京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P232-243   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

あとで私をいじめたりなさることもできません。なぜって、そうなりゃ、私は法廷で何もかも言ってしまいますからね。しかし、何も私が盗んだり、殺したりした、なんて言うんじゃありませんよ……そんなことは言やしません……あなたから、盗んで殺せとそそのかされたが、承知しなかったと、こう申しまさあね。だから、あの時あなたの同意をとって、決してあなたからいじめつけられないようにしておく必要があったのです。だって、あなたはどこにも証拠を持っていらっしゃらないけれど、私はその反対に、あなたはお父さんが死ぬのを恐ろしく望んでいらしったと、こうすっぱ抜きさえすれば、いつでもあなたを押えつけることができますからね。で、ちょっと一こと言いさえすれば、世間のものはみんなそれを本当にしますよ。そうすりゃ、一生涯、あなたの恥になりますよ。」
「望んでいた、望んでいた、おれがそんなことを望んでいた、と言うのか?」イヴァンはまた歯ぎしりした。
「そりゃ間違いなく望んでおいででしたよ。あなたが承知なすったのは、つまり、私にあのことをしてもいいと、だんまりのうちに、お許しになったんですよ。」スメルジャコフはじっとイヴァンを見つめた。彼はひどく弱って、小さな声でもの憂そうに口をきいていたが、心内に秘められた何ものかが、彼を駆り立てたのである。彼は確かに何か思わくがあるらしかった。イヴァンはそれを感じた。
「さあ、そのさきはどうだ!」とイヴァンは言った。「あの夜の話をしてくれ。」
「そのさきといっても、わかりきってるじゃありませんか! 私が寝て聞いていますとね、旦那があっと言いなすったような気がしました。しかし、グリゴーリイさんが、その前に起きて出て行きました。すると、いきなり唸り声が聞えたと思うと、もうあたりはしんとして、真っ暗やみでした。私はじっと寝て待っていましたが、心臓がどきどきいって、我慢も何もできなくなりましたから、とうとう起きて行きました。左側を見ると、旦那の部屋では、庭に向いた窓が開いているじゃありませんか。私は、旦那が生きているかどうか見さだめようとして、また一あし左のほうへ踏み出しました。すると、旦那がもがいたり、ため息をついたりしている気配がします。じゃ、まだ生きてるんだ。ちぇっ、と私は思いましたね! 窓へ寄って、『私ですよ』と旦那に声をかけますと、旦那は、『来たよ、来たよ。逃げて行った!』と言うんです。つまり、ドミートリイさんが来たことなんです。『グリゴーリイは殺されたよ! どこで?』と私は小声で訊きました。『あそこの隅で』と指さしながら、旦那はやはり小さい声で囁きました。『お待ち下さい』と私は言い捨てて、庭の隅へ行ってみますと、グリゴーリイのやっこさん、体じゅう血まみれになって、気絶して倒れているんです。そこで、確かにドミートリイさんが来たんだな、という考えがすぐ頭に浮んだので、その場ですぐ一思いにやっつけてしまおう、と決心しました。なぜって、よしグリゴーリイが生きてても、気絶しているので、何にも気がつきはしないからです。ただ心配なのは、マルファがふいに目をさましはしないか、ということでした。私は、その瞬間にもこのことを感じましたが、もう心がすっかり血に渇いてしまって、息がつまりそうなのです。そこで、また窓の下へ戻って、『あのひとがここにいます、来ましたよ、アグラフェーナさんが来て、入りたがっていますよ』と旦那に言いました。すると、旦那は赤児のように、ぶるぶる身ぶるいをしました。
『こことはどこだ? どこだ?』こう言ってため息をつきましたが、まだ本当にしないんです。『あそこに立っていらっしゃいます。戸を開けておあげなさい!』と私が言いますと、旦那は半信半疑で、窓から私を見ていましたが、戸を開けるのが恐ろしい様子なんです。『つまり、おれを恐れてるんだな』と私は思いました。が、おかしいじゃありませんか、そのとき私は急に窓を叩いて、グルーシェンカが来てここにいる、という合図をすることを思いついたのです。ところが、旦那は言葉では本当にしないくせに、私がとんとんと合図をしたら、すぐ駈け出して、戸を開けて下すったじゃありませんか。戸が開いたので、私は中へ入ろうとしましたが、旦那は私の前に立ち塞がるようにして、『あれは、どこにいる? あれはどこにいる?』と言って、私を見ながらびくびくしています。こんなにおれを恐れてるんじゃ、とてもうまくゆかないな、と私は思いました。部屋へ入れないんじゃあるまいか、旦那が呶鳴りはしないか、マルファが駈けつけやしないか、またほかに何か起りはしないか、などと考えると、その恐ろしさに足の力が抜けてしまいました。その時は何も覚えていませんが、きっとわたしは旦那の前で真っ蒼になって、突っ立っていたに違いありません。