京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P246-257   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦29日目]

ってしまえばいいんだ。話のついでだが、あのひとは今どうしてるね? 僕が帰ったあとでどうなったい?」
 アリョーシャはヒステリイの話をして、彼女は今もまだ人事不省におちいって、譫言を言っていることだろうとつけたした。
「ホフラコーヴァが嘘をついたんじゃないか?」
「じゃないらしいです。」
「しかし、調べてみなくちゃならないよ。だが、ヒステリイで死んだものは一人もないからね、ヒステリイというやつはあってもいいだろう。神様は愛の心をもって女にヒステリイをお授けなすったのだ。僕はもう二度とあそこへ行かない。何も今さらのこのこ、つらを出す必要はないからね。」
「ときに、兄さんはさっきこう言ったでしょう、あのひとは少しも兄さんを愛していなかったって。」
「あれはわざと言ったことだ。アリョーシャ、シャンパンを言いつけようかね。僕の自由のために飲もうじゃないか。いや、お前にはとてもわかるまい、僕が今どんなに嬉しいか!」
「兄さん、飲まないほうがいいでしょう」とふいにアリョーシャは言った。「それに、僕は何だか気がふさいでならないのです。」
「ああ、お前はずっと前から気がふさいでるようだね、僕もずっと前から気がついてたよ。」
「じゃ、明日の朝はぜひ出立するんですか?」
「朝? 僕は何も朝と言ったわけじゃないよ……しかし、あるいは本当に朝になるかもしれない。ところでね、僕が今日ここで食事をしたのはね、ただ親父と一緒に食事をしたくなかった
からだ。それほど僕はあの親父が厭でたまらなくなったんだ。僕はそのためばかりでも、とうに出立してたはずなんだよ。だが、僕が出立するからって、どうしてお前はそんなに心配するんだい! 僕たち二人のためには、出発までにまだいくら時間があるかわかりゃしない。永劫だ、不死だ!」
「兄さんは明日出立するというのに、どうして永劫だなんて言うんです?」
「僕やお前は、あんなことに何の関係もないじゃないか?」とイヴァンは笑いだした。「だって、何といったって、自分のことは話しあう暇があるからなあ、自分のことは……一たい僕らは何のためにわざわざここへやって来たんだろう? 何だってお前はそんなにびっくりしたような目つきをするんだ? さあ、言ってみろ、僕らは何のためにここへやって来たんだい? まさかカチェリーナさんに対する恋や、親父のことや、ドミートリイのことを話しに来たんじゃなかろう? 外国の話でもないだろう? 危機に瀕したロシヤの国情でもないだろう? 皇帝ナポレオンのことでもないだろう? え、こんなもののためじゃなかろう?」
「いいえ、そんなもののためじゃありません。」
「じゃ、自分でも何のためかわかってるだろう。ほかの人たちにはそれぞれ違ったものが必要だろうが、われわれみたいな嘴の黄いろい連中には、それとはすっかり別なものが必要なんだ。われわれはまず第一に、永遠の問題を解決しなければならない。これが最もわれわれの気にかかるところなんだ。いま若きロシヤは、ただ永遠の問題の解釈にばかり夢中になっている。しかもそれがだ、ちょうど老人たちが急に実際問題で騒ぎだした現代だからなあ。お前にしたって、一たい何のためにこの三カ月間、あんな期待するような目つきで、一生懸命に僕を眺めていたのだ? つまり、『お前はどんなふうに信仰してるか、それともぜんぜん信仰を持っていないか?』ということを、僕に白状させたかったのだろう、――なあ、アレクセイさん、あなたの三カ月間の凝視は、結局こんな意味につづまってしまうでしょう、ね?」
「あるいはそうかもしれません」とアリョーシャは微笑した。「だけど、兄さんはいま、僕をからかってるんじゃないでしょう、ね?」
「僕がからかうって! 僕は三カ月の間もあんな期待の情をもって、一心に僕を見つめていた可愛い弟を、悲観させるようなことをしやしないよ。アリョーシャ、まっすぐに見てごらん、僕もやはりお前と寸分ちがわない、ちっぽけな小僧っ子だろう。ただ違うのは聴法者でないばかりだ。ところで、ロシヤの小僧っ子は、今までどんなことをしていると思う。小僧っ子といってもある種のものにかぎるがね……手近な例がこの小汚い料理屋さ。ここへいろんな連中が集って、めいめい隅のほうに陣取るだろう。この連中は今まで一度も出会ったこともなければ、これからさきだって一たんここを出てしまえば、四十年たってもお互いに知合いになることはありゃしない。ところがどうだろう、旗亭の一分間を偸んで、どんな議論を始めると思う? 宇宙の問題さ、つまり、神はありやとか、不死はありやとかいう問題なのさ。神を信じない者は、社会主義とか無政府主義とか、全人類を新しい組織に変えようとか、そういう話を持ち出す。しかし、つまるところは、同じような問題になっちまうんだあね、ただ、別な一端から出発するだけの相違さ? こうして、数知れぬほど多くの才能ある現代のロシヤ少年は、ただ永久の問題を談じることにのみ没頭しているのだ。ねえ、そうじゃないか?」
