京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P334-345   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦20日目]

か、人間の同胞的団結とかいう思想が、だんだん世の中に湮滅していって、今ではほとんど冷笑をもって迎えられるようにさえなった。実際、みずから案出した無数の欲望を満足させることにのみ馴れた囚われたる人間が、どうして自分の習慣から離れることができよう、そうして、どこへ行くことができよう? 孤独の中に閉じ籠った人間にとって、一体としての人類などということに何の用があり得ようぞ。かくして、ついに物質を蓄えると同時に喜悦を失う、という結果に到達したのである。
 僧侶の歩む道は、これとまったく異っている。人々は服従や精進や、進んでは祈祷さえ冷笑するが、しかしこれらのものの中にのみ、真の自由に到る道が蔵されているのである。われらは、無用の欲望を切りはなし、自尊心の強い倨傲な意志を服従によって鞭うち柔らげ、神の助けを借りて精神の自由と、それにつれて、内心の愉悦を獲得するのである! 両者のうち、はたしていずれが偉大なる理想を高揚し、毅然としてこれに仕える資質を、多分に有しているであろう、――孤独の中に籠居する富者か、または、この物質と習慣の暴力より遁れた[#「遁れた」に傍点]人であろうか? 僧侶はしばしば孤独のために非難せられる。『貴様は自分一人を救うために、僧院の壁の中に蟄居して、人類に対する同胞的奉仕を忘れたではないか。』とはいえ、はたして誰が同胞相愛により多く努力しているか、それは少したったらわかることである。なぜなれば、孤独の中に籠居するのはわれらでなくして、かえって彼ら自身であるのに気がつかぬからである。
 われら僧侶の中からは昔より、人民のために活動した人が多く出ている。今とても、そういう人がないはずはない。同じように謙虚、温順なる禁欲と沈黙の行者が、奮然と起って偉大なる事業に赴くであろう。ロシヤの救いは民衆にある。しかるに、ロシヤの僧院は昔から民衆の道づれであった。もし民衆が孤独の中に籠れば、われらもまた孤独の中に籠るであろう。民衆はわれわれと同じように信じているが、ロシヤにおける信仰なき事業家は、たとえ熱情ある心と、天才のごとき智能を有するとも、何らなすことなくして終るのである。これは記憶すべきことである。やがて、民衆が無神論者を迎えてこれを征服し、一体として結合せる正教のロシヤが出現する時が来るであろう。われらはすべからく民衆を守り、民衆の心を秘蔵せねばならぬ。静寂の中に守り立てねばならぬ。これが諸師の志すべき僧侶としての功業である。なぜならば、彼らは神を孕める民衆だからである。

    (F) 主従について 主従は精神上相互に兄弟たり得るか

 しかし、悲しいことには、世間の言うとおり、民衆にも罪がある。腐敗の焔は目に見えて刻々勢いを増してゆく、これはすべて上層から移って来たのである。民衆の中にも孤独のふうが始まった。富農《クラーク》や百姓泣かせの連中がぽつぽつ頭を持ちあげだした。今は商人すらだんだん尊敬を求めるようになって、少しも教育のないくせに、教養ある紳士を気どろうとする。そうして、いまわしくも、これがために、古くからの風習をないがしろにし、祖先の信仰すら恥じるようになった。彼らは公爵家などへ出入りするけれども、要するに、そこなわれたる百姓にすぎぬのである。民衆は、飲酒のために糜爛していながら、しかもそれを捨てることができない。そして、家族の者に対し、――妻や子供に対して、残酷な所行が多くなってゆく。それもこれも、すべて酒のためである。
