京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P270-0281   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦31日目]

もって、何が善であり何が悪であるか、一人で決めなければならなくなった。しかも、その指導者といっては、お前の姿が彼らの前にあるきりなのだ。しかし、お前はこんなことを考えはしなかったか、もし選択の自由というような恐ろしい重荷が人間を圧迫するならば、彼らはついにお前の姿も、お前の真理もしりぞけ譏るようになる。そして、「真理はキリストの中にない」と叫ぶようになる。なぜならば、お前があのようにたくさんの心配と解決のできない問題を与えたために、人間は惑乱と苦痛の中にとり残されたからだ。実際、あれ以上残酷なことは、とてもできるものじゃない。
 こうしてお前は、自分で自分の王国の崩壊に基礎をおいたのだから、だれも他人を咎めてはならぬぞ。とはいえ、お前が勧められたのは、はたしてこんなことであったろうか? ここに三つの力がある。つまり、これらの意気地ない暴徒の良心を、彼らの幸福のため永久に征服し擒にすることのできる力は、この地上にたった三つしかないのだ。この力というのは、――奇蹟と神秘と教権である。お前は第一も第二も第三も否定して、みずから先例を作った。かの恐ろしく賢《さか》しい精霊がお前を殿《みや》の頂きに立たせて、「もし自分が神の子かどうか知りたいなら、一つ下へ飛んでみろ。なぜなら、下へ落ちて身をこなごなに砕かないよう、途中で天使に受け止めてもらう人のことが本に書いてあるから、その時お前は自分が神の子かどうかを知ることができるし、天なる父に対するお前の信仰のほども知れるわけだ。」しかし、お前はそれを聞いてその勧めをしりぞけ、術におちいって下へ身を投ずるようなことをしなかった、それはもちろん、お前は神としての誇りを保って、立派に振舞ったに相違ない。しかし、人間は、――あの弱い暴徒の種族は、決して神でないからな。おお、もちろんあの時お前がたった一足でも前へ出て、下へ身を投ずる構えだけでもしたなら、ただちに神を試みたことになって、一切の信仰を失い、お前が救うためにやって来た土に当ってこなごなとなり、お前を誘惑した賚しい精霊を悦ばしたに相違ない、おればそれを承知していたのだ。が、繰り返して言う、一たいお前のような人間がたくさんいるだろうか? このような誘惑を持ちこたえる力がほかの人間にもあるなどと、お前は本当に、ただの一分間でも考えることができたか? 人間の本性というものは、奇蹟を否定するようにできていない。ことにそんな生死に関する恐ろしい瞬間に、――最も恐ろしい、根本的な、苦しい精神的疑問の湧き起った瞬間に、自由な良心の決定のみで行動するようにできていないのだ。お前は、自分のこの言行が青史[#「青史」はママ]に伝えられ、時の極み地の果てまで達することを知っていたので、すべての人間も自分の例に倣って、奇蹟を必要とせず、神とともに暮すだろうと、こんなことを当てにしていたのだ。けれども、人間は奇蹟を否定するやいなや、ただちに神をも否定する、何となれば、人間は神よりもむしろ奇蹟を求めているのだからな。この理をお前は知らなかったのだ。人間というものは奇蹟なしでいることができないから、自分で勝手に新しい奇蹟を作り出して、はては祈禱師の奇蹟や巫女の妖術まで信ずるようになる。ご当人が骨の髄までの暴徒であり、邪教徒であり、無神者であっても同じことなのだ。お前は多くの者が。「十字架から下りてみろ、そしたらお前が神の子だということを信じてやる」と冷かし半分からかったとき、お前は十字架からおりたかった。つまり、例のごとく、人間を奇蹟の奴隷にすることを欲しないで、自由な信仰を渇望したから、下りなかったのだ。お前は自由な信仰を渇望したために、恐ろしい偉力をもって、凡人の心に奴隷的な歓喜を呼び起したくなかったのだ。
 しかし、お前は人間をあまり買い被りすぎたのだ。なぜと言うに、かれらは暴徒として創られてはいるものの、やはり奴隷に相違ないからな。まあ、よく見てから判断するがいい。もう十五世紀も過ぎたんだから、よく人間を観察するがいい。一たいお前は誰を自分と同等の高さにまで引き上げたか? わしが誓っておくが、人間はお前の考えたよりも、はるかに弱く卑劣に創られている! 一たいお前のしたと同じことが人間にできると思うのか? あれほど人間を尊敬したために、かえってお前の行為は彼らに対して同情のないものになってしまった、それはお前があまりに多くを彼らに要求したからである。これが人間を自分自身より以上に愛したお前の、なすべきことと言われようか? もしお前があれほど彼らを尊敬しなかったら、あれほど多くを要求しなかっただろう。そして、このほうが愛に近かったに相違ない。つまり、彼らの負担が軽くなるからだ。人間というやつは意気地がなくて、下劣なのだからな。いま彼らは到るところで、われわれの教権に対して一揆を起すのを自慢しているが、そんなことは何でもない。それは子供の自慢だ。小学生の自慢だ。それは教室で一揆を起して、先生を追い出すちっぽけな子供なのだ。今に子供の歓喜も冷めはてて、彼らはその歓喜に対して高い価を払わねばならぬ。彼らは馳を破壊して地上に血を流すであろうが、ついにはこの愚かな子供たちも、自分らは暴徒とはいいながら、一揆を最後まで持ちこたえることのできない意気地のない暴徒だと悟るだろう。自分を暴徒として作ってくれたものは、確かに自分を冷笑するつもりだったに相違ないということを、愚かな涙を流しながら、自覚するであろう。彼らがこんなことを言うのは、自暴自棄におちいった時だ。そうして、この言葉は神に対する呪いとなるが、そのために、彼らはさらに不幸におちいるであろう。何となれば、人間の本性はとうてい神に対する呪いを持ちこたえられるものでないから、結局、自分で自分にその復讐をするのがきまりなのだ。
