようなことを忍び、ほかの者が負い切れないような重荷を、好んで引き受けなくちゃならないんだろう?」
「ぼくはあなたが自分で重荷を求めているものと思っていました」
「ぼくが重荷を求めているって?」
「そうです」
「きみ……それを見たんですか?」
「そうです」
「それがそんなに目立ちますか?」
「そうです」
 二人は少しのあいだ黙っていた。スタヴローギンは何か気がかりらしい顔つきをしていた。彼は何かのショックを受けたようなふうだった。
「ぼくが狙わなかったのは、人を殺したくなかったからにすぎない。ほかにわけはありません、まったく」まるで弁解でもするように、彼はせかせかと心配そうにいった。
「じゃ、人を侮辱する必要はなかったのです」
「いったいどうすればよかったんです?」
「殺したらよかったのです」
「きみはぼくがあの男を殺さなかったのを、残念に思ってるんですか?」
「ぼくは残念なことなんか一つもありません。ぼくはあなたが、本当に殺すつもりだとばかり思っていました。あなたは自分で何を求めてるかわからないのです」
「重荷を求めてるんですよ」スタヴローギンは笑い出した。
「あなたは自分で血を流すのがいやなくせに、どうしてあの男に殺人的行為を許したのです?」
「もし、ぼくが申し込まなかったら、あの男は決闘の方法によらないで、ただいきなりぼくを殺したでしょうよ」
「それはきみの知ったことじゃありません。それに、或いは殺さなかったかもしれませんよ」
「ただちょっと撲りつけるだけで?」
「それはあなたの知ったことじゃありません。重荷を背負ってお行きなさい。でないと、あなたの功業がなくなってしまいます」
「そんな功業なんかぺっぺっだ。そんなものをだれからも求めようと思いません!」
「ぼくは求めておいでかと思っていましたよ」キリーロフは恐ろしく冷然といい放った。
 二人は邸の中へ馬を乗り入れた。
「寄りませんか?」とスタヴローギンはすすめた。
「いや、ぼくはうちで……さようなら」
 彼は馬から下りて、自分の箱を小脇にかかえた。
「少なくも、きみだけはぼくに腹を立てていないでしょうね?」とスタヴローギンは手を差し伸べた。
「どういたしまして!」キリーロフはわざわざ引っ返して、手を握った。「ぼくの重荷が楽なのは生まれつきのためだとすれば、あなたの重荷はなかなか骨が折れるでしょう。そうした生まれつきだから。が、何もそうひどく恥じることはありません、ただ少しばかり……」
「ぼくは自分がつまらん男だということを知っています。だから、あえて強者を気取ろうともしない」
「まったく気取らないほうがいいです。あなたは強者じゃありません。お茶でも飲みにいらっしゃい」
 ニコライははげしい困惑を感じながら、自分の居間へ入って行った。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 入るとさっそく、侍僕のアレクセイから、ヴァルヴァーラ夫人が馬車に馬をつけさせて、ただひとり出かけたことを聞いた。夫人はニコライがはじめて、――八日間の病気の後、はじめて、――馬上の散策に出たのを非常に満足に思って、長年のしきたりどおり、『新しい空気を吸いに』出かけたのである。『なぜと申して、奥様はこの八日間、新しい空気を吸うということが、どんなにききめのあるものか、すっかり忘れていらっしゃいましたので』
「一人で出かけられたのか、それともダーリヤ・パーヴロヴナといっしょなのか?」とニコライは忙しげに老僕をさえぎったが、『ダーリヤさまはお加減が悪いとかで、お供をことわって、今お居間のほうにいらっしゃいます』という答えを聞いて、ひどく顔をしかめた。