 余は工場で十くらいの子供をよく見受けた。みんな痩せひょろけてよわよわしく、背中を曲げている。しかも、すでに放逸の味を知っているではないか。息苦しい建物、かしましく響く機械、終日の労働、猥雑な言葉、そうして酒また酒、――ああ、このようなものが幼い子供の魂に入り用であろうか? いな、彼らに必要なのは太陽である、無邪気な遊戯である。何でもよい、輝かしい手本は到るところに見いだされる。とにかく。たとい一滴たりとも、彼らに愛情を寄せるものがなくてはならぬ。敬愛すべき諸師よ、こういうことのないように、こうした小児に対する残虐の跡を絶つように、一刻も早く奮起して道を説かねばならぬ。しかし、神はロシヤを救って下さるであろう。なぜなれば、いかに民衆が堕落して、悪臭芬々たる罪業を脱することができぬとしても、彼らは神が自分の罪業を呪っておられる、自分はよからぬ行いをしている、ということも承知しているからである。わが国の民衆はまだまだ一生懸命に真理を信じている。神を認めて感激の涙を流している。
 ところが、上流社会の人は全然それと趣きを異にしている。彼らは科学に追従して、おのれの知恵のみをもって正しい社会組織を実現せんとしている。もはや以前のごとくキリストの力を借ろうとせず、もはや犯罪もない罪業もないと高言している。もっとも、彼らの考え方をもってすれば、それはまったくそのとおりである。なぜなれば、神がない以上、もう犯罪などのあろう道理がない! 西欧の民衆は暴力をもって資本階級に反抗している。そして、その領袖は到るところ彼らを血へ導きながら、『お前たちの憤慨はもっともだ』と教えている。しかし、彼らの憤慨は残酷なるがゆえに、呪うべきものである。これに反して、ロシヤはこれまでしばしば経験したように、神の救いを受けるに相違ない。救いは民衆からも出て来る、民衆の信仰と謙譲からも出て来る。諸師よ、民衆の信仰を守護するのが肝要である。これは決して空想ではない。余は一生の間、わが偉大なる民衆の蔵している真実にして光輝ある稟性に、感嘆の情を禁じ得なかった。余は自分で見たから、これを証明することができる。真実、見て驚嘆したのである。わが民衆の悪臭芬々たる罪業や、乞食にひとしい境遇にもかかわらず、余の確かに認めたところである。
 彼らは決して卑屈でない、しかも、これが二百年の隷属時代をへた後である。また彼らは外形においても応対においても自由である。しかも、その中には何らの侮辱感もふくまれていない。その上、復讐や羨望の念がいささかもない。『お前さんはえらいお方だ、お前さんには金がある、知恵がある、才能がある、――いや、結構なことだ、神様が祝福して下さるであろう。わたしはお前さんを尊敬する。が、わたしは自分も人間だということを承知している。それゆえ、わたしは羨むことなくお前さんを尊敬して、それによって、自分の人間としての品格をお前さんに見せているのだ。』よし本当にこう言わないとしても(実際、彼らはまだこう言う力がない)、こういうふうに自分で行動している。余は親しくこれを実見した、余は親しく経験した。諸師は信じられるかどうかわからぬが、わがロシヤの民は貧賎の度がはなはだしければはなはだしいだけ、それだけこの偉大なる真理をよけいに蔵しているのである。なぜなれば、彼らのうちでも金のある富農《クラーク》や百姓泣かせの連中は、すでに大多数堕落しているからである。これは主として、われわれの不注意、不行届きから起ったことである!
 しかし、神は自分の赤子《せきし》を救って下さるに相違ない、なぜならば、ロシヤの偉大はその謙抑に存するからである。余は空想の中にわが国の未来を見る。いや、もう現に明らかに見えるような思いがする。すなわち、最も堕落せる富者さえも、ついにはおのれの富を恥ずるようになる。すると、貧者はこのへりくだった態度を見て、その心持を理解して彼に譲歩し、悦びと愛をもってその美しき羞恥に答えるであろう。まさしくかような結果を見るに相違ない。大勢はこの方向をさして動いている。平等というものは、ただ人間の精神的資質の中に存在するのみであって、これを理解するのはわがロシヤばかりである。はじめ兄弟があれば、そのうちにやがて四海同胞も実現される。四海同胞の実現されるまでは、人々はとうてい円満にすべてのものを頒ち合うことができない。キリストの姿を保存しておけば、やがて貴いダイヤモンドのように全世界に輝き渡るであろう……アーメン、アーメン!