 こういうわけで、不安と惑乱と不幸、これが今の人間の運命なのだ。お前が彼らの自由のためにあれだけの苦しみをしたあとでも、やはり人間の運命はこういう有様なのだ! お前の偉大なる予言者(ヨハネ)は、その幻想と譬喩の中で、最終の日曜に加わったすべての人を見たが、その数は各種族について一万二千人ずつあったと言うておる。しかし、彼らの数がそれだけのものなら、それは人間でなくて神と言ってもよいくらいだ。それらの人は、お前の十字架をもたえ忍んだし、一木一草もない荒野の幾十年をもたえ忍んだ。そして、その間、蝗と草の根ばかりで侖をつないでいたのだから、もちろん自由の子、自由な愛の子、お前の名のために自由で偉大な儀牲を捧げた子として、大威張りでこれらの人々を指さすことができる。しかし、それは僅か幾万人の神ともいうべき人間だ、このことを憶えていてもらいたい。一たいそのほかの人間はどうすればいいのだ? そうした偉大なる人々のたえ忍んだことを、そのほかの弱い人間が同様にたえ忍ぶことができなかったからとて、彼らを責めるわけにはゆかない。そのような恐ろしい賜物を納め入れることができなかったとて、弱い魂を責めるわけにゆかないではないか。それとも、お前はただ選まれたる者のために、選まれたる者のところへ来たにすぎないのか? もしそうだとすれば、それは神秘だ、そんなことはわれわれの了解のおよぶところでない。しかし、本当に神秘だとすれば、われわれも神秘を宣伝して、「人間の重んずべきは、良心の自由なる決定でもなければ愛でもなく、ただ神秘があるのみだ。すべての人間はおのれの良心に叛いても、この神秘に盲従しなければならぬ」とこう説いて聞かせる権利があるわけだ。実際、われわれはそのとおりにした。われわれはお前の事業を訂正して、それをば奇蹟[#「奇蹟」に傍点]と神秘[#「神秘」に傍点]と教権[#「教権」に傍点]の上に打ち建てたのだ。そのために民衆は、ふたたび自分たちを羊の群のように導いてくれる人ができ、非常な苦痛の原因たるかの恐ろしい賜物を、ついに取りのけてもらえる時が来たのを悦んだ。われわれがこういうふうに教えたのは間違っておるかどうか、一つ言って聞かしてくれ、われわれが素直に人間の無力を察して、優しくその重荷をへらしてやり、意気地のない本性を思いやって、われわれの許しを得た上なら、悪い行いすら大目に見ることにしたのは、はたして人類を愛したことにならぬだろうか?
 一たいお前は今ごろ何だって、われわれの邪魔をしに来たのだ? どうしてお前はそのおとなしい目で、腹の底まで読もうとするように、黙ってわしを見つめておるのだ? 怒りたいなら勝手に怒るがよい、わしはお前の愛なぞほしくもないわ。なぜならば、わし自身もお前が好きでないからだ。それに、何も隠しだてする必要はない。それとも、お前がどんな人間かということを、わしが知らぬとでも思うのか? わしが今いおうと思っていることは、すっかりお前にわかっている、それはお前の目つきでちゃんと読める。しかし、わしはお前にわれわれの秘密を隠そうとはせぬ。もっとも、お前はどうしてもわしの口から言わせたいのかもしれぬ。よいわ、聞かせてやろう。われわれの仲間はお前でなくて、彼[#「彼」に傍点](悪魔)なのだ、これがわれわれの秘密だ! われわれはもうずっと前から、もう八百年の間お前を捨てて、彼[#「彼」に傍点]と一緒になっているのだ。ちょうど八世紀以前、われわれは彼の手から、お前が憤然としりぞけたものを取ったのだ。彼が地上の王国を示しながらお前にすすめた、かの最後の贈物を取ったのだ。われわれは彼の手からローマとケーザルの剣を取って、われわれのみが地上における唯一の王者だと宣言した。もっとも、まだこの事業を十分完成する暇がなかったが、それはわれわれの罪ではない。この事業は今日にいたるまで、ほんの初期の状態にあるが、とにかく緒についてはいるのだ。その完成はまだまだ長く待だなければならぬし、まだまだこの地球は多くの苦しみを嘗めねばならぬが、しかしわれわれは目的を貫徹してケーザルとなるのだ。そうして、その時はじめて、人類の世界的幸福を考えることができるのだ。ところで、お前は、まだあのときケーザルの剣を取ることができたのに、どうしてこの最後の贈物をしりぞけたのだ! この悪魔の第三の勧告を採用したなら、お前は地上の人類が求めている一切のものを充すことができたのだ。ほかでもない、崇拝すべき人と、良心を託すべき人と、すべての人間が世界的に一致して蟻塚のように結合する方法である。なぜと言うに、世界的結合の要求は、人間の第三にしてかつ最後の苦悶だからである。全体としての人類は、常に世界的に結合しようと努力している、偉大な歴史を持った偉大な国民はたくさんあったが、これらの国民は高い地歩を占めれば占めるほど、いよいよ不幸になってゆく。というのは、人にすぐれて強い者ほど、人類の世界的結合の要求を烈しく感じるからだ、チムールとかジンギスカンとかいう偉大な征服者は、宇宙を併呑しようと努め、旋風のごとく地上を疾駆した。しかし、これらの人々も無意識ではあるが、同じような人類の世界的結合の偉大なる要求を表現したのだ。全世界とゲーザルの緋袍を取ってこそ、はじめて世界的王国を建設して、世界的平和を定めることができるのだ。なぜと言うに、人間の良心を支配し、かつそのパンを双手に握っている者でなくて、誰に人間を支配することができようぞ!