「ええ、神はありや不死はありやという問題と、それから、いま兄さんのおっしゃったように、別な一端から出発した問題は、本当のロシヤ人にとって第一の問題です。そして、それはむろん当然の話です。」依然としてもの静かな試みるような微笑を浮べながら、アリョーシャはこう言った。
「ねえ、アリョーシャ、時とすると、ロシヤに生れるのもあまり感心しないことがあるけれど、それでもいまロシヤの少年たちがやっていることより以上、ばかばかしいことは想像するのさえ不可能だよ。しかし、アリョーシャというロシヤの少年ひとりだけは、僕恐ろしく好きなんだ。」
「兄さんはうまいところへ持って行きまりだね。」アリョーシャは急に笑いだした。
「さあ、どっちから始めよう、お前一つ命令してくれ、神から始めようか? 神はありやから始めようか! 言ってみてくれ。」
「どちらからでも好きなほうから始めて下さい、『別な一端』からでもいいですよ、しかし、兄さんはきのうお父さんのとこで、神はないと宣言したじゃありませんか」とアリョーシャは試すように兄を眺めた。
「僕がきのう親父の家で、食事の時にあんなことを言ったのは、わざとお前をからかうためなんだよ。するとはたしてお前の目が燃えだした。しかし、今は決してお前と快談するのを辞さない。僕は大真面目に言ってるんだよ。僕はお前と互いに理解しあいたいのだ。なぜって、僕には友達がないから、どんなものか試してみたいのさ。それどころか、アリョーシャ、もしかしたら神を認めるかもしれないよ」とイヴァンは笑いだした。「お前、意外に思うだろう、ねえ?」
「ええ、もちろん、もしいま兄さんが冗談を言ってるのでなければ……」
「冗談を言うって? そりゃ昨日長老のところでは、冗談を言うって咎められたがね。お前も知ってるだろうが、十八世紀の頃にある年とった無神論者が、S'il n'existait pas Dieu, il faudrait l'inventer(もし神がなかったら創り出す必要がある)といったね。ところが、はたして人間は神というものを考え出した。しかし、神が本当に存在するということが不思議なのじゃなくって、そんな考えが、――神は必要なりという考えが、人間みたいな野蛮で意地わるな動物の頭に浮んだ、ということが驚嘆に値するのだ。それくらいこの考えは神聖で、殊勝で、賢明で、人間の誉れとなるべきものなんだ。僕一個に関しては、人間が神を創ったのか、神が人間を創ったのかということはもう考えまいと、だいぶ前から決心しているのさ。だから、この問題に関するロシヤの小僧っ子どもの原理も、やはり詮索しないことに決めている。こんな原理はみんなヨーロッパ人の仮説から引き出したものなんだ。なぜって、西欧で仮説となっているものは、ロシヤの小僧っ子にすぐ原理化されてしまうんだものね。それは単に小僧っ子ばかりでなく、大学教授の中にさえそんなのがあるよ。ロシヤの大学教授は、多くの場合、小僧っ子だからね。だから、一切の仮説はぬきにしてしまおう。ところで、僕たちはどんな問
題を論じたらいいと思う! ほかでもない、少しも早く僕の本質を明らかにすることだ。つまり、僕がどんな人間で、何を信じ何を望んでいるかを明らかにすればいいのだ、ね、そうじゃないか? だから、こう明言しておく、――僕は直接に簡単に神を認容する。しかし、ここに注意すべきことがあるんだ。ほかではないが、もし本当に神があって、地球を創造したものとすれば、神がユウクリッドの幾何学によって地球を創造し、人間の知恵にただ空間三次元の観念のみを賦与したということは、一般に知れ渡っているとおりだ。ところが、幾何学者や哲学者の中には、こんな疑いをいだいているものが昔もあったし、今でも現にあるのだ。つまり全宇宙(というよりもっと広く見て、全存在というかな)は、単にユウクリッドの幾何学ばかりで作られたものではなかろう、というのだ。最も卓越した学者の中にさえ、こういう疑いをいだく人があるんだよ。中には一歩進んで、ユウクリッドの法則によるとこの地上では決して一致することのできない二条の平行線も、ことによったら、どこか無限の中で一致するかもしれない、などという大胆な空想を逞しゅうする者さえある。そこで僕は諦めちゃった。これくらいのことさえ理解できないとすれば、どうして僕なんかに神のことなど理解できるはずがあろう。僕はおとなしく自白するが、僕にはこんな問題を解釈する能力が一つもない、僕の知性はユウクリッド式のものだ、地上的のものだ、それだのに、現世以外の事物を解釈するなんてことが、どうして僕らにできるものかね。アリョーシャ、お前に忠告するが、決してそんなことを考えないがいいよ。何よりいけないのは神のことだ。神はありやなしや? なんてことは決して考えないがいいよ。こんなことはすべて、三次元の観念しか持たない人間にはとうてい歯の立だない問題だよ。