 諸師よ、余はかつて感動すべき事件に遭遇した。諸国を遍歴している頃、あるとき県庁所在地のK町で、もとの従卒アファナーシイに出会ったのである。その時は一別以来すでに八年たっていた。彼は市場でふと余を見つけて走り寄り、夢中になって悦んで余に飛びかかった。『これはまあ、旦那さまではありませんか? 本当に旦那にお目にかかれたのでありましょうか?」と言って、余を自分の家へ引っ張って行った。彼はもう予備役で、結婚して、幼い子供を二人まで儲けていた。要とふたり市場でささやかな露店商をし、口すぎしているのであった。部屋の中は貧しいけれど、さっぱりして、悦びに充ちていた。彼は余を席に着かしてサモワールを出したり、妻を呼びにやったりして、まるで余が姿を現わしたために、何か祭りでも始まったような工合であった。彼は子供らを余のそばへ連れて来て、
『旦那さま、どうぞ祝福してやって下さいまし。』
『わしに祝福などできるものか?』と余は答えた。『わしはつまらぬ一介の僧だから、その子供たちのことを、神様にお祈りしてあげよう。ところで、アファナーシイ、わしはあの日から毎日お前のことを神様に祈っておる。なぜと言って、一切の起りはお前なのだから。』余はできるだけよくわかるように、あの事件を説明して聞かせた。ところが、どうだろう、彼はじっと余の顔を見つめていた。もと彼のために主人であり、将校であった人が、今このような姿をして、このような着物をきているわけが、どうしても合点ゆかなかったのである。彼はついに泣きだした。
『お前はどうして泣くのだ。ああ、お前はわしにとって忘れがたい人だ。さあ、どうかわしのために悦んでくれ、わしの行手は悦ばしい光に充ちておるのだから』と余は言った。彼はあまり口数をきかなかったが、絶えず感嘆の声を放ちながら、さも有難そうに頷いて見せるのであった。
『一たいあなたさまの財産は、どこへおやりになったのでございます?』と彼は訊いた。
『お寺へ納めてしまった。われわれは共同生活をしているのだからな』
 茶を飲み終って、余は一同に別れを告げた。そのとき彼はお寺へ寄進するのだと言って、急に五十コペイカの金を余にさし出し、またその上に、もう一つの五十コペイカ銀貨を余の手に握らした。そして、慌てたような調子で。
『これはあなたさまに、諸国遍歴の旅人としてさしあげます。また何かのお役に立たぬともかぎりません。』余はその銀貨を受け取ると、夫婦のものに一礼して、悦ばしい気持で外へ出た。そして、道々こんなことを考えた。
『きっと今頃は二人とも(あれは自分の家に坐っているし、わたしはまた道を歩きながら)、神様の不思議なお引き合せを考えて、楽しい心持で首を振りながら、にこにこ笑ったり、溜息をついたりしていることだろう。』
 それから、余は一度もこの男に会ったことがない。余はこの男のために主であり、この男は余にとって従であるけれど、二人が胸に感激をいだきながら愛情をこめて接吻した時、二人の間には偉大な人間同士の結合が実現されたのである。余はこのことをいろいろと思いめぐらしたが、今では次のような考えをいだいている。『この偉大にして醇朴なる結合が、やがて到るところ、わがロシヤ人の間に実現せられるという想像は、はたして人間の知恵のおよばないことであろうか? いやいや、余は実現されることを信じている。しかもその時は近づいている。』
 ここで余は下僕《しもべ》について、こうつけ加えようと思う。余はかつて少年のころ召使に対して、しばしば腹を立てたものである。それは、女中が熱いものを食べさしたとか、従卒が服にブラシをかけなかったとか、いうような理由である。しかし、幼いころ小耳に挾んだ愛兄の思想が、そのとき突然、余の心を照らした。『一たいおれは他人を自分に奉仕させたり、貧しくて教育がないからといって、他人をこき使ったりする値うちがあるのかしらん?』そのとき余はこれほど簡単明瞭な考えが、脳裡へ浮び出ることのあまりに遅かったのに、自分ながら驚いたほどである。俗世においては下僕なしで過すことはできないが、しかし自分の家の召使に、彼らが召使でなかった時より以上に自由の精神を持たせるようにするがよい。召使のために召使となって、召使自身にもこのことを心づかせ、主人側よりは何らの不遜もなく、召使側よりは何らの不信もないようにすることが、どうして不可能なのであろう? 召使を親類同様に考えて、悦んで家族の中へ入れるのが、どうして不可能なのであろう? これは今でも実行し得べきことであって、なおその上に、未来の壮麗なる結合の基ともなるものである。その時は人間も今日のように自分の下僕を捜したり、自分と同じ人間を下僕《しもべ》にしようと望んだりせず、かえって福音書の教えにしたがって、一生懸命に自分からすべての人の下僕になろうと努力するであろう。そうして、最後に、人間は今日のごとく残酷な快楽、――貪婪と、淫欲と、傲慢と、自尊と、羨望に充ちた競争などでなく、光明と慈善の功業の中にのみ悦びを見いだすようになる。これははたして空想であろうか? いな、余は確かに空想でない、時はすでに近きにありと信ずる。人は『いつその時が来るのですか、そして、ほんとうに来るらしい様子がありますか?』と笑いながら訊ねる。しかし、余らはキリストとともにこの偉業を成就するものと考えている。実際、この地上には、人類の歴史の中には、僅か十年ばかり前までとうてい不可能とされていた理想が、神秘なる時機の到来とともに、突如かしらを持ちあげて、全地球上を席巻したためしは無数にあるではないか。
