京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

伏見事件 記事の題名一覧 リンク集

伏見事件 新聞記事・雑誌記事の一覧 『京都新聞』その1(2019年7月18日-11月21日) - オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会
京都アニメーション放火殺人事件の報道についての公開質問状 - オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会
朝日新聞社・毎日新聞社への公開質問状を出しました(追記あり) - オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会
伏見事件 新聞記事・雑誌記事の一覧 『京都新聞』その2(2019年11月21日-2020年5月29日)(追記の予定あり) - オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会
伏見事件 新聞記事・雑誌記事の一覧 『朝日新聞』その1 (2019年7月18日-2020年6月19日)(追記あり) - オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会
伏見事件 新聞記事・雑誌記事の一覧 『毎日新聞』その1 (2019年7月19日-2020年6月10日)(追記予定) - オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会
伏見事件 新聞記事・雑誌記事の一覧 『週刊現代』『週刊新潮』『週刊SPA』『週刊文春』その1(追記予定) - オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会



京都アニメーション放火殺人事件の報道についての公開質問状 - オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会

ロシア・Достое́вский地域での業務日記 58日目

国民化(と”社会人”化)の過程の分析を一から組み立てなおさないといけない。オウム事件とJCO臨界事故の時がそうだった。各政治事件と、相模原・伏見・川崎・そして座間の事件、この4つは間違いなく政治上の事件である。

すこし、息つぎ。
ドラえもん』と藤子・F・不二雄の伝記を読んでいて思ったこと。1970年―1973年に、すこしでも評価した人がみつからないということ! 同年代の『おそ松くん』『ブラック・ジャック』、年下の『クレヨンしんちゃん』『名探偵コナン』『プリキュア(シリーズ)』、もっと年下の『鬼滅の刃』『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』では、そのようなことはなかったはずである。『ドラえもん』がこの時期にまともな評価をされなかったとするならば、それはポピュラーカルチャーの歴史において重大な負の歴史である。ちなみに、藤子・F・不二雄はどの部門の星雲賞も受賞していない。
現役50年をよい機会として、無反応に耐えた時期を振り返ってやるべきだ。今のマンガを背負う人たちが、それができないほど、ひよわで情けないはずがない。

『カラマーゾフの兄弟』P154-157   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦58日目]

ような美しさも、三十近くなったら調和を失ってぶくぶく肥りだし、顔まで皮がたるんでしまって、目のふちや額には早くも小皺がよりはじめ、顔の色は海老色になるかも知れない、――つまり、ロシヤ婦人の間によくある束の間の美、流星の美だというのである。
 アリョーシャは、もちろん、そんなことを考えなかったばかりか、ほとんど魅了されていたくらいであるが、しかし、どうしてこのひとはあんなに言葉を引き伸ばして、自然なものの言い方ができないのだろうと、何となく不愉快な感触をいだきながら、妙に残念な心持で、自分で自分に問いかけるのであった。見受けたところ、彼女がこんなことをするのは、こういうふうに言葉や音を引き伸ばして、いやに甘ったるい調子をつけるのを、美しい話しぶりだと思っているらしい。もちろん、これはただの悪い習慣であって、彼女の教育程度の低いことと、子供の時分から礼儀というものについて俗な観念を叩き込まれているのを証明するのみであった。が、それにしても、この発音と語調とは、子供らしい単純な顔の表情や、赤ん坊にのみ見られる穏かな幸福らしい目の輝きに対して、ほとんどあり得べからざる矛盾を形作っているように、アリョーシャには感じられた。
 カチェリーナはさっそく、彼女をアリョーシャの真向いにある肘椅子にかけさして、その笑みをふくんだ唇を夢中になって幾度も接吻した。彼女はさながら恋せる人のようであった。
「アレクセイさん、わたしたちは初めて会ったんですの」と彼女は有頂天になって叫んだ。「わたしこのひとに会って、このひとの性質《ひととなり》が知りたくて、自分のほうから先に出かけようかと思っていたところ、このひとがわたしの招きに応じて、一度で自分から来て下すったんですの。このひとと一緒だったら、何もかもすっかり、本当にすっかり解決ができるに違いないと思いました。わたしの胸はそれを予感していました……わたしこう決心した時、みんなにとめられましたけど、それでもちゃんと結果を予感していました。そして、案の定、間違っていませんでしたわ。グルーシェンカは何もかも打ち明けてくれました。自分の考えをすっかり聞かしてくれました。このひとは、ちょうど天使のように、ここへ飛んで来て、慰めと悦びをもたらしてくれたんですの……」
「あなたはわたしのようなものでも、おさげすみになりませんでした、本当に優しいお嬢さまでいらっしゃいますわねえ。」やはり例の愛嬌のいい嬉しそうな笑みを浮べたまま、グルーシェンカは歌でも歌うように言葉じりを引いた。
「まあ、あなた、かりにもそんなことをわたしにおっしゃんなよ! あなたのような美しい魅力のある人をさげすむなんて! よくって、わたしあなたの下唇を接吻するわ。あなたの下唇はまるで脹れたようになってるから、もっと脹れぼったくなるように接吻して上げてよ、も一度……も一度……ねえ、アレクセイさん、あの笑顔をごらんなさい。ほんとうにこのエンゼルの顔を見てると、心がうきうきしてきますわ……」
 アリョーシャは顔を赧らめて、目に見えぬほど小刻みに顫えていた。
「あなたはそんなにわたしを可愛がって下さいますが、もしかしたら、わたしはまるでそんなことをしていただく値うちのない女かもしれませんよ。」
「値うちがないんですって? このひとにそれだけの値うちがないんですって!」とカチェリーナはまたしても以前と同じ熱中した調子で叫んだ。「ねえ、アレクセイさん、このひとはずいぶんとっぴなことを考えだす人ですけれど、その代りごくごく誇りに充ちた、自由な心を持ってらっしゃるんですよ! アレクセイさん、このひとが高尚な、そして度量の広い方だってことをご存じ? ただこのひとは不仕合せだったのです。このひとはつまらない軽薄な男のために、あらゆる犠牲をはらうのを急ぎすぎたのです。ずっと以前、五年ばかり前のことです、一人の男がありました。やはりこれも士官でしたが、このひとはその男を愛して、一切のものをその士官に捧げたのです。ところが、男はこのひとのことを忘れて、結婚してしまいました。この頃になって、その男は奥さんに死なれて、ここへ来るという手紙をよこしたのです、――ところが、どうでしょう、このひとは今でもその男一人を、天にも地にもその男一人を愛しているのです、今までずっと愛し通していたんですの。その男が帰って来たら、このひともまた幸福になるんですの。けれど、この五年間というもの、このひとは不幸な身の上だったんですわ。でも、このひとを咎めるのは誰でしょう、この立派な心がけを褒めてくれるのは誰でしょう? あの、足の立たないお爺さん、商人のサムソノフー人きりじゃありませんか、――それもどっちかと言えば、まあこのひとのお父さんか友達か、でなければ保護者といったほうが近いくらいなんですもの。このお爺さんは、そのとき恋人に捨てられて絶望と苦痛の申に沈んでいるグルーシェンカに出くわしたんですの……まったくこのひとはその時、身投げしようとまで思いつめてたんですからね……そういうわけで、あのお爺さんはこのひとにとって命の親ですわ、命の親ですわ!」
「お嬢さま、あなたは大変わたしをかばって下さいますのねえ、あなたは万事につけてあまり気がお早すぎますわ」とまたグルーシェンカは言葉じりを引いた。
「かばうですって? まあ、あなたをかばったりなんかできますか、そんな生意気なことがわたしにできますか? グルーシェンカ、エンゼル、あなたのお手を貸してちょうだい。ねえ、アレクセイさん、わたしこのふっくらした小さな美しい手を接吻しますわ。あなたこの手をごらんなすったでしょう、この手はわたしに幸福をもたらして、わたしを復活さしてくれたんですの。よござんすか、わたし今この手を接吻しますよ、甲のほうも、掌のほうも、ほらね、もう一度……もう一度!」
 彼女は有頂天になったようなふうで、あまり脹れぼったすぎるくらいなグルーシェンカの手を、本当に三度まで接吻するのであった。こちらはその小さな手をさし伸べて、神経的な、響きのいい美しい笑い声をたてながら、『お嬢さま』のすることをじっと見まもっていた。見たところ、彼女はこんなふうに自分の手を接吻してもらうのが、いかにも気持よさそうであった。『あまり有頂天になりすぎているかもしれない』という考えが、ちらとアリョーシャの頭をかすめた。彼は急に顔を赧くした。あやしい胸騒ぎが初めからずっとやまないのであった。
「お嬢さま、アレクセイさんの前であんなふうに接吻なんかして、わたしに恥をかかせないで下さいましな。」
「わたしがあんなことをしたからって、あなたに恥をかかすことになるんでしょうか」とカチェリーナはいくぶん驚いたように言った。「あなたにはわたしの心持がおわかりにならないのねえ!」
「いいえ、あなたこそわたしの心持が、本当におわかりにならないのかもしれませんわ、お嬢さま。わたしあなたのお目に映るよりか、ずっと悪い女かもしれませんもの。わたしは心の悪いわがままな女ですからね。ドミートリイさんだってい、ただちょっとからかってやろうというつもりで、あの時とりこ[#「とりこ」に傍点]にしてしまったくらいですもの。」
「でも、今ではそのあなたが、あの人を救おうとしてらっしゃるじゃありませんか。あなた、そう約束なすったでしょう、――あなたがもうとうからほかの人を愛していて、しかもその人が今あなたに結婚を申し込んでるってことを、あの人に知らせて目をさまして上げますって……」
「まあ、違いますわ、わたしそんな約束をしたことはありませんよ。それはあなたが一人でお話しになったばかりで、わたし約束も何もしやしませんわ。」
「じゃ、わたし思い違いをしたんですね。」カチェリーナは心もち青くなって、小さな声でこう言った。「あなたお約束なすったじゃありませんか……」
「いいえ、お嬢さま、わたし何にも約束なんかしませんわ。」依然として楽しそうな罪のない表情をしたままで、静かに落ちつ。きはらってグルーシェンカは遮った。「ねえ、これでおわかりになったでしょう、お嬢さま、わたしはあなたにくらべると、こんなに厭な、気ままな女なんですからね。わたし、気が向きさえしたら、すぐそのとおりにしてしまう性分なんですの。さっきは、本当に何かお約束した加もしれませんけど、今またふいと考えてみると、また急にあの人が好きになるかもしれませんもの、あのミーチャがね、――もう以前だって、あの人が好きになったことがあるんですよ、まる一時間ぐらい、ずうっと気に入ってたわ。ですから、今すぐにも帰って行って、今日からさっそく、うちに落ちついておしまいなさいって、あの人に言わないともかぎりませんわ……わたし、こんなに気の変りやすい女ですの……」
「さっきあなたがおっしゃったのは……まるで違ってましたわ……」カチェリーナはやっとのことで、これだけ呟いた。
「ああ、さっきはねえ! わたし気の脆い馬鹿な女ですから、あの人がわたしのために、どんな苦労をしたか考えてみただけでもねえ! 本当に家へ帰ってみて、急にあの人が可哀そうになったら、その時どうしましょう?」
「わたしまったく思いがけませんでしたわ……」
「まあ、お嬢さま、あなたはわたしにくらべると、なんて立派な気高いお方でしょう! もう今となったら、こういう気性を知っただけで、わたしみたいな馬鹿には愛想をおつかしなすったでしょう。お嬢さま、その優しいお手を貸して下さいまし。」彼女はしとやかな調子でこう言って、うやうやしくカチェリーナの手を取った。「ねえ、お嬢さま、わたしはあなたのお手を取って、さっきわたしにして下すったのと同じように接吻します。あなたはわたしに三度接吻して下さいましたが、わたしは三百ぺんも接吻しなければ勘定がすみませんわ。それだけのことはしなくちゃなりません。そのあとは神様の思召し次第で、もしかしたら、わたしはすっかりあなたの奴隷になりきって、万事あなたのお気に召すようにするかもしれませんわ。わたしたちの間で相談や約束をしなくっても、神様がきめて下すったとおりになって行くんですからねえ。まあ、このお手、なんて可愛いお手でしょう! 美しいお嬢さま、ほかにまたと類のないお嬢さま!」
 彼女は接吻の勘定をすますという奇妙な目的をもって、この『お手』をそろっと自分の唇へ持って行った。カチェリーナはその手を引かなかった。彼女は臆病な希望をいだきつつ、『奴隷のように』あなたのお気に召すようにするという、グルーシェンカの最後の約束(もっとも、奇妙な言い廻しではあるけれど)を聞いたのである。彼女は張りきった様子で相手の目を見つめた。その目の中には依然として、かの信頼の念に充ちた単純な表情と、はればれとした楽しげな色が窺われた。
『この女はあまり無邪気すぎるのかもしれない』という希望が、カチェリーナの心をかすめた。グルーシェンカはその間に、『可愛いお手』で夢中になったようなふうつきで、そろそろとその手を唇へ持っていった。が、唇のすぐそばまで持っていった時、とつぜん何やら思いめぐらすかのさまで、二三秒の間じっとその手をとめてしまった。
「ねえ、お嬢さま、」彼女は恐ろしくしなしなした甘ったれた声で、言葉じりを引きながらだしぬけにこう言った。「ねえ、わたしあなたのお手を取りましたけど、接吻はやめておきますわ。」
「どうなとご勝手に……一たいあなたどうなすったの?」とカチェリーナはふいに身ぶるいした。
「ですから、よく覚えておいて下さいまし、あなたはわたしの手を接吻なすったけれども、わたしはしなかったってね。」突然、彼女の目に何やらひらめいた。彼女は穴のあくほど相手の顔を見つめるのであった。
「生意気な!」ふいに何ものかを悟ったように、カチェリーナは口走って、かっと赧くなって椅子を跳びあがった。グルーシェンカも悠然と立ちあがっ化。
「わたしミーチャにもさっそく話して聞かせてやりましょう、――あなたはわたしの手を接吻なすったけれど、わたしはこれっから先もしなかったって。さぞあの人が笑うことでしょうよ!」
「穢らわしい、出て行け!」
「まあ、恥しい、お嬢さま、なんて恥しいことでしょう、あなたのお身分で、そんなはしたないことをおっしゃるなんて。」
「出て行け、売女《ばいた》!」とカチェリーナは甲走った声で叫んだ、――すっかり歪んでしまったその顔の筋肉が一本一本慄えるのであった。
「売女なら売女でよござんすが、あなたご自身だって生娘のくせに、夕方わかい男のところへお金ほしさにいらしったじゃありませんか、その美しい顔を売りにいらしったじゃありませんか、わたしちゃんと知ってますよ。」
 カチェリーナは一声たかく叫んで、相手に飛びかかろうとしたが、アリョーシャが一生懸命に抱きとめた。
「ひと足も出ちゃいけません! 一ことも言っちゃいけません! 何もおっしゃんな、あのひとはすぐに帰ります、今すぐ帰ります!」
 この瞬間カチェリーナの伯母が二人と、それに小間使が、叫

