京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P038-041   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦29日目]

すわらした。二人の僧は両側に、――一人は戸の傍に、いま一人は窓の傍に座を占めた。神学生とアリョーシャと、それからいま一人の聴法者は立ったままであった。庵室ぜんたいは非常に狭く、何だか、だらけたような工合であった。椅子テーブルその他の道具は粗末で貧しく、もう本当になくてならないものばかりであった。鉢植えの花が窓の上に二つと、それから部屋の片隅にたくさんな聖像が並んでいる――その中の一つは大きな聖母の像で、どうやら教会分裂(十七世紀から十八世紀へかけて生じた)よりだいぶ前に描かれたものらしい、その前には燈明が静かに燃えている。傍には金色燦たる袈裟を着けた聖像が二つ、またそのまわりには作り物の小天使やら、瀬戸物の卵やら、『|嘆ける聖母《マーテル・ドロローサ》』に抱かれた象牙製のカトリック式十字架やら、古いイタリアの名匠の石版画などが幾枚かあった。これらの優美で高価な石版画のほかに、聖徒や殉教者や僧正などを描いた、思いきり幼稚なロシヤ出来の石版画、――どこの市場でも二コペイカか三コペイカで売っているようなのが、れいれいしく掲げてある。そのほか現在過去のロシヤ主教の石版肖像画も少々あったが、それはもう別な壁であった。ミウーソフはこういう『紋切り型』にざっと一通り目を通してから、執拗な視線を長老に向けて、食い入るように見つめた。彼は自分の観察眼を尊重する弱点を持っていた。もっとも、これは彼の五十という年を勘定に入れると、大抵ゆるすことのできる欠点である。実際この年輩になると、賢い、世馴れた、暮しに不自由のない人は、誰でもだんだん自分を敬うようになるのである。時とすると無意識に、そうなることもある。
 最初の瞬間からして、彼は長老が気に入らなかった。実際、長老の箙拭くには、ミウーゾフばかりでなく、多くの人の気に入らないだろうと思われるところがたくさんあった。それは腰の曲った非常に足の弱い背の低い人で、やっと六十五にしかならないのに、ずっと、少くとも十くらい老けて見える。顔はすっかり萎びて小皺に埋れている。ことに目の辺が一番ひどい。小さな目は薄色のほうであるが、まるで輝かしい二つの点のようにぎらぎら光りながら、非常にはやく動く。胡麻塩の毛はこめかみのあたりに少々残っているだけで、頤鬚はまばらで楔《くさび》型をしている。よく笑みを含む唇は、二本の紐かなんぞのように細い。鼻は長いというより、鳥の嘴のように尖っている。
『すべての徴候に照らしてみても、意地わるで、浅薄で、高慢な老爺だ』という考えがミウーソフの頭をかすめた。概して、彼はすこぶる不機嫌であった。
 時を打ち出した時計の音が話の糸口となった。錘《おもり》のついた安物の小さな掛時計が、せかせかした調子で、ちょうど十二時を報じた。
「ちょうどきっちり約束の時刻でございます」とフョードルが叫んだ。「ところが、息子のドミートリイはまだまいりません。わたくしがあれに代ってお詫びを申します、神聖なる長老さま!(この『神聖なる長老さま』でアリョ-シャは思わずぎっくりした。)しかし当のわたくしはいつも几帳面で、一分と違えたことがございません、正確は王侯の礼儀なりということをよく覚えておりますので。」
「だが、少くとも、あなたは王侯じゃない。」すぐ我慢ができなくなって、ミウーソフがこう言った。「さよう、まったくそのとおり、王侯じゃありません。それに、なんと、ミウーソフさん、わしも自分でそれくらいのことは知っておりましたよ。まったくですぜ! ところで、長老さま、いつもわたくしはとってもつかん時に、妙なことを言いだすのでございます!」どうしたのか急に感にたえたような調子で、彼は叫んだ。「ご覧のとおり、わたくしは間違いなしの道化でございます! もうかまわず名乗りを上げてしまいます。情けないことに、昔からの癖でございます! しかし、ときどきとってもつかんことを言うのは、当てあってのことでございます。人を笑わして愉快な人間になろう、という当てがあるのでございます。まったく愉快な人間になる必要がありますからなあ、そうじゃありませんか? 七年ばかり前、ある町へ出向いたことがございます、ちょっとした用事がありましたのでな。そこでわたくしは幾人かの商人どもと仲間を組んで、警察署長《イスプラーヴニック》のところへまいりました。それはちょっと依頼の筋があったので、食事に招待しようという寸法だったのでございます。