「おい、爺や」突然こころを決したもののごとく、ニコライはこういい出した。「きょう一日、あのひとを見張っててくれないか。そして、もしあのひとがおれのところへ来るようなふうがあったら、さっそくひき留めて、こういっておくれ、――少なくもこの三、四日、あのひとに会うことができないってね……おれがあのひとに頼むのだ……そのうちに時が来たら、おれのほうで呼ぶからってね、――いいかい?」
「さよう申しますで」とアレクセイは目を伏せながら、声に憂いの響きを帯びさせて、いった。
「しかし、あのひとが自分から、おれのところへ来ようとしているのが、はっきりわかった時でなくちゃいけないよ」
「ご心配あそばしますな。けっして間違いはございません。今までここへお見えになる時には、いつもわたくしが仲に立っておりました。いつもわたくしに世話をしてくれというお頼みでございましたので」
「知ってるよ。しかし、とにかく、自分でやって来る時だけだよ。ひとつお茶を持って来てくれ。できることなら、少しも早く」
 老僕が出て行くと均しく、その瞬間に、ふたたび同じ戸が開いて、閾の上にダーリヤが姿を現わした。彼女の眼ざしは落ちついていたが、その顔はあお白かった。
「お前どこから来たの?」と、スタヴローギンは思わず叫んだ。
「わたしはすぐそこに立っていましたの。あれが出るのを待って、こちらへ入ろうと思いまして。わたし、あなたがあれにいいつけてらしったことも、ちゃんと聞いてしまいました。あれがいま出て行った時、わたしは右手の壁の突き出たかげに身を隠したので、あれも気がつかなかったのでございます」
「ぼくはずっと前から、お前と手を切ろうと思ってたんだよ、ダーシャ……当分……しばらくの間ね。ぼくはお前から手紙をもらったけれど、ゆうべお前を呼ぶことができなかった。ぼくは自分でも、お前に手紙が書きたかったんだが、まるでものを書くことができないのだ」と彼はじれったそうに、というより、むしろ、いまわしげにこうつけ足した。
「わたしもやっぱり、手を切らなくちゃいけないと思いましたの。奥様が二人の関係を、たいへん疑ぐってらっしゃいますので」
「なあに、勝手に疑らしとくさ」
「だって、奥様にご心配かけてはすみません。じゃ、今度はおしまいまで?」
「お前はどうしてもおしまいまで待つ気なの?」
「ええ、わたしそう信じています」
「世の中に終わりのあるものは一つもないよ」
「でも、これには終わりがあります。その時は、わたしを呼んでくださいまし。わたしすぐにまいります。では、さようなら」
「いったいどんな終わりがあるんだね?」ニコライはにっと笑った。
「あなたお怪我をなさいませんでしたね、そして……血なぞ流しはなさいませんでしたか?」
 終わりに関する問いには答えないで、彼女はこうたずねた。
「馬鹿なことさ。ぼくはだれも殺しはしなかった、心配しなくていいよ。明日といわずに今日のうちに、万事みなから聞かされるだろうよ。ぼくは少々加減が悪いのだ」
「わたしもう行きますわ。ときに、あの結婚披露は今日でございますか?」と彼女は思い切りの悪い調子でいい足した。
「今日じゃない、また明日でもない。明後日もどうかわからない。みんな死んでしまうかもしれないんだからね。結局、そのほうがいいのさ。さ、行ってくれ、いい加減にして行っとくれ」
「あなたは、あのもう一人の……気のちがった娘さんの一生を、亡ぼしはなさらないでしょうね?」
「気ちがい娘どもの一生はどちらも亡ぼしはしない。が、正気な女の一生は亡ぼしてしまうらしい。それほどぼくは卑劣で醜悪な男なのだ。ダーシャ、本当にぼくはお前のいわゆる『いよいよおしまい』に、お前を呼ぶかもしれないよ。そうすると、お前は正気な女だけど、やって来てくれるだろうね。いったいお前はどうして自分の一生を亡ぼそうとするのだ?」
「結局、わたし一人が、あなたのおそばに残るんでございますわ、わたしちゃんとわかっています。そして……それを待っていますわ」