京都アニメーション放火殺人事件から一年後 いまはこれで十分だ

わたしの考えでは、マスコミ関係者もインターネット関係者もポピュラーカルチャー関係者も、京都アニメーション放火殺人事件と”同じような事件”をふせぎたいと思っていないし、思うことができないし、意欲も能力もない。
これはまちがっているはずだ。まちがっているはずなんだ。日本のポピュラーカルチャーを背負う人たちが、中井久夫先生のようなベテランに助言をもとめるぐらいの積極性がないはずがない。そんな情けないみっともないことがあっていいはずなない。しかし、まちがっていないらしい。恐ろしいことだ。国民化の分析をやりなおさないといけない。それにしても、「世に棲む患者」を”使い倒す”ぐらいのことは求めてもいいはずだが。


マスコミ関係者とインターネット関係者の共通の弱点(日本だけ、海外は知らないので言えないだけ)

1 できることもできない。できること一覧をつくることもできない
2 わからないことを、わからないといえない。ものをよく見てない。
3 経験のある年寄りに助けを求めない。たとえば、中井久夫先生など。
4 待つことができない。
5 史料をあつめられない。
0 最初に戻って言うならば、まともな判断をするつもりがない。

1分で書き終えた。当たっているならば、これで十分だ。
史料集めやっているのはわたしの勝手だが、他人の役に立つように行動してきたつもりだ。それが全部踏みつけにされた、と事態を観察してすぐに思った。

資料集
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『カラマーゾフの兄弟』P150-153   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦57日目]

に対する考えを、あんな偉そうな調子で言ったのが恥しくもあった。
 こういうことがあっただけに、いま自分のほうへ駆け出して来たカチェリーナを一目見た時、彼の驚きはなおさら強かった。もしかしたら、あの時の考えがまるで誤っていたかもしれない、と感じたくらいである。いま彼女の顔はわざとならぬ善良な心持と、一本気な、熱しやすい真心に輝いていた。あの時あれほどまでにアリョーシャを驚かした、思いあがった傲慢な態度の中から、いまはただ勇敢で潔白なエネルギーと、はればれした力強い自信が窺われるばかりであった。愛する男との関係から生じた自分の位置の悲劇性《トラギズム》は、彼女にとって毫も秘密でないばかりか、彼女はもはや一切のことを、-何から何まで一切のことを承知しているのかもしれない。アリョーシャは彼女の顔を一目見、その声を一こと聞いたばかりで、こう直覚した。が、それにもかかわらず、彼女の顔には未来に対する信仰と光明とがみちみちていた。
 アリョーシャは急に自分が彼女に、意識して重大な罪を犯しているように思われだした。彼は一瞬の間に征服せられ、牽きつけられてしまったのである。そのほか、彼はカチェリーナの最初の言葉を聞いたばかりで、彼女が何かしら異常な興奮、ほとんど歓喜ともいうべき興奮の状態にあることを見てとった。
「わたしがそんなにあなたをお待ちしていたわけはね、いま本当のことを聞かして下さるのはあなただけだからですの。ほかにそんな人は一人もありません!」
「僕が来たのは……」アリョーシャは、まごつきながら言い出した。「僕……兄さんの使いで来たのです……」
「ああ、兄さんがよこしなすったんですって? わたしもそうだろうと思ってましたわ。今はもう、何でもわかってますのよ、すっかり!」とカチェリーナは急に目を輝かしながら叫んだ。「あのね、アレクセイさん、わたしどういうわけで、そんなにあなたをお待ちしたかってことを、前もってお話しておきますわ。もしかしたら、わたしはあなたよりずっとたくさん、いろんなことを知ってるかもしれませんのよ。わたしがあなたから伺いたいのは、事実の報告じゃありません。あなたがご自身でお受けなすったあの人の最近の印象が知りたいんでございますの。どうか遠慮も飾り気もなく、あの人の近状を話して聞かして下さいませんか。無作法な話でもかまいません(えええ、いくら無作法な話でもようござんすわ!) 一たいあなたは今の兄さんを何とごらんになります? そして今日あなたと会ってから後の兄さんの状態を、何とごらんになりまして? これはわたしが自分であの人に話すよか、きっといいに相違ないと思いますわ。あの人はもうわたしのところへ来ないつもりでいるんです。わたしが何をあなたから望んでいるか、これでおわかりになりましたでしょう? さあ、今度はあの人が何用であなたを使いによこしなすったか(わたし必ずよこしなさるだろうと思ってましたわ!)どうぞ手短かに、一ばん肝心なところを聞かして下さいません!………」
「兄さんはあなたに……よろしく言ってくれ、もう今後決して足踏みしないから、……あなたによろしく言ってくれ……って申しました。」
「よろしく? あの人がそう言ったんですの、そのとおりの言い廻しをしたんですの?」
「ええ」
「もしかしたら、ひょいと何の気なしに言ったのかもしれませんね。間違って妙な言葉が、口に出たのかもしれませんわね。」
「いいえ、兄さんはこの『よろしく』という言葉を、ぜひ伝えてくれって言いつけたのです。忘れないように伝えてくれって、三度も念を押したのです。」
 カチェリーナはかっと赧くなった。
「アレクセイさん、どうぞわたしに一つ力添えをして下さいな。今こそ本当にあなたのご助力が必要なんですの、わたし自分の考えを言ってみますから、あなたはそれについて、わたしの考えが正しいかどうか、おっしゃって下さいませんか。ようござんすか、もしあの人が何の気なしによろしく言ってくれって、あなたに言いつけたのでしたら、――つまり、特別この言葉に力を入れて、この言葉をぜひ伝えるように念を押さなかったのですと、それがもうすべてなのです……それで万事おしまいなのです! けれど、もしあの人が特別この言葉に念を押して、特別この『よろしく』を忘れないでわたしに伝えるように言いつけたのですと、あの人はつまり、興奮していたということになります。ひょっとしたら、前後を忘れていたのかもしれませんね。決心はしながらも、自分で自分の決心を恐れているのです! 確かな足どりでわたしのそばを離れたのでなく、急な坂を走って下りたのです。この言葉に力を入れたのは、ただのから威張りだという証拠じゃないでしょうか……」
「そうです、そうです!」とアリョーシャは熱心に叫んだ。
「僕にも今そう思われます。」
「もしそうでしたら、あの人はまだ駄目じゃありません! ただ自暴になってるだけですから、わたしはあの人を救うことができます。それはそうと、あの人は何かお金のことを、三千ルーブリのことをあなたに話しませんでしたか?」
「話したばかりじゃありません。これが一ばん烈しく兄さんを苦しめているらしいのです。兄さんはもうこうなっては、身の潔白まで奪われたのだから、どうなったって同じことだと言ってました」とアリョーシャは熱くなって叫んだ。彼は、自分の心にむらむらと希望が湧き起って来るのを感じ、本当に兄のために救済の道が開けだのかもしれない、というような気持がした。「しかし、あなたは一たい……あの金のことをご存じなんですか?」と言いたしたが、急に言葉を切ってしまった。
「とうから知ってますわ。正確に知ってますわ、わたしモスクワへ電報で問い合せて、お金が着いてないってことを、とうに知りました。あの人はお金を送らなかったのです、けれど、わたしは黙ってましたの。先週になって初めてあの人にお金のいったこと、そして今でもいることを知りました……わたしはこのことについて、ただ一つの目的を定めましたの。つまりあの人が、自分は結局誰の手へ帰ったらいいか、そして誰が自分の一ばん忠実な親友かってことを、悟ってくれるように仕向けたいのでございます。ところがあの人は、わたしがその一ばん忠実な友達だってことを、信じてくれないんですの。わたしの心を見抜こうとしないで、ただ女としてわたしを見ているのでございます。わたしはまる一週間、おそろしい心配に苦しめられました、――あの人が例の三千ルーブリの使い込みを恥と思わないようにするには、一たいまあどうしたらいいだろうと思いましてねえ。それはもう、世間の人や、自分自身に恥じるのはかまいませんけれど、わたしに恥じることだけはさせたくありませんの。だって、あの人も神様には少しも恥じないで、一切を打ち明けてるじゃありませんか。それだのに、わたしがあの人のためにどんな辛抱でもできるってことを、なぜ今まで知ってくれないんでしょう? なぜ、なぜあの人にはわたしの心がわからないんでしょう? ああいうことがあった後だのに、どうしてわたしの心を知らずにいられるのでしょう? わたしはどこまでもあの人を助けとうございます。あの人が許嫁としてのわたしを忘れたってかまいません! それだのに、あの人はわたしに対して、身の潔白なんか心配してるんですもの! だってねえ、アレクセイさん、あなたには何の恐れもなしに打ち明けたじゃありませんか。一たいわたしはどうして今まで、それだけのこともしてもらえないんでしょう?」
 終りのほうの言葉は涙の中から聞えてきた。涙が彼女の目からはふり落ちるのであった。
「僕はたったいま兄さんと父との間に起ったことを、あなたにお話しなきゃなりません」とアリョーシャも同様に顫える声で言った。彼はさきほどの一場をすっかり話した。金の使いで父のもとへ行ったこと、そこへ兄が闖入して、父を殴打したこと、そのあとで兄がとくにもう一度彼に向って、『よろしく』のことづけに念を押したこと、などを物語ったのである。
「兄さんはそれからあの女のところへ行きました……」と彼は低い声でつけたした。
「まあ、あなたはわたしがあのひとを嫌ってるとでも思ってらっしゃるの? 兄さんもそう思ってるのでしょうか、わたしあのひとが厭でえまらないなんて? けれど、兄さんはあのひとと結婚しませんよ。」ふいに彼女は神経的に笑いだした。「一たいカラマーゾフの人が、いつまでもあんな情欲に燃えることができるでしょうか! 丸え、あれは情欲ですわ、愛じゃありませんとも。兄さんは、結婚なんかしませんよ、だってあのひとが承知しませんもの……」突然またカチェリーナは奇妙な薄笑いをもらした。
「しかし、兄さんは結婚するかも知れませんよ」とアリョーシャは目を伏せながら、悲しげな調子でこう言った。
「いいえ、結婚しません、わたし受け合いますわ!」
 あの娘さんはまるで天使のような人ですよ、あなたそれをご存じ? あなたそれをご存じ?」突然カチェリーナは異常な熱をおびた声で叫んだ。「あの娘さんはまったくほかに類のないくらい、ロマンティックな人なんですよ! わたし、あのひとがずいぶん誘惑の力を持っているのも知ってますが、またあのひとが親切でしっかりしていて、しかも高尚な娘さんだってことも承知しています。何だってあなたそんな目をして、わたしをごらんなさるんですの? 大方わたしの言うことにびっくりなすったのでしょう、たぶんわたしの言うことを本当になさらないんでしょう? アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ!(グルーシャの正確な呼び方)」とふいに彼女は次の間に向って、こう誰かを呼びかけた。「こっちへいらっしゃいな、ここにいらっしゃるのはアリョーシャですよ。もうわたしたちのことはすっかり知ってらっしゃるんですから、こちらへ出て挨拶をなさいな!」
「わたしカーテンの陰で、あなたが呼んで下さるのを、今か今かと待ってましたのよ」という幾分あまったるいくらい優しい女の声が聞えた。
 と、とばりがもちあがって……当のグルーシェンカが嬉しそうに笑いながらテーブルに近づいた。アリョーシャは腹の中がひっくり返ったような気がした。彼の目は女の方へ吸いつけられて、引き放すことができなかった。ああ、これがあの女なのだ。兄イヴァンが三十分まえに口をすべらして、『獣』と言ったあの恐ろしい女なのだ。そのくせ、いま彼の前に立っているのは、ちょっと見たところきわめてありふれた単純な女、人の好さそうな愛くるしい女であった。かりに美人であるとしても、美しいけれど『ありふれた』世間一般の女に似たり寄ったりの美人であった。しかし、何といっても美しいには相違ない、非常にと言ってもいいくらいである……つまり、多くの人から夢中になるくらい愛される、ロシヤ式の美しさであった。彼女はかなり背の高い女であったが、しかし、カチェリーナよりはちょっと低かった(カチェリーナはずぬけて背の高いほうであった)。肉つきはいい方で、体の運動などは、ほとんど音を立てないほど柔かであったが、やはり声と同じように、甘ったるい感じがするくらい、わざとらしくしなしなしていた。
 彼女は、カチェリーナみたいに力の籠った大胆な足どりでなく、反対に音の立たないようにして近づいたのである。その足は床に触れてもまるで音が聞えなかった。彼女は洒落た黒い絹の着物を柔かに鳴らしながら、柔かに肘椅子に腰をおろし、高価な黒い毛織の襟巻で、泡のように白いむっちりした頸と、幅のある肩を、しなしなした手つきでくるんだ。 彼女は二十二であったが、その顔はきっちりこの年齢に相応していた。上品な薄ばら色がほんのりとさして、抜けるほど白い顔の輪郭は、どっちかと言えば帽広なほうで、下頤は心もちそり加減なくらいである。上唇はごく薄かったが、やや突き出た下唇は二層倍も厚くて、脹れぼったかった。しかし、類のないふさふさした暗色《あんしょく》の髪と、黒貂《こくてん》のように黒い眉と、睫の長い灰色がかった空色をした美しい目とは、どんなに雑沓した人込みの中を散歩している気のないそわそわした男でも、思わず視線を向けて、長くその印象を畳み込まずにいられないほどであった。この顔の中で最も強くアリョーシャを打ったのは、子供らしい開けっ放しの表情であった。彼女は子供のような目つきをして、何か知らないが、子供のように悦んでいる様子であった。事実、彼女はさも嬉しそうにテーブルへ近づいたが、その様子はちょうど、今にも何か変っ化ことがあるだろうと信じきって、子供らしい好奇心をいだきながら、じりじりして待ち受けているというようなふうであった。彼女の目つきにも、人の心を浮き立たせるようなところがあった、――アリョーシャもこれを直覚した。
 まだその上に彼女の中には、何とも説明することができないけれど、しかし無意識にそれとなく感じられるあるものがあっ化。それは例の肉体の運動が、柔かくしなやかで猫のように静かなことである。そのくせ、彼女は力の充ち溢れた体をしていた。ショールの下には、幅のある肥えた肩や、むっちり高い、まるでまだ処女のような乳房が感じられた。ことによったら、この体は将来ミロのヴィーナス(ルーヴル所蔵のギリシャ彫刻)の形をとるかもしれない。もっとも、それはもう今でも、その誇張されたプロポーションの中に予想されるのであった。ロシヤ女性美の研究家はグルーシェンカを見て、間違いなしにこういうことを予言し得るであろう、ほかではない、このいきいきしたまだ処女の

