京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP050~P061

る。警官はもっとよく見定めようと、彼女の上へかがみこんだ。と、その顔には偽りならぬ同情が現われた。
「ああ、じつにかわいそうだ!」と彼は頭を振りながらいった。「まだまるでねんね[#「ねんね」に傍点]なんだが、だまされたのだ。それはまちがいなしだ。もしもし、娘さん」と巡査は声をかけた。「あなたのお住まいはどちらです!」
 娘は疲れて鉛色になった目をひらき、問いかける人々の顔を鈍い表情でながめると、めんどうくさそうに片手を振った。
「ちょっと」とラスコーリニコフはいった。「ほら(と彼はポケットをさぐって二十コペイカつかみ出した。ちょうど持ち合わせがあったので。)これでつじ馬車でもやとって、家まで送っておもらいなさい。ただ住所だけわかればいいんだがなあ」
「お嬢さん、お嬢さん!」巡査は金を受け取って、また呼び始めた。「すぐ馬車をやとって、家まで送ってあげましょう。どちらです? え? どこに住まっておいでです!」
「あっちけ![#「あっちけ!」はママ]………うるさいね……」と娘はつぶやき、またしても手を振った。
「いやはや、どうもよくないなあ! えっ、若いお嬢さんの身そらで、そんなこと恥ずかしいじゃありませんか、なんて恥さらしだ!」と彼は自分でも恥じたり、あわれんだり、憤慨したりしながら、またもや頭を振った。「どうも困ったなあ!」と彼はラスコーリニコフのほうをふり向いたが、その拍子にまた彼の風体を、足のつま先から頭の上まで、じろじろと見まわした。こんなぼろを着ているくせに、自分から金を出したのが、きっとふしぎだったにちがいない。
「あなたは遠くからふたりを見つけられたんですか?」と巡査はラスコーリニコフにたずねた。
「ぼくそういってるじゃありませんか、この娘はついそのブルヴァールで、ぼくの前をよろよろしながら歩いてたんです。それがベンチへ着くがはやいか、いきなりぶっ倒れてしまったんですよ」
「いやはやどうも、当節の世の中は、なんたる醜態《しゅうたい》が行なわれるようになったことか! これという変てつもない娘のくせに、もう酔っぱらってるんですからなあ! 誘惑されたんだ、そりゃ一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ! やあ、この服の裂けてることは……ああ、なんという堕落《だらく》した世の中になったものか!………生まれは良さそうだが、きっと落ちぶれた家の子だろう……近ごろはこんなのがざらにふえてきた。様子を見ると、きゃしゃな育ちらしい、どうやらお嬢さんだがなあ」
 彼はまた娘の上へかがみこんだ。
 あるいは彼自身にも、この年ごろの娘があるのかもしれない――『まるでお嬢さんのようにきゃしゃな育ちらしい』上流の見よう見まねで流行をうのみにすることの好きな娘が……
「何よりも第一に」とラスコーリニコフはひとりやきもきした。「どうかしてあの悪党にわたさないことです! そりゃもうわかりきってる、やつはまたこの娘に凌辱《りょうじょく》を加えるに決まってる! やつが何をたくらんでるか、ちゃんとそらで見えすいている。どうですあの悪党、どこうともしやがらない!」
ラスコーリニコフは声高にこういって、まともに男を手でさした。相手はそれを聞くと、また怒りかけたが思い直して、ただ軽蔑するような目を投げただけでがまんした。それから、ゆっくり十歩ばかりわきへどいてから、また立ちどまった。
「あの人にわたさないようにすることはできます」と下士官あがりは考え深そうに考えた。「ただ、どこへ届けたらいいか、それさえいってくれるといいんだがなあ、でないと……お嬢さん、もし、お嬢さん!」と彼はまたかがみこんだ。
 娘はふいに目をいっぱいに開いて、じっと注意ぶかく見つめていたが、やがてなにか合点《がてん》したらしく、ペンチから立ちあがって、もと来たほうへ帰りかけた。
「ちょっ、恥知らずめが、まだうるさくつきまとってる!」と彼女はまた片手を振ってつぶやいた。
 そしてすたすたと歩きだしたが、前のようにひどくよろよろしていた。しゃれ者はプルヴァールの反対側を歩きながら娘から目を放さず、あとをつけて行った。
「ご心配にゃおよびません、けっしてわたしゃせんです」とひげの巡査は断固《だんこ》たる調子でいって、ふたりのあとを追いかけた。「いやはや、なんたる堕落《だらく》した世の中になったものだ!」と彼は嘆息しながら、また声に出してくりかえした。
