京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P154-157   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦58日目]

ような美しさも、三十近くなったら調和を失ってぶくぶく肥りだし、顔まで皮がたるんでしまって、目のふちや額には早くも小皺がよりはじめ、顔の色は海老色になるかも知れない、――つまり、ロシヤ婦人の間によくある束の間の美、流星の美だというのである。
 アリョーシャは、もちろん、そんなことを考えなかったばかりか、ほとんど魅了されていたくらいであるが、しかし、どうしてこのひとはあんなに言葉を引き伸ばして、自然なものの言い方ができないのだろうと、何となく不愉快な感触をいだきながら、妙に残念な心持で、自分で自分に問いかけるのであった。見受けたところ、彼女がこんなことをするのは、こういうふうに言葉や音を引き伸ばして、いやに甘ったるい調子をつけるのを、美しい話しぶりだと思っているらしい。もちろん、これはただの悪い習慣であって、彼女の教育程度の低いことと、子供の時分から礼儀というものについて俗な観念を叩き込まれているのを証明するのみであった。が、それにしても、この発音と語調とは、子供らしい単純な顔の表情や、赤ん坊にのみ見られる穏かな幸福らしい目の輝きに対して、ほとんどあり得べからざる矛盾を形作っているように、アリョーシャには感じられた。
 カチェリーナはさっそく、彼女をアリョーシャの真向いにある肘椅子にかけさして、その笑みをふくんだ唇を夢中になって幾度も接吻した。彼女はさながら恋せる人のようであった。
「アレクセイさん、わたしたちは初めて会ったんですの」と彼女は有頂天になって叫んだ。「わたしこのひとに会って、このひとの性質《ひととなり》が知りたくて、自分のほうから先に出かけようかと思っていたところ、このひとがわたしの招きに応じて、一度で自分から来て下すったんですの。このひとと一緒だったら、何もかもすっかり、本当にすっかり解決ができるに違いないと思いました。わたしの胸はそれを予感していました……わたしこう決心した時、みんなにとめられましたけど、それでもちゃんと結果を予感していました。そして、案の定、間違っていませんでしたわ。グルーシェンカは何もかも打ち明けてくれました。自分の考えをすっかり聞かしてくれました。このひとは、ちょうど天使のように、ここへ飛んで来て、慰めと悦びをもたらしてくれたんですの……」
「あなたはわたしのようなものでも、おさげすみになりませんでした、本当に優しいお嬢さまでいらっしゃいますわねえ。」やはり例の愛嬌のいい嬉しそうな笑みを浮べたまま、グルーシェンカは歌でも歌うように言葉じりを引いた。
「まあ、あなた、かりにもそんなことをわたしにおっしゃんなよ! あなたのような美しい魅力のある人をさげすむなんて! よくって、わたしあなたの下唇を接吻するわ。あなたの下唇はまるで脹れたようになってるから、もっと脹れぼったくなるように接吻して上げてよ、も一度……も一度……ねえ、アレクセイさん、あの笑顔をごらんなさい。ほんとうにこのエンゼルの顔を見てると、心がうきうきしてきますわ……」
 アリョーシャは顔を赧らめて、目に見えぬほど小刻みに顫えていた。
「あなたはそんなにわたしを可愛がって下さいますが、もしかしたら、わたしはまるでそんなことをしていただく値うちのない女かもしれませんよ。」
「値うちがないんですって? このひとにそれだけの値うちがないんですって!」とカチェリーナはまたしても以前と同じ熱中した調子で叫んだ。「ねえ、アレクセイさん、このひとはずいぶんとっぴなことを考えだす人ですけれど、その代りごくごく誇りに充ちた、自由な心を持ってらっしゃるんですよ! アレクセイさん、このひとが高尚な、そして度量の広い方だってことをご存じ? ただこのひとは不仕合せだったのです。このひとはつまらない軽薄な男のために、あらゆる犠牲をはらうのを急ぎすぎたのです。ずっと以前、五年ばかり前のことです、一人の男がありました。やはりこれも士官でしたが、このひとはその男を愛して、一切のものをその士官に捧げたのです。ところが、男はこのひとのことを忘れて、結婚してしまいました。