『カラマーゾフの兄弟』P146-149   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦56日目]

悲しそうに言った。
「いいや、いいや、いいや。あれはお前の言葉を信用する。今度のはな、お前自身でグルーシェンカのとこへ行くか、それともほかに何とかしてあれに会うて、あれがどっちを取る気でおるか、――わしかあいつか、どっちにする気でおるか、訊いてほしいのだ、早く、少しも早くな。つまり、お前が自分の目で見て察しるのだ。うん? どうだ? できるかできんか?」
「もし会ったら訊いてみましょう」とアリョーシャは当惑したように呟いた。
「いいや、あれはお前に言やあせん」と老人は遮った。「あれはずいぶんあまのじゃくだから、いきなりお前を摑まえて接吻して、お前さんのお嫁になりたいわ、と言うだろうよ。あれは嘘つきだ。恥知らずだ。そうだ、お前はあれのところへ行っちゃならん、断じてならん!」
「それに、またよくないことですよ、お父さん、まったくよくないことですよ。」
「あいつはお前を、どこへ使いにやろうとしておるのかな。さっき逃げて行く時に『行って来い』と喚いたじゃないか?」
「カチェリーナさんのとこです。」
「金の用だろう! 金の無心だろう?」
「いいえ、金の無心じゃありません。」
「あいつは金がないのだ、びた一文もないのだ。おいアリョーシャ、わしは一晩寝てゆっくり考えるから、お前はもう行ってもよいぞ。ことによったら、あれにも会うかもしれんて……しかし、明日の朝、ぜひわしのとこへ来てくれ、きっとだぞ。わしはその時、お前に一つ言いたいことがある。来るかな?」
「来ます。」
「もし来てくれるなら、自分で見舞いに寄ったような頏をしてくれ。わしが呼んだってことは、誰にも言うのじゃないぞ。イヴァンには一口も言うちゃならんぞ。」
「承知しました。」
「そんなら、さよなら、さっきお前はわしの味方をしてくれたな、あのことは死んでも忘れやせん。明日はぜひお前に言わにゃならんことがあるが……今はまだ、も少し考えておきたいから。」
「いま気分はどんなですか?」
「明日は起きるよ、明日は。もうすっかり癒った、もうすっかり癒った!……」
 アリョーシャは庭を横切ろうとして、門のそばのベンチに坐っているイヴァンに出会った。彼は鉛筆で何やら手帳に書き込んでいた。アリョーシャは兄に向って、老人が目をさまして意識を取り戻したこと、それから自分が僧院へ帰っていいという許しをもらったこと、などを話して聞かせた。
「アリョーシャ、僕は明日の朝お前に会えたら、大へん好都合だがね」とイヴァンは立ちあがって、愛想よく言いだした。こうした愛想のいい調子は、アリョーシャにとってまったく思いがけないものであった。
「僕は明日ホフラコーヴァ夫人のところへ行きますし」とアリョーシャは答えた。「それに、カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへも、もしきょう留守だったら、明日また行ってみるかもしれないのです……」
「じゃ、今やはりカチェリーナさんのところへ行くんだね? 例の『よろしく、よろしく』かね!」突然、イヴァンはにたりと笑った。アリョーシャは妙に間が悪くなってしまった。
「僕はさっき兄貴の呶鳴ったこともすっかりわかったし、以前のことも幾分読めたような気がする。兄さんがお前に使いを頼んだわけは、きっと自分が……その……何だ……つまり手っ取り早く言うと、『よろしく言って』ほしいからさ。」
「兄さん! あのお父さんとミーチャとの恐ろしい事件は、一たい、どんなふうに落着するんでしょうねえ?」とアリョーシャは叫んだ。
「確かなことに何とも想像がつかないが、大したことはなく、自然に縺れが解けるかもしれない。あの女は獣だね。とにかく爺さんを家の中に抑えておいて、ミーチャを家へ入れないようにしなくちや。」
「兄さん、失礼ですが、一つ訊きていことがあります。一たいどんな人間でもほかの者に対して、誰それは生きる資格があって、誰それはその資格がない、などと決める権利を持ってるものでしょうか?」
「何だってお前は、この問題に資格の決定など持ち込むんだい! この問題は資格などを基礎とすべきではなく、もっと自然なほかの理由によって、人間の心の中で決しられるのが一ばん普通だね。しかし、権利という点になると、誰だって希望の権利を持ってないものはないさ。」
「しかし、他人の死を希望することじゃないでしょう?」 
「他人の死だって仕方がないさ。それに、すべての人がそんなふうにして生きてる、というよりむしろ、そのほかの生き方ができないんだからね、自分で自分に嘘をつく必要なんか、どこにもないじゃないか。ところで、お前がそんなことを言いだしたのは、さっきの『毒虫が二匹咬み合ってる』という、僕の言葉を目やすにおいてるのかね? そういうわけなら、僕のほうからも一つ訊ねたいことがある。お前は僕もミーチャと同じように、あのイソップ爺《じじい》の血を流しかねない、――つまり、――殺しかねない人間だと思ってるのかい?」
「まあ、何を言うのです、兄さん! そんなことは夢にも考えたことがありませんよ! それに、大きい兄さんだってそんなこと……」
「いや、それだけでも有難い!」とイヴァンは苦笑した。「実際、僕はいつでも親父を守ってやるよ。しかし、自分の希望の中にはこの場合、十分な余地を残しておくからね。じゃ、さようなら、また明日ね。どうか僕を責めないで、そして悪者扱いにしないでくれ」と彼は微笑を浮べながら言った。
 二人はかつてこれまでなかったように、強く握手をした。アリョーシャは、兄が自分のほうから先にこちらヘー歩近づいて来たが、これには必ず何かの心算があるに相違ないと直覚した。