 わが国においてもそれと同様に、民衆が全世界に向ってその輝きを示し、世界の人をして『建築師の不用となしたる石も、今や重要なる一隅の礎石となれり』と嘆ぜしめるに相違ない。余は嘲笑者に向って逆にこう質問したい。『もしわれわれの考えが空想であるとすれば、あなた方がキリストの力を借らずに、自分の知力一つで建てようとしておいでになる建築は、一たいいつ落成するのでしょうか? いつ公平な社会を組織なさるのでしょうか?』もし彼らが、それはまるで違っている、自分たちこそ、かえって人類の結合を目ざして進んでいるのだ、などと断言するならば、これを心底から信ずるのは、仲間の中でも最も頭の単純な人たちばかりであろう。余はただその単純さに一驚を喫するのみである。実際、空想的分子はわれらよりも彼らのほうに多いのである! 彼らは公平な社会を組織するつもりでいるが、キリストを否定したために、全世界へ血を流すような結果を見るに相違ない。なぜなれば、血は血を呼ぶからである、剣を抜いたものは剣で斃れるからである。
 こういうわけで、もしキリストの誓いがなかったら、人間は互いに仲間同士滅ぼしあって、地上に最後の二人しか残らなくなるであろう。この二人さえも傲慢な性情のために互いに助けあうことができず、最後の一人が相手のものを滅ぼして、ついには自分自身をも滅ぼさなければやまないであろう。もし『このことは謙虚、温順なるもののために容易となるべし』というキリストの誓いがなかったら、事実そのとおりになったかもしれない。余は例の決闘後まだ軍服を着けていた時分に、社交界でこの下僕《しもべ》のことを説き始めた。すると、今でも覚えているが、みな余の言葉にびっくりして、『じゃ、何ですか、わたしたちは下男を長椅子に坐らして、自分でお茶を持って行ってやらなくちゃならないんですか?』と言った。その時、余はこれに答えて、『そうしたっていいじゃありませんか、ほんのときどきでもね。』しかし、当時みなは一笑に付してしまった。彼らの問いも軽薄なものであったし、余の答えもすこぶる曖昧ではあったが、その中にも、そこばくの真理があると思う。

    (G) 祈祷 愛 他界との接触

 若者よ、決して祈禱を忘れてはならぬ。お前の祈りのたびごとに(もしその祈りが真心より出たものならば)、新しい感情がひらめくであろう。その感情の中に、これまで知らなかった新しい思想が生れてきて、なんじに力を賦与するであろう。こうしてお前は、祈躊が教育であることを悟るに相違ない。もう一つ覚えておかねばならぬことがある。ほかでもない、毎日、暇のあるたびに、『神よ、今日みくらの前に召されたる人々を憫みたまえ』と心の中で念ずるのだ。なぜというに、毎時毎時、いや、一刻一刻、数千の人が地上の生活を捨てて、その霊魂が神の大前へ召されて行く、――彼らの中の多数は、悲哀と憂悶の中に淋しく人知れずこの土と別れて行くのである。しかも、誰ひとりとしてそれを憫れむものもなく、そのような人が生きていたかどうか、それすら知っているものもない。その時、こういう人の後生を弔うお前の祈りが、地球のまるで反対の側《がわ》から神のみくらをさして昇って行く。お前とその人が互いに知りあっておらぬとしても、何の障りもないことである。恐怖をいだいて神の大前に立った人の霊魂は、自分のようなもののためにも祈ってくれる大がある、自分のようなものをも愛してくれる大が地上のどこかに残っていると思っただけで、その瞬間に感激の情を覚えるであろう。それに神様もお前たち二人をなお一そう、慈悲ぶかい目をもって眺めて下さるに相違ない。実際、お前でさえそれほど憫れみを持っているのだから、お前よりも無限に慈悲ぶかくお優しい神様が、なおさら憫れんで下さるのは当然ではないか。神様はお前のためにその人をも赦して下さるに相違ない。