この頃になって、その男は奥さんに死なれて、ここへ来るという手紙をよこしたのです、――ところが、どうでしょう、このひとは今でもその男一人を、天にも地にもその男一人を愛しているのです、今までずっと愛し通していたんですの。その男が帰って来たら、このひともまた幸福になるんですの。けれど、この五年間というもの、このひとは不幸な身の上だったんですわ。でも、このひとを咎めるのは誰でしょう、この立派な心がけを褒めてくれるのは誰でしょう? あの、足の立たないお爺さん、商人のサムソノフー人きりじゃありませんか、――それもどっちかと言えば、まあこのひとのお父さんか友達か、でなければ保護者といったほうが近いくらいなんですもの。このお爺さんは、そのとき恋人に捨てられて絶望と苦痛の申に沈んでいるグルーシェンカに出くわしたんですの……まったくこのひとはその時、身投げしようとまで思いつめてたんですからね……そういうわけで、あのお爺さんはこのひとにとって命の親ですわ、命の親ですわ!」
「お嬢さま、あなたは大変わたしをかばって下さいますのねえ、あなたは万事につけてあまり気がお早すぎますわ」とまたグルーシェンカは言葉じりを引いた。
「かばうですって? まあ、あなたをかばったりなんかできますか、そんな生意気なことがわたしにできますか? グルーシェンカ、エンゼル、あなたのお手を貸してちょうだい。ねえ、アレクセイさん、わたしこのふっくらした小さな美しい手を接吻しますわ。あなたこの手をごらんなすったでしょう、この手はわたしに幸福をもたらして、わたしを復活さしてくれたんですの。よござんすか、わたし今この手を接吻しますよ、甲のほうも、掌のほうも、ほらね、もう一度……もう一度!」
 彼女は有頂天になったようなふうで、あまり脹れぼったすぎるくらいなグルーシェンカの手を、本当に三度まで接吻するのであった。こちらはその小さな手をさし伸べて、神経的な、響きのいい美しい笑い声をたてながら、『お嬢さま』のすることをじっと見まもっていた。見たところ、彼女はこんなふうに自分の手を接吻してもらうのが、いかにも気持よさそうであった。『あまり有頂天になりすぎているかもしれない』という考えが、ちらとアリョーシャの頭をかすめた。彼は急に顔を赧くした。あやしい胸騒ぎが初めからずっとやまないのであった。
「お嬢さま、アレクセイさんの前であんなふうに接吻なんかして、わたしに恥をかかせないで下さいましな。」
「わたしがあんなことをしたからって、あなたに恥をかかすことになるんでしょうか」とカチェリーナはいくぶん驚いたように言った。「あなたにはわたしの心持がおわかりにならないのねえ!」
「いいえ、あなたこそわたしの心持が、本当におわかりにならないのかもしれませんわ、お嬢さま。わたしあなたのお目に映るよりか、ずっと悪い女かもしれませんもの。わたしは心の悪いわがままな女ですからね。ドミートリイさんだってい、ただちょっとからかってやろうというつもりで、あの時とりこ[#「とりこ」に傍点]にしてしまったくらいですもの。」
「でも、今ではそのあなたが、あの人を救おうとしてらっしゃるじゃありませんか。あなた、そう約束なすったでしょう、――あなたがもうとうからほかの人を愛していて、しかもその人が今あなたに結婚を申し込んでるってことを、あの人に知らせて目をさまして上げますって……」
「まあ、違いますわ、わたしそんな約束をしたことはありませんよ。それはあなたが一人でお話しになったばかりで、わたし約束も何もしやしませんわ。」
「じゃ、わたし思い違いをしたんですね。」カチェリーナは心もち青くなって、小さな声でこう言った。「あなたお約束なすったじゃありませんか……」
「いいえ、お嬢さま、わたし何にも約束なんかしませんわ。」依然として楽しそうな罪のない表情をしたままで、静かに落ちつ。きはらってグルーシェンカは遮った。「ねえ、これでおわかりになったでしょう、お嬢さま、わたしはあなたにくらべると、こんなに厭な、気ままな女なんですからね。わたし、気が向きさえしたら、すぐそのとおりにしてしまう性分なんですの。さっきは、本当に何かお約束した加もしれませんけど、今またふいと考えてみると、また急にあの人が好きになるかもしれませんもの、あのミーチャがね、――もう以前だって、あの人が好きになったことがあるんですよ、まる一時間ぐらい、ずうっと気に入ってたわ。ですから、今すぐにも帰って行って、今日からさっそく、うちに落ちついておしまいなさいって、あの人に言わないともかぎりませんわ……わたし、こんなに気の変りやすい女ですの……」