   第十 二人の女

 父の家を出たときのアリョーシャは、さきほどここへ入った時よりも、なお一そう打ち砕かれ、へし潰されたような心持になっていた。彼の理性も同様、微塵になって散乱したようであったが、同時に彼はそのばらばらになったものを継ぎ合せて、きょう一日のうちに経験したすべての矛盾の中から、一つの普遍的な意味を抽き出すのが恐ろしいように感じられた。何だかほとんど絶望と境を接しているようなあるものがあった。こんなことは今までかつて、アリョーシャの心に生じたことがなかった。こうした一切の上に、山のごとく聳えているのは、あの恐ろしい女に関する父と兄との事件が、一たいいつ終るだろうという、解決することのできない運命的な疑問であった。もう今日こそ彼は自分の目で見た、自分でその現場に居合わして、相対せる二人を見たのだ。とはいえ、不幸な人、本当に不幸な人と感じられるのは、ただ兄ドミートリイー人でなければならない。疑いもなく、恐ろしい災厄が彼を待ち伏せしている。その上、以前アリョーシャが考えていたよりも、ずっと事件に関係の深い人がまたほかにもあるらしい。兄のイヴァンは彼が久しい以前から望んでいたように、自分のほうヘー歩踏み出して来た。しかし、彼はなぜかこの接近の第一歩が、薄気味わるく感じられるのであった。
 ところで、あの二人の女はどうだろう? 奇妙な話ではあるが、さきほどカチェリーナのもとをさして赴く時、非常な当惑を感じたにもかかわらず、今は少しもそんなことがなかった。それどころか、まるでこの婦人の助言でもあてにしているように、自分のほうから彼女のもとをさして急ぐのであった。とはいえ、彼女にことづけを伝えるのは、先刻より余計くるしいように思われた。三千ルーブリの問題がきっぱりと決せられたから、兄ドミートリイはもはや自分を不正直者ときめてしまって、絶望のあまりいかなる堕落の前にも躊躇しないに相違ない。その上彼はたった今起った出来事を、カチェリーナに伝えてくれと言いつけている…… アリョーシャがカチェリーナの家へ入っ七時は、もう七時で、黄昏の色がかなり濃くなっていた。彼女は大通りにある恐ろしく広い、便利な家を一軒借りていた。彼女が二人の伯母と一緒に暮していることも、アリョーシャは承知していた。その中の一人は、姉のアガーフィヤだけの伯母にあたっていた。これは、彼女が専門学校から父の家へ帰って来た時、姉と一緒に世話を焼いてくれた、例の無口な婦人であった。いま一人の伯母は権式の高い、そのくせ貧乏なモスクワの貴婦人である。噂によると、伯母たちは二人とも万事につけて、カチェリーナの言うがままになって、ただ世間体のために姪のそばについているだけなのであった。カチェリーナが言うことを聞くのは、いま病気のためモスクワに残っている恩人の将軍夫人ばかりであった。この人には毎週手紙を二通ずつ送って、自分のことを詳しく知らしてやらねばならなかった。
 アリョーシャが控え室に入って、戸を開けてくれた小間使に自分の来訪を取り次ぐように頼んだ時、広間のほうでは早くも彼の来訪を知ったらしかった(ひょっとしたら、窓から見たのかもしれない)。と、急に、何かがたがた騒々しい物音がして、たれか女の駆け出す足音や、さらさらという衣摺れの音などが聞えだ。何だか二三人の女が駆け出したような気配である。アリョーシャは、自分の来訪がこんな騒ぎをひき起すはずはないのにと奇妙に思った。しかし、彼はすぐ広間へ案内された。
 それは田舎式とまるで違って、優美な道具類を豊かに並べた大きな部屋であった。長椅子や|円 榻《クシェートカ》や大小のテーブルがおびただしく配置され、四方の壁にはさまざまな画がかかり、テーブルの上にはいくつかの花瓶やランプが置かれて、花卉類もたくさんにあった。そればかりか、窓のそばには魚を入れたガラスの箱さえ据えてあった。黄昏時のこととて部屋の中は幾分うす暗かった。つい今しがたまで人の坐っていたらしい長椅子の上には、絹の婦人外套《マンチリア》が投げ出され、長椅子の前のテーブルの上には、飲み残されチョコレートの茶碗が二つと、ビスケットと、青い乾葡萄のはいったガラスの皿と、菓子を盛ったいま一つの皿、――などがうっちゃってあるのに、アリョーシャは気がついた。どうも誰かを饗応していたらしい様子なので、アリョーシャは来客の席へぶつかっ化のだな、と思って眉をひそめた。
 しかし、その瞬間とばりが上って、カチェリーナが忙しそうな、せかせかした足どりで入って来た。そして、歓喜の溢れ化微笑を浮べながら、両手をアリョーシャのほうへさし伸べた。それと同時に、女中が火をともした蝋燭を二本持って来て、テーブルの上へおいた。
「まあよかった。とうとうあなたも来て下さいましたわね!わたし今日いちん日あなたのことばかり、神様にお祈りしていましたの! どうぞお坐り下さいまし。」
 カチェリーナの美貌は、このまえ会った時も、アリョーシャに烈しいショックを与えた。それは三週間ばかり前ドミートリイが、彼女自身の熱心な希望によって、はじめて弟を連れて行って紹介した時のことである。その会見の時は二人の間に、どうもうまく話がつづかなかった。カチェリーナは、彼が恐ろしくどぎまぎしているらしいのを見て、世馴れぬ少年を容赦するといった様子で、初めからしまいまでドミートリイとばかり話していた。アリョーシャはじっと黙り込んでいたけれども、いろいろなことをはっきりと見分けたのである。
 そのとき彼を驚かしたのは、思いあがった令嬢の権高い様子と、高慢らしく打ち解けた態度と、自己に対する深い信念であった。これは断じて疑いの余地がなかった。アリョーシャは自分が誇張におちいっていないことを信じていた。彼は、その誇りに充ちた大きな黒い目の美しいこと、それが彼女の蒼白い、むしろ蒼黄ろいような長めな顔にことのほかよく似合うこと、などを発見したのである。この目の中にも、また美しい唇の輪郭の中にも、いかにも兄が夢中になって打ち込みそうではあるけれど、長く愛していられないような何ものかがあった。ドミートリイがその訪問のあとで、自分の許嫁を見てどんな印象を受けたかとしつこく弟に訊ねたとき、アリョーシャはこの感想をむきつけに言ってしまった。
「兄さんはあのひとと一緒に、幸福に暮すでしょうが……しかし、それは穏かな幸福ではないかもしれませんよ。」
「そこなんだよ。ああいうふうの女は、いつまでもああいうふうでいるんだよ。ああいうふうの女は、決して諦めて運を天に任せるということをしない。で、何だな、お前はおれが永久にあの女を愛さないと思うんだな?」
「いいえ、もしかしたら、永久に愛するかもしれませんけれど、あのひとと一緒になっても、しじゅう幸福でいられないかもしれませんよ……」
 アリョーシャはそのとき真っ赤になって、自分の意見を述べた。そして、つい兄の乞いにつり込まれてこんな『愚かな』考えを吐いたのを、自分ながらいまいましく思った。なぜなら、彼がこの意見を口に出すと同時に、自分にも恐ろしくばかばかしく感じられたからである。それに、自分のようなものが婦人

『ボボーク』(『ドストエーフスキイ全集14 作家の日記上』P049~P066、1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)[挑戦55日目]

る。
 しかし、居残ったもう一人のヴラス、つまり誘惑者のほうはどうなったか? 伝説は彼が憫悔のためにはって行ったとは語っていない。彼については何事をも伝えていない。あるいは彼もはって行ったのかもしれない。が、あるいは村に残って、今でも事もなく生活をつづけ、祭日には相変わらず酒をあおって、憎まれ口をたたいているかもしれない。なにしろ、幻を見たのは彼ではないからである。けれども、はたしてそうだろうか? 参考のために、研究のために、彼の身の上をぜひ知りたいものである。
 それから、またこういう理由でも知りたくなる。もし彼が正真正銘の田舎の虚無主義者であり、世間しらずの否定者であり思想家であって、手製の神を信ぜず、思いあがった嘲笑を浮かべて、競争の対象を選み[#「選み」はママ]、わたしがこの研究で述べたように、おのが犠牲とともに苦しみもせず、戦慄もせず、冷やかな好奇心をもって、犠牲者の戦慄と痙攣を見守っていたとすれば、どうだろう? ただ他人の苦悩と人間の屈辱に対する要求から出たのだとすれば、また万々が一、学問的な実験のためであったとすれば?
 もしかような特質がすでに国民的性格の中にさえあるとすれば(現代ではいかなることでも仮定ができる)、さらにこれがわが国の農村にさえあるとすれば、それこそすでに新しい発見であって、多少意外にさえ思われる。かような特質については、かつて聞いたことがないような気がする。オストローフスキイの素晴らしい喜劇『気ままに暮らすな』の中には、誘惑者があまりにまずく書かれている。残念ながら、この喜劇では何ひとつ確実なことを知るわけにいかない。
 要するに、ここに語られた事件の興味は、――もしもその中に興味があるとすれば、――ただそれが真実なものだという点だけである。しかし、現代のヴラスの魂をのぞいて見ることは、時には無駄でもないのである。現代のヴラスは急激に変わりつつある。二月十九日(一八六一年農奴解放令発布の日)を振り出しとして、下層の農村には、われわれ上層におけると同様の醗酵作用が生じている。昔話の勇士は目をさまして、手足を撫している。あるいははめをはずして、ひと騒ぎしようと考えだすかもしれない。もう騒ぎだしたという話である。泥酔、強奪、酔っぱらった子供たち、泥酔した母親たち、無恥、赤貧、破廉恥、無信仰など、さまざまの恐怖すべきことどもが口々に語られ、新聞に書かれている。中でもまじめな、しかし多少せっかちな人たちは、こう考えている、しかも事実に即して考えている。つまり、こんな「騒ぎ」がわずか十年間でもつづいたら、単に経済的な観点から見ただけでも、その結果は想像もできないほどである。けれど、われわれは「ヴラス」のことを思い出して、心を安んずるであろう。いよいよという最後の瞬間に、いっさいの虚偽が(もし虚偽があるとすれば)、民衆の心からけし飛んでしまい、信ぜられないほどの力強い非難となって、彼らの前に立ちあがるであろう。ヴラスは本心に返って、神の仕事に取りかかるに違いない。いずれにしても、たとえほんとうに不幸な結果に到達したにもせよ、自分で自分を救うに違いない。自己を救い、われわれを救うに相違ない。なぜなら、くり返していうが、光と救いは下のほうから輝き出して来るからである(ことによったら、わが自由主義者たちのぜんぜん意外とするような形で輝き出すかもしれない。そのために、いろいろ喜劇的なことが起こるであろう)。現に、この意外な変化に対する暗示さえある。今でもさまざまの事実が拾い上げられるほどである……もっとも、このことはいずれ後に語るおりがあろう。いずれにしても、われわれの破産は、ちょうど「ピョートル大帝の古巣の雛たち」のそれと同じく、今やまさに疑いもない。なにぶんにも二月十九日をもって、事実、ロシヤ史上のピョートル時代が終わりを告げて、われわれはもうとっくにぜんぜん未知の世界にふみ入ったわけである。