 この瞬間、ラスコーリニコフは、何かにちくりと刺されたような気がした。とっさの間に、彼の気持ちはがらりとひっくりかえったようなあんばいだった。
「おおい、もしもし!」と彼はあとからひげの巡査に声をかけた。こちらへふりかえった。
「よしたまえ! それがきみにとってなんだというのです? うっちゃっておきたまえ? 勝手に楽しませとくさ」と彼はしゃれ者をさしていった。「きみになんの関係があるんです?」 巡査はわけがわからず、目をいっぱいに見はりながら彼を見つめた。ラスコーリニコフは笑いだした。
「ちょっ!」巡査は片手をぐんと振ってこういうと、しゃれ者と娘のあとから駆けだした。たぶんラスコーリニコフを気ちがいか、あるいはそれ以下のものと思ったらしい。
「おれの二十コペイカを持って行っちまやがった」ひとりになったとき、ラスコーリニコフは毒々しくつぶやいた。「まあ、あいつからも取るがいいんだ。そして娘をあいつにわたしてやるさ、それでけり[#「けり」に傍点]だ……なんだっておれは義侠《ぎきょう》ぶって、よけいな口出しをしたのだろう! おれなどが人を助けるがら[#「がら」に傍点]かい? おれに助ける権利があるのか? なあに、やつらはお互いに生きながら食い合うがいいさ――それがおれにとってなんだ? それに、なんだっておれはあの二十コペイカをやってしまったんだろう。罰あたり、いったいあれがおれの金かい?」
 こうした奇怪な言葉にもかかわらず、彼は苦しくてたまらなくなった。彼は取り残されたベンチに腰をおろした。頭に浮かぶ考えは取りとめがなく……それに概して、この時は何ごとにもあれ、考えるということが苦しかった。できるなら、すっかり無意識状態になりたかった。すべてを忘れてしまって、それから目をさまし、きれいさっぱりと新規まき直しにしたかった……
「かわいそうな娘だ!」がらんとしたベンチの片すみをながめながら、彼はつぶやくのであった。「正気にもどる、少々ばかり泣く、やがて母親が知る……初めはちょっぴりぶつだけだが、しまいにはむちで小っぴどく性根《しょうね》にこたえるほど恥ずかしいせっかんをしたうえ、ことによったら、家まで追い出すかもしれない。よし追い出さなくても、どうせダーリヤ・フランツォヴナ(げぜん女)といった連中がかぎつけて、やがて娘はあちらこちらと出没しだす……そのあげくはたちまち病院行きだ(こういうのは、ごく潔癖な母親のそばで暮らしながら、こそこそいたずらをする連中にえてあるやつだ)。さてその次は……その次はまた病院だ……酒だ……酒場だ……それからもう一度病院だ……二、三年たつと――片輪、それで彼女の生涯《しょうがい》は合計十九か、十八がやまやまだ……おれは今までにそんなのをいくたりも見た、彼らはどうしてそうなったのだろう? なに、みんなそれ、あんなふうでそうなるんだ……ちぇっ! 勝手にしろだ! それは必然のことなんだそうだからな。年々それくらいのパーセンテージは、こういうのが出なければならないんだ……なんのために? 悪魔にでもくわれるためなんだろう、ほかの者を浄化して、じゃまをしないためなんだろうよ。パーセンテージ! まったくうまい言葉だ――それはおよそ気やすめになる言葉で、科学的だ。パーセンテージ、こうひと言《こと》いっておけば、もう心配することはない。これがもしほかの言葉だったら、そりゃまあ……多少心配かもしれないが……しかし、もしドゥーネチカが、そのパーセンテージにはいったら!………このほうでなければ、別のほうのパーセンテージに?」
『だが、おれはいったいどこへ行ってるんだ?』とふいに彼は考えた。『おかしいぞ。おれは何か用があって来たんだぞ。手紙を読んでしまうと、出かけたんだ……あ、そう、ヴァシーリェフスキイ島のラズーミヒンのとこへ出かけたんだっけ。そう、今こそ……思い出した。だが、なんの用であの男んとこへ! どうしてこんどにかぎって、ラズーミヒンのところへ行こうという考えが、おれの頭に舞いこんだんだろう? これはふしぎだ』
 彼はわれながら驚いた。ラズーミヒンはもと大学時代の友だちのひとりだった。ここに注意すべきは、ラスコーリニコフが大学にいた時分、友だちというものをほとんど持たなかったことである。彼はすべての人を避けて、だれのところへも行かず、人を迎えるのもおっくうがった。もっともほかの連中も、じきに彼から顔をそむけてしまった。彼は一般の会合にも、仲間同士の会話やたのしみにも、いっさい関係しなかった。彼は骨身を惜しまず必死に勉強した。そのためにみんな彼を尊敬したが、だれひとり好く者はなかった。彼は非常に貧乏でありながら、なんとなく傲慢《ごうまん》で、非社交的で、心に何かかくしているようだった。一部の友人たちには、彼が仲間一同を子供あつかいにして、高い所から見おろしているように思われた。そして全体の発達も、識見も、信念も、彼らのすべてをぬきんでているかのように、彼らの信念や趣味を何か低級あつかいしているらしく感じられた。