で、僕は神を承認する、単に悦んで承認するばかりでなく、その叡知をも目的をも承認する(もっとも、われわれには皆目わからないがね)。それから、人生の秩序も意義も信じるし、われわれをいつか結合してくれるとかいう永久の調和をも信じる。それから、宇宙の努力の目標であり、かつ神とともにあるところの道《ことば》、また同時に神自身であるところの道《ことば》を信じるよ。つまり、まあ、永遠というやつを信じるよ。このことについては何だのかだのと、いろんな言葉が際限なく拵えてあるよ。どうだい、とにかく、僕はいい傾向に向ってるようだね、――おい? ところが、どうだい、ぎりぎり結着のところ、僕はこの神の世界を承認しないのだ。この世界が存在するということは知ってるけれど、それでも断じて認容することができないのだ。僕は何も神を承認しないと言ってるんじゃないよ、いいかい。僕は神の創った世界、神の世界を承認しないのだ。どうしても甘んじて承認するわけにゆかないのだ。ちょっと断わっておくが、僕はちっぽけな赤ん坊のように、こういうことを信じてるんだ、――いつかずっと先になったら、苦痛も癒され償われ、人生の矛盾のいまいましい喜劇も哀れな蜃気楼として、弱く小さいものの厭わしい造りごととして、人間のユウクリッド的知性の一分子として消えてしまい、世界の終極においては、永遠な調和の瞬間に、一種たとえようのない高貴な現象が出現して、それがすべての人々の胸に充ち渡り、すべての人の不平を満たし、すべての人の悪行や、彼らが互いに流し合った血潮を贖い、人間界に生じた一切のことを単に赦すばかりでなく、進んで弁護するにたるほど十分であるというのだ、――まあ、まあ、。すべでこのとおりになるとしておこう。しかし、僕はこれを許容することができないのだ。許容することを欲しないのだ! たとえ平行線が一致して、僕がそれを自分で見たとしても、自分の目で見て『一致した』と言うにしても、やはり許容しないのだ。これが僕の本質だ、アリョーシャ、これが僕のテーゼなんだ。これだけはもう真面目でお前に打ち明けたんだよ。僕はわざとこの話を馬鹿なことこの上なしというふうに始めたけれど、結局、告白というところまで持って行ってしまった。なぜと言って、お前に必要なのはただそればかりなんだからね。お前にとっては神様のことなんかどうでもいい、ただお前の愛する兄貴が何によって生きているか、ということだけ知ればいいんだからね。」
 イヴァンは突然思いがけなく、一種特別の情をこめて、この長い告白を終ったのである。
「なぜ『馬鹿なことこの上なしというふうに』始めたんです?」とアリョーシャはもの思わしげに兄を眺めながら訊いた。
「第一としては、ロシヤ式にのっとるためさ。ロシヤ人は誰でもこの種の会話を、馬鹿なことこの上なしというふうにやるからね。第二としては、ばかばかしければばかばかしいだけ、問題に近づくことになるからさ。愚というやつは単純で正直だが、知はどうもごまかしたり隠れたりしたがるよ。知は卑劣漢だが、愚は一本気な正直者だ。僕は自暴自棄というところまで事を運んでしまったから、ばかばかしく見せれば見せるだけ、僕にとってますます好都合になってくるのさ。」
「兄さん、柯の化めに『世界を許容しない』か、わけを聞かして下さるでしょうね?」どアリョーシャが言いだした。
「そりゃもちろん、説明するよ、何も秘密じゃないからね。そういうふうに話を持ってきたんだよ。ねえ、アリョーシャ、僕は決してお前を堕落さして、その足場から引きおろそうとは思わない。それどころか、かえってお前に治療してもらうつもりかもしれないんだよ。」とイヴァンは突然まるでちっちゃな、おとなしい子供のようにほお笑んだ。アリョーシャは今まで、彼がこんな笑い方をするのを見たことがなかった。

   第四 叛逆

「僕はお前に一つ白状しなけりゃならないことがある」とイヴァンは語り始めた。「一たいどうして『近きもの』を愛することができるんだろう? 僕は、何としても合点がゆかないよ。僕の考えでは『近きもの』だからこそ愛することができないので、『遠きもの』こそ初めて愛され得るんだと思う。僕はいつやら何かの本で『恵み深きヨアン』(ある一人の聖人なのさ)の伝記を読んだことがあるが、一人の旅人が飢えて凍えてやって来て、暖めてくれと頼んだとき、この聖人は旅人を自分の寝所へ入れて抱きしめながら、何か恐ろしい病気で腐れかかって、何ともいえない匂いのする口へ、息を吹きかけてやったというのだ。しかし、聖人がこんなことをしたのは無理な発作のためだ、偽りの感激のためだ、義務観念に命令された愛のためだ、自分で自分に課した難行の義務遂行のためだ。誰かある一人の人間を愛するためには、その当人に隠れてもらわなけりゃならない。もしちょっとでも顔を覗けたら、愛もそれなりおじゃんになってしまうのだ。」