『そこです、そこの窓の下です。どうして旦那はお見えにならないんでしょう?』と私が旦那に囁くと、『じゃ、お前あれを連れて来てくれ、あれを連れて来てくれ!』『でも、あのひとが怖がっていらっしゃいます。大きな声にびっくりして、藪の陰に隠れていらっしゃるんです。旦那ご自分で書斎から出て、呼んでごらんなさいまし』と私が言いました。すると、旦那は窓のそばへ駈け寄って、蠟燭を窓の上に立てて、『グルーシェンカ、グルーシェンカ、お前そこにいるのかい?』と呼びましたが、こう呼びながらも、窓から覗こうとしないんです。私から離れようとしないんです。恐ろしいからなんですよ。私をひどく恐れていたので、私のそばを離れないんですよ。『いいえ、あのひとは(と、私は窓に寄って、窓から体を突き出しながら)、あそこの藪のなかにいらっしゃいますよ。あなたを見て笑っていらっしゃいます、見えますでしょう?』と言いました。すると、旦那は急に本当にして、ぶるぶると身ぶるいしだしました。なにしろ、すっかりグルーシェンカに惚れ込んでいたんですからね。で、旦那は窓から体をのり出した。そのとき私は、旦那のテーブルの上にのっていたあの鉄の卦算、ね、憶えていらっしゃいましょう、三斤もあるやつなんですよ、あいつを取って振り上げると、うしろから頭蓋骨めがけて折ちおろした[#「折ちおろした」はママ]んです。旦那は叫び声さえも出さないで、すぐにぐったりしてしまったので、また二三度なぐりつけました。三度目に頭の皿の割れたらしい手ごたえがありました。旦那はそのまま仰向けに、顔を上にして倒れましたが、体じゅう血みどろなんです。私は自分の体を調べてみると、さいわいとばっちりもかかっていないので、卦算を拭いてテーブルの上にのせ、聖像の陰へ行って、封筒から金を取り出しました。そして、封筒を床の上に投げ捨て、ばら色のリボンもそのそばへおきました。ぶるぶる慄えながら庭へ出て、すぐさま空洞《うつろ》のある林檎の木のそばへ行きました、――あなたもあの空洞《うつろ》をご存じでしょう、私はもうとうから目星をつけておいて、その中へ布と紙を用意していたんです。そこで、金を残らず紙に包み、その上からまた布でくるんで、空洞の中へ深く入れました。こうして、二週間以上もそこにありましたよ、その金がね。その後、病院から出た時に、はじめてそこから取り出して来たわけで。それで、私は寝台へ帰って寝ましたが、『もし、グリゴーリイが死んでしまえば、はなはだ面白からんことになる。が、もし死なずに正気づけば、大変いい都合だがなあ。そうすりゃあの男は、ドミートリイさんが忍び込んで、旦那を殺して、金を盗んで行ったという証人になるに相違ない』とこう私はびくびくしながら考えました。そこで、私は一生懸命に唸りだしたんです。それは、少しも早くマルファを起すためだったので。とうとうマルファは起き出して、私のところへ走って来ようとしましたが、突然グリゴーリイがいないのに気がつくと、いきなり外へ駈け出して、庭で叫び声を立てるのが聞えました。こうして、夜どおしごたごたが始まったわけなんですが、私はもうすっかり安心してしまいましたよ。」
 話し手は言葉を休めた。イヴァンは身動きもしなければ、相手から目を放しもせず、死んだように黙り込んで、しまいまで聞いていた。スメルジャコフは話をしながら、ときおりイヴァンをじろじろと見やったが、大ていはわきのほうを見ていた。話し終ると、彼はさすがに興奮を感じたらしく、深く息をついた。顏には汗がにじみ出した。けれども、後悔しているかどうかは、見てとることができなかった。
「ちょっと待ってくれ」とイヴァンは何やら思い合せながら遮った。「じゃ、戸はどうしたんだ? もし親父がお前だけに戸を開けたのなら、どうしてその前にグリゴーリイが、戸の開いているところを見たんだ? グリゴーリイはお前よりさきに見たんじゃないか。」
 不思議なことには、イヴァンは非常に穏やかな声で、前とはうって変った、いささかも怒りをふくまない語調で訊いた。で、もしこのとき誰かそこの戸を開けて、閾のところから二人を眺めたなら、二人が何かありふれた面白い問題で、仲よく話をしているものと思ったに相違ない。
「その戸ですがね、グリゴーリイが見た時に開いていたというのは、ただあの男にそう思われただけですよ。」スメルジャコフは口を歪めてにたりと笑った。「一たいあいつは人間じゃありません。頑固な睾丸《きん》ぬき馬ですからね。見たんじゃなくって、ただ見たように思ったんですが、――そう言いだしたが最後、もうあとへは引きゃしません。あいつがそんなことを考えだしたというのは、私たちにとってもっけの幸いなんですよ。なぜって、そうなりゃ否でも応でも、ドミートリイさんへ罪がかかるに相違ありませんからね。」