   6 ボボーク

 今度は『ある男の手記』を掲載することにしよう。それはわたしではない。まったく別な人なのである。これ以上の前置きは不必要と思う。 

    『ある男の手記』

 セミョーン・アルダリオーノヴィチが、おとといわたしをうかまえてだしぬけに、
「ねえ、イヴァン・イヴァーノヴィチ、きみはいつか、しらふのことがあるのかい、お慈悲にひとつ聞かしてもらいたいね」といった。不思議な所望である。わたしはべつに腹を立てはしない、わたしは臆病な人間だから。しかし、それでも、このわたしが気ちがいのようにさせられたことがある。ある画家がたまたまわたしの肖像画を書いた。「なんといってもきみは文士だからな」と彼はいう。わたしは彼のいうままになった。すると、彼はそれを展覧会に出したのである。ふと新聞を見ると、「この病的な気ちがいに近い顔を見に行きたまえ」と書いてある。
 それはまあいいとしても、公けの機関で、こうあけすけにいうとは何事だ! 新聞雑誌というものは、まず上品な書き方をしなければならない。理想というものが必要である。それだのに、これは……
 少なくとも、婉曲にいいまわすがよい。そこが文章のあやというものだ。ところが、どっこい、婉曲にいいまわすのはいやだとおっしゃる。きょう日ではユーモアとか、あやのある文句というものは影をひそめて、悪罵が機知として通用している。わたしはべつに腹を立ててはいない。気ちがいになるなんて、そんなのが文学者といえるか。小説をものした、――が、載せてはくれない。雑文を書きあげた、――が、断わられてしまった。かような雑文を、わたしは諸所の編集局へふんだんに持ちまわったのだが、到るところで断わられてしまった。曰く、きみのものにはぴりっとしたところがない、と。
「きみのいうぴりっとしたというのは、どんなものだい?」とわたしは冷かし半分にたずねる。「お上品なのかね?」
 だが、やつらはそれさえわからない。で、おもに出版屋どものために、フランスものを翻訳してやったり、商人たちのために広告さえも書いてやる。「稀有の珍品! 自家用農園の葉を製したる紅茶……」といった調子だ。故ピョートル・マトヴェーエヴィチ閣下に対する頌詞を書いて、莫大なお礼をとった。『婦人に好かれる秘訣』を、ある出版屋の注文ででっち上げたこともある。まあ、こんな書物をわたしは生涯のうちに六冊ばかり出した。ヴォルテール式の寸鉄言をも蒐集しようと思っているが、わが国の読者には水っぽく思われやしないかと心配である。今どきいかなるヴォルテールがいるというのか、今日ではヴォルテールの代わりに、でくの坊が横行しているのだ。なけなしの歯をお互い同士ぶち抜き合うしまつだ! さて、そういったものがわたしの文学上の仕事である。せいぜい、一文にもならないのに、自分の名を完全に署名した手紙を、方々の編集局に送るくらいなものだ。指示や忠告を与えたり、批評したり、道を示してやったりしている。ある編集所へは、先週また手紙を送ったが、それはこの二か年間の勘定によると、まさに四十本めである。切手代だけでも四ルーブリも費ったものだ。わたしの性分は情けないものである、まったく。
 思うに画家は、文学のためでなく、わたしの額に対《つい》になっている二つの疣《いぼ》のために、わたしを描いたのだ。つまり、珍無類のしろ物だというわけである。思想なんてものはない。それは、目下さまざまな珍無類のしろ物に乗って横行している。いや、実際のところ、彼の描いた肖像画では、わたしの疣がなんとうまくいったことか、生けるがごとしである! これをすなわち彼らはレアリズムと呼んでいるのだ。
 だが、発狂ということになると、わが国では昨年、多くのものが狂人の刻印を打たれた。しかも、文句がふるっている、曰く、「これほどの先天的才能を有しながら……取後に如上のことが明白となった……もっとも、すでに以前から予想すべきことではあったけれど」……それはなかなか凝ったもので、純芸術の見地からしても、賞讃に値するくらいである。さて、ところで、彼らがとつぜん、前より賢くなって帰って来たのである。わが国では人を気ちがいにすることはしながら、まだだれも前より賢くしたものはない、それが問題なのだ。
 わたしの考えでは、月一度なりとも、自分で自分をばかと呼ぶ人が、だれよりいちばん賢いのである。――現代ではめったに聞かれない能力だ! もとはばか者が少なくとも年に一度なりと、自分で自分のことをばかと考えたものである。ところが、きょう日では決して、決して、事態がすっかり混乱してしまったので、もはやばか者と利口者の区別さえ立たなくなった。これは彼らが故意にやったことである。
 スペインのある頓知話が思い浮かべられる。フランス人が今から二世紀半の昔に、初めて瘋癲病院を建てた時、「彼らは自分が賢い人間であることを証明するために、ばか者を一人のこさず特別な建物へ押し込めてしまった」それはまったくの図星で、いくらほかの人を気ちがい病院に押し込めたところで、それによって、自分の賢さを証明したことにはならないのである。「Kは気ちがいになった、つまり、今ではわれわれが賢人なのだ」いやいや、まだそうは参らぬ。
 だが、ばかな……なんだってわたしは自分の知恵を吹聴しているのだ。ぶつぶつ不平ばかりいって、女中にまでうるさがられるようになってしまった。きのう友だちがやって来て、いうには、「きみの文章は変わったね、ぶつ切り文章じゃないか。ぶつり、ぶつり切れて、それから挿句が来る、するとその挿句にまた挿句がくっつく。それから、またぞろ何かを括弧に入れて、その次にはまたぶつり、ぶつりだ……」
 なるほど友人のいうとおりだ。わたしはどうも変なふうになっている。性質は変わっていくし、頭痛はするし、なんだか妙なことを見たり、聞いたりするようになった。声というのではないが、まるでだれかがわたしのそばで、「ボボーク、ボボーク、ボボーク!」といっているようなのである。
 いったいぜんたいボボークとはなんだろう? ひとつ気散じをしなければならない。
     ―――――――――――――――――
 気散じに少し歩いた後、ふと思い出して葬式に行った。遠い親威だ。ところで、彼は六等官なのである。未亡人、五人の娘、娘はみんなまだ嫁入前ときている。だから、靴だけにしてみたところで、どれだけのものにつくか知れやしない! 故人は一生懸命とりこんでいたが、今では鼻くそほどの年金しかない。遺族は間もなく尻っ尾を捲くに相違ない。わたしはいつもこの家で無愛想な扱いを受けていた。だから、こういう非常な場合でなかったら、わたしは今度も、出かけはしなかったろう。ほかの人たちの中にまじって墓地まで見送ったが、みんなはわたしを避けて、傲然としている。わたしの略服は、実際のところ、少々みすぼらしかったのである。二十五年間ばかりというもの、考えると、わたしは墓地に来たことがなかった。それにしても、これはまあなんというところだろう!
 まず第一、においがたまらない。十五人からの死人が一時にやって来たのだ。上等、下等、さまざまの覆い布、二つの贅沢な棺台さえあった。一つは将軍ので、もう一つはどこかの貴婦人のである。悲嘆に沈んだ顔もたくさんあったが、うわべばかりの悲しげなふうをしたのも多いし、明けっ放しに愉快そうな様子をしたのも多かった。坊主の連中は、文句なしだろう、収入になるからだ。しかし、におい、においがたまらない。ここのお寺様にはなりたくないものだ。
 自分の感受性をあまり大きく考えていなかったので、死人たちの顔をそっとのぞいてみた。もの優しい表情もあれば、不愉快なのもある。微笑しているのは概してよくない、中にはたまらなくいやなのさえある。真っ平だ、夢に見そうな気がする。
 礼拝式の最中に、息抜きに教会の外へ出た。空は灰色がかってはいたけれど、乾いた日であった。それに、寒くもある。もっとも、なにぶん、十月だから無理もない。墓の間を歩いてみた。種々雑多な等級がある。三級のは三十ルーブリで、体裁もいいし、お値段も高くない。一級と二級とは教会の中にあって、玄関の下になっているが、さて、それはお歯に合わない。三級にはこのとき六人の死者が葬られた。その中に将軍も婦人も交っている。
 墓穴の中をのぞいてみたが、実にひどい。水、しかもおそろしい水である。まったく緑色をしていて、それに……いちいちいったってしようがない! のべつ墓掘人が柄杓で汲み出している。わたしは外へ出て、式の間じゅう門の外をぶらついた。すぐそこには慈善院があって、少しさきには料理屋もある。ちょっとした相当な料理屋で、口直しでもなんでもできそうである。会葬者も多勢つめかけていた。盛んにはしゃいで、心から浮き浮きしているらしい。わたしはひと口たべて、いっぱい飲んだ。
 それから、棺を教会から墓へ移すのに、自分で手を下して手伝った。なぜ棺の中の死人はこんなに重くなるものか? 人の話によると、何かの惰性にしたがって、体がなんというか、自分で自分の釣合いを取ることができないとか……なんとかそういったようなばかげたことをいうが、そんなことは力学と健全な常識に矛盾している。わが国の人々は一般的な教養しかないのに、専門的なことに口出しをするが、わたしはそれを好まない。けれど、わが国ではそれがのべつ幕なしに見られるのである。文官が武官に関したことや、元帥に関係した事柄さえ論じたがる。また工業の教育を受けたものが、哲学や政治・経済のことをよけいに論じたがるものである。
 連禱の式へは行かなかった。わたしはこれでも意地の強い人間なので、特別な場合だというので、しぶしぶ人並みに扱われるようなところでは、たとえ葬式の際であろうとも、なんであんなやつらの饗応にのこのこ出かけて行くものか? ただなぜ墓地に残ったのか、それが自分ながらわからない。わたしは墓石に腰を下ろして、それ相応に考え込んだものである。
 まずモスクワの展覧会をふり出しに、一般のテーマとして「驚き」に関する考察で結んだ。「驚き」についてはわたしはこういう結論を引き出した。
「あらゆるものに驚嘆するのは、むろん、ばかな話である。そして、なにものにも驚嘆しないのは、はるかに美しいこととせられ、なぜかしら立派な態度だと認められている。しかし、はたして真実そのとおりであろうか。わたしの考えでは、なにものにも驚嘆しないということは、あらゆるものに驚嘆するよりはるかに愚かしいことである。のみならず、なにものにも驚嘆しないのは、たにものをも尊敬しないのとほとんど同じである。実際、愚かな人間は尊敬することもできないのだ」
「さよう、わたしは何よりも尊敬することを願っています。わたしは尊敬することを渇望しています[#「渇望しています」に傍点]」と知人の一人が、先日ふとわたしにいったことがある。
 彼は尊敬することを渇望している! そして、おお、――とわたしは考えた、――もしきみがそれを大胆不敵にも新聞雑誌に発表したら、それこそきみはどんな目にあうかわからないぞ!
 ここでわたしは忘我の境に入ったのである。わたしは墓碑銘を読むのを好まない。いつも決まって同じだからである。わたしのそばの平らな石の上には、サンドウィッチの食いさしが置いてある。ばかばかしいことだし、それに場所がらにふさわしくない。たたき落としてやった。なぜなら、それはパンではなくて、サンドウィッチにすぎないからである。けれども、地べたにパンを落として粉々にするのは、べつに罪なことではないらしい。それが床の上だと罪になる。スヴォーリンの年鑑を参照のこと。
 どうやら、わたしは長いことすわっていたらしい。あまり長すぎたくらいである。つまり、大理石の棺みたいな恰好をした、長い石の上に横になったのである。ふと、どうしてそうなったかわからないが、とつぜんいろいろなことが耳に入り始めた。初めのうちは注意も向けずばかにしきっていた。しかし、それにもかかわらず、不思議な会話は依然としてつづいた。聞いてみると、――それは陰《いん》にこもった話し声で、まるで口を枕で抑えているかのようである。が、にもかかわらずはっきりしていて、しかも非常に近い。わたしはわれに返ってすわり直し、注意ぶかく耳を傾け始めた。
「閣下、それじゃどうにもやりきれません、閣下はハートを宣言なさいました。で、わたしがそれを助けることになりました。するととつぜん、あなたの手にダイヤの七が出て来たんです。まず初めに、ダイヤのことを決めておかなければならなかったのです」