「そのことはゾシマ長老か、たびたび話していらヴしゃいました」とアリョーシャが口を入れた。「長老さまもやはり、人間の顔は愛に経験の浅い多くの人にとって、しばしば愛の障害になると言っておいでになりました。しかし、実際人類の中には多くの愛がふくまれています。ほとんどキリストの愛に近いようなものさえあります。これは僕自身でも知っていますよ、兄さん……」
「ところが、僕は今のところまだそんな例を知らないし、また理解することもできないよ、そして、数えきれないほど多数の人間も僕と同じことなのだ。つまり問題は、人間の悪い性質のためにこんなことが起るのか、それとも人間の本質がこんな工合にできているのか、という点に存するのだ。僕に言わせれば、キリストの愛はこの地上にあり得べからざる一種の奇蹟だよ。もっともキリストは神だったが、われわれは神じゃないんだからね。かりに僕が深い苦悶を味わうことができるとしても、いかなる程度まで苦悶しているのか、他人は決して知ることができない。なぜなら、それが他人であって僕でないからさ。おまけに、人間はあまり他人を苦悶者として認めるのを(まるで何か位でも授けてやるように思ってさ)、悦ばない傾向を持ってるんだからね。なぜ認めたがらないと思う? ほかではない、例えば、僕の体から変な匂いがするとか、僕が馬鹿らしい顔をしてるとか、でなければ、いつか僕がその男の足を踏んだとか、そんな簡単な理由によるのさ。それに苦悶にもいろいろあるよ。卑屈な苦悶、僕の人格を下劣にするような苦悶、例えば空腹の類のようなものは、慈善家も認容してくれるけれど、少し高尚な苦悶、例えば理想のための苦悶なんてものは、きわめて少数の場合を除くほか、決して認容してくれない。なぜかと訊くと、僕の顔がその慈善家の空想していた理想のための受難者の顔と、全然ちがってるからと言うのだ。これだけの理由で、僕はその人の恩恵を取り逃してしまう。しかし、決してその人が冷酷なためではない。乞食、ことに嗜みのある乞食は、断じて人前へ顔をさらすようなことをしないで、新聞紙上で報謝を乞うべきだ。隣人を愛し得るのは抽象的な場合にかざる。どうかすると、遠方から愛し得る場合もある。しかし、そばへ寄ってはほとんど不可能だ。もしバレーのように、乞食がぼろぼろの絹の着物を着、破れたレースをつけて出て来て、優雅な踊りをしながら、報謝を乞うのだったら、まあまあ見物していられるさ。しかし、要するに見物するまでで、決して愛するわけにはゆかない。しかし、こんなことはもうたくさんだ。ただね、お前を僕の見地へ立たしさえすればよかったのだ。僕は一般人類の苦悶ということを話すつもりだったが、それよりむしろ、子供の苦悶だけにとどめておこう。これは僕の議論の効果を十分の一くらいに弱めてしまうのだが、しかし子供のことばかり話そう。これはもちろん、僕にとって不利益なんだけれど、第一、子供はそばへ寄っても愛することができる、汚いものでも、器量の悪いのでも愛することができる(もっとも、器量の悪い子供というのはかつてないようだね)。第二に、僕が大人のことを話したくないというわけは、彼らが醜悪で愛に相当しないのみならず、彼らに対しては天罰ということがあるからだ。大人は知恵の実を食べて善悪を知り、『神々のごとく』なってしまった。そして、今でもやはりつづけてその実を食べている。ところが、子供はまだ何も食べないうら、今のところまったく無垢なものだ。お前は子供が好きかい、アリョーシャ? わかってる、好きなのさ。だから、いま僕がどういうわけで子供のことばかり話そうとするか、お前にはちゃんと察しられるだろう。で、もし子供までが同じように地上で恐ろしい苦しみを受けるとすれば、それはもちろん、自分の父親の身代りだ、知恵の実を食べた父親の代りに罰せられるのだ。が、これはあの世[#「あの世」に傍点]の人の考え方であって、この地上に住む人間の心には不可解だ。罪なき者が他人の代りに苦しむなんて法がないじゃないか、ことにその罪なき者が子供であってみれば、なおさらのことだ! こう言えば驚くかもしれないがね、アリョーシャ、僕もやはりひどく子供が好きなんだよ。それに注意すべきことは、残酷で、肉欲の熾んな、猛獣のようなカラマーゾフ的人間が、どうかすると非常に子供を好くものなんだよ。子供が本当に子供でいる間、つまり七つくらいまでの子供は、恐ろしく人間離れがしていて、まるで別な性質を持った別な生物みたいな気がするくらいだ。僕は監獄に入っている一人の強盗を知ってるが、この男はそういう商売を始めてから、夜な夜な多くの家へ強盗に忍び込んで、一家みなごろしにすることもしょっちゅうあった。時には、一時に幾たりかの子供を斬り殺すような場合もあった。ところが、監獄へ入ってるうちに、奇妙なほど子供が好きになって、庭に遊んでる子供を獄窓から眺めるのを、自分の仕事のようにしていた。しまいには、その中のちっちゃな子供を手なずけて、自分の窓の下へ来させ、とても仲よしになったくらいだ……何のために僕がこんな話をするか、お前はわからないだろう? ああ、何だか頭が痛い、そして妙に気がめいってきた。」
「兄さんは奇妙な顔つきをして話していますね」とアリョーシャは不安げに注意した。「何だか気でもちがったようですよ。」