「おい、ちょっと、」イヴァンはこう言ったが、また放心したようにしきりに考えていた。「おい、ちょっと……おれはまだ何かお前に訊きたいことがたくさんあったんだが、忘れてしまった……おれはどうも忘れっぽくて、頭がこんぐらかっているんだ……そうだ! じゃ、これだけでも聞かせてくれ。なぜお前は包みを開封して、床の上にうっちゃっておいたんだ? なぜいきなり包みのまま持って行かなかったんだ……お前がこの包みの話をしている時には、そうしなけりゃならなかったような気持がしたんだが……なぜそうしなけりゃならなかったのか……どうしてもおれにはわからない……」
「そりゃちょっとしたわけがあってしたんですよ。だって、前からその包みに金がはいってることを知っている慣れた人間は、――例えば私のように、自分でその金を包みの中へ入れたり、旦那が封印をして上書きまでなすったのを、ちゃんと自分の目で見たりしたような人間は、かりにその人間が旦那を殺したとしても、殺したあとでその包みを開封したりなんかするでしょうか? しかも、そんな急場の時にですよ。だって、そんなことをしなくても、金は確かにその包みの中に入ってることをちゃんと知ってるんじゃありませんか。まるで反対でさあ。私のようなこうした強盗は、包みを開けないで、すぐそれをかくしに入れるが早いか、一刻も早く逃げ出してしまいまさあね。ところが、ドミートリイさんはまったく別です。あの人は包みのことを話に聞いただけで、現物を見たことがありません。だから、もしあの人がかりに蒲団の下からでも包みを盗み出したとすれば、すぐにそれを開封して、確かに例の金が入ってるかどうか、調べてみるはずですよ。そして、あとで証拠品になろうなどとは考える余裕もなく、そこに封筒を投げ棄ててしまいます。あの人は常習犯の泥棒じゃなくって、今まで一度も人のものを取ったことがないんですもの、なにぶん代々の貴族ですからね。で、よしあの人が泥棒をする気になったからって、ただ自分のものを取り返すだけで、盗むというわけじゃないんですからね。だって、あの人は前もってこのことを町じゅうに言いふらしていたじゃありませんか。おれは出かけて行って、親父から自分のものを取り戻すんだと、誰の前でも自慢していたんですからね。私は審問の時この意味のことを、はっきりと言ったわけじゃありませんが、自分でもわからないようなふうに、そっと匂わせましたよ。ちょうど検事が自分で考え出したので、私が言ったんじゃない、というようなふうに、ちょっとほのめかしてやりました、――すると、検事はこの匂いを嗅ぎつけて、涎を垂らして喜んでいましたよ……」
「一たい、一たいお前はその時その場で、そんなことを考え出したのかい?」とイヴァンは呆れかえって、突拍子もない声で叫んだ。彼はふたたび驚異の色を浮べて、スメルジャコフを眺めた。
「まさか、あなた、あんな火急の場合に、そんなことを考え出していられるものですか? ずっと前から、すっかり考えておいたんです。」
「じゃ……じゃ、悪魔がお前に手つだったんだ!」とイヴァンはまた叫んだ。「いや、お前は馬鹿じゃない、お前は思ったよりよっぽど利口な男だ……」
 彼は立ちあがった、明らかに、部屋の中を歩き廻るためらしかった。彼は恐ろしい憂愁におちいっていたのである。ところが、通り道はテーブルに遮られて、テーブルと壁の間は、やっとすり抜けるほどしか余地がなかったので、彼はその場で一廻転しただけで、また椅子に腰をおろした。こうして歩き場を得なかったことが、急に彼をいらだたせたものとみえ、彼はいきなり以前のとおりほとんど無我夢中に叫んだ。
「おい、穢らわしい虫けらめ、よく聞け! お前にはわかるまいが、おれが今までお前を殺さなかったのは、ただお前を生かしておいて、あす法廷で答弁させようと思ったからだ。神様が見ておいでだ(イヴァンは片手を上げた)。あるいはおれにも罪があるかもしれない。実際、おれは内心、親父が死んでくれればいいと、望んでいたかもしれない。けれども、誓って言うが、おれはな、お前が思っているほど悪人じゃないんだぞ。おれはまるでお前を教唆しやしなかったかもしれない。いや、教唆なんかしなかった! だが、どの道おれはあす法廷で、自白することに肚を決めてる。何もかも言ってしまうつもりだ。だが、お前も一緒に法廷へ出るんだぞ! お前が法廷で、おれのことを何と言おうと、またどんな証拠を持ち出そうと、――おれはそれを承認する。おれはもうお前を恐れちゃいない。何もかも、自分で確かめる! だが、お前も白状しなけりゃならんぞ! 必ず、必ず、白状しなけりゃならんぞ! 一緒に行こう! もうそれにきまった!」
 イヴァンは厳粛な態度できっぱりとこう言った。彼の目の輝きから判断しても、もうそれにきまったことは明らかであった。
「あなたはご病気ですね、どうやら、よほどお悪いようですよ。あなたの目はすっかり黄いろになっていますよ」とスメルジャコフは言ったが、その言葉には嘲笑の語気は少しもなく、まるで同情するようであった。
「一緒に行くんだぞ!」とイヴァンは繰り返した。「もしお前が行かなくたって、同じことだ、おれ一人で白状する。」
 スメルジャコフは何か思案でもしているように、しばらく黙っていた。
「そんなことができるものですか。あなたは出廷なさりゃしませんよ」と彼はとうとう否応いわさぬ調子で、きっぱりとこう断じた。
