京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P086-089   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦41日目]

ない正直な人間である、と固く信じて疑わない、これが彼に友情をよせているアリョーシャを悩ませたものである。しかし、これはアリョーシャばかりでなく、誰一人として仕方のないことであった。
 ラキーチンは軽い身分であるから、食事に招待されるわけにはいかなかったが、その代りヨシフとパイーシイのほか、いま一名の主教が招かれた。ミウーソフとカルガーノフとイヴァンが入って来たとき、これらの人々はすでに僧院長の食堂で待ちかねていた。地主のマクシーモフも脇のほうへよって控えている。僧院長は一行を迎えるため、部屋の真ん中へ進み出た。彼は面長な、禁欲者らしいものものしい顔をして、黒い毛にだいぶ胡麻塩の交った、痩せて背の高い、しかしまだ壮健らしい老人であったが、無言のまま客人に会釈をした。一行も今度こそは祝福を受けるためにそのそばへよった。ミウーソフは危く手を接吻しようとさえしかけたが、僧院長がどうしたのか急にその手を引っ込めてしまっだので、とうとう接吻は成り立たなかった。その代り、イヴァンとカルガーノフは完全に祝福を受けた。つまり人のいい平民らしい大きな音を立てて、僧院長の手を接吻したのである。
「わたくしどもは方丈さまに、深くお詫び申さなければなりません」とミウーソフは愛想よく白い歯を見せながら言いだした。しかし、その調子はうやうやしく、四角張っていた。「ほかでもありませんが、わたくしどもはあなたからご招待を受けたつれの一人、フョードル・カラマーゾフ氏を同道しないでまいりました。同氏はあなたのご饗応を辞退しなければならなくなりました。それもちょっとした事情がございますので。実はさきほどゾシマ長老の庵室で、あの人は息子さんとの諍いに夢中になって、つい二こと三こと場所柄をわきまえない……つまり、大へん失礼な言葉を吐いたのでございます……このことはたぶん(と彼は二人の主教を尻目にかけて)、もう、方丈さまのお耳に入ったことと存じます。かようなわけで、カラマーゾフ氏も深く自分の罪をさとって、しんから後悔いたしまして、恥じ入った次第でございます。それで、とうとう羞恥の情を征服することができないで、わたくし並びに子息のイヴァン君にことづけして、心から後悔の念に苦しめられていることを、方丈さまの前に披露して欲しいと申しました。つまるところ、あの人は万事あとで償いをするつもりでおりますけれど、今さし向きあなたの祝福を乞うと同時に、さきほどの出来事を忘れていただきたいと申しているのでございます……」
 ミウーソフは言葉を休めた。この長々しい挨拶のしまい頃には、彼もすっかり自分で自分に満足してしまい、さきほどまでの癇癪は跡かたもなくなった。彼は今ふたたび心底から人間に対する愛を感じ始めたのである。僧院長はものものしい様子でこの言葉を聞き終ると、軽く首を傾けて応答した。
「立ち去られた人のことはまことに残念に存じます。この食事の間に、あの人はわたくしどもを、またわたくしどもはあの人を、愛するようになったかもしれないのに。それでは皆さん、どうぞ召し上って下さりますよう。」
 彼は聖像の前に立って、声を出しながら祈禱を始めた。一同はうやうやしくこうべを垂れた。地主のマクシーモフは格別ありがたそうに合掌しながら、前のほうへしゃしゃり出た。
 ちょうどこのとき、フョードルが最後のつぶてを投げたのである。ちょっと注意しておくが、彼は本当に帰って行くつもりなのであった。長老の庵室でああいう不体裁なことをした挙句、そしらぬ顔をして僧院長のお食事《とき》へのこのこ出かけるのは、とうていできない相談だと感じたのは事実である。しかし、べつに自分の行為を恥じ入って、自分で自分を責めたというわけではない。あるいは、かえって正反対であったかもしれぬ。が、何といっても、食事に列するのは無作法だと感じたのである。ところが、旅宿の玄関先へ例のがたがた馬車が廻されて、もうほとんどその中へ乗り込もうとした時、急に彼は足を止めた。さきほど長老のところで言った自分の言葉が、ふいと心に浮んだのである。『わたくしはいつも人の中へ入って行く時、自分は誰よりも下劣な人間で、人はみんな自分を道化扱いにする、というような気がいたします。そこでわたくしは、じゃ一つ本当に道化の役廻りを演じてやろう、なあに、みんな揃いも揃って自分より馬鹿で下劣なんだ、という気になるのでございます。』