「なんだって、では、そらでやれっていうのかね? では、いったいどこに面白みがあるのだ?」
「いえ、閣下、保証というものなしには、決してやれるものではありません。ぜひばか者とやらねばいけません。そうして、ひとついんちきな配り方をしてやるんですな」
「ふん、ここにばかが都合よく見つかるものか」
 それにしても、なんという高慢な言葉だ! 不思議でもあり、また思いがけないことでもある。一つはいかにもおんもりした貫目のある声で、もう一つはなんとなく甘ったれたもの柔らかな声である。もし自分が実際に聞いたのでなければ、ほんとうにならないくらいであった。わたしは連禱には行かなかったはずである。しかし、それにしても、どうしてこんなところでプレフェランス(カルタ遊びの一種)をやっているのか、そして将軍とはそもそもなにものか? その声が墓の中から出て来るのは、ゆめ疑うところがなかった。わたしは身を屈めて、墓碑銘を読んだ。
「『*位勲*等功*級陸軍少将ペルヴォエードフの遺骸このところに眠る』ふむ。『本年八月没……享年五十七歳……親しき屍よ、喜ばしき朝まで休らえかし!』」
 ふむ、こいつあほんとうに将官だわい! 追従声が聞こえたほうのもう一つの墓には、まだ墓標がなかった。ただ平らな石が載っているきりで、たしか新仏に違いない。声の調子でみると七等官らしい。
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ!」とまったく新しい声が、少将のところから五サージェン(一〇・五メートル)ばかり離れた、まだ真新しい土饅頭の中から聞こえた、――それは男性の平民らしい声であるが、うやうやしげな感じ入ったような調子に弱められていた。
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ!」
「おや、またあの男がしゃっくりをしてる!」とつぜん上流社会の入らしい、いらだたしい、噛んで吐き出すような、高慢な婦人の声が響いた。「あの小商人《こあきんど》に隣り合わすなんて、わたしはいったいなんの罰が当たったのでしょう!」
「わたしはべつにしゃっくりなんかしやしません。それに、べつに食べ物をいただきませんので。これはただわたしの生まれつきなんでして、――どうも、奥さん、あなたはその気ままのために、どうしても心をのんびりさせることがおできになれませんですね」
「では、なぜあんたはここへお休みになったんですの?」
「置いてくれたからでございます。家内や小さい子供たちが置いてくれたからなので。なにもわたしが自分で横になったわけではございません。つまり、死の秘密というものでございます! わたしはどんなことがあろうとも、どれほどお金をいただこうとも、あなたのおそばなんか、休み場所にしたくはないのでございます。けれど、値段に応じて、自分のふところと相談で、ここで横になっている次第なんで。なにぶん、わたしどもだって第三級の墓地料を払うぐらいのことは、いつでもできますからね」
「溜め込んだんだね。お客をごまかしたんだろう?」
「まあ、一月からこっち、まるでお払いくださらなかったんですもの、あなた様をごまかそうにも、ごまかしようがないじゃありませんか。あなた様の勘定書が、手前の店にちゃんとございます」
「まあ、なんてばからしい、わたしなんかにいわせれば、ここで貸金の取り立てをするなんて、ほんとにばからしいことですわ! 娑婆へ出て、姪にきいてごらんなさい、あれが後とりですから」
「なんの、今さらそんなことがきけるものですか。それに、どこへまいれましょう。二人とも、行くところまで行き着いてしまったんで、神様のおん前では、だれも同じように変わりのない罪人でございますよ」
「罪人ですって!」婦人の亡者は蔑むように口真似をした。「もうわたしに生意気な口をきくのはやめてちょうだい!」
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ!」
「なんといっても、商人のやつは奥さんのいうことを聞いておりますよ、閣下」
「いうことを聞かんはずがないじゃないか?」
「いや、もう、それはあたりまえの話でございますよ。閣下、つまり、ここには新しい規則がありますので」
「その新しい規則とはどんなものかね?」
「なにぶんにも、その、わたしたちは、いわば、死にましたので、閣下」
「ああ、そうだ! それにしても、やっぱり規則というものは……」
 いや、大きにありがとう。いやはや、とんだお慰みだ! ここでさえ話がもうこんなところまできたとすれば、娑婆のほうなどはいわずもがなである! とにかく、なんという話だ! が、大いに憤慨してはみたものの、なおも引きつづき耳を傾けていた。
     ―――――――――――――――――
「いや、ぼくはもう少し生きたかった! いや……ぼくは、その……ぼくはもう少し生きていたかった!」将軍と怒りっぼい奥さんとの間にあたるどこかで、ふいにだれかの新しい声が叫んだ。
「どうです、閣下、例の先生がまた同じことをいいだしましたぜ。三日問というものは黙って、黙って、黙り込んでいたくせに、とつぜん『ぼくはもう少し生きていたかった、いや、ぼくはもう少し生きていたかった!』とくる。しかも、どうでしょう、あんな激しい勢いで、ひ、ひ!」
「それに、軽薄な調子でな」
あいつだんだん腐ってきましてね、閣下、たんですよ、土がかぶさってきてるんです。すっかりかぶさってきてるんです。なにしろ、四月この方ですからね。それがだしぬけに『ぼくはもう少し生きていたかった』なんて!」
「だが、少々退屈だね」と、閣下がいった。
「少々退屈でございますね、閣下。またアヴドーチヤ・イグナーチェヴナでも、少しからかってみますかね、ひひ!」
「いいや、もうそれはご免をこうむりたいよ。あの喧嘩っ早いがなり屋は、我慢ができないよ」
「わたしこそあべこべに、あなたがたお二人には我慢ができませんよ」とがなり屋夫人が嚙んで吐き出すように、言葉を返した。「あなたがたこそ二人とも、くそ面白くもない人たちで、理想的なことったら、なに一つお話しになれないじゃありませんか。わたしはあなたのことを知っていますよ、閣下、――どうぞ高慢ぶらないでください、――わたしは知っていますよ、ある朝、あなたがよその奥さんの寝台の下から、下男に箒で追い出されたっていう、あの話をね」
「穢らわしい女だ!」と将軍は歯の間から押し出すようにいった。
「もし、アヴドーチヤ・イグナーチエヴナ」と、またもや商人がふいに叫んだ。「ねえ、奥さん、昔の恨みは忘れて、底意なく聞かしてくださいませんか、いったいいまのわたしは地獄の苦しみをつぎつぎと受けているんでしょうか、それともなにかほかのことなんでしょうか。?………」
「ああ、あの男はまた同じことをいっている。わたしはどうもそんな気がしていたっけ。なにしろ、あまり男の臭いが鼻についてきたんでね、臭いが。それはきっとあの男がもがいている証拠なんだ!」
「奥さん、わたしはもがいてなんかいませんよ、それに、わたしはべつにこれという臭いを立てやしませんので。なぜって、わたしはまだ自分の体をそっくりそのままもたしているからですよ。それよりね、奥さん、あなたこそもう少し参りかかっていなさるんですよ。――だって、こんなところに住んでいてさえ、とてもたまらない臭いが、ぷんぷんしているんですからね。わたしはただ作法を守って黙っているだけですがね」
「ええ、なんていやらしい失礼な男だろう! 自分こそひどい臭いをぷんぷんさせているくせに。あの男はわたしにいいがかりをつけて」
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ! せめて四十日忌でも早くやってくればいいになあ。そしたら、涙にしめったみんなの声が頭の上で聞こえるのだがなあ、家内の啜り泣きや子供らの静かな泣き声が!………」
「まあ、あんなことをいって泣いてるよ、みんなは蜜飯(法事の時につくる飯で、乾葡萄を加え使者の霊前に供するもの)、そのまま行ってしまうだけのことさ。ああ、だれかまた目をさましてくれればいいのに!」
「アヴドーチヤ・イグナーチエヴナ」と追従声の官吏がいいだした。「ちょっと待っててごらんなさい、いまに新参連が話しだしますから」
「その中に若い人たちがいますか?」
若い人たちもおりますよ、アヴドーチヤ・イグナーチエヴナ、ほんの子供あがりさえもおりますよ」
「まあ、なんていい都合でしょう!」
「だが、どうしたんだ、まだ始めないじゃないか」と閣下がたずねた。
「だって、一昨日の連中でさえ、まだ目をさまさないのですよ、閣下。ごぞんじでしょうが、時によると、一週間も黙っていることがありますからね。しかし、昨日と一昨日と今日で、いっぺんにああたくさん運んで来たから、けっこうでしたよ。でなかったら、わたしたちのまわり十サージェン(約二十一メートル)四方というもの、去年の連中ばかりですからな」
「いや、面白い」
「ところで、閣下、今日は一等官のタラセーヴィチ閣下が埋葬されましたよ。わたしはみんなの話し声でそれとわかったのです。あの人の甥はわたしの知人でして、つい最前もその男が棺を下ろしました」
「ふむ、その方はどこに今いらっしゃるんだね?」
「閣下、あなたから五歩ばかり左手のところで。ほとんどあなたのお足もとといっていいくらいですよ……ちょっと、そのなんですな、閣下、お近づきになるとよろしゅうございますな」
「うむ、いや、――どうも……わたしが皮きりでは」
「なに、あの方がご自分から切り出しますよ、閣下。かえって光栄とされるくらいです。万事わたしに任してください。閣下、そしたらわたしが……」
「ああ、ああ……ああ、これはいったいどうしたのか?」とつぜん、だれかの新しい声が、驚いたように唸りだした。
「新参《しんまい》ですよ、閣下、新参ですよ。いいあんばいだった。なんという早いこと! 時によると、一週間も黙りこんでいるんですがね」
「まあ、若い人らしい!」とアヴドーチヤ・イグナーチエヴナが黄色い声を立てた。
「ぼくは……ぼくは……ぼくは併発症で、こんなにとつぜん!」とまたもや青年が、おぼつかない調子でいいだした。「前の晩にシュルツがぼくにむかって、あなたは併発症を起こしていますといったのだが、夜明け頃にぼくとつぜん、ころりと往ってしまったんです。ああ! ああ!」
「でも、仕方がありませんよ、お若い方」と将軍は憐れみ深そうに、とはいえ、明らかにこの新参を歓迎しながらいった。「諦めなければいけないね! いわゆる、わがヨサファートの谷へようこそおいでなさった、といわなくちゃなるまい。わたしたちは善人ぞろいだ、お近づきになったら、よくわかってくださるだろう。陸軍少将ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・ペルヴォエードフというもので、いつでもお力になりましょう」
「ああ、いえ、いえ! いえ、いえ、ぼくそんなことは決して! ぼくはシュルツにかかっていたところが、急に、その併発症状になって、はじめは胸がつまって咳が出ていたものですが、それから冷え込んでしまって、胸のほうと流行性感冒と……そして、どうでしょう、とつぜん、まったく思いがけなく……なによりいけないことには、まったく唐突に」
「お話の模様ですと、まず最初に胸だったんですね」この新参を励ますように、官吏が優しく口を挿んだ。
「ええ、胸をやられて、痰に苦しめられたんです。それから、とつぜん痰が切れたと思うと、胸がつまって、息もできない……そして、おわかりでしょうが……」
「わかってます、わかってますよ。だが、もし胸のほうだったら、シュルツよりもむしろ、エークにおかかりになったほうがよかったでしょうに」
「いや、実はわたしはボートキンのところへ行こう行こう、と思っていたのですが……とつぜん……」
「だが、ボートキンはお歯にあわんでしょう」と将軍がいった。
「いえ、どうして、歯に合わないなんてことはありません、わたしの聞いたところでは、あの人は大へんに注意ぶかくって、なんでも前々からいってくれるそうです」
「閣下は値段のことをおっしゃったんですよ」と官吏が注を入れた。