「話のついでに言うが、僕はモスクワであるブルガリヤ人からこんなこと冷聞いたよ。」弟の言葉が耳に天らないかのさまで、イヴァンはこう語りつづけた。「あの国ではトルコ人やチェルケス人が、スラヴ族の一揆を恐れて、到るところで暴行を働くそうだ。つまり家を焼く、天を斬る、女や子供を手籠めにする、囚人の耳を塀へ釘づけにしたまま、一晩じゅううっちゃらかしといて、朝になると頸を絞めてしまう、などと言ったふうで、とうてい想像にもおよばないくらいだ。実際よく人間の残忍な行為を『野獣のようだ』と言うが、それは野獣にとって不公平でもあり、かつ侮辱でもあるのだ。なぜって、野獣は決して人間のように残忍なことはできやしない。あんなに技巧的に、芸術的に残酷なことはできやしない。虎はただ噛むとか引き裂くとか、そんなことしかできないのだ。人間の耳を一晩じゅう釘づけにしておくなんて、よし虎にそんなことができるとしても、思いつけるもんじゃない。とりわけこのトルコ人は一種の情欲をもって、子供をさいなむんだそうだ、まずお手柔かなのは母親の胎内から、匕首をもって子供を抉り出すという辺から始まって、ひどいのになると乳呑児を空《くう》へ抛り上げ、母親の目の前でそれを銃剣で受けて見せるやつさえある。母親の目前でやるというのが、おもなる快感を構成してるんだね。ところが、もう一つ非常に僕の興味をそそる画面があるのさ。まず、一人の乳呑児がわなわな慄える母親の手に抱かれていると、そのあたりには闖入して来たトルコ人の群がいる、こういう光景を想像してごらん。この連中は一つ愉快なことを考えついたので、一生懸命に頭を撫でたり笑わせたりして、当の赤ん坊を笑わせようとしていたが、とうとううまくいって赤ん坊が笑いだしたのさ。この時一人のトルコ人がピストルを取り出して、その顔から一尺と隔てていないところで狙いを定めた。すると、赤ん坊は嬉しそうにきゃっきゃっと笑いながら、ピストルを取ろうと思って小さな両手を伸ばす、と、いきなり芸術家はこの顔を狙って引き金をおろして、小さな頭をめちゃめちゃにしてしまったのだ……いかにも芸術的じゃないか? ついでに言っとくが、トルコ人はすこぶる甘いもの好きだってね。」
「兄さん、何のためにそんな話を持ち出したんです?」とアリョーシャが訊ねた。
「僕が考えてみるのに、もし悪魔が存在しないとすれば、つまり人間が創り出したものということになるね。そうすれば人間は自分の姿や心に似せて、悪魔を作ったんだろうじゃないか。」
「そんなことを言えば、神様だって同じことです。」
「お前は『ハムレット』のポローニアスのいわゆる、言葉をそらすのになかなかえらい才能を持ってるね」とイヴァンが笑いだした。「お前はちゃんと僕の言葉じりを抑えてしまった。いや、結構、大いに愉快だよ。しかし、人間が自分の姿や心に似せて創り出したものなら、お前の神様はさぞかし立派なもんだろうよ。ところで、いまお前は、何のためにあんな話を持ち出したかと訊いたんだね? 実はね、僕はある種の事実の愛好家でかつ蒐集家なので、新聞から手あたり次第に、そうした種類の物語とか逸話とかを、手帳へ書き込んで集めているのだ。もうかなり立派なコレクションができたよ。トルコ人ももちろん集の中に入ってるが、こんなのはみんな外国種だろう。ところが、僕はロシヤ種もだいぶ集めた。そしてその中には、トルコ人よりも一段すぐれたやつさえあるよ。知ってのとおり、ロシヤでは比較的よく擲る。比較的笞や棒が多い、しかもこれが国民的なのだ。わが国では耳を釘づけにするなんて夢想だもできない。われわれは何といってもヨーロッパ人だけれど、しかし笞とか棒とかいうやつは妙にロシヤ的なものになって、われわれから奪い去ることができないくらいだ。外国では今あまり擲ったりなんかしないようだね。人情が美しくなったからか、それとも、人間をぶつことはならぬという法律ができたからか、そこいらはよくわからないが、その代り外国の人は別なもので、――ロシヤ人と同じように純国民的なもので埋め合せをしている。それはロシヤではしょせん行われないほど国民的なものなんだ。もっともロシヤでも、ことに上流社会で宗教運動が始まった頃から、そろそろ移植されかけたようだがね。僕はフランス語から訳した面白いパンフレットを持ってる。これはついこの間、僅か五年ばかり前にスイスのジュネーヴで、ある殺人犯の悪党を死刑にした話が書いてあるのだ。それはリシャールという二十三になる青年で、死刑の間ぎわに悔悟して、キリスト教に入ったんだそうだ。このリシャールは誰かの私生児で、まだ六つばかりの子供の時、両親が山の上に住んでいる羊飼にくれてやったのだ。羊飼は仕事に使おうと思って、その子を大きくしたわけさ。子供は羊飼の間にあって野獣のように成長した。彼らは子供に何一つ教えなかったばかりか、かえって七つばかりの年にはもう羊飼に出したくらいだ。しかも、雨が降ろうが寒かろうが、ろくろく着物も着せなければ、食べ物さえほとんどくれてやらなかったのだ。