 われわれはケーザルの剣を取った。そして、これを取った以上、むろんお前を捨てて彼[#「彼」に傍点]の跡について行った。おお、人間の自由な知恵と、科学と、人肉啖食《アンスロポファジィ》の放肆きわまりなき時代が、まだまだ幾世紀もつづくだろう(まったく人肉唆食だ、なぜならば、われわれの力を借りないで、バビロン塔の建設を始めたのだから、彼らはついに人肉啖食《アンスロポファジィ》で終るに相違ない)。しかし、最後にはこの野獣がわれわれのそばへ這い寄って、われわれの足をぺろぺろと嘗め廻しながら、その上に血の涙をそそぐにきまっている。そこで、われわれはその野獣に乗って、杯を挙げる。その杯には「神秘!」と書いてある。しかし、その時はじめて平和と幸福の王国が人類を訪れるのだ。お前は自分の「選まれたる人々」を誇っているが、しかしお前にはその選まれたる人々しかない。ところが、われわれはすべての人を鎮撫するのだ。それに、まだまだこれくらいのことではない。これらの選まれたる人々や、選まれたる人々になり得る強者の多くは、もはやお前の出現を待ちくたびれて、自分の精神力や情熱をまるで見当違いの畠へ運んで行った。まだこれからも運んで行くことであろう。そうしてついには、お前に叛いて自由[#「自由」に傍点]の旗をひるがえすに違いない。しかし、お前自身からしてこの旗をひるがえしたではないか。ところが、われわれのほうでは一人残らず幸福になって、もう一揆を起すものも、互いに殺し合うものもなくなるのだ。しかし、お前の自由世界では、これが随所に行われている。おお、われわれはよくみなの者に言い聞かしてやる、――お前たちがわれわれのために自分の自由を捨ててわれわれに服従した時に、はじめてお前たちは幸福になることができるのだ、とな。どうだろう、われわれの言うことは本当だろうか、嘘だろうか? いや、彼ら自身で、われわれの言うことが本当だと悟るに相違ない。なぜなら、お前の自由のおかげで、どんな恐ろしい奴隷状態と惑乱に落されたか、それを思い出しさえすればたくさんだからな。自由だの、自由な知恵だの、科学だのは、彼らをもの凄い谷間へつれ込んで、恐ろしい奇蹟や、解決することのできない神秘の前に立たせるので、彼らの中でも頑強で狂猛なやつらは自殺するし、頑強ではあるが気の小さなやつらは互いに滅ぼし合うし、そのほかの意気地ない不仕合せなやつらは、われわれの足もとへ這い寄ってこう叫ぶのだ。「あなた方は正しいお方でございました。あなた方ばかりがイエスさまの神秘を領有していらっしゃいます。それゆえ、わたくしどもはあなた方のところへ帰ります。どうかわたくしどもを自分自身から救うて下さいまし。」で、われわれは彼ら自身の獲たパンをその手から取り上げて、べつに石をパンに変えるというような奇蹟をも行うことなしに、ふたたび彼らに分配してやる。彼らはパンを受け取る時に、このことをはっきり承知しているけれど、彼らが悦ぶのはパンそのものよりも、むしろそれをわれわれの手から受け取るということなのだ。なぜならば、以前われわれのいなかった時分には、彼らの獲たパンがその手の中で石ころになってしまったが、われわれのところへ帰って来た時には、その石がまたもや彼らの手の中でもとのパンになったことを、覚えすぎるほど覚えているに相違ないからな。永久に服従するということがどんな意味を持っているか、彼らは理解しすぎるほど理解するに相違ないからだ。その理が合点ゆかない間は、人間はいつまでも不幸でいるのだ。しかし、第一番にこうした無理解を助長したのは誰だ、言ってみろ! 羊の群をばらばらにして、案内も知らぬ道へわかれわかれに追い散らしたのは誰だ? しかし、羊の群もまたふたたび呼び集められて、今度こそ永久におとなしくなるであろう。その時われわれは彼らに穏やかな、つつましい幸福を授けてやる。彼らの生来の性質たる意気地ない動物としての幸福を授けてやるのだ。おお、われわれはとどのつまり彼らを説き伏せて、誇りを抱かぬようにさせてやる。なぜと言うに、お前が彼らの位置を引き上げたため、誇りを教え込んだような工合になったからだ。そこで、われわれは彼らに向って、お前たちは意気地のないもので、ほんの哀れな子供同然だ、そして子供の幸福ほど甘いものはない、と言って聞かせてやる。すると、彼らは臆病になり、まるで巣についた牝難に寄り添う雛のように、恐ろしさに慄えながらわれわれのほうへ寄り添うて、われわれを仰ぎ見るに相違ない。彼らはわれわれのほうへ押し寄せながらも、同時にわれわれを崇めて恐れて、荒れさわぐ数億の羊の群を鎮撫し得る偉大な力と知恵を持ったわれわれを、誇りとするにいたるであろう。彼らはわれわれの怒りを見て、哀れにも慄えおののいて、その心は臆し、その目は女や子供のように涙もろくなるであろう。しかし、われわれがちょっと小手招きさえすれば、たちまちかるがると、歓楽や、笑いや、幸福な子供らしい唱歌へ移って来るのだ。