「まあ、なにをおっしゃるんです、話に聞いたところでは、一切合切三ルーブリで、とてもよく診察して、処方をくれるそうです……で、わたしはぜひにと思ったんです、みながそういうものですからね……どうでしょう……皆さん、どちらにしたものでしょう。エークのほうにするか、ボートキンにするか?」
「なんですって? どこへ行くんだって?」愉快そうに大笑いしながら、将軍の死骸はゆらゆらと揺れだした。官吏は作り声でその笑いに同じた。
「かわいらしい坊ちゃん、かわいらしい、うれしい坊ちゃん、わたしお前さんが好きでたまらないわ!」とアグドーチヤ・イグナーチエグナが夢中になって、金切り声を立てた。「まあ、もしこんな人がわたしのそばへ置かれたらね!」
 いけない、わたしはもうこんなことを許してはおけない! これでも現代の死者なのか! けれど、もう少し聞くことにして、結論を急ぐまい。この男は鼻垂小僧の新参なのだ、――わたしはついさきほど棺の中にいた彼を思い出す、――その表情はびっくりした雛っ子のようで、世界中でこのうえもなく厭わしいものであった! だが、さきはどうなるか?
 しかし、そのさきはひどいてんやわんやで、わたしはとてもみながみな覚えていられなかった。やたらに大勢の死人が一度に目をさましたからである。五等官の官吏が目をさまして、某省における新しい小委員会の計画や、その小委員会におそらく伴なうべき官吏の更迭のことなどを、さっそくいきなり将軍と話しだしたが、それが大いに将軍の気をまぎらしたのである。ありていにいえば、わたし自身も多くの新しい事実を知ったので、さまざまな偶然によって、この首都における行政上の新事実を知ることができるものだと、一驚を吃した次第である。それから、ある技師が半分目をさました。けれど、いつまでも長いあいだ、まったく愚にもつかないことをしゃべっていたので、仲間の連中もそれに注意を向けず、そのまましばらく休ませておいた。最後に、今朝、棺台つきで埋葬された有名な貴婦人が、死後の目ざめの徴候を示した。レベジャートニコフ(なぜなら、将軍ペルヴォエードフのそばに陣取った、お世辞屋の、わたしの大きらいな七等官は、名前をレベジャートニコフといったからだ)が、恐ろしくあわてふためいて、びっくりしたものだから、今度はたちまち一同が目をさましたのである。正直なところ、わたしも驚いた。もっとも、目ざめたものの中のあるものは、まだついおととい埋葬されたばかりであった。例えば、一人の非常に年若な娘などがそれで、年ごろは十六くらいであったが、始終ひひひ笑いをしているのであった……いやらしい、淫乱な笑い方である。
「閣下、一等官のタラセーヴィチ閣下が、お目をさましていらっしゃいますよ!」とだしぬけにひどくあわてふためきながら、レベジャートニコフが報告した。
「あ? どうしたのか?」とつぜん目をさました一等官が、しゅうしゅうという歯洩れのする声で、吐き出すようにいった。その音の響きには、どこか気まぐれで権高なところがあった。わたしは好奇心をもって耳を澄ました。最近このタラセーヴィチについて、多少聞いたことがあるからで、――それはきわめて魅惑に富んだ、人の胸を騒がせる事実であった。
「手前でございます、閣下。さしむき今のところ、手前一人きりでございます」
「願いの筋はなんだ、なんの用かな?」
「ただ閣下のご機嫌を伺いたいとぞんじまして、ここではどなた様も不馴れのために、はじめは窮屈のようにお感じなさいますので……実はペルヴォエードフ将軍が、閣下とお近づきの光栄にあずかりたいと申されまして、願わくば……」
「聞いたことがないな」
「とんでもない、閣下、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・ペルヴォエードフ将軍でございます……」
「あんたがペルヴォエードフ将軍かな?」
「いいえ、閣下、手前はやっと七等官のレベジャートニコフと申しまして、なにぶんよろしくお願い申しあげますが、実はペルヴォエードフ将軍が……」
「つまらんことを! わしにかまわんとおいてもらおう」
「かまいなさんな」とうとう、当のペルヴォエードフ将軍は、威をおびた声で、墓場における子分の見苦しいあわて方を押し止めた。
「まだよくお目ざめになっておりませんので、閣下、それを察してあげなければなりません。あれは不馴れのせいでございます。お目がさめれば、その時は別な態度になりますよ……」
「かまいなさんな」と将軍はまたくり返した。
     ―――――――――――――――――
「ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ! もし、あなた、閣下!」とつぜんアヴドーチヤ・イグナーチエヴナのすぐそばで、ぜんぜん新しい声がたかだかと性急に叫んだ、――それはいかにも旦那様然とした横柄な声で、いま流行のどこか疲れたような口のきき方をして、小生意気な抑揚をつけている。「わたしはあなたがた一同を、もう二時間ばかりも観察していたんです。なにしろ、三日もここに横になっていますのでね。あなたわたしを覚えていらっしゃいますか、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ? クリネーヴィチですよ、よくヴォロコンスキイさんのところで会いましたね、なぜだか知りませんけれど、あなたもあの家へ出入りを許されていましたね」
「ええ、ピョートル・ペトローヴィチ伯爵……ほんとうにあなたですか、……しかも、あれほどのお若さで……いやはやご愁傷のいたりですね!」
「ぼく自身も愁傷に思いますよ、だが、ぼくは要するに同じことです。ぼくはどこにいてもできるだけのものを引き出すつもりなんですから。ただし、伯爵じゃありません、男爵です、一介の男爵にすぎないのです。わたしの家は、どこの馬の骨とも知れぬけち臭い男爵で、下男あがりなんです。なぜだか知らないけれど、そんなことは糞くらえだ。ぼくはえせ上流社会の悪党にすぎないんで、『愛すべき若造』と思われています。ぼくの父は下っぱの将軍で、母はかつてen haut lieu(宮廷)に召されたこともあります! ぼくはジフェリというユダヤ人とぐるになって、昨年五万ルーブリの屓さつを作りましてね、それからやつを訴えてやった。ところが、金は全部ユーリカ・シャルパンチエ・ド・ルシニャンが、ボルドーへ持ち逃げしてしまったのです。それにどうでしょう、ぼくはもうすっかり婚約を済ませたところだったんです。相手はシチェヴァレーフスカヤという娘で、満十六歳にはまだ三月たりないという年頃、まだ女学校に通っていましたが、九万ルーブリばかりの持参金がついているのです。アヴドーチヤ・イグナーチエヴナ、覚えてますか、今から十五年前、ぼくがまだ十四の子供の時に、あなたがぼくを堕落させたのを?………」
「おや、じゃ、あれはお前さんなの、このやくざ者、お前さんがやって来たのは、神様のお引き合わせとはいいながら、でもこんなところで……」
「あなたがお隣りの商人をくさいにおいを立てるなどと疑われたのは、ありゃ間違っていますぜ……ぼくはただ黙って、笑っていましたがね。あれはぼくのにおいなんです。なにぶん、ぼくは棺を釘づけにして埋められたもんですから」
「まあ、なんていやな人だろう! でも、わたしやっぱりうれしいわ。あなたはよもやとお思いになるでしょうが、クリネーヴィチ、ほんとうにはなさらないでしょうが、ここには、それはそれは、生気と頓知というものが不足しているんですの」
「なるほど、なるほど、だから、ぼくもここへ何か奇抜なものを持ち込むつもりなんです。閣下、ぼくはあなたをお呼び申したのではありませんので、ペルヴォエードフ閣下、実はもう一人の閣下タラセーヴィチさん、一等官のお方を呼んだのです。ご返事をなすってください! あなたをマドモアゼル・フュリーのところへ斎戒《ものいみ》の日にお連れ申した、クリネーヴィチでございます、おわかりになりますか?」
「なるほど、わかりますよ、クリネーヴィチ君、そして大へんうれしい、それに、実際……」
「爪の垢ほども信ずるものか、糞くらえだ。ねえ、かわいいおじいさん、ぼくはあなたを、ところきらわず接吻してやりたいのだが、いいあんばいにそれができんのです。諸君、諸君はこのgrand-pere(おじいさん)が何をしでかしたかごぞんじですか、彼はおとといか、さきおとといかに死んだのです。ところが、どうでしょう、役所の金に四十万ルーブリも穴を明けっ放しにして来たんですよ!
 その金はやもめや、みなしごに向けられることになっていたのに、なぜかこの人が、お手盛にしておったのです。というのは、要するに、八年間も検閲を受けずにいたからです。今頃あちらでみんながどんな間抜け面をして、この人のことをどんなにいっているか、考えただけでも愉快ですな。まったくぞくぞくしてくるくらいじゃありませんか! ぼくは最後の一年間というもの、どうしてこんな七十にもなるお年寄りに、手も足も痛風に悩んでいる大年寄りに、相も変わらずこれほどの淫蕩に耽る精力が宿っているのかと、驚きとおしたものですが、今やっとその謎が解けました。この後家やみなしごたち、――こういった連中のことをちょっと考えてみただけでも、彼の情欲が燃え立ったに違いないのです!………ぼくはこのことをもうよほど前から知っていたんです。ぼくだけが知っていたんです、シャルパンチエがぼくにすっぱ抜いてくれたのです。それと知るや、ぼくは神聖週間に彼をつかまえて、友だちらしくざっくばらんにやったのです、『二万五千ルーブリくれたまえ。でないと、明日にも検閲に調べられるぞ』ところが、どうでしょう、先生そのとき、一万三千しか持ち合わせがなかったのです。だから、いま死んだのは大へんいい折だったわけです。grand-pere, grand-pere(おじいさん、おじいさん)聞こえますかね?」
「タリネーヴィチ君、わたしはすっかりお説に同意だけれど、どうも困るじゃないか……そんなこまごましいことを沸い立てるなんて。世の中には悩みや呵責はあれほど多いのに、報いというものは実に少ないもので……結局、わたしは安息をねがったのだ。それに、見受けたところ、ここの生活からでも、好きなものが引き出せそうな気がする……」
「わたしは賭けでもするが、あいつはもうカチーシ・ペレストーヴアを嗅ぎつけやがったに相違ない!」
「どこの?……どこのカチーシなんだい?」と老人の声がさも貪婪そうに顫《ふる》えだした。
「ははあ、どこのカチーシかですって? そら、ここの左手にいますよ、ぼくのところから五歩ばかり、あなたのところからは十歩ばかりのところにね。ここへ来てから、これでもう五日目になります。あなたはごぞんじないでしょうが、grand-pereあいつはひどい腐れ女なんです……良家の生まれで、教育もありながら、それでいて化生の者なんです、とてつもない妖怪なんですよ! ぼくは娑婆ではあの女をだれにも見せなかった、ぼくだけが知っていたんです……カテーシ、返事をしろよ!」
「ひひひ!」と若い女のひび割れたような声が応じたが、それにはどこか針で剌すような調子があった。「ひひひ!」
「金色の、髪をした、女かな?」と|おじいさん《グランペール》は声を句切り句切り、まわらぬ舌でいった。
「ひひひ!」
「わしは……わしはとうから……その」と老人は息を切らしながら、舌もつれをさせてしゃべりだした。「わしはブロンドの娘のことを空想するのが好きだったので……年は十五くらいかな……しかも、こんな時と場所で……」
「ああ、この狒々爺《ひひじじ》い!」とアヴドーチヤ・イグナーチエヴナが叫んだ。
「たくさんだ!」とクリネーヴィチがきっぱりいった。「こいつは素敵な材料らしい。ぼくらはここでさっそく具合よくおちつきましょうよ。かんじんなのは、残った時を愉快に送ることですな。が、それはどういう時なのでしょう? もし、レベジャートニコフとやらいうお役人さん、たしか、あなたはそんなお名前のように聞きましたが!」
「さよう、レベジャートニコフ、七等官で、セミョーン・エフセーイブチと申します。どうぞよろしくお願い申します。大へんに、大へんにうれしくぞんじます」