羊飼の仲間はこんなことをしながらも、誰ひとり悪かったと後悔する者なんかありゃしない。それどころか、かえってそんな権利を持つてるように考えてたのさ。なぜって、リシャールは品物かなんぞのようにもらい受けたものだから、養ってやる必要さえないと思ってたんだからね。リシャール自身の証明によると、その時分この少年は、まるで聖書の中の放蕩息子のように、売り物にするために肥される豚の餌でもいい、何か食べたくてたまらなかったが、それさえ食べさせてもらえなかった。あるとき、豚の食べている餌を盗んだと言って、折檻されたくらいなんだ。こんなふうにして、彼は少年時代、青年時代を過したが、そのうちにすっかり成人して体力も固まったので、自分から進んで泥棒に出かけた。この野蛮人はジュネーブの町で日傭稼ぎをして金を儲け、儲けた金は酒にしてしまって、ならず者のような生活をしていたが、とうとうある老人を殺して持ち物を剥いだのさ。リシャールは早速つかまって裁判を受け、死刑を宣告された。向うのやつはセンチメンタルな同情なんかしないからなあ。ところが、牢へ入るとさっそく、牧師だとか、各キリスト教組合の会員だとか、慈善家の貴婦人だとか、いろんな連中がこの男を取り巻いて、監獄の中で読み書きを教えた挙句、とうとう聖書の講義を始めたのさ。そうして、説いたり、諭したり、嚇したり、賺したりして、ついには当人が荘厳に自分の罪を自覚するにいたった。リシャールはみずから裁判所へ手紙を書いて、自分はしようのないならず者であったが、とうとうおかげをもって神様が自分の心をお照らし下すって、至福を授けて下さりました、とやったわけさ。すると、ジュネーヴじゅうが騒ぎだした。ジュネーヴじゅうの慈善家や道徳家が大騒ぎを始めた。上流の人、教養あるものはことごとく監獄へ押しかけて、リシャールを抱いて接吻するのだ。
『お前はわしの兄弟だ、お前には至福が授かったのだ!』すると、当のリシャールは感きわまって泣くばかりさ。
『そうです、私は至福を授かりました! 私は少年時代から青年時代へかけて、豚の餌を悦んでいましたが、今こそ私にも神様から至福を授かりまして、主のお胸に死ぬることができます。』
『そうだ、リシャール、主のお胸に死ぬがいい、お前は血を流したのだから、主のお胸に死ななければならぬ。お前が豚の餌食を羨んだり、豚の口から餌食を盗んでぶたれたりした時(これはまったくよくないことだ。盗むということは、どうしたって赦されていないからな)、少しも神様を知らなかったのはお前の罪でないとしても、お前は血を流したのだから、どうしても死ななければならない。』やがて最後の日が来た。衰えはてたリシャールは泣き泣きひっきりなしに、
『これは私の最もよき日です。なぜと言って、私は主のおそばへ行くからです』と口癖のように言うと、牧師や裁判官や慈善家の貴婦人たちは、
『そうだ、これはお前の一ばん幸福な日だ、なぜと言って、お前は主のおそばへ行くからだ!』こんな連中がぞろぞろと、リシャールの乗っている囚人馬車の後から、徒歩や車で刑場さしてついて行くのだ。やがて刑場へついた。
『さあ、死になさい、兄弟』とリシャールに向って喚く。『主のお胸に死になさい、なぜと言って、お前にも神の至福が授かったからだ。』こうして、人々は兄弟のリシャールに、一ぱいべたべたと兄弟の接吻をした後、刑場へ曳き入れてギロチンヘのせ、ただこの男に至福が授かったからというだけの理由で、いともやさしく首を刎ね落した。まったくこの話は外国人の特性を立派に現わしてるよ。このパンフレットは、ロシヤの上流社会に属するルーテル派の慈善家の手で露語に翻訳されて、口シヤ人民教化のために、新聞雑誌類の無代付録として分配された。リシャールの一件の面白いところは、国民的な点にある。ロシヤでは、ある人間がわれわれの兄弟になったからといって、――その人間がお恵みを授かったからといって首を斬り落すなんて、ばかばかしく思われる。しかし、繰り返して言うが、ロシヤにもやはり自己独得のものがある、ほとんどこの話に負けないくらいだよ。
 ロシヤでは、人を擲っていじめるのが、歴史的、先天的、直接的快楽となっている。ネクラーソフの詩に、百姓が馬の目を――『すなおな目』――を鞭で打つところを歌ったのがある。あんなのは誰の目にでも触れることで、ルッシズムと言っていいくらいだ。この詩人の描写によると、力にあまる重荷をつけたよわよわしい馬は、ぬかるみに車輪を取られて引き出すことができないのだ。百姓はそれをぶつ、獰猛にぶつ、しまいには、自分でも何をしてるかわからず、ぶつという動作に酔うて、力まかせに数知れぬ笞の雨を降らすのだ。『よしんばお前の手に合わなくっても、曳け、死んでも曳け!』馬が身をもがくと、百姓は可哀そうに泣いているような、とはいえ『すなおな目』の上を、ぴしぴしと容赦なくぶち始める。こっちは夢中になって身をもがいて、やっと曳き出す。そして、体じゅうぶるぶる慄わせながら、息もしないで身を斜めに向けるようにして、妙に不自然な見苦しい足どりで、ひょいひょい飛びあがりながら曳いて行く、――この光景がネクラーソフの詩の中に恐ろしいほどよく現われている。しかし、これはたかが馬の話だ。馬はぶっために神様から授かったものだ、とこう韃靼人がわれわれに説明して、それを忘れぬように鞭を授けてくれたんだよ。