むろん、われわれは彼らに労働をしいるけれども、暇な時には彼らのために子供らしい歌と、合唱と、罪のない踊りの生活を授けてやる。ちょうど子供のために遊戯を催してやるようなものだ。もちろん、われわれは彼らに罪悪をも赦してやる。彼らはよわよわしい力のないものだから、菲を犯すことを許してやると、子供のようにわれわれを愛するようになる。どんな罪でも、われわれの許可さえ得て行えば臍われる、とこう彼らに言い聞かしてやる。罪悪を赦してやるのは、われわれが彼らを愛するからだ。その罪悪に対する応報は、当然われわれ自身で引き受けてやるのだ。そうしてやると、彼らは神様に対して自分の罪を被ってくれた恩人として、われわれを崇拝するようになる。したがって、われわれに何一つかくしだてしないようになるわけだ。彼らが妻のほかに情婦とともに暮すことも、子供を持つことも持たないことも、すべてその服従の程度に応じて、許しもすればさし止めもする。こうして、彼らは楽しく悦ばしくわれわれに服従してゆくのだ。良心の最も悩ましい秘密も、それから、――いや、何もかも、本当に何もかも、彼らはわれわれのところへ持って来る。すると、われわれは一切を解決してやる。この解決を彼らは悦んで信用するに相違ない。なぜと言うに、これによって大きな心配をのがれることもできるし、今のように自分自身で自由に解決するという、恐ろしい苦痛をのがれることができるからだ。
 こうして、すべての者は、幾百万というすべての人間は幸福になるであろう。しかし、彼らを統率する幾万人かの者は除外されるのだ。つまり、秘密を保持しているわれわればかりは、不幸におちいらねばならぬのだ。つまり、何億かの幸福な幼児と、何万人かの善悪認識の呪いを背負うた受難者とができるわけだ。幼児らは、お前の名のために静かに死んで行く、静かに消えて行く。そうして、棺の向うにはただ死を見いだすのみである。しかし、われわれは秘密を守って、彼ら自身の幸福のために、永遠なる天国の報いをもって彼らを釣ってゆくのだ。なぜなら、もしあの世に何かあるとしても、しょせん彼らのような人間に与えられはしまいからなあ。人の話や予言によると、お前はふたたびこの世へやって来るそうだ。ふたたびすべてを征服して、選まれたる人々や、偉大なる強者を連れてやって来るそうだ。けれども、われわれはこう言ってやる、――彼らはただ自分を救ったばかりだが、われわれは万人を救ってやった、とな。またこんな話もある。やがてそのうちに意気地のないものどもがまたまた蜂起して、獣の上に跨って秘密を手にしている姦婦の面皮を引っぺがし、その秘密[#「秘密」に傍点]を引き破り、醜い体をむき出しにするという話だ。しかし、その時はわしが立ちあがって、罪を知らぬ何億という幸福な幼児を、お前に指さして見せてやる。彼らの幸福のために彼らの罪を身に引き受けたわれわれは、お前の行手に立ち塞がり、「さあ、できるものならわれわれを裁いてみろ」と言ってやる。よいか、わしはお前なぞ恐れはせぬぞ。よいか、わしもやはり荒野へ行って、蝗と草の根で命をつないだことがあるぞ。お前は自由をもって人間を祝福したが、わしもその自由を祝福したことがあるぞ。わしも「数を充し」たい渇望のために、お前の選まれたる人々の仲間へ、偉大なる強者の仲間へ入ろうと思ったことがあるぞ。しかし、あとで目がさめたら、気ちがいに奉仕するのが厭になったのだ。それでまた引っ返して、お前の仕事を訂正した[#「お前の仕事を訂正した」に傍点]人々の群に投じたのだ。つまり、わしは傲慢なる人々のかたわらを去って、へりくだれる人々の幸福のために、へりくだれる人々のところへ帰って来たのだ。今にわしの言ったことは実現されて、われわれの王国は建設されるであろう。しつこいようだが、明日はお前もその従順なる羊の群を見るだろう。彼らは、わしがちょっと手を振って見せると、われさきにとお前を烙くべき焚火へ炭を掻き込むであろう。それはつまり、お前がわれわれの邪魔をしに来たからだ。実際、もし誰か一番われわれの刑火に価するものがあるとすれば、それは正しくお前なのだ。明日はお前を烙き殺してくれる。Dixi(さあ言うだけのことは言ってしまった)」
 イヴァンは言葉を止めた。彼は話してる間にすっかり熱くなって、夢中になったように語りつづけた。が、語り終った時には、突然にたりと笑った。
 始終だまって聞いていたアリョーシャは、終りに近い頃おそろしく興奮して、幾度か兄の言葉を迴ろうとしたが、無理に押しこらえているらしかった。突然、彼はまるでぜんまい仕掛のように飛びあがりながら、口をきった。