 しかし、ラズーミヒンとはどういうわけか、うま[#「うま」に傍点]が合った。うま[#「うま」に傍点]が合ったというよりも、ほかのだれより遠慮がなく、うちとけ合っていた。もっともラズーミヒンとは、それ以外の関係を持つわけにいかなかったのである。それは珍しく快活で、さっぱりした、単純なくらい善良な青年だった。とはいうものの、この単純の下に、深みと尊厳が隠れていた。彼の親友でも優秀な連中はそれを了解して彼を愛していた。彼はじっさいときどきお人よしめくこともあったが、なかなかの利口者だった。風采は非常に特色があった――やせて背が高く、髪が真黒で、いつも無精ひげを延ばしていた。彼はときどき乱暴をやり、しかも力持ちで通っていた。一度などはある夜の集りで、六尺豊かな大男の巡査を、一撃の下に打ち倒したことがある。酒は方図《ほうず》なしに飲めたが、しかしまるで飲まずにいることもできた。時には堪忍ならぬほどの悪ふざけをしたが、まるで悪ふざけをしないでいることもできた。それからもう一つラズーミヒンの特徴は、どんな失策をしてもびくともしないことと、どんなに困っても閉口しないことであった。彼はたとい屋根の上にでも住まうことができるし、地獄のような飢餓《きが》も、法外の寒さも忍ぶことができた。彼は恐ろしく貧乏だった。そしてまったくの独力で、何かえたいのしれぬ仕事をやって金をもうけながら、自分の生活をささえていた。彼は働きさえすればくみ出すことのできる財源を、いくらでも知っていた。ある年などは、ひと冬じゅう自分の部屋《へや》を暖めないで、寒いほうがよく眠れるからこのほうがかえって気持ちがいいと揚言した。現在彼はよぎなく大学を去っているが、それも長い間のことではなく、また学業をつづけることができるように、事態を回復すべく懸命にあせっていた。ラスコーリニコフはもう四月《よつき》も彼のところへ行かなかったし、ラズーミヒンのほうは彼の下宿さえ知らないしまつであった。あるとき、ふた月ばかり前に、彼らは往来で出会ったが、ラスコーリニコフはそっぽを向いて、相手に見つからないように、わざわざ反対がわへ移った。ラズーミヒンのほうでも気がついたけれど、親友[#「親友」に傍点]を騒がすまいと、そのまま素通りしてしまった。

[#6字下げ]5

『そうだ、おれはまったくついこの間もラズーミヒンのところへ、仕事を頼みに行こうとしたっけ、家庭教師の口か、それとも何かほかのことでも見つけてもらおうと思って……』とラスコーリニコフは考えた。『だが今となって、あの男の力でどうしておれが助けられるというんだ! よしかりに家庭教師の口が見つかって、やつの手もとに一コペイカでもあれば、その最後の一コペイカまで分けてくれるとしよう。それで、家庭教師に行くくつも買えようし、瑕も直せるとしよう……ふん……ところで、その先は? わずかなはした銭でいったい何ができるんだ? 今のおれに必要なのはそんなものだろうか? いや、ラズーミヒンのところなんかへ行こうとしたのは、まったく滑稽《こっけい》のさただ……』
 彼が今なんのためにラズーミヒンのもとへ出かけたかという疑問は、彼自身が感じたよりも、ずっと激しく彼を困惑させたのである。彼は不安の念を感じながら、この一見きわめて平凡な行為の中に、自分にとって凶兆となるようなある意味を探り出そうとした。
『ふん、いったいおれはラズーミヒンひとりだけの力で、万事を回復しようとしたのか、いっさいの解決をラズーミヒンに求めていたのか!』と彼は驚いて自問した。
 彼は考えこんで、額《ひたい》をこすった。するとふしぎにも、長い沈思の後に、偶然、思いがけなく、ほとんどひとりでに、一つの奇怪千万な想念が頭に浮かんだ。
『ふむ……ラズーミヒンのところへ……』と彼はふいに、最後の断案といったような調子で、すっかり落ちつきはらった調子でいった。『ラズーミヒンのところへ行こう、それはむろんだ……しかし――今じゃない……やつのところへは……あれ[#「あれ」に傍点]をすました翌日行こう、あれが片づいてしまったとき、何もかも新規まき直しになったとき……』
 と、ふいにはっとわれにかえった。
『あれ[#「あれ」に傍点]のあとで!』ベンチからはねあがりながら、彼は叫んだ。『しかし、ほんとうにあれ[#「あれ」に傍点]をやるのだろうか? じっさいあれ[#「あれ」に傍点]ができるのだろうか?』