 諸師よ、人間の罪を恐れてはならぬ。罪あるままの人間を愛すべきである。なぜなれば、これはすでに神の愛に近いもので、地上における愛の頂上だからである。あらゆる神の創造物を、全体としても部分としても、一様に愛さればならぬ。一枚の木の葉、一条の日光をも愛さねばならぬ。動物を愛し、植物を愛し、あらゆる事物を愛すべきである。あらゆる事物を愛すれば、やがてそれらの事物の中に神の秘密を発見するであろう。一たびこれを発見すれば、もはやその後は毎日毎日、次第次第に、いよいよ深く味わってゆくのみである。こうして、ついには円満無碍の宇宙的な愛をもって、全世界を愛し得るようになる。人はまた動物を愛さねばならぬ。彼らは神より思想の源と、平穏なる喜悦とを授かっているからである。彼らを苦しめ悩まし、彼らより喜悦を奪いなどして、神のみ心に逆ってはならぬ。人間は動物の上に立って君臨すべきものでない。なぜなれば、彼らが無垢の身であるに反して、人間は偉大なる資質を行していながら、おのれの出現によってこの土を腐敗させ、その腐爛した足跡を残してゆくからである、――しかも、悲しいかな、われわれは千人が千人ことごとくそうなのである! 子供はとくに愛さればならぬ。それは、彼らが天使のごとく無邪気で、われらの心の歓びと浄めのために生き、なおその上に、われらに対する指標ともなるからである。子供を辱しめるものは禍いである。元来、余はアンフイーム師に子供を愛することを教えられた、師は無口な優しい人であるが、余と同行《どうぎょう》遍歴の際も、恵まれた銅貨で薑 餅《しょうがもち》や氷砂糖を買って、よく子供らに分けてやったものである。師は子供らの傍らを通り過ぎる時、心の顫えを感じずにいられない人である。
 われらはある種の思念に対してしばしば疑惑を感ずる。他人の罪を見た時はことにそうである。『この人は力をもって捕えるべきか、それとも謙抑な愛をもって虜にすべきであろうか?』と自問する。しかし、いつでも、『謙抑な愛をもって虜にしよう』と決めなければならぬ。一たんこう決心して、生涯変ることがなければ、全世界をも征服することができる。愛を伴なう謙抑は恐ろしい力である。あらゆる力の中でも最も強いもので、他にその比がないくらいである。毎日、毎時、毎刻、自分の周囲をめぐって、自分の心の姿が常に美しくあるように気をつけねばならぬ。例えば、幼い子供の傍らを通り過ぎる時、憎々しそうな様子をして、口汚い言葉を放ち、腹立たしい心をいだいていたら、たとえ自分のほうでは子供に気がつかねとしても、子供はちゃんと見てとるに相違ない。そうして、その醜い穢れた姿が頼りない子供の胸に、いつまでも彫りつけられるかもしれない。つまり、自分のほうでは気もつかぬ間に、子供の心に悪い種を投げたことになる。そうして、その種が次第に大きくなってゆくのである。それというのも、子供の前で慎しみを忘れたからである。用心ぶかい実行的な愛を自己の中につちかわなかったからである。
 諸師よ、愛は教師である。しかし、これを獲得する方法を講じなければならぬ。なぜなれば、愛の獲得はきわめて困難であって、高い価を払い、長い間の努力をもって、ようやく購われるものだからである。実際、愛は瞬間的のものでなく、長いあいだ持続するものでなければならぬ。偶然的な愛し方は誰にでもできる。悪人にでもできる。余の若い兄は小鳥に赦しを乞うた。これはぜんぜん無意味なようであるが、しかし実際は正しいことなのである。なぜというに、一切は大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触しているがゆえに、一端に触れれば他の一端に、世界の果てまでも反響するからである。よしや小鳥に赦しを乞うのが気ちがいじみているとしても、もし人が現在のままよりほんの少しばかりでも美しくなったら、小鳥や子供やその他すべての動物は、それだけ心持が軽くなるに相違ない。繰り返して言うが、一切は大海のようなものである。もしこれを悟ったなら、人は宇宙的な愛の悩みを感じながら、――何ともいえぬ歓喜の情をいだきながら、小鳥に向って祈禱するようになるであろう。小鳥に向って自分の罪を赦してくれと、祈るようになるであろう。たとえほかの人の目にはいかに無意味に見えようとも、この歓喜の情を尊重しなければならぬ。
 諸師よ、神に愉悦を乞わるるがよい。小児のごとく、また空飛ぶ鳥のごとく、心を楽しく持たるるがよい。自分の仕事におよぼす他人の悪にも、決して苦しめられてはならぬ。他人が自分の仕事を穢して、その完成を妨げようとも、決して恐れることはない。『悪が強い、不正が強い、穢れたる周囲が強い。それだのに、われわれは力弱く頼りないから、穢れたる周囲に侵されて、自分の事業を完成することができない』などと言ってはならぬ。こうした心弱さを避けなくてはならぬ! この場合、ただ一つの救いは、自分の体を捧げて、人間のあらゆる罪悪の責任者とすることである。それは真実そのとおりである。なぜと言うに、真心からおのれをあらゆる罪悪の責任者と感ずるやいなや、それはまったくそのとおりであるということを、ただちに会得するからである。自分は万人に対して罪があるということを悟るからである。しかるに、自己の怠惰と無気力を他人の罪に帰する人は、ついにサタンの倨傲に同化し、神に対して怨嗟をもらすようになる。余はサタンの倨傲ということを、次のように考えている。すなわち、この倨傲は地上において理解しがたいものであるから、油断するとたちまち迷誤におちいって、これと同化するような結果になりやすい。しかも、その中に一種偉大にして美的なものがふくまれている、とまで考えるものが多いのである。こういうふうに、人間本性の強烈な感情や運動の中にも、地上で理解のできないものが数多くあるから、この事実が何か自分の過失の言いわけになるなどと、迷った考えを起してはならぬ。永久の審判者たる神様は、人間が理解し得たことを審問せられるので、理解し得なかったことを裁かれるのではないのである。これは自分でもなるほどと会得するであろう。その時はすべてを正しく眺めるようになって、もはや言い争おうとしない忙相違ない。地上におけるわれわれは、事実、迷妄におちいっているかのように思われる。それゆえ、もし貴きキリストの姿がわれわれの目前になかったら、ちょうど大洪水前の人類のように、われわれは取り返しのつかぬ迷いに踏み込んで、ついには滅亡してしまったかもしれぬ。