「さっきあなたがおっしゃったのは……まるで違ってましたわ……」カチェリーナはやっとのことで、これだけ呟いた。
「ああ、さっきはねえ! わたし気の脆い馬鹿な女ですから、あの人がわたしのために、どんな苦労をしたか考えてみただけでもねえ! 本当に家へ帰ってみて、急にあの人が可哀そうになったら、その時どうしましょう?」
「わたしまったく思いがけませんでしたわ……」
「まあ、お嬢さま、あなたはわたしにくらべると、なんて立派な気高いお方でしょう! もう今となったら、こういう気性を知っただけで、わたしみたいな馬鹿には愛想をおつかしなすったでしょう。お嬢さま、その優しいお手を貸して下さいまし。」彼女はしとやかな調子でこう言って、うやうやしくカチェリーナの手を取った。「ねえ、お嬢さま、わたしはあなたのお手を取って、さっきわたしにして下すったのと同じように接吻します。あなたはわたしに三度接吻して下さいましたが、わたしは三百ぺんも接吻しなければ勘定がすみませんわ。それだけのことはしなくちゃなりません。そのあとは神様の思召し次第で、もしかしたら、わたしはすっかりあなたの奴隷になりきって、万事あなたのお気に召すようにするかもしれませんわ。わたしたちの間で相談や約束をしなくっても、神様がきめて下すったとおりになって行くんですからねえ。まあ、このお手、なんて可愛いお手でしょう! 美しいお嬢さま、ほかにまたと類のないお嬢さま!」
 彼女は接吻の勘定をすますという奇妙な目的をもって、この『お手』をそろっと自分の唇へ持って行った。カチェリーナはその手を引かなかった。彼女は臆病な希望をいだきつつ、『奴隷のように』あなたのお気に召すようにするという、グルーシェンカの最後の約束(もっとも、奇妙な言い廻しではあるけれど)を聞いたのである。彼女は張りきった様子で相手の目を見つめた。その目の中には依然として、かの信頼の念に充ちた単純な表情と、はればれとした楽しげな色が窺われた。
『この女はあまり無邪気すぎるのかもしれない』という希望が、カチェリーナの心をかすめた。グルーシェンカはその間に、『可愛いお手』で夢中になったようなふうつきで、そろそろとその手を唇へ持っていった。が、唇のすぐそばまで持っていった時、とつぜん何やら思いめぐらすかのさまで、二三秒の間じっとその手をとめてしまった。
「ねえ、お嬢さま、」彼女は恐ろしくしなしなした甘ったれた声で、言葉じりを引きながらだしぬけにこう言った。「ねえ、わたしあなたのお手を取りましたけど、接吻はやめておきますわ。」
「どうなとご勝手に……一たいあなたどうなすったの?」とカチェリーナはふいに身ぶるいした。
「ですから、よく覚えておいて下さいまし、あなたはわたしの手を接吻なすったけれども、わたしはしなかったってね。」突然、彼女の目に何やらひらめいた。彼女は穴のあくほど相手の顔を見つめるのであった。
「生意気な!」ふいに何ものかを悟ったように、カチェリーナは口走って、かっと赧くなって椅子を跳びあがった。グルーシェンカも悠然と立ちあがっ化。
「わたしミーチャにもさっそく話して聞かせてやりましょう、――あなたはわたしの手を接吻なすったけれど、わたしはこれっから先もしなかったって。さぞあの人が笑うことでしょうよ!」
「穢らわしい、出て行け!」
「まあ、恥しい、お嬢さま、なんて恥しいことでしょう、あなたのお身分で、そんなはしたないことをおっしゃるなんて。」
「出て行け、売女《ばいた》!」とカチェリーナは甲走った声で叫んだ、――すっかり歪んでしまったその顔の筋肉が一本一本慄えるのであった。
「売女なら売女でよござんすが、あなたご自身だって生娘のくせに、夕方わかい男のところへお金ほしさにいらしったじゃありませんか、その美しい顔を売りにいらしったじゃありませんか、わたしちゃんと知ってますよ。」
 カチェリーナは一声たかく叫んで、相手に飛びかかろうとしたが、アリョーシャが一生懸命に抱きとめた。
「ひと足も出ちゃいけません! 一ことも言っちゃいけません! 何もおっしゃんな、あのひとはすぐに帰ります、今すぐ帰ります!」
 この瞬間カチェリーナの伯母が二人と、それに小間使が、叫