 彼はベンチを捨てて歩きだした。ほとんど駆けだした。彼はもと来たほうへ引っ返そうとしたが、家へ帰るのが急にたまらなくいやになってきた――あの片すみで、あの恐ろしい押入れみたいな小部屋の中で、もう一か月以上もあれ[#「あれ」に傍点]が成熟していったのだ。彼は足の向くままに歩きだした。
 彼の神経性のおののきは熱病的な戦慄《せんりつ》に変わった。彼は悪寒《おかん》をさえ感じた。この暑さに寒くなってきた。彼はある内部の必然な要求にかられて、ほとんど無意識に行き会うものごとを、さも骨が折れるといった様子で注視しはじめた。それはむりに気のまぎれるものを求めるようなふうだったが、あまりうまくいかなかった。彼は刻々ふかいもの思いに沈んでいった。けれどまたもや、ぎくっとしながら頭をあげて、あたりを見まわすと、いま何を考えていたのか、どこを通っていたのか、それさえたちまち忘れてしまうのであった。こんな有様で、彼はヴァシーリェフスキイ島を通り過ぎ、小ネヴァの河畔《かはん》へ出ると、橋を渡ってオストロヴァー(群島)へ歩みを向けた。木々の緑とさわやかな空気は初めちょっと、街のほこりゃ、石灰や、窮くつに押しつけるような大きな家なみを見なれた疲れた目に、快く感じられた。そこにはむし暑さも、悪臭も、居酒屋もなかった。しかし、こうした日新しい、快い感触も、すぐ病的ないらだたしい気分に変わってしまった。ときどき彼は、緑の中にけばけばしく塗りたてた別荘の前に歩みを止め、囲いの中をのぞきこんだり、遠くバルコンやテラスの上にいる、はでな身なりをした女たちや、庭をかけずりまわっている子供たちに目を放った。わけても花が彼のひとみをひいて、それを最も長くながめた。またりっぱな馬車だの、騎馬の紳士や貴婦人などに出会った。彼は好奇の目をもって見送ったが、まだ視界から消えてしまわないうちに、早くもそれを忘れてしまった。お一度彼は立ちどまって、有り金を数えてみたら、三十コペイカばかりあった。『巡査のやつに二十コペイカ、ナスターシャに郵便代三コペイカ――してみると昨日マルメラードフの家へ四十七コペイカか五十コペイカ置いて来たわけだな』なんのためやら胸算用しながら、彼はこう考えた。けれどさっそくそのそばから、なんのためにポケットから金を出したか、それすら忘れてしまった。安料理屋ふうのとある飮食店のそばを通りかかりたとき、ふとそれを思い出し、何か食べたい要求を感じた……店へはいるとすぐ、彼はウォートカを一杯あおって、なにやらつめたピローグ(揚げまんじゅう)を一つ食った。そして、ふたたび道路へ出てから、その残りを食い終わった。ずいぶん久しくウォートカを口にしなかったので、たった一杯飲んだだけで、たちまちききめが見えてきた。彼の足は急に重くなって、ひどく睡気を催してきた。彼は家のほうへ足を向けた。けれどペトローフスキイ島まで来ると、すっかりへとへとになって立ちどまり、道からおりてやぶの中へ分け入り、草の上に倒れると同時に、たちまち眠りに落ちた。
 夢というものは、病的な状態にあるときは、なみはずれて浮きあがるような印象と、くっきりしたあざやかさと、なみなみならぬ現実との類似を特色とする、そういうことがたびたびあるものである。ときとすると、奇怪な場面が描き出されるが、この場合、夢の状況や過程ぜんたいが、場面の内容を充実さす意味で芸術的にぴったり合った、きわめて微細な、しかも奇想天外的なデテールを持っている。それは、たとい夢に見た当人がプーシキンツルゲーネフほどの芸術家でも、うつつには考え出せないほどである。こうした夢、こうした病的な夢は、いつも長く記憶に残って、撹乱《こうらん》され興奮した人間のオルガニズム(組織)に、強烈《きょうせつ》な印象を与えるものである。
 ラスコーリニコフの見たのは恐ろしい夢だった。まだ田舎の小さな町にいたころの、幼年時代を夢に見たのである。彼は七つばかりで、祭りの日の夕方に、父とふたり郊外を散歩していた。灰色の時刻でむし暑い日、場所は彼の記憶に残っているのとぜんぜん同じものだった。いや、むしろその記憶のほうが、いま夢に現われたより、はるかにぼやけていたくらいである。田舎町はたなごころをさすように、あたりに一本の楊《かわやなぎ》もなく、あけっ放しに見すかされていた。どこか遠い空の一ばん端っこに、小さな森がくろずんでいた。町の一ばんはずれの菜園から五、六歩はなれたところに、大きな酒場があった。父親と散歩しながらそばを通り過ぎるたびに、いつも彼に不快きわまる印象、というより、恐怖さえも与える酒場だった。