 この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、その代りわれわれは他の世界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられている。それに、われわれの思想、感情の根元はこの圸になくして、他の世界に存するのである。哲学者が事物の本質をこの世で理解することは不可能だというのは、これがためである。神は種を他界より取ってこの地上に播き、おのれの園を作り上げられたのである。こうして、成長すべきものは成長し、成長したものは現に生活している。しかし、それは神秘なる他界との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部にあるこの感情が衰えるか、それともまったく滅びるかしたならば、その人の内部に成長したものも死滅する。その時は人生に対して冷淡な心持になり、はては人生を憎むようにさえなる。余はこのように考えている。

    (H) 人は同胞の審判者たり得るか? 最後までの信仰

 人間は何人の審判者となることもできない。これはとくに記憶すべきことである。なぜなれば、審判者が、『自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。いな、むしろこの人間の犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』と認めないかぎり、この地上に犯人の審判者というものは存在し得ないのである。この理を悟った時、初めて審判者となることができる。これは一見したところ、いかにも気ちがいじみた言葉ではあるが、動かすべからざる真理なのである。実際、自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかったかもしれない。もし人が彼の前に立って、彼の心のままに審判さるる犯人の罪を、みずから負うことができるならば、猶予なくそれを実行して、みずから犯人のために苦しみ、犯人は何らの譴責もなく赦してやるがよい。よし国法によって審判を命じられたのであろうとも、なお事情の許すかぎり、この精神をもって行動するがよい。こうすれば、犯人は法廷を去った後、他人の審判よりさらに苛烈に、自分で自身を裁くであろう。もし犯人が審判官の接吻に対して何らの感動をも覚えず、かえってこれを嘲笑しながら立ち去ろうとも、決して迷いを起してはならぬ。これはつまるところ、まだ彼の時が来ないのであって、来べき時には必ず来るにちがいない。また来ないとしても同じことである。もし彼が悟らなければ、その代りにほかの者が悟って苦しむであろう。そうして、自分で自分を責めるに相違ない。すると、真理は充されることになるのである。人はこれを信じなければならぬ、必ず信じなければならぬ。この中に古聖の希望も信仰も、ことごとく蔵せられているからである。
 たゆみなく働くがよい。よる眠りについた時、『自分はなすべきことをはたさなかった』と思いいたったなら、すぐさま起き出してそれをはたさればならぬ。また自分の周囲の人たちがことごとく意地わるい冷酷な人間であって、自分の言葉に耳を傾けてくれなかったら、彼らの前に倒れで赦しを乞うがよい。なぜなれば、自分の言葉に耳を傾けさせ得なかったのは、事実、自分に罪があるからである。もし相手が憤激したために説き諭すことができぬならば、無言のまま恥を忍んで彼らに奉仕するがよい。しかし、決して望みを失ってはならぬ。もしすべての人が自分を見捨てた上、無理無体に自分を追い払ったならば、その時はただ一人になって大地に倒れ、土のおもてに接吻して、涙で土をうるおすがよい。さすれば、土はその涙からみのりを与えてくれるであろう。よしやその淋しい自分の姿を、誰ひとり見聞きしなくとも、結果は同じである。最後まで信ぜよ。たとえ地上におけるすべての人が堕落して、信あるものは自分一人になってしまおうとも、残れる唯一人たる自分が贄を捧げて、神を讃美すればよいのである。もし、そのような人が二人めぐりあったなら、それでもはや全き世界が、――生ける愛の世界が出現したのであるから、感激の情をもって相抱擁し、神を讃美せねばならぬ。なぜなれば、僅か二人きりであるけれど、神の真理が実現されたからである。