「しかし……それはばかばかしい話です!」と彼は真っ赤になって叫んだ。「あなたの劇詩はキリストの讃美です、決して誹謗じゃありません……兄さんが期待した結果とはちがいます。それに、誰が兄さんの自由説なんか信じるものいですか! 一たい一たい自由ってものを、そんなふうに解すべきでしょうか?それがはたして正教の解釈でしょうか……それはローマです、いや、ローマも全体をつくしたものとは言えません。それは權です、――それはカトリック教の中でも一ばん悪いものです、審問官の思想です、ジェスイットの思想です!………それに兄さんの審問官みたいな幻想的な人間は、ぜんぜん存在するはずがありません。わが身に引き受けた人間の罪とは何です? 人間の幸福のために何かの呪いを背負った秘密の保持者とは、どんなものです? そんな人がいつありました? 僕らはジェスイットのことを知っています。彼らはずいぶん悪く言われるけれど、兄さんの考えてるのとはちがいます! まるでちがいます。全然ちがいます……彼らはただ、かしらに帝王を、ローマ法王をいただいた、未来の世界的王国に向って努力するローマの軍隊にすぎません……これが彼らの理想ですが、しかし何の神秘もなければ、高遠な憂愁もありません……権力と、けがれた地上の幸福と、隷属とに対する、最も単純な希望にすぎません……この隷属は、未来の農奴制度とも言うべきものですが、ただし地主となるのは彼ら自身です……まあ、彼らが持っているのは、これくらいのものです。おそらく彼らは神も信じていないでしょう。兄さんの苦しめる審問官はただの幻想です……」
「まあ、待ってくれ、待ってくれ」とイヴァンは笑って、「ばかに熱くなるじゃないか。お前は幻想というが、それならそれでもいい! むろん、幻想だよ。しかし、ちょっと聞かしてくれ。お前本当に、最近数世紀間のカトリック教の運動は、すべて穢れた幸福のみを目的とする権力の希望にすぎないと思うのかい? それはパイーシイ主教でも教えたことじゃないかしら
ん。」
「いいえ、いいえ、それどころか、パイーシイ主教はいつだったか、あなたと同じようなことを言われたことさえあります……しかし、むろんちがいますよ。まるっきりちがいますよ。」アリョーシャは急に慌ててこう言った。
「しかし、それはお前が『まるっきりちがいます』と言ったにしろ、ずいぶん貴重な報告だね。ところで、お前に訊くがね、どういうわけでジェスイットや審問官たちは、ただただ物質的幸福のためのみに団結したというのかね。なぜ彼らの中には、偉大なる憂愁に苦しめられ、かつ人類を愛する受難者が、一人として存在し得ないのだ? え、穢れた物質的幸福を望んでいるこの連中の中にも、せめて一人くらい僕の老審問官のような人があったと、想像してもいいじゃないか。彼は荒野で草の根を食いながら、自己を自由な完全なものとするために、肉を征服しようと気ちがいじみた努力をしたが、人類を愛する念は生涯かわりなかった。ところが、一朝忽然と悟りを開いて、意志の完成に到達する精神的幸福はしかく偉大なものでない、ということを知った。なぜと言うに、自分ひとり意志の完成に到達したところで、その余の数億の人間が、ただ嘲笑の対象物として創られたということを認めざるを得ないからだ。まったく彼らは、自分の自由をどう始末していいかわからないのだ。こういう哀れな暴徒の中から、バビロン塔を完成する巨人が出て来るはずはない。『偉大なる理想家』が、かの調和を夢みたのは、こんな鵞鳥のような連中のためではない、――こういうことを悟ったので、彼は引っ返して……賢明なる人々に投じたわけだが、こんなことはあり得ないと言うのかね?」
「誰に投じるのです、賢明なる人とは誰ですか?」アリョーシャはほとんど狂憤したように叫んだ。「決して彼らにそんな知恵はありません、そんな神秘だの秘密だのというものはありません……あるのはただ無神論だけです、それが彼らの秘密の全部です。兄さんの老審問官は神を信じていやしません、それが老人の秘密の全部です!」
「まあ、それでもかまわない! とうとうお前も気がついたね。いや、本当にそうだ。本当に彼の秘密はただその中にのみ含まれてるのだ。しかし、それは彼のような人間にとっても、はたして苦痛でないだろうか。彼は荒野の中の苦行のために、一生を棒に振ってしまいながら、それでも、人類に対する愛という病を、いやすことができなかった人なんだよ。ようやく自分の生涯の日没頃になって、ただ恐ろしい精霊の勧告のみが、意気地のない暴徒らを、『嘲笑のために作られた、未完成の試験的な生物を』、いくらかしのぎいい境遇におくことができる、ということを明瞭に確信したのだ。これを確信すると、彼は賢明なる精霊、恐ろしい死と破壊の精霊の指図によって進まねばならぬ、ということを見てとった。このためには虚偽と譎詐を採用して、自覚的に人間を死と破壊へ導き、しかも彼らが何かの拍子で自分らの行手に気づかないようにする必要がある。つまり、せめてその間だけでも、この憫れな盲人どもに、自分は幸福なものだと思わせるためなんだ。しかし、注意してもらいたいのは、この虚偽もキリストの名においてなんだよ。