そこにはいつも人がうようよいて、やたらにわめいたり、大声に笑ったり、ののしり合ったり、しゃがれ声で猥雑《わいざつ》な歌をうたったり、しょっちゅうけんかまでしていた。酒場のまわりには、いつもぐでんぐでんに酔っぱらった、恐ろしい顔がうろついていた……この連中に出会うと、彼はしっかりと父にしがみついて、全身ぶるぶるふるわすのであった。酒場のそばの街道は村道で、いつもほこりっぽかったが、そのほこりがいつも真黒なのである。道は先へ先へとうねりながらつづいて、三百歩ばかりのところで、町の墓地について右へ折れていた。墓地の中央には、緑色の円屋根をいただいた石造の教会が立っていた。彼はそこへ年に二度くらい、ずっと昔に死んで一度も見たことのない祖母の法事のいとなまれるたびに、父母に連れられて祈禱式《きとうしき》に行った。そのとき両親はいつも白い皿に聖飯を盛ったのを、ナプキンに包んで持って行ったものである。聖飯は砂糖入りで、米の中へ干しぶどうを十字形に押し込んであった。彼はこの教会と、中に安置された大部分飾りのない古い聖像と、頭をぶるぶるふるわす老僧が好きだった。平たい墓石のすわっている祖母の墓のかたわらに、生後|六月《むつき》で死んだ弟の小さい墓があった。その弟も彼はまるっきり知らなかったので、思い出しようもなかった。けれど、弟のあったことは聞かされていたので、彼は墓地へもうでるたびに、宗教的な気持ちでこの墓にうやうやしく十字を切り、おじぎをして接吻《せっぷん》した。さて彼がいま夢に見たのはこうである――父親と墓地へ歩いて行きながら、酒場のそばへさしかかると、彼は父の手をつかんで、恐ろしげにそのほうを見やった。と、一種とくべつな光景が彼の注意をひきつけた――おりから、そこにはお祭りでもあるらしく、着飾った町人の女房や、百姓のかかあやその亭主連や、ありとあらゆるうぞうむぞうが集まっていたが、みな酔っぱらって歌をうたっていた。酒場の入口の階段のそばには、一台の荷馬車が立っていたが、奇態《きたい》な荷馬車である。それは大きな挽馬《ひきうま》をつけて、荷物や酒だるを運ぶ大型な荷馬車の一つである。こういう長いたてがみと太い足を持った大きな馬が、荷物のないよりかえってあるほうが楽だとでもいいたげに、山のような荷物をゆうゆうと、正しい足どりで、いささかのむりもなく引いて行くのを見ると、彼はいつも好もしい気がした。ところが、いまはふしぎにも、そうした大きな荷馬車に、やせた小さな、あし毛の百姓馬がつけてあった。それは――彼もよく見かけたものだが――ときにはたきぎや乾草などを高く積みあげた荷を引いて、とくに車がぬかるみや、わだちの跡へはまりでもしようものなら、一生けんめいにからもがきするようなやくざ馬のひとつである。しかも百姓はこっぴどく、ときには鼻づらや目の上までむちでなぐりつける。彼はそれを見ると、かわいそうでかわいそうでたまらず、危うく泣きだしそうになるので、いつも母親が窓のそばから引きはなすのであった。と、ふいにあたりがむやみに騒々しくなって、赤や青のシャツの上へ百姓|外套《がいとう》をひっかけ、ぐでんぐでんに酔いつぶれた大きな百姓が、酒場の中からわめいたり、うたったり、バラライカを鳴らしたりしながら、どやどやと出て来た。「さあ、乗れ、みんな乗れえ!」と、首の太くたくましい、にんじんのように赤い、肉づきのいい顔をした、まだ若い男がこう叫んだ。「みんな連れてってやらあ、乗れえ!」けれど、すぐさま高笑いと叫び声が響きわたった。
「そんなやせ馬で、引いていけるかい!」
「おい、ミコールカ、おめえぜんたい正気か? そんなやせ馬に、こうしたでっけえ車つけてよ!」。「おい、皆の衆、このあし毛のやつあ、もうきっと二十《はたち》からになるぞ!」
「さあ、乗れえ、みんな連れてってやらあ!」とミコールカはまっさきに馬車へ飛び乗りながら、またもやこう叫ぶと、手綱を取って、背|丈《たけ》がいっぱいに御者台の上へすっくと立った。「くり毛のやつあ、さっきマトヴェイと出かけただ」と彼は馬車の中からいった。「ところが、このめす馬ときたら、ひとに業《ごう》を煮やさせるきりだあ。ほんに打ち殺してやりてえくれえだよ、このごくつぶしめ。さあ、乗れっていうに! うんと飛ばしてくれるべえ! 飛ばしてみせるだよ!」
 彼は、あし毛をひっぱたくのを楽しむように、むちを手にとった。
「乗ったらいいでねえか、どうしただ!」と群衆のなかで大ぜいの高笑いがおこった。「聞いたかい、飛ばしてみせるだとよ!」
「あの馬はもう十年このかた、飛んだこたあねえだ」
「飛ばしてみせるだあ!」
「かまうこたあねえ、皆の衆、みんなむちを持って、支度しなせえ!」
「そうだそうだ! ひっぱたいてやれ!」