「ところで、もし結局お前を呼ばないで、お前から逃げを打ったら?」
「そんなことのあろうはずがございません。きっと呼んでくださいます」
「そういう言葉には、ぼくに対する軽蔑が多分に含まれてるよ」
「軽蔑ばかりでないってことは、おわかりでいらっしゃるくせに」
「じゃ、とにかく軽蔑は含まれてるんだね?」
「そんなつもりで申したのじゃありません。神様が証人でございます。わたしは、あなたがいつになっても、わたしに必要をお感じなさらないようにと、祈っているのですけれど」
「その言葉に対して、酬ゆるところなかるべからずだ。ぼくもやっぱりお前の一生を、亡ぼしたくないのは山々なんだがなあ」
「どういたしまして、あなたはどうしたって、わたしの一生を亡ぼすことなぞ、おできにならないはずでございます。それはご自分でだれよりもよくごぞんじのくせに」とダーシャは早口に、きっぱりいい放った。「もしあなたといっしょになれなければ、わたしは看護婦になって、病人の世話でもするか、本屋になって福音書でも売って歩くかしますわ。わたし心を決めてしまいました。わたしはだれにもせよ、人の妻になることなどできません。わたしはこういう家にも住むことができません。そうしたくないのです……あなたすっかりごぞんじのくせに……」
「いや、ぼくはお前が何を望んでるか、今まで一度も察しることができなかったよ。ぼくはどうもね、お前がぼくに持ってる興味は、ちょうど年功を経た看護婦が、なぜかほかの病人と比較して、ある一人の病人に特殊の興味をいだく、あれに似ていると思う。もっといい比喩をかりていえば、よその葬式につき歩く巡礼のお婆さんが、ほかのものより少し小綺麗な死骸を好く心持ち、まあ、それくらいのものだろうと思われるよ。なんだってお前はそんな妙な目をして、ぼくを睨むんだね?」
「あなたは大変からだがお悪いのでしょう?」一種特別な表情で相手の顔に見入りながら、彼女は同情のこもった調子でこうきいた。「まあ、本当に! こんな体でありながら、わたしが傍にいなくてもいいなんて!」
「まあ、お聞きよ、ダーシャ、ぼくはこのごろ幻覚ばかり見てるんだよ。ある小《こ》悪魔がきのう橋の上で、ぼくの戸籍上の結婚の束縛を取りのけて、下手なぼろを出さないようにするために、レビャードキン大尉とマリヤを殺せといって、ぼくにさんざんすすめるじゃないか。その手つけとして、三ルーブリ請求したけれど、この荒療治の儲けは、少なくとも千五百ルーブリを下らないってことを、明らさまに匂わしていたよ。どうだ、なかなか勘定の達者な悪魔じゃないか! まるで帳づけ番頭みたいだ! はは!」
「ですが、それは幻覚に相違ないと、かたく信じていらっしゃいますの?」
「おお、違うよ、それは幻覚でもなんでもありゃしない! それはなに、懲役人のフェージカだ、懲役から逃げ出した強盗だよ。しかし、それはどうだってかまわない。え、お前はそれからぼくがどうしたと思う? ぼくは紙入れにありったけの金を、すっかりその男にくれてしまったのだ。だから、今その男はぼくが手つけ金を渡したものと、思い込んでいるだろうよ!」
「あなた夜中にその男にお会いになって、そんなことをすすめられたのですって? まあ、あなたはすっかりあの連中の網に巻き込まれていらっしゃるのが、おわかりにならないのでございますか!」
「なあに、勝手にさせておくさ。ときにね、ダーシャ、お前の舌のさきにはある一つの問いが引っかかって、もぞもぞしてるじゃないか。お前の目つきでちゃんとわかるよ」毒々しいいらだたしげな薄笑いを浮かべつつ、彼はつけ足した。
 ダーシャはぎょっとした。
「問いなんか一つもありません、疑いなんかまるで持っておりません。まあ、黙っていらっしゃいまし!」まるで質問を払い落とそうとでもするように、彼女は心配らしく叫んだ。
「つまり、お前はぼくがフェージカと会いに、居酒屋かどこかへ出かけないと信じ切ってるかい?」