「あなたがうれしいなんて、そんなことは屁でもない。ただあなたはここのことをすっかりごぞんじらしいから、ひとつ聞かしてもらいましょう。まず第一に(わたしはもう昨日から不思議でたまらないんですが)、まあ、ぼくらがここで話しているのは、どんな具合なんでしょう? なんせ、ぼくらは死んだものじゃありませんか、それだのに話をしている、おまけに動いてもいるようです。そのくせ、話もしなければ、動いてもいないんですからね? なんというきてれつなことでしょう」
「そのことは、もしお望みとあれば、男爵、手前よりもプラトン・ニコラエヴィチのほうが上手に説明できるでしょう」
「そのプラトン・ニコラエヴィチというのは、いったいだれですか? 曖昧なことをいわないで、本題に入ってください」
プラトン・ニコラエヴィチというのは、この土地出来の哲学者で、自然科学者で、そして博士なんです。彼は哲学上の著述を幾冊か出しましたが、もうこれで三か月もまったく寝込んだきりなので、今では揺り起こすわけにもゆかないくらいです。一週間に一度ぐらいは、辻褄の合わないことをぶつぶついいだしますがね」
「本題に、本題に入ってください!………」
「彼の説明によりますと、われわれがまだ娑婆で生きていた時には、あちらの世界における死を、粗忽にもほんとうの死と考えていたからで、きわめて簡単な事実なんだそうです。肉体はここでもういちど生き返るというようなわけで、生命の残りが一つに集中する。けれど、それはただ意識の中だけです。これは――どうもなんといいあらわしたらいいのか、わたしにはわかりませんが、――まあ、生命が惰性にしたがって継続する、といったようなあんばいなんですね。彼の意見によりますと、すべてが意識内のどこかに集中されて、なお二、三か月……時には半年も継続するんです。……例えば、ここに一人の男がいます。もうほとんどまったく解体してしまったんですが、ちょうど六週間に一度だけ、とつぜんある一つの言葉をつぶやくのです。むろん、それはなんの意味もない言葉で、豆粒《ボボーク》がどうかしたというのです。『ボボーク、ボボーク』って。しかし、その男の中にも、つまり、生命が依然として、目に見えない火花のように燃えている証拠なんです……」
「かなりばかばかしいですな。ときに、ぼくはこのとおり嗅覚を持っていないのに、臭気を感ずるのはどうしたわけでしょう?」
「それは……へっへっ……まあ、そのことになると、わが哲学者どのも五里霧中になってしまったんで。嗅覚のこともいいましたよ。つまり、この世界でも臭気が感ぜられる。いわば精神的な臭いですな、――へっへっ! いわば魂の臭い、この二、三か月の間に目ざめんがための保証で……いってみれば、最後の恵みといったようなわけです……ただし、わたしにいわせれば、男爵、そんなことはすべて彼の状態として、大いにゆるさるべき神秘的な囈言《わたごと》にすぎないんです……」
「たくさんですよ、それからさきもきっと囈言にすぎないのだから。大切な点は、二か月か三か月生命が残っていても、結局は豆粒《ボボーク》になってしまうということなんですよ。ぼくはこの二か月をできるだけ面白く過ごすように、そしてそのために、なにかある別な基礎の上に立命することを提言しますよ。諸君! ぼくはなにものをも恥ずるなかれと提言します!」
「おお、なにものをも恥ずるなかれ、そうしよう、そうしましょうよ!」という多くの声々が聞こえた。そして、不思議なことには、ぜんぜん初耳の声さえも聞こえた、つまり、その間に新しく目をさましたものの声なのである。もうまったく目をさました技師は、特別の意気込みで、自分の賛意を太いバスで表示した。カチーシ嬢はうれしそうに、ひひひと笑いだした。
「ああ、わたしほんとうになに一つ恥ずかしがらないようにしたくって、たまらないのですよ!」とアヴドーチヤ・イグナーチエヴナが感きわまったように叫んだ。
「あれを聞きましたか、アヴドーチヤ・イグナーチエグナまでが、なに一つ恥としないなんていいだすんだから……」
「いえ、いえ、いえ、クリネーヴィチさん、わたしももとは恥ずかしがったものでした。わたしも娑婆ではやっぱり恥ずかしがったものです。でも、ここではわたしいっさい恥ずかしがらないようにしたくって、したくってたまらないんですの!」
「ぼくにはわかりますよ、クリネーヴィチさん」と技師はバスでいいだした。「あなたがここの生活を、いわば新しい、今度こそ合理的な基礎の上に築こうと提議なすった気持ちがね」
「なあに、そんなことは糞くらえだ! この点については、タジェヤーロフが来るのを待ちましょう、きのう運ばれて来た男ですよ。今に目がさめたら、諸君に何もかも説明することでしょうよ。彼は素晴らしい人物です。たいしたえらぶつです! 明日あたりは、また一人の自然科学者と、おそらく一人の将校が引きずられて来るはずです。また、ぼくの推察がはずれないとしたら、三、四日のうちに一人の雑文家が来ましょう、おそらく編集人といっしょにね。だが、あんなやつらなんか、どうでもいいや、しかし、われわれの仲間がひと塊りできあがって、なにもかも自然に具合よくゆくでしょうよ。けれど、今のところぼくはうそをつきたくない。ぼくはそれのみを希望しているんです。なぜって、それがいちばんかんじんなことですからね。地上では、生きていながらうそをつかぬということは不可能です。なにぶん、生活と虚偽とは同意語《シノニム》なんだから。だが、ここではお笑いぐさにうそをつかないことにしましょうよ。へん、ばかばかしい。墓へ来たら、ちっとばかり変わったことがあったっていいや! わたしたちは自分の身の上話をして、もうなんにも恥ずかしがらないことにしましょう。ぼくがまず第一に、自分の身の上を話しますよ。ぼくはね、肉食動物の仲間なんでね。娑婆では何もかも腐りきった繩で縛られていたんです。繩などおっぽり出してしまえ。この二か月の間は、思いきり破廉恥な真実の中に生きようじゃありませんか! 裸になろうじゃありませんか、素っ裸になろうじゃありませんか!」
「素っ裸になりましょう、素っ裸になりましょう!」と一同は声を揃えて叫びだした。
「わたしは裸になりたくって、なりたくって、たまらないのよ!」とアヴドーチヤ・イグナーチエヴナが、金切り声を立てた。
「ああ……ああ……ああ……どうやらここは面白くなるらしいぞ、ぼくはもうエークのところへなんか行きたくないや!」
「いいや、ぼくはもう少し生きていたかった、ああ、ぼくはもう少し生きていたかった!」
「ひひひ!」とカチーシが思い出し笑いをした。
「大切な点は、だれもわれわれをさし止め得ないことです。ペルヴォエードフさんが怒っているのはわかっているけれど、ぼくのところまで手が届かないから大丈夫だ。|おじいさん《グランペール》、賛成ですかね?」
「わしはまったく、それこそまったく賛成だよ、徹頭徹尾、異存がない。ただし、条件がある、まずカチーシさんから第一番に身の上話を始めてもらうことだ」
「反対だ! 徹頭徹尾、反対だ」断固としてペルヴォエードフ将軍がいった。
「閣下!」小悪党のレベジャートニコフが、あわただしい興奮した様子で、声を落としながらしゃべりだし、説き伏せにかかった。「閣下、わたしたちは賛成しておいたほうが、かえってとくじゃありませんか。今ここで、ねえ、あの娘が……それに、第一あのいろいろ風変わりな話も出て来て……」
「そりゃ、まあ、娘はいいにしても、しかし……」
「とくですよ、閣下、たしかにとくですよ! まあ、ほんの小手調べのためにでも、まあ、やってみようではありませんか……」
「墓場に来てさえも、静かにさせてくれやあしない!」
「第一に、将軍、あなたは墓の中でカルタなんかやってるじゃありませんか! 第二に、わたしたちはあなたを屁とも思ってないのです」とクリネーヴィチが気どって、抑揚をつけながらいった。
「あなた、それにしても、前後を忘れないように願います」
「なんだって、あなたはここまで手が届かないんだから、ぼくはここからあなたをユーリカの狆ころ同様、からかってやれるんですよ。それに第一、みなさん、この男をここで将軍といえますか? 娑婆ではなるほど将軍だったが、ここじゃ豚の脂です!」
「いいや、豚の脂ではない……わしはここでも……」
「ここへ来たら、あなたは棺の中で腐っていくきりなんだ。そして、あなたから残るものといったら、真鍮のボタン六つきりなんですよ」
「ひや、ひや、クリネーヴィチ君、はっはっは!」と一同の声が叫んだ。
「わしはわが陛下にお仕え申したのだぞ……わしには剣がある……」
「あなたの剣は鼠を刺すくらいなものでさあ。それに、一度だって抜いたことがない」
「そんなことはどっちだって同じだ。わたしはこれでも全軍の一部をなしておったのだ」
「全軍の一部にも、ぴんからきりまでありますからね」
「ひや、ひや、タリネーヴィチ君、ひや、ひや、はっはっは!」
「剣て、なんのことだか、わたしにはわからん」と技師が声高にいった。
「われわれは鼠のように、油虫油虫の異名をプロシヤ兵というのにかけた洒落)さえ恐れて逃げ出すんだ、そしてこっぱ微塵に蹂躙されるんだ!」とわたしには初耳の声が遠くのほうから、文字通り夢中になって、息をつまらしながら叫んだ。
「諸君、剣は、名誉のしるしでありますぞ!」と将軍は叫びかけたが、彼の言葉を聞き取ったのは、わたしだけであった。長い猛烈な咆哮や、反対の叫びや、騒然たるどよめきが湧きあがった。そして、アヴドーチヤ・イグナーチエグナのヒステリーじみるほど、いらいらした声が新しく聞き取れた。
「さあ、早く、早く! ああ、いつになったら、わたしたちはなんにも恥ずかしがらないようになるんでしょう!」
「おーほ、ほ、ほ! たしかに魂が地獄の試錬にかかっているんだ!」という平民の声が聞こえた。そして……
 けれど、ここでとつぜんわたしは嚏《くしゃみ》をした。これは思いがけなく、なんの底意もなしに出たのであるが、その効果は驚くばかりであった。なにもかも墓地らしく黙り込んで、夢のように消え失せてしまった。それこそほんとうに墓のごとき静寂がおそってきた。彼らがわたしの手前を恥じたとは考えられない。彼らはたった今、なにごとをも恥じないことに、衆議一決したのではないか? わたしは五分間ばかり待ってみたけれど、話し声ひとこと物音一つ聞こえなかった。彼らが警察に密訴されるのを恐れたのだとは、やはり想像するわけにゆかない。なぜなら、この場合、警察がはたして何をなし得ようか? そこで仕方なく、彼らには生きた人間の知らないある秘密があって、それをあらゆる生きた人間からひたすら匿そうとしているに違いない、とわたしは結論した次第である。
「さて、かわいい人たち、これからもまた訪ねてあげるよ」とわたしは考えた。そして、この言葉とともに、墓地を去ったのである。
     ―――――――――――――――――
 いや、わたしはこんなことを認めるわけにゆかない、いや、ほんとうにできないのである! わたしを当惑させたのはボボークではない(それはつまりボボークにすぎなかったのだ!)。
 ああいう場所における淫蕩、最後の希望の崩壊、腐ってぶよぶよした死屍の放縦、しかも意識に与えられた最後の瞬間さえ惜しもうとしないのだ! 彼らにはこの瞬間が与えられていたのだ! 賦与されていたのだ! そして……けれど重大な点は、重大な点というのは、それがかかる場所で行なわれたということである! いいや、わたしはとうていそんなことを認めるわけにゆかない……
 ほかの等級のところにも足を止めて、到るところで耳を傾けよう。つまり、概念を得んがためには、それこそまったく一つの片隅ばかりでなく、到るところで聞いてみなければならない。もしかしたら、慰安となるものに、ぶつかるかもしれない。
 あの連中のところへは、ぜひとももういちど行ってみよう。めいめい自分の身の上話や、いろいろな笑い話をするといっていたのだから。いやはや! だが、行くとしよう、ぜひとも行くとしよう、なにしろ良心の問題だから!
『グラジダニン』誌へ持って行こう。あそこでは一人の編集者の肖像画が、れいれいしく載せられたくらいだから。もしかしたら、掲載してくれるかもしれない。

   7 「受難の御顔」

 わたしは現代文学を少しばかり読んでみた。で、わが『グラジダニン』も、その誌上でこれに言及すべきだと感じたのである。しかし、わたしは批評家としてどんな資格を持っているだろう。実際、わたしは批評文を書こうと思ったけれど、