 みんな大声に笑ったり、しゃれをいったりしながら、ミコールカの馬車へ乗った。六人ばかり乗り込んだが、まだすわる余地があった。一行はふとった赤ら顔の女をひとりつれこんだ。女は紅もめんの服を着て、ビーズで飾りたてた冠のように高いキーチカ(帽子)をかぶり、足には長ぐつをはいて、くるみ[#「くるみ」に傍点]をかりかりいわせながら笑っている。まわりの群衆も同じように笑っていた。じっさい、このみじめな馬が、これだけの重荷をひいいて走ろうというものだもの、どうして笑わずにいられよう! 馬車の中ではふたりの若者が、ミコールカに手を貸そうと、てんでにむちを取り上げた。
「そうれ」という声が聞こえると、やせ馬は力かぎりぐんぐん引き出したが、飛ぶどころのだんでなく、なみ足で進むのさえおぼつかなく、ただ足を細かく交互に動かすばかりで、豆粒のように背中へ浴びせられる三本のむちに、うめきながらひざをつきそうになる。馬車の中と、群衆の間の笑い声は、前にも倍して高くなった。ミコールカはむかっ腹を立てて、ほんとうに馬が駆け出すものと信じているように、いよいよしげく勢いするどくめす馬を打ちすえた。
「皆の衆、おれも乗せてくれろ」ひとりの若者が食指をうごかしたふうで、群衆の中からそう叫んだ。
「乗るがええ! みんな乗るがええ!」とミコールカはわめく。「みんな連れてってやらあ。うんとひっぱたいてやるべえ!」
 こう言いながら、びしびしと打ちつづけるうちに、しまいには夢中になって前後を忘れ、このうえ何で打ってやったらいいか、わからないようなふうだった。
「お父さん、お父さん!」とラスコーリニコフは、父を呼んだ。「お父さん、あの人たちは何してんの! お父さん、かわいそうな馬をぶってるよ!」
「行こう、行こう!」と父はいった。「酔っぱらいどもが悪ふざけしてるんだよ。ばかなやつらだ。さあ行こうよ、見るのをおよし!」と父は言いながら、彼を連れて行こうとした。けれども、彼は父の手を振りはらい、われを忘れて馬のほうへ走り寄った。しかし、哀れな馬はもうすっかり弱りはてていた。
 馬はあえいで立ちどまり、またひとしゃくりしたと思うと、危うく倒れそうになった。「死ぬまでぶちのめせ!」とミコールカはいきりたった。「もうこうなりゃしかたがねえ。思いきりたたきのめしてやるべえ!」
「いったい、おめえは十字架もってねえだか、この悪党め!」と群衆の中からひとりの老人が叫んだ。
「こねえな馬に、こねえした重い荷ひかせるなんて、見たことも聞いたこともねえだよ」ともうひとりがいいたした。
「いじめ殺しちまうだ!」とさらにひとりがどなる。
「ぐずぐずいうでねえ! おらのもんだから、おらの好きなようにするだあ! もっと乗らねえか! みんな乗らっせえ! おらあどうしても飛ばさねえば承知なんねえ!」
 ふいにどっとくずれるような笑い声がおこって、すべてをおおいつくした――めす馬ははげしい続け打ちにたえ得ず、力なげに後ろ足でけり始めた。老人さえもたまりかねて、にたりと笑った。じっさい、このみじめなめす馬が、まだ生意気にけろうとしているのだ!
 群衆の中からまたふたりの若者が、両わきから馬をひっぱたこうと、めいめいむちを手にして駆けよった。ふたりはそれぞれ左右から走って行った。
「鼻っつらをひっぱたけ、目のうえを、目んとこをくらわすだ!」ミコールカは叫んだ。
「歌をやれや、皆の衆!」とだれかが馬車の上から叫んだ。すると車の中の連中が、声をそろえてうたいだした。猥雑《わいざつ》な歌が響きわたって、手大鼓がじゃらじゃらと鳴り、はやし拍子には口笛がはいった。例の女はくるみをかみ割りながら笑っている。
 ……ラスコーリニコフは馬のわきを走って行った。彼は前のほうへかけぬけて、馬が目を、目の真上を打たれるのを見た! 彼は泣いた。心臓の鼓動は高まり、涙が流れた。ひとりの振ったむちが彼の顔をかすめたが、それでも彼は感じない。彼は手をもみしだいて叫びながら、頭を振り振りこの出来事にたいする非難の意を表わしているひげの白い白髪の老人にすがりついた。ひとりの女房が彼の手をつかんで、連れて行こうとした。けれども彼はそれを振り放して、ふたたび馬のほうへ走りよった。馬はもう息もたえだえになっていたが、それでももう一度足でけり始めた。
「ええ、こん畜生、こうしてくれる!」とミコールカは猛然としてどなった。彼はむちを投げ捨てて腰をかがめると、馬車の底から大きな太いながえを取り出し、両手にその端を握って、力いっぱいあし毛に振り上げた。
「やっつけちまうぞ!」という叫び声がまわりにおこった。
「殺してしまうだ!」