「お前にはおれがわからないんだ!」とイヴァンはなじるように叫んだ。
「でも、あなた、何もかもすっかり白状なされば、とても恥しくってたまらなくなりますよ。それに、第一、何のたしにもなりませんよ。私はきっぱりとこう申します、――私はそんなことを一口だって言った覚えはありません、あなたは何か病気のせいか、(どうもそうらしいようですね)、それとも、自分を犠牲にしてまでも、兄さんを助けたいという同情のために、私に言いがかりをしてらっしゃるんです。あなたはいつも私のことを、蠅か虻くらいにしか思っていらっしゃらなかったんですから、って。ねえ、こう言ったら、誰があなたの言うことを本当にするものがあります? あなたはどんな証拠をもっておいでです?」
「黙れ、お前が今この金をおれに見せたのは、むろんおれを納得させるためなんだろう。」
 スメルジャコフは紙幣束の上から、イサアク・シーリンを取って、わきへのけた。
「この金を持ってお帰り下さい。」スメルジャコフはため息をついた。
「むろん、持って行くさ! だが、お前はこの金のために殺したのに、なぜ平気でおれにくれるんだい?」イヴァンはひどくびっくりしたように、スメルジャコフを見やった。
「そんな金なんか、私はまるでいりませんよ」とスメルジャコフは片手を振って、慄え声で言った。「はな私はこの金を持ってモスクワか、それともいっそ外国へでも行って、人間らしい生活を始めようと、そんな夢を見ていました。それというのも、あの『どんなことをしてもかまわない』から来てるんですよ。まったくあなたが教えて下すったんですもの。だって、あなたは幾度も私にこうおっしゃったじゃありませんか、――もし永遠の神様がなけりゃ、善行なんてものもない、それに、第一、善行なんかいるわけがないってね、それはまったく、あなたのおっしゃったとおりですよ。で、私もそういうふうに考えたんでございます。」
「自分の頭で考えついたんだろう?」イヴァンはにたりと、ひん曲ったような笑い方をした。
「あなたのご指導によりましてね。」
「だが、金を返すところから見れば、今じゃお前は神様を信じてるんだね?」
「いいえ、信じてやしませんよ」とスメルジャコフは囁いた。
「じゃ、なぜ返すんだ?」
「たくさんです……何でもありゃしません!」スメルジャコフはまた片手を振った。「あなたはあの時しじゅう口癖のように、どんなことをしてもかまわないと言っていらしったのに、今はどうしてそんなにびくびくなさるんですね? 自白に行こうとまで思いつめるなんて……ですが、何にもなりゃしませんよ!あなた[#「しませんよ!あなた」はママ]は自白なんかなさりゃしませんよ!」スメルジャコフはすっかりそう決めてでもいるように、またもや、きっぱりとこう言った。
「まあ、見ているがいい!」とイヴァンは言った。
「そりゃ駄目ですよ。あなたはあまり利口すぎます。なにしろ、あなたはお金が好きでいらっしゃいますからね。そりゃちゃんとわかっていますよ。それに、あなたは名誉も愛していらっしゃいます。だって、あなたは威張りやですもの。ことに女の綺麗なのときたら、それこそ大好物なんですよ。が、あなたの一番お好きなのは、平和で満足に暮すことと、そして誰にも頭を下げないことですね、――それが何よりお好きなんですよ。あなたは法廷でそんな恥をさらして、永久に自分の一生を打ち壊してしまうようなことは、いやにおなんなさいますよ。あなたはご兄弟三人のうちでも、一ばん大旦那さんに似ていらっしゃいますからね。魂がまるであの方と一つですよ。」
「お前は馬鹿じゃないな。」イヴァンは何かに打たれたようにこう言った。彼の顔はさっと赤くなった。「おれは今まで、お前を馬鹿だとばかり思っていたが、いま見ると、お前は恐ろしくまじめな人間だよ!」今さららしくスメルジャコフを見つめながら、彼はこう言った。
「私を馬鹿だとお考えになったのは、あなたが高慢だからです。さ、金をお受け取り下さい。」
 イヴァンは三千ルーブリの紙幣束を取って、包みもしないでかくしへ入れた。
「あす法廷で見せるんだ」と彼は言った。
「法廷じゃ、誰もあなたを本当にしやしませんよ。いいあんばいに、あなたは今たくさんご自分の金をもっておいでですからね、自分の金庫から出して持って来たんだとしか、誰も思やしますまい。」
 イヴァンは立ちあがった。
「繰り返して言っておくがね、おれがお前を殺さなかったのは、まったく明日お前という人間が必要なからだ。いいか、これを忘れるなよ。」
「殺すならお殺しなさい。今お殺しなさい。」スメルジャコフは異様にイヴァンを見つめながら、異様な調子でだしぬけにこう言った。「あなたはそれもできないんでしょう」と彼は悲痛な薄笑いを浮べてつけたした。「以前は大胆な人でしたが、今じゃ何一つできないんですからね!」
「明日また!」と叫んで、イヴァンは出て行こうとした。
「待って下さい……も一度その金を私に見せて下さい。」