出て来るのを見ると、その署長というのは、白っぽい頭をした肥った気むずかしそうな仁《じん》で、――つまり、こんな場合一番けんのんな代物なのでございます。なぜと申して、癇癪がひどいのですよ、癇癪が……わたくしはその傍へずかずかと寄って、世馴れた人らしいくだけだ調子で、『署長《イスプラーヴニック》さん、どうかその、われわれのナプラーヴュック(一八三七年生れ、作曲家であり同時に文学者であった)になって下さいまし』とやったものです。『一たい、ナプラーヴェックとは何ですか?』わたくしはもうその瞬間に、こいつはしまった、と思いました。真面目な顔をして突っ立ったまま、じっと人の顔を見つめてるじゃありませんか。『わたくしは一座を浮き立たすために、ちょっと冗談を言ったのでございますよ。つまり、ナプラーヴニック氏は有名なロシヤの音楽指揮長でしょう。ところが、われわれの事業のハーモニイのためにも、音楽指揮長のようなものが必要なんで。』なかなかうまく理屈をひねくって、こじつけたでしょう、そうじゃありませんか?『ご免蒙ります、わしは警察署長《イスプラーヴニック》です、自分の官職を地口にするのは許すわけにいきません』と言ったと思うと、くるりと向きを変えて、出て行こうとします。わたくしはその後から、『そうです、そうです、あなたは警察署長《イスプラーヴニック》で、ナプラーヴェックじゃありません!』と呶鳴りましたが、『いいや、一たん言われた以上、わしはナプラーヴェックです。』どうでしょう、これですっかりわたくしどもの仕事はおじゃんになってしまいました! いつもこうなのです。きまってこうなのです! わたくしはいつもきまって、自分の愛嬌で損ばかりしておるのでございます。ずうっと以前、ある一人の勢力家に向って、『あなたの奥さんは擽ったがりのご婦人ですな』と言ったのです。つまり、名誉のほうにかけて神経過敏なと言うつもりだったのでございます、その、心の性質をさしたものなので。ところが、その人はいきなり、『じゃ、あなたは妻《さい》を擽ったんですか?』と訊きました。わたくしはどうしたものか、つい我慢ができなくなって、まあお愛嬌のつもりで、『はい擽りました』とやったのです。ところが、その人はさっそくわたくしをいいあんばいに擽ってくれましたよ……それはずっと昔のことなので、もう話しても、さほど恥しくないのでございます。こういうふうに、わたくしは一生涯、自分の損になることばっかりしておるのでございます。」
「あなたは今もそれをしてるんですよ。」ミウーソフは穢らわしいという様子でこう言った。
 長老は無言で二人を見くらべていた。
「そうですかね! ところが、どうでしょう、ミウーソフさん、私は口をきると一緒にそのことを感じましたよ。それどころか、あんたが一番にそれを注意なさる、ということまで感じておりましたよ。長老さま、わたくしは自分の洒落がうまくいかないと思ったその途端に、両の頬が下の歯齦に乾きついて、身うちが引っ吊ってくるような気がするのでございます。これはまだわたくしが若い時、貴族の家へ転げ込んで、居候でその日のパンにありついておった頃からの癖でございます。わたくしは根から生れつきの道化で、いわばまあ気ちがいでございますな。わたくしの体の中には悪魔が棲み込んどるに相違ありません。もっとも、あまり大した代物じゃありますまいよ。なぜと申して、少し豪い悪魔なら、もっとほかの宿を選びそうなものですからなあ。しかし、ミウーソフさん、あんたじゃありませんぜ、あんたの宿はあまり大したものじゃないから。けれども、その代りわたくしは信じます、神さまを信じます、ついこの間から疑いを起したのでございますが、その代り今ではじっと坐って、偉大なる言葉を待っております。長老さま、わたくしはちょうど哲学者のディドローみたいでございます。あなたさまは哲学者のディドローが、エカチェリーナ女帝のみ世に、大僧正プラトンのところへまいった話をご存じでございますか。はいるといきなり、『神はない!』と申しました。すると大僧正は指を天へ向けてこう答えられました。『狂えるものはおのが心に神なしと言う!』こちらはいきなり、がばとその足もとへ身を殺げて、『信じます、そして洗礼も受けます』と叫んだのでございます。そこで、すぐさま洗礼を受けましたが、ダーシュコヴア公爵夫人が教母、ポチョームキンが教父……」
「フョードルさん、もう聞いていられない! あなたは自分で、でたらめを言ってることを知ってるんでしょう。そのばかばかしい話は真っ赤な嘘です。一たいあなたは、何のために妙な真似ばかりするんです?」ミウーソフはもうてんで自分を抑えようとしないで、声を顫わしながらこう言った。