老人は一生涯、熱烈にキリストの理想を信じていたのだ! これでも不幸でないだろうか? もしあの『けがれた幸福のためのみに権力に渇している』軍隊のかしらに、ほんの一人でもこんな人が現われたら、その一人だけでも悲劇を生むに十分じゃないか? そればかりか、こんな人がたった一人でもかしらに立っていたら、ローマの事業(その軍隊もジェスイットもみんな引っくるめて)、ローマの事業に対する本当の指導的な、高遠な理想を生むに十分じゃないか。僕はこう断言する、僕は固く信じている、――こうした『唯一人者』は、あらゆる運動の指導者の間に、今まで決して絶えたことがない。ことによったら、ローマの僧正の間にも、この種の唯一人者がなかったともかぎらないからね。いや、それどころか、こうしてきわめて執拗に、きわめて自己流に人類を愛しているこの呪うべき老人は、同じような『唯一人者的』老人の大集群の形をとって、今でも現に存在しているかもしれないのだ。しかも、それは決して偶然でなく、ずっと前から秘密を守るために組織された同盟、もしくは秘密結社として存在しているかもしれない。この秘密を不幸な意気地のない人間から隠すのは、つまり彼らを幸福にするためなんだ。これは必ず存在する、また存在しなければならないはずだ。僕は何だか共済組合《マソン》の基礎にも、何かこんな秘密に類したものがあるんじゃないか、というような気さえするよ。カトリック教徒がマソンを憎むわけは、彼らを自分の競争者、つまり自分の理想の分裂者と見るからだ。なぜって、羊の群も一つでなくちゃならないし、牧者も一人でなくちゃならないものね……しかし、こうして自分の思想を弁護してるところは、お前の批評を持ちこたえることのできなかった作者のようだね。もうこんなことはたくさんだ。」
「兄さん自身マソンかもしれませんね!」突然アリョーシャは思わずこう口走った。「兄さんは神を信じてないのです」とまた言いたしたが、その声はすでに強い悲しみをおびていた。
 そのうえ彼は、兄が冷笑的に自分を眺めているように感じられた。
「ところで、あなたの詩はどんなふうに終るんです?」とふいに彼は地面を見つめながら訊ねた。「それとも、もう終ったんですか?」
「僕はこんなふうにしまいをつけたいと思ったのさ。審問官は口をつぐんでからしばらくの間、囚人《めしゅうど》が何と答えるか待ちもうけていた。彼は、相手の沈黙が苦しかったのだ。見ると、囚人は始終しみ入るように、静かに相手の目を見つめたまま、何一つ言葉を返そうとも思わぬらしく、ただじっと聴いているばかりだ。老人はたとえ苦い恐ろしいことでもいいから、何か言ってもらいたくてたまらなかった。が、とつぜん囚人《めしゅうど》は無言のまま老人に近づいて、九十年の星霜をへた血の気のない唇を静かに接吻した。それが答えの全部なのだ。老人はぎくりとなった。何だか、唇の両端がぴくりと動いたようであった。と、彼は戸のそばへ近寄って、さっと開け放しながら、囚人に向って、『さ、出て行け、そして、もう来るな……二度と来るな……どんなことがあっても!』と言って、『暗き巷』へ放してやった。囚人はしずしずと歩み去った。」
「で、老人は?」
「かの接吻は胸に燃えていたが、依然としてもとの理想に踏みとどまっていた。」
「そして、兄さんも老人と一緒なんでしょう、兄さんも?」とアリョーシャは愁わしげに叫んだ。
 イヴァンは笑いだした。
「おいおい、アリョーシャ、これはほんの寝言じゃないか。今まで二連と詩を書いたことのない、わけのわからん学生のわけのわからん劇詩にすぎないよ。何だってお前はそう真面目にとるんだい? 一たいお前は僕が本当にジェスイットのところへ行って、キリストの事業を訂正した人たちの群へ投じるだろう、とでも思ってるんじゃないか? とんでもない、僕の知ったことじゃないよ! 俟はお前に言ったとおり、三十まではだらだらとこうやっていて、三十がきたら杯を床へ叩きつけるんだ!」
「でも、粘っこい若葉は? 貴い墓は? 瑠璃色の空は? 愛する女は? ああ、それじゃ兄さんは何を足場にして生きてゆくのです、どうやってそういうものを愛するつもりなんです?」とアリョーシャは悲しげに叫んだ。「胸に頭にそんな地獄をいだきながら、一たいそんなことができるんですか? いいえ、本当に兄さんはジェスイットへ投じるために出かけて行きます……もしそうでなかったら自殺します。とても持ちこたえることはできません!」
「何でも持ちこたえることのできるような力があるよ!」もはや冷やかな嘲笑をおびた声でイヴァンはこう言った。
「どんな力です!」
カラマーゾフ的力だ……カラマーゾフ的の下劣な力だよ。」
「それは淫蕩の中に惑溺することですね、腐敗の中に霊魂を窒息させることですね、ね、ね?」
「まあ、そうかもしれん……しかし、ただ三十までだ。もしかしたら、逃げ出せるかもしれない。そしたら……」
「どうして逃げ出すんです? なんで逃げ出すんです? あなたのような思想を持っていては、不可能です。」
「これもまたカラマーゾフ式にやるんだ」
「それは『すべてが許されている』ですか? 本当にすべてが許されますか、そうですか、そうですか?」