 イヴァンが紙幣を取り出して見せると、スメルジャコフは十秒間ばかり、じっとそれを眺めていた。
「さあ、お帰んなさい」と彼は片手を振って言った。「旦那!」彼はイヴァンのあとから、また突然こう叫んだ。
「何だい?」イヴァンは歩きながら振り向いた。
「おさらばですよ!」
「明日また!」とイヴァンはも一ど叫んで、小屋の外へ出た。吹雪は相変らず荒れ狂うていた。彼は初めちょっとのあいだ元気よく歩いていたが、急に足がふらふらしてきた。『これは体のせいだ。』彼はにたりと薄笑いをもらして、そう考えた。と、一種の歓喜に似たものが心に湧いた。彼は自分の内部に無限の決断力を感じた。最近はげしく彼を苦しめていた心の動揺が、ついに終りを告げたのである。決心はついた。『もうこの決心は変りっこなしだ』と彼は幸福を感じながら考えた。その途端、彼はふと何かにつまずいて、いま少しで倒れるところだった。立ちどまってよく見ると、さっき彼の突き飛ばした例の百姓が、もとの場所に気絶したまま、じっと倒れているのであった。吹雪はもうほとんどその顔ぜんたいを蔽うていた。イヴァンはいきなり百姓を摑んで、自分の背にひっ担いだ。右手に見える小家のあかりを頼りに進んで行き、とんとんと鎧戸を叩いた。やがて、返事をして出て来たあるじの町人に、三ルーブリお礼をする約束で、百姓を警官派出所に担ぎ込む手つだいを頼んだ。町人は支度をして出て来た。それから、イヴァンは目的を達して、百姓を派出所へ連れて行き、すぐに医師の診察を受けさせたばかりでなく、そこでも鷹揚に『さまざまな支払い』に財布の口を開けたことは、ここにくだくだしく書きたてまい。ただ一つ、言っておきたいのは、彼がこの手続きをするのに、ほとんど一時間以上かかったことである。けれども、イヴァンはすこぶる満足していた。彼の考えはそれからそれへと拡がって、働きつづけた。『もしおれが明日の公判のために、こんな固い決心をしていなければ』と彼は突然ある快感を覚えながら考えた。『百姓の始末なんぞに、一時間もつぶしはしなかったろう。さだめしそのそばを通り過ぎながら、やつが凍え死にしそうなのを冷笑したことだろう……だが、おれが自己反省の力をもってることはどうだ?』彼はその瞬間、さらに一倍の快感を覚えながらこう考えた。『それだのに、やつらはおれのことを、気がふれてるなんて決めこんで!』
 わが家の前まで帰りつくと、彼は急に立ちどまった。『今すぐ検事のところへ行って、何もかも陳述してしまったほうがよくないかしらん?』と自問したが、また家のほうへ向きを変えて、その疑問を決定した。『明日まとめて言おう』と彼は自分に囁いた。と、不思議にも、ほとんどすべての歓喜と自足が、一時に彼の胸から消えてしまった。彼が自分の部屋へはいった時、何やら氷のようなものが、とつぜん彼の心臓にさわった。それは一種の追憶のようなもので、より正確に言えば、この部屋の中に以前もあったし、今でもつづけて存在している、何か押しつけるような、忌わしいあるものに関する記憶であった。彼はぐったりと長椅子に腰をおろした。婆さんがサモワールを持って来た。彼はお茶をいれはしたが、まるっきり手にもふれないで、明日まで用事はないと言って、婆さんを返してしまった。長椅子に腰かけているうちに、頭がぐらぐらしてきた。何だか病気にかかって、ひどく衰弱しているような気がした。彼は眠けを催したが、不平らしく立ちあがり、眠けを払うために、部屋の中を歩きだした。ときおり、うなされてでもいるような気がした。けれど、何より気にかかるのは、病気ではなかった。彼はまた椅子に腰をおろして、何か捜してでもいるように、ときどきあたりを見まわしはじめた、それが幾度か繰り返された。最後に、彼の目はじっとある一点を見すえた。イヴァンはにやりとしたが、顔はさっと憤怒の紅に染められた。彼は長いあいだ長椅子に腰かけて、両手でしっかり顔をささえながら、やはり流し目に以前の一点、――正面の壁のそばにある長椅子を見つめていた。見受けたところ、何かが彼をいらだたせたり、不安にしたり、苦しめたりしているようなふうであった。

   第九 悪魔 イヴァンの悪夢

 筆者《わたし》は医者ではないが、しかしイヴァンの病気がどういう性質のものか、読者にぜひ少し説明しなければならぬ時期が来たような気がする。少し先廻りをして、一ことだけ言っておこう。彼はきょう今晩、譫妄狂にかかる一歩手前まで来ていたのである。この病気は、とくから乱れていながらも、頑固に抵抗していた彼の肉体組織を、ついに征服しつくしたのである。筆者《わたし》は医学を一こう知らないが、大胆に想像してみると、彼はじっさい自分の意志を極度に緊張させて、一時病気を遠ざけていたものらしい。むろん、そのとき彼は、ぜんぜん病気を支配し得るものと、空想していたのである。彼は自分が健康でないことを知っていたが、こんな場合、自分の生涯における運命的な瞬間に、――つまり、ちゃんと出るべきところへ出て、大胆に断乎として言うべきことを言い、『自分で自分の濡衣を干す』べき時に、病気などにかかるのがたまらなく厭であった。