 またかりに自分で罪を犯したとする、もしそれが数かさなるさまざまな罪にもせよ、心ならず犯したただ一つの罪にもせよ、死ぬまでもそのことを悔い悲しむような場合には、自分よりほかの人のことを思うて悦ぶがよい、ほかの正しい人のことを思うて悦ぶがよい、よし自分は罪を犯したにもせよ、その代り、ほかに正直な、罪を犯さぬ人がある、とこう思って悦ぶがよい。
 もし他人の悪行が、復讐の希望に達するほどのたえがたい憤りと、悲しみを感じさせるならば、こうした心持は何よりも恐れ避けねばならぬ。つまり、他人の悪行について自分自身か罪あるものと感じ、ただちに赴いてみずから苦痛を探し求むべきである。苦痛をわが肩に負うて、これを最後までたえ忍んだなら、その時は心の怒りもやわらいで、真実、自分に罪のあることを悟るであろう。なぜと言うに、穢れなき唯一人として、悪しきものの道を照らしてやることもできたのに、それを怠ったからである。もし、おのれの光をもって他人をも照らしてやったなら、悪行を犯したものもそれを犯さずにすんだかもしれぬ。また、自分は光を放っているのに、他人がその光によってなお救われないとしても、あくまで心を毅く持って、天の光の力を疑ってはならぬ。たとえいま救われないでも、またいつか救われる時が来ると信じなければならぬ。いつまでたっても救われなかったら、その者の子らが救われるであろう。なぜなれば、人は死んでも、その真理は滅びぬからである。正しき者はこの世を去っても、光は後まで残るからである。
 人が救われるのはいつも救い主の死後である。人間のやからは予言者をしりぞけ虐げようとするが、しかしまた人間はおのれの苦しめた殉教者を敬愛する。それゆえ、全体のために働けばよいのである。未来のために仕えればよいのである。しかし、決して報いを求めてはならぬ。しいて求めずとも、すでにこの世において、偉大なる報いが与えられている、――すなわち、正しき者のみが所有し得る心の悦びである。富者、権者をも恐れてはならぬ。ただ単に賢く美しくあればよい。何事につけても、度《ど》と時を知らねばならぬ、これを究めることが肝要である。孤独の中にとどまって神を祈り、大地にひれ伏して土に接吻することを好むがよい。大地を接吻して、絶えず貪るように愛するがよい。悦びの涙で大地をうるおして、その涙を愛するがよい。この感奮を恥じないで、これを尊重せねばならぬ。何となれば、これは偉大なる神の賜物で、きわめて少数の選ばれたる人にのみ与えられるものだからである。

    (I) 地獄 地獄の火 神秘的考察

 諸師よ、『地獄とは何ぞや』と考察する時、余は次のごとく解釈する、『すなわち、もはや愛しあたわざる苦悶である。』時間をもっても、空間をもっても、測ることのできない無限の世界において、ある一つの精神的存在物は、地上の出現によって『われあり、ゆえに、われ愛す』という能力を授けられた。彼は実行的な生きた[#「生きた」に傍点]愛の瞬間を、一度、たった一度だけ与えられた。これがすなわち地上生活なのである。それと同時に、時間と期限が与えられた。ところが、いかなる結果が生じたか? この幸福な生物は限りなく貴い賜物をこばんで、尊重することも愛好することも知らず、嘲笑の目をもって眺めながら、最後まで無感覚のままで押し通した。こういう人が地上を去った時、富める者およびラザロに関する寓話に示されているように、アブラハムのふところをも見るであろうし、アブラハムと物語をもするであろうし、天国を見、かつ神のもとへ赴くこともできよう。しかし、愛することのできなかったものが神のもとへ赴き、他人の愛を蔑視したものが愛をいだける人々と接触する、ということに苦痛が存するのである。なぜなれば、この時はじめて目がさめて、心の中でこう思うからである。『今こそようやくわかった。たとえいま愛することを望んだところで、自分の愛には効果もなければ犠牲もない。地上の生活はもはや終ったからである。いま自分の胸には、地上で蔑視した精神的愛の渇望が焔のように燃え立っているけれども、それをいやすための生ける水(すなわち、以前の実行的な地上生活の賜物)を、ただの一滴でも持って来てくれるアブラハムはいないのだ。いま他人のために自分の命を悦んで捧げる覚悟はあっても、それはもはや不可能なのだ。愛の犠牲として捧げることのできる生活は、もはや過ぎ去った。今はあの生活とこの生活との間に、無限の深淵が横七わっている。』