 イヴァンは眉をしかめたが、急に不思議なほど真っ蒼になった。
「ははあ、お前は昨日ミウーソフの憤慨した、例の言葉を摑まえて来たな……あのときドミートリイが無邪気に飛び出して、あの言葉を繰り返したっけね」と彼はひん曲ったような微笑をもらした。「ああ、もしかしたら、『すべては許されてる』かもしれない。一たん言った以上は撤回しないよ。それに、ミーチカの作り変えもまずくないね。」
 アリョーシャは黙って兄を見つめた。
「ねえ、アリョーシャ、僕は出発の間ぎわになって、ひろい世界じゅうにお前一人が親友だと思ったが、」突然イヴァンは思いがけない真心をこめてこう言った。「しかし、今はお前の胸にも、――可愛い隠遁者の胸にも、僕の居場所はないことがわかった。だが、『すべては許されている』という定義は否定しないよ。ところで、どうだい、お前はこの定義のために僕を否定するだろうね、そうだろう、そうだろう?」
 アリョーシャは立ちあがって兄に近寄り、無言のまま静かにその唇を接吻した。
剽窃だ!」とイヴァンは急に、一種の歓喜に移りながら叫んだ。「お前はその接吻を僕の劇詩から盗み出したね! しかし、有難う。さあ、アリョーシャお立ち、出かけようじゃないか。僕にしても、お前にしても、もう時間だよ。」
 二人は外へ出たが、料理屋の表口で立ちどまった。
「おい、アリョーシャ」とイヴァンはしっかりした声で言いだした。「もし本当に粘っこい若葉を愛するだけの力が僕にあるとしたら、それはお前を思い起すことによって、はじめてできることなのだ。お前がこの世界のどこかにいると思っただけで、僕は十分人生に愛想をつかさないでいられる。しかし、お前こんなことはもうたくさんだろうね? もし何なら、これを恋の打ち明けと思ってくれてもいいよ。しかし、もう別れよう、お前は右へ、僕は左へ、――もうたくさんだ、いいかい、もうたくさんだよ。つまり、もし僕があす発たないで(しかし、きっと発つらしいがね)、またどうかしてお前に出会うことがあっても、こんな問題については一口も言わないようにしてくれ。くれぐれも頼んだよ。それから、ドミートリイのことについてもとくに頼んでおくが、どうか決して口に出さないでもらいたい。」急に彼はいらいらした調子でこう言い添えた。「もう話の種はつきちまった、言うべきことは言っちまったのだ、そうじゃないか? ところで、僕のほうからも一つお前に約束しておこう。三十近くになって『杯を床へ抛りつけ』たくなった時、僕はお前がどこにいようとも、もう一度お前のとこへ話しに来るよ……たとえアメリカからでもやって来る、それは承知しといてもらおう。わざわざやって来るんだからね。それに、お前がその頃どんなになってるか、ちょつと会ってみるだけでも、大いに愉快だろうよ。ね、ずいぶんぎょうぎょうしい約束じゃないか。しかし本当にこれが七年か、十年くらいの別れになるかもしれないんだよ。さあ、もうお前の|Pater Seraphicus《パーテル セラフィークス》(神父セラフィクス)のところへ行ったほうがよかろう、いま死にかかってるんだからね。お前の帰らないうちに死んだら、僕が引き止めたからだといって、腹を立てるかもしれないよ。さよなら、もう一ど接吻してくれ、そうそう、じゃお行き……」
 イヴァンはいきなり踵をめぐらして、もう振り返ろうともせず、ぐんぐん勝手に歩きだした。それはちょうど、きのう兄ドミートリイが、アリョーシャのそばを立ち去った時の様子に似たところがあった。もっとも、昨日のとはぜんぜん性質が違ってはいるけれど……この奇妙な印象は、折しも愁いに充ちたアリョーシャの頭を、飛箭のごとくにかすめたのである。彼は兄のうしろ姿を見送りながら、しばらくじっと佇んでいた。ふとイヴァンが妙にふらふらしながら歩いているのに気がついた。それに、うしろから見ると、右肩が左肩より少し下っている。こんなことは今までついぞ見受けなかったところである。
 が、急に彼もくるりと踵を転じて、ほとんど駆け出すように僧院へ急いだ。もうあたりは大分たそがれて、気味の悪いような感じがするくらいであった。はっきり名ざすことはできないけれど、何かしら新しいあるものが、彼の心内に成長しつつあった。彼が庵室の森へ入った時、また昨日のように風が吹き起って、幾百年かへた松の木は暗澹として、彼の周囲にざわめきだした。彼はほとんど走らないばかりであった。『Pater Seraphicus――兄さんはこんな名前をどこから引っ張り出したんだろう、――一たいどこから……』こんな考えがアリョーシャの頭に浮んできた。『イヴァン、イヴァン兄さん、可哀そうに、今度はいつ会えることだろう?……ああ、もう庵室だ! そうだ、そうだ、ここにPater Seraphicusがいらっしゃるのだ。この人が僕を……悪魔から永久に救って下さるのだ!』 その後、彼は生涯のあいだに幾度となく、深い怪訝の念をいだきながら思い起すことがあった。ほかでもない、兄イヴァンと別れる時に、どうして急に兄ドミートリイのことを、すっかり忘れてしまうことができたか、という疑問である。しかも、その二三時間まえに、どんなことがあろうとも捜し出さねばならぬ、これをはたさぬうちは今夜じゅうに僧院へ帰れなくても、断じて町を立ち去るまいと決心したのではないか。