もっとも、彼は一度、モスクワから来た新しい医師のところへ相談に出かけてみた。もう前章に述べたとおり、カチェリーナの空想のために招聘されたその医者は、イヴァンの容態を聞きとって、詳しく診察した後、彼が一種の脳病にかかっていると診断した。そして、イヴァンが嫌悪をいだきながら述べたある告白に、いささかも驚かなかったのである。『あなたのような状態にある人が、幻覚におちいるのはありがちのことですよ』と医者は断定した。『もっとも、よく試験してみなけりゃなりませんが……とにかく、時期を逸しないように、すぐ治療しなければいけませんね。でないと、大変なことになりますよ。』けれど、イヴァンは医者の賢明な勧告にしたがって、治療のために床につこうとはしなかった。『だって、まだ歩けるじゃないか。つまり、今のところ気力があるわけだ。倒れたらまたその時のことさ。誰でも好きな人が介抱してくれるだろう。』彼は片手を振って、こう決心した。
 で、すでに述べたとおり、彼は今も自分がうなされているのを、どうやら意識しながら、正面の壁のそばに据えた長椅子の上の何ものかを、頑固にじっと見つめていた。そこには突然、どうして入って来たものやら(イヴァンがスメルジャコフのところから帰って来た時には、部屋の中には誰もいなかったのである)、何者か腰をかけていた。それは一個の紳士であった、いや、一そう的確に言えば、ある特殊なロシヤのゼントルマンで、もうあまり若くない、フランス人の、いわゆる ”pui frisait la cinquantaine”(五十歳に近い人物)である。かなり長くてまだ相当に濃い黒い髪や、楔がたに刈り込んだ顎鬚には、あまり大して白髪も見えなかった。彼は褐色の背広風のものを着込んでいた。それも上手な仕立屋の手でできたものらしいが、もうだいぶくたびれた代物で、流行がすたってから、かれこれ三年くらいになるので、社交界のれっきとした人たちは、もはや二年も前から着なくなってしまっている。シャツも、ショールのような形をした長いネクタイも、みんな一流の紳士がつけるようなものではあったが、シャツは近くでよく見ると、だいぶ薄汚れているし、幅広のネクタイもよほど耗れていた。格子縞のズボンもきちんと落ちついていたが、これも今の流行にしては、やはり色合いが明かるすぎて、型が細すぎるから、今ではもうとっくに人がはかなくなっていた。白い毛のソフトも同様に、季節はずれなものだった。要するに、あまり懐ろのゆたかでない人が、みなりをきちんと整えている、といった恰好である。つまり、紳士は農奴制時代に栄えていた昔の白手《ホワイトハンド》、落魄した地主階級に属する人らしい様子であった。疑いもなく、かつては立派な上流社会にあって、れっきとした友達を持ち、今でも昔のままに、その関係を保っているかもしれないが、若い時の楽しい生活が終って、そのうち農奴制の撤廃にあって落魄するにしたがい、次第次第に善良な旧友の問を転々として歩く、一種のお上品な居候となりはてたのである。旧友がそうした人を自分の家へ入れるのは、当人のどこへでも落ちつきやすい、要領のよい性質を知っているからでもあり、またそういうきちんとした人は、むろん、下座ではあるが、どんな人の前にでも坐らせておけるからであった。そういう居候、すなわち要領のよい紳士は、面白い話をすることと、カルタの相手をすることが上手だけれど、もし人から用事など頼まれても、そんなことをするのは大嫌いなのである。彼らはふつう孤独な人間で、独身者かやもめである。時とすると、子供を持っているようなこともあるが、その子供はいつもどこか遠方の叔母さんか、誰かの家で養育されているにきまっている。紳士は、そういう叔母があることを、立派な社会ではおくびにも出さない。彼らはそういう親戚を持っているのを、いくぶん恥じてでもいるようである。そして、自分の子供から命名日や降誕祭などに、ときどき賀状をもらったり、またどうかすると、その返事を出したりしているうちに、いつとなくその子供を忘れてしまうのである。この思いがけない客の顔つきは、善良とは言えないまでも、やはり要領のいい顔で、あらゆる点から見て、いつでも、どんな愛嬌のある表情でもできそうな様子であった。時計は持っていなかったが、黒いリボンをつけた鼈甲縁の柄つき眼鏡をたずさえていた。右手の中指には、安物のオパールを入れた、大形の金指環がはめられていた。イヴァンは腹立たしげにおし黙って、話しかけようともしなかった。客は話しかけられるのを待っていた。ちょうど食客が上の居間から茶の席へ降りて来て、主人のお話相手をしようと思ったところ、主人が用事ありげなふうで、顔をしかめながら何やら考えているので、おとなしく黙っている、といったようなふうつきであった。が、もし主人のほうから口をききさえすれば、いつでもすぐに愛嬌のある話を始められそうであった。突然、彼の顔に何やら心配らしい色が浮んだ。
