京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

K・東京地裁判決(要旨・1997年3月18日・金谷暁裁判長)

【K被告に対する判決要旨から抜粋】
(弁護人の主張に対する判断の要旨)
 一 弁護人は、被告人が本件犯行当時教団によるいわゆるマインドーコントロール下にあったことを前提に、(一)被告人は、感応性精神病に準じた状態にあり、心神耗弱または心神喪失の状態にあった、(二)被告人は、教団の命令に反して本件武器製造行為から逃れることができない状況下にあり、適法行為の期待可能性がなかったと主張するので、以下検討する。
 二 我が国の数少ないマインド・コントロールの研究者(心理学専攻)の一人である証人西田公昭の当公判廷における供述および同人作成の意見書によれば、マインド・コントロールとは、「他者が自らの組織の目的成就のために、本人が他者から影響を受けていることを知覚しないあいだに、一時的あるいは永続的に、個人の精神過程や行動に影響を及ぼし操作することである」とされ、関係各証拠によれば、教団においては、意図的か否かはともかく、出家信者に対し、教義を浸透させるため、マインド・コントロールに有効とされる種々の手法と共通する手法が用いられていたことが認められる。もっとも、西田証人は、ある者に対しマインド・コントロールの手法がとられていた場合、その者がマインド・コントロールされていた可能性があるということはできるが、そのような状態にあったと客観的に判断することは困難であり、また、他者が意図した結果が生じた場合でも、それがマインド・コントロールの結果かどうかは判定できないと証言するとともに、マインド・コントロールされた状態は、精神病でないことはもちろん、神経症でもなく、恐怖症に近い場合もあるが、被告人はそのようなレベルではない。マインド・コントロールにおいては情報のコントロールの果たす役割が大きいところ、それは個人の能力の問題ではなく、被告人も与えられた情報を論理的に処理して意思決定する能力や倫理観はあると思うが、日本の法律よりオウムの法律を優先させたものと思う、とも証言しており、同証言によればもちろん、他の証拠に照らしても、マインド・コントロール下にあったということから直ちに責任能力の欠如またはその著しい減退を結論づけ得るとはいい難い。
 三 そして、本件犯行当時、被告人に精神病等の精神障害があったことをうかがわせる事実はまったく認められない(したがって、被告人は、本件犯行当時、弁護人が主張するような感応性精神病に罹患してはいなかったと認められる)ところ、被告人は、捜査、公判段階を通じて、自分が作っている部品が銃の部品であることを認識した際、日本の法律に違反し許されないことは分かった、やらなくてもすむならやりたくはないと思った、銃を作る理由については、他の者から説明はなかったが、松本(智津夫被告=筆者注)の予言するハルマゲドンが起きて世の中が混乱状態になったときに、暴徒から自衛するためではないかと考え、教団のやっていることは正しいはずだという信念があったため、それ以上は考えないようにした、と供述しているところである。
 四 そうすると、被告人は、本件犯行当時、本件行為の違法性を十分認識しつつ、オウム真理教に対する信仰心等から、自分なりに自己の行為を正当化して、不本意ながらもこれを継続したものであって、判断能力や意思決定能力が阻害されていた様子はうかがわれず、教団に対する疑問を持ちにくい状況下にあったとはいえ、是非を弁識し、それに従って行動する能力を欠き、あるいはその能力が著しく減退した状態にはなかったものと認められる。
 五 また、関係各証拠によれば、本件武器製造行為は教団の修行の一環をなすものとして指示されたものであり、教団においては、教祖松本の指示に疑問を持たず忠実に従うことが修行であるとされており、松本の意を体した教団内の師と呼ばれる地位以上の者からの指示に逆らうことは許されないと意識されていたことおよび修行のため与えられた作業(ワーク)を自分から替えてくれるように求めてこれが認められることは通常は困難であったことが認められるが、コンピューター関係のワークをしたいとの被告人の内々の希望に沿う形で、一時期、被告人が本件自動小銃部品の製作を外れたこともあり、右以上に教団が被告人を強制的に本件自動小銃の製造に従事させていた状況はうかがわれず、適法行為の期待可能性がなかったということはできない。
 六 以上により、弁護人の主張はいずれも採用できない。
(以下、量刑の理由略)

 

底本:『オウム法廷4』(1999年、降幡賢一朝日新聞社

 

マインド・コントロールについての法的判断が下された事例である。