「あら、あんなことを!」彼女は手をぱちりと鳴らした。「どうしてそんなにわたしをお苦しめなさるんですの?」
「いや、ばかな洒落をいって悪かった。ゆるしておくれ。ぼくはきっとあの連中から悪い癖がうつったんだね。実は、ぼくゆうべからやたらに笑いたくてたまらないんだ。しじゅうひっ切りなしに、長い間むやみに笑うんだ。まるで笑いの発作でも起こったように……やっ! お母さんが帰って来たぞ。ぼくはお母さんの馬車が玄関でとまると、音を聞いただけですぐわかる」
 ダーシャは彼の手を取った。
「神様、どうぞこの人の悪魔をこの人から防いでくださいまし……ね、呼んでくださいな、少しも早く呼んでくださいな!」
「ふん、ぼくの悪魔がなんだ! ただ、ちっぽけな、汚ならしい、瘰癧《るいれき》やみの小悪魔にすぎないんだよ。おまけに、鼻っ風邪まで引いてさ、とにかく出来損いのお仲間なのさ。ところが、ダーシャ、お前はまだなんだかいい出しかねてるんだろう?」
 彼女は苦痛と詰責の表情で男を見つめた後、くるりと向きを変えて、戸口のほうへ進んだ。
「おい」と彼は毒々しいひん曲ったような微笑を浮かべながら、彼女のうしろから声をかけた。「もし……まあ、その……手っ取り早くいえば、もし[#「もし」に傍点]……お前わかるだろう……つまり、もしぼくがかりに居酒屋へ出かけてだね、その後でお前を呼んだとすれば、――お前はそれでも来てくれるかね、居酒屋の後でも?」
 彼女は振り返りもしなければ、返事もしないで、両手で顔を隠しながら出てしまった。
「居酒屋の後でもやって来る!」ちょっと考えた後、彼はこうつぶやいた。と、気むずかしげな軽蔑の色がその顔に現われた。
「看護婦! ふん……もっとも、おれにもそうしたものがいるかもしれんて」

[#3字下げ]第4章 一同の期待[#「第4章 一同の期待」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 決闘の顛末は、早くも社交界に伝わった。しかし、とくに注意すべきは、この事件が人々に与えた印象だった。一同はまるで、申し合わせたように、一も二もなくニコライに対する同情を表わそうと努めた。もと彼の敵だった多くの人も、思い切りよく、われこそニコライの親友であると名乗りを上げた。社交界の意見が、こんなに思いがけなく変化したおもな原因は、これまでかつて意見を述べたことのない一貴婦人が公然と表白した、正鵠を穿った数語である。このひとがたちまち、町の上流社交界に異常な興味をいだかせるような、深い解釈を下したのである。それはこんな風にして起こったのだ、――ちょうどあの出来事の翌日は、県の貴族団長夫人の命名日というので、町じゅうの人が同家へ集まった。ユリヤ夫人も席に列なっていた。というより、一座の采配を振っていた。夫人といっしょに、リザヴェータも来ていたが、彼女は目ざめるような美しさと、度はずれに浮き浮きした表情に、輝くばかりであった。しかし、今夜は、これがかえって貴婦人たちのだれかれに胡散くさく思われたのである。ついでにいっておくが、彼女とマヴリーキイとの婚約は、もはや疑う余地もなかった。退役にはなっているが、極めて勢力のある一人の将軍が(この人のことは後に話す)その晩、冗談半分にたずねたとき、当のリザヴェータは、自分が許婚《いいなずけ》の女だということを、まっすぐに肯定したくらいである。ところがどうだろう? 町の貴婦人のうちで、この婚約を本当にするものは一人もなかった。一同は相変わらず執拗に、何かのローマンスを想像していた。スイスで行なわれたという一種運命的な、内輪の秘密の存在を想像し、またなぜかユリヤ夫人が、それに関係しているものと信じていた。