「おらのもんだあ!」とミコールカは叫んで力まかせにながえを打ちおろした。重々しい打撃の音がひびいた。
「ひっぱたけ、ひっぱたけ! なにぼんやりしてるだ!」と群衆の中からこういう声々がひびいた。
 ミコールカは、二度目にながえを振り上げた。と、第二の打撃が、不運なやせ馬の背にあたった。馬はぺったりしりを落としたが、またはね上がり、車を引き出そうと最後の力をふるいながら、ぐんぐんしゃくるように四方へはねた。しかし、どちらへ向いても、六本のむちが待ちかまえている。それにながえがまた振り上げられて、三度目の打撃がおりてくる。やがて四度目五度目と規則ただしく、力まかせにくりかえされる。ミコールカは一撃のもとに殺せなかったので、気ちがいのようになった。
「なかなか粘り強えぞ!」とまわりでわめきたてた。
「なに、もうすぐぶっ倒れちまうにちげえねえ。もうやがておしめえだよ、皆の衆!」と群衆の中からひとりのやじ馬がいった。
「いっそ、おのでやったらどうだべ、え! ひと思いにかたづけちまえや」とさらにひとりが叫んだ。
「ええっ、うるせえ! どけろ!」とミコールカは狂暴な調子でわめいてながえを捨て、またもや馬車の中へかがみこむと、こんどは鉄《かな》てこを引き出した。「あぶねえぞ!」と叫びざま、彼は力かぎりに鉄てこを振りかぶって、哀れな馬に打ちおろした。どすんと音をたてて当った。馬はよろめいて、腰を落とし、またひとはねしようとしたが、鉄てこがさらに力いっぱい背をどやしつけたので、馬は四本の足を一度になぎ払われたように、どっと地べたへ倒れた。
「息の根を止めろ!」とミコールカは叫びながら、無我夢中で馬車から飛びおりた。同じように酔っぱらって、まっ赤になった幾人かの若い者も、むち、棒、ながえ、と手当りしだいのものをつかんで、息もたえだえのめす馬のそばへかけよった。ミコールカはわきのほうに位置を定め、鉄てこで馬の背中をめったうちに打ち始めた。やせ馬は鼻づらをさしのべて、苦しげに息をついて、死んでしまった。
「とうとうやっつけやがった!」という叫びが群衆の中で聞こえた。
「だって駆け出さなかっただもん!」
「おらのもんだあ!」とミコールカは、手に鉄てこを持ったまま、血走った目つきでどなった。そして、もう何も打つもののないのが残り惜しそうに、突っ立っていた。
「ほんとにおめえは十字架もってねえだな!」と、もうだいぶ大ぜいの声々が群衆の中から叫んだ。
 けれど哀れな少年は、すでにわれを忘れてしまった。彼は叫び声をあげながら、群衆をかきわけてあし毛のそばへより、息の通わぬ血まみれの鼻づらをかかえながら、その目やくちびるに接吻《せっぷん》した……と、ふいにがばとはね起きざま、われを忘れて小さなこぶしを固め、ミコールカにとびかかった。その瞬間、さっきから彼のあとを追っていた父親が、やっとのことでひっつかまえ、群衆の中から連れ出した。
「行こう、行こう!」と父はいった。「おうちへ帰ろうよ!」
「お父さん! なんだってあいつら……かわいそうな馬を……殺しちゃったの!」と彼はしゃくりあげたが、息がつまって、言葉はおしせばめられた胸の中から、ただ叫びとなってほとばしり出るのであった。
「酔っぱらいが……わるふざけしてるんだよ……坊やの知ったことじゃない。行こう、行こう!」と父はいう。彼は両手で父に抱きついたが、胸が苦しくて苦しくてたまらない。息をついて、叫ぼうとすると――目がさめた。
 彼は全身汗ぐっしょりになって、目をさました。髪は汗でじっとりぬれ、はあはあ息ぎれがした。彼はぞっとして身を起こした。
「いいあんばいに、夢だった!」と彼は木の下に起き直り、深く息をつきながらひとりごちた。
「だが、これはいったいどうしたんだろう! もしや、熱病でも始まってるんじゃないかな――こんないやな夢を見るなんて!」
 彼は全身うち砕かれたような気がした。心のなかは混沌《こんとん》として暗黒だった。彼はひざの上へひじをついて、両手に頭をのせた。
「ああ」と彼は叫んだ。「いったい、いったいおれはほんとうにおのをふるって、人の脳天をたたき割るつもりなんだろうか、あれ[#「あれ」に傍点]の頭蓋骨を粉々にするつもりなんだろうか……ねばねばする暖い血の中をすべりながら、錠前をこわして、盗みをするんだろうか? そしてぶるぶるふるえながら、全身血まみれのからだをかくすんだろうか……おのを持って……ああ、ほんとうにそんなことをするんだろうか!」
 彼はそうつぶやきながら、木の葉のように身をふるわした。