 しかし、人間でもやはりぶつことができるからね。現に、知識階級に属する立派な紳士とその細君が、やっと七つになったばかりの生みの娘を笞で折檻している、――このことは僕の手帳に詳しく書き込んであるよ。親父さんは棒切れに節瘤があるのを悦んで、『このほうがよくきくだろう』なんかって言うじゃないか。そうして、現在肉親の娘を『やっつけ』にかかるのだ。僕は正確に知ってるが、中には一打ちごとに情欲と言っていいくらい、字義どおりに情欲と言っていいくらい熱してゆく人がある。これが笞の数を重ねるたびに次第に烈しくなって、幾何級数的に募ってゆくのだ。一分間ぶち、五分間ぶち、やがて十分間とぶつうちに、だんだんと『ききめ』が現われて愉快になってくる。子供は一生懸命に『お父さん、お父さん、お父さん!』と泣き叫んでいるが、しまいにはそれもできないで、ぜいぜい言うようになる。ある時、まるで鬼のように残酷な所業のために、事件は裁判沙汰にまでおよんだのさ。そこで弁護士《アドポカード》が雇われる、――ロシヤ人はだいぶ前から弁護士のことを、『アブラカート(弁護士の俗語)はお雇いの良心だ』などと言うようになったが、この弁護士が自分の依頼者を弁護しようと思って、『これは通常ありがちの簡単な家庭的事件です。父親が自分の娘を折檻したまでの話じゃありませんか。こんなことが裁判沙汰になるというのは、現代の恥辱であります』と呶鳴る。陪審員はこれに動かされて別室へしりぞき、無罪の宣告を与なる。世間の人たちは、その冷酷漢が無罪になったというので、夢中になって悦ぶという段取りさ。いや、僕がその場に居合せなかったのは残念だよ! そうしたら、僕はその冷酷漢の名を表彰するために、奨励金支出の議案でも提出してやったんだがなあ……実にもうポンチ絵だよ。しかし、子供のことなら、僕のコレクションの中にもっと面白い話がある。僕はロシヤの子供の話をうんと集めてるんだよ。アリョーシャ。
 五つになるちっちゃな女の子が、両親に憎まれた話もある。この両親は『名誉ある官吏で、教養ある紳士淑女』なんだ。僕はいま一度はっきりと断言するが、多くの人間には一種特別な性質がある。それは子供の虐待だ、もっとも、子供にかざるのだ。ほかの有象無象に対する時は、最も冷酷な虐待者も、博愛心に充ちた教養あるヨーロッパ人でございと言うような顔をして、慇懃謙遜な態度を示すが、そのくせ子供をいじめることが好きで、この意味において子供そのものまでが好きなのだ。つまり、子供のだよりなさがこの種の虐待者の心をそそるのだ。どこといって行くところのない、誰といって頼るもののない小さい子供の、天使のような信じやすい心、――これが虐待者のいまわしい血潮を沸すのだ。もちろん、あらゆる人間の中には野獣がひそんでいる。それは怒りっぼい野獣、責めさいなまれる犠牲の叫び声に情欲的な血潮を沸す野獣、鎖を放たれて抑制を知らぬ野獣、淫蕩のために痛風だの肝臓病だのいろいろな病気にとっつかれた野獣なのだ。で、その五つになる女の子を、教養ある両親は、ありとあらゆる拷問にかけるんだ。自分でも何のためやらわからないで、ただ無性にぶつ、叩く、蹴る、しまいには、いたいけな子供の体が一めん紫脹れになってしまった。が、とうとうそれにも飽きて、巧妙な技巧を弄するようになった。ほかでもない、寒い寒い極寒の時節に、その子を一晩じゅう便所の中へ閉じ籠めるのだ。それもただその子が夜中にうんこを知らせなかったから、というだけなんだ(一たい天使のようにすやすやと寝入っている五つやそこいらの子供が、そんなことを知らせるような知恵があると思ってるのかしら)。そうして洩らしたうんこをその子の顔に塗りつけたり、無理やりに食べさしたりするのだ。しかも、これが現在の母親の仕事なんだからね! この母親は、よる夜なか汚いところへ閉じ籠められた哀れな子供の呻き声を聞きながら、平気で寝ていられるというじゃないか! お前にはわかるかい、まだ自分の身に生じていることを完全に理解することのできないちっちゃな子供が、暗い寒い便所の中でいたいけな拳を固めながら、痙攣に引きむしられたような胸を叩いたり、悪げのない素直な涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ、――え、アリョーシャ、お前はこの不合理な話が、説明できるかい、お前は僕の親友だ、神の聴法者だ、一たい何の必要があってこんな不合理が創り出されたのか! 一つ説明してくれないか! この不合理がなくては、人間は地上に生活してゆかれない、何となれば、善悪を認識することができないから、などと人は言うけれども、こんな価を払ってまで、くだらない善悪なんか認識する必要がどこにある? もしそうなら、認識の世界ぜんたいを挙げても、この子供が『神ちゃま』に流した涙だけの価もないのだ。僕は大人の苦痛のことは言わない。大人は禁制の木の実を食ったんだから、どうとも勝手にするがいい。みんな悪魔の餌食になったってかまやしない。僕が言うのは、ただ子供だ、子供だけだ! アリョーシャ、僕はお前を苦しめてるようだね。まるで人心地もなさそうだね。もし何ならやめてもいいよ。」