なぜだれもかれもがこうまで執念ぶかくあんな風説、というよりむしろ空想に固執しているのか、またどういうわけで、ぜひともこの事件にユリヤ夫人を結びつけたがるのか、それはちょっと説明しにくいことである。夫人が入って来ると同時に、人々は期待にみちた奇妙な目つきで、彼女のほうを振り向いた。断わっておくが、出来事があまり新し過ぎるのと、それに付随したある事情のために、その晩、人々はいくぶん大事を取りながら、高声をはばかるように話し合った。それに、官憲の措置についても、まだ何ら知るところがなかった。しかし、世間に知れている限りでは、決闘の当事者は両方とも警察の手を煩わすようなことはなかった。たとえば、ガガーノフがいささかも妨害を受けないで、早朝ドゥホヴォの領地へ向けて立ったということは、みんなに知れ渡っていた。とはいえ、むろん一同の者は、だれかまっさきに公然と口を切って、社会一般の焦躁を満足させるものはないかと、それのみを待ち焦れていたが、あてにされていたのは前に述べた将軍だった。はたしてそれは謬りでなかった。
 この将軍は町のクラブでも元老株だった。地主としては金持ちのほうではなかったが、ちょっと類のないものの考え方をする人で、旧式な処女崇拝家だった。この人は皆がまだ大事を取って小さな声でひそひそ話しているようなことを、将軍らしい重味を持たせながら、人の大勢あつまった席で、公然といってのけるのがとりわけ好きだった。つまり、この点が、社交界におけるこの人の、いわば、特殊な役廻りのようになっていた。今度も彼はことさら言葉尻を引きながら、甘ったるい調子でいい出した。この習慣は、おそらく外国を旅行するロシヤ人か、さもなくば、農奴解放後一番ひどく零落した、以前の地主あたりから借用したものだろう。スチェパン氏などは、地主の零落の度がひどければひどいほど、舌っ足らずみたいな発音をしたり、甘ったるく言葉尻を引き伸ばしたりする、といったことさえある。もっとも、彼自身も甘ったるく言葉を引き伸ばしたり、舌っ足らずみたいな発音をしていたが、自分のあらには気がつかないのだった。
 将軍はいかにも一見識ありそうなものの言い方をした。そのうえ、彼がガガーノフとは、何か遠い親族関係になっているばかりか(もっとも仲たがいして、訴訟騒ぎまで起こしている)、かつて自分でも二度ばかり決闘して、一度なぞは奪官のうえ、コーカサスへ左遷されたことさえあった。だれかふと、ヴァルヴァーラ夫人が『病後』二度までも外出を始めた、といった。もっとも、直接夫人のことをいったのではなくて、スタヴローギン家の養馬場で仕立てられた灰色の四頭立についている、見事な馬具の噂をしたのである。そのとき将軍はとつぜん口を開いてぃ自分は今日、『若いスタヴローギン』が馬で行くのに出会ったといった。一同はぴったり口をつぐんだ。将軍は一つ舌を鳴らして、下賜になった黄金《きん》の煙草入を指の先でくるくる廻しながら、急にこういい出した。
「わしは二、三年ここにいなかったのが残念です!………いや、じつはその、カルルスバードに行っとりましたのでな、ふん……わしはこの青年に非常な興味を感じておるのですよ。あの当時いろんな噂がありましたからなあ。ふん……いったいあの男が気ちがいだというのは、事実ですかな? 当時、だれかそんなことをいっとりましたろう。ところが、出しぬけに、妙なことが耳に入るじゃありませんか。ある大学生がここであの男を、従妹たちの目の前で侮蔑した、すると、あの男はテーブルの下へ逃げ込んだ、とかいう噂でしたよ。ところが、また昨日ヴイソーツキイから聞けば、スタヴローギンはあの……ガガーノフと決闘した、しかも、ただ相手を振り放したいがために、気ちがい同然な男の筒先へ額をさしだしたという。ふん……それは二十年代の近衛|気質《かたぎ》にありそうなことですな。あの男はこの町のどこかへ出入りしておりますか?」