 彼は自分自身の卑しい行為に対して、人に仇を討とうという気になったのである。このとき彼はいつかだいぶ前に、『あなたはどうして誰それをそんなに憎むんです?』と訊かれたことを偶然思い出した。そのとき彼は道化た破廉恥心の込み上げるままにこう答えた。『それはこういうわけですよ、あの男は実際わしに何にもしやしませんがね、その代り、わしのほうであの男に一つ汚い、厚かましいことをしたんです。それと同時にわしはあの男が憎らしくなりましたよ。』今これを思い出すと、彼はちょっとのあいだ考え込みながら、静かな毒々しい薄笑いを浮べた。その目はぎらぎら光って、唇まで微かに顫えるのであった。『よし、一たんはじめたものなら、ついでにしまいまでやっちまえ。』急に彼はこう決心した。この瞬間、彼の心のどん底にひそんでいた感じは、次のような言葉で現わすことができたであろう。『もう今となっては信用回復も覚束ない、ええ、ままよ、もう一度あいつらの顔に唾をひっかけてやれ。なんの、あんなやつらに遠慮なぞいるものか、それだけの話よ!』
 で、彼は馭者に待っておれと言いつけて、急ぎ足に僧院へ引っ返し、まっすぐに僧院長のもとへ赴いた。そこへ行って何をするつもりか、まだ自分でもよくわからなかったが、もうこうなったら、自分を抑制することができない。何かちょつとした衝動があったら、すぐ極端に陋劣な行為をあえてするに相違ない、とは自分でも承知していた。しかし、それは本当に陋劣な行為にとどまって、決して裁判沙汰になるような悪ふざけや、犯罪などというようなものではない。この点になると、彼はいつもきわどいところで手綱を引きしめることができた。時としては、自分でも感心するほどうまくいくのであった。彼が僧院長の食堂へ姿を現わしたのは、ちょうど祈禱がすんで、一同がテーブルに近づいた瞬間であった。彼は閾の上に突っ立って、ずうずうしく一同の顔を見廻しながら、高慢な、意地の悪い、引き伸ばしたような声を立てて笑いだした。
「みんなわしが帰ったものと思うておるが、わしはほらこのとおり!と彼は広間一ぱいに饗くような声で叫んだ。
 一瞬にして人々は、穴のあくほど彼の顔を見つめながら、押し黙っていた。今にも、何かばかばかしい、いまわしい事件がもちあがって、結局、無作法な騒ぎとなるに相違ない、こう一同は直覚したのである。ミウーソフはこの上なくおめでたい気分から、たちまち獰猛無比な気分に変ってしまった。彼の心の中で消えつくし鎮まりはてたすべてのものが、一瞬間に盛り返して頭をもたげたのである。
「駄目だ、僕はもう我慢ができない!」と彼は叫んだ。「どうしてもできない……断じてできない!」
 彼は逆上して言句につまったが、もう今は言句などを気にしている暇もなかった。彼はいきなり帽子を摑んだ。
「一たいあの人は何かできないんだろう?」とフョードルは喚いた。「何か『どうしてもできない、断じてできない』んだろう? 方丈さま、はいってもよろしゅうございましょうか?ご招待にあずかった仲間の一人を入れて下さいますか?」
「しんからお願い申します」と僧院長は答えた。「皆さま、まことに差し出がましい申し分でござりますが、心の底からのお願いでござります。一時の争いを捨てて、この平和な食事の間に神様にお祈りをしながら、血縁の和楽と愛の中に一致和合して下さりませ……」
「いいや、いいや、できない相談です!」とミウーソフは前後を忘れたかのように叫んだ。
ミウーソフさんが駄目なら、わしも駄目です。わしも帰ります。わしは、そのつもりで来たんですよ。もう今日はミウーソフさんと一緒にどこへでも行きます。ミウーソフさんが帰ればわしも帰るし、残りなさればわしも残ります。もし、僧院長さま、あなたが血縁の和楽とおっしゃったのが、一番ミウーソフさんの胸にこたえたのです。あの人はわしを親類と認めておらんのですからな。そうだろう、フォン・ゾン? そら、あそこに立っておるのがフォン・ゾンでさあ。ご機嫌よう、フォン・ゾン!」
「それは……わたくしのことなので?」地主のマクシーモフはびっくりして言った。
「むろん、お前だよ」とフョードルは呶鳴った。「お前でなくて誰だい? まさか僧院長さまがフォン・ゾンになるはずもなかろうよ。」
「それでも、わたくしはフォン・ゾンではござりません。マクシーモフで……」