「それは一生感じておりましたよ、まったく嘘です!」とフョードルは夢中になって叫んだ。「皆さん、その代りわたくしは正真正銘、間違いのないとこを申します。長老さま! どうぞお赦し下さいませ、一番おしまいに申しましたことは、あのディドローの洗礼のお話は、わたくしがたったいま自分で作ったのでございます。いまお話しているうちに考え出したので、以前は頭へ浮んだこともありません。つまり、ぴりっとした味をつけるために、作り出したのでございます。ミウーソフさん、わしが妙な真似をするのは、ただ愛嬌者になりたいからですよ。もっとも、ときどき自分でも何のためかわがらんことがありますがね、ところで、ディドローのことですな、あの『心狂える者は』というやつは、わしがまだ居候をしていた年若な時分に、ここの地主だちから、ものの二十度ばかりも聞かされたんですよ。あんたの伯母ごのマーヴラ・フォミーニチナからも、何かの話の中に聞いたことがありますぜ。あの手合いは、無神論ディドローが神さまの議論をしにプラトン大僧正のところへ行ったことを、いまだに信じておるのですよ……」
 ミウーソフは立ちあがった。それは単に我慢しきれなくなったためばかりでなく、前後を忘れてしまったからである。彼はもの狂おしい怒りに駆られていたが、そのたきに自分までが滑稽に見えることも自覚していた。実際、庵室の中には、何かしらほとんどあり得べからざるようなことが生じたのである。この庵室へは、前々代の長老の時から、もう四五十年のあいだ、毎日来訪者が集って来たが、それはすべて、深い敬虔の念を抱いて来るものばかりであった。この庵室へ通される人は、誰でも非常な恩恵を与えられたような心持で、ここへ入って来るのであった。多くのものは初めからしまいまで、一たん突いた膝を上げることができなかった。単なる好奇心か、あるいはその他の動機によって訪ねて来る上流の人々や、第一流の学者のみならず、過激な思想をいだいた人たちでさえも、ほかの者と一緒かまたはさし向いの対談を許されて庵室の中へ入って来ると、すべて一人の例外もなく、初めから終りまで深い尊敬を示し礼儀を守るのを、第一の義務と心得ていたものである。その上、ここでは金というものは少しも問題にならないで、一方の側からは愛と慈悲、いま一方の側からは悔悟と渇望、自分の心霊生活の困難な問題、もしくは困難な瞬間を解決しようという渇望、――こういうものが存在するばかりであった。
 それゆえ、今のフョードルの場所柄をわきまえぬ傍若無人なふざけた態度は、同席の人々、少くともその中のある者に、尉診と驚愕の念を惹き起した。二人の僧はそれでも一向顔色を変えないで、長老が何と言うだろうかと、真面目な態度で注視していたが、やはりミウーソフと同じように、もはや座にたえない様子であった。アリョーシャは今にも泣きだしたいような風つきで、こうべを垂れながら立っていた。何より不思議なのは兄イヴァンである。彼は父に対してかなり勢力を持っている唯一の人であるから、今にも父の無作法を制止してくれるかと、そればかりアリョーシャは当てにしているのに、彼は目を伏せたまま、身動きもしないで椅子に腰かけている。そして、この事件に何の関係もない他人のように、一種好奇の色を浮べながら、事件がどんなふうに落着するかと待ち設けているかのようであった。ラキーチン(神学生)のほうをも、アリョーシャは振り向くことができなかった。この男はやはり彼の知り合いで、ほとんど親友と言ってもいいほどの間柄であるから、その腹の中もよくわかっていた(もっとも、それがわかるのは僧院じゅうでアリョーシャ一人きりであった)。
「どうぞお赦し下さい」とミウーソフは長老に向って口をきった。「ことによったら、わたくしもこの悪い洒落の共謀人のように、あなたのお目に映るかもしれませんが、カラマーゾフ氏のような人でさえ、こういう尊敬すべきお方を訪問する時には、自分の尽すべき義務をわきまえることと信じたのが、わたくしの考え違いでございました……わたくしはまさかこの人と一緒に来たことで、お赦しを乞うようなことになろうとは思いませんでした……」
 彼はしまいまで言わないうちにまごついてしまって、もうさっさと出て行きそうにした。「ご心配なされますな、お願いですじゃ。」とつぜん長老はひ弱い足を伸ばして席を立ち、ふたたび彼を肘椅子に坐らした。「落ちついて下され、お願いですじゃ。ことにあなたには、別してわしの客となってもらいとうござりますでな」と彼は会釈とともに向きを変えて、ふたたび自分の長椅子に腰をおろした。