 将軍は答えを待ちかまえるように口をつぐんだ。社会の焦躁はついに捌《は》け口を与えられた。
「これより以上、簡単明瞭なことはありませんね」一同がまるで号令でもかけられたように、いっせいに自分のほうへ視線を向けたので、ユリヤ夫人はいらいらしながら、とつぜん声を励ました。「スタヴローギンがガガーノフと決闘して、大学生の侮辱にむくいなかったのが、そんなに不思議な話でしょうか? だって、自分の家の奴隷だった男に、決闘を申し込むわけにいかないじゃありませんか!」
 それは意味ぶかい言葉だった。実際、簡単明瞭な考えではあったけれども、それが今までだれの頭にも浮かばなかったのである。この言葉は、なみなみならぬ結果を呼び起こした。すべての醜い話、すべての陰口めいた噂、すべての瑣末な世間話めいた方面は、どこか隅のほうヘー気に押しやられてしまって、別様な意義が高く掲げられた。今まで一同から誤解されていた人物の、新しい一面が照し出されたのだ。それはほとんど理想的に厳正な理解を持った人物である。一人の大学生、もう今は奴隷でもなんでもない教育ある人間から、死にも価する侮辱を受けながら、彼はこの侮蔑を蔑視した。それは侮辱を与えた当人が、わが家のもとの奴隷だからである。世間では大騒ぎして、陰口を叩いている。軽率な世間は生面《いきづら》を打たれた男を侮辱の目をもって眺めている。けれど、彼は真正な理解をもちうるまでの発達を遂げずに、しかも、それを喋々する世間の輿論を蔑視しているのだ。
「それだのに、イヴァン・アレクサンドロヴィチ、わたしらはお互いに真正な理解を説いたり、論じたりしてるんですよ」と、一人の年とったクラブ員は、高潔な自己譴責の発作に駆られて、相手のものにこういった。
「そうですよ、ピョートル・ミハイロヴィチ」と相手のものは愉快そうに相槌を打った。「それで、若い連中のことを云云してるんですからなあ」
「この場合、若い連中が問題じゃないんですよ、イヴァン・アレクサンドロヴィチ」別な一人が横合から口を挟んだ。「この場合、若い連中が問題じゃない。一個の明星です。けっしてそんじょそこらの若い連中の仲間じゃありません。この事実はこういうふうに解釈すべきです」
「またああいう人が必要なんですよ。人材が乏しくなってしまいましたからねえ」
 しかし、何より肝腎なのは、この『新人』がなおそのほかに、『正真正銘の貴族』であって、おまけに県内一番の富裕な地主という事実だった。こういう人がどうして一世の支柱となり、国士としての活動をせずにいられよう、というのだ。もっとも、わたしは前にちょっとことのついでに、わが国の地主の心持ちを語っておいたはずである。
 一同は夢中になってしまった。
「あの男はその大学生に決闘を申し込まなかったばかりか、かえって手をうしろに引っ込めましたよ。これをとくにご注意ください、閣下」ともう一人が指摘した。
「また新法律で改正された裁判所へ、突き出そうともしなかった」と別な一人がつけ足した。
「改正裁判所が貴族たるあの人の個人的[#「個人的」に傍点]侮辱に対して、金十五ルーブリ也の科料を、相手に宣告してくれるにもかかわらずですかね、ヘヘヘ!」
「いや、それなら、わたしが改正裁判所の秘密を教えましょう」とある一人はのぼせあがって、「もしだれか泥棒なり詐欺なりをして、それを明白に突き留めて見あらわされたら、隙のあるうちに大急ぎで家へ駆け出して、母親を殺すに限りますよ。さっそくなにもかも弁明してくれて、傍聴席の貴婦人たちは絹麻《バチスト》のハンカチを振り立てますから、――いや、まったくの真理ですよ!」
「真理、真理!」
 同時にまたさまざまな噂の種も出ずにはすまなかった。ニコライとK伯爵との関係も、人々の記憶に蘇った。今度の改革に対する伯爵の非公式な、とはいえ峻厳な意見は、世間に知れていた。また最近にいたって、いくぶん弛緩したけれ