   第六 とりとめなき憂愁

 イヴァンは弟と別れ、父の家さして歩きだしたが、奇妙なことには、突然たえがたい憂愁が彼の心をおそうなのである。しかし、何よりもいけないのは、一歩一歩家のほうへ近寄るにしたがって、それが次第に烈しくなることであった。けれども、不思議なのは憂愁そのものでなく、どうしてもその憂愁の本体を突きとめることができない点であった。これまでにも憂愁を感じることはたびたびあったから、それがこういう場合に頭を持ちあげるのは、べつに不思議なことでもなかった。実際、彼は明日という日に、自分をこんなところまで牽き寄せた一切のものと縁を切って、新たにぜんぜん別な方面へ転じようとしているのだ。そして、また以前と同じくまったくの一人ぼっちで、まるで未知案内の新しい道へ踏み入ろうとしているのだ。希望もたくさんあるが、対象は何かわからない。人生から期待しているものもありすぎるほどあるが、その期待についても希望についても、自分自身まるではっきりしたことが言えないのである。こうした新しい未知のものに対する憂愁は、事実彼の心にあったにはあったが、それでもこの瞬間彼を悩ましているのは、ぜんぜん別なものであった。
『ひょっとしたら、親の家に対する嫌悪の念ではないかな?』と彼は肚の中で考えた。『何だかそれらしい。もうすっかり厭になっちゃったからなあ。もっとも、あの穢らわしい闘を跨ぐのも、今日がお名残りだが、それにしても、厭なものは厭なんだ……しかし、ちがう、これでもない。じゃ、アリョーシャと別れたためかな、あんな話をしたためかな? もう何年間か社会ぜんたいに対して沈黙を守って、口をきくのも大人げないと思ってたのに、突然あんな無意味なことを並べ立てたためかもしれない。』実際、それは若い無経験と若い虚栄心との苦い悔恨の情かもしれない。つまり、アリョーシャのような小僧に対して、うまく自分の心中を言い現わすことのできなかったいまいましさかもしれない。しかも、イヴァンはこの小僧に対して、かなり大きな心づもりを持っていたのだ。『もちろん、それもあるだろう、そうしたいまいましさもあるだろう。いや、必ずあるに相違ない。しかし、これもやはりそうでない、みんなそうでない。胸が悪くなるほどくさくさするくせに、どんなにもがいても、これと名ざすことができないのだ。もう考えなきゃいいんだ……」
 イヴァンは『もう考えまい』と試みたが、それは何の役にも立だなかった。第一、この憂愁は何だか偶然の、ぜんぜん外部的な趣きをおびているために、なおいまいましく癇ざわりなのであった。それはイヴァンにもそう感じられた。つまり、何かしら生きたものか品物かが、どこぞに突き出ているような工合であった。例えば、よくあることだが、何かが目の前に出しゃばっているのを、話なり仕事なりに熱申していたため、長いあいだ気がつかないではいるものの、何だか妙に気がひらひらして、ほとんど悩ましくさえなってくる、そのうちにやっと気がついて、その邪魔ものをとりのけるが、それは多くの場合つまらない滑稽なもの、――何かとんでもない場所へ置き忘れた品物とか、床の上へ落ちたハンカチとか、書棚へ片づけ忘れた書物とか、そんなふうのものなのである。ついにイヴァンは恐ろしい不快な、いらだたしい気分で、父の家までたどりついたが、ふとくぐりから十五歩ばかり離れた門を見やった時、たちまち自分の心を悩まし掻き乱した原因を察したのである。
 門のかたわらのベンチには、下男のスメルジャコフが腰をかけて、夕風に吹かれていた。と、イヴァンは一目見るなり、自分の心の底にもこの下男がひそんでいたために、本能的にこの男が厭でたまらなかったのだな、と悟った。すべてが急にぱっと照らし出され、明るくなった。さきほどアリョーシャがこの下男と出会った話をした時に、何かしら暗いいとわしいものが彼の胸を突き通したようなあんばいで、たちまち反射的に憎悪の念を呼びさましたのである。その後、話に夢中になって、スメルジャコフのこともしばらく忘れていたが、それでもやはり心の底に残ってはいたので、アリョーシャと別れてただひとり家路へ向うと同時に、忘れられていた感覚がふいにまた頭を持ちあげたのである。『一たい、こんなつまらないやくざ者が、これほどまでにおれの心を掻き乱す力を持ってるんだろうか?』彼はたえがたい憤愍を感じながらそう考えた。
 事情を話すとこうである。実際、イヴァンは近頃この男が恐ろしく嫌いになってきた。とりわけこの二三日、それがとくにはなはだしくなったのである。この男に対するほとんど憎悪ともいうべき感情が、日に日に募ってゆくのを、彼自身でも気づ