「ねえ、君」と彼はイヴァンに話しかけた。「こんなことを言ってははなはだ失礼だが、君はカチェリーナのことを聞くつもりで、スメルジャコフのところへ出かけて行ったくせに、あのひとのことは何も聞かずに帰って来たね。たぶん忘れたんだろう……」
「ああ、そうだった!」イヴァンは突然こう口走った。彼の顔は心配そうにさっと曇った。「そうだ、僕は忘れたんだ……だが、今ではもうどうでもいい、何もかも明日だ」と彼はひとりごとのように呟いた。「だが君」と彼はいらいらした語調で、客のほうに向って、「それは僕がいま思い出すべきはずだったんだ。なぜって、僕は今そのことで頭を悩まされてたんだからね。どうして君はおせっかいをするんだ? それじゃまるで、君が知らせてくれたので、僕が自分で思い出したんじゃない、というように、僕自身信じてしまいそうじゃないか!」
「じゃ、信じないがいいさ。」紳士は愛想よく笑った。「信仰を強要することはできないからね。それに、信仰の問題では証拠、ことに物的証拠なんか役にたちゃしないよ。トマスが信じたのは、よみがえったキリストを見たからじゃなくって、すでにその前から信じたいと思っていたからさ。早い話が、降神術者だがね……おれはあの先生方が大好きさ……考えてみたまえ、あの先生方は、悪魔があの世から自分たちに角を見せてくれるので、降神術は信仰のために有益なものだと思っている。『これは、あの世が実在しているという、いわゆる物的証拠じゃないか』と先生たちは言っている。あの世と物的証拠、何たる取り合せだろう! それはまあ、いいとしてさ、悪魔の実在が証明されたからって、神の実在が証明されるかね? 僕は理想主義者の仲間へ入れてもらいたい。そうすれば、その中で反対論を唱えてやるよ。『僕は現実主義者だが、唯物論者じゃないんだよ、へっ、へっ!』」
「おい、君」とイヴァンはふいにテーブルから立ちあがった。「僕は今まるでうなされてるような気がする……むろん、うなされてるんだ……まあ、かまわず勝手なことを喋るがいい! 君はこの前の時のように、僕を夢中に怒らすことはできまいよ。だが、何だか恥しいような気がする……僕は部屋の中を歩きたい……僕はこの前の時のように、おりおり君の顔が見えず、君の声が聞えなくなるけれど、君の喋ってることはみんなわかる。なぜって、それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの[#「それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの」に傍点]! ただわからないのは、このまえ君に会った時、僕は眠っていたか、それとも、さめながら君を見たかということなんだ。一つ冷たい水でタオルを濡らして頭へのせよう、そうしたら、おそらく君は消えてしまうだろう。」
 イヴァンは部屋の隅へ行って、タオルを持って来ると、言ったとおりに、濡れタオルをのせて、部屋の中をあちこち歩きだした。
「僕は、君が率直に『君、僕』で話してくれるのを嬉しく思うね」と客は話しだした。
「馬鹿。」イヴァンは笑いだした。「僕が君に『あなた』などと言ってたまるものか。僕はいま愉快だが、ただこめかみが痛い……額も痛い……だから、どうかこの前の時みたいに、哲学じみたことを喋らないでくれたまえ。もし引っ込んでいられなきゃ、何か面白いことを喋りたまえ、居候なら居候らしく、世間話でもしたほうがいいよ。本当に困った先生に取っつかれたものさ! だが、僕は君を恐れちゃいないぜ、いまに君を征服してみせる。瘋癲病院なんかへ連れて行かれる心配はないぞ!」
「居候はc'est charmant(おもしろいものだよ)だよ。さよう、僕はありのままの姿をしている。この地上で僕が居候でなくて何だろう?それにしても[#「何だろう?それにしても」はママ]、僕は君の言葉を聞いて少々驚いたね。まったくだよ、君はだんだん僕を実在のものと解釈して、このまえのように、君の空想と思わなくなったからね……」
「僕は一分間だって、お前を実在のものと思やしないよ。」イヴァンはほとんど猛然たる勢いで叫んだ。「お前は虚偽だ、お前は僕の病気だ、お前は幻だ。ただ僕には、どうしたらお前を滅ぼせるかわからない。どうもしばらくのあいだ苦しまなければなるまい。お前は僕の幻覚なんだ。お前は僕自身の化身だ、しかし、ただ僕の一面の化身……一番けがれた愚かしい僕の思想と感情の化身なんだ。だから、この点から言っても、もし僕にお前を相手にする暇さえあれば、お前は確かに僕にとって興味のあるものに相違ない……」
「失敬だがね、失敬だが、一つ君の矛盾を指摘さしてくれたまえ。君はさっき街灯のそばで、『お前はあいつから聞いたんだろう! あいつ[#「あいつ」に傍点]が僕のところへ来ることを、お前はどうして知ったんだ?』と言って、アリョーシャを呶鳴りつけたね。あれは僕のことを言ったんだろう。してみると、君はほんの一瞬間でも信じたんだ。僕の実在を信じたんじゃないか。」紳士は軽く笑った。