「いったいおれはまあどうしたというんだろう!」と彼はまた身を起こしながら、深い驚愕《きょうがく》に襲われたもののように、言葉をつづけた。「あれがおれに持ちきれないのは、ちゃんとわかっていたじゃないか。それだのに、いったいなんのためにおれは今まで、自分を苦しめていたんだろう! げんについ昨日も、昨日も、あの……瀬踏み[#「瀬踏み」に傍点]に出かけたとき、とてももちきれないということを、はっきりと合点したんじゃないか……それだのに、おれは今なにをしてるんだ、なにを今まで疑ってたんだ! げんにきのう階段をおりながら、おれは自分にそういったじゃないか――これは卑劣なことだ、いまわしいことだ、卑しいことだ、といったじゃないか……ただそのこと[#「こと」に傍点]を正気で考えただけでも、おれは胸がわるくなり、ぞっとするのじゃないか……」
「いや、おれにはもちきれない、とてももちきれない! たとい、よしたとい、この計算になんの疑惑がないとしても――この一か月間に決めたいっさいのことが、昼間のように明瞭《めいりょう》であり、算術のように正確だとしても、ああ! しょせんおれは決行できやしない! おれにはもちきれない、とうていもちきれない……それだのになんだって、いったいなんだって今まで……」
 彼は立ちあがって、きょろきょろとあたりを見まわした。それはこんなところへ来たことを、驚いたようなふうでもあった。やがて彼はT橋のほうへ歩きだした。その顔は青ざめ、両眼は燃え、四肢《しし》はぐったりしていた。けれど、急に呼吸が楽になったような気がした。これまであの長い間、自分を圧していた恐ろしい重荷を、もうさっぱり捨ててしまったように感じて、心は急にかるがると穏やかになった。『神さま!』と彼は祈った。『どうかわたくしに自分の行くべき道を示してください。わたくしはこののろわしい……妄想《もうそう》を振りすててしまいます!』
 橋を渡りながら、彼は静かに落ちついた気持ちでネヴァ河をながめ、あざやかな赤い太陽の沈み行くさまをながめた。からだが衰弱しているにもかかわらず、なんの疲労も感じなかった。それは心臓の中で一か月も化膿《かのう》していた腫物が、急につぶれたような思いだった。自由、自由! いまこそ彼はああした魅《まよわ》しから、魔法から、妖力《ようりき》から、悪魔の誘惑から解放されたのである。
 後になって、彼がこの時のこと――この二、三日の間に彼の身辺に起こったいっさいのことを、一分一分、一点一点、一画一画と細大もらさず想起したとき、ある一つの事情が、ほとんど迷信にちかいくらい、彼の心を震撼《しんかん》するのであった。もっとも、それはじっさいのところ、異常なことでもなんでもないのだけれど、後になって、いつも何か運命の予定のように感じられるのであった。
 ほかでもない――彼はへとへとに疲れきっていたので、最も近いまっすぐな道筋をとって帰るのが、いちばん得策だったにもかかわらず、なんのために、遠まわりのセンナヤ広場を通って帰ったのか、われながらどうしても合点がいかず、説明がつきかねるのであった。まわり道は大したものではなかったが、しかし、それはあまりにも明瞭《めいりょう》で、かつぜんぜん不必要なことであった。むろん、彼が通った町筋を覚えないで、わが家へ帰って来ることは、これまでにも何十ぺんかあった。しかし彼は後になって、いつも自問するのであった――どうしてあんなに重大な、彼の全運命を決するような、と同時にごくごく偶然的なセンナヤ(しかも行くべき用もなかった)における遭遇《そうぐう》が、ちょうどおりもおり彼の生涯のこういう時、こういう瞬間に、そのうえ、とくに彼の気分がああした状態になっていたときに、ことさらやって来たのだろう? しかも、その時の状況は、この遭遇が彼の運命に断固《だんこ》たる、絶対的な影響をおよぼすのに、唯一無二ともいうべき場合だったではないか? それはまるでこの遭遇が、ここでことさら待ち伏せていたようである!
 彼がセンナヤを通りかかったのは、かれこれ九時ごろだった。テーブルや、丸盆や、屋台や、小店などで商売している商人たちは、それぞれ自分の職場をしめたり、商品をまとめてかたづけたり、買い手と同じように家々へ散って行ったりしている。地下室に巣くう小料理屋の付近、センナヤ広場の家々の悪《わる》ぐさいきたならしい裏庭、ことに酒場の近くには、ありとあらゆる職人やぼろ服の連中が、大ぜいうようよぞろぞろしていた。ラスコーリニコフはあてなしに町へ出るときには、どこよりも一ばんこの界隈《かいわい》と、付近一帯の横町をさまようのが好きだった。そこでは彼のぼろも、だれにじろじろ高慢ちきな目で見られることもなく、だれのおもわくもはばからず、勝手な服装《なり》をして歩けたからである。K横町のとっ