 よく地獄の火は物質的のものだと説く人がある。余はこういう神秘を究めようとは思わない。そのようなことをするのは恐ろしい。しかし、かりにそれが物質的の火であるとすれば、そこに落ちた人々はかえって心からそれを悦んだに相違ない。なぜなれば、余の考えでは、物質的な苦痛にまぎれて、よしや一ときであろうとも、さらに恐ろしい心の悩みを忘れることができるからである。しかし、この悩みは外部のものでなく内部のものであるから、ぜんぜん取り去ってしまうことはできない。もし取り去ることができたとしても、人々はこれがため、さらに不幸におちいることと思われる。天国にある正しき人々が、その苦痛を見て彼らを赦し、無限の愛をもって自分の傍らへ呼び寄せるにしても、かえってそれがために、ひとしお苦痛を増すことになる。つまり、彼らの心の中に、今はとうてい不可能な答礼と感謝の意をふくんだ実行的の愛を呼びさますからである。とはいえ、余は臆病な心の底でこんなことを考えている。ほかではない、こうした不可能の自覚そのものが、最後には、苦痛の軽減を助けるのではあるまいか。そのわけは、正しき人々の愛を応酬の望みもなく受けた時、この従順と謙虚の行為の中に、地上において蔑視した実行的愛の片影と言おうか、これと似よりの作用と言おうか、とにかく、そうしたものを感得することができるからである……諸師よ、余はこれを明瞭に言い現わし得ないのを哀しむ。しかし、地上において、われとわが身を亡ぼしたものは気の毒である。まことに、自殺者は気の毒である! これより不幸な者はほかにないと余は思う。彼らのために神を祈るのは罪悪である、と人は言う。そうして、教会も表面的には彼らを破門するような工合である。けれども、余は心の奥で、彼らのためにも祈ることができると考えている。キリストも決して愛をとがめて、怒られるわけがないではないか。余は自白するが、こういう人々のために一生涯、心の中で祈っていた、今でも日ごと祈っている。
 しかし、地獄の中にも傲慢、獰悪を押し通したものもいる。否定することのできぬ真理を確知し、かつ認識したにもかかわらず、サタンとその倨傲な精神に結合しきった恐ろしい人間もいる。こういう人たちの地獄は彼ら自身の意志で作られたものであるが、しかし彼らに飽満を与えない。彼らは好きでなった受難者である。なぜなれば、彼らは神と生を呪ったからである。譬えば、砂漠で飢え渇いたものが、自分で自分の体から血を吸い始めるのと同じように、自分の毒に充ちた倨傲を糧としている。しかし、永劫に飽満を知らぬ彼らは、赦免をこばみ、自分を招いてくれる神を呪うのである。彼らは生ける神を憎悪の念なしに考えることができぬ。そうして、生の神のなからんことを願い、神が自分と自分の創造物を滅ぼすことを要求している。こうして、永久に瞋恚のほむらの中に燃えながら、死と虚灘を願うことであろう。しかし、その死はとうてい得られな
いのである……

 アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの手記はここで終っている。この手記は不完全な、しかも断片的なものである。例えば、伝記なども、長老の青春時代の初期に関するものばかりである。彼の教訓や意見の中には、以前さまざまな機会に、さまざまな動機によって述べたものが、一つのまとまったもののような体裁で合併されたのもある。長老が臨終前、幾時間かに亘って説いた言葉は、正確に区分されていない。しかし、アレクセイが以前の教訓の中からここに合併したものを対照してみるならば、その時の談話の気分も性質も理解することができよう。
 長老の逝去は実際とつぜんであった。その夜、長老のもとに集った人々は、彼の死の近いことを十分悟ってはいたが、それでもやはり、こうまで唐突におそって来ようとは、とうてい予期することができなかった。それどころか、前にもちょっと述べておいたように、同宿の人々はその晩、長老が非常に元気でもあり、口数も多くなったのを見て、たとえ長くはつづかないにもせよ、長老の健康が目に見えてよくなったことと信じていた。後で人々が不思議そうに言い伝えたところによると、逝去の五分前まで、何一つ予想できなかったとのことである。突然、長老は烈しい胸の痛みを感じたかのさまで、蒼い顔をしながら強く両手で心臓をおさえた。一同はそのとき席を立って、彼のほうへ飛んで行った。しかし、彼は苦しみながらも、やはり微笑を浮べて一同を見上げつつ、静かに肘椅子から床へすべり落ちて、跪いた。うつ伏しに顔を土にすりつけて、両手をひ
ろげ、歓喜の溢れるようなさまで、たったいま人々に教えたとおり、大地を接吻して祈檮を上げながら、静かに悦ばしげに魂を神へ捧げたのである。
 長老逝去の報は、ただちに庵室ぜんたいに伝わって、僧院まで達した。故人に近しい人々と局にあたる人々とは、古式にのっとって遺骸の納棺にかかった。そうして、同宿一同は本堂へと集った。あとで噂を総合してみると、長老死去の報は、夜明け前に町へ伝わったらしい。夜の明ける頃には、ほとんど町じゅうの人が、この出来事を語り合っていた。町民の多くは、流れるように僧院さして押し寄せた。が、このことは次篇に物語るとして、今はただ一日もたたないうちに、ある意想外な事柄が生じた、とばかり言っておこう。それは、僧院や町の人たちに与えた印象から見て、きわめて奇怪な、不安の気に充ちた、しかも人心を迷わすような出来事であったために、多数の人を騒がしたこの一日の記憶が、多くの歳月を隔てた今日でも、いきいきと保存されているほどである。