「いいや、お前はフォン・ゾンだ。方丈さま、フォン・ゾンというのが何者かご存じでございますか? これはある犯罪事件に関係したことでございますよ。この男は『迷いの家』で殺されたのです(お寺のほうではああいう場所を『迷いの家』と言うそうですな)。殺された上に所持金を取られてしまいました。おまけに、いい年をしておりながら、箱の中へ密封されて、貨物列車でペテルブルグからモスクワへ送られたんですよ、しかも番号をつけられましてな。ところで箱の中に密封されるとき、ばふたどもが歌をうだったり、グースリイ(針金を絃に張った楽器、琴にやや似たところがある)を弾いたりしたそうですよ。これが今申したフォン・ゾンの正体でございますよ。一たい墓場から生き返ってでも来たのかな、え、フォン・ゾン?」
「一たいこれは何たることだ? どうしてあのようなことができるのであろう?」という声が主教の群から聞えた。
「行こう!」とミウーソフはカルガーノフに向って叫んだ。
「いいや、まあ、お待ちなさい!」また一足部屋の中へ踏み込みながら、フョードルは甲高い声で遮った。「まあ、わしにも言うだけのことを言わしてもらいましょう。あちらの庵室では皆がわしに無作法者という汚名を着せられましたが、それというのも、ただわしが、川ぎすのことを口に出したからなんですのよ。ミウーソフさんのお好みでは、言葉の中にPlus de nolbe-sse que de sincsrite(真摯の気より品位の勝ったほうがいい)そうですがな、わしの好みはその反対でPlus de sincerite que de noblesse(品位よりも真摯の気の勝ったほうがいい)のですよ。品位なんか糞をくらえだ! なあ、そうじゃないか、フォン・ゾン? 僧院長さまへ申し上げます、わたくしは道化者で、道化た真似ばかりいたしますが、しかしそれでも、夕誉を重んずる騎士でございますから、忌憚なく、所信を申し上げとう存じます。さよう、わたくしは名誉を重んずる騎士でございます。ところが、ミウーソフさんの腹のなかには、傷つけられた自尊心のほか、何にもありゃしません。わたくしがここへ来ましたのも、あるいは自分で親しく一見して、所信を吐くためであったかもしれません。わたくしの倅のアレクセイがここにお籠りしておりますでな。父親としてあれの身の上が心配でございます。また心配するのがあたりまえでございますよ。わたくしは始終お芝居をしながら、そっと様子を見たり聞いたりしておりましたが、今こそあなた方の前で、最後の一幕をお目にかけるつもりでございます。一たいいまロシヤはどんな有様でしょうか? 倒れかかっておるものは、すっかり倒れてしまいます。また一ど倒れたものは、もう永久にごろりと転がったままでおります。そうですとも、そうでないけずがありませんよ。そこで、わたくしは、起きあがりたいのでございます。善知識の方丈さま方、わたくしはあなた方が憤慨にたえんのでございます。一たい懺悔というものは偉大な秘密でございます。これは、わたくしも有難いものと思うて、その前に倒れ伏してもよいくらいの覚悟でおります。ところが、あの庵室ではみんな膝を突いたまま、大きな声で懺悔しておるじゃありませんか。全体、声を出して懺悔することが許されておりますか? 昔の聖人さまたちが、懺悔は口から耳へ伝えろと、ちゃんと掟を定められました。こうあってこそ、人間の懺悔が神秘となるのであります。しかも、それは昔からのしきたりですよ。ところが、その反対にみんなの前で、『わたくしはこうこういうことをいたしました』(よろしゅうございますか、『こうこういうこと』なんですよ)……とまあ、こんなことが言われるもんですか? 時には、口に出して言うのも、無作法なことがありますからなあ。そんなのはまったく不体裁ですよ! 方丈さま方、あなただちと一緒におったら。フルイスト(分裂宗派の一、人が禁欲の道によってみずからキリストたり得べしと説くもの)の仲間へ引きずり込まれますよ。……わしはよい折があったらさっそく宗務省へ上申書を送ります、そして倅のアレクセイは家へ連れて帰るんですよ。」
 ここでちょっと断わっておくが、フョードルは世間の噂には耳の早いほうであった。かつてこの僧院ばかりでなく、長老制度の採用されている他の僧院に関しても、意地わるい讒誣が拡まって、大主教の耳にすら入ったことがある。それは長老があまり尊敬されすぎて、僧院長の威厳さえ損うほどにいだったのみならず、とくに長老は懺悔の神秘を濫用する、というのであった。この非難はばかばかしいものであったから、この町ばかりでなく全体にわたって、自然いつの間にか消滅してしまった。しかし、フョードルを摑んでその神経の上にいだき乗せ、いずこともしれぬ穢れの深みへ、次第に遠く運んで行く愚かな悪魔は、この古い非難を彼の耳に吹き込んだのである。しかし、