「ああ、あれは人間天性の弱点だよ……僕はお前を信ずることができなかった。僕はこのまえ眠っていたか覚めていたか、それさえ憶えていない。ことによったら、あの時お前を夢に見たので、うつつじゃないかもしれん……」
「だが、君はどうしてさっき、あんなにあの人を、アリョーシャをやっつけたんだね? あれは可愛い子だよ。僕は長老ゾシマのことで、アリョーシャに罪をつくったよ。」
「アリョーシャのことを言ってくれるな……下司のくせに何を生意気な!」イヴァンはまた笑いだした。
「君は呶鳴りながら笑ってるね、――これはいい徴候だ。今日はこの前よりだいぶご機嫌がいい。僕にはなぜだかわかっている、偉大なる決心をしたからだよ……」
「決心のことなんか言わないでくれ!」とイヴァンは猛然と呶鳴った。
「わかってる、わかってる、c'est noble, c'est charmant.(それは立派なことだよ。それはいいことだよ)君はあす兄貴の弁護に出かけて行って自分を犠牲にするんだろう……c'est chevaleresque……(それは義侠だよ)」
「黙れ、蹴飛ばすぞ!」
「それはいくぶん有難い、なぜって、蹴られれば僕の目的が達せられるからさ。蹴飛ばすというのは、つまり、君が僕の実在を信じている証拠だ。幻を蹴るものはないからね。冗談はさておき、僕はどんなに罵倒されても何とも思わないが、それにしても、いくら僕だからって、も少しは鄭重な言葉を使ってもよさそうなものだね。馬鹿だの、下司だのって、ちとひどすぎるね!」
「お前を罵るのは、自分を罵るんだ!」イヴァンはまた笑った。「お前は僕だ、ただ顔つきの違う僕自身だ。お前は僕の考えていることを言ってるんだ……少しも新しいことを僕に聞かすことができないんだ!」
「もし僕の思想が、君の思想と一致しているとすれば、それはただただ僕の名誉になるばかりだ」と紳士は慇懃な、しかも威をおびた調子で言った。
「お前はただ僕の穢らわしい思想、ことに馬鹿な思想ばかりとってるんだ。お前は馬鹿で、野卑だ。恐ろしい馬鹿だ。いや、僕は、たまらなくお前が厭だ! ああ、どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだ!」とイヴァンは歯ぎしりした。
「ねえ、君、僕はやはりゼントルマンとして身を処し、ゼントルマンとして待遇されたいんだがね。」客は一種いかにも食客らしい、はじめから譲歩してかかっているような、人のいい野心を見せながら、言いはじめた。「僕は貧乏だが、しかし、非常に高潔だとは言うまい。が……世間では一般に僕のことを堕落した天使だというのを、原則のように見なしている。実際、僕は自分がいつ、どうして天使だったか思い出せない。よしまたそういう時があったとしても、もう忘れたって罪にならぬくらい昔のことなんだろう。で、今じゃ僕はただ身分ある紳士とりつ評判だけを尊重し、何でも成行きにまかせて、できるだけ愉快な人間になろうと努めているんだ。僕は心底から人間が好きだ、――ああ、僕はいろんな点で無実の罪をきせられているよ! 僕がときどきこの地上へ降りて来ると、僕の生活は何かしら一種の現実となって流れて行く。これが僕には何よりも嬉しいんだ。僕自身も君と同じく、やはり幻想的なものに苦しめられているので、それだけこの地上の現実を愛している。この地上では、すべてが輪郭を持っており、すべてに法式[#「法式」はママ]があり、すべてが幾何学的だ。ところが、僕らのほうでは、一種漠然とした方程式のほか何もないんだ。で、僕はこの地上を歩きながら、空想している。僕は空想するのが好きなんだ。それに、この地上では迷信ぶかくなる、――どうか笑わないでくれたまえ。僕はつまり、この迷信ぶかくなるのが好きなんだ。僕はここで、君らのあらゆる習慣にしたがっている。僕は町のお湯屋に行くことが好きになってね、君は本当にしないだろうが、商人や坊さんなどと一緒に、湯気に蒸されるんだよ。僕の夢想してるのは、七フードもあるでぶでぶ肥った商家の内儀に化けることだ、――しかも、すっかり二度ともとへ戻らないようになりきって、そういう女が信じるものを残らず信じたいんだ。僕の理想は会堂へ入って、純真な心持でお蠟燭を供えることだ、まったくだよ。その時こそ、僕の苦痛は終りを告げるのだ。それから、やはり君らと一緒に、医者にかかることも好きだね。この春、天然痘が流行った時、養育院へ出かけて行って、種痘をうえてもらった。その日、僕はどんなに満足だったかしれない。お仲間のスラヴ民族たちの運動に、十ルーブリ寄付したくらいだよ……だが、君は聞いていないんだね。え、君、君は今日どうもぼんやりしてるよ。」紳士はしばらく口をつぐんだ。「僕はね、きのう君があの医者のところへ行ったことを知ってるよ……どうだね、君の健康は? 医者は君に何と言ったね?」
「馬鹿!」とイヴァンは一刀両断にこう言った。
「だが、その代り、君はお利口なことだよ。君はまた呶鳴るんだね? 僕はべつに同情を表したわけじゃないんだから、答えなけりゃ答えなくたっていい。この頃はまたレウマチスが起ってね……」