「かまいません、僕もやはり苦しみたいんですから」とアリョーシャは呟いた。
「も一つ、もうほんの一つだけ話さしてくれ。それもべつに意味はない、ただ好奇心のためなんだ。非常に特殊な話だが、ついこのあいだ、ロシヤの古い話を集めた本で読んだばかりなのだ。『記録《アルヒーフ》』だったか『古代《スタリーナ》』だったか、よく調べてみなければ、何で読んだか忘れてしまった。それは現世紀の初葉、農奴制の最も暗黒な時代のことなんだ。まったくわれわれは農民の解放者(アレクサンドル二世)に感謝を捧げなくちゃならないのだよ! その現世紀の初め頃に一人の将軍がいた。立派な縁者知人をたくさんもった素封家の地主であったが、職をひいてのん気な生活に入ると同時に、ほとんど自分の家来の生殺与奪の権利を獲得したもののように信じかねない連中の一人であった、(もっとも、こんな連中はその当時でも、あまりたくさんいなかったらしいがね)。しかし、時にはそんなのもいたんだよ。さて、この将軍は二千人から百姓のいる自分の領地で暮しているので、近所のごみごみした地主などは、自分の居候か道化のように扱って、威張りかえっていたものだ。この家の犬小屋には何百匹という犬がいて、それに百人近い犬飼がついていたが、みんな制服を着て馬に乗ってるのさ。ところが、あるとき召使の息子で、やっと九つになる小さい男の子が、石を抛って遊んでるうちに、誤って将軍の愛犬の足を挫いたんだ。『どういうわけで、おれの愛犬は跛をひいておるのか?』とのお訊ねで、これこれ
の子供が石を投げて愛犬の足を挫いたのです、と申し上げる『ははあ、これは貴様の仕業か』と将軍は子供を振り返って、『あれを捕まえい!』で、人々はその子を母の手から奪って、一晩じゅう牢の中へ押し籟めた。翌朝、夜の明けきらねうちに、将軍は馬に跨って、正式の出猟のこしらえでお出ましになる。そのまわりには居候どもや、犬や、犬飼や、勢子などが居並んでいるが、みんな馬上姿だ。ぐるりには召使どもが、見せしめのために呼び集められている。その一ばん前には、悪いことをした子供の母親がいるのだ。やがて、子供が牢から引き出されて来た。それは霧の深い、どんよりした、うそ寒い秋の日で、猟にはうってつけの日和だ。将軍は子供の着物を剥げと命じた。子供はすっかり丸裸にされて、ぶるぶる慄えながら、恐ろしさにぼうっとなって、うんともすっとも言えないのだ……『それ、追えい!』と、将軍が下知あそばす。『走れ、走れ!』と勢子どもが呶鳴るので、子供は駆け出した……と、将軍は『しいっ!』と叫んで、猟犬をすっかり放してしまったのだ。こうして母親の目の前で、獣かなんぞのように狩り立てたので、犬は見る間に子供をずたずたに引き裂いてしまった!………その将軍は何でも禁治産か何かになったらしい。そこで……どうだい? この将軍は死刑にでも処すべきかね? 道徳的感情を満足さすために、死刑にでも処すべきかね? 言ってごらん、アリョーシャ!」
「死刑に処すべきです!」蒼白い歪んだような微笑を浮べて兄を見上げながら、アリョーシャは小さな声でこう言った。「ブラーヴォ!」とイヴァンは有頂天になったような声で呶鳴った。「お前がそう言う以上、つまり……いや、どうも大変な隠遁者だ! そらね、お前の胸の中にも、そんな悪魔の卵がひそんでるじゃないか、え、アリョーシカ・カラマーゾフ君!」
「僕は馬鹿なことを言いました、しかし……」
「つまり、その『しかし』さ……」とイヴァンは叫んだ。「ねえ、隠遁者君、この地上においては、馬鹿なことが必要すぎるくらいなんだ。世界は馬鹿なことを足場にして立ってるので、それがなかったら、世の中には何事も起りゃしなかったろうよ。われわれは知ってるだけのことしか知らないんだ!」
「兄さんは何を知っています?」
「僕は何にも理解することができない。」譫言でも言っているように、イヴァンは語をついだ。「今となって僕は、何一つ理解しようとも思わない。僕は事実にとどまるつもりだ。僕はずっと前から理解すまいと決心したのだ。何か理解しようと思うと、すぐに事実を曲げたくなるから、それで僕は事実にとどまろうと決心したのだ。」
「何のために兄さんは僕を試みるのです?」アリョーシャは引っちぎったような調子で、悲しげに叫んだ。「もういい加減にして言ってくれませんか?」
「むろん、言うとも。言おうと思って話を持ってきてるんだもの。お前は僕にとって大切な人だから、僕はお前を逃したくないのだ。あのゾシマなんかに譲りゃしない。」
 イヴァンは、ちょっと口をつぐんだが、その顔は急に沈んできた。
「いいかい、僕は鮮明を期するために子供ばかりを例にとった。この地球を表皮から核心まで浸している一般人間の涙につ